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2025年1月4日土曜日

山本理顕さん プリツカー賞受賞記念会、桜建会報、No.131, Dec. 2024









 

宇曽川(愛知川・犬上川・芹川)下流域の環境(空間・景観)形成についてのメモ, 滋賀県立大学、2007

 宇曽川(愛知川・犬上川・芹川)下流域の環境(空間・景観)形成についてのメモ

2007528

布野修司

特記無き図版は、『新修 彦根市史 第一巻』(2007年)より

地形

南東から北西にかけて流れる4つの河川(芹川、犬上川、宇曽川、愛知川)によって形づくられた流域は、山裾から広がる扇状地、それに続く氾濫原(後背湿地)、そして琵琶湖岸に形成された砂堆(さたい)浜堤(ひんてい)とその背後(すなわち、砂堆と氾濫原の間)に形成された三角州からなる。

砂堆(浜堤):河川によって流されてきた砂が琵琶湖の沿岸流によって堆積することによって形成された湖岸の微高地 松林 松原、大藪、八坂、須越、三津屋、薩摩、柳川などの集落が立地する

内湖:(松原内湖)、野田沼、曽根沼、(じん)(じょう)沼 葦地の形成

 自然堤防:三角州と氾濫元の間に洪水堆積によって形成された微高地:集落が立地

 独立丘:彦根山、佐和山、雨壺山、鳥籠山、荒神山、  多景島

水系

 取水口:扇状地の扇頂部  犬上川の一の井、二の井

 湧水:扇状地の末端部

 旧河道:

 付け替え:彦根城下町の縄張り

 自噴式井戸 ドッコイショ地帯 出水 生水(しょうず

古代遺構

 縄文遺跡 黒曜石

 弥生遺跡 環濠集落と高地性集落 妙楽寺遺跡、屋中寺廃寺、長野遺跡、普光寺遺跡、芝原遺跡、

 古墳時代 荒神山古墳 大和政権 渡来系氏族 遣隋使・遣唐使

 律令国家と近江 大津宮 古代寺院 

  国ー郡―里(=50戸)  国司―郡司―里長

  坂田郡・犬上郡・愛知郡・神崎郡

   郷 

  ()()と荘園支配

    東大寺、水沼村覇流荘

 

 

交通

 東山道 律令国家  道と(うまや)30里に1駅)  ()(この)駅 横川駅 不破関

    古代東山道 中世東海道 近世中仙道 

  宿

 朝鮮人街道 海道筋 下海道筋

 

 湖上水運 湊 朝妻湊  琵琶湖回船

  市  八坂商人 保内商人 五箇商人

 地割

 条理制: 三世一身法(723) 班田図の整備(742) 墾田永年私財法(743

   町(60(109m)四方 約1.2ha) 6町×6町=里 条=東西6町

   高橋誠一他、「滋賀県犬上郡における条理と灌漑システムー芹川中流域右岸を中心として」、『滋賀大学教育学部紀要』、1985

   高橋誠一、『日本古代都市研究』、古今書院、1994

   谷岡武雄、『平野の開発』、古今書院、1964

   中野栄夫、「近江国愛知荘故地における開発と潅漑」、『地方史研究』1381975

   田中勝弘、「残存条里と集落遺構」、『滋賀考古学論叢』21985

 

 荘園制:律令制(公地公民)→私有地 売券 荘園整理令902 1069 

     犬上荘、清水荘、善理荘、後三条勅旨田

 

 太閤検地1591(天正19)年   検地帳 大橋村(芹川町)と下平流村(稲里町)が残る

名請人(耕作者) 一地一作人  村請 村切り

      一反(段) 360歩→300

集落

 国領遺跡:11世紀―12世紀

 八坂東遺跡:12世紀-13世紀

 妙楽寺遺跡:弥生 古墳―平安 平安―室町  戦国都市 港町

 古屋敷遺跡:14世紀―16世紀 

 甘呂城 蓮台寺城 

日夏村 1950年 彦根市に合併  筒井・五僧田・安田・泉・寺・妙楽寺・中沢・島 ・・・村 

  朝鮮人街道 海道筋 下海道筋

 甘呂

 開出今





2025年1月3日金曜日

ごく普通のまちづくりを!…専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

 ごく普通のまちづくりを!専門分化と縦割り行政を超えて,建築雑誌,199804,インタビュー,日本建築学会,高山英華

特別研究課題・連載シリーズ③

「ごく普通のまちづくりを! -専門分化と縦割り行政を超えて」

高山英華名誉会員に聞く

 

高山英華 名誉会員・元会長 東京大学名誉教授

 

たかやまえいか

1910年東京都生まれ

東京帝国大学工学部建築学科卒業/都市計画/工学博士/主な業績に、八郎潟干

拓地新農村建設計画、高蔵寺ニュータウン計画、ほか/著書に「私の都市工学」

ほか/「東京オリンピック施設基本計画」にて1965年日本建築学会賞特別賞、

「札幌オリンピック施設基本計画」にて1971年日本建築学会賞特別賞、1978年日

本建築学会大賞受賞

 

聞き手 村上處直 横浜国立大学教授

    布野修司 京都大学助教授

                                                                             

 

