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2021年5月27日木曜日

 あらゆる場所に巣をつくる―ソ-シャル・テクトニクスの構築 「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」進撃の建築家 開拓者たち 第20回 開拓者22,23,24,25 ツバメアーキテクツ  山道拓人(開拓者22)千葉元生(開拓者23)西川日満里(開拓者24)石榑督和(開拓者25)

 進撃の建築家 開拓者たち 第20回 開拓者2223,24,25 ツバメアーキテクツ  山道拓人開拓者22)千葉元生(開拓者23)西川日満里開拓者24)石榑督和(開拓者25) あらゆる場所に巣をつくるーソーシャル・テクトニクスの構築 「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」201804(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第16回 開拓者22 山道拓人 開拓者23 千葉元生 開拓者24 西川日満里 開拓者25 石榑督和                                   建J  201803

 

 あらゆる場所に巣をつくる―ソ-シャル・テクトニクスの構築

「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」

布野修司

 

 ツバメアーキテクツ(以下ツバメ)の千葉元生くんとは旧知の間柄である。父親の千葉政継と僕はクラスメイト、それも雛芥子の仲間なのである。最初に会ったのは北京である。まだ、学部の学生だった。日本建築学会建築計画委員会の「古都の変貌と建築計画」と題する学術研究集会(20076月)に親子で参加してくれたのである[1]。次に会ったのは、A-Cupの試合会場である。僕は「フノーゲルス」のキャプテン、元生くんは、塚本由晴率いる東工大チーム(現Bow-Wow Tech)のメンバーであった。千葉は、芦原(義信)香山(寿夫)研究室出身で、村野森建築事務所に長らく勤めた。箱根プリンスホテルなど村野作品をよく案内してもらった。その後独立、宮城大学で建築教育に携わった。もう時効だから明かすと、村野藤吾のところで建築修業をしながら、頼まれた設計の仕事を相棒として一緒にやった。いわゆる「ウラ事務所」である。きっかけは、夜な夜な泊まり込んで親しくなった東京大学工学部一号館の守衛さんから自宅の設計を頼まれたのである。神楽坂の坂を上がり切ったところにあった木賃アパートを借りて図面を引いた。昼間の建築確認申請とか現場の打合せが僕の役割だった。上尾、荻窪にも住宅を建てた[2]。新井薬師の駅前の事務所に移って給食センターの設計や、宮内康さんのAURA設計工房と一緒に産直住宅や病院を一緒にやった。雛芥子でも最も親しい仲間が千葉政継である。

 ツバメアーキテクツという変な?名前のグループがあることを知ったのは、403architecture[dajiba]を取り上げた座談会(『建築討論』005号、20157月)[3]である。403とツバメが仕事のスタンス、東京と地方、マジョリティとマイノリティ、メディアとの距離などをめぐって、激論!?しているのである。その後、『SD』などのメディアにもツバメの名を見るし、案内をもらった水谷俊博(京大布野研出身)が設計した「アーツ前橋」で開催された「ここに棲むー地域社会へのまなざし」展(201510月~20161月)にもツバメが「荻窪家族プロジェクト」(図①)を出展している。実を言うと、元生くんがそのメンバーとはしばらく気がつかなかった。ファーストネームは頭に入ってなかったのである。

 石榑督和くんと最初に会ったのは、彼がまだ明治大学の青井研究室に在学中だったと思う。青井哲人君(明治大学教授)と一緒に彦根の滋賀県立大学の研究室をわざわざ尋ねてきてくれた(20103月)。青井君は、「布野修司の思考と仕事」という見取図」を持参してきて、連続インタビューをしたいという。結局、それが開始されるのは2016年のことであるが[4]、石榑くんとは僕の自宅でのインタビューなどで何度か会った。驚いたことに、その石榑くんがツバメに参加したという。








 

 ツバメ

  不思議な縁を感じて、ツバメの仕事を見たいと、石榑くんに頼んだ。編集長の西川さんも一緒に、四谷の事務所近くの居酒屋で山道拓人くん、元生くんと会った(2017314日)。小泉雅生研究室(首都大学東京)出身で成瀬猪熊建築設計事務所を経てスタッフとなったばかりの岡佑亮くんも合流した。元生くんはノートパソコン持参で、事務所設立以来やってきたことを一通り説明してくれたのだけれど、何せ、飲み屋でうるさい。説明[5]に最も力が入った「阿蘇草原情報館」(2015年)(図②abc)が、メッツ研究所との共同設計と聞いて、話は「ウラ事務所」など専ら父親(オジン)世代の話に堕した。メッツ研究所[6]は、雛芥子の仲間レジェンド枝松(克己)さんが立ち上げた会社である。1977年設立だから昨年40周年、この間、千葉政継がいくつか一緒に仕事をしてきたことは聞いていた。ウェブサイトを覗くと、この間、専ら阿蘇に関する業務に集中してきたようだ。事務所をたちあげたばかりの事務所にしてはプログラムがしっかりしていると思ったけれど、納得である。飲んだ居酒屋は、彰国社があり、大野勝彦さんのアトリエがあったから、僕もよく知っているホームグラウンドだ。何軒か飲み歩くことになった。山道くんにその後会って聞くと「ウラ事務所」などの話しか覚えていないという。

 何故、ツバメなの?と聞いて、その答えだけは覚えている。

 ツバメ[7]は、渡り鳥として、縁起がいい鳥で、いろんな家に巣をつくる、そして、壊されない!

