アパルトヘイトの現在,日刊建設工業新聞,19970910
アパルトヘイトの現在
「植民都市の形成と土着化に関する研究」という、いささか壮大なテーマを掲げた国際学術調査を開始することになった。まず対象とするのは大英帝国の植民都市で、南アフリカ(プレトリア)、インド(ニューデリー)、オーストラリア(キャンベラ)が主要ターゲット国である。まずは現地へと、一月余りで、ロンドン、アムステルダム(ライデン、デルフト)を経て、南アフリカ、インド(ムンバイ)に行って来た。最も長く滞在したのは南アフリカで、ロンドン、オランダは宗主国の資料を収集するための行程だ。
例えば、ケープ・タウン。喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)は、僕らには親しい。一四八八年にバルトロメウ・ディアシュが発見し、一四九二年には、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられた船隊がここを抜けてインドへ向かう。大航海時代の始まりと世界史で習う。そのケープ・タウンを最初に建設したのはオランダである。ヤン・ファン・リーベックが一六五二年建設の礎を築いた。しかし、その後ケープタウンの地は一九世紀初頭英国の支配下に入る。ロンドン、オランダが資料収集の場所となる由縁である。
アジアを歩き始めて二〇年近くになる。日本対西欧という見方ではなく、日本からアジアへ(あるいはヨーロッパへ)、どのように多様な脈絡を発見できるかを視点としてきた。しかし、植民都市ということをテーマにすることにおいて、植民地化の論理、ヨーロッパ側から世界覆う世界史的視座に触れざるを得ない。それは、かなり刺激的なことであった。例えば、ケープタウンの建設。同じ時期にバタビア(ジャカルタ)が建設されている。スリランカのコロンボもそうだ。三つの植民都市を比較する視点も当然のように思える。同じ時期、台湾のゼーランジャー城、プロビンシャー城も造られている(ヨーロッパではあんまり知られていないことがわかった)。例えば、ヤン・ファン・リーベック。彼は長崎の出島にも来ている。二〇歳で外科医の免許を取り東インド会社に雇われてバタヴィアを訪れる。その後トンキン(ハノイ)で貿易に従事。数奇の物語があってケープ・タウンに指揮官として赴任するのである。世界史の文脈に興味は尽きない(オランダには司馬遼太郎の『オランダ紀行』を携えていったのだけれど、池田武邦先生の名前が出ていた。縁は実に面白い)。
ところで、今回の調査旅行で最もインパクトを受けたのは南アフリカの都市政策である。アルバート・トンプソンという建築家、都市計画家をご存じないのではないか。彼はアンウィン、パーカー事務所で田園都市の計画に携わった。その彼は1920年代初期、南アフリカに渡り、田園都市を実現することになった。ケープタウンのパインランズである。まず、田園都市計画運動の世界史的展開を広い視野で見直す必要があると思った。しかし、それ以上にショックだったのは、田園都市思想が一九五〇年の「集団地域法」以降のアパルトヘイト政策の下で、セグリゲーション(人種隔離)の強力な役割を担ったように思えたことである。ホワイト、カラード、インディアン、ブラック。南アフリカの都市は明確にセグリゲートされている。ゾーニングの手法というのを徹底するとこうなる、というすさまじい現実である。田園都市に接してブリキのバラックが延々と立ち並ぶ地区がある。ジョハネスバーグのソエト地区が有名だ。田園都市の理想を徹底するとくっきりとしたアパルトヘイトロシティが成立する。日本の都市計画も本質的に同じ質を持っているのではないかと思うと一瞬背筋が寒くなった。
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