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2024年11月18日月曜日

座談会「余りにも曖昧な建築界」、飯田 亮・梅澤邦臣・尾島俊雄・横尾義貫、建築物および都市の安全性・環境保全を目指したパラダイムの視座(座長 横尾義貫 分担執筆),日本建築学会 特別研究課題検討会,1999年3月

 座談会

「余りにも曖昧な建築界」

 Ⅰ 建築界に保険のシステムを

 Ⅱ 百パーセント安全ではない

  

飯田 亮 いいだまこと

1933年東京都生まれ/学習院大学卒業/セコム会長、セコム科学技術振興財団理事

      

梅澤邦臣 うめざわくにおみ

1916年福井県生まれ/北海道大学卒業/(財)原子力安全技術センター会長、(財)吉田科学技術財団理事長、セコム科学技術振興財団理事、元科学技術事務次官

 

尾島俊雄 おじまとしお

1937年富山県生まれ/早稲田大学卒業/早稲田大学教授、本会会長

 

横尾義貫 よこおよしつら

1914年佐賀県生まれ/京都大学卒業/京都大学名誉教授、本会名誉会員・元会長 特別研究課題検討会座長

 

 余りにも曖昧な建築界Ⅰ・・・建築界に保険のシステムを

 

 建築学会の責任

 尾島 1995年に阪神・淡路大震災があって、あれだけ多くの犠牲者を出した。建築家あるいは建築界の責任は何かということをを非常に強く痛感しました。そんな時に建築学会の会長の選挙があって、やらなければいけないのは安全の問題だと思ったんです。一方、建築士の国際的資格問題があった。加えて京都でCOPー3が開催される。環境問題は私の専門であります。会長になって、公約として安全、地球環境、資格問題をやろうと、担当副会長を決め、抱負として述べさせてもらったんです。

 安全と水はただだという神話を覆されたのは飯田さんです。安全とは一体何かと真剣に考え出した頃、「実は建築界が困っているんだ」という話を梅澤理事長に雑談的にしたんです。そのあと梅澤先生から、あのテーマは重要だから飯田会長に話をしておくよということでした。今度セコムの財団の研究助成を受けて、会長直轄の特別委員会を設置し、横尾先生にお願いした次第なんです。

 助成を頂くにあたって、梅澤先生から一言注文が付きました。会長は口を出すな、あくまでも長老の先生中心にやるようにということです。現業ではできないことをきちんとやったらどうだ。それなら横尾先生に一切お任せするしかない。

 この特別委員会は安全がテーマです。なぜ建築基準法で安全が守れないのかまず問題です。学会の基準と建築基準法という行政のミニマムスタンダード、その違いは何か。建築学会はなぜ責任が持てないのか、責任がないのか。あるいはなぜ基準法が守られていないのか。一般には信じられないような状態に置かれていることを、どうすればいいのか。

 行政基準ではない、学会が市民サイドにたって安心を守るための行動を起こす必要があるのではないか。行政ではなくて、学会が本来やらなければいけない仕事があるのではないか。本来の学会の役割をセコムの委員会で目覚めさせられたといったほうがいいかもしれません。

 

 長老の横働き

 横尾 尾島先生がまずおっしゃったのは「安全と安心に関する総合的な学会基準の検討」ということで、わりに具体的です。学会は基準はたくさんもっている。ことに構造部門がたくさんもっていて、そこに問題点がある。そこを検討したらどうかと会長がおっしゃった。それを少し敷衍して、セコムのほうに申請した題が「建築物および都市の安全性、環境保全を目指したパラダイムの視座」という、なかなか難しい題なんです。これはたいへんなことだなと、私なりに、何か新しい視点がなければやっても意味がないと思ったんです。

 私が常々感じているのは、日本は縦社会であるということです。戦後50年間、官僚主導の縦社会でやってきた。でも、縦社会のひずみがいっぱいできた。縦社会の議論はやめようではないか。横へ話をしよう。ぼくの名前も横尾だから、横をつなごうというのがぼくの基本方針なんです。非常にシンプルです。

 一つの企画として、名誉会員に話を聞くというシリーズがあります。私自身もできるだけ参加してお聞きしています。もう一つ、徹底的に議論しようではないかと、わいわい始めました。最初は議論の絡まりが少し悪かったのですが一計を案じまして、いくつか部会をつくりました。

 全ての問題は一挙に片づく問題ではないと思います。やっとこさ始まったところで、まとめないといけないんですが、若い人も集まってやろうとしています。

 

 取締り行政と民の意見・・・オープンな議論を

 梅澤 飯田先生は、社会の安全をテーマに財団をつくられたわけです。尾島先生ははじめから入られいてて、都市防災というのは最初からテーマでした。例えば、一番最初にやったのは、「危険」という信号は、どういう色で表したらいいかという課題です。その後、尾島先生が早稲田で都市防災の講座をつくられて、都市防災に関する報告書をつくっていただきました。その報告書が、今度の神戸の震災に非常に役立ったわけです。増刷して、警察にもみんな送って、セコム財団の名が非常に売れたというか、非常に役立たしてもらったわけです。

 非常に大切なのが法の問題です。建築基準法、都市計画法は、私たちから見ますと国の取り締まり行政という形になっている。いまは官から民へという流れで、民の意見が入らなければいけない。法が出来上がる前なり、途中なり、その過程をオープンにしないと民の意見は入って来ないのではないか。

 私なりにわかったことは、安心というのは自分の問題だということ。決して人から押しつけられるものではない。安全は人がつくったものであって、人に押しつけている。押しつけられたものを自分の判断で安心と思う。押しつけ方が悪ければ、いつまでたっても安心とは思わない。私も原子力をやっていて、相当押しつけていたんです。建築確認が民に移るに際して、ぼくら一般民衆が頼れる検査官というか、そんなものがあって、それで自分が安心するという体制でも取らないと、つくったものを見せられてあとから壊れてもどうにもならない。

 建築基準法を守る、検査確認する機関がどこかあっていいのではないか。先生方のいままでの議論で、どうお考えになっているのか、報告書がいただければ幸いだと思っています。

 

 不可能な確認制度

 横尾 いまおっしゃったことにお答えしなければならないと思います。端的に申します。いま基準法改正が進行しています。しかし、これに十分な答えがあるとは思えない。急激に改革が進められていくなかで、将来に向けてのしっかりした考え方を学会ではもっていなければいけないだろうと思います。私自身は非常にシンプルな見方です。建築基準法はできたときから具合が悪い、とは官僚には言えない。自分たちの先輩がそれをよしとして守ってきて、その範囲で努力してきたからね。はじめに建築基準法ありきであって、建設省のおっしゃることをすべて前提にして、あるいは建築基準法をすべて批判しないものとして進んでいる。そこに誤りがある。こういうことを言うのは学会しかないと思います。

 おかしなことですが、建築基準法のいい点、悪い点を一番よくご存じなのはお役所です。調査しておられる。ところが学者は知らない。私は法規の専門家ではありませが、地震の少し前から設計書どおりのものがきちっとできてない、設計者の不備がいわゆる欠陥建築の元になってる。それを何とか正したいと、いろいろな講習会や委員会を関西でやってきました。だけど根本に官、公のサポートがないとうまくいかない。いかにモラルを説いたり、学習を説いても、どこかでぴりっと公の支援がないとうまくいかないと思っていました。アメリカの法律の一つでUBCというのがある。この工事監理にかかわる一つの制度は、公のかかわり、公が指導して民がいかにするべきか、非常におもしろいと思いました。それを盛んに言うのですが、お金がかかりますし、なかなかうまくいかない。その線は今度の立法の案には採り入れられていると思いますが、根本的な問題をついていない。というのは基準法の最大の問題点は「確認」という非常に不明確な制度にあるんです。「確認」というのは実態として不可能だと思います。建築図書はこんなにありますから、適法性があることをコンファームするのは不可能なんです。大きい建築物は21日、簡単な建築物は7日間でやらなければいけない。これは不可能だ、不可能を強いている。基準法ができたころは大したことはなかったと思うんです、昭和25年ですからね。そのシチュエーションと全然違います。一種の性善説の法律で、ある意味で規制緩和をはじめからしっぱなしなんです。

 

 学者は評論家

 梅澤 原子力発電所の場合の安全性は、フィードバックシステムを入れて、技術で可能なかぎりのものを検討するわけです。ただある範囲内に限り安全です、ということなんです。しかし、予測できないことは起こります。チェルノブイリだってそうだと思います。抜け手があった、人工的な抜け手か、技術の抜け手があるわけです。これは技術には全部つきものだと思います。建築基準法でやっても完全なものはないと思います。「確認」は、せめて満足につくっているかどうかです。極端に言うと手を抜いているのでは?、ということが常にある。ことに建築にはそれが多いのではないかと感じています、隠しているんですからね。

 飯田 いまお話を伺っていると、全然安全になりそうもない気がするんです。安全というものは基本的に自己責任なんです。

 建築家というのは何なのかデフィニションがわからない。建築家というのはデザイナーなのか。構造設計もある。設備もある。どうも不明確である。学者の先生は評論家だと思っているわけです。はたでものを言っている。それが実現されようとどうしようと、そんなものはいいんだ。われわれは言ったじゃないかということが、あとで立証できればいいんだと言っている感じがするわけです。

 防災研究家もそうなんです。ぼくは研究家と言いまして、防災実施家とは言わない。ものを言っているだけなんです。基本的な考え方がないまま議論しても、実際上の安全は成立しないというのがぼくの考え方です。

 これでは絶対に安全にならないと思う。建築基準法は最低基準だと思います。これで建っていればいいんですよというだけ。防災問題でも言えるんです。この程度やっていたら国は認可しますよ。日本の社会というのは国が認めてくれたらそれでいいという感じがある。建築基準法は細かいところまで決めなくていい。完全に安全ではないという前提の下に、建築基準法を定めるべきだと思います。これは最低基準である。

 

 レーティング機関の必要

 飯沢 建築学会は、レーティングする機関をなぜ損害保険会社と一緒になってつくらないのか。なぜ国の第三者機関としてつくろうとするのか。それが問題なんです。官僚の話がいろいろ出てますが、学会も、それから先生方も官僚なんです。絶対損保会社と組むべきなんです。損保会社は料率と自分のロスレシオとの関係で、ある基準をつくるんです。これは経済原則なんです。そしてレーティング、格付けの会社をつくる。

 ここの保険料はいくらかを決める格付け機関をつくって、あなたのところの安全はグレードA、あんたのところはグレードC。おれは建築費にそれだけのお金しか出してないんだ、だからグレードCでいいんだよ、保険料も高くていいんだよ。いざというときには死んでもいいんだよ、ビルはつぶれてもいいんだよ。それは任せるべきだと思います。自分の財産の保全と自分の人命とかは個人が決めていい問題なんです。それまで官とか国に委ねるという思想自体が少し的外れだと思います。