 


 通り抜け

  熊本地震が気になるし、坂口恭平(1月から表紙「きになるばしょ むかしのじかん」連載)の仕事を覗きに行く話もあるから、見てくる、最新作は何?と聞いたら武蔵野市の「8人のシェアキッチン」(図③)という。面白そうだね、といって散会したのだが、この1年その機会をつくれなかった。気がつくと、2017年には、『新建築』に「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」(7月号)(図④)abcd「牛久のおやこ屋根」(10月号)(図⑤ab)の2作品が掲載され、「ソーシャル・テクトニクス展」(7月~9月)も開いて、『KJ』誌(10月号)には「ツバメ」のこれまでの仕事がまとめられている。とにかく何か見せて、ということで、再び西川編集長とともに八潮に出掛けた。山道、千葉、石榑の3人に、昨年末新たに加わった鈴木志乃舞さんが一緒だった。学部は明治大学青井研、修士は東工大塚本研出身である。生憎の大雪で、ツルガソネ保育所のみの見学となった(2018122日)









 ツルガソネ保育園の設計依頼は、「アーツ前橋」での展覧会がきっかけという。「荻窪家族プロジェクト」は、瑠璃川正子氏によって構想され、連健夫氏が設計を手がけた、地域の人が集う工房やラウンジ、集会室などの共用スペースを持ち、住む人、使う人が一緒に作っていく「地域開放型の賃貸共同住宅」である。ツバメアーキテクツの役割は、現場工事と並行してワークショップを開催、小さな公共機能を持つスペース[8]を設計に反映することであった。

 社会福祉法人福祉楽団とアトリエ・ワン(塚本由春・貝島桃代)が仕事上のつながりがあり、理事長の飯田大輔さんが「荻窪家族プロジェクト」に興味をもったのだという。内閣府の企業主導型保育事業の一環で、福祉楽団が運営する特別養護老人ホーム(「特養」)「杜の家やしお」の職員のための保育所である。「特養」の補修とともに依頼された隣接する敷地に建てられた小さな保育所であるが、山道くんの現場での説明は、専ら、裏にある八潮高校へ高校生たちをどう通り抜けさせるか、老人ホームと保育所をどうつなげるか、であった。すなわち、エントランスにバスケットのミニ・コートを設けた、裏口にはフリーファイが使えるベンチそして自動販売機を設置した・・・。高校生たちは使うの?と聞くと、よく使われている、という。キーワードは「通り抜け」である。敷地の境界を取り払って考える!である。ただそれだけ? しかし、そこに突破口がある。 




 地域に開く

 戦後の公共建築の設計計画を主導した吉武(泰水)・鈴木(成文)研究室を出自とする僕には感慨深いものがあった。僕が研究室に在籍した1970年代に既に縦割りの施設計画への批判は全面的であった。ティームティーチングやノン・グレーディング(無学年制)のオープン・スクールの提案があり、施設用地の不足を背景に施設の複合化が大きな課題として意識されていた。老人施設と保育施設を融合せよ![9]などと突き上げたけれど、世の中必ずしもそうは動かなかった。しかし今、待機児童問題を背景に、新たな地域ぐるみの保育のあり方が模索され、実際に実践されつつある。ツバメに求められたのは、まちに開かれた地域ぐるみの保育所であり、高齢者施設である。クライアントの飯田大輔福祉楽団理事長は、「そもそも、地域交流の稀薄化というのは歴史的にみると、制度によって老人ホームや保育園、学校、病院というように、本来家庭や地域で担ってきた活動を外部化し、サービスとしてきたことに起因するんですよね」[10]という。施設=制度(インスティチューション)に対する根源レヴェルでの批判である。『戦後建築論ノート』(1981年)の最後の一行に「建築が様ざまな制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要があるはずである」と書いた。ツバメは、実に頼もしく「我々はこうした(既存のインスティチューションと社会が大きくズレている)状況にこそ建築の可能性を感じ、実践によって制度や枠組みを替えていく可能性があると確信している」と言い切る(『KJ201710)。

 日本列島の至るところで地域コミュニティそのものの衰退がある。一つの閉じた敷地でのみ建築を考えるわけにはいかない。だから、全てのプロジェクトについて周辺を含んで提案するのだという。「牛久のおやこ屋根」は、住宅+医院であるが、まちに開かれた図書室(こひつじ文庫)を併設する。ユニークにもプライベートなコンペによって選ばれたというけれど、まちに開くというのはクライアントの要望でもあった。写真で見る限り、水準の高い空間が実現しているように思える。雪で見学を阻まれたのは残念だった。

