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2024年9月22日日曜日

タウンアーキテクト論ー京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の試行,都市計画234号特集「コミュニティ・ベースト・プランニング・・・地域社会が発意する」,日本都市計画学会,200112

都市計画234号特集「コミュニティ・ベースト・プランニング・・・地域社会が発意する」

 

タウン・アーキテクト論

 京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の試行

 布野修司

 I published a book titled ”The Naked Architect An Introduction to Town Architect System in Japan”in 2000, to discuss the roles and tasks of new profession. I would like to introduce my idea of ‘System of Town Architect’ in Japan with its background and propose a kind of organization named “Kyoto Community Design League” as a case study in this paper. How to solve the issues Japanese architects are facing is the starting point. The conclusion is that we need a new profession as a coordinator, mediator and facilitator between local government and local community. I would like to call the new profession ‘Town Architect’ or ‘Community Architect’ tentatively.

 

 

 タウン・アーキテクト論を『序説』[i]という形で世に問うて一年半になる。もっとも『群居』44号で「タウン・アーキテクトの可能性」[ii]と題した特集を組んで「「タウン・アーキテクト」構想序説」を書いたのは1998年である。それどころか、その構想は、「アーバン・アーキテクト」制の構想[iii]1995年)にまで遡るから、「序説」ばかりで5年以上経過したことになる。実をいうと、構想それ自体については、今のところ付け加えることがない。

手前味噌かも知れないけれど反応は悪くない。第一の批判は、『序説』の「タウン・アーキテクト」像があまりにエリート的過ぎる、というものであろうか。いずれにしても『序説』は『序説』であり、構想は構想である。問題は実践である。そして、その経験を踏まえて構想を鍛え直すことである。

『序説』の最後に「京都デザイン・リーグ」構想について書いた。そして、その構想は、「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」設立(2001年4月27日)に結びつき具体化しつつある。その構想の背景、位置づけについては『序説』等[iv]に譲り、京都CDLの活動を具体的に紹介する形で「コミュニティ・ベースト・プランニング」について考えて見たい。「デザイン・リーグ」と「コミュニティ・デザイン・リーグ」という命名の変化の間に、建築家、プランナーの役割をめぐるひとつのテーマがあると思う。

 

京都CDLの概要

 京都CDLとは何か。その謳い文句を並べれば以下のようだ。

 ○京都CDLは、京都で学ぶ学生たちを中心とするチームによって編成されるグループです。

○京都CDLは、京都のまちづくりのお手伝いをするグループです。

○京都CDLは、京都のまちについて様々な角度から調査し、記録します。

○京都CDLは、身近な環境について診断を行い、具体的な提案を行います。

○京都CDLは、その内容・結果(試合結果)を文書(ホームページ・会誌)で一般公開します。

○京都CDLは、継続的に、鍛錬(調査・分析)実戦(提案・提案の競技)を行うグループです。

○京都CDLは、まちの中に入り、まちと共にあり、豊かなまちのくらしをめざすグループです。

 京都CDLは何をするのか。①各チームが、毎年、それぞれ担当地区を歩いて記録する、そして、②年に二度、春夏に集まって、それを報告する、ただそれだけである。もう少し具体的に書けば以下のようだ。

A 地区カルテの作製:担当地区について年に一回調査を行い記録する。共通  のフォーマットを用いる。例えば、1/2500の白地図に建物の種類、構造、階数、その他を記入し、写真撮影を行う。また、地区の問題点などを1枚にまとめる。このデータは原則として研究室が保管するが、GISなどの利用によって、各チームが共有する。また、市民にインターネットを通じて公開する。

B 地区診断および提案:Aをもとに各チームは地区についての診断あるいは提案をまとめる。

C 報告会・シンポジウムの開催:年に二度(4月・10月)集まり、議論する(4月は提案の発表、10月は調査及び分析の報告を行う予定)。

D 一日大行進京都断面調査の実施:年に一日全チームが集って京都の横断面を歩いて議論する。

E まちづくりの実践:それぞれの関係性のなかで具体的な提案、実践活動を展開する。

 Dは、発足後の議論の過程で発想された。もう一日、各チーム共通の作業日を設けようということである。初年度は、八坂神社から松尾大社まで四条通りを歩いた(62日)。その記録はGISを用いて一枚のCD-Romに収められつつある。来年は、鴨川沿いに南北縦断調査が企画されている。

京都CDLは各チームの代表(監督)および幹事(ヘッドコーチ)からなる運営委員会・事務局によって運営されている(図1)。A 参加チーム登録、B 地区割り調整、C 報告会の開催(4月・10月)、D 地区カルテの保管と活用、E アクション・プラン、F 他組織との連携が主な仕事である。設立当初の体制として、コミッショナーに広原盛明(龍谷大学)、事務局長に布野修司、運営委員長に、『序説』に構想案を鮮やかに書いた渡辺菊真(建築家)が就任している。

 

京都CDLの始動[v]

2001427日の京都CDL設立に当たって14大学24チームの参加表明があった。そこで、仮の地区割り案として、京都市全域(全11地区)を48地区に分けた。ベースとしたのは元学区、国勢調査の統計区である。約200区を平均4統計区ずつに分けたことになる。そこで、各チームは大学周辺ともう一地区、あるいは中心部一地区と周辺部一地区の二地区を担当することにした。京都CDL発足の大きなモメントに、京都のまちづくりをめぐる議論と実践がいわゆるハイライト地区(都心部(田の字地区)山鉾町、西陣、東山、嵯峨野)に集中している、ということがあり、かろうじて全域を割当てた格好である。

動き出すと様々な発意がある。まず、自前のメディアを持ちたい、という欲求がすぐさま形となった。『京都げのむ』という名がいつのまにか決まり、設立(大会)を主特集に1019日の秋季リーグ(第2回シンポジウム)開催前に創刊号が刊行された。京都にしかない、かけがえのない遺伝子を探り当てたい、という思いが「京都げのむ」という命名に込められている。永谷真理子編集長(京都精華大学大学院)以下の創刊号編集の手際は眼を見張る。全頁、プロ級の仕事である。是非手に取ってみて欲しい。京都CDLの活動の大きなトゥールになることは間違いない。

1019日、2001年度秋期リーグ・シンポジウムが開催された。発表は6チーム、ポスター発表と合わせて15チームが半年の活動報告を行った。分析あり、すばやい提案あり、ビデオ表現あり、多様な視点、アプローチが浮かび上がったように思う。そして、相互批評が大いなる次の展開を予感させた。京都に対するステレオタイプ化した手法を排し、多様な視点を確保維持し続けることが京都CDLの基本姿勢である。

活動を始めて、問い合わせ、要望という形の市民との接触、行政当局との連携の模索は既に始まっている。1014日には鴨川フェスタに出店を求められ、子どもたちを対象とするまちづくりゲームの企画が評判を集めた。京都市役所は京都まちづくりセンターを窓口とすることを既に決定済みである。市民参加を大々的にうたう京都市のまちづくり行政にとっても京都CDLの活動がしっかり位置づく日もそう遠くないであろう。大学の地域社会への貢献の試みとして、既に評価も得つつある[vi]

 