 梅澤 安全は個人のものですからね。

 横尾 インターナショナルに見て、ミニマムリクワイアメントとしての建築の法規はある。土木は法規がないんです。

 飯田 それはつくったらいいですね。

 横尾 土木は横断道路の強度の規定なんかは国ではもってない。土木学会とかいろいろなところでもっている。それを勘案して今度の東京横断の橋はどういう強度にしようかというのを決めるわけです。だからある意味で民です。土木はそういう習慣なんです。建築はどういうわけか、おそらく世界中でミニマムリクワイアメントは要求することになってます。それ以上のことはおっしゃるようなことでやろうと思います。

 火災については、アンダーライターズ・アソシエーションというのがあります。どういうわけか保険屋の基準が日本では官の基準みたいに翻訳されるんです。向こうでは、おっしゃるように火災はほとんど保険屋に任せている。ただ構造強度、それから都市計画の建ぺい率、容積率とかはきちっと守らないといけない。ミニマムリクワイアメントが公共の福祉のためにという広い意味である。しかし、それは絶対という高度な安全性を要求するものではない。それ以上のものは民で決める。

 

 自己責任とミニマムスタンダード

 飯田 原子力発電所の問題と一般的な建築の問題を比較したら、安全論議は何も成立しない。原子力発電所と建築とは違いますよ。それから道路とか橋とかも違う。インフラの問題は別の問題だと思います。

 梅澤 違うけれども、安心するかしないかは自分だから。飛行機だってそうでしょう。怖いと思うけれども、自分だけは大丈夫と思う。要するにがけの下に住んでいても、ここだけは大丈夫という、自分の責任で安心をもっているわけですね。ただ日本の国民性か何か知らないけれども、何か事故が起こると国の責任だと思う。そこがちょっと違うんです。

 尾島 実は今度の基準法改正で仕様規定から性能規定になったんです。これは大問題です。グローバルスタンダードは基本的には性能規定で、それに併せて自己責任をもつ、資格においても。建築家が基本的には責任をもって、責任がもてなければ保険制度でカヴァーする。日本は護送船団で国が面倒をみる。国のミニマムスタンダードがすべてなんです。

 横尾 日本に性能規定がどこまでなじむか。イギリスで始まったことで、サッチャーが1984年に導入したわけです。構造は性能規定はなかなか難しい。イギリスでもたしか性能規定になってない。仕様書的規定です。

 たとえば音とか熱とか光、防火、耐火はどのくらいか、こういうのは性能規定になるわけです。数値計算だって、これはだいたいできるわけです。こういう分野と分けなければいけない。神戸の被害を見て、性能規定で物事が片づくと思っていたら、自然の恐ろしさ、経済の実態を知らなすぎる。そういうものではないと思います。

 尾島 性能規定ができないから、基本的にはみなし性能です。実際には仕様で、この性能はこういうものですよというみなし性能仕様ですね。範例ができてしまうと、性能規定という名の下に結果としては仕様規定になってしまう。

 横尾 それを性能規定と言ったらいけない。

 尾島 事実上そういう形にいまの基準法改正はなっているではないかと思う。

 横尾 責任となるとシステムができてない。保険の制度もないし、それから資格、権限というのが曖昧模糊としたままでいま進んでいる。このへんをひとつひとつ固めて、西欧並みの透明性とかを徐々に確保していくべきだと思うんです。

 

 保険制度

 飯田 保険制度をつくったらいいじゃないですか。すぐつくれますよ。ぼくがつくりましょうか。いままでの社会的な概念にとらわれたなかでやっていこうとするから、いろいろな制約ができてくる。やはり保険制度をつくったほうがいいですよ。

 尾島 そうは言うものの、学会は実際行為はできない、評価だけしかできない。

 梅澤 今度長老の先生方が議論して下さるから、そうすべきだという結論をぼくらはねらっているわけです。学者は評論家だと飯田先生はおっしゃったけれども、そこから出たものをぼくらが生かすので、言っていただかないと生かしようがない。

 横尾 どうなんでしょうね、火災関係は保険ではほとんどヨーロッパ並みですね。日本では法律であまり規制しすぎる。性能規定にして、あと保険でバックアップする。

 梅澤 保険は民間がやりまして、それに乗ってくる人が入れるようにする。日本の保険はだいたい生命保険から始まったんですね。アメリカは最初は傷害保険から始まっている。出所が違う。

 飯田 英国は海上保険です。詐欺師が始めたんです。いま時代がすごく動いているから、保険も簡単にできるんですよ。

 尾島 通産省に受け入れてほしいんですよ。

 飯田 少し遅れたっていいじゃないですか。

 尾島 ですから、横尾委員会に託しているわけなんです。ぜひやりたい。

 梅澤 いまの日本の建築の保険なんていうのは、国がつくった基準だけで見に行かないで入っているんですから、グレードも何もないですよ。木造の何とかというと、はい、いくらと決まっている。軽井沢であろうと川口であろうと同じ値段です。

 梅澤 地震保険も、阪神淡路大震災のあとでも、そんなに増えていません。地震保険は半額になっただけで、元々ないわけですから。

 横尾 保険の問題ということで、逃げることが多いわけです。保険がないからとか、PL法がどうだとかで。

 

 会長の責任

 飯田 それは会長の責任だと思いますね。

 尾島 ですから横尾委員会に期待したいんです。基準法改正の国会審議中の段階で学会が異議申し立てすると、性能評価の話ですらなくなる。そういうなかで建議書的な形でぜひともこういったことを議論しておいてほしいという要望だけを出したんです。具体的には、性能評価の名の下に、仕様規定のようなものをやめなければいけない。その問題は広く国民に知ってもらう必要がある。それからお金がかかることに対しても理解が必要です。ぜひとも討議してほしいと要望したんです。

 横尾 検討すべきだということは提言できる。

 梅澤 検討の結果、この次にやる検討はここですよと具体性を出してくださればいいでしょう。

 横尾 簡単ではないと思います。でも具体的にどこか民間でスタートできるようなことが一つ何か言えれば動き出す可能性があります。

 梅澤 素人から見れば、先生が新しい会社をつくればいいんだものね。保険会社、新しい会社をつくる。ほんとうを言えばそうですね。

 飯田 払うのが嫌だという建築家の人たちね。おれのつくるものは安全だからと。だから払わなくてもいいんですよ。その代わりいざというときには、あなたが全責任を背負いますよと。好むと好まざるとによらず、訴訟社会になると思います。それがいいと思うんです。アメリカみたいにエスカレーションしてはだめですが。そうなった場合には入らざるをえないことになりますからね。

 尾島 飯田会長がおっしゃっていることは、学会の理事会の中にも、賛同の声があります。この際、責任をとってもかまわないからやろうではないかということね。

 

 設計者の責任

 横尾 責任をとるというのはどういうことですか。

 尾島 設計者が、自己責任、リスクに対して責任を取る。その代わりお金が欲しい、名誉も欲しい。

 横尾 それは設計者ではないでしょう。

 尾島 構造系の人でもいいですが、多くの場合、設計者であり、教育者でもある。

 横尾 評論家だからね。

 梅澤 いままでつくったものの悪口が出てきてしまう。その責任を背負うというんですか。

 尾島 いえ、いままでではなくて、これから性能評価の名の下に責任をとるわけです。新しい技術を取り入れたときに、何らかの設計責任があるわけです。設計責任を取る代わりにそれ相応のお金がかかる。

 梅澤 現在、確認審査するお金を取ってないのがまずいんですよ。そういう世間のしきたりにもっていってしまえば、みんな払う。建築会社が悪いのは悪いけれども、設計からみんな一緒にやって下請けに出してやっているわけでしょう。ほんとうは設計は別、検査は別、それでいかないと本物はできてこないですよ。

 尾島 そのためには発注者も、設計者もいろいろな意味で責任を取らなければいけない、お金もかかる。

 梅澤 発注者がそう思ってくれれば、みんなそうなりますよ。

 尾島 そのための啓蒙活動が必要です。

 飯田 設計家が自分を守るために入らなければいけないんですよ。そのためにはいいゼネコンを選ばなければいけない。ゼネコンは保険を負担しなければいけない。

 尾島 そういう新しい体系にもっていくべきだと思います。

 飯田 そういう循環にもってこなければだめですね。

 尾島 その主張はかなりあって、そのためには、基準法改正に対しても反対すべきだという強い意見さえあったんです。まず反対しておいて世論を起こすべきだという意見。もう一つ、そうは言うものの、とりあえず性能評価という新しい考え方が出たのだから、それはそれで受け入れておいて、あと時間をかけて施行令の中で議論しようという主張と、両論あったんです。いまの学会の理事会では後者しか選択できなかった。

 

 民と官・・・設計施工一貫と分離

 梅澤 気をつけなければいけないのは、行政改革をやっているときに検査確認を国は喜んでやりかねない。民がやらなければいけないことをはっきりさせていただく。ついお金が出るなら国からもらえばという感じを持つと、もう間違える。

 尾島 受益者負担の原則です。中間検査も民間に開放するけれども、それも基本的には受益者負担です。

 飯田 民間に開放するとおっしゃったでしょう。その考え方が違うんです。なぜ開放するんですか。何から解放するんですか、官から解放するんですか。

 横尾 民間に開放するというけれども、それはとても難しい。たとえば設計・施工分離というのはヨーロッパは当たり前のことです。日本ではなぜそうでないか。建築学会がアーキテクトとエンジニアの集まりであることも、資格問題がちゃんぽんになっているのにも問題がある。構造安全性なんていうのは、いいエンジニアを雇うことから始まるのですが、いまアーキテクトの判子で全部いいようになっている。このへんの矛盾もあります。

 なぜアーキテクトが西洋と違うものが日本でできあがったか。日本に独特な、アーキテクトが構造を知っているべきだということにむしろ重点を置いてきた歴史があるわけです。ある意味で日本の後進性ですね。契約観念の未成立なときに、しかも技術は大工さんの技術だけで非常に勘のいい技術があって、そこにアーキテクト、建築家の概念が移植されてできてきた。

 飯田 私のところも建築をつくりますよ。基本的には設計と設計監理です。いわゆる建てるところ、施工とは別にするという考え方に立っています。だけど最近感じているのは、ゼネコンに全部任せても同じようなものだなということです。その原因はどこにあるんですか。

 横尾 ゼネコンのレベルが高い。

 飯田 相対的に建築家のレベルが低い。実態はそういうふうに流れている。建築家はあまり機能しないという感じがあるわけです。

 横尾 形式的には分けろということです。民間の仕事はどうでもいいんですよ。要するに公共のお金を使ったものは設計・施工は分離が原則です。

 飯田 民間の仕事も大事にしていただかないと困る。

 横尾 それはお施主さんがお考えになればいいことで、いい事務所を選択されればいい。国民の税金を使ってやる事業については、透明性とか公平性がないと具合が悪い。だから官工事については設計施工分離に日本ではいまだに固執しているわけです。日本のゼネコンは設計施工一貫です。ところが最近、外国から見て、具合がいい、うまくいく、そのまねをするということで、デザインビルドという思想が出てきた。設計と施工と一緒にしてコンペをやる、公共事業でですよ。アメリカあたりは古くからコスト・プラス・フィーシステム、コストをちゃんと計算して、それにフィーをかけて取るというのがある。日本ではそういうのがほとんどない。何十億という建物がミニマムスタンダード一本でどかんと建つんです。