 同じパターンの繰り返し-生かされない経験

 僕は内田祥三先生から都市計画や防災を教わったんです。木造都市だから火災

が大変だと、先生は建築学科の総力を使って、いろいろな科学的実験をやった。

延焼とか輻射熱とか、木造家屋を燃やしてデータをつくったんです。先生の理想

は、鉄筋鉄骨構造で耐震耐火のまちをつくること、それがはじめからの大方針だ

ったんです。僕たちはそれを叩き込まれた。ロンドンは1666年の大火で全焼した

ときに石造にした。チャーチルの時、ドイツの爆撃を受けたけれども大火になら

なかった。それで反撃できた。日本はどうか。

 大正12年の関東大震災、僕は中学1年生でした。大久保に居て、ちょうどお昼

で、お茶碗を持って飛び出した。木造の借家でしたが、傾いたけど焼けなかっ

た。それで助かりましたが、下町は全部燃えてしまった。

 後藤新平さんが大風呂敷と言われるほどの復興予算を立てたけど、復興計画は

実現できなかった。区画整理だけは一応やった。とりあえずバラック復興して、

あとで鉄筋にする、ということだった。そのうちにと言っているうちにそのまま

になってしまった。

 そこへまた空襲だ。アメリカのB29は1万メートルくらいで日本の高射砲は届

かない。焼夷弾をばらまいた。ここで防空壕を掘って母と2人で入っていて、落

ちてきた焼夷弾を消したりした。中央線の沿線は相当やられましたが、幸い杉並

区のこのへんは大火にはならなかった。僕は近くの広場に逃げて助かったわけで

す。だけど都心はまた焼けてしまった。そしてまたバラック復興です。

 そして、阪神淡路大震災。神戸のまちは日本のまちとしては平均よりはいいま

ちだったでしょう。それでも直下型地震と木造ということで、ああいう被害を受

けた。3回目の経験だ。

 3回目の復興もまた同じパターンですね。今度つくる建物は耐震的に、免震構

造とかいろいろやっていますが、まち全体からみれば、そう安全というわけには

いかない。日本の災害と都市計画はいつもそういうパターンだ。わかっちゃいる

けど、やめられない。どうすればいいかは、口をすっぱくするほどいってきたん

だけどね。

 

 経済と安全-見えない解決策

 関東大震災後、丸の内地区は不燃化できた。下町は区画整理で整備した。昭和

通りとか道は通した。だけど建物までいかなかった。

 最近は超高層建築も可能になった。まだ、安全性には議論はある。免震とか剛

構造、柔構造の議論がある。構造の先生がもうちょっと議論してもいいと思う。

要するにそれが社会的に見て経済的かどうか。木造密集住宅地というのは改善が

必要だけれど、投資をしてこなかったわけでしょう。

 建築基準法をつくるのはわけない。防災地区か何かつくって、建ててはいけな

いと言うことはわけないけれども、建てられなかったら何もならないというので

そのままになっている。いまなら、基準は、免震でも、超高層でも、普通の鉄筋

鉄骨でもつくれるでしょう。技術的にある水準を保って、それでなければ建てら

れないということは建築学会で言えるでしょう。ただそれが、経済的に社会的に

受け入れられるかどうかが大問題だ。

 土地問題とか、日照とか、広い意味の安全とか、環境ということを満たしなが

らできるか。いつも言っているけれども、そこに解決策が見えない。物理的には

目標はあるけれども、それを建築界全体として実現する方向はみえていない。建

築界だけではできないことかもしらん。

 

 一挙にはできない防災計画-モデル事業を

 僕がやった一番大きなプロジェクトは江東防災計画です。一挙にはできないか

ら、まず十字架ベルトをつくる。そこに、不燃化できる能力のある建物、あるい

は区役所、団地を配置する。十字架ベルトと緑地と不燃化建物を組み合わせたも

のをまずやって、あとは間をだんだんにやっていく。大火にはならないだろうと

いう復興の方法をつくったわけです。

 ベルトまではいかないけれども、ベルトの拠点として、団地を不燃化する。要

するに大火にならないような不燃化を、徐々に民間でも進められるような方法を

取ったんです。なんだかんだといっても、再開発は、白鬚とか、大島、小松川と

か、中央地区とか、ある程度できているし、空き地ができて、そこが公園になっ

ていっている。再開発地区は遅いけれども、相当できあがっている。だから昔の

江東の危険さはかなり軽減されている。時間はかかるんです。

 一方、阿佐ヶ谷の僕の住んでいるこの辺りが一時ものすごく危ないという。本

所深川が危ないというので江東地区をやっていたら、シミュレーションだと高円

寺、阿佐ヶ谷のほうが危ないという。木造で密集してきたからね。ある時期に、

細分化してしまった。木造で、小さな家だから耐火にはできない。それを難燃化

くらいまで持っていく。いま再開発でずいぶん建て替えていますからね。徐々に

やっていく。

 

 地域独自の計画を

 関西のほうは少し甘かったかな。関西は地震は来ないということだったから

ね。いままでそういう経験がなかった。京都は危ないんだけれども、幸か不幸か

大火は案外ない。村上君に聞くと、神戸では地震の話はよしてくださいというこ

とだった。東京だって、いまの若い人は知らないんだ。知らない人にいくら言っ

ても本当の怖さがわからない。どうすればいいか。いまは、いろいろなコミュニ

ケーションも発達しているから、啓蒙のほうが大切かもしれない。

 いま京都は懸賞(京都グランドヴィジョン・コンペ)をやっているでしょう。

京都は、文化都市だから残さなければいけないものがある。どこまで残せば大火

にならないか、が重要だ。もう一つは京都のまちのインフラの問題がある。藤原

京から平城京、長岡京、そして平安京になったけれど、失敗したのは下水道なん

です。下水でつまった。川で多少ごまかしているけどね。 だから上下水道を地

下埋設にして、まずインフラをきちんとする必要がある。あとは街区で防災を考

える。ビルをどのくらい建てて、間に文化財を残しておいても大丈夫か。そうい

う難燃化が、京都の将来だと僕は思う。川筋は残すとか、山は残すとか、五重塔

とかは緑地と組み合わせるとか、京都は独自の防災計画を立てるときだと思う。

今度の懸賞募集はそれを予定しているんだろうと思う。

 

