このブログを検索

2025年7月2日水曜日

第9章 作品としての都市―都市組織と建築  traverse編:建築学のすすめ,昭和堂,2015年5月

 


第9章 作品としての都市―都市組織と建築
              布野修司

 

 本章では、建築をつくることが都市をつくることにどう結びつくのかという視点から都市について考えたい。そもそも都市とは何か、その起源と歴史を大きく振り返り、現代都市の行方を展望する。そして、都市のかたちを生む都市計画の基本的作法について理解し、身近な町(都市組織)をつくっていく方向を確認したい。

 

1.生きている作品

都市はひとつの作品である、と考えよう。

都市はさまざまな主体によってつくられる。そういう意味では、集団による作品である。一人の天才によって都市全体の計画が提案されることはもちろんある。また、アンコール・トム[1]のような古代の都市がそうであるように、それぞれの地域においてコスモロジー(世界観、宇宙観)に基づいて都市が理念的に建設されることも行われてきた。

しかし、実際の都市建設には無数の人々が関わる。そして、理念通りに都市が完成されることはむしろ稀である。例えば、中国隋唐の都、長安[2]にしても、それを模したとされる平安京にしても、その計画の全体が完成するやいなや、あるいはそれ以前にそのかたちを変えていった。近代に首都として建設されたブラジリア[3]にしても、チャンディガール[4](図11-1にしても、当初はスクォッターたち[5]が建設予定の空地を占拠する事態を招いた。理念は理念として、それがそのまま実現するとは限らないのである。

都市はまた歴史の作品である。

都市の建設は一朝一夕に出来るものではない。また、完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。

だから、都市はひとつの書物に例えられる。あるいは、さまざまな集団の営みが絡み合った、ひとつの織物にたとえられる。街を歩けば、あらゆる場所に歴史が刻まれている。さまざまな出来事、活動、事件の記憶が書き込まれている。都市は、無数の物語を含み込んだ巨大な書物である。この書物をどう読むのか、如何に書き継ぐかがわれわれにとってのテーマとなる。すなわち、この書物は完結した物語ではない。日々書き続けられる書物である。

都市は生きている作品である。

都市に住む人々によって日々都市はつくられる。都市に住むこと自体が、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。誰も住まない遺跡と化した都市、廃墟となった都市そのものはここでの対象ではない。たとえ、世界文化遺産に登録されたり、伝統的建造物群保存地区に指定されたりする都市を含む場合にしても、いまここに生きている都市住民によって価値づけられ意義づけられるのであって、そうした意味で都市は生きている。

都市が集団の、歴史の、そして都市住民の生きた作品であることをまず確認することによって強調したいのは、都市計画が、都市に住む人々にとって、極めて身近なものであることである。都市という作品に全ての人が関わっているということである。都市は、現在を生きている都市住民のものである。都市生活者にとって価値と意味を持たなければ、これまでの都市は変えなければならない。都市の未来はわれわれが握っているのである。場合によっては、都市の歴史を抹殺し、都市自体を廃棄してしまうことも可能である。問題は、人々の依拠する価値とは何かである。

前提となるのは、実際にそれぞれの都市に住み、都市空間を使用する人々の価値観を尊重することである。また、地域社会の住民たちの意向を大切にすることである。つまり、土地や建物を「商品」と見なし、都市開発を投資の対象とすることを第一義的には考えないということである。実際に、今日の都市のあり方を大きく規定しているのは経済的価値であり、資本の論理である。現実の都市計画は市場原理を無視しては成り立たない。しかし、少なくとも、都市生活者の日常生活を考えることを出発点にしたい、地域社会の判断をベースに置きたい、ということである。生活者の要求が的確に踏まえられなければ市場もなりたたない、また、さまざまなプロジェクトも地域社会の了解が得られなければ成功しないのである。

都市は、また、それ自体閉じた世界としてはなりたたない。国などの上位組織や他都市、あるいは後背地との関係の上に都市はなりたっている。すなわち、一時的に観光客として都市を訪れる人によっても、近郊に住む人によっても都市は支えられている。今日では生まれてから死ぬまで同じ都市に住み続ける方が珍しいだろう。多様な価値観をもった異質な背景を人々が共存するのが都市である。

都市は、そうした意味では、ひとつのメディア(媒介物)である。さまざまな人々が共に住むための、またコミュニケーションするための手段である。だから、都市には、なんらかの仕組み、制度が必要とされる。自治体である。すなわち、日常生活を共にするためにそれなりのルールが必要である。自分の所有地だからだといって、法律さえ守れば自由だといって、好き勝手な建物を建てていいわけではない。近隣との関係は大切である。

以上のように、都市の景観は、都市に住み続ける人たちの表現であり、作品であり、資産である。

 

2.都市という言葉

 まず、都市という言葉の意味を詮索してみよう。

日本語の「都市」というのは、「(みやこ)」と「(いち)」を合成した造語であって、古来ある言葉ではない。「都」は、いうまでもなく、王権の所在地、天皇、首長の居所である。古代においては必ずしも固定的な場所ではなかった。他に「宮都」あるいは「都城」[6]という言葉が使われる。都市と言っても特殊な都市である。

「市」というのは、物が交換される市場であるが、物だけでなく、人々の自由な交渉の場でもある。日常の生活や秩序とは区別される「無縁」の空間をも意味した。「市」の機能は、都市のひとつの本質的特性である。

(まち・ちょう)」という言葉は、文字どおり、もともと田地の区画を意味したが、やがて「都」の条坊の一区画をさすようになった。都、市、町のほかにも、「津」「泊」「浜」「渡」「関」「宿」など、都市的集住の場を示す多様な語が日本語にある。

中国語では「城市」という。府、州、県といった行政単位の中核都市が「城市」である。「都城」というのは「都」すなわち王都(首都)について使われる。「城」の字が使われるのが中国都市の形態の特徴を示している。中国の都市はそもそも城壁で囲われるものなのである。中国の都城制を日本は導入するが、中国あるいは西欧の都市と日本の都市が決定的に異なるのは「城壁」の有無であろう。