 飯田 ぼくも経験があるのですが、大きな建物でセキュリティーの設計をやる。その場合には仕事は取れない、セコムという会社は外れなければいけない。設計だけしかできないんです、セキュリティーのシステムを設計して、機器を納入できない。大事なノウハウのある施工が出来ない。

 尾島 公の建物ですか。

 飯田 公の建物です。民間のものはどうということはないですよ。公の建物の場合にはそれが多いです、大きなやつは。ですから本来的にはできる仕組みのはずなんです。なぜできないのかということを解明したほうがいいような気がします。

 尾島 でもなぜかというのはおわかりなんでしょう。

 飯田 それはゼネコンのほうがより能力をもっているということですよ。総体的な構造について、何についてももっているということです。だけどニワトリが先かタマゴが先かという論議ですから、まず公共工事に関してはそれを決めさせたほうがいいと思います、設計と施工は分離と。

 横尾 公共工事はいままでそうです、形のうえではね。

 

 ゼネコンのスレイブ

 飯田 でも設計がゼネコンのスレイブになっているからいけないのではないですか。スレイブというとたいへん差し障りがある言葉かもしれないけれども、次にまた仕事が来るかもしれないという期待がある。

 横尾 ギブ・アンド・テイクみたいなことがありましてね。今度面倒をみてやるから、今度色をつけてやるということが至る所である。民間であれ、役所さえそれをやるわけです。それがあるものだから、無理してでも今度は受注しておかなければいけない。その都度、その都度、合理的な生産がなされてないわけです。

 梅澤 ゼネコンに実力があるというけれども、役所の建物をつくろうとすると、「地建」があるわけですね。みんなそこへ持っていかなければできない。そうするとそこの基準でやってしまうから、いま各社が基準を持っているわけではないでしょうから、そこへみんないってしまうわけです。集中してそこでお金を決めるから、安いのもみんなそこで決まってしまう。

 横尾 公共工事のお金の決め方をもう少し合理化しなければいけない。ISO9000にアプライしたことによって、そういう方向へもっていければいいと思いますが、建設業がISO9000を取りましたというけれども、どういう内容で取っているのか、わからない。

 梅澤 飯田会長がおっしゃったように、三つに分ければはっきりしてきますよ。確認と設計と建設、この三つに分けるだけで経済的にわかってきますよ。

 

 建築確認業務

 梅澤 確認というのは第三者がやらなければいけないわけでしょう。

 尾島 いま確認受理業務は基本的には公がやっているんですね。

 横尾 これは公です。今度開放するといっても代行です。業務委託です。

 飯田 それは官の行為ですか。

 尾島 そうです。

 横尾 確認というのは官の行為、建築基準法で定められています。

 飯田 あれは形式的で、われわれは全然信用してないですよ。信用してないものは確認と言えないのではないですか。

 梅澤 途中全然来なくて、できたものを見て確認するだけです。

 飯田 外見を見てよろしいという。鉄筋を結わえてあるかどうかわからないのにOKという。

 尾島 今度の改正では確認業務、検査業務に関しても民間に開放するという形になります。

 梅澤 ぼくの意見では、技術士ではないけれども、環境士とか、ありますね。ああいうものをつくったらいいと思いますよ、独立の確認士というのを。

 横尾 日弁連は住宅にかぎって第三セクターをつくれと言っています。その種の話はこれから出てくると思います。

余りにも曖昧な建築界Ⅱ・・・百パーセント安全はない

 

 専門の弁護士がいないから裁判に負ける

 飯田 建築というのはひどいですね。まるでだめですね。ちょっと申し上げたいけれども、たとえば私が自分のうちをつくったとしますね。クレームがあるとして調停に持ちかけますね。絶対に負けます。

 尾島 何と何との調停ですか。

 飯田 損害賠償の裁判でもいいんですよ。

 尾島 だれとだれとの裁判でだれが負けるんですか。

 飯田 原告側が負けますよ、損害をこうむった施主が負けます。

 尾島 建設会社が勝つんですか。

 飯田 ええ、どんな問題があろうと。たとえば全部請け負わせているわけですから、構造の問題とは違いますが、空調がよくない、隣を涼しくしたらこちらが暑くなるとかで住むに耐えない。これをやっても負けますね。

 尾島 いまのお話はすべてゼネコンが請け負った場合ですね。確認申請は国に、安全はミニマムスタンダードで国が責任をもつ。それが間違って壊れても天災であると片づけて、ゼネコンは責任を負わない。

 横尾 おそらくセコムでおやりになっているようなものは、建築基準法とはあまり関係ないことではないかと思います。

 飯田 ぼくは法律に関係なくやろうと思っています。

 横尾 契約上の問題ではないんですか。契約の不履行とか。

 飯田 セコムの話をしているわけではないです。ぼくは法律に頼りませんから。

 横尾  法律はできるだけしりぞいたほうがいいと思います、法律は出ないほうがいい。

 飯田 いま申しあげているのは、なぜ勝てないのだろうかということです。

 横尾 それは契約図書の問題ではないですか。

 飯田 違うんです。それに専門の弁護士がいないんです。

 横尾 ゼネコンは雇っていますね。 

 

 日本の建築家は信用できない

 飯田 こちらもそれなりの優秀な弁護士を雇いますが。一つはきっちりと検査する人間がいないでしょう。ですから曖昧なうちに負けるわけです。だから実に曖昧な世界なんです。曖昧な世界の中で建築基準法だとか、何とかという。だから言うことを言っても無駄だと思うし、お金を払う側の施主の権利はほとんどないです。片務契約ですよ。契約書は片務契約ではないですよ、双務契約です。

 尾島 設計・施工が分かれていましたら、設計図のとおりなっているかどうかということでもって検査がチェックできますね。そのためにふつうは設計・施工を分けますね。

 飯田 分けなければだめです。

 尾島 そして設計者に現場監督をお願いしているわけですね。設計者は基本的には施主側に立っているという形で、動いていますよね。

 飯田 そうですね。でも設計者は適切な監査をするでしょうか。むしろ設計会社を訴えたほうがいいんですね。

 尾島 そういうこともあります。

 横尾 法の問題といまの契約の問題と別にしなければいけない。法はミニマムリクワイアメントで、高度な要求は契約条文の中に入っていると思っています。

 飯田 こんなに厚い詳細設計の図面が来て、そのとおりやって、全部任せているわけです、こちらは素人ですから。ところが空調がうまく動かない、全部結露しちゃう。下にある材料は全部腐ってしまうという状態でも負けますね。勝てないんです。ですから実のところ全然信用してないですよ。不信感をもっているわけです。設備関係はむちゃくちゃ。だから、アメリカの会社を連れてきてやらせたんです。それなら平気です。それから下水道の設計。アメリカからエンジニアを連れてきてやらせたほうがよほどいい。

 

 建築界の総懺悔

 尾島 建築家の責任、設計者の責任、あるいは施工監理の責任等を含めて、ちゃんと誠実な仕事をしてきたか。しかも年代を超えて耐えうるようなものをつくってきたかとか、いろいろな反省があるんですね。一回総懺悔すべきだという話があります。

 横尾 懺悔したから直るものでもないと思います。謝りに行ったから許してくれるという問題でもないと思う。

 尾島 でも意識は必要です。その意識さえない。

 梅澤 学会だって、いまのゼネコンのあり方にものを言ったっていいわけでしょう。言う人がいないだけですよ。

 尾島 おっしゃることはもっともだし、認めます。そういったことを脱皮しなければいけない。これまである意味で豊かすぎた。そんなことを考えなくても、自意識をもたなくても仕事がなだれ込んできたんです。そういう社会だったということもお認めいただいて、でもこれからはそうはいかない。しかも国際社会のなかでグローバルスタンダードも受け入れなければいけない。アングロ‐サクソンのスタンダードの中で、責任に対してかなり自己責任体制が出てくるだろう。したがって先ほど飯田会長がおっしゃったように、本来は建築基準法なんていうのは最小限のスタンダードにしていただいて、あとは自己責任でやろう。そして企業も設計・施工責任のなかで解決していくべきだという主張は、相当多いんです。

 横尾 それが骨格です。ただそこで官の問題がある。官というよりもレフェリーだと思う。要するに自由競争社会で、こうしなければいけないところを見ていればいいわけです。要は自由競争なんです。ミニマムリクワイアメントというのは、サッカーならサッカー・フィールドの線を引いているようなものだと思うんです。あとはオフサイドとか何だか難しいルールもありますね。レフェリーはああいうところを見ている。それが役人であって、あとは自由にしなさい。もう少し高度の技術を要求するのだったら、民同士というか、あるいは施主同士で決めていけばいい。そういうことだ。そこまで役所が介入しないほうがいい。

 梅澤 これからはそうしなければいけないでしょう。

 

 レフェリー集団としてのエイジェンシー

 横尾 いままでは官と民が癒着というか、もちつもたれつで、官がなるべく物事を決めて、民から要求があればこういう委員会をつくりましょうというので、またそこで財団法人何々ができる。

 梅澤 いままでのゼネコンは役所を逆に使いすぎたと思います。

 飯田 だからいまのような状態になってしまうんですね。

 横尾 ぼくはゼネコンに友人もいますから、現状は認めます。たとえば官庁が悪いというけれども、ぼくが官僚だったら似たことをやるだろうし、ゼネコンだったら似たことをやるし、批評家であれば同じことをやる。同じ日本社会の一つの聖域構造の中に原因がある。それを克服することを考えていかないと、ほかに道はないと思っています。

 要するに縦社会の横働き。われわれはあくまでも縦社会の人間だと肯定しなければいけない。ただ横ばかり行ってもできない。縦というのは命令と実行のシステムです。横のシステムは違う。経済企画庁長官が大臣になってもおかしい。横でなければいけない。こういう問題が起こったときはいつも経済企画庁とか国土庁が、レフェリー集団にならなければいけない。それを間違えている、はじめからエージェンシーですよ。エージェンシーを大臣にしたらいかんと思う。総裁なら総裁でいい。そこのところが狂っていると思います。

 今度、金融監督庁ができますが、そういう思想があるのかないのか。その思想さえ徹底して、たとえばレフェリーが足りないときは学会が出ていく。学会というか民間人を登用すべきですよ。そういうことではないかと思っています。要するにそういう新しい社会に対応する心構えをわれわれはすべてもっている。そのなかで保険の一つのトライアルが出てくれば、設備の問題なんかは非常におもしろい。

 

  とにかく保険がキー

 飯田 保険というのはキーだと思います。保険会社は真剣にレーティングしますよ、自分にかぶってきますから。

 横尾 ことに設備に関しておもしろい。

 飯田 設備と構造。

 横尾 地震というと、これはようしません。地震はわからない。トップがわからない、上限がわからない、現象が。計算方式はあるけれども、わかったような振りをしているだけの話でね。

