このブログを検索

2025年8月17日日曜日

君島東彦・名和又介・横山治生編:戦争と平和を問いなおす 平和学のフロンティア,布野修司:6 建築からみた戦争と平和,法律文化社,2014年4月

 君島東彦・名和又介・横山治生編:戦争と平和を問いなおす 平和学のフロンティア,布野修司:6 建築からみた戦争と平和,法律文化社,20144



建築から見た戦争と平和

国家・様式・テクノロジー

戦時下日本の建築テーマ

布野修司 

1 建築と戦争

 建築するということは、戦争と平和にどうかかわるのであろうか。端的に,戦争のための建築、平和のための建築というものがあるのだろうか。正直考えたことはなかった。しかし、改めて考えてみると、建築はそのそもそもの起源において戦争と関わりあってきたような気がしないでもない。

 建築とは何か、あるいは戦争とは何か、ということになるが、ごく素朴に,建築をシェルター、すなわち,身体を覆い,人間の生存のために一定の環境を維持し続けるものだと考えるとすると,身体を脅かすものに対する防御がその本質ということになる。人間の生存のための環境が維持されている状態が平和であり、それが脅かされる状態が戦争である。

 人類の建築の歴史が,生命を脅かすものに対する戦いであったことは間違いない。古来、自ら住む区域を自然や猛獣や害虫や外敵の脅威を避ける場所を選んで設定し、さらに濠や壁で囲んで暮らしてきたのである。生きることと建てることは,原初において同じであったのである。

 防御を主とする時代は,しかし,攻城法のイノベーションによって大きく変わる。最大の変化は,新しい火器,大砲の出現である。15世紀までは、攻撃よりもむしろ防御の方が、ヨーロッパにおける城塞、都市、港湾、住居の形態を決定づけていた。川や谷、戦略にとって大事な地点を見渡せるように、土手や丘や山脈の上に要塞都市は造られた。丘の上につくられた街は、円形や矩形の塔、櫓が建ち上がっている厚い壁によって守られ、跳ね橋や、吊し門や、石落とし装置付きの入口門が設けられた。ヴェニスやブルージェやジュノヴァのような水の都の市壁は海面や湖面から直接立ち上げられていた。地理学的、地質学的条件によって異なるが、中世の伝統的な城は、塔、銃眼付きの胸壁、楼閣、双塔の門らを連結している城郭で構成されている。その城郭は、あらゆる職種の住む居住区を囲んでいて、その中で、石工、大工、左官、煉瓦職人、金細工職人などが建設工事に携わった。城は、防御という役割をもつだけでなく、平時には君主たちの家となり、農民や近隣の村民たちを管理する行政機能をもつ、さらに他の職種も居住する場所であった。

西洋の城郭は古代ローマ帝国の築城術等を基礎として発達してきた。12世紀から13世紀にかけて、十字軍経由で東方イスラーム世界の築城術が導入され、またビザンツ帝国の築城方式の影響も受けて、西洋の築城術は15世紀には成熟の域に達していたのであった。

しかし、中世の終わり頃にヨーロッパにもたらされた火薬と火器、火器装備船の出現による戦争技術の変化は、要塞や城塞の形態を変える。すなわち、馬に乗った騎士による戦争の時代ではなくなり、中世の城が役に立たなくなるのである。

ヨーロッパで火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[1]。火薬そのものの発明は、もちろんそれ以前に遡り、中国で発明され、イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたと考えられている[2]。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンであるとされる[3]。戦争で最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦で、エドワードⅢ世のクレシー(カレー)出兵(1346)、ポルトガルのジョアンⅠ世によるアルジュバロタの戦い(1385)などで火器が用いられたことが知られるが、戦争遂行に火器が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことなのである。決定的となったのは、15世紀中頃からの攻城砲の出現である。

ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は、ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱、戦車、装甲車が考案され機動戦が展開されたフス戦争(14191434)である。続いて、百年戦争(1328371453)の最終段階で、大砲と砲兵隊が鍵を握った。そして、レコンキスタを完了させたグラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が威力を発揮した。こうして火器による戦争、攻城戦の新局面と西欧列強の海外進出も並行するのである。植民地建設の直接的な道具となったのは火器であった。

攻城砲を用いた典型的な戦例となるのがイタリア戦争(14941559)である。16世紀前半、イタリアはヴァロワ家とハプスブルク帝国との間の戦場となったが、フランスのシャルルⅧ世の軍隊は機動的な青銅砲と鉄の砲弾を搬送して、イタリアに乗り込み、中世の城郭を次々と撃破した。それまでの攻城戦では、籠城側は人馬だけを拒否すればよく、籠城側が有利であったが、大砲の出現はこれまでの立場を逆転させる。

 防御側はこの状況に際し、工夫を凝らし対応することになる。攻城砲の砲撃により突破口が形成された城壁の後に、堀と新たに構築した土塁壁(レティラータ)で、殺到する敵兵を阻止した。土塁壁は、1500年にピサで最初に試みられ、1509年にはパドヴァで攻撃阻止に成功している。さらに、防御側も火力で攻囲軍を阻止・撃破しようとする。それには、まず大砲の砲床を構築することが必要となるが、重い大砲をこれまでの古い城の隅に置かれた塔に搭載することは難しく、搭載しても、射撃の反動で後退した大砲が城壁を破壊することが考えられた。また中世の高い城壁は、敵の格好の砲撃目標になったため、城壁を低く厚めにし、塔の面積も拡張する必要があった。塁壁頂上を砲床とし、突破口への小火器の射撃用として利用する一方、壕の内側にはカバリエリcavaglieriと呼ばれる小さめの援護構築物の中に置かれた火砲の射撃により、堀内に殺到する敵に致命的な打撃を与える工夫がなされた。

 フランス軍の方も同様の工夫を生み出した。1516年、ミラノで防戦を強いられたフランス軍は、応急的な防御構築として城壁から外部に巨大な雛壇状の築堤を構築し、前面の最も低い台地に槍部隊を、中段には火縄銃などの小火器を、最上段には大砲を配備した。このような築堤、応急的な防御システムによって生み出されたのが「稜堡」式の築城術である。

 

 

 都市史という観点からは、火器の出現による攻城法の変化、それと平行する西欧列強による海外進出と植民都市建設、そして産業化段階、すなわち蒸気船、蒸気機関車による交通手段とその体系の転換が決定的である。自動車、そして飛行機の出現がさらに大転換の画期となる。

 

建築と平和(戦争)

 

1 戦争と建築:帝冠併合様式

 近代建築理念の受容定着

 戦争(戦時ファシズム体制)と植民地

2 丹下健三と広島平和記念館

3 白井晟一と原爆堂計画

 

関連年表

       1928 日本インターナショナル建築会結成

       1928 神奈川県庁舎竣工

       1929     名古屋市庁舎コンペ

       1930     明治製菓本郷店コンペ

       1931     新興建築家連盟結成即解体:東京帝室博物館コンペ

       1932     第一生命保険相互会社本館コンペ:東京工業大学水力実験室 岡村蚊象「新興建築家の実践とは」

       1933     名古屋市庁舎竣工 京都市立美術館竣工:日本青年建築家連盟結成 デザム

       1934     木村産業研究所(前川國男) バウハウス閉鎖 B.タウト来日:軍人会館竣工 築地本願寺 明治生命館:東京市庁舎コンペ:ひのもと会館コンペ

       1935     土浦亀城邸 そごう百貨店(村野藤吾):  パリ万博日本館コンペ

       1936     国会議事堂竣工    2.26事件 落水荘:日本工作文化連盟発足

       1937     東京帝室博物館竣工 静岡県庁舎竣工:パリ万博 日本館(坂倉準三):大連市公会堂コンペ:日支事変

       1938     愛知県庁舎竣工 鉄鋼工作物築造禁止 国家総動員法

       1939     忠霊塔コンペ 若狭亭(堀口捨己) 岸記念体育会館

       1940     建築資材統制:1941     木材統制規制

       1942     大東亜建設記念営造計画コンペ

       1943     在盤石日本文化会館コンペ 惜檪荘(吉田五十八)