タウン・アーキテクトとは

「タウンアーキテクト」とは何か、何故、「タウンアーキテクト」か、日本の「タウンアーキテクト」の原型とは何か、について最小限要約すれば以下のようになる。

 「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」である。

  「建築家」は基本的に施主の代弁者であるが、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割をもつ。医者、弁護士などとともにその職能の根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をももつ。

 ①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」である。

 ③「まちづくり」の仕組みとして、「タウンアーキテクト」のような存在が必要とされる一方、「建築家」の方にも「タウンアーキテクト」たるべき理由がある。「建築家」こそ「まちづくり」に積極的に関わるべきである。第一に、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。日本の「建築家」はその仕事の内容、役割を代えていかざるを得ないが、ふたつの方向が考えられる。ひとつは、建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そして、もうひとつが「まちづくり」である。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められる。

 ④そもそもの発想において「タウンアーキテクト」の原型となるのは「建築主事」(建築基準法第4条に規定される、都道府県、特定の市町村および特別区の長の任命を受けた者)である。全国の自治体、土木事務所、特定行政庁に、約一七〇〇名の建築主事がいて、建築確認業務に従事している。全国で二千人程度の、あるいは全市町村三六〇〇人程度のすぐれた「タウンアーキテクト」がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。建築確認行政は基本的にはコントロール行政であり、取り締まり行政である。建築確認行政が豊かな都市景観の創出に寄与してきたのか、というとそうは言えない。もしそうだとするなら、地域の「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。

建築主事を積極的に「タウンアーキテクト」として考える場合、いくつかの形態が考えられる。欧米の「タウンアーキテクト」制がまず思い浮かぶ。最も権限をもつケースだと「建築市(町村)長」置く例がある。一般的には、何人かの建築家からなる委員会が任に当たる。建築コミッショナー・システムである。日本にもいくつか事例がある。「熊本アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」などにおけるコミッショナー・システムである。ただ、いずれも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎない。むしろ近いのは「都市計画審議会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会である。それらには、本来、「タウンアーキテクト」としての役割がある。地方分権一括法案以降、市町村の権限を認める「都市計画審議会」には大いに期待すべきかもしれない。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 ⑤しかしいずれにしろ、一人のコミショナー、ひとつのコミッティーが自治体全体に責任を負うには限界がある。「タウンアーキテクト」はコミュニティ単位、地区単位で考える必要がある。あるいは、プロジェクト単位で「タウンアーキテクト」の派遣を考える必要がある。この場合、自治体とコミュニティの双方から依頼を受ける形が考えられる。具体的には、各種アドヴァイザー制度、「まちづくり協議会」方式、「コンサルタント派遣」制度として展開されているところである[vii]

 

「タウンアーキテクト」の仕事

 「タウンアーキテクト」は具体的に何を仕事とするのか。『序説』では、「タウンウォッチング」「百年計画」「公開ヒヤリング」・・・等々各地域で試みられたら面白いであろう手法を思いつくまま列挙している。しかし、そこでの議論は、建築コミッショナーとしての「タウンアーキテクト」の役割に集中しすぎている。やはりベースとすべきは、身近な仕事において、また具体的な地区で何ができるかであろう。京都CDLは、そのための大きなシミュレーションである。問題は、『序説』で繰り返すように権限と報酬である。

 「タウンアーキテクト」制をひとつの制度として構想してみることはできる。建築コミッショナー制を導入するのであれば、権限と報酬の設定、任期と任期中の自治体内での業務禁止は前提とされなければならない。地区アーキテクト制を実施するためには自治体の支援が不可欠である。地区アーキテクトは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、「タウンアーキテクト」は、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターである。

 しかし、制度のみを議論しても始まらない。地域毎に固有の「まちづくり」を期待するのであれば一律の制度はむしろ有害かもしれない。どんな小さなプロジェクトであれ、具体的な事例に学ぶことが先行さるべきである。まずは、①身近なディテールから、というのが指針である。また、②持続、が必要である。単発のイヴェントでは弱い。そして持続のためには、③地域社会のコンセンサス、が必要である。合意形成のためには、④参加、が必要であり、⑤情報公開が不可欠である[viii]

 



[i] 拙著、『裸の建築家ータウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社、2000年。

[ii] 拙稿、『群居』、群居刊行委員会、19981月。

[iii]「ちぐはぐな町並み開発を防ぐには建築家の継続参加が有効」、『日経アーキテクチャー』巻頭インタビュー、1995410

[iv] 『序説』以降に書いた論考として以下のものがある。

「タウンアーキテクトの組織実践へ向けて」、『群居』50号、200010月/「身近なディテールから・・・タウンアーキテクトの役割と可能性」、『造景』、20011月/The Roles and Tasks of Town Architects in JapanA Proposal for the establishment of Kyoto Community Design League, Traverse 02, Kyoto University, 18 Jun. 2001(『新建築学研究』 第2号)/「京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)の試み・・・すまいの専門家の生きる道」 『住宅』、200110月号

[v]  京都市全体をカヴァーするのにはまだまだチームが足りない。全国からの是非参加をお願いしたい。『京都げのむ』(定価1000円)、京都CDLについてはhttp://www.kyoto-cdl.com/ を参照されたい。

[vi]  2001年4月17日 朝日新聞記事掲載「町づくりに研究者の知恵 地区の個性重視して提案 14大学の24チーム参加 アイデア競い合い」4月28日 京都新聞記事掲載「京滋などの15大学京都CDL設立」10月19日 朝日新聞「京都の街づくり歩いて調査 学生が研究成果報告」

[vii]  京都市も2001年度から「すまい・まちづくり活動支援制度」に係る専門家登録を開始する。

[viii] CBPについて論ずる紙数が尽きた。またの機会に深めたい。 


2024年9月21日土曜日

Archiーforum 裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方 、 5月26日 5:00pm~7:00 INAX大阪 1Fサロン、200105

 Archi forum

裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方

布野修司

526日 5:00pm7:00 INAX大阪 1Fサロン

 

●略歴      

1949年 島根県出雲市生まれ/松江南校卒/1972年 東京大学工学部建築学科卒

1976年 東京大学大学院博士課程中退/東京大学工学部建築学科助手

1978  東洋大学工学部建築学科講師/1984年  同   助教授 

1991  京都大学工学部建築系教室助教授

 

●著書等

       『戦後建築論ノート』(相模書房 1981

              『スラムとウサギ小屋』(青弓社 1985

              『住宅戦争』(彰国社 1989

       『カンポンの世界ーージャワ都市の生活宇宙』(パルコ出版199107

       『見える家と見えない家』(共著 岩波書店 1981

              『建築作家の時代』(共著 リブロポート 1987

       『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(共著 現代企画室)

       『建築計画教科書』(編著 彰国社 1989

       『建築概論』(共著 彰国社 1982

       『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(彰国社  199106

       『現代建築』(新曜社)

       『戦後建築の終焉』(れんが書房新社 1995

       『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』(朝日選書 1997

       『廃墟とバラック』(布野修司建築論集Ⅰ 彰国社 1998

       『都市と劇場』(布野修司建築論集Ⅱ 彰国社1998

       『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ 彰国社1998

『裸の建築家-タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社2000)等々

 

 

○主要な活動

 