 再開発コーディネーターの役割

 僕は、これからの都市計画はやはり再開発だと思う。不燃化も再開発でやらな

ければできない。それで僕は再開発コーディネーターを一生懸命つくったんだ。

それが10年、ちょうど間に合って、そういう連中がかなり震災復興の応援に行き

ました。権利関係の調整もできるプランナーが必要なんです、日本のまちづくり

には。

 住宅をたくさんつくればいいというもんじゃない。復興計画では公共住宅が供

給過剰になってしまっている。住宅の立地と被災者の生活圏がうまく合わなく

て、空き家が出ている。ちぐはぐというか、計画全体を誰も見ていないのはまず

い。住宅行政でもなんでも、建物と内容とか住まいがばらばらになってしまって

いるんだ。

 土木も問題だった。幹線道路も鉄道も東西方向だけで南北がつながってなかっ

た。船着き場は液状化で大

変でしょう。高速道路が落ちたというので、いま東京も一生懸命に補強してい

る。ライフラインもそうです。これからは大きな二重くらいの地下道、トンネル

だな。掘削技術が発達しているから、その中に下水も、ライフラインもみんな入

れてしまって、上は大きな緑道くらいにしておく。そういう防災兼ライフライン

が重要になる。大きな事業ですね。それも縦割りでやらない。土木だけではまず

いんです。シビルエンジニアなんだから。ライフラインというのは、電線とか電

話線とか、上下水道とか、そういうものを一緒にして、上は緑道とかという発想

が必要なんだ

 

 やわらかな防災-まちづくりのテーマ:福祉・老齢 化・地球環境

 いま、まちづくりのテーマというと、福祉、老齢化、そして地球規模の共生で

しょう。緑と共生しろとか、自然と共生しろという環境問題、エコロジーが重要

なんだ。庭木を残すとか、ガーデニングなどは別の意味ではやっているでしょ

う。要するに田園都市の思想ですね。造園屋さんがガーデニングなどといって、

コンクリートの塀を取り払ったりしている。防災的な意味

もあるんだ。阪神大震災でも、樹木は結構火を止めています。生きていますか

ら、頑張って止めた。焦げていたけれども、その木はみんな芽をふいていま元気

になっています。

 多摩ニュータウンは、当時の歩車道分離とか、エレベーターなしというのでや

ったから、いま老人問題でまいってしまっている。全部つくり替えないといけな

い。階段でしか降りられない。降りてからも、歩車道分離してしまったから、歩

かないと行かれない。計画した時は歩車道分離で、4階までは歩いたほうが健康

的だと言って、日照は間をおけばいいという方向だけだった。老齢化ということ

は考えていなかった。それがいま全部老齢化だから、多摩は空き家になってしま

ったんです。シルバー産業も起こさなければいけない。

 防災というのは、いままでは感じが固かったんですね。環境とか生活と防災が

一体だという宣伝をしないといけない。防災というと、消防の問題になってしま

ってる。

 避難路だって、本所深川で大災害があったものだから、大きな広場でなければ

危ないと遠くへ避難するようになっている。それでは、行く途中で、みんな駄目

になってしまうのはわかっているんだ。僕の家からの避難場所は、上井草のもっ

と先、光が丘だからね。元のグラントハイツ。周りが難燃化すれば、すぐそこの

中学校でいいんです。僕は空襲のときにそこに逃げたんだ。ここで焼夷弾を消し

てから、すぐそこの中学校に逃げた。神戸の時もそうでしょう。小中学校が威力

があった。食べ物はコンビニが相当役に立ったわけだ。身近な環境が大事なん

だ。

 