       1944     建築雑誌休刊 浜口隆一「日本国民建築様式の問題」

       1945     敗戦

       1946     プレモス74: 1947     NAU結成 『ヒューマニズムの建築』『これからのすまい』

 

虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築

布野修司

プロローグ

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。・・・・

Ⅰ 白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。・・・

公認の儀式

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。・・・・

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった。・・・

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。・・・

Ⅱ 建築の前夜

白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。・・・・

建築・哲学・革命

白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。・・・

スタイルとしての近代

白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930103日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた。・・・

「新興建築家」の「悪夢」

前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」は、山口文象19021978の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。・・・

建築修行

1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という。レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」と答えている。・・・・

Ⅲ 建築の精神 

精一杯のソーシャリズム

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』195212月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』19538月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。・・・

原爆堂の謎

白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい。・・・

伝統・民衆・創造:縄文的なるもの

 建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。・・・

Ⅳ 建築の根源

白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。・・・

木と石

 「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。・・・・

アジア

 西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」・・・

デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること

 おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。・・・・

エピローグ

白井晟一が亡くなったのは、19831121日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986626日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化19865月)という文章を書いた。・・・・

 

 特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都

キャンパスプラザ京都 20120601

 布野修司(滋賀県立大学)

建築計画学・地域生活空間計画学・環境設計・建築批評

 

[1] 戦後建築論ノート,相模書房,1981615

[2] スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

[3] 住宅戦争,彰国社,19891210

[4] カンポンの世界,パルコ出版,1991725

[5] 戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

[6] 住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,19971025

[7] 廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510 [8] 都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

[9] 国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

[10] 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310

[11] 曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

12]建築少年たちの夢 現代建築水滸伝、彰国社、2011610

o  布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,20038

o  布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,[植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017,監訳書

o  布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,20052

o  布野修司,カンポンの世界,パルコ出版,19917

o  布野修司,曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

o  Shuji Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

o  布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,20085

o  布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、20105


o   

o  戦争と平和を問い直す 立命館

o  10000字~12000

o  白井晟一の原爆堂計画+丹下健三と広島平和記念公園 3.11以後 

o  建築と戦争と平和

o   日常の中に戦争と平和がある。受験戦争、住宅戦争

 



[1] バート・S・ホール、『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、市場泰男、平凡社、1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが、1320年代にはありふれたものになっており、guncannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。 

[2] 文献上の記録として、火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが、科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。

[3] ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。


2025年8月16日土曜日

日本建築学会編(2018)『建築フィールドワークの系譜 先駆的研究室の方法論を探る』昭和堂

 日本建築学会編(2018)『建築フィールドワークの系譜 先駆的研究室の方法論を探る』昭和堂


「全ての地域に世界を読む」

 

活動期間:1976年-現在

主なフィールド:インドネシア、イスラーム都市、ヒンドゥー都市、中華都市、近代植民都市

研究室キーワード:歩く、見る、聞く、ビール、都市組織、変容プロセス、建築類型、研究-実践-検証

 

解説用キーワード:

ハウジング:住宅供給。供給の仕組みと、供給される住宅の双方を含む。

居住環境:建造環境と社会的環境、自然環境とが人の居住活動をつうじて結びあわされた複合的システム。居住の主たる場である街区スケールを中心に成立する。

タウン・アーキテクト:建築家としての立場と、地域住人の立場を兼ね備え、地域に密着した居住環境形成の専門家。地域コミュニティとフォーマルな計画とを媒介し、活力ある居住環境形成の要となる。 

