都市計画の幻想
布野修司
一九五〇年代末から一九六〇年代にかけて、建築あるいは都市計画の分野ではひとつのパラダイム・シフトが起こりつつあった。
CIAM(国際近代建築家会議)が崩壊した一九五六年以降、機能主義の乗り越えが様々に模索され始める。機能に変わる構造概念の導入、あるいは、成長、変化、代謝、過程、流動性といった時間に関わる諸概念の導入がそうである。また、機能に対して、素朴にその内容(地方性、有機性、人間性、生活、心理、想像力、自然、伝統・・・)を対置する諸傾向が次々に現れてきた。
いま振り返って見ると、近代建築批判、近代都市計画批判に関わる重要な著作が一九六〇年代初頭に集中していることがわかる*1。都市計画の画一性と不毛性を経済学的・社会学的に分析し、都市における公園や街路の重要性を主張し、その多様性を維持するための小街区方式を提案した、J.ジャイコブスの『アメリカ大都市の死と生』*2(1961年)、都市の意味論的、象徴論的次元を提起した、K.リンチの『都市のイメージ』(1960年)、ポストモダン建築の最初の理論書、R.ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』*3(1962年)、設計計画のプロセスの徹底した論理化を目指した、C.アレグザンダーの『形の合成に関するノート』*4(1964年)などがそうである。
日本には、都市や建築を新陳代謝するものとして捉えるメタボリズム理論と様々な都市プロジェクト(丹下健三「東京計画1960」、菊竹清訓「海上都市」「塔状都市」、磯崎新「空中都市」、黒川紀章「空間都市」「垂直壁都市」)がある*5。
「アルバのジプシー・キャンプ」(一九五六年)にはじまるコンスタントの「ニュー・バビロン」構想もそうした大きな流れの中で見ることができるだろう。コンスタントの名は日本では全く無名であるが、彼を建築へ導いたと思われる建築家アルド・ヴァン・アイクはよく知られている。「ニュー・バビロニアン」と呼ばれる住民は固定した住居をもたないノマドである。一方メタボリズムの場合、移動空間単位カプセルで構成されるメタポリスが未来都市の理想とされた。移動性を強調する点は似ている。「ニュー・バビロン」の周縁部分である「黄色地帯」のプロジェクトも、土台の構造物の上に、移動、交換、解体可能な様々な要素が整備されるという発想である。メジャーな基幹構造(インフラストラクチャー)とマイナーな構造を分離する考え方は当時共有化されていた。都市の要素を変わるものと変わらないものに分け、時間的、機能的変化に対応しようというのである。「機能主義的な都市を否定するのではなく、乗り越えるのだ」という構えもよく似ている。
一九六〇年代初頭、都市の未来は悲観されてはいなかった。都市は理性的な諸対応によって統御できるものと信じられていた。コンスタントの一連の興味深いプロジェクトは、「もう一つの生活のためのもうひとつの都市」のための様々なアイディアに満ちている。そこでは「統一的都市計画」という概念はポジティブなものである。
しかし、六〇年代初頭の建築家による未来都市のプロジェクトはすぐさま色あせたものとなる。SI脱退(六〇年)以後も「移動式はしごのある迷宮」(六七年)など七二年まで「ニュー・バビロン」の都市計画を構想し続けたコンスタントはある意味では執拗である。日本でも一九七〇年の大阪万国博の会場が擬似的な未来都市として実現するまでは余韻が残っていたと言えるかもしれない。しかし、一般に都市構想を白紙の上に描き、その技術的可能性を問うスタイルは、現実の過程で多くの批判にさらされることになったのである。理念の性急な実現(ニュー・タウン建設)が様々な葛藤衝突を生むのは当然であった。
コンスタントやメタボリストの技術主義を批判するのは容易い。H.ルフェーブルのいう「社会的総空間の商品化」の進行、すなわち、空間の均質化、軽量化、交換価値への還元の動きは、工業的合理性の貫徹として、工業化、技術革新といったテクノロジーの発達と不可分なのである。移動可能な空間単位で構成される都市を構想することは、「社会的総空間の商品化」のメカニズムを技術的に裏打ちするにすぎなかったのである。
さらに、C.アレグザンダーが暴いたのは、建築家の都市計画プロジェクトが全て「ツリー構造」をしていることだ*6。一見複雑に見える都市プロジェクトも分析してみると頂点(中心)があって段階的に部分へ至るヒエラルキカルな構造をしているのである。現実の都市はツリーなどではなく編目状(セミ・ラティス)だ、とC.アレグザンダーはいう。
「都市計画は存在しない。それはイデオロギーにすぎない」
「都市計画は都市計画批判としてしか存在しない」。
ドゥボールらシチュアシオニストによる都市計画批判は、極めて根源的なものであった。「統一的都市計画」とは「日常生活批判」の実践なのである。
H.ルフェーブルがシチュアシアニストとどういう関係にあったかは知らない。しかし、その『総和と余剰』(五九年)『日常生活批判』(五八年、六一年)などが『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌上で触れられるところを見ると、少なくとも六〇年前後には密接なつながりがあったのであろう。H.ルフェーブルの都市計画批判とシチュアシオニストの都市計画批判には明らかに呼応関係があるように見える。