西欧ではどうか。ギリシャのポリス、ローマのキヴィタスがすぐ思い浮かぶ。ラテン語のキヴィタス civitasは、シティ city、シテ cite、チッタ cittaなどの語源であるが、日本や中国の都市の概念と異なる。キヴィタスとは、第一義的には、自由な市民の共同体を指す。また、その成員権(市民権)をもつものの集まりをいう。奴隷は含まれない。そして、一定の土地のまとまりを意味しない。人の集団が問題である。そして、その成員の住む集落やテリトリーを含めた地域全体がキヴィタスである。そうした意味では、キヴィタスは、都市というより「(くに)」=都市国家と言ったほうがいい。キヴィタス群がローマ帝国をつくり、ローマ市民の一部が各地に送られて、形成したのがキヴィタス類似の「植民都市(コロニア colonia)」である。

ギリシァのポリス polisは、同じように都市国家と訳され、キヴィタスに対応する語とされるが、語源は不明らしい。城壁都市を指す場合、その中心のアクロポリスのみを指す場合、城壁がなくてある領域を指す場合など色々ある。

ラテン語には、もうひとつウルブス urbs という語、概念がある。農村に対する「都会」という意味だ。アーバン urban の語源である。ウルブスというのは、もともと、エトルリア地域で他と聖別された区域としての「ローマ市」を意味したのであるが、次第に一般的に使われるようになったという。さらに、オピドゥム oppidum という語がある。「城砦」を意味する。

ペルシャ語では、シャフル、トルコ語ではシェヒル、もしくはケントという。シャフルは、王権、王国、帝国という意味の語源をもつ。「都」の意であろう。後には「地方」という意味をもつようになるという。インドには、ナガラ(都市)、プラ(都市、町)、ドゥルガ(城塞都市)、ニガマ(市場町)といった語、概念がある。インドネシアでは、一般に都市・町をコタ kota という。サンスクリットの城砦都市を意味する語が語源だという。面白いことに、ヒンドゥーの影響の強い、インドネシアのロンポク島にチャクラヌガラという都市がある(図112)。また、ヌガラ negara というと、東南アジア一帯使われているが、少しずつニュアンスが異なるように見える。ジャワでは、内陸の都市国家を意味し、大陸部では沿岸部の交易都市を指すようだ。また、インドでプル pur というとジャイプル、ウダイプルといって都市のことであるが、バリやロンボクでプラ pura というと寺のことであり、プリ puri というとその祭祀集団の屋敷地をいう。

こうして都市という言葉の意味を探ってみるだけでも、都市の多様な特性を知ることができる。

 

3.都市の起源 

 都市はいつどこで誕生したのか。都市の起源はどのように考えられてきたのか。ものごとの起源について考えることはその本質を深く考えさせるが、都市の起源についてもそうである。

古代の都市と考えられる遺構(数多くの住居址など)が発見された場合、これが都市かどうかはどう判定されるのであろうか。“Urban Revolution(都市革命)[7]という論文を書いた考古学者のG.チャイルドは、発見された遺跡を都市とする条件として次の10項目を挙げる。1.規模(人口集住)、2.居住者の層化(工人、商人、役人、神官、農民)、3.租税(神や君主に献上する生産者)、4.記念建造物、5.手工業を免除された支配階級、6.文字(情報記録の体系)、7.実用的科学技術の発展、8.芸術と芸術家、9.長距離交易(定期的輸入)、10.専門工人。

規模が大きいと言っても相対的である。G.チャイルドの場合、分業と階層分化(2.3.5.8.10.)を重視している。租税、文字といった社会関係に関わる要素も注目される。

The City Shaped”(形成された都市)[8]を書いた建築史家のS.コストフ[9]も、都市とは何かをめぐって、いくつかの要素を列挙している[10]A  活力ある群衆Energized crowding、 B  都市クラスターUrban Clusters、 C  物理的境界Physical Circumscription、 D  分業:用途分化Differentiation of Uses、 E  都市資源Urban Resources、 F  文字、書かれた記録Written Records、 G 都市と田舎(後背地)City and Countryside、 H  記念碑:公共建造物Monumental Framework、 I  建造物と市民Buildings and People。都市は単独で存在するのではなく他の都市とヒエラルキカルな関係をもつ(B)、また、必ず後背地との関係において存在する(C)といった視点が重要である。

高密度の集住、分業、階層化と棲み分け、物資、資本、技術の集中、権力、宗教の中心といった特性が共通に挙げられるが、そうした要素が形成されていく過程をめぐって、すなわち都市の発生、その起源をめぐってもさまざまな議論がある。

 古来、採集狩猟の時代から、人々は集落を形成してきたと考えられている。しかし、その集落の規模が大きくなることで都市が発生するわけではない。都市の発生にはある契機が必要である。穀物栽培のための定住である。

都市の発生は一般的には農耕の発生と結びつけられて理解される。天水利用による農耕の開始によって定住的な集落がつくられる。そして、決定的なのは、灌漑技術の発展による生産力の増大が決定的であった。集落規模は急速に拡大し、その数が増すとともにそれを束ねる、ネットワークの中心、結節点としての都市の誕生に至る、というのが一般的な説明である。この農耕革命による生産力の増大と余剰生産物によって都市の誕生を説明するのがA.剰余説である。

そうした生産力理論に基づくA.剰余説に対して、B.市場説 C.軍事(防御)説 D.宗教(神殿都市)説、E.政治権力説等さまざまな起源説がある。B.市場説は、交換の必要性が都市を必要としたということで都市の本質として既に確認してきたところである。C.軍事(防御)説は、余剰生産物をめぐる争いに対処するために集住して城壁で取り囲む都市が発生したとする。城壁の存在が不可欠ということになるが、これを絶対の条件とすると、城壁をもたない日本の都市は都市の定義から外れることになる。D.宗教(神殿都市)説は、宗教的権威の周辺に人々が集住することによって都市が成立したとする。社寺仏閣の門前町がそうであるが、古来、神殿を中心にした都市は少なくない。