■フィールドワークの方法論 

出発点

フィールドワークの根底には、住宅まちづくりのあるべき姿への問いがある。建築計画学の初心が出発点である。戦後の公共住宅のモデルとなった51C型や小学校、病院など公共施設の基本型(プロトタイプ)の設計を主導した東大吉武研究室が出身研究室である。1968年に全国の住宅総数が世帯数を超え、1973年には全都道府県で住戸数が世帯数を上回った。戸数は足りたけれど、その質はどうか、量より質へというのがスローガンとなっていた。私たちの生活が標準化されていく一方、プロトタイプを生みだした当の建築計画学の方も、制度を前提として、施設内部のみの問題を考察するようになっていた。吉武研究室は、戦後まもなくの住宅調査やの銭湯調査、貸本屋調査など、実際の住まい方との密な関わりを出発点としてきた。実際の町との関係が希薄化しているように思えた建築計画の現状に対して、原点に立ち返り、実地に学ぶことから住まうことの要求に応えるべきだと考えた。

 

インドネシアへ

1978年から東洋大学で教えるようになったことを契機に、実際の町での多様な住まい方の理解と多様な住まい方に対する建築的解法の探求を目的としつつ、新たな取組みとして機会を与えられて海外フィールド調査をはじめた。第二次大戦や戦後の日系企業進出などで、密接かつ困難な関わりを持つ隣人でありながら、当時は関心を向けられることの少なかった東南アジアをターゲットとし、様々なネットワークと出会う中でインドネシアのスラバヤをフィールドとした。原広研究室の世界集落調査などが先行していたけれど、国際共同研究というフレームを設定したのは建築計画における戦後最初の海外調査だったと思う。

1979年に初めてインドネシアを訪れ、スラバヤのカンポンと呼ばれる高密な居住地を1982年から毎年のように通った。カンポンは「スラム」ではない。一般的に言えば「都市村落urabn village」で、農村から都市へ出てきた移住者が、農村の相互扶助の仕組みや生活様式を基礎としながら形成されたインドネシア固有の居住地だった。発展途上国の大都市の拡大する市街地の典型であり、インドネシアが対応を必要とした最重要課題である。

 

フィールドで考える

カンポンの住居には、恒久的な建物から仮設の小屋まであり、形や規模も多様である。多様な人の活気にあふれる住まい方がそこにあった。目の前に展開するカンポンの多様性と活力の秘密を丸ごと理解するため、調査にあたっては、あらかじめ定型化した手法を考えていたわけではない。フィールドで考える、フィールドで問題を発見するのが基本姿勢。もちろん、いくつかの前提、基本的な構えはあった。ハウジングの提案をゴールとする一連の過程の中で、住み方を理解することである。実際にハウジングを提案することで人の生活形成を支えるのが建築計画の存在意義である。具体的には、未来のハウジングを考える基礎となる、住宅プロトタイプを発見するということである。プロトタイプの発見提案が、将来建設される住宅を考える基礎となる。もう1つは、実際に生活の営まれる住居の集合(近隣単位)を単位として、住居間の相互作用の中で住居を考える、ということである。住まい手の多様な活動は、住居の内外を横断しながら連続していた。住まい手の住まい方を成立させる住居の集合の仕方とその働きの中ではじめて、個々の住居の妥当性は判断できるはずである。

住居の集合した居住地を形成する街区、基本的にはコミュニティの単位(インドネシアではRW,RT)を調査対象とし、まずそのベースマップを準備(既存のものがあれば利用し、なければつくる)して、11つ全ての住居、施設を確認する悉皆調査をおこなう。はじめは予備調査で、住人の活動を観察し、住人へのインタビューをおこなうとともに、出会ったことをできる限り何でも記録し、写真を撮る。そして建物の平面、断面、立面図を作成する。同時に、居住地全体を視覚的に把握する、施設分布図や街路の連続立面を作成する。予備調査として複数の住居を観察する中で、個々の住居を越えて街区全体に通底すると考えられる特長的要素が発見される。発見した要素を指標に含めて本番の悉皆調査をおこない、街区全体に通底する要素を1つづつ確認しながら、カンポンが生まれる具体的メカニズムを考える。具体的メカニズムを総合することで、住まい手の活動や社会的、技術的要因の相互作用から生まれた、特定の形を持つ物理的要素の特定の仕方での組みあわさりからなる、都市組織と呼ばれる、街区(居住地)の構成システムが明らかとなる。