 飯田 地震というのはどういうところからどういう被害が来るのかというのはわからないと思います。でもある種の答えが、どういう構造が損害率として平均に少ないかというのは出ると思います。何が倒れるかはわかりません。でも平均して少ないというのは出ると思います。いま火災保険のロスレシオは38%です。これは保険会社が稼ぎすぎなんです。粗利益で62%あるわけですから。7月から保険が自由化されるでしょう。いまチャンスなんです、料率自由化で。

 梅澤 今度、耐震実験でそれが出てきます。震度7に耐えるのはこの程度というのが出てきます。

 尾島 建築分野に大々的に保険制度を導入すべきだという意見ですね。そのほうが安心に結びつく。

 飯田 そう思います。

 横尾 設備の規定なんかは保険の基準というのを知っているのかと設備をやっている学者に聞くと、知らないと言うんです。

 尾島 横尾委員会にそういう部会をつくってください。

 横尾 保険会社の論理でいくと、また問題がある。

 飯田 保険会社のサラリーマンが出てくるから駄目なんです。だからそこへ英国のロイズでもいいですから、英国の保険会社に日本のスタッフを入れたらいいですよ。

 梅澤 人間が安心しようと思ったときには、カネで買う以外にないでしょう。

 飯田 その代わり、火災保険料がいままでより20%下がるとか、自動車保険料が10%くらい下がる。みんな下がってくるわけです。その分を建築家に払ったらいいんですよ。これは1回ですから。

 尾島 おっしゃるとおりで、設備系の安全施策に対していろいろなものが付きますね、防炎から消火施設から、ああいったものを保険制度でカヴァーしてというのは大事ですね。

 横尾 おもしろいのは、アメリカはスプリンクラーだけで、スプリンクラーさえ付いていればいい、防火戸も何もないという話です。

 飯田 学会がサブシディアリーをつくったらどうですか、カンパニーを。

 尾島 横尾委員会がアドバイスしたらどうですか。

 飯田 ぼくが再保険を受けますよ。

 横尾 保険業界は何も知りませんが、どこかにおっしゃっているなかに、これはいけるなというのが、ぼくの勘ですが、設備に関してあるなという気がします。

 飯田 構造もあります。

 横尾 地震保険というのは無理なような気がする。

 飯田 あれは平均ですから。傷害だって平均です。すべて平均です。保険のロジックというのは全部平均なんですよ、自動車保険でも。どこの県で多いから、あんたのところは上げますよということはしないわけです。そうなんです。

 梅澤 いま変えるのはおもしろいと思いますよ。

 

 百パーセントと絶対

 飯田 たとえばぼくがビルをつくるとするでしょう。Cランクをつくりますよ。Aランクはつくりません、建築費が坪20万違ったら。それでいいと思います。それはCを覚悟するということなんです。覚悟しないでCをつくるからおかしくなるわけでしょう。

 尾島 そういう考え方、Cであるとか評価できるような体制が社会にいる。評価、検査できる技術者なり、あるいはそういう機関なりが存在してはじめて、それは可能ですね。

 飯田 保険会社で機構をつくらせれば、すぐできますよ。

 梅澤 百パーセントということはないんです。人間は死ぬから絶対というのは使えるけれども。

 横尾 ぼくは絶対安全はないということをいつでも冒頭に言うんです。ところが学園紛争のときに生物の友だちができまして、おれは逆に言うんだ、人間は絶対死ぬんだと。ああ、そうかと。絶対、フィジカルアッパーリミットというのはありうるんです。ところがわからない。知ったとしても文明が絶えてしまってから役立つようなものだったら、人類の生活と反しますね。

 飯田 安全のコストを横断アクアラインに10兆かけるというならば、95%くらいは大丈夫。80%だと1兆6000億だ。どちらを選択しますかという問題だと思うんです。社会の選択の問題なんです。

 横尾 それは文明の問題だとも思います。文化というか、歴史をどう見るか。先のことは知らんという姿勢もあるわけです。なりふりかまわずやってしまえと。だけど、孫子の代まできちっとしようというのもある。時代の変動で、変わるものだと思います。

 

 倒れたのは正解か

 梅澤 神戸では高速道路が倒れたけれども、ぼくらは孫子の代までもつと思っていました。

 横尾 信じなかったけれども倒れたんです。それだけのことです。アメリカの基準より厳しくしているのに倒れた。ノースリッジで落ちたのでアメリカの基準を笑ったわけです。日本は倍か3倍くらいの強度をもたせているんだから倒れっこないと言ったら、神戸で倒れた。えらいこっちゃということになった。

 梅澤 ただぼくらは高速道路は 100年もつと思っているでしょう。

 横尾 100年じゃないんだ。要するに 400年。慶長の地震は1600年ですね。ちょうど 400年前ですよ。地質の先生なんかは1000年にいっぺんくらいのことだという。

 梅澤 そうですね。

 横尾 とにかく400年にいっぺんが起こった。

 飯田 それで倒れていいんですか。

 横尾 倒れていいことはないよ、倒れないつもりでやったのだったらいいんじゃない。

 飯田 倒れるつもりでおやりになったのなら正解だと思います。

 横尾 いえ、それは正解ではない。それ以上のが来れば倒れるのに決まっている。

 飯田 だから、それ以上のやつが来たら倒れるんだよと。

 横尾 絶対安全というのはこの世にないと言うんだからね。

 飯田 それを承知でおやりになったのなら正解ですよ。

 

 災害評価マトリクス

 横尾 ぼくはこういう考えをもっているんです。設計者は自分の設計に傷がほしくないから、大丈夫ですと言いたいわけだ。だけど自然災害というのはそれを超えることがある。もし超えたらどうなるんですかという一つの設問がなければいけない。要するに防災というのは非常に静的な状態、構えの状態と戦いの状態、復旧の状態とわけて考える必要がある。

 飯田 防災の学者は一番簡単なんですよ。もし起これば不可抗力という。想定できないことが起こった。これが一番簡単なんですよ。

 横尾 言い訳のためにはそれでいいけれども、あいすまんという問題があるわけです。

 飯田 あいすまんというのはシステムではありませんね。

 横尾 社会に対する、それこそ責任です。ぼくの書いたものの中にあるのですが、災害評価マトリックスという考え方と、もう一つはもしも起こったらということに対する知恵がある。ぼくが見て、原子力なんていうのはそれがずいぶん多いです。たいへん圧迫感がある。自分のは大丈夫だと言うのを抑えて、もしも起こったらどのくらいの災害があるか。ぼくが考えたのは、万博の年に天神橋6丁目というところでガス爆発があった。そのときに技術屋は処罰されましたが、あなたがあの技術屋だったら、ちゃんとした措置が取れたか。なかなか取れない。原因をだいたい推定しまして、あとから詳細に聞いたらそのとおりだということなんです。それを事前にわかる能力がある。参謀会議、スタッフミーティングで討論をしてはじめて見つかるものです。それでも見つからないこともある。エマージェンシーというか、戦闘態勢がわかっていなければできない、危機管理は。それが欠けていると思います。

 

 建物の死亡診断書

 横尾 工学と医学というのは命の安全に関して少し違うところがある、とこの間吉武先生に教わったんです。

 飯田 少しは違うけれども……。

 横尾 セキュリティーもほんとうのセキュリティーは命に一番かかわる。

 梅澤 お医者さんは悪いけれども博士を取ってもみんな統計ですね。機械でやって、統計を取って、それで病気がどうのこうのという。

 飯田 お医者さんと建築家の違うところですが、亡くなった五島昇さんに、体が悪くなったら最低5人の医者にかかれと言われた。

 横尾 建築を頼むときには5人に頼まない、1人しか頼まない。

 飯田 決めたら1人にしか頼まない。それは覚悟しなければいけないというところが違いますね。お医者さんに対しては、何人かに診てもらうという選択肢があるけれども、建築の場合には最初には選択肢はあるけれども、決めたらその人でいく。

 尾島 医者は死亡診断書を書くんです。建築家も建物の死亡診断書を書けるような能力があるのか。

 飯田 ぼくのうちは死亡診断書を書いてもらわなければいけない。

 尾島 書く能力があるかどうか、このレベルで必ず壊れますとかね。

 梅澤 だから先ほどの検査官ができれば、それができる。確認ができればできるはずでしょう。

 尾島 その能力がある建築家があまりにも少なすぎる。

 飯田 医者は死んだからしようがないから書くんです。建物は死なないですから。だめですとは絶対にいわない。その前は医者も誤診だとは言わないんですよ。

 梅澤 ある建物はホスピスに入れればいいじゃないですか。

 尾島 社会が書かせる権利を与えていますね。建築家にも書かせる権利を与えて、飯田会長のお宅はもうだめですと言って建築家がサインしたときに、ほんとうにそれを壊すということになれば、相当の力ですね。

 横尾 住宅でできるかできないかは別として、公共建物にはありうることですね。

 梅澤 そうしたらいいじゃないですか。ぼくはそう思います。事後にこうなるというのはただ言っているだけです。環境が変われば、役に立たない。新しい材料が出てくると違ってくる。

 飯田 2015年くらいに現在のコンピューターのスピードが5000倍から1万倍になると言われています。新素材が出てくる。そのへんを見通しての建築の安全に関する視野があるんですか。

 飯田 新素材というのは出てくるのではないですか。

 梅澤 そう、だからその間に新素材が出ますからね。

 飯田 そうすると強度から何からみんな変わってきますから。そこまで建築学会がキャッチアップできるかどうか。

 

 システムのサイクル

 飯田 アメリカがおもしろいのは、25年たてば平均的に住宅は全部入れ替わる。25年の期間を設けて、しかるべきところには住宅も火災感知器を付ける。それから経済学的に40年周期説がある。少なくとも30年間はいままでの古いシステムを変えるためにかかる。いま日本は、すべてのシステムが、人間の考え方から何から変わってきていますから、混乱しているでしょう。

 戦後、混乱期10年を除いて、システムを変えて20年間成長したわけです。そこのところで制度疲労を起こしているわけです。制度疲労と人間の考え方が変わるんです。一つはデジタル革命です。人間の考え方が変わる。これを直すのに20年かかる。そうするとあと10年くらいかかる。そうするとあと20年間は繁栄するんです。だから、あと10年ですよ。

 横尾 40年周期説はありますね。ぼくも聞いていますが、だいたい当たっているような気がします。

 飯田 企業がディスクローズするようになってきた、コーポレートガバナンスを考えるようになってきた。いま消費が悪いというのは、技術革新とデジタル革命と一緒に、人間の心が変わったから消費構造が変わっただけなんです。その混乱なんです。日本はいま不景気ではないですよ。不景気でなぜこんなにみんな豊かな生活をしているのか。ここのところ技術革新が激しいですから、もっと早く移り変わると思います、政策さえ正しければ。

 尾島 今世紀、もうしばらくしたらまた景気が回復し、リニューアルが達成される。混乱期は間もなく脱しつつある。いま最悪のとき。

 飯田 いま最悪だと思います。

 尾島 最悪のときには一つのチャンスだ。

 梅澤 最悪が一番チャンスですよ。

 