都市を権力の空間的装置とする見方(E.)も都市の本質を突いている。藤田弘夫の『都市の論理』[11]のように、都市の起源を権力の発生と同時と考える説によれば、都市の発生と国家の発生は同じ位相で議論される。この場合、余剰は最初から社会的余剰である。すなわち都市住民のために生産物を強制的に移動させるのが権力である。農耕集落から自然に都市へ発展するという一般的な見方(A.)に対して、都市の発生と定住は同時である、あるいはむしろ、都市の発生が先行する、という見方も有力である。定住革命説である。さまざまな自由で採集狩猟生活を継続できずに定住を余儀なくされたために農耕が始まったという見方もある。

 何事も起源をめぐる議論は多くのことを深く考えさせるが、都市の起源についての議論も都市について考える多くのヒントを与えてくれる。

 新人類(ホモ・サピエンス)の起源とその拡散をめぐる定説はまだないが,アフリカ・イブ仮説によれば,およそ13万年前にアフリカを出立したホモ・サピエンスは,まず西アジアに向かいそこからいくつかのルートでユーラシア各地に広がり、さらにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ向かったとされる。そして、およそ1万年前頃に西アジアで農耕が開始され[12]、やがて都市文明が生まれる。現在のところ世界最古の都市遺跡と考えられているのは、パレスティナのイェリコ[13]あるいは小アジアのチャタル・ヒュユク[14]である。紀元前6500年から5500年頃の都市遺跡とされる。

 古代の都市文明は、いずれも、栽培植物としての穀物をもっている。「肥沃な三日月地帯」として知られるメソポタミアは大麦、小麦だ。考古学的な遺構によると、灌漑技術が発明されたのは紀元前5500年頃だという。それとともに集落の規模は飛躍的に大きくなり、またその数も増えた。そうした中から、ウル[15]ウルク[16]などといった都市国家が生まれてくる。バビロニア南部のシュメールの地に最初の都市国家が勃興したのは、紀元前4000年紀末ないし3000年紀初め頃だという。

 古代エジプトの場合、古王国期の統一王朝最初の都メンフィスなど現在と同じ場所に古代都市が造られており、その実態はよくわからないらしい。ただ、興味深いのは、城壁をもたないことだ。また、ネクロポリス(埋葬都市、死者の都市)が造られているのも特徴的である。クフ王など三大ピラミッドで著名なギザはネクロポリス(埋葬都市)である。

 インド亜大陸に最初に都市が出現したのは、紀元前2300年頃である。インダス川流域のハラッパーモエンジョ・ダーロの二大都市に代表される諸都市がそうだ(図113)。インダス文明は、一説によると森林資源の涸渇による環境問題のために滅亡したとされる。紀元前1700年頃から衰退し消滅するが、紀元前6世紀頃に再びいくつかの都市が現れている。マウリヤ帝国の首都バータリプトラがその代表である。

 中国における城郭都市の出現は、紀元前1500年の殷代のことだという。それ以前は、(ゆう)という都市国家的集落が中心であった。紀元前4,3世紀になると黄河下流域でいくつかの巨大城市が発生する。斉の(りんし)、趙の邯鄲がそうである。国都としては前漢の長安、後漢・曹魏の洛陽、北魏の洛陽、隋唐の長安、洛陽については、わが国の都城、宮都との関連でわれわれには親しいところである。最近の発掘事例から、揚子江流域でも都市文明の存在があったのではないか、という説もでてきた。揚子江は稲作文明、黄河は麦の文明である。

 

4.都市の世界史

都市文明の成立とともに、人類はその歴史を歩み始めるが、現代都市のあり方を確認するために、今日に至る都市の歴史を一気に振り返ってみよう。

かつては、西欧の都市概念を基にして、古代都市、中世都市、近世都市、近代都市のように歴史の時代区分に応じた段階区分が行われてきた。また、生産様式をアジア的、奴隷的、封建的、資本主義的、社会主義的という段階に分ける社会経済史観に基づいた区分によって都市の類型化[17]が行われてきた。しかし、都市の形態は必ずしも歴史的区分や経済的発展段階に合わせて変化するわけではない。都市の形態を変えるのは、都市生活のありかたであり、それを支える社会の仕組み、そして科学技術のあり方である。

原初的な都市形成の諸段階については、「紙上考古学」と称する古文献をもとにした宮崎市定による中国都城の起源とその発展段階についての図式化がわかりやすい(図114[18]。まず,小高い丘に城が建てられ,周囲に人民が散居する山城式(第三式)が成立する→そして,その周囲に郭を廻らす城主郭従式(第二変式(イ))が現れ→城郭が2重に囲われる内城外郭式[19](第二式)が成立する。並行して→内城の城壁がはっきりしなくなる城従郭主式(第二変式(ロ))となり→城壁(城=郭一体)式(第一式)がうまれる,という発展図式である。文献上では,城壁(城=郭一体)式は,戦国時代以後あるいは秦漢以後に多く,内城外郭式は春秋時代に多いことから,原型として山城式を想定して,都市の発展過程を推定するのである。この宮崎の都市発展モデルのうち、城郭が2重に囲われる内城外郭式(第二式)は考古学的遺構としてはほとんどみられないが、城郭=城+郭の構成ということであれば、ヨーロッパでもインドでも一般的に見られる。

都市の歴史の第1の画期となるのは、火器の誕生による攻城法の変化であり、それに対応する築城術の変化である。15世紀がその転換期となる。火器、すなわち、火薬による銃や大砲の出現以前は、攻撃より防御が築城の基本であった。そして、戦いを制したのは騎馬の技術であった。史上最も騎馬戦に長けたのはモンゴルであり、モンゴルが建てた大モンゴルウルスがユーラシア大陸のほとんどを支配するに至るのは13世紀前半のことである。