 



 Lab

 ツバメは2013年に3人で立ち上げた。山道、千葉は坂本・塚本研究室の同級生、西川日満里さんは、Y-GSA出身でシーラカンスを経て設立メンバーになる。いかなる経緯で3人が意気投合したのか、山道くんにメールで聞いたら、学生時代からの友人で、タイミングよくシーラカンスを辞めたので、迷わず誘ったのだという。3人とも1986年生まれである。2016年に加わった石榑くんも同い年である。建築学会の論文発表会で知り合ったという。山道くんは今でも母校の博士後期課程に席を置いているが、小さなアトリエだけれど、当初(2014年)から「空間の設計をする「Design」と空間が成立する前の枠組みや完成後の使い方を思考し、研究開発やまちづくりを行う「Lab」の二部門からなる組織」をうたう。石榑くんは、1回のツバメゼミで「インフォーマル かたい都市とやわらかい都市」(2016115)と題して報告している。第2回は元生くんの「Autonomy of Architecture」(2016331)である。大学の研究室の延長の雰囲気がある。

 石榑くんの学位論文そしてそれを基にした『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』は一級の仕事だと思う[11]。今のところ,大学に席を置きながらの研究担当ということである。元生くんの「建築の自律性」をめぐる議論は極めてポレミカルである。インターン生の泊絢香さん(当時明治大学大学院)のレポートに依れば、「建築の自律性とは、設計者の意思とは関係なく、自分が決定するよりも前にすでにあるもの」であり、「周辺の建築類型や街並みを参照し、現代の環境に合わせて変形する設計手法」に関心があるという。都市組織と建築の自律性、機会があればさらに議論を聞きたいと思う。現在、アソシエーツになった日本大学理工学部出身の川田実可子さんもかつてはインターンである。とにかく日常的な議論があるのはいい。われわれの時代には、徒弟修業と称する無償のムスケル、アルバイト費を浮かすためのオープンデスクが少なくなかった。

 ただ、ツバメのLabは、研究開発を企業とも連携して行うもっと積極的に位置づけられた部門でもある。

 

 家具

 山道、千葉の両くんには、東工大の塚本研究室で「環境エネルギーイノベーション棟」の基本設計、実施設計、設計監理に携わった経験がある。そして、立ち上がりにおいて「阿蘇草原情報館」を設計する機会に恵まれている。しかし、舞い込んでくるのは 「旬八青果店」(2014年)(図⑥)、「高島平の寄合所と居酒屋」(2014年)(図⑦)などいわゆる小さなプロジェクトである。「荻窪家族プロジェクト」(2015年)も、ツバメアーキテクツのやったことはいわゆる建築家のお手伝いと言えなくもない。インテリアやリノヴェーションの仕事が多いのは、若い建築家には共通である。時代が、日本の社会がそれを要求しているのである。

 ツバメの仕事のひとつの方向は、八百屋にしろ、居酒屋にしろ、賃貸集合住宅にしろ、保育園にしろ、委員にしろ、街に開いていく、地域社会との接点を可能な限り拡大していくことである。そして、もうひとつ興味深いのは、家具への着目である。「KINOKO」と名付ける「小径木広葉樹を活用した家具」(図⑧)、「舞パブリック屋台」と名付ける「マトリョーシカ」型の移動家具(図⑨)、「しかく」と「まる」という「居場所をつくる」家具(図⑩)など、楽しそうな家具をいくつか製作している。石山修武のDAMDAN空間工作所が2×4材で遊具などを作ってダイレクト・ディーリングを試みていたことを思い出す。今のところどのような展開を構想しているのか、商品化を考えているのかどうかは不明であるが、第一の方向へ統合していくことが当然考えられる。すなわち、建築を地域に開き、地域を建築にとり込む家具、装置、仕掛けの開発である。巨大な倉庫をシェルターとして、家具を設えて街をつくる「Make Alternative Space」展にはそんな戦略を窺うことができる。





 ソーシャル・テクトニクス

 ツバメは、「ソーシャル・テクトニクス(社会的構法)の建築」と呼ぶ新しい建築実践の方法論を提示しようとしている、という。「人々」施主・利用者・地域の住人、異なる世代etc:なるべく多くの人が関われる可能性に開かれていること、「資源」タイポロジー、風景、材料、伝統技術:地域資源を発見し関係性に組み込むこと、材料や伝統技術とともに、建築類型やランドスケープなど空間的な資源にも着目しその知性を引継ぐこと、「時間」短期的な可変性・中期的な更新可能性・長期的な持続性・歴史との接続:、「領域」建物協会の拡張・敷地境界の拡張:という4つのヴェクトルを、その場所ごとに相応しい在り方で均衡させ、結び合わせるのだ、と(『KJ2017.10)。正直、ピントこない。方法というより方針という感じがしないでもない。403であれば「全てはコンテクストである」といい、人材、空間、素材を含めて地域資源として「マテリアルの流動」というところである。方法というのであれば「場所ごとに相応しい在り方で均衡させ、結び合わせる」方法を提示すべきである。昨年、「ソーシャル・テクトニスの建築展」(2017.7.232017.9.1)の際に、藤村龍至らゲスト[12]を招いて議論しているが、どんな議論になったのか。