 

カンポンの世界

街区スケールの施設分布図では、ランガー(モスク)や見張所などカンポンの住まい方を支える特有の共用施設を記録すると同時に、水場、椅子など個々の世帯の利用する一時的構造物などを記録した。施設分布の調査から、自律的な住民の結びつきを起源とする、RTルクン・テタンガ、RMルクン・マルガというコミュニティが、個々の区画割りや道を調整し、住居の形成プロセスを支えていることが見えてきた。

個々の建物の物理的、形態的特長は、屋根の架構形式に規定されていた。材料、技術、価格のせめぎ合いの中で、規格化された屋根用トラスが市販部材として流通するようになっており、住宅奥行きを決めていた。悉皆調査では、部屋数、構造などを住居建物の物理的構成を把握する共通の指標とした。加えて、建物の形態的特長に影響する敷地条件として、敷地規模などを指標とした。住居を、物理的指標を基準に分類し、類型化することで、いくつかのプロトタイプを見出すことができる。

何より、第一に注目すべきは生活の単位としての世帯である。住居と都市組織の将来の変容を予想する場合には、1つの建物は、考察の基礎的単位となるとは限らない。例えば、建物に2つの世帯が住む場合、1方の世帯の居住部分のみが増築されて拡大したりする。世帯の生活は、それを構成する個々の行為が一続きに連なったシステムであり、ダプール(炊事場)など、行為と物のセッティングとしての「空間的要素」が、その部分々々を構成する。この空間的要素が室内化されることではじめて、部屋、建物はあらわれる。こうして、世帯の現状と来歴、空間的要素も調査の共通指標とするようになった。世帯の現状と来歴については、社会科学的調査と共通する手法で、社会、経済的背景の指標化と数量的把握をおこなった。公的統計も併せて参照する。建物、世帯、空間的要素の情報を集約し、総合してはじめて、街区スケールで展開する住居の変容プロセスが浮び上る。

 

フィールドの経験を普遍的手法へ一般化する

行為と物のセッティングとしての空間的要素に着目し、空間的要素の結びつきのシステムの時間的変化を辿ると、住居の更新プロセスにパターンが見出される。また、住居の平面を収集して適切な指標で類型化することで、出発点や到達点となる住居のプロトタイプを得ることができる。そして、住居の平面と住居の更新プロセスのパターンとを重ねあわせることで、プロトタイプを基準としてそこから派生する各住居の更新パターンの全体像、すなわち、カンポンの構成メカニズムを得ることができる。カンポンの多様な外観は、住居のプロトタイプと、個々の更新プロセスの重層によって生まれている。

生活が営まれるところではどこでも必ず、生活を構成する部分として、地域で歴史的に見出されてきた空間的要素と、生活の発達に伴うパターン化した住居の変容プロセス、プロトタイプとなる住居が存在する。それらに辿りつくまで、フィールド調査では、指標を見出し、組みあわせを試し続ける。調査者は探偵(あるいはスパイ)のようである。目の前で繰り広げられている出来事から、都市組織の構成メカニズムに関わる要素とその変容プロセスの法則性を推理し、謎解きをする。現在の都市組織の構成メカニズムを把握することで、将来の姿を検討することが可能となる。カンポンの調査では最終的に、カンポンの今後の形成に資するカンポン・ハウジング・システムを提案した。

住居のプロトタイプと更新プロセスのパターンは、地域によって多様である。しかし、住居のプロトタイプと更新プロセスのパターンを捉えること、という都市組織の構成メカニズムを読み解く手法は、どの地域でも共通して用いることができる。加えて、都市組織は都市の一部であり、都市の動態を形づくる。複数の都市組織の集合として、都市の動態を読み解くことが可能となる。

