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2025年2月7日金曜日

しまね景観賞 松江宍道湖温泉駅 選評、島根県

 しまね景観賞

松江宍道湖温泉駅

 

なんともちっぽけなターミナル駅である。単線だから世界最小の終着駅かもしれない。でも、とても上品な駅だ。薄い軽快な屋根、細い柱、透明な箱、一見駅には見えない。待合室は洒落たカフェーの趣がある。天井が高くノビノビしているのがいい。継ぎ目がないDPG(ドット・ポインティッド・ガラス)の使用にしても、鉄骨の収まりにしても、とにかく、ディテールが綺麗である。かつての鄙びた駅の華麗なる変身である。と思うと、駅前には何やらほのぼのとしたお湯かけ地蔵があり、足湯に足を浸す人々がいて、宍道湖の北岸をゴトゴト走る一畑電車ののどかな雰囲気が漂ってもいる。どことなく気取った都会風の駅とのんびりとした足湯とお湯かけ地蔵、絶妙のアンバランスというべきか。

駅は、それぞれの場所で、それぞれ別の貌を持つべきではないか。一畑電鉄の試みは楽しい。新幹線の駅のようにどこでも同じじゃあ困る。足湯のある松江宍道湖温泉駅は、どこにもないユニークな終着駅である。(布野修司)

2025年2月5日水曜日

デザインを売る新商売 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212

 デザインを売る新商売          

                布野修司

 

 このところずっとデザイン・ブームである。ポストモダニズムのデザインが喧伝されて久しいのであるが、それを支えてきたのは、まずは、ファッション界やアパレル産業など流行に敏感な先端部門であった。そして、様々な商業部門が続いた。すなわち、商業建築のデザインがポストモダニズムのデザインを採用することにおいて、建築デザインは脚光を浴びてきたのであった。

 ところが最近すこし様子が代わってきたようにみえる。大手企業、商社がデザインの専門部署を設立したり、異業種同士が手を結んでデザインを研究するネットワークをつくったり、デザインがこれまで以上に商品として着目されつつあるのである。雑誌『室内』(2月号)が「「デザイン」を売る新商売」と題してデザインビジネスの新たな動向を紹介している。

 建築関連の様々な企業がデザイン・スクールを設立したり、デザイン情報誌を出したり、デザイン・ミュージアムを開設したりするのは自然であろうが、商社が何故デザインなのか。総合商社はなんでも扱うのであるから不思議はないともいえる。しかし、その商社がデザインに眼をつけ始めたということは、モノばかりでなく、デザインが一般的な商品となることを確実に示していよう。確かに、今や、はるか以前からモノよりイメージの時代なのである。

 では何故、異業種や大企業がデザインをテーマにするのか。デザインのもつ統合力が求められているからである。異業種や大企業の各部門を統合するイメージが求められ、コーポレート・アイデンティティー(CI)としてデザイン戦略が必要とされているのである。

 デザインがビジネスになることは、建築家にとっていいことかもしれない。事実、幾人かの建築家は方々で売れっ子である。しかし、全体としてみるとどうか。建築の分野がありとあらゆる分野から蚕食されつつあることを意味してはいないか。

  

 

2025年2月4日火曜日

世紀末建築論の予兆 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212

 世紀末へ


世紀末建築論の予兆           

                布野修司

 

 世紀末である。この世紀末へ向かう十年の間に建築に何が起こるのであろうか。フランス革命の頃、ルドゥやブレーなどの建築家が現れ、球体や円錐形など斬新な建築ヴィジョンを提示したのが一八世紀末である。産業革命からロシア革命にかけて近代建築の胎動において、鉄という素材を駆使したアールヌーヴォーの華が開いたのが一九世紀末である。そうした世紀末を思い浮かべてみると、何となく激動の予感がしてこないか。

 革命、あるいは急激な社会変動が、建築的想像力を刺激し、解放することは以上を思い浮かべるだけでも明らかである。今、湾岸戦争が世界を揺さぶりつつある。東欧の民主化が加速度的に進み、ソビエトの体制が搖れている。世界の枠組みが大転換するなかで、建築もまた大きく変化していくのであろうか。

 そうした世紀末を見通すかのような本がでた。磯崎新と多木浩二による対談集『世紀末の思想と建築』(岩波書店)である。帯に「建築と批評をめぐる現在にケリをつける徹底対談」とある。ケリがつけられているかどうかは疑問であるが、忙しすぎて全く議論がなくなったかのような日本の建築界に一石を投じていることは間違いない。

 「六八年にすべての源があった」で始まる対談は、この二五年を五年づつ五期に分けて振り返っている。六八年は、「五月革命」の年である。世界中で学園闘争の嵐が吹き荒れた年である。この文化革命が結果として産んだのは何だったのか。果してポストモダニズムに行きつくより他に道はなかったのか。政治、資本主義、テクノロジー、形而上学等々、建築をめぐってテーマは拡散するのであるが、全体の通奏低音になっているのは六八年におけるラディカリズムの行方である。

 全ての枠組みが失われつつあるかにみえる現在、建築の根拠は何なのか、創造の源泉は何なのか。それを見抜いた建築家のみが世紀末を生き抜き、二一世紀への展望を持つことができる。対談を読みながら、そんなことを思う。



2025年2月3日月曜日

丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性,驟雨異論❷,雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」

 丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性,驟雨異論雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」

雨のみちデザイン|驟雨異論|布野修司 vol.2 (amenomichi.com)

丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性

布野修司

 