 テクトニクスとはラテン語で「建築物」のことだから「・・の建築」と言わなくていい。それに、通常地質学で岩盤、プレートテクトニクスのように用いられるのであるから、ソーシャル・テクトニクス理論でいい。すなわち、社会の基盤となる建築物群をつくるのである。構法というのだから、建築構法も含みこんだ理論が欲しい。N.J.ハブラーケンの都市組織論[13]が思い浮かぶ。都市型の建築類型とその集合が織りなす近隣組織、街区組織のモデルが組み立てられる必要がある、などというと、オールド・パラダイムと言われるだろうか。ひとつひとつの実践で示していく、それがモデルになることを目指すということであろうけれど、ソーシャル・テクトニクスをつくればいいのである。老人施設、保育園そして高校を連結する「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」が既にそのモデルになっている。Labを売りにするのであるから、理論構築のためのさらなる展開をーと書いたところで、「テクトニクスの現在形 新しい建築の風」(中川エリカ・稲垣淳哉・山道拓人、ミサワホーム主催、226日)というシンポジウムの案内が届いた。本稿に反映する余裕はないが、議論の広がりに-大いに期待したい。

 明快で迫力あるのは「建物や敷地境界といった物理的な境界を越境していく」という指針である。そして、建築を地域に開き、地域を建築にとり込む装置への着目がある。シェルターと構法の理論をそれに統合化していく方向は見えているように思えるけれど、如何? 




山道拓人 Takuto Sando

1986 東京都生まれ。2008 Studio of Cityscapers @エディンバラ大学。。2009 東京工業大学工学部建築学科卒業。2011 同大学大学院 理工学研究科建築学専攻(塚本由晴研究室)修士課程修了/2011-同大学 塚本由晴研究室 博士課程/2012 Alejandro Aravena Architects/ELEMENTAL( 南米 / チリ )2012-2013 Tsukuruba Inc. チーフアーキテクト/2013 株式会社ツバメアーキテクツ設立/2013-2014 横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 非常勤教員/015- 東京理科大学 非常勤講師。2009 35回日新工業建築設計競技大賞受賞。2009 東京工業大学卒業設計優秀賞。2009 WORLD SPACE CREATORS AWARDS 2009
2012
グッドデザイン賞 (塚本由晴研究室での担当作)2012 Tehran Stock Exchange Competition 1st Prize(Alejandro Aravena Architectsでの担当作)2016 グッドデザイン賞(ツバメアーキテクツ)

千葉元生 Motoo Chiba
1986
千葉県生まれ/2009 東京工業大学工学部建築学科卒業 坂本一成研究室。2009-2010 スイス連邦工科大学 ETH2011 Jonathan Woolf Architect London( イギリス / ロンドン )2012 東京工業大学大学院 理工学研究科建築学専攻(塚本由晴研究室)修士課程修了。2012- 慶応義塾大学システムデザイン工学科 ホルヘ・アルマザン研究室テクニカルアシスタント。2013 株式会社ツバメアーキテクツ設立。2015- 東京理科大学 非常勤講師2012年 グッドデザイン賞 (塚本由晴研究室での担当作)
2016
グッドデザイン賞(ツバメアーキテクツ)

西川 日満里 Himari Saikawa
1986
新潟県生まれ。2009 お茶の水女子大学比較生活文化学講座卒業。2010 早稲田大学芸術学校建築設計科修了。2012 横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA卒業。2012-2013 CAt(Coelacanth and Associates)勤務。2013 株式会社ツバメアーキテクツ設立。2011 日本建築学会設計競技 最優秀賞。2012 Y-GSA賞。2016 グッドデザイン賞(ツバメアーキテクツ)

石榑督和 Masakazu Ishigure
1986
岐阜県生まれ。2009 明治大学理工学部建築学科卒業。2011 明治大学大学院理工学研究科建築学専攻(青井哲人研究室)博士前期課程修了。2014 明治大学大学院理工学研究科建築学専攻博士後期課程修了 博士(工学)2015-2016 明治大学理工学部助教。2017-東京理科大学助教。2016- ツバメアーキテクツ参画。2015年日本建築学会奨励賞



[1] 建築計画委員会の委員長として企画開催した。建築計画委員会春季学術研究集会(北京),「古都の変貌と建築計画」,「北京胡同の保存と再生, 呂 斌(北京大学 環境学院 都市・地域計画系 教授)他 北京大学,中国建築学会,61日~3