 

■フィールド日記

カンポンからグローバルへ

都市での住まい方を規定する要素は多岐にわたる。カンポンの独自性に目を向けると、移住元の伝統的な住まい方とヴァナキュラー建築が問題となる。政治、政策も住まい方に広範で長期的な影響を与える。1976年にハビタット(国連人間居住)会議があり、住まい方と住居は国際的な政治の課題となっていた。カンポン調査と並行し、都市居住の広がりを見据えて、地域の生態系や歴史を含めて、東南アジア一帯で住まいを総合的に理解する目的でタイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール各地をまわり、また日本国内をまわった。大学の同僚には民族建築学の太田邦夫、学長には人間居住の第一人者である磯村英一がいた。JICAの東南アジア遺跡保全事業に携わっていた千原大五郎、東南アジア研究所の高谷好一らに出会った。スラバヤではカンポンのハウジングを精力的に研究、実践するヨハン・シラスに出会い、長年の共同調査者となった。1974年からマニラでセルフ・ビルドのローコスト・ハウジングに携わっていたNGOフリーダム・トゥ・ビルド、1978年からバンコクでサイト・アンド・サービスを実践するNGOビルディング・トゥゲザーを主催したアレグザンダーの弟子エンジェルに出会った。フィールドである東南アジア、研究活動の場である日本での出会いの度に、研究の視野、対象は広がった。

インドネシアが世界一のイスラーム教徒人口を有する国家だったことから、1987年からイスラームの都市性の研究に関わり西川幸治、応地利明に出会う。その縁で京都大学へ移り、またイスラーム以前の東南アジアに受容されていたヒンドゥーの都市と都市組織も1991年から研究の射程に入った。インドネシアはまた、オランダの植民地でもあった。1997年からオランダ、イギリスなどの近代植民都市と都市組織のグローバルな研究をおこなうこととなった。東南アジアは華人移住者とも縁が深い。華人の都市と都市組織の研究も並行しておこなった。

いずれの研究でも、調査地は具体的な居住地である。日記には、調査地での食事やレストランのカードから、フィールドで得たグローバルな研究フレームの着想まで、スケールを往還し、文化間を横断しながら日々の出来事が随時連続的に記録されている。日記で一日を振り返る。時間がないことも少なくないが、フィールドを越えて、日常生活の場である日本でも日々の出来事は継続的に記録している。日記は、個々のフィールドの記録を結びつけ、また研究も教育、社会活動も等しく記録し、それらを相互に結びつけて、研究、教育、社会活動それぞれに新たな広がりと一貫性とを生みだす源泉となっている。

 個々のフィールド調査の図面やデータは基本的に日記とは別に採る。しかし、移動中の出来事や緊急性を要する場合は手帳に殴り書きで記録することもある。上手い下手を気にすることはない。大切なのは、体験を記述し伝達することである。

 


■フィールドワークのスケッチ

フィールド調査は、教育・学習の最も総合的で最良の場である。教員、院生、学生、複数人からなるチームでおこない、記録を共有する。現場をつうじて、言語化されない知識、調査の姿勢が伝達される。

基本はとにかく歩くことである。インタビューを伴わない場合、毎日1日に1020kmは歩く。歩いて自分から探索し、見た分だけ、都市組織の成り立ちを理解する鍵と洞察を得ることができる。複数の街区に分かれて調査し、昼に集合してビールを飲みながら、午前中の発見を交換し午後の調査方針を立てる。ビールを飲むのは好きだからだが、それだけでなく、もう1つ理由があると主張したい。アルコールはイスラームや厳格なヒンドゥーの地域ではフォーマルには禁止されている。しかし、そうしたフォーマルな世界とは別に、必ず飲みたい人間はいて、インフォーマルな仕方で取り扱われている。ビールを飲むことで、日常のインフォーマルな構成原理に触れることができる。



図 行為と物のセッティングとしての空間的要素(ダプール(炊事場)と屋台)