 総合的まちづくり-縦割り行政の打破

 震災で、日本の都市計画のいろいろな問題がいっぺんに出た。戦後ずっとやっ

てきたことの問題とか、縦割り行政の問題とか、いろいろなことが出てきたん

だ。

 白鬚防災拠点はたまたま市街地再開発制度を使ってやったけれども、公園と住

宅をからめるとか、生活再建とからめる。とにかく東京都の全部の局を束ねてプ

ランニングした。総合的にやらないとできない。普通だったら再開発がかけられ

ない地区で600世帯以上あったんです。それを口説き落としていくためには、再

開発法では何もできない。だから福祉局とか、経済局とかが全部一緒になってや

った。戦前は不良住宅改良法。同潤会は内田先生がそういう意味で実施部隊とし

てつくったんです。

 今度都市計画を地方へ下ろしたでしょう。市町村レベルの小さいところのほう

が、総合的にできる可能性がある。市役所などに人がいないと駄目です。市役所

に人材がいれば、それではやりましょうということになるけれど、権限だけ下へ

落としても、もっとばらばらになってしまう。全国一律というのはよくないけれ

ども、その都市、その都市に応じた、京都なら京都に応じたものをつくるのは、

京都にいる人でなければできない。貧しさの程度とか、中小企業の程度とかはわ

からないんです。

 建設省で委員会をやっても、ほかの省庁も入れる。防災は同じテーブルにつけ

る。それが大事なことなんです。それでみんなが考えていけばいい。災害対策と

か災害の防御だけを考えていたらできない。普段使えていないものは、いざとい

うときにうまく使えない。

 内閣に緊急何とかを置けというのは、結構だけれども、末端の駐在所がその町

のいろいろなところを知っていないと誘導したりできない。消防の人もそうで

す。中枢が駄目だというのは、この間わかった。地域に対する判断は、やはりそ

の土地にいる人でないと駄目です。末端をどうするかという問題が大きい。今度

の震災でも燃えているのに、消防が来るまで何もしないで見ていた地区もある。

やはりコミュニティーが元気なところはきちんと対応できた。

 

 車椅子からの視点-環境、安全と防災をつなぐ

 住む人の気になって、老人福祉まで入れてやる。文部省は体育施設ばかりつく

る。厚生省は病気にならないと扱わない。体力づくり、エアロビクスと老人福祉

と一緒になったような程度のものが発想できない。あなたはエアロビクスは辛い

から太極拳ぐらいにしておきなさい。ちょっと悪くなったらお医者さんに行く。

そうすれば老人福祉はあんなに金がかからないんです。いまは悪くならないと、

薬でも何でも取れない。

悪くならないというところが大切なのに。防災も、普通の身近な環境で何かでき

る手段を取れればいい。非常に悪くなってしまえば不良住宅改良事業みたいにで

きるけれども、そんなに悪くならないけれども、道が段差があると逃げられない

とかいろいろ問題があるんです。

 僕は、運動(サッカー)をしすぎてしまったから、背骨の最後のところが擦り

切れているんです。それで足がちょっとしびれている。電気三輪車を買って乗り

回してみようと思っている。そうすると、どういうところに問題があるのかがわ

かる。環境、安全、それと防災をつなげるという感覚が出てくる。

 足が不自由になって、ここから駅へ行く間、七曲がりしているところがあるの

に気づいた。自動車が来ても、自動車がすぐは通れない。だから自動車はブブブ

ーッといいながら後ろへくっついている。そのくらいの道も、変に飛び出すと危

ない。いろいろなところで問題点がわかる。とにかく防災という言葉は少し固す

ぎるんです。要するに普通の生活環境がきちっとつくってあれば、すべて対応で

きるということですね。

 

 街区を残す

 100年くらいもつものを1街区つくれと言いたい。妻籠や馬籠などはそういう

ものです。当時の棟梁は、どういう人でも同じような手法を身につけていたわけ

でしょう。それが自然にああいう街道を形成したわけで、計画したわけではない

んです。当時の住宅生産の一つのパターンが、それだから揃ったわけだ。いまは

黄色の家の隣に赤い家をつくったり、そういうことばかりしている。それでやた

らに規制すれば今度は一列縦隊みたいなものになってしまう。どうもうまくいか

ない。

 京都あたりはそれを一生懸命やらないといけない。東京にも、麹町なんて、い

いところがあったんだ。贅沢な、本当に残しておきたいような昭和の大工さんの

最後の仕事みたいなものがいっぱいあった。英国大使館の裏あたりのところに

も、そういう住宅があって、町があった。それがいまはごちゃごちゃになってし

まった。

 日本の建物は住宅も公共建築も30年ももっていない。統計を見ると、そうなっ

ている。そういう意味ではこれからの可能性はある。これから21世紀に、君たち

の時代に残そうと思えば、僕たちのときに残らなかったものを残すことはでき

る。ただ、あまり惜しくないものもあるから、また同じことをやりかねない。

100年もつと50万戸くらいでいい。だから、そういうものをつくる覚悟があるか

どうか。街区でやらないと駄目です。ぽつぽつやると邪魔になる。だから、ある

街区で、いいものが100年もつ。町並みというか街区、どちらから見るか、裏か

ら見るか中から見るか。ともかく一団地の住宅地経営というのが昔都市計画であ

った。常盤台とか田園都市みたいに、ある単位をやれば残るわけです。

 

 モデル事業を-地方自治体の可能性

 都市計画を市町村におろしたから地方自治体が大事になる。技術スタッフ、財

政が一元化できるのは自治体でしょう。面白い人がいるんです。月島の課長さん

で、佃島の再開発をやる。いまの規則は知っちゃいないという人がいると、昔の

船着き場を残しておくとか、面白いことをやれるんです。

 企画みたいなところと最後に建築家が格好をつけるところは違うんです。最後

の美的感覚とか、その時代の材料を使ってあまり違和感のないものをつくる、自

然とマッチするという才能はやはり建築家でしょう。だけど、団地をつくって、

人を住まわせるとか、税金をどうするとか、財産税をどうするというのは企画的

な人がいなければ駄目でしょう。僕は再開発コーディネーターをそういうものに

育てたいと思っていたわけです。東大の都市工学科を出た市長が四、五人いるん

じゃないですか。そうでなくても、企画か何かに行った人材は多いと思う。地方

へ行って、いま助役などになっている。建設省に行ったやつが課長くらいだと、

もう副知事くらいになってしまったのもいる。地方に都市計画をおろしても、そ

ういう人がいればなんとかなるということです。

 都市工学科をつくったり再開発協会をつくったりして、いまちょうど地方分権

と合ってきた。僕には先見の明があるわけだ。ただ震災のほうは、また来るかも

しれないからな。もう嫌だよ。東京だって危ないよ。村上君なんか、私と同じこ

とをやっているのだから、また今度も駄目でしたなんて、言わないようにたの

む。

 