 土地の輸入

 飯田 いま非常にチャンスだと思うのは、土地が下がり続けているでしょう。これはまだ下がります。というのはウルグアイ・ラウンドと情報化で、土地が輸入できるようになっていますからね。土地は輸入できないんだというのはうそで、いま土地は輸入できているわけです。いま食べているもの、蕎麦だって何だって、ほとんど外国から輸入しているわけでしょう。これは土地の輸入ですよね。

 横尾 でも国産主義者というか自給主義者から言うと、そういう発想はしませんよ。先進諸国で自給率がフランスだって60%とか70%ですね。自給率を上げないといざというときにまずいという。

 飯田 だから遅れているんです。英国で田園生活ができるようになったのは、50年間土地が下がり続けたからですから。輸送手段ができたので、いままで自分のところでつくっていたものをつくらなくてすんだ。アメリカから輸入されてくる。だから農地はなくなる、やりようもないから芝生にしておいて、雑草地にしていつも乗る馬を預けておく。

 尾島 日本の都市も最近、郊外は安くなりましたね。田舎のほうへ行くとほんとうにいい立派な森林公園ができています。

 飯田 土地が輸入できるようになるから、日本の国土は狭隘だという考え方は違うと思います。

 横尾 僕は国土狭隘論だけれど、輸入できたらいいですね。輸入というか、そこで経済がうまくいけばね。

 飯田 あとはゾーニングですよね。土地が狭隘である、それがバブルの論理なんです。だから土地は上がるんだと。そうではないです。土地は輸入できるんだということね。代議士は輸入できないから困るわけです。官僚は輸入できないから困るんです。

 横尾 学者は輸入できる。

 飯田 いや、学者も危ないですよ。一応英語がぺらぺらで、学会が流動化していればいいけどね。

 

 モビリティと地方分権

 梅澤 情報を耳で聞かせても安心になりません、目で見させなければ。原子力はなるべく呼んで見せれば安心する。目と耳でなければだめなんです。情報だけで安心させようとしているけれども、これは絶対無理です。資料の公開とか何とか言っているでしょう。見せても何も安心にならない。見せなければだめです。

 飯田 見せれば安心しますよ。

 尾島 阪神に行ってつぶれたうちを見ると、素人でも、ああ、このうちはつぶれるとわかるんですね。実体験するということはすごいですね。日本列島のモビリティーを高めると体験の機会が増えるわけですね。

 飯田 モビリティーを高める手法が問題なんです。この前、加藤幹事長と会って話をしたけど、財源が足りなければ東名、名神を民間に売れと言うんです。そうすると道路公団も周りの施設がなくなるから、変な子会社はなくなる。まず第1番目は民営化です。僕は財界の常識とは違って、道路をつくれ、という立場なんです。モビリティーが増しますと、情報化インフラと一緒に顔も見ることができればその方がいい。田舎もバーチャルである程度、都会の生活ができるようになる。そうなったときに日本の田舎は変わるんです。田舎が変わると日本全体の豊かさが上がる。実を言うと首都圏機能の移転なんか全然関係ないと思います。ぼくは田舎に住みたいですね。

 横尾 ほんとうに住みたいのは田舎。地方分権と言っているけれども、どういうことになっているのか。

 飯田 基本的には反対ですね。

 尾島 最終的に21世紀後半の日本のあり方というのは、基本的にはイギリス的イメージですか。

 飯田 分権化に関しては、ぼくはアメリカ的なイメージのほうが強いですね。ただ縦構造の中でうまくいい人材が地方に行くかなと思う。

 横尾 だから、横働きのシステムを考えろといってるんです。それができてない。簡単に言えば経済企画庁は横のシステム。国土庁もたぶんそうでしょう。それから直轄の科学技術庁に研究者をもったらいけない。全部民間とか大学とか、そういうことでいい。その代わりブレーンは自由に雇えるようなシステムにする。会計検査院と似たような、横のフリーなシステムに。今度の金融監督庁は3局9課かな、こういう考え方がすでに間違っていると思います。金融監督庁はもっとフリーでなければいけない。

 

 都心居住と田園生活

 飯田 道路ができたら変わりますよ。『アメリカ人』という本がずいぶん前に出ていますよね(アメリカ人(上・下)、デスモンド・ウイルコックス(編)、日本放送出版協会、1980.7)。あれをお読みになりましたか。その中で傑作なところがあって、鉄道ができる前に平均的なアメリカ人の一生の行動半径は2キロだった。鉄道ができるようになって新聞ができた、と書いてあるんです。そのあとデパートメントストアができるようになった。近隣から買いに来るからそういうものができるようになった、ということが書いてありましたが、人間のモビリティーというのは非常に重要なんだなという感じをもっています。

 横尾 ある意味で私は道路はいいと思います。というのは、鉄道、新幹線は経済効果が出るのに非常に時間がかかる、時間がもうれつにかかる。道路は少しずつつくっていくことができるでしょう、時代の変化がありますしね。

 尾島 でも見方によっては、道路と車によって建築や都市が痛めつけられましたね。がたがたになりましたでしょう。コミュニティが崩れたということもある。

 梅澤 集中しているからですよ。

 尾島 でも基本的には人口はもう増えるわけではないですね。流動ももう起こらないでしょうね。

 飯田 流動は近所で起きるんです。近所で起きるというのは、道路さえできれば 300キロ圏です。

 尾島 いまいろいろな意味で高齢化の問題と何かを含めて、都心にもっと集めたほうがいいのではないか。そうすると通勤も減り、エネルギーも平準化され、都心には都市施設もあり、にぎわいもある。いま都心がむしろゴースト化していますからね。今度の国土計画にしても都心居住のほうにむしろ傾いていますよね。

 飯田 あれは間違いだと思います。拡散させるべきだと思います。

 尾島 拡散させたほうが安全には寄与するでしょうね。

 飯田 安全にはなります。それから情報化によって、東京にいてもいなくても仕事はできるようになる。そうすると田園生活を楽しみながら、そういったことができるようになる。

 尾島 そういう国土計画なり都市づくりというのは、安全とか安心に非常に結びつく。

 飯田 そうです、拡散しますから。

 尾島 そして自分のことは自分で自立して守るような体制。

 飯田 心の安心。

 尾島 そのシステムづくりを是非やりたいですね。

 横尾  やあ、今日は随分刺激になりました。

2024年11月17日日曜日

「デザインに無秩序を・・・建築行為の原初を問う われわれは崩れるものを創っているのだという自覚」,吉武泰水名誉会員に聞く,聞き手 鈴木成文 神戸芸術工科大学学長,建築物および都市の安全性・環境保全を目指したパラダイムの視座(座長 横尾義貫 分担執筆),日本建築学会 特別研究課題検討会,1999年3月

 特別研究課題・連載シリーズ 9

「デザインに無秩序を・・・建築行為の原初を問う われわれは崩れるものを創っているのだという自覚」

吉武泰水名誉会員に聞く

 

聞き手

鈴木成文 神戸芸術工科大学学長

 

 建物を壊すということ・・・強制疎開の苦い思い出

 鈴木 関東大震災、戦災、今回の阪神・淡路大震災と経験されましたが、その経験を通じてお感じになっていることからうかがいましょうか。それともつい最近大手術をされました。その経験をまずお伺いしましょうか。

 吉武 手術のことは最後にしましょう。今日お話ししようとすることの結論にとても関係するんです。

 関東大震災は、小学校1年で、新宿の落合にいました。できたばかりの家に入ってまもなくでした。遊んでいたら道が振動して、小石を吹き上げた。物音とほこりがすごかった記憶があります。竹薮が安全だというので、庭の竹薮にしばらくいました。近所に4家族がいて、共同の避難所ということで、その日の夕方から、何日間か過ごしました。もともと大分から東京に移ってきて、4軒一緒に隣り合わせで住んでいました。血縁と地縁、近い関係のものばかりの共同生活でした。隣人たちがいて随分助かったわけです。

 戦災はこの家で遭いました。5月23日(1945)の大空襲で、裏側の関東逓信病院、逓信省の木造倉庫に焼夷弾がたくさん落ちました。夜中の9時か10時頃です。延焼を消し止めたんです。火災実験をやったり、風の流れを調べたのが、すごく役に立ちました。

 鈴木 火災実験は内田祥三先生ですね。

 吉武 木造の家を燃やして観察したら、常に屋根に沿って火は流れる。その観察が役に立ちました。それと思い出すのは強制疎開ですね。家を引っ張って壊すのですが、いやなものです。建物が抵抗するんです。木造家屋はずいぶん丈夫にできているものだと思いました。

 鈴木 私もやりました。柱を引っ張っても、なかなか壊れない。

 吉武 壁を落としたりしてむりやり壊す。より大事なものを守るためのという大義名分があっても、やるべきことじゃない。

 

 石を立てる・・・建築の原初的なかたち

 鈴木 基本的な災害のとらえ方、考え方をまずお聞きしたい。災害にどう対処するかは、上に立つ人の決断が大事だと思います。阪神・淡路大震災では、危機管理、対応のまずさはひどかった。しかし、普段からの災害に対する基本的な考え方の問題がありますね。先生は、ノアの箱舟の話、バベルの塔の話などを通じて、文化史的に、あるいは文明論的に災害を考えておられるわけですが、その辺をご披露願えますか。

 吉武 まず、ヤコブの話があります。ヤコブはカナンの地を北上してきて、途中で野宿します。石を枕に夢を見た。階段があって、神の使いたちが上り下りしている。そこで神の声を聞く。ここは天への門だというので、ヤコブは眠りから覚め、いままで寝ていた石を立てて、そこに油を注いで、祭壇をつくる。そのとき階段は天と地、神と人をつなぐわけです。おじいさんのアブラハムは何百歳も年が上ですが、エジプトの行きと帰り、同じ場所に泊まってそこに祭壇をつくっていた。本人は知らずに、あとから気づきます。いまも昔もかわらず、人と神の特別な場所があるということです。

 もう一つ大事なことがあります。寝てる石は安定していますが、石を立てるということは、安定ではあるけれども、より不安定になります。旧約聖書では、立てるという行為が、非常に重要に扱われる。その部分が聖堂などの献堂式の時に引用されます。そのエピソードはそれだけ重要視されているわけです。

 横たわっているものを立てるということは、建築の原初的なかたちです。安定状態から、もう一つのより不安定な安定状態、セカンダリーな安定状態にしていくこと、それが建築行為の基本です。およそ建築は、もともとの完全な安定状態よりは、より低い安定状態に置かれているものだから、ことがあれば崩壊するのはごくあたりまえのことです。常に崩壊の可能性を持っているのが建築なんです。

 

 ノアの箱舟とバベルの塔

 吉武 ノアの箱舟は自然災害の話ですね。雨が猛烈に降って洪水になる。ノアは命じられたとおりの箱舟をつくってその中に食べ物を入れる。そして、自分の家族と動物を一つがいずつ乗せる。食べ物は個体の生存、つがいは世代の生存、この二つの生存に必要なものを乗せることを神が命じた。それしか書いていません。