西洋の城郭都市は古代ローマ帝国の築城術等を基礎として発達してきた。12世紀から13世紀にかけて,十字軍経由で東方イスラーム世界の築城術が導入され,またビザンツ帝国の築城方式の影響も受けて,西洋の築城術は15世紀には成熟の域に達する。しかし,火薬と火器,火器装備船の出現はその成熟を無意味なものとしてしまう。ヨーロッパで火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[20]。火薬そのものの発明は,もちろんそれ以前に遡り,中国で発明され,イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたと考えられている[21]。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンで[22],戦争で最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦で,エドワードⅢ世のクレシー(カレー)出兵(1346年),ポルトガルのジョアンⅠ世によるアルジュバロタの戦い(1385年)などで火器が用いられたことが知られる。ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は,ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱,戦車,装甲車が考案され機動戦が展開されたフス戦争(14191434年)である。続いて,百年戦争(1328/371453年)の最終段階で,大砲と砲兵隊が鍵を握った。そして,レコンキスタを完了させたグラナダ王国攻略戦(1492年)において大砲が威力を発揮した。15世紀から16世紀にかけて、ルネサンス期の建築家たちは理想都市の計画案を様々に描くが、その背景にあったのは火器への対処である。死角がないように稜堡の配置などに幾何学が必要とされるのである。

グラナダ攻略以降、スペインは,「新世界」のコンキスタ(征服)に向かうことになる。火器による攻城戦の新局面と西欧列強の海外進出は並行するのである。植民地建設を可能にしたのは造船術や航海術とともに火器であった。西欧列強による植民都市の建設過程は、都市の誕生、形成の過程を想起させてくれる。すなわち、既存の都市が存在する場合と処女地の場合とで異なるが、最初期には現地住民との交易のためにロッジ(宿所)そして商館(ファクトリー)が設けられる。次の段階では、商館は要塞化され、さらにその周辺に現地住民および西欧人の居住する郭域が形成され、さらに全体が城壁で囲まれる段階へ発展していくのである。植民都市の歴史をめぐっては『近代世界システムと植民都市』[23]他に譲ろう。

そして、次の第2の画期が世界都市史の上で決定的である。すなわち、それは産業化の段階である。産業革命によって、都市と農村の関係は、それ以前と全く異なっていく。都市への工場立地は農村から大量の人口移動をもたらし、食糧供給という点においては一定の関係にあった都市とその後背地の農村の関係は分裂するのである。また、蒸気船,蒸気機関車に出現よる交通手段とその体系の転換が決定的である。

ロンドンなどヨーロッパの主要都市の人口増加は著しく、その内部に「スラム」を孕むことになる。また、人口増加は都市郊外へのスプロール現象を生んでいく。19世紀半ばを過ぎるとヨーロッパの諸都市の城壁は撤去されていくことになる。近代的な意味での都市計画が成立するのは、この人口増加と「スラム」への対応のためである。

産業化の波は植民地にも及ぶ。港湾都市の場合、蒸気船の寄港には不適格となり港湾の改造を余儀なくされ、また、鉄道の敷設によって植民地化は内陸へと領域を広げていくことになる。先進諸国の場合、工業化と都市化には一定の比例関係があったのであるが、発展途上地域の場合、20世紀に入って工業化の度合をはるかに超える都市化が起こることになった。「産業化なき都市化urbanization without industrialization」、「過大都市化over-urbanization」と呼ばれる。地域で断トツの人口規模をもつプライメイト・シティ(単一支配型都市)の出現がその象徴である。

3の画期となるのは、19世紀末以降の高層建築の出現である。これには建築構造技術やエレベーター技術などが大いにかかわる。従来の石造建築に替わる鉄骨造そして鉄筋コンクリート造の構造方式によって立体的に居住することを可能になる。平面的な拡大のみならず立体的な空間利用が行われることで都市景観は一変することになった。そして、自動車,そして飛行機の出現がさらに大転換の画期となる。移動時間の短縮と大量輸送機関の発達は都市のあり方のみならず都市間ネットワークのあり方を根底から変えるのである。今や世界中どこでも同じように超高層ビルが林立する大都市の景観をみることができる。IT技術の発達が、既に第4の画期を主導しつつあると考えられる。例えば、東南アジア地域では大都市圏が中小都市と連結して農村も巻き込む拡大大都市圏EMR[24]と呼ばれる現象が見られ始めている。携帯電話とオートバイが都市のかたちを変えつつあるのである。

産業化そしてその延長としてのグローバリゼーションの波が地球を覆っていく中で、大きな問題は、エネルギー問題、食糧問題、環境問題など人類がこれまで経験してこなかった問題が顕在化しつつあることである。

 

5.都市のかたちー都市計画の系譜

さてここから都市をつくるということについて考えよう。まず大胆に、人類が作り出してきた都市のかたちを概観する。都市計画の方法についておよその理解が得られるであろう。

都市が基本的に人工的な構築物であり、集団の歴史的作品であるとすれば、都市の発生と都市計画の発生は同時ということになる。都市は古代世界における基本的な制度、国家あるいは社会の仕組みのひとつとして成立したのである。

ヒッポダミアン・プランーグリッド都市

都市計画の起源というと、決まってミレトスのヒッポダモスHippodamos5世紀頃)の名前があげられる(図115)。ヒッポダモスこそ、整然としたグリッド・パターンの考案者であり、最初の都市計画家である、とアリストテレスが「都市計画の考案者」(『政治学』第二書)と書いているからである。しかし、ヒッポダモス以前にヒッポダモス風計画(ヒッポダミアン・プラン)すなわちグリッド・パターンの都市計画がなかったかというと決してそうではない。エジプトのカフーンやエル・アマルナの労働者集落は規則正しいパターンをしているし、東トルコのゼルナキ・テベやアッシリア時代のパレスティナのメギドもミレトス(479)に先立つ。また、ヒッポダモスがミレトスの設計にかかわったかどうかは明らかではない。アリストテレスは、ヒッポダモスを理想的な都市のあり方について思索した一風変わった社会・政治理論家といい、ペイライエウスという都市を設計したといっているだけである。いずれにせよ、考古学的発掘から、ヒッポダモス以前に、グリッド・パターンの都市計画が存在したことは、ミレトスとともにグリッド・パターンの都市の先駆とされる古スミュナルの発掘からも明らかである。