 ◇京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ) 

 ◇建築フォーラム(AF) 

 ◇サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)

 ◇アジア都市建築研究会

 ◇木匠塾 

 ◇

 ◇

●主要な論文     

 『建築計画の諸問題』(修論)

  『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(学位論文)

 

 


[1]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのスラムの居住対策と日本の経験との比較」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その1,日本都市計画学会 学術研究論文集 19,1984

 [2]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのカンポンの実態とその変容過程の考察」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その2,日本都市計画学会,学術研究論文集20,1985

 [3]Shuji Funo:Dominant Issues of Three Typical Kampungs and Evaluation of KIP,1985, Peran Perbaikan Kampung dalam Pembangunan Kota, KOTAMADJA SURABAYA ITS

 [4]Shuji Funo:MINKA and Conventional Timber House in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS    1991

 [5]Shuji Funo:The Regional Housing Systems in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS    1991

 [6]布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

 [7]脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,478,p61-68,1995.12

 [8]布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,日本建築学会計画系論文集,483,p101-109,1996.05

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),布野修司,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,日本建築学会計画系論文集,489,p97-102,199611

[10]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971

[11]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,日本建築学会計画系論文集,499,p113~119,19979

[12]布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,日本建築学会計画系論文集,502,p87~93,199712

[13]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の祭祀組織と住民組織 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その2,日本建築学会計画系論文集,503,p151-156,19981

[14]山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,504,p103-110,19982

[15]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学) 沼田典久(京都大学):ジャイプルの住居類型と住区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その2,508,p121~127,19986

[16]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)における棲み分けの構造 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その3,日本建築学会計画系論文集,510,p185-190,19988

[17]田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,日本建築学会計画系論文集,512,p93-99,199810

[18]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Spatial Structure of a Buddist Monastery Quater of the City of Patan, Kathmandu Valley,日本建築学会計画系論文集,513,p183~189,199811

[19]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,日本建築学会計画系論文集,514,155-162p,199812

[21]今川朱美(京都大学),布野修司:グラスゴー・シティセンターの街路とグリッド状街区の形成」,日本建築学会計画系論文集,514,147-154p,199812

[22]竹内泰(三菱地所),布野修司:「京都の地蔵の配置に関する研究」,日本建築学会計画系論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建(蔚山大学),布野修司:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[24]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):ラホールにおける伝統的都市住居の構成:ラホール旧市街の都市構成に関する研究 その2,日本建築学会計画系論文集,521,p219226 ,19997

[25]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997

[26]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ・ネパール)の空間構成 その2 住居、ダルマサール、辻と住区構成,日本建築学会計画系論文集,526,p191-199,199911

[27]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):台北市の寺廟、神壇の類型とその分布に関する考察,日本建築学会計画系論文集,526,p185-192,199912

[28]トウイ(京都大学),布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,526,p175-183,199912

[29]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,日本建築学会計画系論文集,527, p177-184, 20001

[30]根上英志(京都大学),山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,日本建築学会計画系論文集,535, p75-82, 20009

[31]正岡みわ子(京都大学)),丹羽大介,布野修司:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,日本建築学会計画系論文集,535, p209-214, 20009

[32]トウイ(神戸大学),布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p163-170, 200010

[33]闕銘宗(京都大学),布野修司:寺廟、神壇の組織形態と都市コミュニティ:台北市東門地区を事例として,日本建築学会計画系論文集,537, 219-225,200011

[34]韓三建(蔚山大学),布野修司:日本植民統治期における韓国慶州・旧邑城地区の土地所有の変化に関する研究, 日本建築学会計画系論文集,538,149-156p,200012

[35]山根周(滋賀県立大学),沼田典久,布野修司,根上英志:アーメダバード旧市街(グジャラート、インド)における街区空間の構成,日本建築学会計画系論文集,538, p141-148, 200012

[36]布野修司,黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),山本直彦(京都大学),渡辺菊真(京都大学) :ジャイプルの街区とその変容に関する考察ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その3, 日本建築学会計画系論文集, 539,p119-127,20011

[37]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Ancestral Shrine and the Structure of Kathmandu Valley Towns-The Case of Thimi, カトマンドゥ盆地の町ーティミの空間構成と霊廟に関する研究 ,日本建築学会計画系論文集,540, p197-204, 20002


裸の建築家・・・タウンアーキテクト論

 

目次                                                       

はじめに・・・裸の建築家

 Ⅰ 砂上の楼閣

 第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能          

 第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 Ⅳ タウンアーキテクトの可能性

 第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

 第8章 タウン・アーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウン・アーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウン・アーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 おわりに

 

 新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割

 布野修司(京都大学)

 

 松山巌に『世紀末の一年』(朝日選書、2000年)という仕事があって、その仕事をもとに100年前の日本を考えたことがある(『GA』2000年春号)。20世紀は人類史上最も激しい変化の世紀であった。にも関わらず、あまり変わらない、というより、全く「金太郎飴」だ、という思いがした。人間そう変わりはしない。100年後も、おそらく僕らは同じことを繰り返しているだろう、という思いがある。

 もちろん、この百年間における決定的な変化はある。百年前には飛行機も自動車もなかった。コンピューターについては、その変化を身をもって証言できる。パンチカードからカセット・テープ、CD-ROMまで、この間のめまぐるしい変化は想像を絶する。漢字をコード化して、ワープロソフトのプログラムを書いて喜んでいたのが馬鹿みたいだ。20世紀を主導し、支配してきたのは科学技術である。近代建築を主導してきたのも基本的には建築技術である。従って、来る世紀を占う上でも建築技術のあり方がひとつの鍵となるのであろう。情報技術(IT)が建築を変えるのだ!と扇動する建築家が既に跋扈している。しかし、百年後にも現在と同じような建築物が日本の町並みをつくっていることには変わりはあるまい。 

 

 建築家にとっての基本的テーマは空間の形式である。20世紀は、新たな都市や住居の形式を生み出してきた。その空間形式に未来はあるのか、が問われるべきだと思う。

 

 20世紀において決定的となったのは土地と建築の関係である。すなわち、建築と具体的な土地や地域社会との関係が切り離されてしまったことが大きい。ひとことで言えば、「社会的総空間の商品化」の進行である。建築生産の工業化といった方がわかりやすいかもしれない。工場生産された部品や材料でどこでも同じように建築がつくられる。結果として、世界中で同じような都市景観をわれわれは手にした(しつつある)のである。近代建築は基本的にそうした世界を目指してきたのではなかったか。だから、建築家にとって中心的課題は、依然として、近代建築の理念をどう評価批判するか、なのである。

 もちろん問題は産業社会の編成そのものである。問題は建築の領域を遙かに超えている。脱産業社会が呪文のように捉えられて既に久しいが、必ずしも行く先が見えたとは思えない。近代建築批判の課題は宙づりされたままである。

 ひとつの大きな手がかりは、「地球」という枠組みである。一個一個の建築の設計においても地球のデザインが問われているということである。『戦後建築の終焉』(1995年)で少し考えたけれど、具体的な指針は定かでない。警戒すべきは、なんでもエコロジーと言いくるめるエコ・ファシズムである。自律的(セルフ・コンテインド)な空間単位はどのような規模で成立するのか。おそらく「世界単位」論の言う地域的な圏域がグローバルに確立される必要があり、その圏域の基礎となる空間単位を具体的に提示する役割が建築家にはある、というのが直感である。

