現代建築家批評29 『建築ジャーナル』2010年5月号
現代建築家批評29 メディアの中の建築家たち
廃墟
磯崎新の零地点
磯崎新は「廃墟」に拘り続ける。敗戦を14歳で迎えた。空襲で廃墟となった大分が磯崎の原点である。磯崎家のルーツである瓜生島は大地震で一瞬にして沈んでしまったという[i]。その伝説が「根無し草」として生きる原点だという(「私の履歴書②」)。
磯崎新の最初の作品である「孵化過程」=ジョイント・コア・システムによる「空中都市」に、何故、ギリシャ神殿の廃墟が重ね合わせられているのか。
大学生の時、同人誌に廃墟ばかりの挿絵を描いていて、野間宏[ii]に「どうして廃墟なのですか」と言われたという。翌年、血のメーデー事件の日(1952年5月1日)[iii]に、磯崎新は皇居前で多数の外国製の自動車が横転させられて炎上している光景を目撃する。その光景は、廃墟の記憶に重ねられることになる。
1960年、日米安全保障条約の日本国会での批准が成立した日(6月15日)の明け方、抗議のデモ隊の一員として、磯崎新は首相官邸の前にいた。一人の女子学生が命を落としたその夜の東京の中枢部、国会周辺の光景も磯崎の眼に焼きつけられ、記憶に重層化されることになる。
1968年のミラノ・トリエンナーレに「ふたたび廃墟となったヒロシマ」を出展している。そのミラノ・トリエンナーレは学生達に占拠され、潰されてしまう。そして、Expo’70(大阪万博)の仕事をしていたお茶の水のアトリエ周辺は、学生たちの街頭闘争によってしばしば争乱の場と化した。磯崎新の原風景には、燃え上がる都市、そして廃墟の光景が重層化されている。ポストモダン建築の代表作と目されるようになる「つくばセンタービル」の竣工と同時に、その廃墟と化した姿をドローイングにしている。1996年のヴェネジア・ビエンナーレでは阪神淡路大震災の瓦礫を会場に持ち込んでいる。
何故、廃墟なのか、あるいは瓦礫なのか。
廃墟をめぐっては、A.シュペアー(A.ヒトラー)の「廃墟価値の理論[iv]」をめぐって多少考えたことがある[v]。そこで磯崎も含めて、J.ソーンやJ.スターリングなど自らの作品を廃墟として描いた建築家にも触れて、次のように書いた。
「もちろん、われわれはここで、廃墟の美を理想化するロマンティシズムの系譜を想起すべきであろう。西欧的な知の体系を一貫して強固なものへと構築し続けてきたロゴスの運動に対して、一方で、一切をカオスへと還元しようとするそうした精神の運動を跡づけることができるのである。建築家における純粋形態への志向と、廃墟への志向も、同じような関係において理解することが出来る。完璧な構築物としての永遠の建築への希求と、一切の構築物が解体して時間が停止した廃墟への憧憬は、永遠性を手に入れようとする欲望において分かち難く結びついている。」。
磯崎新は「廃墟」は「想像力の源泉」だという[vi]。そして、「建設と破壊、生成と崩壊が混在している」のが「建築」という「構築されていく形式」なのだという。
大分
1931年7月23日、大分に生まれた。そのデビューから建築家として自立して行く過程で出自の大分という土地の力、人的ネットワークが大きく寄与していることはその作品歴が示している。「私の履歴書」は「大分」について多く割いている。また、「大分県立大分図書館」(1966)の転生に関連して出版された『建物が残った 近代建築の保存と再生』(磯崎新編著、岩波書店1998年)には、 磯崎新が建築家となるにあたって大分が如何に大きかったについて詳しく書かれている[vii]。
祖父・磯崎徳三郎は米問屋を営み、大分市議会議長を務めた地元の有力者であり、父・磯崎操次(1901-1951)は大分貨物自動車会社を経営する実業家であった。父は、上海の東亜同文書館、慶應義塾大学で学んだ「モダニスト」で、大分で「新興俳句運動」を先導する一人であったという[viii]。父の仲間に「マルクス主義に傾倒して東大新人会のリーダーになりながら、超国家主義に転向した小説家」林房雄[ix]、「歌人で、政界のフィクサーとうわさされた右翼の大物」三浦義一[x]がいたが、父は大分を離れず、「特高の監視下」におかれるなかで「茶や能といった芸事の世界にこもってしまった」(「私の履歴書」③)。