 箱舟の大きさはだいたい建築物と同じ大きさです。約 150メートル、幅が25メートル、高さが15メートルで3階建てです。よく箱舟の絵がありますが、建物みたいに描かれていて大変おもしろい。要するに大きな建造物で、木造です。自然材料でつくって、自然災害を受ける。雨によって水かさを増してくると、地面を離れて水面を漂う。漂うということが、自然災害に対処する仕掛けになっています。

 それと対比されるのがバベルの塔の話です。対になっています。バベルの塔は完全に人為的工作物です。つまり工業製品。石の代わりにレンガ、漆喰の代わりにアスファルトを使いました。完全な工業製品で、無限のものをつくる。神はそれを見て、人間はなんでもできる、しかし放ってもおけないというので、それをやめさせる。

 やめさせる方法は、地震を起こして壊したのではなく、ただ言葉を乱しただけです。それまで大地は一つの言葉で、人がみんな集まってきて天まで届くような高い塔をつくろうとした。みんなで声をかけ合って集まってきてやり始めた仕事が、言葉を乱されてコミュニケーションができなくなって挫折した。工業生産時代の社会的災害ということが、ノアに完全に対比されます。

 もう一つ大事なことは分散と言うことです。人間は集まろうとする。神はそれを全地の表に散らす。全地というのは世界で、世界に散らされる。要するに集中か分散かという問題にも関わる示唆があるわけです。

 

 六大災厄・・・都市には住めない。

 鈴木 日本については、『方丈記』に、災害についてのさまざまな対応が読めますね。

 吉武 『方丈記』はずいぶん長く調べました。京都にもたびたびうかがって、方丈庵の跡地を見たりしました。テキストの方丈庵と実際の方丈庵の建てられた場所の印象はずいぶん違う。現地を見て初めて、鴨長明が何を考えたかがはっきりしてきました。

 鈴木 私も現地に一緒に行きましたけれど、日野の法界寺の奥山ですね。

 吉武 親鸞の生誕の地もそこです。『方丈記』の前編は、五大災害について書いている。安元の大火、治承の旋風、福原遷都。神戸のど真ん中に平清盛が遷都をする、遷都が災害だという。それから養和の飢饉、、元暦の大地震。地震と火災、旋風と飢饉は災害でしょうが、遷都が入っているのはおもしろい。彼は遷都を「大変迷惑な話だ」と言います。

 おかしいのは戦災が入っていないことです。彼は保元・平治の乱は味わっている。当然戦災を書いていなくてはいけないのに、一言も書いていない。意識的だと思います。つまり平家と源氏はどちらがどちらになるかわからない。うっかり書くと、世の中が変わったときに大変なことになる。誰も指摘していませんが、おもしろいと思います。

 もう一つ、前編の最後のところに一つだけあいまいなところがあります。世の中に住む悩みという表題です。都市に住んでいると、隣に偉い人が住んでいれば安らかではないし、泥棒が心配だし、火災の類焼が心配だ。都市にいてもおちおちしていられない。隣にへつらったり、隣を脅したりと近隣関係、相隣関係の問題がある。都市の危険性に対して落ち着かなくて仕方がないと言う。どうしたらいいんだというようなことで文章が終わります。

 国文学の人は五大災厄と言って、別扱いにしていますが、僕は六つ目の課題を言っていると思います。彼は災厄という言葉は、一つも使っていない。しかし、僕は六つと読むべきものだと思います。つまり、彼は都市には住めないと言っている。

 

 場所を選ぶ

 吉武 彼は生まれた家が下鴨神社で、おばあさんの家がたぶん糺の森の近くにあった。彼が意識して移るのは賀茂の川原で、これは前の家の10分の1です。それから大原にしばらく住みますが、およそ賀茂川のところを、行ったり来たりしている。最後の日野が2番目の家の100分の1、最初の家の1000分の1、それが方丈ですから、もとは2200坪ということになります。考えてみれば、家の子郎党、厩とかみんな入れたら、神官の家柄ですから、それだけあっておかしくはない。

 どちらにしても、小ささが強調されている。読むと清貧の思想みたいに思えるところがあります。だけど、現場を見るとなかなかしっかりした、非常に防災的、防衛的にできている。しかも川は流れているし、そばには木の枝があるし、火の気は近くにある。食べ物も近くにある。相当ぜいたくな暮らしです。ぜいたくという言葉はよくないですが、夜一人で寝るのが寂しいとも言う。

 鴨長明は安住の地を求めたのではないか。安全というのはとても大事だと彼は何度も言っています。安全の場所を求めた。安全に住むというのが安住ですが、安心できる場所を求めて、山の中に住んだ。京都の町中ではだめです。だから小さい、移動式の組み立て住宅を彼は考えます。おり琴・つぎ琵琶、楽器も組み立て式です。家も組み立て、楽器も組み立てる。要するに、小さくて移動が容易な家をつくるのが目的です。小さい家をつくるのが目的ではなかったと思います。移動がやさしい、荷車2台に乗せられると書いてあります。つまり運搬、移動容易な、最小の組み立て住宅をつくるのが目的だった。

 彼のその目的が何に続くかというと、場所を求める。その場所は、日野山の奥。そこで彼は落ち着いて、三つの作品、『発心集』、『無名抄』、『方丈記』をいっぺんに書いてしまうのですから、彼としては心豊かな生活をしていた。それは住の目標である。人も住む場所も無常であるというのが、『方丈記』の全編を貫く基本思想ですが、しかし、住というものをどうつくるか、どう創造的なものとするのか、というとそういう場所を求めて選ぶということなんです。

 

 阪神・淡路大震災の教訓・・・安住の地を求めて

 鈴木 バベルの塔や『方丈記』の話から現代に、どういうつながりを考えておられるのですか。

 吉武 バベルの場合は、あとからお話ししようと思っている分散ということが大事だと思っています。『方丈記』は、土地を見て歩くということが基本的に大事なことだし、いまの技術からすれば探すだけではなく、いい土地をつくることに発展できるのではないか。ただ、この当時は土地を探す以外になかっただろう。

 鈴木 神戸は明治以降に、もともとは川沿いに分かれていたのが、道路によって横につながった。そのために何度も洪水でやられたりしていますね。だから、自然の土地とはずいぶん違ったかたちでできてきてます。

 吉武 阪神・淡路大震災については、主として報告書を読んで考えてるだけなんですが、思い出すのは1964年の新潟地震です。報告の中に、ほとんど変わっていないなと思うことも相当あります。そのあと調査した宮城、十勝の報告書も含めて、根本的に違っていないところもありますし、また違っているところもある。違っているところだけを話せばいいのですが、いくつかあげてみます。

 

 避難所としての学校

 崩壊家屋からの救出、消火活動は、消防署や自衛隊によるものは1割しかない。9割は住民自身が相互援助でやっている。震災直後は、どうしてもそういうことになります。避難所は、まず近くの小学校です。あとは体育館や市役所で、必ずしも指定されたところには行っていません。やはり家に近いところ、家や家財がすぐ行って見られること、心理的な安心感がすごく強い。高齢者ほど近くを希望する。みんなだいたい小学校区、500メートル以内に避難所を見つけている。

 学校は耐火耐震的にできているし、運動場があったり、プールがあったり、体育館があったりする。しっかりした先生もいるので、けっこういい避難所になります。構造的な被害としては、ガラスが破損したり、天井が落ちたケースはあります。二次的な部材の損壊が多い。校庭は仮設テント、炊き出し、駐車場といったいろいろな目的に使えます。学校の設備はハイテクではなくローテクで、災害のときにはけっこう強みになった面もあります。

 ただ避難所として考えていないから、ハードの条件は貧しかった。特に老人や障害者に対しては具合の悪い面がある。一時は1人1畳を割ったりするような過密状態になったり、トイレは、新潟のときから問題でしたが、特に神戸は大規模でしたから問題でした。

 鈴木 ローテクの問題は、戦災の時と似てるなと思いましたが、しばらく考えてずいぶん違うところがある。戦災のときには水の心配をしませんでした。焼け跡で、誰もいないから、ほかの家の井戸を勝手に使った。電気はわりあい早く来たけれども、水が困った。一番困ったのは、女子の便所です。戦災のときはあまり困らなかったんだけれど。ソフトの対応の仕方をもう少しやる必要がありますね。

 吉武 物的にやっただけではだめです。

 鈴木 あとでいろいろな先生方から聞いたんですが、荒れた学校ほど災害時の対応がよかったそうです。なぜかというと、校長先生がしっかりしているから。

 吉武 それは言えるでしょうね。

 

 災害時の拠点としての病院

 病院も地震による構造的な被害は非常に少なかった。一つやられましたが、隙間から逃げて死者はいなかった。だけど、設備はハイテクで設備依存度が高いから、たとえば水が来なくて手術ができない、応急電源が止まったとか、いろいろなことで診療の障害が非常に大きかった。

 また、防火水槽が揺れて、天板が飛んで、そこらじゅうが水びたしになった。地震ではなく、水の被害で使えない事態がけっこう多いんです。防火水槽問題は、地下へ持って行けなどと簡単にいいますが、対応はもう少し考えてやらないといけない。工夫しないで、いきなりだめだから地下へ持って行けというのも問題です。

 病院の場合は学校と違って、機能を停止するどころか、機能が増加してしまいます。つまり傷病者が殺到してくるのと、すでにいる患者と両方あります。それで病院全体が混乱する。前から言われていましたが、今度も問題になりました。

 もうひとつ、近県の病院はたくさんの患者の来院を予想して期待していたのに、実際に来たのは極端に少なかったということがあります。ほとんど近県の病院へ行かなかった。輸送力の問題以前です。遠くの病院に行きたがらない、がまんする。その傾向がすごく大きかったと思います。

 鈴木 高齢者ほど、そういうのがすごい。また長田の中小企業地区はもっと強い。

 吉武 病院側として一番最初にやるべきは、来院患者が治療できないならば、全体の病院の状態をまず掌握して、どこへ誰を持っていくか、重傷者はこちら、これはうちで引き受ける、やってきた患者の中の治りそうな人、治らなそうな人をどうするかという仕分けです。振り分けをちゃんとやるということは、病院の機能としては非常に大事だと言われています。全体の病院がネットワークをきちんとして、全体の状況を早く把握することが大事です。

 鈴木 病院の場合、災害時にはローテクでというわけにもいかないでしょうが、ある程度のローテクで対応できるようなやり方を考えておかないといけないですね。

 吉武 病院というのは災害時に機能が倍加するというか、ロードもかかるし、自分のところもやられている。いわばさんざんな状況になっているので、特別な配慮が必要です。病院には技術者、電気が扱える人、水に詳しい人、食べ物をつくれる人とか、いろいろな人たちがいます。病院はいいスタッフを抱えているので、災害時には地域にもう少し貢献してもいいはずです。実際に貢献はしていますが、今回、あまり顕著ではなかったということがあります。

