裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,はじめに、建築資料研究社,2000年3月10日
はじめに・・・裸の建築家
「裸の建築家」とは、もちろん「裸の王様」のもじりである。「建築家」は「王様」のように威張っているけれど、まるで「裸の王様」のように何も身につけていないじゃないか、という揶揄の意が込めてある。
一体、「建築家」とは何者か。因みに広辞苑(第四版)を引いてみる。
なんと「建築家」などという項目はない。「建築家」というのは幻である。かろうじて見つかるのは「建築士」という語である。
●けん‐ちく【建築】 (architecture)(江戸末期に造った訳語) 家屋・ビルなどの建造物を造ること。普請(フシン)。
「建築」というのはここでは簡単だ。「建築家」とは「建築」する人のことだ。しかし、なぜ「家」などというのか。「芸術家」「作家」「美術(彫刻・画)家」「小説家」などと肩を並べるというニュアンスがある。もっとも「政治家」などというのもある。
●けんちく‐し【建築士】 建築士法所定の国家試験により免許を受け、設計・工事監理などの業務を行う技術者。建設大臣の免許を受ける一級建築士と、都道府県知事の免許を受ける二級建築士・木造建築士がある。
「建築家」が「建築士」と同じかというと違う。「建築士」でない「建築家」は山ほどいる。俺は「建築家」であって、言ってみれば「特級建築士」だから「建築士」の資格などいらない、「建築士」とは次元が違う存在だ、と豪語した(する)有名「建築家」がいる。「建築士」でない「建築家」は少なくとも日本では「建築」できない。どうするか。誰かに資格を借りることになる。要するに「建築士」とパートナーを組むことになる。「建築」できない「建築家」などおかしいではないか。だから「裸の建築家」である。
しかし、どうも「建築家」というのは「アーキテクト」という西欧語の訳語らしい。しかし、広辞苑には「アーキテクト」というのもない。「アーキテクチャー」は次のようだ。
●アーキテクチャー【architecture】
〓建築物。建築様式。建築学。構造。構成。
〓コンピューター‐システムの論理的構造全般のこと。また、ある立場の利用者から見たコンピューターの属性。「ソフトウェア‐―」「ネットワーク‐―」
「建築物」というと「ビルディング」とどう違うのだろう。「建築様式」というのは「アーキテクチュラル・スタイル」ではないか。「構造」は「ストラクチャー」、要するにわからない。それに、どうやら「アーキテクチャー」というのはいわゆる「建築」に限らないようだ。「電脳建築家」(コンピューター・アーキテクト)などという。もともとギリシャ語の「アルキテクトン」から来ている。「アルキテクトン」とは根源(アルケー)の技術(テクトン)のことだ。どうも「建築家」が偉そうなのはヨーロッパの伝統に根ざしているかららしい。根源的技術(アーキ・テクトン)を司るのが「建築家=アーキテクト」なのである。
確かにヨーロッパの伝統において「建築家」は大変な存在である。「建築家」は単に建築物を建てるだけでなく、道路、橋梁、水道、港湾などのような土木工事も行う。また、築城のみならず投石機など武器製造にも携わる。日時計、水時計、揚水機、起重機、風車、運搬機など機械製作なども行う。さらに、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化されるのが「建築家」なのである。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。
この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想なのである。
しかし、理想は理想であって、実態はどうか。そんな「建築家」などますます複雑化する現代社会に望むべくもない。だから、「裸の王様」ではないか、そんな「建築家」など最早幻ではないか、というのがここでの出発点である。
「建築家」が「裸の王様」であることを認めることから出発するとき、何が問題となるのか。
ややこしいのは、以上のように、そもそも「建築家」という概念や言葉が一般に流通していないことである。予め仲間うちの理念でしかない。一般人にとって、「王様」などいないのである。いるのは「建築士」であり、「図面屋」(絵描き屋、漫画屋)であり、「土建屋」であり、「建築業者」であり、「大工・工務店」であり、せいぜい「建築屋」さんなのである。
そこで自称「建築家」は、「一般大衆」を馬鹿にしにかかる。そして、啓蒙にかかる。「建築」というのは「芸術」である。「建築家」というのは「芸術家」なのだ。日本の町がちっとも美しくならないのはわれわれ「建築家」が尊敬されないからだ。
そこで「一般大衆」は反撥する。何を偉そうな。美しい日本を破壊してきた張本人こそ「建築家」ではないか。信頼できるのは誠実な大工さんや職人さんであって、口先だけの「建築家」ではないのだ。
こうして分裂の溝は深い。
「裸の王様」の世界は、「建築家」の概念が移入されて以来、もう一世紀も、この溝を埋められないでいる。「建築」という理念のみが語られ続けている。「建築家」の幻想のみが浮遊している。
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