 大きな議論を-建築とはなんぞや

 この間学会の名簿をもらったら、電話帳みたいですごいね。委員会なんか何で

もある。重箱の隅をほじくらないと学位が取れない。もう少し建築とは何ぞやと

いうことを考えることが必要ですよ。そういうことを言う人がだんだんいなくな

ってしまった。

 論文なんて、コンピュータでどうだこうだといって、僕が読んでもわかりはし

ない。なんだか小さいことで、人のやらないことをやらないと学位が取れないと

いう。僕は、東大はデザインは学位は要らないとしたんです。それでいま安藤忠

雄君が東大に来た。あの人は面白い。工業高校卒ですからね。建築は大学を出な

くてもいいんです。それから棟梁で、田中文男。すごいんだ。この間、テレビに

出ていましたね。

 細かいこともやってはいけないということではないよ。だけど僕は、いま建築

屋はどうすればいいかという議論をもう少しやったほうがいいんじゃないかと思

う。学会が悪いのは、細分化してしまうんです。

 僕は農村計画部会というものをつくった。農村も都市もというのだけれども、

両方に分かれてしまう。都市と農村をどういう割り振りにするのか、これから地

方分権で中都市を育てるのか、拠点都市を育てるのか、あるいは山村みたいなも

のをやるのか。農林水産をどうするのか。関東地方に農村がなくなったらどうな

るか。そういう議論が大事だ。

 市民大学とかで、老人福祉でバリアフリーの家はどうだとか、そういうものを

講習会なんかでやればいいんじゃないか。専門でなくても、建築家として、そう

いうときに一家言なければいけない。それは知らないということではいけない。

そういう中に建築があるんだ。啓蒙なんておこがましいことを言って、手前のほ

うが啓蒙されないといけない。建築屋をうんと集めて、おじいさんを呼んで講演

をしてもらう。あんたのいま困っていることは何ですか。それに建築屋は答える

義務がある。

 もしかしたら学校の教育が悪い。君たち、何を教えているんだ、大学では。

 方法論と言うと、変に難しくなるけどね。一緒に仕事をして覚えるというのが

僕のやり方だ。講義はちょっとよそゆきになってしまう。

 

 大道無門

 「大道無門」というのは弘法大師です。来るものは拒まずという。弘法大師は

偉かった。あれこそ総合プランナーです。温泉は掘るし、ダムはつくる。ダムが

できたころ、大水が来る。天気予報で当てるんだ。

 拝むと、雨が降って、ダムに水がたまる。弘法大師が偉いのは、四国の遍路

で、景色のいいところをずっと上って行くと、ほっとする、いいところにお寺を

建てる。あるいは講仲間をつくるでしょう。それでお金をためておくわけです。

いまの運輸省は送るだけ、大蔵省は税金を取るだけだ。講で大蔵省の代わりにち

ゃんと旅費をつくらせておいて、空気のいいところを回らせて、健康をよくす

る。最後は比叡山の一番いいところへお寺を造りそばに宿場を造って大勢を泊め

る。総合的に全部終わりまでやっている。

 あれは総合プランナーとしては大したものですね。建築学会も総合的じゃない

と駄目なんだ。

 

             1998129日 東京・高山邸にて)

 

 ★写真3枚あり

  タイトル:阪神大震災での火災、白鬚防災拠点計画

 


2025年1月2日木曜日

建築職能リノベーション時代──まちづくりにおける次世代アクティビティ タウンアーキテクトの仕事、日本建築学会編:建築を拓く,鹿島出版会,2004年10月25日

 日本建築学会編:建築を拓く,鹿島出版会,20041025


建築職能リノベーション時代──まちづくりにおける次世代アクティビティ

タウンアーキテクトの仕事

布野修司

 

 戦災復興から高度成長期へ、そしてオイルショックによる安定成長期を経て世界有数の経済大国となった日本は、国際的に著名な建築家を幾人も生み出し、とりわけ一九八〇年代半ばから九〇年代にかけての「バブル経済」を背景として実現された建築作品の水準は世界中の注目を集め、世界の建築界をリードしてきた。

しかし、そうした華やかな「建築」の時代が終わり、「空白の一〇年」と言われる長い景気後退が続く中で、日本は新しい世紀を迎えた。日本の社会は、未曾有の構造改革の時代を迎え、建築界もまたその渦中にある。そして、いわゆる「建築家」の影も薄くなりつつあるように思われる。

しかし、「建築家」の時代が終わったわけではない。古今東西、どんな社会においても、「建築家」の役割が無くなることはない。むしろ、地域社会に根ざしたその本来的な役割が求められつつある。日本の「建築家」の新たな局面について考えてみたい。

 

1.「建築家」:その理念と現実

 「建築家」とは何か、という問いへの答えとして、古来多くの定義や金言、椰揄や賞賛がある[1]。例えば、以下のようだ。

 ・「建築家」は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」 ヴィトルヴィウス 『建築十書』 第一書第一章。

 ・「「建築家」:名詞。あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」 アンブローズ・ビアズ 『悪魔の辞典』

この二つの答えの間には天と地ほどの開きがある。しかし、二つながら真実をついている。あるいは、その間には、理想と現実、理念と実態の裂け目があるというべきかもしれない。