 

  地域施設の重要性

 吉武 全部をひっくるめて、今度の震災について感じたことをまとめてみます。耐火耐震的な建物が学校や公共建築で多くなっていて、構造的な倒壊が非常に少なかった。しかし二次部材や家具などの破損、落下の被害はあった。特にハイテクの場合には支障が生じた。

 大事なこととして、地域に住む住民の相互援助活動が非常にはっきりとあったこと。それから、地域を離れたがらない傾向が非常に強かった。この二つの理由は職場の問題とか、地域とのつながりとかいろいろあると思いますが、ともかく非常にはっきりと強く現れています。地域社会、地縁は都市生活の中ではあまり重視されていないような感じもしますが、いざとなれば顔を知っているだけでけっこう心強い思いがする。そういうことは確かに言えます。組織として、医療保健施設、あるいは教育施設も、みんな機能割になっています。機能割は常時はまあまあよく働くけれども、非常時には地域施設という面で見ていかなくてはいけない。地域にある公共的な施設は、それなりにお互いに地域に貢献していろいろな役立ち方をしている。施設というのは二つの面あるいは軸、つまり地域施設であり、中央的な施設であるという二つの面を同時に持っていなければいけない。特に地域施設の面が、非常に弱くなっている。たとえば学校は、そういうことはあまり考えていなかったと思います。その点、どの施設も両面、あるいは二つの軸がある。特に地域施設という面は、今後強調されていかなければいけないと思います。その点が今度の地震の一番大きな点です。

 病院や学校など、強度は、上げるべきものは上げていいのではないかと思います。もう一つ上のランクにしたい場合には、上のランクがあってもいいのではないか。地域に貢献する施設、学校もそうですが、病院はいろいろないいスタッフを抱えている。備蓄も相当ある。そういうものを持っているし、技術も持っているところは、もっとしっかりつくっておけばいい。

 

 仮設住宅・復興住宅計画の貧困

 鈴木 住居については、とにかく人々の助け合いとか、お互いの情報交換が大事だということがあります。それは日常からもっと育てていくべきものだったとみんなが言っています。そう考えると、復興計画はハードベースで立ててもどうしようもない。高層住宅が建っていますが、たとえば32階の部屋にぽつんと一人で老人が住んでいる姿を想像すると、いいかどうか、わからなくなります。

 行政当局としては、仮設住宅居住者が現在2万世帯は割ったそうですが、本当は2年間の期限付きです。3年以上たっているのにまだ2万世帯残っている。早く仮設を解消することが大命題です。だからといってニュータウンなどに建てたのは、空き家だらけで人が入らない。どうしても市街地で高層住宅ということになりますが、それは問題が多い。ですから、まず人間的なことを考え、それから町並みの復興ということを考えなければいけないと思います。

 実は私は仮設住宅をもっとしっかり計画的に建てておかなければいけないと思います。あんな櫛の歯なみたいなものではいけない。どうせ2年間では解消できないのだから、5年なり8年なり住めるようなかたちで考える。そうすると仮設ではないかもしれませんが、仮設計画はもっときちんと考えることが必要です。

 吉武 仮設住宅はもっと広い視野で考えなければおかしいですね。どこで起こってもいいように、考えておくのも必要です。

 

 秩序は崩れる

 鈴木 先ほどの集中、分散の問題はどうですか。

 吉武 結局最後のところでデザインの問題なんです。デザインとは本来、一定の意図にもとづいて物事をまとめることです。要するに、それは一定の秩序を与えることです。

 どんな文明でも高度な秩序状態になっていく。つまりエントロピーの低い状態です。高度な秩序状態になっているということは本来不安定で、それが災害の根本的な要因になる。これは僕が言っているのではなく、元の防災研究所の所長の菅原さんが論文に書いている。原文は英文ですが「いかなる文明の所産も高度の秩序状態、すなわち低エントロピーの状態にある。だから熱力学の法則によって不安定である。文明社会におけるエントロピーの不可避的な増大が災害の深い原因である」。

 人間がつくりあげるものは、不安定なものをつくっている。秩序づけようとしているということは、すなわちやがては崩れるものをつくっている。崩れるということは、もともと崩れるものなのだ。物事を秩序づけるのがデザインである限り、つくられた建築と施設、社会制度というようなものは、必然的に大きな災害を受ける。秩序がつけばつくほど、大きな災害を受けることは避けられないということが原点にある。これが災害のもとのところだろうと思います。

 

 逃げをとる・・・分散の思想

 吉武 ではどうしたらいいかというと、デザインに無秩序を何とか導入できないかということだと思います。

 その一つが分散です。集中に対して分散というのは、昔からいろいろある。もっと一般的に方法を考えてみると、たとえば自然に逆らわずに自然に任せるようなやり方、たとえばノアの箱舟のように漂う。オープンスペースというもの、あるいは耐震に対して免震的なもの、それから河川は線で見ますが、それを水田のような面で見る。ハイテクに対してローテク、全国に対して地方ということ、などがある。

 いまや在宅で医療などが行われます。経済的、効率的、高度化ということと反する面もあるけれども、逆に利用者から言うとそばにあったら便利です。高度化はしにくいかもしれないけれども、便利ということは大きいことです。だから、地方都市や地方文化との結びつきをもう少し考えに入れていくことがあっていいと思います。

 そして、よく言われるリダンダンシー、構造で言うと静定よりは不静定、あるいは樹木型の道路配置ではなく別のかたち。それから逃げを取っておくということです。人間の体で鎖骨は折れやすくできていて、これが折れるために体が助かる。堤防なども、決壊させることによって大きな弊害を減らす。遊水池、あるいは放水路というのは、壊れやすい場所をつくって壊滅を避ける。

 鈴木

 

 災害文化の継承を・・・部分の充実

 吉武 それから日常的な習慣で防ぐということがあります。。たとえば日本のように雨が多い地域では水田という面で雨を受けている。これはなかなかいい文化であったはずだけれども、いまやだんだん減っている。そういった一種の災害文化、習慣や伝統、言い伝えが大事です。たとえば竹薮に逃げる、あるいは地震が来たら火を消す。なぜ消すかわからなくても、来たら消せというのは耳に入っていて、習慣になります。それはそれで災害文化ではないか。

 最近はやり始めたペットボトルはすごく役に立ちます。病院でも、あれでけっこう用が足りたようです。飲み水はあるし、少ない水で処理ができる。ペットボトルは扱いがやさしい、運搬はやさしい、保存ができる。いろいろな意味でとてもいいものです。うちでも最近使い始めましたが、使ってみると悪くない。井戸がなくなった現在、水源をどう確保するかは大きな問題ですが、手の届くところに水を置いておくのも大事なことではないか。

 施設の地域性に注目して、その働きを強化する。大きく見ると集中に対して分散の方向です。建築で言うと、自然に順応して、部分の建築の質をうんと上げ、しかし全体の配置や、外面のきれいなかたちは考えない。つまり全体は自然に則って考え、部分の質を上げていく。計画の中でそういう方向をもっときちんと方向づけていいのではないかと思います。

 われわれがつくるのは端からでいいわけです。部分はしっかりつくって、全体のつなぎはもっとルーズに、もしくはもっと巧妙に、分散的につくってはどうか。全体が格好いいというのは、昔の発想にすぎない。

 

 個の命 

 鈴木 都市の問題で考えますと、分担して、それぞれのところで人が自主的に、あるいは主体的に動かしていくようなやり方でしょうね。

 吉武 そうです。個の命が最終的に関わります。僕自身の今回の大手術の経験も含めてお話しします。もともと医療というのはケース、個を扱います。医療のすばらしさは、個を扱っていることだと思います。衛生学とは根本的に違う。医療はケースの蓄積によって学問をつくっています。個は命です。

 僕の手術は両足に行く血を止めなければいけない。動脈を止めて、人工的なプラスチックを入れ替えて手術が終わったら流す。ところが僕はあちこち血管が傷んでいて、それがいつ命にかかわるかわからない。特に両足に血を流さないというのは、血圧が下がる状態で非常に危険です。だから、バイパスをつくって、こちらの足だけに血を流して、手術が終わったら取り外す。

 鈴木 ある程度の量の血を分散させるために、そうしたんですか。

 吉武 そうです。血を動かして血圧を下げない。それは検査の結果、いろいろ考えた結果です。つまり徹底的に調査して、問題が起こらないようにアセスメントをやる。、建築デザインのやり方と同じではないかと思って「デザインのやり方とよく似ていますね」と言ったら、先生が「ちょっと違う」と言う。どこが違うかというと、手術の場合は何が起きるかわからないと考えている。一種の危機管理かもしれない。

 手術の前に先生に、手術をするとどういうことが起きるか、腸が詰まって便が出なくなるとか、10項目ほど言われました。そしてまた1週間あとに家族が呼ばれて、3つ言い落としたことがあると言われた。だから13のケースがある。どれにかかっても、相当致命的です。しかし、確率は非常に低いのだろうと僕が言っても「いや、起こり得るんです」と言う。医者は、そういう考えです。確率に対する考えが違う。

 そこが工学と少し違うような気がする。工学は何%家が助かればいいという感覚です。医者はともかく治さなければいけない。それが勝負で、それに全力を尽くし、万全を期す。

 

 優先順位・・・確率と計画

 吉武 医者の場合には、確率という前に、命という優先が入ってくる。工学はいろいろなものを助ける。建物全体を助ける。建物の中の命はどうなのか、あまりよくわからなくても、全体を助ければいいという感じになっている。医者の場合、命を助けるという、優先順位がはっきりしている。

 強制疎開は、確かに優先順位がはっきりしていた。強制疎開は皇居を守るために個を壊してしまうというやり方です。つまり何かのために犠牲にするわけです。それは危ない。強制疎開させる、破壊する。スラムクリアランスは都市美観のためというけれど、いったい誰のための美観か。スラムがあると見苦しいというのは、どう見苦しいのか。住んでいる人たちのことを考えないで見苦しいというのは変だ。

 政治的にしっかりしないといけない問題だと思いますが、しかし優先順位をあまりに考えなさすぎるのも変です。よくわからないけれども、いまの民主主義ではなく、もう少し順位というものを考える。昔は優先順位はかなり大事な計画の条件だったと思っていますが、いまや何もかも助けるということになっている。どうなんでしょうか。

 鈴木 それこそ安全のとらえ方と、何のためにそこが優先されるかということがいるのでしょうね。

 吉武 建築には優先順位はあってもいいのではないかと思います。つまり全体を助けるためには、ここは壊れてもよろしいという場所はつくっておいてもいいのではないか。手術も体に傷をつけるわけです。体の機能は、手が上がらないとか一部の機能は落ちます。つまり体に傷をつけるけれども、命を救うという医学の考え方は、建築ではどう考えたらいいのか。医学と同じにするわけにはいかないけれども、何かヒントがありそうに思います。

 鈴木 優先順位ということは、何を大事にするかという一つの判断です。人によって相当ウエートのつけ方が違うのではないか。計画、デザインする人の考え方、思想というものがかなり入ってきますね。