敗戦は大分中学2年生の時に迎えた。母が敗戦の年の4月に交通事故で亡くなっている。中学生の頃、小遣いをためてやっと買えた本が瀧口修造の『近代芸術』と小林秀雄訳『ランボウ詩集』の2冊だという[xi]。学制改革で大分第一高等学校(現・大分上野丘高校)2年に編入、「キムラヤ」という画材屋で芸術談義にふけった。その時の仲間に、数年後に「新世紀群」という美術団体を結成する、吉村益信[xii]、風倉匠[xiii]、赤瀬川源平[xiv]などがいる。また、高校では生徒会長になって、旧態依然たる慣習やルールに抗議して座り込んだ。その時の同級生に赤瀬川源平の兄、赤瀬川隼[xv]がいた(「私の履歴書」⑤)。
磯崎新の出発点が敗戦直後の「芸術談義」と「反抗」の時代にあることは疑いがない。何故、大分からかくも人材が輩出したのか。バックグラウンドとしての戦前戦中にかけての大分の知的風土は、ここでは余裕がないけれど、探ってみる価値がある。
駒場寮
1950年、東京大学理科Ⅰ類に入学し(新制2期生)、駒場寮に入る。「ゴミ溜め」と呼ぶに相応しかったというが、僕が入学した1968年頃の駒場寮も似たようなものであった。その「ゴミ溜め」の中に、同じ新入生として、「びっくりするほどスマートな」山田洋次[xvi]がいたという。当時の駒場寮では、学生たちは盛んにマルキシズムを論じ、異様な熱気に包まれていたという。
1968年の駒場寮もそうであった。「戦争を知らない子どもたち」の世代で、まるで「戦争ごっこ」と評された全共闘運動であるけれど、告発する「戦後過程」「マルキシズムの形骸化」をめぐる理論闘争とは別の次元で、「戦争」を擬似的に追体験する気分はあった。磯崎新が「1968年」に拘り続けるのは、あるレベルで同じ位相の問題を見続けているからなのだと思う。
駒場寮時代に、「美術研究会」に属していたことで文学・芸術と共産主義をめぐる小さな集まりに参加し、安部公房[xvii]から「お前、生意気だな」と言われたというエピソードが「私の履歴書」に書かれている。そこでは、安部や勅使河原宏[xviii]らの「世紀の会」、岡本太郎[xix]、花田清輝[xx]、埴谷雄高[xxi]、野間宏らの「夜の会」、瀧口修造[xxii]の「実験工房」などが言及されるが、到るところに芸術集団の胎動があった。磯崎によると、「反体制だとして抑圧されていた前衛運動が息を吹き返し、60年代にかけて大きなうねりになっていく」(「私の履歴書」⑥)のである。
建築界でも同様である。戦後まもなく、「国土会」(1945年9月)「日本建築文化連盟」(1946年)「住文化協会」(1946年)「日本民主建築会」(1946年7月)「全日本建築民主協議会」(1946年9月)など、次々に集団が結成された。そして、以上のような様々なグループが大同団結して結成されたのが「新建築家集団NAU(New Architects Union)」(1947年6月)である。
しかし、若き芸術家たちの梁山泊のうちいた磯崎は建築界のそうした動きとは接点はない。1950年の段階で、建築学科という存在すら知らなかったのである。しかし、大学1年生の秋、雑誌『国際建築』の特集(1950年11月号)で眼にした「広島計画」によって、丹下健三を知ることになる。その特集に刺激されて、大分への帰省の途中でわざわざ広島に降りて、建設中の「広島市平和記念公園及び記念館」を見ている。
建築学科へ
1951年、2年生に進級した春、父親が脳出血で亡くなる。窮地を救ってくれたのは父の友人たちで、同級生津末宗一の紹介で、駒場寮を出て仏文学者渡辺一夫[xxiii]東大教授の本郷真砂町の邸宅に移って書生となる。雑事の傍ら子息の数学の家庭教師をしたという。英語を見たのは高橋康也[xxiv]だという。僕は駒場の授業で高橋康也に英語を習った。ベケットの何かを読んだ記憶がある。
