アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(1993ー94年):1995年3月
Ⅰ.ロンボク島の概要*1
1.自然と生態
ロンボク島は、南緯8度に位置し、東にはバリ島が西にはスンバワ島が隣接している。東西、南北ともに約80キロメートルの幅をもつ (5435km2)。インドネシア語でロンボクというと「とうがらし」という意味であるが、もともとは、島の東部のある地域の名であった。原住民であるササック Sasak 族は、サラパラン Salaparang と呼んでいたという。
知られるように、バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。A.R.ウォーレス(1823年~1913年*2)は、鳥類、哺乳類の分布をもとに地球上を六つの地区に分割したが、その東洋区とオーストラリア区の境界が二つの島の間にある。その線の西と東では、植物も含めて生物相に大きな断絶がある。のみならず、人間活動の形態においても大きな境界がある。大雑把にいって、ウォーレス線の西は、稲と水牛の世界であり、東は芋と豚の世界である。
現在、ロンボクでは、稲作が盛んだが、もともとは、根菜類をベースとした島といっていい。リンジャニ山の麓の盆地は、にんにくが名物である。
地形はバリ島によく似ている。中央にインドネシア第二のリンジャニ山(3726m)が聳え、大きく三つの地域に分けられる。すなわち、荒れたサバンナのような風景の見られる、リンジャニ山を中心とする北部山間部、豊かな水田地帯の広がる中央部、それに乾いた丘陵地帯の南部である。気候は、1年は乾季と雨季に分かれ、4月から9月が乾季に、10月から3月が雨季にあたる。
2.歴史
考古学的発掘に依れば、紀元前6世紀にはロンボク南部に人類が居住していたとされる*3。ベトナム南部およびバリ、スンバなどと同種の人種であるという。また、ロンボク島の主要な民族であるササック族は、北西インドあるいはビルマ(ミャンマー)から移動してきたとされる。しかし、いずれにせよ、17世紀以前の歴史はよくわかっていない。17世紀初期、カランガセム王国のバリ人が移動してきてコロニーを建設し、西ロンボクを支配した。ここではロンボク島の歴史について、バリのロンボク支配を中心に概観したい。
ロンボク島の歴史においては、3つの大きな外からの影響があった。それは、①15世紀から16世紀にかけてのジャワ文化の強い影響、②17世紀のバリとマッカサールからの政治的影響、③18世紀初めからのバリの政治的支配の強化である。
ジャワ文化の影響は文化や宗教の両面に見られる。『ナガラ・クルタガマ』の中に、マジャパイトにロンボク島は属しているという記述が見られる。また、ゴリス(Dr.Goris)は、スンバルン Sembalun 盆地に居住している人々は、自分達はジャワ・ヒンドゥーの子孫であると信じている、ということを指摘している*1。もう一つの大きなジャワからの影響は、イスラーム化の波である。社会学者のバン・エルデ Van Eerde によるとササック族の中には宗教的に三つのグループがあるという*1。いわゆる、ブダ(Bodhas)とワクトゥ・テル(Waktu-telu)とワクトゥ・リマ(Wakutu-lima)の三つのグループである。ブダはリンジャニ山のある北部山岳地帯(バヤンあるいはタンジュン)、また、南部山岳地帯の2、3の村に20世紀初頭には見られたという。ブダは言語・文化・民族的にはササック族であるが、土着の宗教を信奉し続けた。ブダはイスラーム化を逃れて山岳地帯に逃げ込んだ人々だとされる。同様に、ロンボク島の年代記によると、服従したが改宗させられなかった人々がワクトゥ・テルであり、服従し改宗させられた人々がワクトゥ・リマである。
9世紀から11世紀にかけて、ササック族の王国(Negara Sasak)が存在した。ロンボク年代誌(Babad Lombok)によれば、ロンボク最古の王国は、クチャマタン・サンベリアのラエ村にあったという。その後、クチャマタン・アイクメルのパマタンに王国が生まれる。スンバルン盆地であろうと考えられている。そうした前史があって、ジャワの影響が及んでくる。マジャパイト王国の王子ラデン・マスパイトがバトゥ・パランという国を建てたという。この国が、今日、スラパランと考えられている。また、13世紀には、プリギ国という名が知られる。ジャワからの移住であり、ロンボク島はプリギ島と呼ばれた。また、ブロンガスのクダロ国が知られる。ナガラ・クルタガマは、いくつかの小国の名を記している。マジャパイト王国は1343年にバリに侵攻、その勢力がロンボクに及ぶのはその翌年である。スラパランおよびクダロはマジャパイトに隷属することになる。