 

 日本の建築界については、戦後50年(1995)を契機に考えたことがある。休憩なしの3時間のシンポジウムを3回、司会を務めた。その記録『戦後建築の来た道行く道』(東京建築設計厚生年金基金、1995年)を読み返してほとんど付け加えることはない。この十時間に及ぶ真摯な議論を是非読んで欲しい。通奏低音となっているテーマは、建物の生命(寿命)である。端的に言って、建物をそんなに簡単に壊していいのか、ということである。資源問題、エネルギー問題など地球環境の存続が全体として問われるなかで建築と土地の関係は再度根源的に問い直されることになるであろう。

  具体的な指針としては、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)を書いた。日本の産業社会の再編成が進行する中で、日本の建築界の構造改革(リストラ)も必然である。20世紀後半のスクラップ・アンド・ビルドの時代からストックの時代への転換が起きるとすれば、建築家の役割も変わらざるを得ない。はっきりしているのは、建築を維持管理していく仕事が増加していくことである。また、建築家がタウンアーキテクトとして地域との関係を強めざるを得ないということである。世紀半ばまでには死に逝く世代としては百年の展望は必要ないだろう。

 

建築雑誌2000122001年1月 行く世紀、来る世紀 


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裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方

布野修司

526日 5:00pm7:00 INAX大阪 1Fサロン

日本の建築家は半減してもおかしくない

新たな存在根拠を見据えない建築家に明日はない

戦後日本の建築家は何を課題として,何をなしえたのか

 

 

 結論

  建築家には、新たな空間の形式(基礎空間単位)を提出する役割がある。

  日本の建築界は再編されざるをえない 日本の社会編成 産業構造の転換

   単純化していうと日本の建築家はいらなくなる

   移行期,過渡期において三つの方向

  維持管理,改修,改築

  まちづくり

  海外

 

ネタ

 A布野研究室のアジア都市建築研究

 B京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)

 C戦後日本の建築家

 D建築界の現状

 

Ⅰ.建築デザインの潮流ーーー建築家と住宅の戦後史

 

 1.初期住宅問題と建築家

   

   ●新しい目標としての都市と住宅ーーー住宅改良雑感(後藤慶二)/社会改良家としての建築家/市街地建築物法

      ●文化生活運動の展開ーーー住宅改良と文化住宅の理想/文化生活運動の位相/

   ●民家研究の出自ーーー今和次郎のことなど

   ●戦争と住宅ーーー西山夘三の国民住居論攷

 2.戦後建築の課題としての「住宅近代化」

  

   ●ヒューマニズムの建築ーーー機能主義と素朴ヒューマニズム/近代建築論争/計画化

   ●住宅の近代化ーーーこれからのすまい/日本住宅の封建性

 

   ●伝統論争と住宅

 

 3.住宅産業と建築家

 

   ●都市への幻想ーーー小住宅作家万歳/住宅は芸術である

 

   ●マイホーム主義と住宅デザインーーー「都市住宅」派

 

   ●都市からの撤退--- 最後の砦としての住宅 自閉の回路

               近親相姦の住宅設計

      ●住宅デザインの商品化ーーー商品化住宅の様式化

 

Ⅱ.日本の住宅・・・住まいと町づくりをめぐる基本的問題

 

    ●住宅=町づくり

   ◇建築と都市の分離

   ◇大都市圏と地方

   ◇地域と普遍(国際化)

   ●論理の欠落ーーー戦後住まいの失ったもの 豊かさのなかの貧困

   ◇集住の論理

   ◇歴史の論理

   ◇多様性と画一性

   ◇地域性

   ◇直接性

 

 

 

 

 

参考

建築学生

1.背景
 児童就学数変化、建築産業の動向、建築学科の将来像(大学院含む)を考慮し、建築学科では、今後10年間の中期的視野にたって、学部定員について検討した。

1-1.就学児童数の変化の分析(文部科学省主要教育統計1.学校基本調査 入学者数の推移)
(1)
小学校入学者の数の減少
 現在の大学1回生が小学校入学時(平成元年入学)の入学者数は1,511,870名、10年後(平成10年)の入学者数は約1,217,059名で、約20%の減少である(幼稚園でも同じ比率)。即ち、大学進学率に変化がないとすると、大学入学者の数は今後10年間で20%程度減少すると予測される。

(2)
大学、大学院修士、大学院博士入学者数の過去5年の推移
 大学入学者数、大学院修士入学者数、大学院博士入学者数のここ5年間の推移は表1のようであり、減少はしておらずむしろ微増ないし増加となっている。これらの学生が小学校に入学した当時には、すでに小学校入学者数は大きく減少している。高学歴化の進行や競争率の低下によって進学率が上昇し、実数が減少していないと考えられる。

表1 大学、大学院修士、大学院博士入学者数の過去5年の推移

            大学入学者数    大学院修士入学者数      大学院博士入学者数

   平成  8年   579,148       56,567          14,345
   平成  9年   586,688       57,065          14,683
   平成10     590,743       60,241          15,491
   平成11     589,559       65,382          16,276
   平成12     599,655       70,336          17,023

今後の就学児童の大学進学率がどのように変化するかは分からないが、就学児童数の減少(20%)と大学進学者数の減少が同じとは言えない。上表からは、大学院進学者数の減少比率は、20%をはるかに下回るものと推定される。

1-2.建設(建築部門)需要の変化
 (国土交通省総合政策局情報管理部建設調査統計課 平成13年度建設投資見通し)

(1)
建設投資の動向
・平成13年度の建設投資
  政府投資 293,900億円(前年度比 5.8%減)
  民間投資 377,400億円( 同 3.6%減)
  建築投資 326,200億円( 同 5.7%減)
  土木投資 345,100億円( 同 3.5%減)
・平成13年度建設投資の実質ベース:684,100億円(前年度比4.4%減)
  政府 298,900億円( 同 5.7%減)
  民間 385,200億円( 同 3.4%減)
  建築 332,600億円( 同 5.5%減)
  土木 351,500億円( 同 3.4%減)
・平成12年度の建設投資: 703,600億円(前年度比 0.1%増)
  政府 同 1.9%減の 312,000億円
  民間 同 1.7%増の 377,400億円
  建築 同 0.2%減の 345,800億円
  土木 同 0.4%増の 357,700億円
・推移
  昭和59年度以降、建設投資は前年度比プラスで推移し平成4年度には84兆円  平成6、7年度は80兆円台を下回った(バブル崩壊後の民間建設投資の減少)。
  平成8年度は80兆円台を回復(民間住宅投資の増加による)
  平成10年度以降は70兆円強で推移
  平成13年度は、民間投資、政府投資ともに減少し、70兆円台を下回る見通し
・平成13年度の地域別(10ブロック)建設投資額
  全ての地域で前年度の水準を下回る見通し