生活の焦点となる空間的要素は重点的に調査をおこなう。カンポンでは特長的な空間的要素として、水場、ルアン・タム(居間・客間)、ルアン・ティドゥ―ル(寝室)、カマール・マンディー(バスルーム)、ダプール(炊事場)、ルーマー・マカン(食事スペース)、屋台が見出された。ダプール(厨房)では、点景のスケッチと道具調査をおこなった。屋台は、カンポンの生活を支える多様なサービスを担う重要な空間的要素である。


  街区スケールの都市組織の悉皆調査

悉皆調査では、調査項目を調査シートに記入するか、ベースマップに直接記入する。調査データを元に街区の施設分布図やアクティビティマップが作成される。



 

図 カンポンの住まい方を支える特有の共用施設 ランガー(モスク)、バトミントン・コート、ポス・ジャガ(休憩用東屋)、移動トイレ

他にも代表的共用施設として、見張所、学校、パレ(集会所)、がある。ストリートマーケットを構成する屋台も共用施設といえる。


 住居類型の変容プロセス

生活を構成する空間的要素と、建物の空間構成に影響する指標、世帯の社会的背景の指標、そしてインタビューと重ねあわせることで、住居の変容プロセスを跡付けることができる。はじめは木、竹の骨組みだけの小屋と井戸がある。空間的要素が所有権の安定、資金の保持とともに、空間的要素はテンポラリーな構造からパーマネントな構造へ建替えられ、室内化されて住居へ統合される。ルアン・タム、ダブールが世帯の核となり、そこからプロトタイプとなる住居、あるいは変則的住居が発達することがわかる。住居の発達の原動力となるのは、世代の増加など世帯の構成要素の変化である。

 

■フィールドワークの成果

多様な地域性の把握では、調査者の能力が問われることとなる。調査者は目いっぱいアンテナを広げ、感覚を研ぎ澄ますことが必要となる。フィールド調査での姿勢として自身が語ってきたことを、滋賀県立大学で学生たちが「フィールド調査の心得7カ条」としてまとめてくれた。

一.臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び、快感がなければならない。

二.臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるのか、どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

三.臨地調査において必要なのは、現場の臨機応変の知恵であり、判断である。不満の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは往々にして邪魔になる。

四.臨地調査において重要なのは「発見」である。また、「直感」である。新たな「発見」によって、また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

五.臨地調査における経験を、可能な限り伝達可能なメディア(言葉、スケッチ、写真、ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

六.臨地調査において目指すのは、ディティールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。

七.臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって、臨地調査はその根拠を獲得することができる。

フィールド調査は日本でおこなうこともできる。2000年から最も身近な京都で、地元の都市組織に関わる建築家、建築学生(コミュニティ・アーキテクト)からなる大学横断のNGO、京都CDLの活動が展開された。コミュニティ・アーキテクトの活動は、2005年に滋賀県立大学へ移ってから、近江環人へと継承された。また、日本でのセルフ・ビルドの取組みとして、工務店とともに木でものづくりをおこなう木匠塾を1991年からおこなってきた。共同調査の成果は、スラバヤ工科大学のシラス教授による、インドネシアの集合住宅ルマ・ススンのプロトタイプの設計、建設へと結実した。2000年にはまた、地域の気候、生態に適合した集合住宅プロトタイプ、スラバヤ・エコハウスを共同で建設した。



図 スラバヤエコハウス

 













2025年8月15日金曜日

写真 巻頭スクロール「被災地201410-11」撮影竹内泰、建築討論003、2015

 被災地の今ー復興まちづくりの課題と展望,4回けんちくとろん牧紀男 (京都大学)・室崎 益輝(兵庫県立大学)・姥浦 道生(東北大学)・槻橋 修(神戸大学)・竹内 泰(宮城大学),建築討論003,日本建築学会,201501

写真 巻頭スクロール「被災地201410-11」撮影竹内泰、建築討論003、2015














































布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...