何故、建築学科を選んだかについては、「美術研究会」に属した先輩が何人か建築に進学した影響があるかもしれない、また、工学部でアートということになれば建築じゃないかという程度なことだったという[xxv]。丹下健三という名前を知ったけれど、本郷の先生だとは知らなかったのである。もっとも、磯崎新にしてみれば、還暦を過ぎて『建築家捜し』(1996)などという本を出すように、一貫して「建築家」あるいは「建築」なるものを追い求めてきたし、いまも追い求めつつあるということであろう。建築学科を選択した後、ル・コルビュジェの『マイ・ワークス』の中に「アクロポリスが私を反逆者に仕立てた!」という一語をみつけて、ただ、建築をやりたい、私は建築家になろうと、はじめて思ったと書いている[xxvi]。
建築学科に進学したのは35名、僕が面識のある同級生に川上秀光[xxvii]、栗原嘉一郎、荻原正三、武藤章、長峯晴夫、富安秀雄らがいる。「建築学科という科に入っても、私のクラス、35名程のうち、建築家という職業を選んだのは5名程度にすぎなかった」[xxviii]と振り返る。一年先輩に鹿島昭一、高瀬隼彦、船越徹ら、一年後輩に青山博之、石田頼房、岡田新一[xxix]、坂根厳夫[xxx]、野村東太らがいる。栗原嘉一郎、荻原正三、岡田新一らは吉武スクールである。
「ぼくは、学生生活のどまんなかに、血のメーデーをかかえこんだ世代に属している。この日、学生達は、宮城前広場に誘い込まれ、殲滅された。・・・全学連の活動家が、突然スパイ容疑で、査問委員会にかけられ、すぐれた才能をもった友人が、山村工作隊[xxxi]で栄養失調に陥り、廃人となって大学から消えていった。すべてが重苦しい時代だったように思われる。・・・重苦しい日々をもった学生にとって、革命は絶望的な状況をいくらかでも慰撫する目標であった。少なくとも1950年頃までは、革命の可能性がまともに論じられた。そのたしかな目標への行動が、次々に閉塞させられ、崩壊を続けたのである。」[xxxii]。
血のメーデー事件の日に、皇居前で多数の外国製の自動車が横転させられて炎上している光景は、廃墟の記憶に重ねられることになる。
翌年(すなわち3年生)の夏休み、磯崎新は、上述の「新世紀群」のグループ展に参加している。「展覧会とはいっても、公園の柵に持ち寄った絵を立て掛けただけ」というが、「キムラヤ」「駒場寮」の「芸術談義」と「反抗」のクリマ(雰囲気、風土、時代風潮)の延長の中で学部の生活は送られたように思える。
磯崎新は、藤島亥治郎[xxxiii]の仕事のアルバイトで模型づくりをしている。また、それが縁で民家調査を手伝っている[xxxiv]。伊藤鄭璽(ていじ)[xxxv]、田中文男[xxxvi]、稲垣栄三[xxxvii]らと一緒であった。藤島亥治郎からは建築史を専攻すると思われたらしいけれど、設計するならやはり丹下さんのところでと思った。卒業論文の題名は『高層建築の諸問題、スカイスクレーパーの史的分析』である。
大学院時代
卒業論文の指導教官であった丹下健三に誘われて、1954年、大学院(丹下研究室)に入る。
「下っ端のドラフトマンとして、広島計画や香川県庁舎の図面、模型作りなどを連日、手伝った」(私の履歴書⑦)。最初に描いたのは広島ピースセンター本館のインテリアの実施図面である。香川県庁舎については最初から関わった。続いて今治市庁舎・公会堂に関わる。
しかし一方、丹下研究室での図面描きや模型づくり「以外の時間はおよそ建築の本道からはずれることばかりに費やす」。そのひとつが親しい友人の伊藤鄭璽、川上秀光と三人で「八田利也(ハッタリヤ)」なるペンネームで『建築文化』誌に連載したものをまとめた『現代建築愚作論』(1961年)である。「住宅の間取りをいじっただけでモダンを気取る建築や国の政策をかなりいい加減にこき下ろした」ものだ。
この「住宅の間取りをいじっただけでモダンを気取る」という批判は、「2DKを機械的に蔓延させた住宅作家」のみに向けられているのではなく、第一に、「建築計画学」を標榜し、打ち立ててきた西山スクール、吉武スクールに向けられたものだ。もしかすると、池辺陽、広瀬鎌二といった工業建築生産派も批判の対象に入るかもしれない。「住宅は建築か」[xxxviii]と、磯崎新は最近でも「住宅作家」を挑発し続けている。