 また、近代になると、次のような定義、発言がある。

・「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、「建築家」ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

・「ローマの時代の有名な「建築家」のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 ・「「建築家」の仕事は、デザインを作り、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。「建築家」は、その名誉と利益を検討すべき雇主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が「建築家」の義務であるとすれば、「建築家」、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」 ジョン・ソーン卿

・「エンジニアと積算士(クォンティティー・サーベイヤー)が美学をめぐって議論し、「建築家」がクレーンの操作を研究する時、われわれは正しい道に居る」 オブ・アラップ卿

ここでは、「建築家」と彫刻家や画家、ビルダー、エンジニア、積算士、職人などが比較されている。「建築家」の仕事が多様化しているとも言えるし、分裂しているとも言える。「建築家」の備えるべきある種の全体性、総合的能力が失われつつある指摘がある。

 「建築家」という職能は古くから知られている。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であった筈である。実際、いくつかの「建築家」の名前が記録され、伝えられている。最古の記録は紀元前三千年というが、故事によれば、ジェセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は「建築家」イムホテプによるものである。もっとも、彼は単なる「建築家」ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師である。

伝説では、ギリシャの最初の「建築家」はクレタの迷宮をつくったダエダルスである。かれもただの「建築家」ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

「建築家」は、こうして、、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化されてきた。今日に伝わる最古の建築書を残したことで知られる冒頭のヴィトルヴィウスの言うように、「建築家」にはあらゆる能力が要求される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強く、ルネサンスの「建築家」たちの万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)の理想に引き継がれる。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠である。ルネサンスの建築理論家、レオン・バティスタ・アルベルティーも、ヴィトルヴィウスを引き継いで、「建築家とは、・・・  確実ですばらしい理性とルールに基づき、まず第一に、心のなかで知性に従って物事を如何に分割するかを知っていること、続いて第二に、実際の仕事において、物体を組み合わせたり積み上げたり、重量を配分することによって、人間の要求に極めてうまく適合するような材料を如何に統合するかを知っている人である」という。

そして、多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも「建築家」の理想である。近代「建築家」を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに夢中になるのである。そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。

 一方、もうひとつ、広く流布する「建築家」像がある。フリー・アーキテクトである。フリーランスの「建築家」という意味である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての創造者としての存在である、というのである。神ではないけれど、自由人としての「建築家」のイメージである。

 もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」であるという規定がある。上のジョン・ソーンの定義がほぼそうだ。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられているのである。

 こうして、「建築家」の理念はすばらしいのであるが、なかなかそれを体現するとなると大変である。複雑化する現代社会においては、ひとりでなんでもというわけにはいかない。建築をつくるのは集団的な仕事であり、専門分化は時代の流れである。また、フリーランスの「建築家」といっても、実態をともなわないということがある。「建築家」の資質の問題も大きいが、日本の場合どうも建築家の職能を認める社会の成熟がないのである。日本の場合、請負業の力が強かったということもある。「建築家」という職能は今日に至るまで必ずしも確立されていないのである。

 

2.二一世紀の日本の「建築家」:新たな領域

「建築家」の理念と現実、「建築家」という職能の成立とその歴史、そして「建築家」をめぐる各国の諸制度をめぐって論ずべきことは多いが、ここでは二一世紀初頭の日本の状況に絞って、「建築家」のあり方を展望しよう。

この半世紀ほどの日本社会の流れを冷静にみつめると、第一に言えるのは、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった、ということである。二一世紀はストックの時代である。地球環境全体の限界が、エネルギー問題、資源問題、食糧問題として意識される中で、建築も無闇に壊すわけにはいかなくなる。既存の建築資源、建築遺産を可能な限り有効活用するのが時代の流れである。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。

そうであれば、そうした分野、コンヴァージョン(用途変更)やリノベーション(再生)、リハビリテーション(修景修復)などの分野が創造性に満ちたものとなるのははっきりしている。京都のように木造町家を多く抱える都市では、町家再生は既に注目すべきビジネスになりつつある。また、ライフ・サイクル・コストやリサイクル、二酸化炭素排出量といった環境性能を重視した設計が主流となって行くであろう。さらに、維持管理、耐震補強といった既存の建物に関わる事業が伸びていくことになるであろう。

 新しく建てられる建築が量的に少なくなるということは、はっきり言って、「建築家」もこれまで程多くは要らない、ということである。一九九七年の、日本の建設投資の名目国民総生産(GDP)に占める割合は、一四.八%である[2]。かつては二〇%以上にも及んだことがあるが、建設投資は一貫して減りつつある。農業国家から土建国家に戦後日本は変貌を遂げて来たが、産業構造の転換は不可避である。公共事業見直し、IT(情報技術)革命へ、というのがひとつの方向である。また、高齢社会の度合いをますます強める日本においては、介護など福祉分野に多くの人材が必要とされることも明らかである。同じ一九九七年、米国の建設投資は七四.二兆円、日本(七四.六兆円)と同じであるが、対GDP比は七.六%にすぎない。ヨーロッパになるとさらに建設投資は少ない。英国が四.三%、フランスが四.五%である。むしろ、これまでの日本の建築界が特殊だったのである。