 何故、グリッド・パターンなのか。グリッド・パターンの都市をみると、そのほとんどは新たに更地(さらち)に建設された植民都市である。ミレトスは90にも及ぶ植民都市を建設したという。都市計画の技術的問題(測量、整地、建設)、土地分配、住民管理の問題などを考えると、植民都市におけるグリッド・パターンの採用は極めて自然である。古代ギリシャ・ローマに限らず、新大陸に西欧列強が建設した植民都市を思い起こしてみればいい。特に、土着の文化を根こそぎにする施策をとったスペイン植民都市が典型的である[25]。古今東西、グリッド・パターンの都市は数限りなく、極めて身近である。

ぺルガモン様式

ヒッポダモス様式(ヒッポダミアン・プラン)の都市とは別にもうひとつ、ギリシャ都市の伝統として自然な地形を活かすかたちの都市がある。アレクサンドロス大王の東征は東方ヘレニズム世界に、アレクサンドリアと呼ばれる多数のグリッド都市を生むが、一方で統治者の威信を誇示するために都市を壮麗化する動きが起こってくるのである。

 グリッド・パターンの都市の建設は大きなコストを要した。都市の立地によっては大規模な造成が必要となるからである。白紙の上にグリッドを描くのは簡単でも、現実には多くの困難を伴う。一方、自然の地形をそのまま用いる都市には壮大な景観を生み出す可能性があった。小アジアを中心に、支配者たちは、都市を自らの業績の、永遠の記念碑として残すために、大きな景観の中にその姿を誇示する都市を構想し始める。

アリンダ、アッソス、ハリカルナッソスなどの都市が例として挙げられるが、こうした都市の記念碑化、壮麗化の頂点に立つのが小アジアの西海岸のペルガモン[26]である(図116)。町そのものが断崖の頂と南斜面に立地するペルガモンは、地形を逆にとって壮麗な景観を作り出すのに成功した。「ペルガモン様式」と「ヒッポダモス様式」は、古代ギリシャ・ローマの都市計画の、2つの異なる起源であり、伝統となる。

宇宙論的都市

 「ペルガモン様式」であれ、「ヒッポダモス様式」であれ、その内部構成に着目すれば様々である。2つの伝統とは別の次元で、第3の都市計画の伝統がある。都市のかたちを宇宙の秩序の反映として考える宇宙論的都市の系譜である。宇宙の構造を都市の空間構造として表現しようとする都市かたちとして、古代中国や古代インドの都城が明快である[27]。中国の都城は、理念として「天円地方」の宇宙を示すとされる。東西南北に走る道路で区画され、中央に王宮がある。その南に社稷、宗廟の祭祀施設、北側に市場が置かれる。『周礼』考工記の「匠人営国」の条は都城の理念を示すものとしてよく知られている(図117[28]。古代インドにも、理想の都市について記述した『アルタシャーストラ』がある[29]

「都城」について、それを支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係を、アジアからヨーロッパ、アフリカまでグローバルに見てみると、いくつか指摘できることがある。

 第1、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラーム世界には、そうした思想や書はない。第2、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。理念型と実際の都市の重層はそれぞれ多様な都市形態を歴史的に生み出してきた。現実の都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。第3、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向がつよい。例えば、インドの都城の理念を具体的に実現したと思われる都市は、アンコールワットやアンコール・トムのような東南アジアの都市である。

都市とコスモロジーとの明確な結びつきは、中国、インドに限定されるわけではない。J・リクワートは、ローマについてそのイデアを明らかにし、さらにさまざまな事例を挙げている[30]

ダイアグラムとしての都市―幾何学都市

 宇宙の秩序、あるいは理想的な秩序に基づいた都市を構想し、表現しようという試みは、冒頭に述べたように、歴史の流れの中に繰り返しみることができる。西欧におけるプラトン、アリストテレス以降の理想都市論のさまざまな流れは、H・ロウズナウ[31]が明らかにするところである。

理想都市は、しばしば幾何学的な形態によって表現されてきた。プラトンの『法律』(第五書)では、都市は国家の中心に置かれ、アクロポリスは環状の壁で囲まれる。円形状の理想都市の全体は12の部分に分割され、さらに土地の良否が平等になるように5040の小区画が計画される。また、プラトンは、伝説上の「幸福の」島、アトランティスについても理念型を記述している。アトランティスでは矩形の土地がそれぞれ正方形の6万の区画に区切られている。理想都市の2つの幾何学的形態、円形放射状のパターンとグリッド・パターンが、プラトンのユートピアにおいて既に提示されている。

この系譜のハイライトがルネサンスの理想都市である。完結的な幾何学形態への志向は、理想としての古典古代の発見、ギリシャ・ローマ都市の理想の復興という精神の運動を基礎にしていたが、具体的にはウィトルウィウスの建築論、都市論の発見と読解がその基礎にある。この形式化への志向を突き詰めることにおいて、理想都市の計画は中世における宗教的、象徴的な解釈から解放されることになる。しかし、理想都市の計画は、幾何学的な操作の対象に矮小化されたといえる。

ルネサンスの理想都市の提案の背景には、都市計画史上の一大転換がある。それ以前は、攻撃より防御に重点があったけれど、新たな火器、すなわち大砲の出現によって攻城法の飛躍的進歩が行われたのがルネサンスである。幾何学的形態は、稜堡を設けて死角を如何に無くすかをテーマとする理論に基づいて考案されるのである(図118)。

この都市計画の技術化、すなわち幾何学化、形式化、その機能主義がもうひとつの、第4の都市計画の伝統である。近代の都市計画も大きくはこの流れのうちにある

劇場都市

ルネサンスの建築家たち、特にマニエリスム期の建築家たちが、もうひとつ都市計画にもたらしたものが、遠近法の発見とその都市景観、都市構成への適用である。それは、都市を劇場の舞台のように設計する手法である。

パースペクティブの効果はもちろん古来知られていた。上述の「ペルガモン様式」の都市計画の伝統がそうである。中国でも、隋唐の長安城の中軸線をなす朱雀大街は皇帝の権威を象徴化するヴィスタを実現していた。