(2)
住宅投資の動向
・平成13年度の民間住宅投資
  着工戸数 :120万戸程度(前年度並み)
  投資ベース:199,400億円(前年度比2.2%減:前年度第4四半期の着工の落込み)
・政府住宅投資と合わせた平成13年度の住宅投資全体
  21 900億円 前年度比 2.1%減
・平成12年度の新設住宅着工戸数:121.3万戸(11年度122.6万戸)
  持家   対前年比 8.0%減
  貸家    同 1.8%減
  給与住宅  同 12.8%減
  分譲住宅   11.0%増
・平成12年度の住宅投資:215,400億円(前年度比 1.2%減)

1-3.建築産業の変化の分析
 社会の仕組みが、従来型のスクラップアンドビルトからストック有効利用型へ変化しており、そこに新たな建設産業が生まれつつある。(国土交通省の建設経済局調査情報課情報政策室 新建設市場予測検討委員会 平成106月報告書)
(1)
新建設市場の概念
 建築物は竣工後、清掃・点検といった初期機能を維持するための作業を受ける。しかし、各種部材の経年劣化、或いは破損・故障などによって主として物理的耐用力が限界に達すると、修理・修繕等によって当該機能を竣工時点のレベルまで回復しようとする行為が行われる。また、社会潮流の変化に伴って求められる機能が質的に変化したり、要求レベルが高まることなどによって建築物の機能が社会的に陳腐化すると、竣工時点には備えていなかった新たな機能を付加するための工事が行われることが多い。
 以上の観点から、新建設市場を以下のように定義し、さらに「機能の変化のレベル」によって維持・補修・改修の3分野が設定される。
 ・新建設市場の定義 建築物の機能の低下速度を抑制したり、機能を向上させることにより、建築物の物理的・社会的寿命を延ばす活動、およびその周辺活動により形成される市場
 ・3分野
   維持機能のレベルの低下速度を弱める行為。
   補修陳腐化した機能を竣工時点のレベルまで回復させる行為。
   改修竣工時点を上回るレベルにまで機能を高める、或いは新たに付加する行為。
 
(2)
現在市場推計結果(1995年時点の市場規模)
1995年時点の市場規模  総額19.9兆円(名目額)
  民間非住宅 8.8兆円 全体の4割以上
  住宅(官民計) 7.3兆円
  政府非住宅 3.8兆円
・現在市場の分野別構成
  改修 8.0兆円  住宅 3.5兆円 市場総額7.3兆円の半数近く
・民間非住宅 改修(3.4兆円)、維持(3.3兆円)
・政府非住宅 補修(2.0兆円)、改修 その半数程度

(3)
将来市場予測結果 〈アンケート 19971114日~121日、有効回答数1,164
件 〉
(1)総括
1995年時点で19.9兆円を形成する新建設市場は、今後年平均2.2%のペースで拡大
し、2010年には27.6兆円と、1.5倍にまで拡大する(1995年価格ベース)。
・市場分野別の推移
  維持に比して補修・改修の伸びが高い。
  改修 年平均1.9%で堅調に推移する。 既存建築物の機能付加ニーズ
  補修 同3.0%で推移 今後政府非住宅ストックが補修適齢期を迎えるため
  維持 1.6% 基本的に従来通りの傾向
(2)改修市場の詳細
1.
住宅
 スペースの有効活用が最大 約3割
 イメージの向上
 水まわり、空気環境、光・音環境などの快適性の向上 特に空気環境
 バリアフリー化 急激な高齢化の進展
 マルチメディア対応、ホームオートメーション化、セキュリティ 情報ニーズの拡
大、   家事効率向上の必要性や防犯ニーズの高まり
 自然エネルギーの利用 これまでは太陽熱温水器が中心、太陽光発電が普及の兆し
縮小市場 
 震災への対応 新耐震基準で建設された81年以降の竣工ストックは耐震改修の母体
とはなりにくい
 火災への対応 対象となるストックは限定的

2.
民間非住宅
 OA化・快適な空気環境・イメージの向上の市場規模が大きく、これら3分野だけで改修全体の過半を占める。
 今後の推移では、他の二者に比してOA化の伸びは低い。一方、快適な空気環境・イメージ向上は、改修全体の伸び以上のペースで拡大していく。
 この他の分野では、セキュリティ、自然エネルギーの利用、ビルオートメーション化などは年平均3%以上の比較的高い伸びを確保しうる。一方、震災・火災への対応は、住宅と同様にすでに対処済みのものが多いため、縮小していく市場である。


2.建築教育および研究の将来の姿と適正な学部定員
2-1.学部学生定員の変遷
 昭和 年 45
 昭和 年 90名 高度経済成長、第一次ベビーブーム
 昭和 年 95名 臨時定員増加、第二次ベビーブーム
 平成 年 90名 臨時定員返還

2-2.学部定員減少への流れ
 ・就学児童数の減少
 ・産業構造の変化、特に旧来型の建築産業の縮小
 ・事項で述べる、学部教育から大学院教育への重点のシフトの必要性
 ・三回生からの編入枠を、従来からある高専のみでならず他大学にも広げ、目的意識の高い学生を受け入れる。
 ・京都大学との立場、役割 社会に先立って建築分野の今後の方向性を示すためにも,学部教育から大学院教育へのドラスティックな転換を行なうことが望まれる。

2-3.大学院の充実への要請
(1)
高度専門教育と先端的研究の推進
 高度専門教育、特に京都大学は大学院大学としての先端的研究の推進が産業界・社会から強く要請されている。
 建築を基本とした他分野への就職可能性が増大しており、建設産業への対応が出来ない(今年の例では、構造系は求人をこなしきれていない)。建設産業にも、新たな展開がある。高等教育の必要性が増している。

(2)
グローバリゼーションに伴う建築家資格
 グローバリゼーションに伴う建築家資格の国際共通化の観点からは、5年ないしは6年の建築家教育が世界的には標準となっており、これに比較的無理なく対応させるには4年の学部教育と2年の修士課程の教育を融合して対処するのが合理的であり、実状とも適合している。

(3)
新しい研究対象の発生
 建築学の古典的分野に対する社会的要請は少なくなってきているが,環境問題,生活習慣の変化,人口集中化,情報化,グローバル化などにともない,多くの新しい研究対象が発生してきている。京都大学は,単に住居やビルを既定の方法にしたがって建設するための人材を育成するのではなく,上記の新しい要請に対して産業構造を再編し,新しい研究教育の分野を開拓するための人材を育成する使命を有している。
 生活空間再生学 今後の発展のひとつの方向(新たな分野の必要性と大学院重点化)新建設産業

(4)
生涯教育,社会人教育
 終身雇用制の崩壊,高寿命化,教育期間の増加(高年齢化)などの社会的状況を鑑みると,生涯教育,社会人教育あるいは再就職のための再教育の要請は今後高まるものと予想される。さらに,大学と産業界の関係の変化も考えると,社会人教育の充実は必要不可欠である。