 「東京海上ビル」解体



 前川國男設計の「東京海上日動ビルディング(旧東京海上ビルディング本館)」(1974年竣工、25階建)(図❶abc)が解体されるというニュースが流れたのは5月初旬のことであった(『毎日新聞』202158日)。ひと月ほどして、近代建築の保存に奔走する松隈洋さん(京都工業繊維大学教授、元前川建築設計事務所所員)から「東京海ングを愛 その存続願う会」(発起人代表 奥村珪一)の趣意書とともに「設計を担当した前川建築設計事務所の元所員を中心に、広くメッセージを寄せていただく活動を始めることになりました」というメールをもらった。会の事務局長は日本建築協会会長も務めた大宇根弘司さんである。

趣意書[1]には、前川建築設計事務所と新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険との話し合いの経緯も含めて、その存続がほぼ不可能である流れ、にもかかわらず存続を願う熱い思いとその理由が縷々述べられている。

東京海」の建設をめぐっては「美観論争」と呼ばれる激しい議論があった。この「美観論争」が建築界にしこりのように残ってきたのは,超高層建築を推進する側に,建築界の「良心」とされてきた前川國男がいたことである[2]。その前川國男がその信念をかけて悪戦苦闘の末に実現させた建築が解体され、さらに高い超高層ビルに建替えられるのは悲喜劇である。




松隈さんのメールからしばらくして、「世界貿易センタービル」(163m、40階、1970、日建設計、武藤構造力学研究所)が解体されるというニュースが流れた(『朝日新聞』630日)。翌年「京王プラザビル」(179m、47階、1971、日本設計)にその座を奪われるが、竣工当時、日本最初の超高層建築である「霞が関ビルディング(1968年竣工、36階建、147m、武藤清・池田武邦・山下寿郎)を超えて日本一となった第二の超高層ビルである。地上46階建高さ235mのビルに建て替えられるという(2027年竣工予定)。

『朝日新聞』記事は、サラリーマンが1020坪の小さな庭付きの家に暮らすそんな街がガラッと変わった、ある意味では「怖いビル」だったが、「やっぱりなくなるのは寂しい」という地元商店主の声を伝えるが、ビルの運営会社は、羽田

空港と直結する新・浜松町駅と連結して最新鋭のビルに建替えてビルの競争力を維持したいのだという。超高層ビルが解体される時代の到来である。

 

 Tokyo Torch

全て予定通りというべきか、丸の内を我が庭としてきた地主である三菱地所がTokyo Torch2027年竣工予定)とネーミングする日本で最も高い超高層ビルの建設を社長自ら発表したのもつい最近である(プレス発表は20209[3])。62階建、高さ390m、「あべのハルカス」(300m、60階、2014、竹中工務店、ペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツ)を抜くのだという[4]。コロナ禍の最中、「東京のトーチ(松明)」として、さらに高密度の街づくりを目指す、という無神経、その本性に唖然とするばかりである。

丸の内に蝟集するのは日本を代表する大企業の本社であり、既に30万人が毎日通うホットスポットである。30万人というのは、東京で言えば中野区、豊島区の全人口に匹敵する。その大半は今テレワークを率先している企業ばかりであろう。そこに3万人の街を新たにつくり出そうというのである。聖火リレーのトーチで思いついたのかもしれないけれど、さらに半世紀後には、東京オリンピック2020の「無残」とともに記憶されることになるのではないか。

設計は三菱地所設計、常盤橋プロジェクト室長・松田吉春、頂部デザインアドバイザー・藤本壮介、低層部デザインアドバイザー・永山祐子、広場デザインアドバイザー・福岡孝則が担当、永山提案によると地上60mの高さに数キロにわたる散歩道ができる。銭湯発祥の地ともいわれる常盤橋ゆかりの温浴施設も設けられるという(図❷abc)

 

 美観論争

Tokyo Torchの「常盤橋タワー」が先行オープン(721日)するというので、久しぶりに丸の内を歩いた。この半世紀の丸の内の興亡が走馬灯のように頭に浮かんだ。

美観論争については『景観の作法 殺風景の日本』(京都大学学術出版会、2015)で詳述している。ことの発端は1963年に遡る。この年,建築基準法(1950年制定)の前身となる市街地建築物法(1919年制定)によって決められてきた建物の高さを百尺(31メートル)以内とする規定が撤廃されるのである。31メートルというとせいぜい10階建ての高さで今では珍しくもなんでもないが,半世紀前は、31メートルを超えた建物を「超高層」建築と言った。

東京オリンピックの興奮さめやらぬ19651月に設計依頼を受けた前川國男の案は,地上32階,高さ130mの「超高層」建築であった。高さ制限から容積制限へ移行したことを踏まえ,超高層化によって,敷地の3分の2を公共広場として開放するというねらいをもっていた。先の趣意書は、前川國男のこの思いを再掲している。この手法は,後の「総合設計制度」[5]に基づく「公開空地」の先駆けとなるが,この総合設計制度は,日本の都市景観を大きく変えてしまう動因ともなる。



前川案に対して,「皇居を見下ろすビルは美観上認めない」という判断をしたのが、美濃部亮吉(19041984)都知事[6]である。そして、時の佐藤栄作首相が「皇居を直接見下ろすようなビルは「不敬」に当る。国民感情からしても好ましくない」と発言、政治問題化したのである。その後の経緯は省くが、「皇居を見下ろす」という政治的問題を除いてみると,丸の内美観論争の顛末には,その後全国各地で勃発した景観論争の構図をほぼそっくりそのままみることができる。すなわち,高層建築の計画提案,高層化反対のキャンペーン,条例の制定,適法の確認,高さ低減(階数削減)による決着というパターンである。

この時、高さがより厳しく制限されたとすれば、丸の内の景観は現在とは異なった筈である。

 