マジャパイト王国崩壊の後、小さな国が林立する。その中で著名なのはラブハン・ロンボクのロンボク王国である。そして、17世紀には、バリ人が侵攻してくることになる。バリ人がロンボクに進入してきた同じ時期、マッカサール人が西スンバワの植民地から海峡を渡り、東ロンボクに居留地を建設した。17世紀の大部分にわたって、ロンボク島はバリのカランガセム王国とスンバワを支配していたマッカサールの争いの場となった。17世紀初頭、カランガセムからのバリ人がいくつかの植民地をつくり西ロンボクに政治的影響を及ぼしていた。同時期に、スンバワからのマッカサール人がアラス Alas 海峡を渡って東ロンボクを支配していた。西ロンボクにササック人の社会はあったが、ササックの貴族や王宮は存在しなかった。一方、東ロンボクには、ササック人のスラパランの王宮と貴族が実際に存在した。
バリとマッカサールとの間の最初の大きな戦いは、1677年に勃発した。この年にバリ人は西と東を隔てている森を越えて、マッカサールと戦っているササックの貴族を助けた。1678年、バリがサラパランの王宮を破壊すると、マッカサールは総崩れになった。しかし、この勝利が東ロンボクに対する完全な支配を意味するわけではない。この地域に対する完全な支配を行うのに、バリ人は150年かかっている。1678年から1849年の間に、バリ人はだんだんと政治的支配を強めたのだ。彼らの主な敵対者はササックの貴族達であった。ササックの貴族は地方では村を支配していた。長いバリとササックとの争いは、4つの時代に分けられる。第1期は、1678年から1740年で、バリ人は東進を続け、彼らは、スンバワにまで勢力を伸ばしたが、失敗した。しかし、ロンボクを支配することには成功した。ババッド・ロンボク Babad Lombok(ロンボク島の年代期)はササック人の貴族の間の不和を描いている。ササックの貴族の中にはバリ人を東ロンボクに招く者もあった。バリ人は、何人かのササック人の助けを得て、全地域を征服したが、同盟していたササック人の支配する地域にも結局は政治的支配を及ぼした。そしてプラヤ Praya やバトゥクリヤン Batukliyang の独立も終わってしまった。これは、1740年の出来事だった。
第2期、グスティ・ワヤン・テガ(Gusti Wayan Tegah)がロンボク支配した1740年から1775年である。バリ人は支配を強化したので、ササックが独立をする機会は殆どなかった。この時代、バリに対する反乱はなかった。
第1期から第2期(1678年~1775年)の時期は、ロンボク島に対するバリ人支配の基盤が整備された時期である。この期間には、多くのヒンドゥー教寺院が建設され、チャクラヌガラ Cakranegara のプラ・メル(Pura Meru)が建設されたのは1720年、またチャクラヌガラのプラ・マユラが建設されたのは1744年建設がなされた。したがって、チャクラヌガラの都市基盤は18世紀初頭から中頃にかけて整備されたと考えられる。しかし、建設当初の姿に関する資料は存在せず、その建設当初の姿は分からない。
第3期は、1775年から1838年にかけてである。グスティ・ワヤン・テガが1775年に没した後、2つの対立するバリ人の間に争いが勃発した。1800年頃、さらに王宮内での争論が王国の分裂を再び引き起こした。したがって19世紀初めには、4つの対立する公国が西ロンボクに存在した。主要な王国はチャクラヌガラ、マタラム、パガサンガン、パグダンであった。最終期にあたる1838年から1849年、バリは再び統合されたが、この期間、バリの東ロンボクに対する支配力は弱まり、ササック貴族は彼らの地域での独立を果たした。
第4期は1838年から1849年の間であり、バリ人は再統一を果たした。1838年、敵対する公国の間の対立が最高点に達した。その年の1月、マタラム王国の王、グスティ・クトゥット・カランガセム(Gusti k'tut Karangasem)が、カランガセム軍・イギリス商人の王・ブギス人のイスラム教徒の助けを得て、チャクラヌガラの王、ラトゥ・ヌガラ・パンジ(Ratu Ngurah Panji)に対して戦争を始めた。