(5)
留学生の受け入れ
 グローバル化の観点からは,とくにアジア地域からの留学生のより積極的な受け入れが望まれる。

(6)
世界でも類を見ない高齢化社会の到来に伴う社会構造の変化

(7)
自己責任型社会への転換
 政府主導の規制緩和が、安全に関する分野を含め推進されている。建築分野では、H10年改正の建築基準法において、構造基準、防火規準、衛生基準の一部が性能規定化され、安全に関する国の直接規制の一部分が民間へ委譲された。これにより建設技術の新たな展開が見込まれる一方で、民間が官に頼る体質から脱却し自己責任型社会へと転換できるのか危惧される。建築物の安全に関しては、地震、台風、火災、日常事故といった種々の危険に対して総合的にバランスよく安全計画を行う職能(安全計画コーディネーター)が求められている。このような人材は、大学院レベルの教育で養成すべきものと考える。

(8)
国際調和:グローバル市場の中での日本の建設技術のイニシアティブ
 建設技術は土地に固着した技術ではあるが、一方で建築を構成する材料や部品についてはグローバル化が急速に進み、国内で使用される建築部品の多くは外国産である。これがスムーズに行われるためには、ISO(国際標準化機構)規格などの部品作りやその使い方に一定のルール化が必要である。建築技術としてルールをサポートし、日本の建築技術をルールに整合させるとともに日本の建設技術を国際的に認知させることにより、日本の国益を守り、グローバル化の中で経済摩擦の少ない国際社会を形成することができる。そのためには、学部レベルの建設技術を学んだ上で、規格、基準、規準の意味と目的などを調査・研究し、実践に適用することができる人材が必要であり、それには大学院における教育が適切と考える。

(9)
国際調和:発展途上国への/からの技術相互移転
 いわゆる発展途上国への技術移転は、主として経済原理に基づいてなされてきた傾向があるが、国際倫理に適った在り方に従うべきであろう。それには、近隣諸国・地域と対等な立場で共存できる建設技術基盤づくりが必要である。そのための人材つくりは学部4年では十分とは言えず、修士・博士課程を通じて行うことが適切である。
また、発展途上国からの留学生を受け入れ、母国の建設技術の要となるに足る十分な教育を施すことにより、建設技術のグローバル化に必要な社会基盤を作る人材を輩出すべきである。

(10)
幅広く、全国から人材(大学院生)を受け入れ、新しい血を導入することによる京都大学の活性化を図る。

(11)
学部学生の要望
 現状では、学内の学部学生ですら大学院に進学できず、自らの夢を実現するため大学院浪人をする学生が非常に多く存在する。

(12)
多領域・分野を統合する建築学
 今後はいろいろな分野との交流が必要となり、建築学は(他の分野で活躍するというよりは)他の分野を建築学に引っ張り込むことになろう。建築学は,他分野を単に寄せ集め学際領域をつくるのではなく,包括的に消化できる分野と考えられる。最終的には多くの人々が建築を重要なものと捉え,また建築はそのための求心力として適当なレベルにある。従って、周辺領域での専門教育や実務経験を有する人材にも門戸を開き,建築学の包括性を活かして大学院を充実させることも求められる姿のひとつと考えられる。

3.最終提案
 以上示したように、大学院教育に対する社会的要求は明らかであり、臨時定員の予算定員化(?)および入学定員増を提案するものである。大学院教育へのシフトを教官数を増やさずに実現するためには、同時に学部定員の削減が必要であり、以下のような提案をいたします。

3-1.改組案
(1)
学部定員について
 ・定員を10名程度削減する。
(2)
三回生からの編入枠を、高専のみでなく、他大学に広げ、10名程度確保する。
 ・入学試験は、高専編入と同時に、同じ問題で行う。
(3)
大学院定員の増加
 ・大学院修士定員を、とりあえず建築学専攻(新)で、10名程度増やす。
 ・大学院博士定員も増やせるとよいが、実状からみて可能性を検討する必要有り。
 ・幅広く、全国から大学院生を募る。
 ・増やすべき領域としては、生活空間再生学、環境・生産マネージメント、安全計画、環境保全、福祉、国際融合、生活環境情報、等々。

3-2.具体的な形
(1)
専任講座化
(2)
地球環境学専攻や国際融合創造センターへ異動する教官に対する学生定員を工学研究科にも配置する。
(3)
高等研究員

3-3.問題点
(1)
地球工学との連携
 ・環境地球工学の改組とのからみ
(2)
他大学への波及効果
 ・適正な削減数より控えめに設定するのが安全側か。
(3)
受験生への影響
 ・大学院における教育・研究の充実ということと合わせて入学定員の削減を説明し
ないと、建築に対して受験生が夢を持ちづらくする危険性がある。

2024年9月20日金曜日

変貌する建国50周年の中国都市・上 北京 中 西安 下 広州, 日刊建設工業新聞,1999年1105

 変貌する建国50周年の中国都市・上 北京 中 西安 下 広州, 日刊建設工業新聞,19991105

 

変貌する建国五〇周年の中国都市

布野修司

 国際交流基金(ジャパン・ファンデーション)と日本建築家協会(JIA)共催の「現代日本建築一九八五-一九九六展」が中国を巡回中である。それに伴う企画として「日本建築の発展と日本文化」と題した講演(建設部建築技術研究院(北京)、華南理工学院(広州))を日本の外務省から依頼された。『日本当代百名建築師作品選』を中国で出版した(一一九九六年)縁である。以下は、北京→西安→広州を駆け足で回ってきたレポートである。



①北京 大雑院から高級公寓まで

 建国五〇周年を迎えた北京は建設ラッシュであった。あちこちで五〇周年記念式典(一〇月一日)に間に合わせようという工事が行われ活気に満ちているように見えた。

 四年ぶりに訪れた北京の変貌には心底驚いた。その象徴が北京随一の繁華街、王府井(ワンフーチン)だ。道路は拡幅され、バスなど必要車両を除いて歩行者天国になっている。四年前には革命以前の通りの面影が残り、長安街からの入口の赤いマクドナルドの店が目立つ程度であったが、今は一体どこの街なのか曰わく言い難い。北京市の幹部が汚職で失脚することになった巨大なショッピング・センターがほぼ完成し、新しい王府井の姿が明らかになりつつある。今となっては、工事中に『乾隆京城全図』に描かれたまさにその場所で発見された清朝の井戸跡が歴史を偲ぶ唯一のよすがである。

 天安門の前を東西に走る長安街の変貌も著しい。中国風の屋根を載せたかってのビル(帝冠様式!)に変わって、石貼りとミラーグラスを組み合わせたポストモダン風のオフィスビルが建ち並ぶ。ほとんどがアメリカ人建築家の手になる。講演(学術報告会)では中国建築技術院の院長以下、研究員、精華大の先生、学生などを前にして、日本建築の歴史を近代中心に僕なりにしゃべった。帝冠様式にももちろん触れた。院長の総括を含め、質疑応答の一つの焦点は新しい長安街のデザインだった。帝冠様式にもポストモダン風にも彼らは満足していないように思えた。

 もうひとつ大きな変化は交通渋滞だ。バンコクほどではないけれど、このままでは深刻な状態に陥るに違いない。北京市城市規劃設計を訪れて、北京市の住宅価格の分布図を見せてもらった。東北が高く、南西が低い。しかし、住宅建設の最前線は郊外へと展開中である。いくつかモデルルームを訪れてみた。びっくりするのは広さである。一五〇平米が標準で、三〇〇平米を超えるものもある。一体、三人家族でこれだけ必要なのか、と思わず尋ねた程だ。中国には、安置工程(四三平米)、安居工程(七〇~八〇平米)、小康住宅(一二〇平米)という区分がある。しかし、政府は昨年末、賃貸住宅を廃止し、住宅建設分野に市場原理を導入することを決定する。その結果が空前の住宅建設ブームである。設備の水準も高い、日本では億ションといっていい高層集合住宅(「高級公寓」)が次々に建っているのである。