マンハッタン計画

丸の内が大きく変わる基点となったのは、「丸の内・マンハッタン計画」と呼ばれる「丸の内再開発計画」(1988年)である。丸の内の容積率を2,000%に拡大、高さ200m4050階建の超高層ビルを数十棟建てるという、いかにもバブリーな提案は、新都庁舎移転(1990年竣工)に象徴される新宿副都心への東京の重心の移動、さらに世界都市博覧会(1996年開催中止)に象徴されるウォーターフロント開発に対抗するものと思われた。バブル崩壊とともに挫折したかに思われたこの「丸の内・マンハッタン計画」は、脈々と生き続ける。「マンハッタン計画」というのは,日本産業の中枢として,ニューヨークのマンハッタンのような国際金融センターとしたいという命名であったが,原子爆弾開発のパンドラの箱を開けた「マンハッタン計画」を想い起こさせて暗示的であった。以降,丸の内に容積率の歯止めが効かなくなるのである。

「丸の内ビルディング(旧丸ビル)」(地上9階建、地下1階、1923年、桜井小太郎設計)が現在の「丸の内ビルディング」に建替えられたのは2002年である。そして、行幸通りを挟んで向かい側にあった「新丸ビル」(1952年竣工)が建替えられて現在の「新丸の内ビルディング」が竣工したのが2007年である。ドライビング・フォースとなったのは小泉内閣の都市再生政策である。「特定街区制度」さらにいわゆる「大丸有」(大手町・丸の内・有楽町地区)への「特例容積率適用区域制度」など優遇措置が取られた。東京駅の復元保存が実現したのは(2012年)、東京駅舎からの容積率移転によって緩和されたからである。東京中央郵便局[7](吉田哲郎[8]設計)の建替(KITTE丸の内、JPタワー、2012)に際して、一部ファサード保存が行われたのも同じ流れである。


 

消えた「日本興業銀行」

八重洲中央口から真直ぐ皇居へのヴィスタが拓けるのは、東京駅復元保存の最大の功績である。その奥右に、「東京海上日動ビル」は、竣工した当時と同じように、その重厚な姿をのぞかせている。足元心なしか寂しい。公開空地というけれど、そもそも人の流れがほとんどないのである移転が発表されたのは325日、移転先となるのが721日にオープンした「常盤橋タワー」(図❸abc)である。2021 12 月から順次移転を開始し、2022 6 月までに移転先への移転を完了する予定という。すべて、大地主、三菱地所のやりくりである。「コロナ禍オフィス需要が減るにもかかわらず90%入居が決まっている」などとTVニュースが伝えたが、「東京海上日動ビル」が移転するのだから当たり前である。



確か、村野藤吾が設計した日本興業銀行が仲通りに並んでいたはずだと、常盤橋に向かって歩きながら、重厚なキャンチレバーを探したけれど、ここだと思う場所にあったのは、1階にカフェやレストランが並ぶ、「丸の内発のルーフトップレストランやカラオケやダーツが楽しめる」「丸の内テラス」(図❹ab)である。オープンしたのは昨2020115日という。唖然である。「東京海上日動ビルディング」の建替え理由に、「建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができるカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易い」ことが挙げられるのであるが、その回答が「丸の内テラス」というわけである。

「日本興業銀行本店(みずほ銀行本店ビル)」(地上15階、高さ69m1974年竣工)は、同級生の千葉政継が村野森建築事務所に勤めていた縁で、竣工時に内部を見せてもらったことがあるが、白井晟一の親和銀行シリーズに肩を並べる傑作であった(図❺abcd)。201610月から1年かけて解体されたというが、建築界は新国立競技場問題(201612月着工)でほとんど誰も問題にしなかったのではないか。文化勲章受章者の建築も形無しである。

 

三菱ヶ原

「東京海上日動ビルディング」の前身は,1918年建設の「東京海上ビルディング」である(曽根[9]・中條[10]設計事務所,構造設計,内田祥三[11]18851972)。丸の内,すなわち江戸城の御曲(みくる)輪内(わうち)と呼ばれた一帯には,明治以後,司法省,大審院,東京裁判所,警視庁などの官庁の他,陸軍省や騎兵隊,工兵隊の兵営,操練場,東京府立勧工場(辰ノ口勧工場)が置かれたが,その内の陸軍用地は,1890年に至って,三菱に払い下げられた。日本橋が「三井村」と呼ばれたのに対して「三菱ヶ原」と呼ばれた。

 三菱は1894年からイギリスの経済の中心地ロンドンのロンバート街[12]をモデルとしたオフィス街の建設に着手,1914年にかけて,J.コンドルの設計で1号から21号に及ぶ赤煉瓦造の三菱館を建てた。1914年には東京駅が建てられ,東京海上ビルの後,23年には丸ビルが落成する。丸の内一帯は「一丁(ロン)(ドン)」と呼ばれ,日本橋に対抗する日本のビジネス街として急速に発展していくことになった(図❻)。


日本の近代都市計画の起源とされる東京市区改正条例[13]1888)はこの一丁倫敦と呼ばれた街並みが東京の中央市区に広がっていくことを想像していた。前川國男が求められたのは,この百尺にきれいにそろったビルの景観とは異なった新たな景観の秩序である。当時モデルと考えられたのは,アメリカの大都市とりわけニューヨークで一般的に見られた、低層部は敷地を目一杯使って中央部のみ超高層とするいわゆる墓石型の超高層であった。