その一方、チャクラヌガラ王は、パガサンガン・パグダン・オランダの商人ランゲ(Lange)・多くのササックの貴族の助けを得た。戦争は、海陸両方で、約6カ月続いた。オランダ商人ランゲ(Lange)の、バリからロンボク海峡を渡ってくる軍隊を止めようとする試みが失敗したために、マタラム(王は戦いで没した)は、徐々に優位になってきた。1838年6月、戦いは決した。マタラム軍は、チャクラヌガラの王宮(puri)を征服し、ラトゥ・ヌグラ・パンジと300人の家来が最後の自殺行為的な攻撃(puputan)で没した。マタラム王は、彼の長男であるラトゥ・アグンⅡ・クトゥット・カランガセム(Ratu Agung2 K'tut Karangsem)に位を譲った。バリの大君主(Susuhunan)であるクルンクンのデワ・アグン(Dewa Agung)が指名したイデ・ラトゥ(Ide Ratu)を空位であるチャクラヌガラ王に据えた。1839年、ラトゥ・アグンは、戦争終結以来、西ロンボクに対する事実上の権力を持っていた。そして、イデ・ラトゥの王位を奪い、その結果、クルンクンのデワ・アグンと敵対した。カランガセム王国のマタラム分王国の下、ロンボクのバリ人が統合されて間もなく、ラトゥ・アグンは、東ロンボクへの進行を行った。そして1849年ついに、王はカランガセムとロンボクの統合を果たした。それは、一方では、オランダ東インド会社との間の紛争を、他方ではクルンクンとブレレン Buleleng ・カランガセムとの間の紛争をうまく利用して、軍隊をバリへ送り、カランガセムのライバルにあたる分家を転覆させ、彼の指名する人物をカランガセムの王位につけたのだ。そして18世紀に存在したカランガセム・ロンボク王国は完全に再構築された。一つ違うのは、グスティ・ワヤン・テガがカランガセム王の領臣で、その上からラトゥ・アグンが支配するということである。
その後、18世紀終わりには再び東部のササック人の反乱が始まった。バリ人の統治に対する不満も原因の一つであったが、ロンボクの王とクルンクン王の間の争いが最大の原因である。ロンボク王はササック人に対して軍隊をバリに送ることを命令した。1891年、それに反抗してロンボク島東部のプラヤのササック人の間に反乱がおこった。それに対してバリ人は軍隊を送るが、失敗に終わり、1891年9月22日、東ロンボクに対するバリの支配は終結する。その結果、バリは東部ロンボクのササック人に対する防衛ラインを設定せざるをえなくなった。第1の防衛ラインは、ババッド川(図3-1-1)、第二の防衛ラインはババッド川とチャクラヌガラ・マタラム、ババッド川とリンサール・グヌンサリを結ぶライン。第三の防衛ラインは、マタラムとチャクラヌガラであった。これらの都市は、二重に竹で囲まれており、その間に2mの間隔があり、そこに茨が植えてあり、また敵が突破しそうな所には、大砲が備えてあった。東部ササック人は、何度も第一防衛ラインに対して攻撃を試みたが、事々く失敗した。その後、バリ人が攻勢に転じた。
しかし、1894年にはオランダの軍隊が西部ロンボク上陸し、バリ人はその対応に重点を移さざるを得なかった。そして、バリ人の支配は名目上だけになり、オランダの東インド会社が実質上の政治権力を握るようになった。その後、東部・西部のササック人に対してもバリ人が政治力を失うということが分かり、バリ人はオランダに対して反乱を試みた。1894年の8月25日の早朝のことである。はじめ、バリ軍は優勢に戦いを進めるが、その後、劣勢に転じた。11月にマタラム・チャクラヌガラの王宮が占領され、バリ人のロンボクに対する支配は完全に終結する。またオランダ人の命令により、チャクラヌガラの王宮も破壊され、各宅地の周りを囲んでいた土塀の高さも低くされた。この後、オランダ東インド会社の支配が1992年の日本のインドネシア占領まで続くのである。
3.ロンボク島の社会
ロンボク島の原住民はササック族である。全人口は約300万人(1991年)に及ぶのだが、その約9割を占める。残りの1割で主要なのはバリ人である。バリ人は、ほとんどがチャクラヌガラを中心とした西ロンボクに住んでいる。他に、少数だが中国人、ジャワ人、アラブ人、マッカサール(ブギス)人、スンバワ人などがいる。港町、アンペナンには、カンポン・アラブ、カンポン・ブギス、カンポン・ムラユ(マレー)などの名前が現在も残っている。中国人は、アンペナンの他、マタラム、チャクラヌガラを中心に居住している。
3-1 19世紀の社会構造
19世紀末の正確な人口は不明であるが、その時代のオランダ人が概算した数値がある。ウィリアムスティン(Willemstijn)が行った調査では総計656,000人(ササック人60万人・バリ人5万人・その他ブギス人、マドゥーラ人、アラブ人、中国人6千人)であった。テン・ハベ(Ten Have)が行った調査では、総計40万5千人(ササック人38万人、バリ人2万人、ブギス人・中国人5千人)であった。バン・デル・クラン(Alfons van der Kraan)*1によると実際のところは、この2つの調査の中間で、総計53万人(ササック人49万人・バリ人3万5千人・その他5千人)であったとされている。19世紀のロンボク島ではバリ人の王とバリの支配階級であるトリワンサ(triwangsa)が強大な勢力を所有し、共同体のすべて財産権は王の手にあった。