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2024年9月1日日曜日

夢とすまい,潮,1998年2月

 夢とすまい,潮,19982

 

夢違い・・・自著をめぐって

布野修司

 

 『住まいの夢と住まいの夢』という気恥ずかしくなるようなタイトルの著書をつい先頃上梓した。もう二〇年近く、インドネシアを中心としてアジアの各地を歩いており、この間見聞きした、住居や集落、都市や建築のあり方をめぐって学んだことをまとめたものである。

 事例の多くアジアのフィールドから取り上げているけれど、ターゲットは日本の住まいだ。帯のコピーは「家は持ち家に限るのか? 広いに越したことはないのか? 東南アジア各地で営まれる貧しくて楽しい「住」のあり方が垣間見せる生き生きとした住まいの夢」とうたう。これまた恥ずかしい。主旨を簡潔に言えば、その通りだけれど、それだけなら読まなくてもわかってしまう、という気がしないでもない。

 「アジア住居論」としたかったのであるが、副題ということになった。「アジア」をタイトルに入ると売れないのだという。ほんとうだろうか。建築学や都市計画学の分野でも、長い間欧米一辺倒の時代が続いてきて、ようやく、アジア各地との交流が活発になろうとしているけれど、未だ関心は薄い、ということか。比較するのもおこがましいけれど、大蔵省の研究所が一線のアジア研究者を集めて開いた研究会の議論の記録『アジアをめぐる知の冒険』という本を最近頂いて、軽い興奮を覚えながら一気に読んだ。この本も売れてないのだろうか。プロの編集者が言うことだから間違いないのだろうが、いささか寂しい。

 ところで、拙著の「あとがき」に「夢に現れる場所や空間に興味を持ち、克明に夢の記録をとり続けた建築家の話を聞いたことがある。その建築家によれば、採集した夢のほとんどが住宅を舞台とするのだという。しかも、その大半が生まれ育った住まいだという。」と書いた。実は、その建築家とは、吉武泰水(神戸芸術工科大学学長 建築家)、横山正(東京大学教授 建築家)の両先生である。四半世紀前、小さな会合でその両先生の「夢」の話を聞いたことがあるのである。

 その両先生が、拙著より一足先に『夢の場所・夢の建築』(吉武泰水著 工作舎)を刊行された。相前後しての出版だったので、引用することができなかった。残念というか、恐れ多い。こちらは、二〇年足らず、アジアの現実の住まいを見てきただけだけれど、吉武先生の本は二五年にわたる夢の記録が基になっている。徹底した「原記憶のフィールドワーク」である。本当の「夢」の話である。「夢」に出てくる場所や建築の話である。拙著のタイトルに気恥ずかしくなるのはそれ故にである。夢といいながら、「夢」を論じないのは詐欺に等しい。

 「夢は「現環境」(現在の新しい環境)に直面したとき、すでに熟知した「原環境」(成長期の環境)のもつ中廊下、階段といった空間の基本的構成要素や、「暗い場所」のような意識下の基底をなす空間的特性のトポロジカルな類似性によって、「現環境」をわがものにしようと働きかける。」というのが、吉武による「夢の場」に働く原理仮説である。果たしてどうか。具体的な事例については、是非、読んで見て頂きたい。拙著における考察も、多少交錯するかな、と秘かに手前味噌に思う。ヴァナキュラー(土着的)な民家のパターンにも、人類学的な原理が働いているに違いないからである。

 沢山の著書をお贈りいただいても、普段、余程のことがなければお礼など書かない。忙しさにかまけて、いずれお返しを、と自己合理化してしまうのである。そのくせ、丁寧な礼状と批評を頂くと感謝感激である。現金なものだ。悪い性格である。

 今度の本についても沢山の貴重な批評を頂いたのだが、ぐさりときたのが、拙著と吉武先生の著書をほぼ同時に手にした、稲垣栄三先生(東京大学名誉教授 建築史)のコメントだ。

「偶然なのでしょうが、今年は建築家が夢を語る時期かなと、一瞬考え込みました。・・・住まいが商品化した現在、地球上の各地で展開している多様な住まいと人間の生き方を見、想像力を膨らましていくことはとても重要だと思います。・・・希望を述べることが許されるのなら、日本の都市で、商品化した住居をどのようにして生活するものの手に取り戻すのか、「夢」ではなくて、その道筋と展望を描いてくださると有難いと考えます。」




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