超高層化によって公共広場(公開空地)を地上に設けるという前川國男の提案する超高層のモデルは、歴史を振り返れば、むしろ受け入れられてきたといえるのではないか。

一丁倫敦の記憶もかすかに残す丸の内であり続ける選択もあったのかもしれない。しかし,容積を増やせば増やすほど利潤を得ることのできる一等地を所有する大地主である三菱地所にその選択はなかった。公開空地を設ければ,容積率は1300パーセントになる。さらに,歴史的建造物を復元保存すれば1700パーセントになる。こうして一角に歴史的建造物を残して超高層として建て変えられた建物がある。Tokyo Torchも、首都高速道路地下化、八重洲地区地下ネットワーク化などの措置を駆け引き材料として、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更された。丸の内を支配し続けるは容積率すなわち空間の高密度利用のみである。

どうせそうであれば凡庸な超高層ビルなどみたくない。上海は超高層ビルが既にヴァナキュラー化している。せめて自在に踊ってほしい。ダンシング・ハイライズである。意外に面白そうなのがモスクワ・シティだ。本家マンハッタンには、にょきにょきともやしのような超高層ビルが建ち並びだしている(図❼)。「東京国際フォーラム」を設計したラファエル・ヴィニョリの「パーク・アヴェニュー432」(426m2015)は超スレンダーだ。レム・コールハース(OMA)も参入するらしい(「41-47 West 57th Street335m)。

 


写真キャプション(特記ないものは筆者撮影)

図❶a 丸ビルと新丸ビルの間に埋もれる東京海上日動ビルディング b 公開空地 c エントランス・コリドール

図❷Tokyo Torch a 全景 b頭頂部 c低層部

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC

図❸Tokyo Torch a常盤橋タワー b東京トーチパーク cトーチタワー建設現場

図❹丸の内テラス a カフェテラス b先端部

図❺日本興業銀行 a 先端部のキャンチレヴァー b内部階段 c先端部見上げ

d 解体中 https://bluestyle.livedoor.biz/archives/52386105.html

 図❻一丁倫敦 三菱煉瓦街 大正末 

 図❼ミッドタウン・マンハッタン 一番高いのがOMA 「41-47-west-57th-streets

https://newyorkyimby.com/2021/06/new-rendering-by-oma-highlights-41-47-west-57th-streets-height-in-midtown-manhattan.html

 

布野修司 建築評論家・工学博士、

略歴

1949年島根県生まれ。東京大学助手,東洋大学助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事,2015年より日本大学特任教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、著作賞(20132015)、日本都市計画学会論文賞(2006)。『戦後建築論ノート』(1981)『布野修司建築論集ⅠⅡⅢ』(1998)『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』(2000),『曼荼羅都市』(2006)『建築少年たちの夢』(2011)『進撃の建築家たち』(2019)『スラバヤ』(2021)他。

 

 



[1] 東京海上日動火災保険株式会社は東京海上日動火災保険本社ビル(東京海上ビルディング)を解体し、新たなビルを建設 (2023 年度着工、28 年度完成予定)するために、22 6 月までに 本社を移転することを発表しました。このビルが超高層ビルとして竣工したのは1974年で竣工後46年しかたっていません。

現在の東京海上ビルディングは、 建築基準法による 31mの絶対高さ制限が容積規制へと移行し、超高層建築が可能になった時に、これからの都市空間のあり方を模索し、建築を高層化することによって太陽の光が差し込む広場を足元に確保することで、豊かで人間にやさしい都市空間を作ろうとして建てられた建築です。

これについて、 このビルの設計者の前国男は次のように述べています。

「海上火災はあの敷地に1,000%の建築容積を建築するには、高層にして建ぺい率を約3分の1に押さえた方が『公益』に貢献するゆえんであるとの判断にもとづいて、あえて工費上、また、いわゆる事業採算上の利点制して高層計画に踏み切っものである」1966.12. 「再び都市美について」

日本の超高層は、現代都市によって破壊された自然を回復し、緑と太陽の空間を人間の手に取り戻す手段 · ・・『自然』につつまれ自、然に参加する『人 間』を確立する方に建築物を空高く積み上げて、緑と太陽の自由な都市空間をつくり出す以外にどんな手段がありうるか」1967 .12 「超高層ビルの意味」

は、都市に太陽が降り注ぐ、自由でオープンな広場を確保することがこ、れからの都市空間にとって非常に重要なことと考え、その手段として超高層ビルを考えていました。その意味を理解し、企業の社会的責任を果たし、「公益」に貢献する決断を前川と共 有した、当時の東京海上火災保険会社の経営者達の英断によって、現在のビルは建てられ、都市における超高層ビルのあるべき姿として存在しています。

私達は、この解体‐新ビル建設の情報を発表前に入手し、何とかこの建築が存続するよう、新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険の管理部門の方々と話し合いましたが、物別れに終わりました。この対応は紳士的に行われ、私達も海上側が公表するまで口外しないようにとの要望を受け入れ、我々にできる、なにか良い方法はないかを検討してきました。しかし、こうした状況の中で、存続運動が非常に難しいことが徐々に分かってきました。存続運動が難しい理由は、

建物が公共施設でなく、民間所有物であること。

建物の利用者が東京海上とその関係者だけであり般市民の利用がないので、利用者からの存続への希望が出にくいこと。

建築物の著作権は、日本では非常に評価が低く、公共建築の設計では契約書でその放棄を書かされることすらあること。

この建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができ るカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易いこと、等です。

こうした問題点を理解した上でも、なお、東京海上ビルは存続させる価値があり、この建築を失 うことは、日本の建築文化や都市景観上の 大損失であると考え、存続のための活動を行うことにしました。