 木造を主体としてきた日本と石造の欧米とは事情を異にするとは言え、日本がほぼ先進諸国の道を辿っていくのは間違いないであろう。乱暴な議論であるが、日本の建設投資が米国並みになるとすれば、「建築家」の数は半分になってもおかしくない。英、仏並みだと三分の一以下になってもいいのである。日本の「建築家」はその存在と存続を問われているのである。

建設投資が減り、「建築家」の数が減ることは何も悲観することではない。能力ある「建築家」であれば、むしろ歓迎すべきであろう。それだけ「建築家」としての社会的ウエイトは高くなることを意味する。

問題は、今「建築家」として、あるいは「建築家」を志すものとして、どうするかである。第一は、既に上に述べた。建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そのための設計、技術開発には広大な未開拓分野がある。第二は、活躍の場を日本以外にもとめることである。国際「建築家」への道である。世界を見渡せば、日本で身につけた建築の技術を生かすことの出来る、また、それが求められる地域がある。中国、インド、あるいは発展途上地域にはまだまだ建設が必要な国は少なくないのである。一七世紀に黄金時代を迎えたオランダは世界中に都市建設を行うために多くの技術者を育成したのであるが、やがて世界経済のヘゲモニーを英国に奪われると、オランダ人技術者は主として北欧の都市計画に参画していった。かつて明治維新の時代には、日本も多くの外国人技師を招いたのである。

第三に、建築の分野を可能な限り拡大することである。建築の企画から設計、施工、維持管理のサイクルにはとてつもない分野、領域が関係している。全ての空間に関わりがあるのが建築であるから当然である。ひとつは建築の領域でソフトと言われる領域、空間の運営やそれを支える仕組みなどをどんどん取り込んでいくことである。また、様々な異業種、異分野の技術を空間の技術としてまとめていくことである。「建築家」が得意なのは、様々な要素をひとつにまとめていくことである。マネージメント能力といっていいが、PM(プロジェクト・マネージメント)、CM(コンストラクション・マネージメント)など、日本で必要とされる領域は未だ少なくない。

この第三の道において、「建築家」がまず眼をむけるべきは「まちづくり」の分野である。「建築家」は、ひとつの建築を「作品」として建てればいい、というわけにはいかない。たとえ一個の建築を設計する場合でも、相隣関係があり、都市計画との密接な関わりがある。「都市計画」あるいは「まちづくり」といわなくても、とにかく、「建築家」はただ建てればいい、という時代ではなくなった。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域住民と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。もともと、都市計画は「建築家」の仕事といっていいが、これまで充分その役割を果たしてきたかというと疑問がある。大いに開拓の余地がある。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められつつある。『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』[3](以下『序説』)で少し考えたのであるが、以下に、新たな職能分野「タウンアーキテクト」について考えてみよう。

 

3.タウンアーキテクトとは?

「タウンアーキテクト」を直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、「まちづくり」を担う専門家が「タウンアーキテクト」である。とにかく、それぞれのまちの「まちづくり」に様々に関わる「建築家」たちを「タウンアーキテクト」と呼ぼう。

 「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。

 何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウンアーキテクト」は、そのまちに密着した存在と考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」といってもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。

  上で見たように、「建築家」は、基本的には施主の代弁者である。しかし、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割がある。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をもつ。

 「タウンアーキテクト」を一般的に規定すれば以下のようになる。

 ①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。

 ③ここで具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。

④もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。また、「建築家」こそ「タウンアーキテクト」としての役割を果たすべきである、ということがある。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」だからである。

 

4.日本の「タウンアーキテクト」

 『序説』では、「タウンアーキテクト」の原型となるイメージを思いつくまま列挙した。「建築主事」「デザイン・コーディネーター」「コミッショナー・システム」「マスター・アーキテクト」「インスペクター」などである。いくつかのレヴェルに分けてみたい。

 ①建築士

 日本の「タウンアーキテクト」の具体的存在形態を考える上でベースとするのが建築士である。日本には約三〇万人の一級建築士、約六〇万人の二級建築士、約一万三〇〇〇人の木造建築士が存在する。その組織体としての建築士事務所は合わせて約一三万社ある。もちろん、建築士に限定する必要はないけれど、まず念頭に置くのは建築士一〇〇万人、一五万チーム程度の組織である。都道府県毎の数字にはかなりのばらつきがあるが、各地域地域をそれぞれが拠点とするのが基本的イメージである。

 単にあるまちで建築の仕事をしているというだけではなく、地域の活動にも積極的に関わる。また、地域環境の維持管理について責任をもつ。かつて、大工さんや各種の職人さんは身近にいて、家を直したり、植木の手入れをしたり、という本来の仕事だけではなく、近所の様々な相談を受けるそういう存在であった。その延長というわけにはいかないけれど、その現代的蘇生が「タウンアーキテクト」である。 

 ②地域職人ネットワーク

 地域環境の維持管理については、例えば具体的に、住宅の増改築、補修などを行うために、職人さんとの連携が不可欠となる。①②を合わせたチームが「タウンアーキテクト」の原点である。広原盛明の「ハウスドクター」、大野勝彦の「地域住宅工房」など、いくつかの理念が既に提出されている。「京町家作事組」など活動事例もある。

 ③建築主事

 そもそもの発想において「タウンアーキテクト」の原型となるのは「建築主事」(建築基準法第四条に規定される、都道府県、特定の市町村および特別区の長の任命を受けた者)である。全国の自治体、土木事務所、特定行政庁に、約一七〇〇名の建築主事がいて、建築確認業務に従事している。建築確認行政は基本的にはコントロール行政であり、取り締まり行政である。建築基準法に基づいて、確認申請の書類を法に照らしてチェックするのが建築主事の仕事である。しかし、そうした建築確認行政が豊かな都市景観の創出に寄与してきたのか、というとそうは言えない。「タウンアーキテクト」構想の出発点はここである。