丹下研究室に入った頃、丹下研究室は「彫刻室」を根城にしていた。「構造力学や耐震技術など技術偏重だった東大建築学科でこのころ「都市計画」の講座が始まった。若き助教授の丹下さんもこれに加わる。ところが議論の中心は、学校や病院など公共建築をいかに近代的に設計し、国の政策を具体化していくかということ。デザインの美を目指した丹下さんの都市計画とは発想がまるで違っていた」。この丹下研究室と西山・吉武研究室との対立は、「作家主義」と「調査主義」の対立として書かれている。丹下健三を先頭に磯崎、黒川といった錚々たるメンバーが昼食を食べにいくのが格好良かったと富田玲子さんは書いている。「彫刻室」で、僕らは「裸婦」のデッサンをし、彫塑のまねごとをしたのであるが、大学院時代かなりの期間寝泊まりした部屋は「彫刻室」の隣室であった。
磯崎に、この東大建築学科三階に出入りしていた「大文」(大工の文さんこと田中文男)さんについて書いた文章[xxxix]がある。大学院時代、磯崎は、独自に設計活動開始する。「高崎山万寿院別院計画 」そして「大分県医師会館」の図面を引いたのは本郷菊阪の木賃アパートである。「大文」さんにコンサルテーションを頼んだという。この「大文」さんと僕は、1990年代を通じてとことんつきあうことになる。内田祥哉先生に頼まれて「職人大学」(現・ものつくり大学)設立を手伝うのである。随分と怒鳴られ、お酒もご馳走になった。若き日の磯崎新についても繰り返し聞いた。
五期会
NAUの崩壊(1951年)の後、建築研究団体連絡会(「建研連」)が発足するのは磯崎新が大学院に入った1954年4月のことである。学部生の時から、磯崎新は国際建築学生会議に関わっていた。京都大学の絹谷祐規とともにレポートをつくったという。時代は少し下るが、絹谷祐規は西山夘三の後継者としてその将来が期待されていたがオランダで交通事故死する(1964年)。東京大学に都市工学科ができて、京都大学に建築第二学科ができる。西山夘三が絹谷に担当を予定したのが「地域生活空間計画」講座である。やむなく「建築計画講座」を巽和夫に譲り、自らが異動、助教授として建設省から呼び戻したのが上田篤である。因縁めくが、僕が1991年に招かれ?たのが、この「地域生活空間計画」講座である。
その後、磯崎は「火曜会」に属し、「建研連」の一員として「総評会館」の設計打合せに書記として関わったりしている。そして、「五期会」の設立(1956年6月)には積極的に関わっている。当時の建築界の中心テーマのひとつは「共同設計」であった。「総評会館」の共同設計には、W.グロピウスがアメリカで組織したTAC幻想があったと磯崎はいい、さらに丹下研究室の「貴族的なデザイン」への批判があったという。「できあがったデザインは貴族的(?)といわれた繊細なプロポーションをダサくしてしまった凡庸なもので、ここにみられた美意識のレヴェルはその後の総評の運命を象徴してもいた」[xl]。
「五期会」の設立は大学を出て2年であり、既に建築家になりかけた主要メンバーとは、多くの点で問題意識のズレがあったけれど、機関誌『設計・組織』の発行責任者であった。「《機関誌を制する者は、その会を制する》という組織運動の原則を実現してみようと、ひそかに策謀した」のだという。しかし、「結局、ていよく熱心な会員として下働きに終始したような結果となった」[xli]。振り返って「3年程の活動の最後段階でオルグされてここに入会していた私が造反の志をいだいたのも、組織的な決定が必ず内部的抑圧に転ずることを正面きって問題にできないことに由来している」という。
『五期会』以降、磯崎新は「日本建築家協会」に加入することもない。徹底して、「個」に拘ってきたように見える。後に振り返られたものを読む限りにおいては、磯崎新は、丹下研究室における設計活動や戦後建築運動にのめり込んだ印象は少ない。『現代建築愚作論』に示される斜に構えた批評家的なスタンスは、おそらく生来のものであろう。一方実際、50年代の磯崎には、もうひとつの世界があった。
そして、自立に向かう最終局面において「60年安保」がやってくる。
[i] 慶長元(1596)年の大地震で一夜にして海に呑まれたという。