私達にとって、東京海上ビルディングは、

日本の超高層ビルの噂矢であり建築作品として非常に優れており、日本が持ち得た最高レベルの超高層建築であり、その作品を取り壊すことは、まさに文化に対する 冒涜であること。

日本の都市景観のあるべき姿を提示してお り、太陽が降 りそそぐ自由な広場と体となって、豊かで人間にやさしい都市空間を具現しており、今後の都市景観への大  切な指標として重要であること。現在、丸の内地区の再開発で建設される、敷地をできるだけいつばい利用した上で、さらに 200M もの高さの超高層ビル群 都市空間としてこれで良いのだろうか。こうした状況に警鐘を鳴らす存在であること。

日本の都市計画史上の輝かしい記念碑であり、都市計画の方法とし容積制を導入したおり、その理念を正しく理解し、政治的圧力にも屈せず、広場と体となって具現化した建築であり、今後、都市計画が現実的利益誘導や政治的圧力に屈して方向を間違えないためにも、あるべき姿を提示している道標(みちしるべ)となっていること。

だと考えています。こうした考えのもとに、存続のための運動をするためには、我々の考えが多くの方々の共感を得られるものかどうか知る必要があると考え、できるだけ多くの皆様のご意見をお聞きし、そのご意見を糧としてこれからの活動を進めていきたいと思います。

[2] 筆者は「Mr.建築家」と評したことがある。「Mr.建築家-前川國男というラディカリズム」(『建築の前夜ー前川國男文集』(前川國男文集編集委員会編,而立書房,1996,布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』所収)。

[3] 元々地上61階、地下5階、高さ390m、延べ面積49万㎡の超高層ビルの計画であったが、第18回東京都都市再生分科会で、日本橋エリアの首都高速道路地下化、八重洲地区再開発による地下ネットワーク化などの措置が認められ、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更され、地上63階、地下4階、高さ390m、延べ面積544000㎡へと規模が拡大された。

 

[4] 「世界貿易センタービル」「京王プラザビル」以後、「新宿住友ビル」(210m、52階、1974、日建設計)「新宿三井ビル」(225m、55階、1974、三井不動産、日本設計)など日本一の高さを誇る超高層建築が次々に登場したが、「サンシャイン60」(240m、60階、1978、三菱地所設計、武藤耕三力学研究所)を最後にいったん途絶えた。復活するのは、平成初頭の「東京都庁第一本庁舎」(243m、48階、1991、丹下健三都市建築設計研究所)「横浜ランドマークタワー」(296m、70階、1993、光美諸設計、ザ・スタビンス・アソシエイツ)である。そして、それを超えたのが「あべのハルカス」である。

[5] 公共の利用に開放した空地(公開空地)を設ければ,容積率(延床面積/敷地面積)や高さの規定などを緩和するという制度。1970年に創設され,建築基準法第59条の2に規定されている。具体的にどういう条件でどこまで緩和を認めるかは,それぞれの許可権限を持つ特定行政庁で基準を定めている。

[6] 天皇機関説で著名な美濃部達吉の長男。東京。東京帝国大学経済学部卒業。大内兵衛に師事したマルクス主義経済学者として知られる。一九六七年より三期一二年,東京都知事を務めた。公害防止条例制定,老人医療の無料化,公営ギャンブル廃止,都電廃止,歩行者天国の実施など。『独裁制下のドイツ』『苦悩するデモクラシー』など。

[7] 「平凡なるもの」という素晴らしいテレビ番組(富山テレビ)がつくられ,保存運動が展開されたが,日本の近代建築の傑作とされる丸の内南口に残る吉田鉄郎設計の中央郵便局は,中途半端にファサードの壁面を残して超高層ビルに建て替えられた。

[8] 吉田鉄郎(18941956)。富山県福野町の出身。東京帝国大学建築学科卒業。逓信省営繕課に勤務,官庁建築家として活躍。逓信省には一年先輩の日本分離派建築会の山田守もいた。ブルーノ・タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を,モダニズムの傑作と讃えた。大阪中央郵便局も吉田の手になる。戦後は日本大学で教鞭をとった。Das Japanische Wohnhaus』(1935年)『Japanesche Architektur』(1952年)『Der japanische Garten』(1957年)などドイツ語の著作でヨーロッパに知られる。

[9] 曽禰達蔵(一八五三~一九三七)。工部大学校造家学科卒業,辰野金吾ら第一期生四人の一人。三菱オフィス街の基礎をつくった。

[10] 中條精一郎(一八六八~一九三六)。東京帝国大学造家学科卒業。日本郵船ビル,明治屋ビル,講談社ビルなど曽禰達蔵とともに都市事務所ビルの設計によって,都市景観の創出に大きな役割を果たした。慶応技術大学図書館(一九一二)は重要文化財。長女は宮本百合子である。

[11] 建築構造学。東京帝国大学建築学科卒業。安田講堂など京大キャンパス内の建築を多く手掛ける。一九四三年に第十四代東京帝国大学総長に就任(一九四五年十二月),学徒出陣を命じている。

[12] Lombard Street。ロンドンの金融街いわゆるシティThe Cityにある英国銀行から東へ三百メートルほどの通り。十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放した後から北イタリア,ロンバルディア商人が移住し,貿易とからめ両替・為替業を営んだことに由来する。

[13] 市区改正とは今日でいう都市計画(あるいは都市改造事業)のことである。都市計画Town Planningという言葉もそう古いわけではない。ロバート・ホーム(『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳アジア都市建築研究会,京都大学学術出版会,2001年)によれば,英国で最初に用いられたのは一九〇六年であり,少し先駆けてオーストラリアで活躍した建築家J.サルマンの「都市の配置Laying out of the City」(1890)が都市計画の最初の論文だという。日本では大正期に入ると都市計画という用語が一般的に用いられはじめ,一九一九(大正八)年に都市計画法が成立する。