しかし、記念碑的な建築物へ向かう大通りの直線的ヴィスタなどが意識的に使われだすのは遠近法が建築家の自由自在なものとなってからである。この遠近法によるヴィスタの美学を徹底して追求したのが壮麗なるバロック都市である。

ポアン・デ・ヴー(ポイント・オブ・ビュー)と呼ばれる大通りの焦点に記念碑的建造物を置く手法は好んで用いられてきた。放射線状のなす何本かの街路の中心に凱旋門や記念塔などを置く手法も同様である。

イスラーム都市

 幾何学や透視図法を用いた都市計画の流れとは異なる伝統として代表的なのがイスラーム都市である。イスラーム都市は、迷路のようでアモルフである。この有機的形態は、イスラーム以前に遡るからイスラームに固有とは言えないが、イスラームの都市計画原理はその形態に関係がある。

 全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成される、そんな原理がイスラーム都市にはあるのである。チュニスに関するB..ハキームの論文[32]によると、その原理の一端が理解される(図119)。極めて単純化して言うと、イスラーム都市を律しているのはイスラーム法(シャリーア)である。また、さまざまな判例である。道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積である。全体の都市の骨格はモスクやバーザール(市場)など公共施設の配置によって決められるが、あとは部分の規則によって決定されるという都市原理である。

 古来、理想的で完結的な都市がさまざまに構想され、建設されようとしてきたが、その理念がそのまま実現することは稀である。仮に実現したとしても、歴史の流れはその理念を大きく変容させるのが常である。そうした全体から部分へ至る都市計画の方法に対して、このイスラームの都市原理はもうひとつ異なる起源を示している。部分を律するルールが都市をつくるのであって、あらかじめ都市の全体像は必ずしも必要ではないのである。

 イスラーム都市の場合、城壁をもつのが一般的であるが、こうした城壁都市の伝統と全く異なるのが日本や東南アジアの城壁をもたない、境界の明白でない都市である。東南アジアを最初に訪れた西洋人は、樹木に覆われ、その中に埋もれるように家々が集まる都市の形態に驚く。西欧の都市とは全く異なり、都市と思えないのである。農村的原理をそのまま維持するようなそんな都市ももうひとつの都市のパターンとして考えることができる。発展途上国に出現した大都市の多くはそうした農村集落を内に抱え込んできたのである。

 

6.都市組織と建築

 いくつかの都市のかたちをみてきた。そこで改めて、都市をつくることをごく身近に考えよう。上のイスラーム都市の構成原理が大いに参考になる。

都市で生活していくためには、飲料水が必要であり、食物が必要であり、電機やガスが必要であり…病院や学校が必要であり…、すなわち、さまざまな基幹設備や施設が必要である。都市計画のためにはまず都市生活のための基幹設備や施設の計画を考える必要がある。上下水道計画、交通計画、…などそれは多岐にわたる。

ここではわれわれの日常生活が展開される近隣住区あるいは街区の計画について考えたい。一般的には、住宅地計画、地区計画と言われる分野である。キーワードとするのは「都市組織」である。

 都市組織(urban tissues urban fabric)とは,都市を建築物の集合体と考え,集合の単位となる建築の一定の型を明らかにする建築類型学(ティポロジア)で用いられている概念である。また,さらに建築物をいくつかの要素(部屋,建築部品,…等々)あるいはいくつかのシステム(躯体,内装,設備,…等々)からなるものと考え,建築から都市まで一貫して構成する建築都市構成理論[33]において用いられる概念である。

都市を1つの(あるいは複数の)組織体とみなすのが都市組織論であり,一般的に言えば,国家有機体説,社会有機体説のように,都市を有機体に喩え,遺伝子,細胞,臓器,血管,骨などさまざまな生体組織からなっているとみる。ただ,都市計画・建築学の場合,第1にそのフィジカルな空間の配列(編成)を問題とし,その配列(編成)を規定する諸要因を考えようとする。都市組織という場合,近隣組織のような社会集団の編成がその規定要因として意識されているといっていい。集団内の諸関係,さらに集団と集団の関係によって規定される空間の配列,編成を問題とするのである。

以上のように説明すると難しそうであるが、要は単純である。都市の構成単位として住居を考える。住居が集合することによって集合住宅や街区、住宅地ができるということである。もちろん、住居が集合すれば、集会所などが必要となるし、店舗や学校、病院や図書館などの施設が必要となる。住居の集合にそうした諸施設を加えていけば街区ができ、町ができる、と考えるのである。イスラーム都市の構成原理は、こうした都市組織のあり方をわかりやすく示しているのである。

まず住居を建てるとしよう。隣の土地との関係が問題となるが、イスラーム都市の場合、それを規定するのはシャリーアや判例であり、日本の場合、建築基準法や都市計画法である。その土地に建てられる建物の用途やヴォリューム(建蔽率や容積率)、高さや場合によっては形態や色彩なども法制度によって規定される。都市を作品と考える場合、それを大きく規定するのが都市計画に関連する法律であることは極めて重要であるが、一方で、どういう建築によって都市を構成するかが問題である。それを問うのが都市組織論である。

戸建住宅なのか集合住宅なのか、まず、その形式が問題となる。都市住居の型をどう考えるかである古代ギリシャの都市ではドムス(戸建住宅)とインスラ(集合住宅)の2つの形式が見られる。おそらく両方の型が必要とされるであろう。国によって地域によって都市住居のかたちは様々であるが、歴史的には中庭式住居の形式を採るのが古今東西一般的である。都市的集住状況においては、自分の住居の内に採光や通風を取り入れる空間をもつことが必要だからである。中国における四合院の形式は実にシステマティックである(図11-10)。イエメンのように高層住宅を発達させた地域もある(図11-11)。

日本の場合、第二次世界大戦後に2DKという住戸形式が考えられ、それを積み重ねて並べる住宅団地のかたちが都市型住宅の一般的なかたちとなっていくのであるが、一方で戸建住宅も数多く建てられている。例えば、シンガポールではほとんど全ての住宅は高層住宅である。しかも、躯体は全て国有とされる。インドネシアでは、共用部分を多くとった、また、集合住宅の中に店舗や美容院などが入った新たなタイプの集合住宅の形式が提案され、実現されている。