[2] 上尾の住宅 197475(図X)。

[3]  座談会:「「限定」がひらく複合性~403architecture[dajiba]の作品とそのコンテクスト」。辻 琢磨・山道 拓人・千葉 元生・市川 紘司・川井 操・石榑 督和・戸田 穣(『建築討論』00520157月)。

[4] 現在まで3回実施。2回については公表されている。連続インタビュー 01 1968-69年:東大入学と全共闘運動への共振http://d.hatena.ne.jp/a_aoi+shuji_funo_interviews/20160806/1469846835連続インタビュー 02 1968-69年 補遺/1970-72 雛芥子の胎動http://d.hatena.ne.jp/a_aoi+shuji_funo_interviews/

[5] 地域に見られる農事小屋型の建築類型を参照し、「草原学習館」と「草原情報館」の中心に事務所スペースやワークスペースを設ける雁行形式をとったこと、2つの建物の屋根の連なりと外輪山の雄大な山並みの風景との調和を考えたことなど(KJ201710)。

[6] メッツ研究所は、 「国内外の都市、地方がかかえている問題について研究・調査し、 課題解決に向けた提案、実現に向けた支援を行うコンサルタント会社です。 国立公園地域の整備、自然再生事業、里山保全活用、島づくり、 移住定住促進、物流・交通などの分野を得意としています」とうたう。http://mets-ri.co.jp/

[7] ツバメは、人が住む環境に巣をつくる習性をもつ農村では、穀物を食べず害虫を食べてくれる益鳥として、巣や雛を古来大切にしてきた。ツバメの巣のある家は安全であるとされ、人の出入りの多い商家などでは、商売繁盛の印ともなってきた、という。

[8] 誰でも気軽に訪れ相談することが出来る「暮らしの保健室」、庭の草木を見ながらお茶を楽しめるウッドッデッキ、居住者のためのシェアワインバー、太極拳教室のできる鏡貼りの集会室など。

[9] ベーカリーカフェを併設した「まちの保育園・小竹向原」(2011)以降、吉祥寺、六本木、代々木上原にまちの保育園を展開する松本理寿輝まちの保育園・こども園代表は「若い子育て世代のコミュニティと高齢者世代のコミュニティを橋渡しすることができたら、街全体がネットワークできるのではないかと気付いたんです」という。

[10]  ツバメアーキテクツ(山道・千葉)は、作品発表に合わせて、と松本理寿輝まちの保育園・こども園代表にインタビューしている(特集「まちのインフラとしての保育施設」『新建築』20177月号)。

[11] 布野修司「東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?」書評/石榑督和 『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』 鹿島出版会 2016920日『建築討論』010号、http://touron.aij.or.jp/2016/12/3277

[12] ツバメゼミ001「社会構築について」:藤村龍至氏(東京藝術大学准教授/建築家)/ツバメゼミ002 「資源について」:浅子佳英氏(建築家/タカバンスタジオ代表)岩岡孝太郎氏(株式会社飛騨の森でクマは踊る執行役/ツバメゼミ003「福祉について」:金野千恵氏(建築家/teco)アリソン理恵氏(建築家/teco)

[13]N. J.Habraken1998(), The Structure of the Ordinary, Cambridge, London, MIT Pressなど。

 

2021年5月26日水曜日

野生の建築―オートノマス建築の可能性 「セトレマリーナびわこ」  進撃の建築家 開拓者たち 第19回 開拓者21 芦澤竜一

 進撃の建築家 開拓者たち 第19回 開拓者21 芦澤竜一 野生の建築ーオートノマス建築の可能性 「セトレマリーナびわこ」『建築ジャーナル』 20183(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第16回 開拓者21 芦澤竜一                   建J  20

1803

 

 野生の建築―オートノマス建築の可能性

「セトレマリーナびわこ」

布野修司

 

 芦澤竜一さん(図[1]とは、3年間(2012~2015)滋賀県立大学の同僚であった。だから、何べんか飲んだり、話す機会はあり、台風ヨランダ後のタクロバン(レイテ島)に一緒に行く機会もあった(20158月)。しかし、その作品をまとめて見る機会は得られなかった。「建築の可能性」と題した「談話室」の講演会(2008728日)のときは参加できず、後で学生に聞くと、「芦澤さんはすごい!」というので、残念な思いをした記憶がある。記録(『雑口罵乱』200911月)を読み返すと、それまでに手掛けた作品を順に解説するスタイルであるが、最も関心を集めたのは「Grounding House」(2006)(図)というSDレビューに出展した作品らしかった。