耕作されていない土地の権利は、王の物であった。従って、新しく開墾しようとする農民は王の許可を得なければならなかった。農地には、大きく分けて2つの種類があった。一つは、ドゥルベ・ダレム(druwe dalem)と呼ばれる王が直接所有している土地、もう一つはドゥルベ・ジャベ(druwe jabe)と呼ばれる王宮外に住む人が所有する土地である。ドゥルベ・ダレムには3種類ある。① プンガヤ(pengayah)と呼ばれる土地は、毎年一定の税と賦役の労働という条件で農民が耕していた。そして、土地の譲渡は禁止されていた。② プチャトゥ(pecatu)と呼ばれる土地は、税を納めなくてもよいが賦役のある小さな扶地である。王は、バリの農民(sudra)と信頼できるササック人に与えた。またこの土地の所有権は、王の警護人や職人等にあった。この土地の1年以上の譲渡は禁止されている。③ワカップ(wakap)と呼ばれる土地は、税も賦役も無い扶地である。王はこれらの土地を寺院やモスクや潅漑組織に与えた。そこの生産物は、それらの施設の維持に充てられた。譲渡は禁止されていた。
ドゥルベ・ジャベにも2つのタイプがあった。① ドゥルベ・ジャベ・バリ(Druwe jabe Bali)は、王がバリの貴族に与えた大きな扶地であった。王は、その土地から税と賦役は集めなかった。さらに、バリの貴族達は税を集め、自分の目的の為に賦役を利用した。② ドゥルベ・ジャベ・ササック(Druwe jabe Sasak)は、ササック人の貴族が所有する土地であり、条件はバリのものと同様であった。
このような土地所有の方法は、ロンボクの社会に重要な結果を及ぼした。1番目は、西ロンボクでは、バリの権力は2世紀の間に渡って存続していたので、社会政治機構としての村は無くなり、バリの王や貴族が土地を直接統治していた。東ロンボクでは、近年バリの権力が再構築されたところであったので、村はまだ社会政治機構として存在し、ササックの貴族である村の長がいた。それらの長は、バリの地方長官(punggawa)の税徴収人よりも衰退した。2番目は、ササック人の農民の社会的地位が農奴的になったということ。3番目は、バリのスードラ(sudra)には無税の土地があてがわれるというように、ササック人よりバリ人の方が土地の所有に関して優遇されていた。
このような土地所有制度から、19世紀ロンボク島の社会は、王を頂点にバリのトリワンサ(triwansa)・バリの農民とつながるピラミッドと、敵対関係にはあるがバリの王を頂点にササックの貴族・ササックの農民とつながるピラミッドのふたつのピラミッドから構成されていたことが分かる。しかし、相対的にはバリのピラミッドの方が高い地位を占めていた、と考えられる。また、西ロンボクと東ロンボクでは異なった統治方法が取られていた。西ロンボクの場合、ササックの貴族は存在せず、バリの王および貴族の直接支配であった。一方、東ロンボクの場合、ササックの貴族が存在し、ササックの貴族による支配と、バリの地方長官による支配の二通りの統治機構が存在した。
このような、バリの帝国主義的な政策のため西ロンボクにおいては19世紀には、ササック人の村落共同体的な集落は存在しなくなっていた。
3-2 人口構成
1990年現在、インドネシア政府の人口統計*2によるとロンボク島の人口は表3-1-1に示すようになっており、合計で858、996人である。また、この表からロンボク島の人口密度がわかり、高い順にマタラム(5718人/k㎡)・アンペナン(5625人/k㎡)・チャクラヌガラ(3519人/k㎡)であり、また最も低いのが北部のスコトン・トゥンガ Sekotong Tengah(113人/k㎡)である。
次にクチャマタン・マタラム、クチャマタン・アンペナン、クチャマタン・チャクラヌガラからなるマタラム市の人口構成について考察する。表3-1-2は、職業別人口構成でありある。これを見ると農業従事者の数は減少傾向にあり、その他は増加傾向にある。このことからマタラム市は都市化の傾向にあると考えられる。表3-1-3は、過去5年間の人口動向と今後25年の人口予想である。マタラム市では人口増加率を年間3.29%と予想しており、2015年には612733人になると予想している。したがって、人口密度は9985人/k㎡に達する。これは、明らかに超過密状態であり、緊急に対策を講じねばならないと考える。
以上が、ロンボク島の人口構成である。ロンボク島全体の人口分布は南高北低型であり、また原住民であるサッサク人以外は、西テンガラ州の州都であるマタラム、バリの植民都市であるチャクランガラ、かつてはロンボクの主要港であったアンペナンに住んでいる。また都市部では農業以外の職業に就いている人も増加してきている。