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2024年9月9日月曜日

「やる気」、ある種の「使命感」、山本理顕編『徹底討論 私たちが住みたい都市』、図書新聞、20060422

「やる気」、ある種の「使命感」、山本理顕編『徹底討論 私たちが住みたい都市』、図書新聞、20060422


「やる気」、ある種の「使命感」

布野修司

 

 

 「私たちが住みたい都市」というテーマを掲げた、錚々たるメンバーによる連続シンポジウム(四回)の記録である。「私たち」というけれど、本書に一貫する問題意識ははっきりしている。編者であり、シンポジウム全体のオルガナイザー・司会者であった山本理顕にとって、「全体を支配しているテーマは建築である。そしてその建築の住人である。あるいは建築とその建築の住人との関係である」(あとがき)。そして、具体的に焦点が当てられるのは、(集合)住宅(空間)のあり方であり、それを規定する制度である。そうした意味では、2DK誕生の契機となった「51C」という住宅形式(公営住宅1951C型)、nLDKという日本の戦後住居の標準化をめぐる討論(『51C 家族を容れるハコの戦後と現在』)をそのまま引き継ぎ、それを都市、さらに国家の問題へと拡張しようとしたのが本書である。

 身体、プライバシー、住宅、国家というのが四回に割り振られたテーマ領域である。プライバシーをめぐる議論(松山巌×上野千鶴子)は、ストレートに「51C」、nLDK、「近代住宅」、標準住宅といった住宅形式をめぐっている。日本のnLDK形式の成立を松山は「住宅の五五年体制」と呼ぶが、この体制をどう突き崩すかが建築家に問われ続けているのだといい、新たな形式を提示しようとしてきたのが山本理顕である。山本設計の「保田窪団地」(熊本)、「東雲キャナルコート」(東京)も、当然、議論の俎上に載せられる。上野は「保田窪団地」の居住者追跡調査をもとに、設計者の意図が裏切られている実態を具体的に明らかにする。

住宅をめぐる議論(八束はじめ×西川祐子)は、それを歴史的に、またグローバルに振り返り、拡がりを与える。議論の軸になるのは、家/家庭→家庭/個人の二重構造モデルである。具体的に、母子家庭が共同居住する「カンガルーハウス」や複合高齢者施設の可能性も論じられている。

 家族と住宅、公と私、内と外、男と女、計画者と居住者等々をめぐる議論は、建築家(上野のいうところの空間帝国主義者)にとっては基本的テーマであるが、身体と国家をめぐる議論がそれに知的な深度を加える。

 身体をめぐる議論(伊東豊雄×鷲田清一)は、衛生、健康、透明、清潔、純粋というキーワードを取り出し、それを管理する近代社会のあり方を大きく問うている。商業建築のガラス張り透明なファサードに対して「異議申し立て」を試みる伊東豊雄の最新作と鷲田の身体論がうまくシンクロナイズしているように思う。国家をめぐる議論(磯崎新×宮台真司)は、それこそ、集合住宅、nLDKから、郊外、近代化、権力、九・一一まで、縦横に広がる。宮台真司は、「脱中心化」「脱主体化」「脱標準化」、さらには「脱空間化」の時代において、建築家の役割が大きく変貌(下落)していることを指摘しながら、「島宇宙」の島民(トライブ)のためのアイコン(趣味、虚体)の設計にとどまっていていいのか、人々のコミュニケーションを支える深層の不可視のレイヤーのデザインをどう考えるのか、と問う。要するに、究極的に「脱主体化」時代における建築家の主体が問われるのである。磯崎新は、例によって実に首尾一貫として自らの軌跡を語る一方で、宮台の問いに、建築のポストモダン状況を特権的に異化するために召還した「大文字の建築」あるいはデミウルゴスという概念が揺すぶられているようにも思える。建築家はパワーゲームの中で生きざるを得ない、ものをつくらなくてもコンピューターのソフトウエアのひとつのプログラムをつくっていればいい、ただの職人になればいいのか、主体なき器官としての建築家というようなものがありうるのか。

 今日、建築、あるいは空間の相対的地位の低下は、誰の目にも明らかである。「社会的総空間の商品化」の趨勢が明らかになった1960年代にも、「建築の危機」(建築の滅亡、建築の解体)が語られたことを思い起こす。IT社会の進行がそれを今加速している。もっとも、空前のマンションブームの中での耐震偽装問題をみると、建築家の意識の位相にそう変化はないのかもしれない。全体の議論を通じて、高齢社会の問題が影を落しているのは、当然の時代の流れである。

 本書を通じて、際だつのは、山本理顕の「やる気」、ある種の「使命感」である。彼は、あくまでもヴィジョン、空間の型、社会システム、・・・に拘ろうとしているようにみえる。「集合住宅は二〇世紀の大失敗だった」といいながら、その失敗を引き受けようとする覚悟がある。「集合住宅はめんどうくさいからやらない」(磯崎新)といった特権的な建築家は別として、また、身過ぎ世過ぎのためにのみ住宅に関わる建築家は別として、都市組織と都市住宅に拘り続ける山本理顕の問題の立て方と切口は貴重である。時代錯誤でも、ドンキホーテでもない、その誠実で真摯な思考の持続に共感を覚える。とはいえ、「住みたい都市」について本書に解答があるわけではない。一般にもわかりやすく、註や写真のみならず随所にキーワードの解説も付されている本書は、読者それぞれに、都市と住まいについて考えることを要求しているように思える。身近な住宅をめぐって、高齢化、少子化、老い、介護、子育て、・・・をめぐって、様々な取り組みを日々積み重ねること、これはひとり建築家の問題ではないからである。



 

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