 唯一、見たというか、実際に空間を味わって知っていたのは、守山市の琵琶湖岸に建った「セトレマリーナびわこ」(琵琶湖のエコトーンホテル)(2013)(図)である。僕が四半世紀ぶりに東京に戻るというので「お別れの会」をここで開いて頂く機会があり、さらに、東京に移った後、一泊させてもらったのである。もちろん、芦澤さんとは直接は関係ない。今回、新作の淡路島の「Spiral Garden」(2017)(図)をはじめ、自宅、事務所まで、我が相棒と川井操・美和絵里奈夫妻と一緒に、気になる作品を一気に見せてもらった。美和さんは、芦澤事務所のスタッフの一員として西宮の「八光カーショールーム」に関わっている。沖縄の住宅「風の間」(2011)、ジョホールバルーの工場(Factory on the Earth JST)(2010)など、気になる作品はあるけれど、またの機会にしよう。折しも、これまでの仕事を集大成する作品集“Ryuichi Ashizawa Architects & Associates”Nemo Factory, 2017)(以下、RAA)が上梓された。その作品を振り返り、その行方をうらなう、いい機会である。

         

 

 安藤・修武・石山・忠雄

 早稲田の石山修武研究室を出て(1994)、安藤忠雄建築研究所で建築修業をした(19942000)。石山修武と安藤忠雄は、仲がいいことでは知られるが、作風、そして建築へのアプローチは随分異なる[2]。だから、何故石山から安藤であったのか、と問うてみたくなる。芦澤竜一の作品を一覧すると、実に多彩に見える。すなわち、安藤がコンクリートの表現に拘り続けたような、あるいは石山がセルフビルドの直接的な手触りの技術にこだわり続けたような、何かに一貫して拘りがあるようには見えない。言葉を替えると、安藤・石山の両方の要素があるように思える。さらに言うと、随分器用なうまさがある。事務所を立ち上げた頃のインテリアの仕事を見ると特にそう思う。



 このセンスは石山にはない。安藤忠雄のところではどういう仕事をしたの?と問えば、ほぼ「淡路夢舞台」(2000国際園芸・造園博覧会「ジャパンフローラ2000」会場)にかかりきりだったという。安藤からは「建築の基礎的なこと、建築家が社会に対していかに表現するのか、そして常に全身全霊をもって建築に臨む姿勢」をたたき込まれたという(RAA)。独立後、手掛けた作品には安藤の影が濃いように思える。ホテルセトレ神戸(舞子)のチャペル(図④)など、安藤忠雄の「水の教会」(1988)「光の教会」(1989)に対抗する「出来」である。



 聞けば、本格的なキックボクサーだったという。だから、早稲田大学に教えに来ていた安藤さんがキックボクサーだったというので迷わず門を叩いたのだ、と笑う。よく考えてみると、キックボクシングと安藤忠雄の建築は関係ないと言えば関係ない。

 

 野生への衝動

 みるからにワイルドである。今でもフルマラソンを走る。渡辺菊真を思い起こすが、エネルギーが有り余っている印象がある。風貌も日本人離れしているから外国語が堪能だと思われる、と本人は苦笑する。札つきの「ワル」だったらしい。高校時代は「繁華街で遊び呆ける毎日」で、「遊ぶ資金を稼ぐために」「解体工、鳶、鉄筋工、コンクリート工、ブロック工、大工、塗装工など一通りの現場職を経験した」。そして、「ボクシングに没頭し、音と踊りに陶酔した」(RAA)。

 建築との出会いは、12歳の時に小学校で竪穴式住居を建設したことだという。4カ月かけて「校舎の裏山の森から木々、竹、萱などの材料を拾い集め、皆で組み立て」たという。「できた時の喜びは今でも忘れない」。「住居の囲炉裏に火をつけた途端、空間が露になり、皆で芋を焼き食し感動を味わった」(RAA)。これまで何人もの建築家についてみてきたけれど、自ら建てる経験をもつかどうか、身体で空間をつくりあげる喜びを知るかどうかが建築を志す鍵となる。芦澤は、竪穴式住居の建設や畑仕事を通じて、生きる知恵を教え続けてくれた、この小学校教師を石山、安藤とともに特別の師だという。

 石山について、芦澤は、「アウトサイダーであったし、今もなお変わらない」と書くが、「アウトロー」的な感性は共振するところがあるのだと思う。その作品の流れは、大きく、「安藤的なるもの」から「石山的なるもの」へ傾斜しつつあるように見える。コンクリートの表面をはつったり(「Setre Residence(2007)」図⑤ab)、階ごとにコンクリートの仕上げを替えたり(「Row House」(2017)図⑥)、「安藤打ち放しコンクリート」を超えることが意識されていることはよくわかる。その閾に位置するのが「Grounding House」である。以降、作品にやたらに「緑」が増えていく。

 