1960年代末から70年代にかけて、都市計画は徹底した批判にさらされることになる。そうした中で最もラディカルで体系的であったのがH.ルフェーブルの一連の著作である*7。かれはその『都市革命』*8において、むしろ、都市計画の依拠する全体性(「統一的都市計画」?)の概念こそ問題であり、幻想であるとするのである。
都市計画とは「石とセメントと金属の線で、テリトリーのうえに、人間の住居の配置・秩序を描く活動」であるとH.ルフェーブルはいう。そしてさらに都市計画とは、都市的な実践を自らの秩序に従属させ支配させる活動である。確かにそうだ。しかし、都市計画にとってそれが出発点である。また、都市計画批判にとってもそうである。
問題は都市計画の一元的性格である。それは芸術科学であり、同時に技術であり認識であると思っているがその一元的性格が幻想をおし隠すのである。
第一に、都市現象の科学、すなわち都市認識のレヴェルと都市計画の実践レヴェルが分裂している。この分裂は極めて本質的である。いかに「統一的都市計画」は可能か。
第二に、都市計画自体が分裂している。ヒューマニストの都市計画、プロモーターの都市計画、国家テクノクラートの都市計画、都市計画にもいろいろあるのだ。制度とイデオロギーに分離しているにも関わらず、体系性、完全性への幻想、ユートピアのみが語られる。この分離に眼をつむることは欺瞞である。
第二に、都市計画は都市的実践(生活のリアリティ)を覆い隠す。全てを空間・社会生活・諸集団とその関係の表象に置換してしまう。具体的に、空間の生産、生産物としての空間、すなわち社会的総空間の商品化のプロセスを見落とす。すなわち、空間支配の資本の論理、社会空間の分配の経済論理を、実証的でヒューマニスティックでテクノロジックな外観で、覆い隠す。さらに例えば、病理的空間(スラム、不良住宅地)の治癒という医学的イデオロギーの背後で、抑圧的空間の再編成をするにすぎない。これまた本質的である。ヒューマニスティックな装いのもとに抑圧的空間が再編成されるのは犯罪的でもある。
第四に、都市計画は一貫性を欠いている。むしろ、都市計画によって都市の現実は、理論的一貫性欠いたものへと断片化される。これは第一の分裂と関係し、問題を複雑化させる。
H.ルフェーブルは都市計画に対する根源的批判をたたみかけるように展開する。その批判は、単に、いくつかの分裂を再統合すればいい、といったレヴェルのものでではない。都市計画そのものがその本質的に都市現実の真実を覆い隠すというのである。
そして、都市計画にとって、最大の問題としてH.ルフェーブルが指摘したのが都市住民の沈黙、受動性であった。この沈黙、受動性こそ都市計画が真に克服すべき課題であり続けているように思う。
こうした根源的批判に照らして、その後の展開はいささか心細い。冒頭に挙げた四人の理論家の仕事はそれぞれ貴重なものであったと言っていい。しかし、それぞれが限界をもつことは明かである。われわれができることは、この根源的な都市計画批判から出発し、繰り返し立ち戻ってきて常にそのあり方を問い直すことであろう。最悪なのは、都市計画の幻想を自ら覆い隠して気がつかないことなのである。
*1 拙稿、「都市計画批判のプロブレマティークーーー啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ
」、『都市計画』、一九九七年
*2 J.ジェイコブス著、黒川紀章訳、鹿島出版会、一九六九年。残念なことに、第三部、第四部は翻訳されなかった。J.ジェイコブスは、それに先立つ「下町こそ人々のもの」(フォーチュン誌)で知られるようになった。また、『都市の経済』(一九六九、中江利忠他訳、邦訳名 都市の原理、鹿島出版会、1971年)において、都市が農村に先立つという説を唱えた。
*3 R.ヴェンチューリ著、伊藤公文訳、鹿島出版会、一九八一年。刊行は一九六六年であるが、一九六二年にニューヨーク近代美術館刊行のシリーズの第一巻として執筆された。
*4 C.アレグザンダー著、稲葉武司訳、鹿島出版会、一九七三年。本書に先立って「革命は二〇年前に終わってしまった」(一九六〇年、『A+U』、一九七一年四月)、シャマエフとの共著『コミュニティとプライバシー』(1963年、岡田新一訳、鹿島出版会、1967年)がある。
*5 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年
*6 C.アレグザンダー、「都市はツリーではない」
*7 『都市への権利』(筑摩書房)『都市革命』(晶文社)『空間の生産』(晶文社)など、H.ルフェーブルの著作は数多くが翻訳され日本に紹介されている。
*8 今井成美訳、晶文社、一九七四年
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