 中国では各職場単位毎に住宅が用意され、職住近接が理念とされてきた。大きな大学になるとキャンパスは広大で全てがそろっている。生活はキャンパス内で完結する。しかし、今後は自ら住宅を取得することになる。北京の交通渋滞は、おそらく、職場と住宅立地をめぐる大きな転換が関わっている。

 一方、伝統的な住居、四合院の残る地区は消えつつある。内城では二カ所が保存地区に指定されているけれど、「大雑院」と呼ばれる建て詰まった四合院地区が再開発を待っている。


②西安  中国建築の伝統と現代化

 四合院の町家地区は西安でも消えつつあった。日本人に親しい長安の都の変貌も著しいのである。城外南北をには高層建築が建ち並んでいる。

 長安の都というけれど、現在残る城壁内は明清時代の西安城で、長安城の宮城、皇城部分にすぎない。改めて、長安城の巨大さがわかる。空海が学んだ青龍寺は城壁の外である。長安城の南の境界にあった、玄奘(三蔵法師)が印度から持ち帰った多くの経典を翻訳した慈恩寺(大雁塔)は、遙か城外南である。

 現在の南北中軸線上に鐘楼がある。その北東に鼓楼があり、その間に不思議な空間が作られている。「西安鐘鼓楼広場」と呼ばれるその空間は極めてシンプルで正方形の庭が整然と並んでいるだけである。新しいショッピングモールは地下におさめられ、地上に控えめに突きだした五基のピラミッド状のトップライトがその存在を示している。そして、北側にはかっての町並みを意識したファサードが二つの楼をつなぐようにデザインされている。デザインの意図は明らかだ。すなわち、新たに必要な商店街を地下に納めながら容積を確保し、かっての空間の質を保持する、伝統と現代を現実的に解く試みである。このプロジェクトは中国建築学会賞を受けた。

 建築家は張錦秋、中国を代表する女流建築家である。実は清龍寺も大雁塔もその復元、周辺整備(唐華賓舘、唐芸術陳列舘)も彼女の手になる。興慶宮の阿倍野仲麻呂の碑(一九七八年)も彼女のデザインだから日本との縁は深い。それどころか、狭西歴史博物館(一九八三)、法門寺の周辺整備(一九八七)、華清宮の整備など西安の主だった建築は彼女の手になる。もちろん、歴史的な地区の設計だけではなく、新しい団地の設計もこなす。中国建築西北設計研究院總建築師、精華大学教授でもある。

 その張錦秋氏に西安で会う機会を得た。息子の韓一平君が我が研究室出身という縁である。韓君は今全国市長培訓中心都市発展研究所の副所長である。中国各地で街並み保存を展開するのが彼の仕事である。張錦秋氏からは厳しい批判をというということであったが、建築史学の大家梁思成の学生であった時代から文革時代までの話で心地よい宴はあっという間に過ぎてしまった。張錦秋の建築は決して派手ではない。正統派である。中国建築の伝統を深く理解し分析する眼がある。「帝冠様式」のレヴェルを超えていることは言うまでもない。特に外部空間の視覚的分析を基礎とする、建築史家としての出発がその手法を支えている。

 中国建築の伝統では、宮殿、寺院、民居など、全て中軸線を挟んで左右相称の四合院型の構成が基本である。あまりにも形式化され、それに対抗し乗り越えるのは至難のことである、と台湾の李祖源はいう。張錦秋と李祖源は交流があるけれど、張錦秋にとっても最大の課題であり続けている。


③広州 開発と街並み保存

 華南理工学院での講演はものすごい聴衆であった。若い学生を主体に数百人、二重、三重に立席もできた。『日本当代百名建築師作品選』が知られ、「現代日本建築1985-96展」が開かれた直後であったということもあるが、会場の熱気を支えたのは現代日本建築に関する関心である。

 いささか翳りを見せ始めたとはいえ、広州は、上海、北京に続く経済成長率を誇る。旧市街の東の新興開発区、天河には超高層ビルが建ち並ぶ。広大な空き地も拡がり開発を待っている。真ん中に陸上競技場がある。バブルが弾ける直前の幕張を思った。講演後の懇親会で、華南理工学院の建築学院出身の、わずか三八歳という若き副市長と同席したのであるが、その意気や軒昂であった。

 スケジュールの合間に町を見て回る。ひとつの学術的関心はイスラーム地区であった。多くの民族がどのように共生してきたのかが大きな興味である。西安が陸のシルクロードの出発点であるとすれば、広州は海のシルクロードの出発点である。古来多くのイスラーム教徒が住んできた。西安の清真大寺周辺のようにひとつの街が残されているわけではないが、今日もミナレット光塔をもつ懐聖寺が信者の拠点になっていた。

 旧市街には伝統的町家、あるいは騎楼(亭子脚)のある店屋が残されていた。通風のために荒い丸太を横に通した木製の玄関引戸が並ぶ路地はなかなかの風情である。スケールもよく、人々の生活の臭いがぷんぷんしている。しかし、ここでも再開発が進行中である。

 珠江に浮かぶ人工島、沙面にはかっての植民地建築が整然と残されている。一六世紀にポルトガルが訪れて以来、広州は西欧列強の窓口であった。アヘン戦争の結果、英仏の租界になり、以来、中華人民共和国の成立まで外国人居留地であった。建国五〇年を経てもその歴史は街並みとして残されている。

 講演では、日本の近代建築の歴史を僕なりにわかりやすくかいつまんで話したつもりだ。そして、バブルの弾けた日本の課題についても触れた。建設の時代が終わった時のことを考えて下さいというのがまとめのメッセージである。あとで聞かされたのであるが、大変な反応だった。日本の現代建築の専ら宣伝ではないかと思っていたけれど、問題点も含めてわかりやすかったということらしい。

 質疑は、新旧の街並みをどう調和すればいいのか、広州の街づくりをどう考えればいいか、ということが中心であった。また、単にデザインではなく具体的な手法を知りたいということであった。

 広州のアイデンティティを大事にすること、広州全体をひとつのイメージとして考えるのではなく地区の固有性を大事にすること、若い学生が地区に張りついて地区の将来を提案すること、など一般的に答えたけれど、冷や汗ものであった。問題は広州だけの問題ではないのである。

2024年9月19日木曜日

オーストラリアの都市と建築 ①グリフィンのキャンベラ,②グリーンウエイのシドニー、③サルマンのガーデン・サバーブ、日刊建設工業新聞,19980220、19980306、19980327