[ii] 小説家、評論家、詩人。1915年神戸市長田区生-1991年死去。大阪府立北野中学校、旧制第三高等学校、京都帝国大学文学部仏文科卒業(1938年)。敗戦後、日本共産党に入党。『暗い絵』(1946年)によって、作家生活に入る。『真空地帯』(1952年)で毎日出版文化賞。日本共産党から除名(1964年)。『青年の環』(1971年)で谷崎潤一郎賞。1974年、「日本アジア・アフリカ作家会議」の初代議長に選出される。
1977年、『差別・その根源を問う』『狭山裁判』など部落問題に関する言論活動が評価され、松本治一郎賞を受賞。『野間宏作品集』(全14巻・岩波書店)で朝日賞を受賞。
[iii] 1952年のメーデーの日(5月1日)に東京で発生した、デモ隊と警官隊とが衝突した騒乱事件。「再軍備(警察予備隊)反対」「人民広場(皇居前広場)開放」を決議して、行進を行ったデモ隊の一部2,500名が、全学連と左翼系運動員に先導され、日比谷公園正門から皇居前広場になだれ込んだ。デモ隊は外国人自動車等にこん棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。警官とデモ隊は激しく衝突、流血の惨事となった。警察官側負傷者は重傷者約80名、軽傷者約670名、外国人負傷者は計11名、デモ隊側は、死者1名、重軽傷者約200名に及んだ。
[iv] 単純化すれば、「永遠の建築を創るためには予め廃墟と化した建築をつくればいい」という理論(理屈)。
[v] 「廃墟とバラックー建築の死と再生」(小阪修平編『地平としての時間』(作品社、1987年))『廃墟とバラックー建築のアジアー』布野修司建築論集Ⅰ(彰国社、1998年)所収。
[vi] 「想像力の源泉としての廃墟」『Lotus International』1997.02
[vii] 磯崎新編著『建物が残った 近代建築の保存と再生』岩波書店1998年
[viii] 俳名を磯崎藻二として吉岡禅寺洞が福岡で1918年に創刊した新興俳句派の俳誌「天の川」同人であった。
[ix]小説家、文芸評論家。本名後藤寿夫。1903年生-1975年死去。旧制大分中学(現県立大分上野丘高校)、第五高等学校卒業、東京帝国大学法科中退。『科学と芸術』(1925)。 京都学連事件(1926)で検挙。小説『林檎』でプロレタリア文学作家として出発する。
『プロレタリア大衆文学の問題』(1928)。治安維持法違反で検挙(1930)、豊多摩刑務所に入る。 転向して出所(1932)。『浪漫主義者の手帖』(1935)、『プロレタリア作家廃業宣言』(1936)。『転向について』(1941)。公職追放(1948)。 『文学的回想』(1953)。『大東亜戦争肯定論』(1963)。
[x] 1898年生 - 1971年死去。右翼活動家。衆議院議員。旧制大分中学-早大予科-九州水力(後の九州電力)。国家主義運動に参加、「資本家階級独壇の社会組織、経済機構および諸制度の合理的改革」を綱領にした大亜義盟を創立(1932)。国策社を設立(1935)。政財界や軍部と交流があり、東條英機と親密になる。戦犯容疑で収監(1945年)。反共を掲げる米軍総司令部G2に評価され、米軍と強力なコネを持ち、財閥解体の圧力の中、三井十三家を混乱から救ったとされる。
[xi] 「磯崎新 建築は内部に闇を抱える空間である」『建築家のおくりもの』(王国社、2000年)
[xii] 1932年生。1955年武蔵野美術学校卒業。ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展(銀座画廊、1960)。ヒューマンドキュメンツ(東京画廊、1984)。吉村益信の実験室(大分市美術館、2000)
[xiii] 1936年生。ネオダダオルガナイザーズの結成(1959)に参加。前衛芸術の日本1910-1970展(ポンピドゥーセンター1986)1986年12月-87年3月 スペイン、フランス、ドイツ、オーストリア各国でパフォーマンス。1988年 土方巽追悼公演(石井満隆、小杉武久とトリオ、アスベスト館 。ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスでパフォーマンス公演(1992) 。ネオ・ダダ写真展(福岡市美術館1994)、アジア美術トリエンナーレ展(バングラデシュ1995)。日本の夏1960-64展(水戸芸術館1997)