 建築主事が「タウンアーキテクト」になればいいのではないか、これが誰もが考える答えである。全国で二千人程度の、あるいは全市町村三六〇〇人程度のすぐれた「タウンアーキテクト」がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。

 しかし、そうはいかないという。デザイン指導に法的根拠がないということもあるが、そもそも、人材がいないという。建築主事さんは、法律や制度には強いかもしれないけれど、どちらかというとデザインには弱いという。もしそうだとするなら、地域の「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。第二の答えである。

 ④建築コミッショナー

 建築主事を積極的に「タウンアーキテクト」として考える場合、いくつかの形態が考えられる。欧米の「タウンアーキテクト」制がまず思い浮かぶ。最も権限をもつケースだと「建築市(町村)長」置く例がある。一般的には、何人かの建築家からなる委員会が任に当たる。建築コミッショナー・システムである。

 日本にもいくつか事例がある。「熊本アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」などにおけるコミッショナー・システムである。ただ、いずれも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎない。むしろ近いのは「都市計画審議会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会である。それらには、本来、「タウンアーキテクト」としての役割がある。地方分権一括法案以降、市町村の権限を認める「都市計画審議会」には大いに期待すべきかもしれない。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 ⑤地区アーキテクト

 しかしいずれにしろ、一人のコミショナー、ひとつのコミッティーが自治体全体に責任を負うには限界がある。「タウンアーキテクト」はコミュニティ単位、地区単位で考える必要がある。あるいは、プロジェクト単位で「タウンアーキテクト」の派遣を考える必要がある。この場合、自治体とコミュニティの双方から依頼を受ける形が考えられる。

 具体的には、各種アドヴァイザー制度、「まちづくり協議会」方式、「コンサルタント派遣」制度として展開されているところである。

 

5.「タウンアーキテクト」の仕事

 「タウンアーキテクト」は具体的に何を仕事とするのか。『序説』では、「タウンウォッチング」「百年計画」「公開ヒヤリング」・・・等々各地域で試みられたら面白いであろう手法を思いつくまま列挙している。しかし、そこでの議論は、建築コミッショナーとしての「タウンアーキテクト」の役割に集中しすぎている。やはりベースとすべきは、身近な仕事において、また具体的な地区で何ができるかであろう。

 「タウンアーキテクト」制をひとつの制度として構想してみることはできる。建築コミッショナー制を導入するのであれば、権限と報酬の設定、任期と任期中の自治体内での業務禁止は前提とされなければならない。

 地区アーキテクト制を実施するためには自治体の支援が不可欠である。地区アーキテクトは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、「タウンアーキテクト」は、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターである。

 しかし、制度のみを議論しても始まらない。地域毎に固有の「まちづくり」を期待するのであれば一律の制度はむしろ有害かもしれない。どんな小さなプロジェクトであれ、具体的な事例に学ぶことが先行さるべきである。

 まずは、①身近なディテールから、というのが指針である。また、②持続、が必要である。単発のイヴェントでは弱い。そして持続のためには、③地域社会のコンセンサス、が必要である。合意形成のためには、④参加、が必要であり、⑤情報公開が不可欠である。

 「まちにコモンスペースを設計しよう」というスローガンは、そうした意味で「タウンアーキテクト」の大きな指針である。一戸の住宅を設計する場合にも相隣関係は常に問われる。一戸が二戸になる共有化されたルールが「まちづくり」の原点である。また、公と私の中間領域、共領域を創出するのが「まちづくり」の出発点である。

 

 以上のような「タウンアーキテクト」の像は机上の空論ではない。『序説』の最後に予告したのであるが、実際、「京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)」というグループが京都で2001年より活動を開始しつつある[4]。大学の研究室を母胎とする活動であるが、ひとつのタウン・アーキテクト制のシミュレーションである。

こうして、「タウンアーキテクト」という職能領域を展望してみたのであるが、もちろん、従来からの「建築家」に求められる役割が変わるわけではない。地域を越えて、国際的に活躍する「建築家」ももちろん必要であるし、民間の仕事を主とする「建築家」も要るであろう。それぞれに役割分担がある。しかし、原点として、「建築家」の出発点は、おそらく、「タウンアーキテクト」としての仕事にもとめられるであろう。地域社会で認められる仕事の経験がなければ、国際的にも通用しないのである。「建築家」が「建築家」としてまず果たすべきは都市景観に対する責任である。何もある都市にとってシンボリックな「作品」を設計することだけが「建築家」の仕事ではない。都市の「地」を長い時間をかけてつくる重要な仕事が「建築」にはあるのである。


布野修司・宮内康編『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』(新曜社、一九九三年)「終章 現代建築家」参照。

日建連ハンドブック,一九九九年

 布野修司、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社

京都CDLの活動については、機関誌『京都げのむ』1号、2号が刊行されている。

 



[1] 布野修司・宮内康編『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』(新曜社、一九九三年)「終章 現代建築家」参照。

[2] 日建連ハンドブック,一九九九年

[3] 布野修司、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社,二〇〇〇年。

[4] 京都CDLの活動については、機関誌『京都げのむ』1号、2号が刊行されている。