  しきりの探求

 RAAは、いくつかのキーワードにわけて自らの作品を振りかえる。年代順に分けるのでも、作品ごとに分けるのでもない。同じ作品がいくつかのキーワードに登場したりする。冒頭は、「しきりThe Quest For Flexibility」である。「結ばれた一本の紐が空間をつくる」という。続いて「境界Crossing Borders」である。同じような括りでいささか戸惑うが、「曖昧な境界」[3]に第一に興味があることはわかる。「一本の柱が空間を発生させる」「床が、そして壁が空間を規定する」といったコンヴェンショナルな建築空間の本質を問う構えがまずある。芦澤は、安藤忠雄建築研究所に在籍中にSxLの住宅コンペに応募して「ミース・ファンデル・ローエの住宅」で一等賞(2007)を得ている。ミースは、「閉鎖的な壁を分節して配置することによって、空間をゆるやかに隔てながら流動的に連続させていき、古典的な空間の束縛を解放した」、そしてファンスワース邸で「壁を消そうと透明なガラスの壁をつくるが、それも閉じた壁であった」といい、ミースが現代に生きていたら、「壁の探求」は終わっておらず、「現代の新しい技術を用い、空気の流れをつくりながらミースの壁を動かしていく」ことによってひとつの住宅作品を提示するのである。

 安藤の「壁の探求」(古山正雄)とミースの「ガラスの箱」の乗り越えがどうやら出発点にありそうだ。曖昧で、柔らかな、フレキシブルな「しきりの探求」である。

 

 都市の森

 ところが、「都市の森Urban Forest」「グラウンディングGrounding」「大地に繋がるGrowing」「循環Endless Cycle」「エネルギー」「森林Forest」とRAA3分の2近くは「緑」で覆われる。自然の循環、大地、森、樹木などが大きな鍵語になっていく。

 安藤の一枚のスケッチ(「大阪駅前プロジェクトⅠ 地上30mの楽園」1969年)(図⑦)、そして、植樹運動の継承と実践的な乗り越えが意識されているように思える。日もすっかり落ちた見学の夜見せてもらったが事務所の屋上は草木が生い茂っていた(「屋上庭園」(図⑧))。また、空き缶をポットにして並べるプロジェクト(2002)を展開してきた。その建築的構想が「Grounding House」であり、一連の「都市の森」プロジェクトである。グラウンディングとは聞きなれない、通常は基礎のことであるが、「大地につながる」という意味であるという。用語や概念は未だ研ぎ澄まされてはいない。しかし、目指していることは理解できる。大地に根差した建築ということであろう。今のところの到達点が「セトレマリーナ琵琶湖」であり、「ジョホールバルーの工場」である。



 問題は、平田晃久の「Tree-ness House」「Tree-ness City」(前号)についても同様の指摘をしたが、単なる表現の問題ではなく、建築を支えるサステイナブルなシステムである。樹木に覆われた超高層ビルは、既に世界中に蔓延しつつあるのである。

 

 傷つけて癒す

 芦澤が最初から最後まで携わったという「淡路夢舞台」について、かつて次のように書いた[4]。「自然の再生をうたう会場に溢れる擬石や擬木、造花にいささか辟易しながら、夢舞台ゾーンに向かうと、今を時めく安藤忠雄ワールドである。・・・会場はかつての灘山だ。…その禿げ山に自然を蘇らせるのが花博の真のテーマだ。・・・まずは壮大な実験に敬意を表する。日本中の禿げ山、コンクリートで固めた醜悪な崖面も即刻緑に復元すべきだ。安藤は一貫して自然との共生をうたう。しかし、彼は積極的に緑を取り込むことはしない。むしろ、自然をどう見せるか、自然と人工物である建築とをどう際だたせるかに意が用いられる。コンクリートとガラスと水の絶妙の配列が全体を形作る。圧巻は水面の下に敷かれた煌めく百万枚ものホタテ貝だ。本質的に、自然を傷つけることによって建築は成り立つ。傷つけて癒す、矛盾に充ちた行為だ。だから安易に建築に自然を取り入れればいいというわけではない。安藤は建築の本質を直感的に知っているのである。」

 安藤は建築の本質を直感的に知っているのである、と書いたが、実は知っているのであろうか、という反語である。「癒し」の方向は示されているわけではない。芦澤は、直感的に、そして身体的に自然を知っているのだと思う。RAAには、「現象Phenomenon」と題した章(項)「太陽」「水」「風」「音」があって、芦澤の建築へのアプローチの根を窺うことができる。音、熱、光、空気をどう制御するのかは建築の基本である。しかし、今や人工制御が圧倒的に建築を支配しつつある。熱帯地域にアイスリンクやスキー場が建設される、地球全体を人工環境化していく流れの中で、芦澤がまず突破口にしようとしているように見えるのは、風の音である。「セトレマリーナ琵琶湖」のチャペルでは、「エオリアンハープの原理」[5]によって絃を振動させる建築の楽器化を試みる。そして、メゾネットの集合住宅を改造した自宅では、扉のスリットに張られた絃が窓から入り込む風に呼応する仕掛けを試みている(図⑨)。

 

 オートノマス建築

 目指す建築モデルは、淀川近くの約9坪の狭小敷地に夫婦二人のために構想された「Grounding House」(図⑩)に示されている。二酸化炭素を吸収し、酸素を排出する光合成を行い、雨を受け、貯め、利用し、太陽光、風力をエネルギーに変え、鳥や昆虫たちと共生する。実に直接的なモデルである。バイオミミクリーなどとは次元が違う。はるかにラディカルではないか。ひとつの建築・街区・都市プロジェクトで完全自給自足、エネルギー・資源が循環可能な建築、オートノマス建築である。一本の木が大地に根差して生きていくような建築と都市、それが「Grounding Project」である。