2025年2月2日日曜日

 祇園祭・山鉾町と作事方・・・京町家と建築生産組織、

  祇園祭・山鉾町と作事方・・・京町家と建築生産組織

                              布野修司

       

 はじめに

 景観コントロールあるいは景観形成の手法をめぐっては「タウンアーキテクト」制なるものを考えたいと思う。しかし、ここでは極めて具体的に京都の都心部、山鉾町の景観について考える素材を提供したい。祇園祭の山鉾の巡航する山鉾町は、山鉾と町並みとの関係において何らかのコントロールが可能である(形態規制等の制限が多くの市民によって共有される)と考える。しかし、具体的な景観を支える、あるいは再生させるメカニズムには多くの問題がある。防火規制、税制等の問題も大きいが、ここでは京町家を維持する職人の問題を提起したい。

 かって、住宅生産を担う職人たちは、地域と密着する形で存在してきた。建築職人は単に住宅生産のみならず、地域社会に対しても様々な役割を果たしてきた。例えば江戸の鳶は、町火消しとして町内の便利屋的存在であり、後世まで地つきの頭として地域に大きな影響を及ぼしたとされる。また、祭礼への参加は地域の鳶、大工などの大きな仕事であった。今日でも、飛騨の高山祭りや秩父の夜祭りといった祭礼において、山や屋台を組み立て祭りを取り仕切るのは、ほとんどが同じ町内か特定の出入り筋の建築職人たちである。しかし、地域の住宅生産システムの解体、変容が一般的趨勢となる中で、建築職人の地域との関わりは希薄になりつつある。そこで、建築生産、特に住宅生産における新たな仕組みをどう再構築するか、街並み保存やまちづくりといった課題に対して、住宅生産システム(住まい手・地域住民・つくり手・材料・部品等の諸関係)をどう考えるか、が大きなテーマとなる。

 山鉾町には数多くの京町家が残っており、その保存、維持管理、修復、再生が大きな課題とされている。しかし、現実には、木造町家に関する防火規定など数多くの問題がある。そして、具体的な再生事例で意識されるのが建築職人不足の問題である。京町家の今後のあり方を考えるために、それを支える建築生産組織のあり方についての考察は不可欠である。祇園祭においてハイライトとなる山鉾の巡航のために、山車、笠鉾を組み立てる作業は大工、鳶など建築職人によって行われてきた。その持続的関係に、地域と建築生産組織の新たな方向が見出せるのではないかというのがひとつの視点である。しかし、その実態はいささか寂しい。

 

□山鉾町と建築生産組織

 a 山鉾町の建設動向

 山鉾町の構成を、建築構造別、階数別、人口別に見ると、全体的な傾向を明快に指摘できる。中心業務地区の中でもその中心といっていい四条烏丸付近は、そのほとんどが業務用建物であり、容積率一杯に建てられる中高層建築となっている。現行の建築基準法や消防法のもとでは、木造建築の増改築、新築は困難であり、木造建築物は一貫して減少している。

 木造建築物数の多い風早町、百足屋町、三条町では、低層建物が多く、相対的に人口も多い。一方、木造建築物の少ない長刀鉾町、凾谷鉾町、鶏鉾町では、5階以上の建築物の割合が全体の70%近く占めており、そのほとんどが業務用建物である。

 10年間(198595)の動向をみると、建替率が高いのは四条烏丸の交差点を中心とした地区である。建替率の低いのは新町通り沿いと綾小路通り以南の地区である。木造建築物率の低い地区ほど建替率が高く、逆に木造建築物率の高い地区ほど建替率が低い。10年間に山鉾町内で確認申請された建築物は125件、そのうち木造建築物は20件である。全体の52%を占める64件もの建物が5階建て以上の非木造建築である。また、木造建築のうち、4件が専用住宅であり、そのうち2件が木造3階建て住宅である。用途別では、専用住宅が15件、53件が事業所もしくは店舗など非住宅系の建築物である。住機能を有するものの内でも、専用住宅よりも店舗もしくは事業所併用住宅が多いこと、共同住宅よりも店舗もしくは事業所併用住宅が多いことが山鉾町の特色である。

 b 建築生産組織と山鉾町

 10年間(188695)の125件の申請建築物の設計者を見ると、山鉾町内に事業所を構える設計士事務所数は7あり、都心4区(上京、中京、左京、東山)に43、その他京都市内に43、京都府内に8、残りの24が京都府外の設計士事務所による。山鉾町内に事業所を構える施工者は1社だけであり、都心4区に22、その他京都市内に31、京都府内に4、残りの23が京都府外となっている。

 年度ごとに動向は異なり必ずしも一般化できないが、山鉾町と設計者、施工者が地縁的な関係をもたなくなりつつあることははっきりしている。京都府内(京都市以外)に分類される設計者、施工者がともに少なく、特に施工者は他府県からの参入が多いことがそれを示している。他府県からの施工者のうち最も多いのは大阪からで全体の82.6%を占めている。残りは東京が13.0%、愛知が4.3%である。注目すべきは、相対的に見て、施工者より設計者の方が山鉾町に地域的に関係が深いことである。

 京都市内に在住する設計者、施工者の分布状況を事業者統計をもとに行政区ごとに見た場合、設計者は多い順に中京区38.7%、左京区14.0%、下京区9.7%、北区8.6%、右京区・山科区7.5%、南区4.3%、上京区・伏見区3.2%、東山区2.2%、西区1.1%となっている。施工者の場合も一番多いのは中京区で24.1%、以下、右京区18.5%、下京区16.7%、左京区11.1%、西京区9.3%、伏見区7.4%、南区5.6%、山科区3.7%、上京区・北区1.9%となっている。