[xiv] 1937年横浜市中区本牧町生。本名赤瀬川克彦。尾辻克彦は小説家としてのペンネーム。「父が消えた」で、1981年、第84回芥川賞を受賞。大分市で育つ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。
[xvii] 1924年東京都北区生-1993年死去。小説家、劇作家、演出家。主要作品に、『壁 - S・カルマ氏の犯罪』『砂の女』(読売文学賞)『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』など。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成に取り組んだ。
[xviii] 1927年東京生-2001年死去)。草月流三代目家元、映画監督。東京美術学校卒。木下恵介に師事。1964年、勅使河原プロを設立。「砂の女」で、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭銀賞。1980年草月流3代目家元を継承。
[xix] 1911年 漫画家の岡本一平、歌人・作家・かの子の長男として川崎に生まれる- 1996年。1929年 慶應義塾普通部卒業、東京美術学校洋画科入学、半年後中退。1929年渡欧。1936年 油彩「痛ましき腕」制作。アンドレ・ブルトンに絶賛される。1940年帰国。
1954年「現代芸術研究所」設立。1956年 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作。1970年大阪の日本万国博覧会のシンボル「太陽の塔」制作。1989年フランス芸術文化勲章受章。
[xx] 1909年福岡県生まれ-1974年。旧制福岡中学、第七高等学校入学、退学。京都帝国大学文学部選科生として入学・除籍。戦後、新日本文学会に入会。雑誌『新日本文学』編集長。1956年吉本隆明と戦争責任論争。著書に『復興期の精神』『鳥獣戯話』(毎日出版文化賞)など。未來社より『花田清輝著作集』(全7巻、生前の出版)、講談社より『花田清輝全集』(全15巻)
[xxi] 1909年台湾新竹生まれ-1997年。作家、評論家。本名般若豊。昭和20年12月30日付創刊号に第一章が掲載されてから、死の直前まで書き継がれた大長篇小説『死靈(しれい)』は、全15章予定の9章までを描いて未完に終わった。
[xxii] 1903年富山市生-1979年。美術評論家、詩人。1921年富山県立富山中学校卒業。 1923年4月慶應義塾大学予科入学・12月退学。1925年再入学。1930年アンドレ・ブルトンの「超現実主義と絵画」を翻訳。1931年、慶應義塾大学英文学部卒業。戦後は主に評論家として活躍。実験工房を主催するとともに、美術評論を数多く著した。
[xxiii] 1901年東京生-1975年死去。フランス文学者。東京帝国大学文学部仏文学科卒。辰野隆に学ぶ。東京大学教授(1948年)、文学博士(1956年)。二宮敬、串田孫一、森有正、菅野昭正、辻邦生、清岡卓行、清水徹、大江健三郎ら数々の文学者を育てた。フランソワ・ラブレーの研究で知られ、翻訳不可能と言われた『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳を完成させた。
[xxiv] 1932年東京生-2002年死去。サミュエル・ベケット、ルイス・キャロル、シェイクスピアなどを研究対象とし、ノンセンスなどの、文学における言葉遊びに光を当てた。日本英文学会会長、日本シェイクスピア協会会長を歴任。