 「セトレマリーナ琵琶湖」では、音、熱、光、空気の制御、土や樹木などの利用を総合的に考慮しながら、均等なラーメン構造を見慣れたものの眼には容易にその構造を把握できない、やたらに斜め線が交錯する不思議な空間が作り出されている。この建築で実際に行われたかどうかは聞きそびれたが、音、熱、光、空気の流れについてのシュミレーション・ツールが芦澤の大きな武器になりつつある。

 芦澤の仕事は、大阪下町を創業の地とする電子接続部品の圧着端子製造メーカーとの縁を得て、マレーシアからアメリカ、デトロイトそしてペンシルヴァニアへ、その仕事はグローバルに拡がりつつある。いずれも広大な敷地、森の中の研究所の計画である。モデル・プロジェクトを実現する絶好の機会である。大いに期待したい。






 

 グラウンドのかたち

 問題はかたちの論理、生成の原理である。「曖昧な境界」への関心とそれはどう関わるのか。「自然のもの、人工のものいずれにせよ、かたちには必然性がある」(RAA「かたちForm and Structure」)と芦澤はいう。永井拓生が担当したというSpiral Garden」(2017)、TIS & Partnersとのポートアイランドの工場SHIP(2008)は、それぞれに興味深い取り組みではある。しかし、これまでの作品を眺めてみると、「必然性」なるものは必ずしも見えてこないように思う。与えられた条件の下でひとつひとつ解答を積み上げていくというのは、それはそれでいいと思う。しかし、何か一貫するものをみたいと一方で思う。Grounding House」というモデルとその方向性は見えているからである。多様な植物があるように、その基本システムと多様なありかたを見極めたいのである。

  「図Figure」となる建築と「地Ground」となる建築を分けてはどうか。今回の見学ツアーで最も興味をもったのは「Grotto2009)」名付けられた芦屋のテナントビルである。どこにでもありそうな店舗・オフィス併用ビルであるが、彫りの深いバルコニーを配することによって多様な空間を生むプロトタイプになっている。工場SHIPも本来はグラウンドを形成する建築類型として構想されるべきではないか。

 芦澤竜一の多彩な建築は、とにかく、エネルギーに溢れて、野性味満々である。器用貧乏に陥ることなく、こじんまりと老成していくのではなく、今の馬力で突っ走ってほしいと思う。





[1] 1971年横浜生まれ。1994早稲田大学理工学部建築学科卒業。19942000年 安藤忠雄建築研究所。2000URBANFOREST ARCHITECTS 共同設立。2001~芦澤竜一建築設計事務所設立主宰。20062012大阪市立大学生活科学部非常勤講師20072012近畿大学理工学部非常勤講師、20092012神戸大学大学院工学研究科非常勤講師、20102012年京都市立芸術大学美術学部非常勤講師、20112012年京都造形大学芸術学部非常勤講師、神戸芸術工科大学デザイン学部非常勤講師、滋賀県立大学環境科学部非常勤講師、20132014滋賀県立大学環境建築デザイン学科准教授、2015年~同教授:受賞:2000年「VAJRA Forest」でインテリアプランニング優秀賞、その他JCDデザイン賞 2002IP2004入選、東京建築士会住宅建築賞、SD Review 2007入選、2009年度グッドデザイン賞受賞、第56回大阪建築コンクール大阪府知事賞、2009年度日本建築家協会優秀建築選200選、第2回関西建築家新人賞など。主な作品:SHARED HOUSEghAshiya GrottoAMBOO FORESTSgGROUNDING PROJECT -HOUSE01-ReSETRE/セトレ ハイランドヴィラ SETRE REVER HOTEL+OCEAN、共同住宅「SHH」、CHARINEast-1、ラティス三宮。

[2] 『建築少年たちの夢』でそれぞれ論じたことがある。「第一章 永遠の建築少年」=安藤忠雄(1 ボクサーから東大教授へ、2 ゲリラという建築少年、3 コンクリートの幾何学と自然)vs「第五章 セルフビルドの世界」=石山修武(1 建築トリックスター、2 形態は生産を刺激する、3 ブリコラージュ、開放系技術、未見のかたち))。

[3] The Quest For FlexibilityVague BoundaryCrossing Bordersといった訳語は、芦澤の言いたいことを言い当ててはいないように思える。

[4] 「緑再生の巨大な実験 傷つけて癒す・・・建築の本質」 見聞録04共同通信200010

[5] 自然の風により絃を鳴らす楽器。音が鳴るのは、弦を通過した空気が絃を震わせ、その振動を共鳴箱で拡大するというシンプルな原理に基ずく。その名はギリシャ神話の風神アイロスに由来するという。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...