 設計者と施工者も多くが中京区を拠点としている。また、下京区もかなりの高い割合を示している。これは、京都市全体の行政区別全事業所の分布とはかなり異なっており、建築産業の特性を示していると考えられる。ただ、中京区の施工者のほとんどが西ノ京や壬生といった西部地区に立地しており、山鉾町に近接しているわけではない。

 

 □祇園祭と建築生産組織・・・祇園祭と作事方

 a. 作事方の仕事

 祇園祭の山車、笠鉾の組立に関わる人々は、祭礼時において「作事方(組立方・建て方)」と呼ばれ、役職に応じて「大工方」、「手伝方(てったいかた)」、「車方」、「屋根方」、「曳方・舁方」などに分けられる。祇園祭の諸行事で建築職人を中心とする人々(以降、作事方と総称)が関わるのは、鉾建・鉾曳初、山建・山舁初、山鉾飾、山鉾巡行、山鉾解体などである。

 現在の祇園祭が一般的に山鉾巡行、宵山、宵々山の賑わいを中心とすることから、作事方が祇園祭の重要な担い手であることは明らかであるが、彼らは以下のようなさらに多くの細かい仕事を担っている。

 ・人夫集め:祇園祭に関わる細事について、人口減少と財政的な面から、1975年頃から学生をアルバイトとして使ってきたが、学生も思うように集まらないのが現状である。山鉾町ごとに保存会などを通じて、京都府以外に住んでいる人を含めて地区外から集めるかたちが多い。人々を集め、それぞれを適当な位置に配置させ、取り仕切るのは作事方の役割である。

 ・吉符入り、その他の神事:吉符入りとは神事始めのことであり、各山鉾町は収蔵庫を開いて神餞を供え、約1ヶ月に及ぶ祭の無事を祈願するほか、各種の打ち合わせを行う。その打合せに作事方の代表は出席する。また、それ以降も山鉾町の諸行事のほとんど全てに出席するのが慣例である。それぞれの行事において作事方がなにがしかの重要な地位を占めることは滅多にないが、実際には作事方が全ての面で中心となっている山鉾町が増えつつある。

 ・山鉾建て:山鉾は、その都度組み立てられ、解体される。山鉾は710日頃から建て始められ、山鉾巡行の修了した17日の夕方に解体され始める。

 ・山鉾巡行:巡行時には交代人員も含めて約3040人もの人が山鉾に乗り、さらに多くの人々がそれに従う。それぞれの役割に応じて、曳方、車方、音頭取、屋根方、囃方などと呼ばれ、そのうち作事方が担うのは曳方、車方、屋根方の三役である。

 ・山鉾解体:巡行が終わるとすぐさま解体が始められる。解体終了によって、作事方の仕事は終わる。

 この他、駒形提灯等の飾り付けや交通整理、町席内の飾り付けや巡行中の留守番といった役割を作事方が行う山鉾町もある。また祭礼時以外にも、山鉾の修理や材料、人員確保など、日常から祇園祭と作事方は関わりをもっている。

 

 b. 作事方の継承

 作事方がどのような経緯で祇園祭と関わりをもつようになったのかは様々である。最も古くから山鉾建てに関わるようになったのはE山作事方のy大工店で1928年からである。最も新しいJi山作事方のw組で1986年からである。平均で19578年、約40年前からということになる。

 d工務店は、Ki鉾・U山・Ta山・To山の4つの山鉾の作事方を務めている。過去にはJi山、Ay鉾、Iw山、Si鉾、Mo山の山鉾にも関わったことがある。祇園祭に関わるようになったのは、1952年のKi鉾再建工事からである。昭和に入って再建されたTo山・Si鉾・Ay鉾はすべてd工務店が関わっている。他にも、先祭と後祭が統合される以前は2つ以上の山鉾の作事方をやっていたというところがかなりある。

 Tu鉾作事方のe工務店と、Ya山作事方のk工務店は兄弟弟子で、ともにTu鉾の作事方をしていたという関係がある。1957年にそれまでYa山の作事方をしていた棟梁がやめ、k工務店が引き受けることになった。k工務店は、現在でもYa山の作事方もしながらTu鉾の組立にも参加している。当時は現在のように山と鉾とで組立の日が違うことはなかったが、複数の山鉾を受け持つ作事方の都合で、四条通りより南は山鉾建ての日程がずらされたという経緯がある。Ab山とTo山の作事方も関係がある。先代の頃に呉服屋に出入りしており、その縁で頼まれて引き受けることになった。また、その呉服屋が所有していた長屋がTo山町内にあったため、To山の作事方も頼まれることになった。Ko山とE山の作事方も関係がある。vさんとyさんが兄弟弟子関係でE山の山建てを行っていた。1947年にKo山の作事方がやめて以来、vさんが引き受けるようになった。修理等は現在でも両者で行っている。

 Ho山作事方のi建設は、現在山鉾の組立を行っている作事方の中で唯一同一町内に在住している。しかし代々作事方を担ってきたわけではなく、1955年頃それまでの作事方が来られなくなり、たまたま町内在住ということで引き受けることになった。Ji山作事方のw組は、当初は取り引き先であったS建設の手伝いとして参加していたが、1994年から全権を委任されるようになった。

 Mo山の山建てをしているjさんは建築とは関係ない。もともと作事方を務めていた山科の棟梁がやめてしまい、作事方を引き受けることになったという経緯である。Ka山作事方のmさんは、もともと大工をしていたが現在は建築関係の仕事はしていない。実際の組立は息子さんがやっており、大工をしているわけではない。