住居集合の型と共にそれがさらに集合する街区や住宅地の型が問題となる。小学校の校区を単位と考えるのがC.ペリー[34]の近隣住区理論である。こうして都市の細胞となる都市組織のあり方を考えていけば、都市をつくっていくこと、そして都市が作品であることを実感できるであろう。モデルとなるのは世界中で人々が何百年の時間をつくりあげてきた都市組織の具体的なかたちである。

 

7.都市計画と諸科学

建築学の視点から都市のかたち、そして都市計画について考えたが、都市計画には、都市地理学、都市社会学、都市生態学、都市経営学などさまざまな都市学、都市現象に関する科学が関わる。最後に、都市計画に関わる諸分野を概観し、都市計画とのかかわりを確認しておこう。

一般的に都市計画というと、建造物や街路など都市の物理的な側面に関わる分野とされる。物やエネルギーの配置や配分などに主として関わるのが都市計画である。しかし、物的計画physical planningを行う前提として、その計画内容や計画組織、計画過程などに関わるさまざまな分野がある。ハードとソフトという言い方で2つの分野が区別される。土木や建築の分野の都市計画は専らハードな面を扱い、都市政策、都市行政、都市経営、都市経済といった分野がソフトな面を扱うとされるが本来は一体的に考えられるべきものである。

都市計画は、政策決定に深く関わる分野である。それに対して、都市社会学、都市地理学、都市人類学など、さまざまな都市現象を分析することにどちらかというと重点を置く分野がある。それぞれの専門分野毎にさまざまな形での都市への接近がなされている。あらゆる分野が都市に関わっていると言っていい。問題は、細分化された諸分野がしばしば都市の全体像を見失っていることである。理想的には、直接的であれ、間接的であれ、諸科学の知見は都市計画の過程へ全体的に統合されるべきものである。

都市計画が具体的に対象とするのは現代の都市である。それに対して、専ら過去の都市を明らかにする都市史や都市計画史のような分野がある。都市を集団の歴史的な作品と考える立場からは、歴史学と都市計画も密接に関わっている。また、一般的にも歴史を常に振り返ることは、近視眼的に政策決定することを避けるために必要である。都市計画には長期的な歴史的パースペクティブが必要である。

 都市計画が事実に基づいた現実を出発点とするのに対して、都市文学と呼ばれるジャンルのように、専ら都市のイメージや心理、フィクショナルな都市に関わる分野がある。ユートピア文学が理想都市計画の駆動力になったように人間の想像力、そして構想力は極めて重要である。また、都市の現実よりも都市のイメージの方が政策決定に寄与することもある。さらに都市住民の記憶の方がより全体的に都市を把握する手掛かりとなる。

一方、都市計画は、具体的な実践である。ごく単純に都市計画の過程を理念化してみると以下のようである。

都市を読む・・・都市の記述

 都市の現状はどうか、都市で何が起こっているのか、都市現象の把握がまず必要である。都市を体験する(歩く、見る、聞く)ことが出発点である。そして感じたこと、得られた視点を大事にしたい。何に着目するのか、何を指標とするのか、そして、どういう記述方法を採るのかによってさまざまな都市像が浮かび上がってくる。

 都市の形態、機能、構造のそれぞれの次元で分析が必要となるであろう。また、いくつかのレヴェルを分けて考える必要がある。住宅を含めた諸施設の分布など居住地の空間編成を明らかにするのが都市の生態学である。都市空間に現れるさまざまな図像や記号を読むのが都市の記号学である。都市生活と都市空間の関わりを明らかにするのが都市の現象学である。

基本計画の作成

 都市現象の把握を元に、計画概念、そして空間言語を抽出するのが次の過程となる。物的計画の問題としては、全体コンセプト、計画理念が抽出された上で、どのような空間が必要とされるか、さまざまな空間言語が導き出される。この過程は決して自動的ではない。通常は、専門家や自治体内部の部局にこの作業は委ねられるが、①の過程も含めて住民参加を前提にして、ワークショップ方式でまとめることが一般的に行われるようになった。身近な問題は身近に解決を考えるというのが基本である。

 基本計画がまとめられると、次の段階は事業化のための手法が技術面、財政面などさまざまな角度から検討される。そして具体的プログラムがまとめられる。

プログラムの実施

モニタリング

都市計画はプログラムの実施によって終了するわけではない。結果はきちんと評価され、反省される必要がある。また、計画の全ての過程はトレースされ評価される必要がある。

 ①~④の過程を繰り返すことによってしか、計画の全体性は保証されない。こうした過程を恒常化しながら、都市計画をひとつの総合学として再編成していくことはわれわれにとって大きな課題である。

 

 さらに学ぶために・・・

 ①理想都市に関する計画、理論をとりあげ、徹底的に調べてみよう。

 ②世界中の都市からひとつ選んで、その誕生から今日における変化をそのかたちに着目してまとめてみよう。

 ③自分が育った町あるいは今住んでいる町の諸問題を列挙し、それを克服する都市計画を立案してみよう。

 

 

3-1 住まいの創意工夫?(布野修司『住宅戦争』彰国社、1989年より)
3-2 アフリカ、マリにおけるドゴン族の集落(B.ルドフスキー『建築家なしの建築』前掲より)
3-3 建築構造の原型(P. Oliver, Encyclopedia of Vernacular ArchitectureEVCA, Cambridge University Press, 1997より)
3-4 ウィトルウィウス『建築十書』(Daniele Barbaro, 1567より?)
3-5 ヴァストゥ・プルシャ・マンダラ(出典?)
3-6 『営造方式』?(出典?)
3-7 アレグザンダーの●●?(出典?)