[xxv] 数学と絵が得意で専攻を決めた(私の履歴書①)。『磯崎新の思考力』「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」p.53。「美術と技術を足して2で割ると建築になると教えてくれた先輩がいて、建築学科に進学した」(『建築家捜し』「2命名」p30)。高校時代の恩師古後楠徳(関西大学名誉教授)が磯崎を数学好きにさせ、「"代数"はダメだ。"幾何学"に進め」とアドバイスし、結果的に建築学科へ導いたという発言もある。
[xxvi] ル・コルビュジュエの『New World of Space』に出会った(私の履歴書①)とも書く。「磯崎新 建築は内部に闇を抱える空間である」『建築家のおくりもの』(王国社、2000年)
[xxviii] 「職名」『建築家捜し』(岩波書店、1996年)
[xxix] 1928年茨城県生まれ。建築家、都市計画家。日本芸術院会員。1955年 東京大学工学部建築学科卒業 。1957年 東京大学大学院修士課程修了、鹿島建設入社。1963年 イェール大学建築芸術学部大学院修了。1969年 岡田新一設計事務所設立。
[xxx] 1930年、青島生まれ。東京大学建築学科卒、同修士終了。1956年、朝日新聞社入社1990年慶応義塾大学環境情報学部教授。1996年岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー学長。
[xxxi] 1950年代初頭、日本共産党臨時中央指導部の指揮のもとに武装闘争を志向した非公然組織。レッドパージ後、中国に亡命した徳田球一らは、1951年2月23日の第4回全国協議会(四全協)において反米武装闘争の方針を決定、山村地区の農民を中心として、全国の農村地帯に「解放区」を組織することを指示、同年10月16日の第5回全国協議会(五全協)で「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られた。各地で列車の爆破、交番への焼き打ちや警察官へのテロ行為などの武装闘争が展開された。
[xxxii] 「年代記的ノート」『空間へ』(美術出版社、1971年)pp.483-484
[xxxiii] 1899年盛岡生まれ - 2002年。建築史家。東京大学名誉教授。1920年、第六高等学校卒業。1923年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。朝鮮総督府京城工業学校助教授。1924年、同校教授。朝鮮総督府技師兼任。
1929年、東京帝国大学助教授。1933年、工学博士、東京帝国大学教授(~1960年) 1968年、日本芸術院恩賜賞。「朝鮮建築史論」 (1930)『台湾の建築』(1948)『日本の建築』(1958)『平泉 : 毛越寺と観自在王院の研究』(1961) 『古寺再現』(1967)『古社寺の旅』(1973)『韓の建築文化』(1976)『復興四天王寺』(1981)『平泉建築文化研究』(1995)など
[xxxiv] 「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」『磯崎新の思考力』
[xxxv] 1922年岐阜県生-2010年。建築史家。建築評論家。1942年、第四高等学校 (旧制)卒業。東京帝国大学第二工学部入学。1945年建築学科卒業、同大学副手・助手。東京大学生産技術研究所特別研究員、ワシントン大学客員教授の後、工学院大学。1961年、日本建築学会賞を受賞。1975年から工学院大学学長。1959年、『日本の民家』で第13回毎日出版文化賞を受賞。 『中世住宅史』『日本デザイン論』『数奇屋』『谷間の花が見えなかった時』『重源』など。
[xxxvi] 磯崎新に「田中文男 やさしさと荒ぶる魂を同居させて」(『建築家のおくりもの』所収)がある。
[xxxviii] 『住宅の射程』TOTO出版2006年所収
[xxxix] 「田中文男 やさしさと荒ぶる魂を同居させて」『現代棟梁 田中文男』INAX出版1998年10月
[xl] 「また万博が噂されているので、EXPO’70の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p.186。
[xli] 「年代記的ノート」『空間へ』p.491