 Ay鉾は、1884年以来途絶えていたが、町内の人々の努力などで1979年に復興した。当初d工務店が関わったが、現在は町の人だけで組み立てており、大工その他は一切参加していない。Si鉾も1871年以降途絶えていたが、1985年に再興された。当時の会長との縁でr工務店が作事方を務めることになった。

 以上、祇園祭に携わるようになった経緯は、昭和に入って復活した四基を除くとそのほとんどが、町の人との関係ではなく、日常の仕事で付き合いのある同業者からの紹介などで引き受けるようになったところが多い。また、祇園祭の作事方はその家が絶えない限りやめることはできないとされるが、実際にはかなり入れ替わっている。

 こうした作事方の継承関係は、公的な文書の形式で残されていない。秩父の夜祭や飛騨の高山祭の場合、、屋台の建て方を請け負った工匠や彫刻をほどこした名匠の名前や系譜が残されている。京都の祇園祭でも、山鉾の主役である飾りもの系譜等はどの山鉾も残っていることを考えると、祭礼における作事方の位置づけは秩父や高山より低いといっていい。

 

 □建築生産組織としての作事方

 a. 作事方の所在地と活動地域

 祇園祭の各山鉾町で実質的に中心となって作事方(大工方、手伝方の両者がいる場合は大工方)を担っている建築生産組織の事業所もしくは代表者とその所在地をまとめてみると、都心4区に所在しているのは10事業所、京都市内が12事業所、残りは宇治市、長岡京市、船井郡日吉町、船井郡丹波町に各1事業所ずつ分布している。山鉾町内に在住しているのはHo山の作事方だけであり、その所在地は広く京都市外にまで及んでいる。作事方と山鉾町は近隣地域としてのつながりはほとんどない。

 作事方のうち198695年に山鉾町で仕事をした例は4物件、2工務店のみである。

 ・展示場 木造二階建 1993年 中京区橋弁慶町

 ・鉾収蔵庫 3階建鉄骨造 1994年 中京区菊水鉾町

 ・事務所店舗 9階建鉄骨造 1994年 下京区月鉾町

 ・物販店舗併用共同住宅 7階建鉄骨造 1995年 中京区占出山町

 以上のうち展示場と鉾収蔵庫はいずれも山鉾保存会の施設であり、各山鉾保存会の会長が施主である。しかし、他は作事方ととなっている山鉾町とは必ずしも関係ない。

 

 b. 作事方の事業内容

 祇園祭の作事方として参加している建築生産組織は、祭礼時以外の日常においては、山鉾町とはあまり密接な関係はない。作事方を務める組織の業務内容はおよそ以下のようである。

 32基の山鉾のうち、建築生産組織と関わりをもたないものが3基あり、また、複数の山鉾に関わるものがあるため、作事方に関わる建築生産組織は25である。

 事業所の創業年をみてみると、最も古いのはe工務店が1890年創業であり、a工務店の1966年創業が最も新しい。半数近くが、戦後になってから創業している。創業以前から作事方として参加しているものが8ある。

 仕事の内容としては、増改築を主体とするものが多いのが特徴である。新築が100%とするものは1だけでで、90%以上が増改築のものが6ある。また、木造しか扱わないものが全体の50%以上にものぼり、木造以外の構造が多いというものはない。建物の用途については、住宅が100%というものが半数以上ある。そのうち70%を超える事業所が、100%在来工法による。

 京都市内で活動する事業所がほとんどであるが、山鉾町内において比較的多く仕事をしているとするものが2ある。また、かっては山鉾町内で数多くの仕事をしていたという事業所が1ある。他は、当初から山鉾町内での仕事はないのがほとんどである。

 

 □祇園祭という祭礼行事に関わる作事方の建築生産組織としての実態は以上のようである。その要点は以下のようになる。

 ・山鉾町では、この間一貫して、木造住宅の建て替えが進行しつつある。確認申請計画概要書調査から、木造から非木造への転換、専用住宅から非住居系建築への転換は、はっきり跡づけることができる。

 ・山鉾町と山鉾町で建設活動を行う建築生産組織(施工者、設計者)は、ほとんど地縁的なつながりをもっていない。

 ・祇園祭の山鉾の組立に関わる作事方は、祇園祭において極めて重要な役割を果たしている。しかし、作事方と山鉾町の地縁的関係はほとんどない。作事方が祇園祭と関わり始めた歴史的な経緯は様々であるが、必ずしも地縁的つながりがもとになっているわけではない。

 ・山鉾町と作事方との日常業務的関係は少ない。祇園祭に関わる24事業所のうち、山鉾町で仕事をしたのは、10年間で4件、2事業所のみである。10事業所は都心4区内にあり、12事業所はその他京都市内、他は京都市外を拠点としている。

 ・作事方の事業形態を見ると実質1人親方の形態が5あり、全体として小規模である。また、業務内容として、基本的に木造を主とし、増改築を行うものが目立つ。

 祇園祭を担う作事方と山鉾町のつながりは以上のように極めて希薄になっている。京町家の再生、維持管理を担う建築生産組織の将来を展望する上でこの実態は極めて憂慮すべきことである。京町家街区の景観維持が焦眉の課題であるとすれば、山鉾町と関わる建築生産組織の再構築が大きな課題となる。祇園祭をひとつの梃子にするのが最も具体的と考えられるが、京町家作事組の結成など、町家再生の事例に取り組むヴォランタリーな組織の動きとともに公的な支援の仕組みも期待される。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...