  オーストラリアの都市と建築 1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220

 オーストラリアの都市と建築 2 グリーンウエイのシドニー,日刊建設工業新聞,19980306

 オーストラリアの都市と建築 3 サルマンのガーデンサバーブ,日刊建設工業新聞,19980327


オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

①グリフィンのキャンベラ

 ブラック・マウンテンのテレコム・タワーに上ってみる。キャンベラの全貌が見渡せる。足下に国立植物園、オーストラリア国立大学の森があり、その先に続いてシティ・ヒルの高層ビル群が見える。そして、バーリー・グリフィン湖を挟んで、キャピタル・ヒルの森と建物群が見え隠れする。中央にあるのが四角錐のフレームを頂いた国会議事堂(一九八八年)である。キャンベラは今猶建設中だ。

 樹木の間に直線の幹線街路の幾何学模様がくっきりと浮かび上がる。まるで図面を見るようだ。この都市計画の図面を引いた男、それが湖にその名を残すウオルター・バーリー・グリフィン(一八七六~一九三七)である。グリフィンの名は、オーストラリアでは著名だ。湖の畔(ほとり)にある国立首都計画館は言ってみればグリフィン館で、多くの観光客が訪れている。しかし、近代建築の歴史の中では忘れ去られてきた。

 グリフィンはシカゴに生まれ、フランク・ロイド・ライトの下で建築を学んだ。そして、その名を一躍著名にしたのが「オーストラリア連邦首都計画」国際コンペ(一九一一~一二年)一等入選である。一種の事件であった。

 幹線街路の軸線の焦点には必ず小高い山がある。単純な幾何学ではなく、地形を周到に読みながら軸線を定めていく、ランドスケープ・デザインの原理がある。しかし、彼の計画案がそのまま実現することはなかった。すぐさま問題になったのは人工湖である。恣意的な形には無理があった。さらに、数多くの困難が待ち受けていたのであった。

 グリフィンはキャンベラで人生を狂わせたと言えるかもしれない。一等入選以来、その実現過程で様々な政治的力学関係に翻弄され続けるのである。三二年までオーストラリアに釘付けになった。メルボーンなどで数々の仕事を手掛けるけれど、これぞという作品はなさそうだ。その後、インドのラクナウに招かれていくつかの仕事をしている。ラクナウは、パトリック・ゲデスが都市計画に最も力を注いだ町だ。グリフィンは、シカゴでゲデスの講義を聴いたことがあるという。折しも、エドウィン・ラッチェンスの監督の下、ニューデリーが建設中であった。この繋がりが二〇世紀の都市計画史の綾である。彼らは何かを共有していたのだ。そして一方、果たして、一人の人間がひとつの都市を設計できるのか、という問いをグリフィンのキャンベラが投げかけ続けている。 


 

オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

②グリーンウエイのシドニー

 シドニーの発祥の地、湾に面したザ・ロックスはヴィクトリア王朝時代の面影を今に残す。七〇年代から保存修景事業が展開され、観光客が蝟集する活気ある空間として蘇った。その一角にグリーンウェイという路地がある。小さな文字が書いてあるだけだから余程注意していないと気がつかない。フランシス・グリーンウェイ(一七七七~一八七三)という建築家が住んでいたのだという。

 このグリーンウェイは建築史上実にユニークな建築家といっていい。彼は死刑判決を受けてオーストラリアに流された囚人建築家なのである。経歴は定かではないが、ジョン・ナッシュと同じ住所にいたというから、それなりの訓練を受けた建築家であったことは疑いはない。英国にも三つの作品が知られている。しかし、請け負った仕事がうまくいかず、莫大な借金を背負って破産する。契約不履行は当時の法では死刑であった。

 折からグリーンウェイ展(一九九七年)が開かれていた。皮肉というか、ハイドパーク北の、かっての監獄が美術館に改装されていた。しかも、彼が設計した監獄だ。彼はウイリアム・チェンバースの建築書を持参していた。野心満々である。シドニーに到着する(一八一四年)や否やマクエアリー総督に取り入り、総督付き建築家になることに成功したのであった。

 展覧会には作品がプロットされた地図(一八三一年)があった。数え上げると四九にのぼる。マクエアリー・フォート、総督邸、最高裁、聖ジェイムズ教会などの他、住宅、倉庫などありとあらゆる施設を建設している。すごい建設量である。シドニーの初期の骨格はグリーンウェイによってつくられたのである。現在の中心街区には超高層ビルが林立する。しかし、グリーンウェイのシドニーを今猶歩いてみることが出来る。キャプテン・クックがボタニィ湾に上陸したのが一七七〇年、アーサー・フィリップ総督がジャクソン港に到着し、英国領としたのが一七八八年、グリーンウェイが活躍したのは一五〇年ほどの前だから、当然といえば当然かもしれない。

 グリーンウェイはシドニーに流されて、その名を残した。しかし、幸せだったかどうかはわからない。やがて総督付き建築家の職を解かれ、民間建築家として生きるが、生涯借金苦に悩まされるのである。しかし、小さな路地にその名が残り、一六〇年後に展覧会が催されたのだからもって瞑すべしであろう。

  

オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

③サルマンのガーデン・サバーブ

 シドニー滞在中に「サルマンの息子たちに救われて」という新聞記事が眼にとまった。建築家協会のジョン・サルマン賞が六五周年を迎えるのを記念して展覧会が開かれており、その歴史を振り返る内容だった。賞制定の経緯に細かく触れ、現在の賞の問題点も指摘する鋭い記事だった。一般紙に建築に関する署名原稿が載るのはうらやましい。

 シドニーといえばオペラハウスだが、その周辺で一悶着が起こっていた。シドニー湾を囲むようにオフィスビルやコンドミニアムが建ち並び、オペラハウスの景観を駄目にするというのだ。大反対運動が起こった。普通町並みを乱すモニュメンタルな建築が槍玉に上がるけれど、ここでは凡庸なビルの方が駄目だ。建築文化のある水準を示している。 

 ところで、ジョン・サルマン(一八四九~一九三二年)とは何者か。英国王立建築家協会(RIBA)の会員だった彼がオーストラリアにやってきたのが一八八六年、フランシス・グリーンウェイの時代から半世紀が過ぎていた。彼はオーストラリアの建築界をリードするためにやってきて、その名を冠した賞が創設されるに相応しい仕事をなした。

 建築家としてはさしたる実績はない。その名声は専ら都市計画家、あるいは文筆家としてのものだ。冒頭の記事も、三〇年にわたる教育活動、デイリー・テレグラフのコラムニストの実績を主としてあげていた。しかし、彼の名はもう少し、知られていい。「タウン・プランニング」(都市計画)という言葉を世界で最初に使ったのがサルマンなのだ。

 一八九〇年にメルボーンで開かれた会議で「都市の配置(レイアウト)」という論文を発表したのが彼だ。こんなことは、日本の都市計画の教科書は教えてくれない。見るところ、オーストラリアにおいては都市計画がまず問題であった。サルマンは、そのキーパースンであり、一九一四年には都市計画協会の会長に就任している。

 もちろん、グリフィンのキャンベラ計画にも深く関わった。連邦行政府側の代表者としてグリフィンの案に介入したのがサルマンである。彼の理想としたのは田園都市のパターンである。直線的な幾何学パターンは非人間的だと思いこんでいた節がある。グリフィンのおおらかな軸線構成は気に入らなかった。彼の主張は余程大きかったのであろうか。オーストラリアの町の郊外は、全てくねくねと酔っぱらったような住宅地になっている。