 吉武 いずれにせよ、建築と都市の安全と人命、個の尊重というのは最も重要です。学会で考え続けていくべき問題なんです。

                   (1998.5.23  吉武邸にて)

2024年11月14日木曜日

建築が建ち上がる根源についての問いがそこにあり続ける,書評:『白井晟一の建築1 懐霄館』『白井晟一の建築Ⅱ 水の美術館』,図書新聞3140号,20140101

 建築が建ち上がる根源についての問いがそこにあり続ける,書評:『白井晟一の建築1 懐霄館』『白井晟一の建築 水の美術館』,図書新聞3140号,20140101 



2024年11月11日月曜日

「世紀末から日中戦争」にかけての日本の植民地建築界の最前線を描出、書評 西澤泰彦『東アジアの日本人建築家』 図書新聞、2012.3.10


 

大腸癌 直腸癌 術後1年 診断 東京都多摩医療センター

 2024Ⅺ11 大腸癌 直腸癌 術後1年 診断


 いつののように西国分寺に歩いていく。今日は、10月21日の検査結果を聞くだけなので、9:00主治医の診断のみ。なので7:30発。

 しかし、西国分寺についてびっくり。バス待ちの長蛇の列。これまで30分早かったからみたことのない光景。しかし、次々にバスが来る。シャトルバスのよう。病院勤務の人たちのラッシュアワーと知る。

 しかし、バス停3駅、ほとんど直通なので8:10には着いて、問題なし。待合室で朝ドラの最後見る。8:30に受付。マイナンバー保険証を事前にスキャンしてスムース。

 いつもはパソコン叩いて時間をつぶすのだけれど、今日はどうも一番らしい。9:00に首にぶら下げた機器が鳴って、9:05分に面談。

 血液検査、CTスキャン、内視鏡検査、問題なし。きれいなスキャン映像みせてもらう。

 次回は3か月後ですね、と日程決めて、9:10。

 会計 160円。

 近所の町医者は、血圧測って、「お酒はほどほどに」というだけ5秒で1000円トル!!

 


2024年11月5日火曜日

話題の本06、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607

話題の本

紹介者    布野修司 京都大学工学部助教授 地域生活空間計画学専攻


006

⑭色と欲 現代の世相1

上野千鶴子編

小学館

1996年10月

1600円

 帯に「爛熟消費社会は日本人の生活と心をどのように変えたか」とある。現代の世相シリーズ全8巻の第1巻。左高信編『会社の民俗』(第2巻)小松和彦編『祭りとイベント』(第5巻)色川大吉編『心とメディア』(第9巻)とラインアップにある。本書の冒頭には家をめぐる欲望に関して、三浦展「欲望する家族」山本理顕「建築は仮説に基づいてできている」山口昌伴「台所戦後史」の3論文がある。山本理顕論文は世相を斬るというより真摯な住居論である。

 

⑮東南アジアの住まい

ジャック・デュマルセ 西村幸夫監修 佐藤浩司訳

学芸出版社

1993年

1854円

 オックスフォード大学出版局のイメージ・オブ・アジアシリーズの一冊。東南アジアの住居については、評者は20年近く調査研究を続けているけれど、なかなかいい本がない。そうした中で本書は手頃な一冊。R.ウオータソンの「生きている住まい」をアジア都市建築研究会で訳したのであるが、近々ようやく刊行される、という。

 

⑯群居41号 特集=イギリスー成熟社会のハウジングの行方

布野修司編

群居刊行委員会(tel 03-5430-9911

1996年11月

1500円

  評者が編集長を務める。1982年12月に創刊準備号を出して、細々と刊行を続けている。最新号は、イギリス特集。フローからストックへというけれど、そのモデルとしてイギリスに焦点を当てた。安藤正雄、菊地成朋、野城智也、瀬口哲夫等々イギリス通のベストの執筆陣を組んだ。



2024年11月4日月曜日

話題の本05、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199611

 005

⑬数寄屋の森 和風空間の見方・考え方

中川武監修

丸善株式会社

1995年3月

3200円

 数寄屋とは何か。本書は中谷礼仁をキャップとする早稲田大学中川研究室の若い建築学徒のその問いに対する回答である。数寄屋名作選(1章)から入り、まず歴史が解説される(2章)。読者はおよそ数寄屋なるものの歴史を手に入れることができる。続いて、近代編(3章)素材編(4章)がきて、現在編(5章)で締めくくられる。中心となるのは京都のフィールドワークをもとにした素材編である。数寄屋の基礎用語、構成要素、年表など付録もつけられている。

⑭居住空間の再生

早川和男編 講座 現代居住3

東京大学出版会

1996年9月

3914円

 居住空間の再生と題されているが、扱われているのはインナーシティの問題だけではない。要するに居住空間が全体的に衰退してきたという認識から、その再構築をどう具体化するかがテーマである。居住空間再生の担い手をどう考えるかがひとつの焦点である。

⑮建築の前夜 前川國男文集

前川國男文集編集委員会

而立書房

1996年10月

3090円

 前川國男といえば、日本の近代建築をリードし続けた巨匠である。ちょうど10年前に亡くなった。本書はその文章を可能な限り集めた文集である。近代建築家としていかに悩みが大きかったか文章の端々から伝わってくる。巻頭に「MR.建築家ーーー前川國男というラジカリズム」という文章を書かせていただき、各時期の解説をさせて頂いた。「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」という一節が耳にこびりついている。

 

 



2024年11月3日日曜日

話題の本04、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199609

04


⑩住生活と住教育

奈良女子大学住生活学研究室編

彰国社

1993年

2400円

 

 この7月、奈良女子大学の大学院に集中講義に招かれる機会があって、今井範子先生から頂いた。扇田信先生の古稀の記念論集で、奈良女子大学で先生に教えを受けられた諸先生が執筆されている。今井先生は「”動物と暮らす”住生活」を書かれている。かねがね、ペットの飼えるマンションを、と思っているのであるが、鳴き声がうるさいと裁判ざたになったわが東京のマンションを思い出してうんざりする。女性執筆陣の中で”白(国)二点”が、西村一朗、高口恭行両先生の論考である。

 

⑪ファミリー・トライアングル

神山睦美+米沢慧

春秋社

1995年

2369円

 

 著者二人の対談集。米沢慧さんは郷土の先輩という縁もあって面識がある。『都市の貌』『<住む>という思想』『事件としての住居』などがある。ものにはならかったのであるが、東京論のために東京を一緒に歩き回った経験がある。神山睦美氏には、『家族という経験』がある。僕とほぼ同世代である。その二人が、それぞれの家族体験をもとに「高齢化社会」の行方をめぐって重厚な議論が展開される。ファミリー・トライアングルとは、職場、住居、家族のトライアングルを背景とする、家族の関係(三角形)を意味する。

 

⑫家の姿と住む構え

納得工房+GK道具学研究所

積水ハウス

1994年

2500

 

 納得工房訪れたことのない人は是非行ってみてほしい。京阪奈丘陵、関西文化学術研究都市のハイテック・リサーチ・パークにある。様々な体験ができる。GK道具学研究所は、山口昌伴先生に率いられる。ユニークな集団による、納得のすまいづくりあの手この手が披露されている。「女性でも建物でも、まっ正面から見るなんてことは滅多にない」といったポイントが多数、イラスト・写真とともにぎっしりつまる。


 

2024年11月2日土曜日

話題の本03、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199610

03

⑦⑧講座現代居住 全5巻 「1 歴史と思想」(大本圭野・戒能通厚編)

 「2 家族と住居」(岸本幸臣・鈴木晃編)

編集代表 早川和男

東京大学出版会

1996年6、7月

3914円(1,2巻共)

 

 「豊かさの中の住宅貧乏」とでも言うべき、日本の現代居住の様々な局面をグローバルな視点から問う総合講座。多分野にわたる数多くの専門家が執筆。現在、2巻まで刊行されており、以下、 「3 居住空間の再生」、「4 居住と法・政治・経済」、「5 世界の居住運動」と続刊予定。第1巻は、総論において、居住をめぐる今日的問題を明らかにし、基本的な視座を述べた上で、居住をめぐる理念、思想、政策の歴史と諸問題を論ずる。さらに、具体的な問題として、ホームレス問題、巨大都市問題、国土計画、地球環境問題など、現代的論点を考察している。

 第2巻は、現代家族の揺らぎ、女性の社会進出、高齢化、少子化など家族と居住空間の関係を論じる。布野も「2 世界の住居形態と家族」を執筆している。

 

⑨コートヤード・ハウジング

S・ポリゾイデス/R・シャーウッド/J・タイス/J・シュールマン 有岡孝訳

住まいの図書館出版局

住まい学体系075

1996年4月

2600円

 

 1982年にカリフォルニア大学出版会から初版が出され、1992年にプリンストン建築出版から再版されたものの翻訳である。副題に「L.A.の遺産」と小さくあるように、原題には「in Los Angeles」がついている。ロスアンジェルスの中庭式(集合)住宅(コートヤードハウス)を対象にした、南カリフォルニア大学グループの都市の類型学研究の成果である。しかし、コートヤード・ハウスは、古今東西、都市型住宅の形式としてどこにも見られるものであり、本書の議論は広く応用可能である。スパニッシュ・コロニアルの中庭式集合住宅の成立の過程を学びながら、地域に固有な都市型住宅のあり方を考えることができるのではないか。


2024年11月1日金曜日

話題の本02、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199608

 02

④ヒルサイドテラス白書

槙文彦+アトリエ・ヒルサイド編著

住まいの図書館出版局

住まい学体系071

2600円

1995年12月

 「ヒルサイドテラス」とは、東京は代官山に建つ集合住宅である。近くに同潤会の代官山アパートが建つのであるが、戦前戦後を通じて、このヒルサイドテラスもまた、建築家による集合住宅としてその評価は高い。第一期のAB棟(1968年)が建設がなされて以降、第六期のFGN棟(1992年)まで、槙文彦と元倉真琴をはじめとするその若い仲間たちが継続的に設計に携わってきた。本書はその記録集である。

 

⑤住宅の近未来像

巽和夫・未来住宅研究会編

学芸出版社

3296円

1996年4月

  近未来実験集合住宅「NEXT21」(大阪ガス)を実現した関西グループを中核とする未来住宅研究会の住宅論集である。具体的には、関西ビジネスインフォーメーション(KBI)主催の研究会がもとになっており、住様式、家族、集住、テニュア、居住地、エコロジーをキーワードに主論と特論から構成されている。

 

⑥家事の政治学

柏木博

青土社

2200円

1995年10月

  デザイン批評を基盤として幅広く評論活動を展開する気鋭の評論家による家事労働論。もちろん、住居論としても読める。「キッチンのない住宅」「家事はロボットにおまかせ」など、魅力的な目次が並ぶ。しかし、必ずしもそこに未来の住宅についてのヒントがあるといった類の本ではない。住宅という容器のなかの出来事をじっくり考える本である。A