11-1 チャンディガールの●●?(出典?)
11-2 チャクラヌガラの●●?(1942年)(出典?)
11-3 インダス文明の諸都市分布(出典?)
11-4 中国都城の発展モデル(宮崎市定『紙上考古学』出版社名発行年より)
11-5 ミレトスのヒッポダモスによる●●?(出典?)
11-6 ペルガモンの●●?(出典?)
11-7 三礼図(出典?)
11-8 ルネサンス期の軍事理想都市?(出典?)
11-9 イスラーム都市の●●?とチュニスの●●?(下)(出典?)
11-10 四合院の平面概念図と●●?(出典?)
11-11 イエメンの高層住宅 撮影:布野修司

 



[1] カンボジア、シェムリアップに、12世紀後半ジャヤヴァルマンⅦ世によって建設された都城。一辺およそ3kmの正方形をしており、中心にバイヨン寺院が位置し、全体はヒンドゥー都城の理念に従って建設されたと考えられている。ただ、街区構成などまだ未発掘である。

[2] 隋唐長安は、中国の歴史において最も体系的に計画され建設された都城である。隋の文帝(楊堅)(581604年)が建設した大興城がその基になっている。その設計を担当したのは宇文愷(555612年)という天才建築家である。宇文愷は洛陽城の設計も行い、各種宮殿や運河など数多くの土木、建築工事に関わった。のみならず、「大張」という数千人が座る巨大な移動式,組立式天幕建築、「観風行殿」なる回転式スカイラウンジ、「観文殿」という自動扉,自動開閉式の書架を設計したとされる。宇文愷は,あたかもルネサンスのダ・ヴィンチやミケランジェロのような万能人にも比すべき存在で、漏刻(水時計)も制作している。

[3] ブラジルの首都。1957年に行われた設計競技で選ばれたブラジル人建築家ルシオ・コスタ(19021998年)による計画。国会議事堂、大聖堂など主要な建築はオスカー・ニーマイヤー(19022012年)による。建設開始半世紀も経ずして1987年に世界文化遺産に登録された。

[4] インド・パンジャブ州の州都。インドが大英帝国の支配を脱し、分離独立した後逸早く計画された。最初のマスタープランはアメリカ人建築家のアルバート・マイヤーとポーランド出身のマシュー・ノヴィッキによって計画されたが、ノヴィッキが不慮の事故により死亡し、1950年にル・コルビュジエがその後を引き継いだ。

[5] squatter。しゃがみ込むsquatという英語に由来する。土地の権利を持たず公共用地や他人が所有する土地を占拠して居住するものをいう。発展途上地域の急激な都市化によって大量のスクオッターが発生したことから、スコッター・セツルメントという言葉が一般的に用いられるようになった。学術用語として、マージナル・セツルメントも用いられる。先進諸国のスラムとは異なり、農村的コミュニティの共同体組織は維持されることが一般的で、それぞれ固有の言葉で呼ばれる。一般的には都市村落urban villageと言われる。

[6] 中国の史書で用いられる「都」あるいは「都城」は「都市国家」の時代あるいは「領域国家」の時代における諸侯あるいは(けい)大夫(たいふ)の都市をいう。王の都である「王城」とははっきり分けられていた。漢代の文獻でも,「都」は,みやこの長安を除いた地方の大都市を意味した。すなわち,「都城」は,中国古代において「王権の所在地としての都市」ではなかった。「都城」が天子の場所を一義的に意味するようになるのは明末以降のことである。

[7] Childe, V. Gordon (1950) The Urban Revolution. Town Planning Review 21:3-17.

[8] Kostof, Spiro, The City Shaped: Urban Patterns and Meanings Through History, Bullfinch Press 1991; second edition, Thames & Hudson, New York 1999

[9] 1936年イスタンブル生まれ~1991。エール大学卒業。カリフォルニア大学バークレーで教鞭をとった。アメリカを代表する建築史家として活躍。“The Architect: Chapters in the History of the Profession”、 America by Design“、 The City Assembled: Elements of Urban Form through Historyなど。邦訳は、『建築全史背景と意味』、鈴木博之訳、住まいの図書館出版局、1990 A History of Architecture: Settings and Rituals (1985)

[10] S.コストフは、シカゴ派の都市社会学者L.ワースの「都市とは社会的に異質な個人が集まる、比較的大きな密度の高い恒常的な居住地である」、そして都市文明批評家L.マンフォードの「都市とは地域社会の権力と文化の最大の凝集点である」をまず引いている。

[11] 藤田弘夫(1993)『都市の論理』中公新書。

[12] 農耕起源に関するこれまでの議論は西南アジアの状況を基にしており他の地域でも通用するとは限らないが,①氷河期終了後の完新世に気候が温暖化し,かつ湿潤のままに安定化しなければ,また,②意図的な植えつけ作業と栽培の季節性がなければ,農耕は発生しなかったと考えられている。農耕発生の諸理論には,A.自然条件などが恵まれていたとする「ゆたかさ」説,B.乾燥化など環境条件の変化や人口増加などが農耕を必要としたという「ストレス説」,C.植物と人間の共進化,無意識的ダーウィン的「淘汰説」などがある。

[13] Jerichoエリコ、ジェリコ。ヨルダン川西岸地区、死海の北西部に位置する。19世紀後半以降、ヨーロッパの考古学者によって調査が行われ、1952にイギリスのキャスリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)らが行った調査で紀元前8000年期には城壁集落が存在したことが確認された。初期の町は新石器時代の小規模な定住集落で、メソポタミアの都市文明とはつながらないとされている。

[14] アナトリア南部の都市遺構。1958に発見され、19611965にかけてジェームス・メラート (James Mellaart)によって発掘調査されて、世界的に知られるようになった。最古層はBC.7500年に遡るとされる。最古の都市遺構ともされたが、メラートは巨大な村落とする。

[15] 古代メソポタミアシュメールの都市遺構。アブラハムはウルに生まれたとされる(旧約聖書)。起源はBC.5000年紀とされ、都市が本格的に拡張を始めるのはBC.4000年紀に入ってからとされる。

[16] イラク・サマーワのワルカ遺跡。都市神はイナンナ。旧約聖書にはエレクとして登場する。19世紀半ばに発見。最も初期の楔形文字がウルクから発見されている。

[17] M.ウエーバーの『都市の類型学』[17](経済と社会 第二部 経済と社会的・秩序および力 第九章支配の社会学 第八節非正統的支配)がある。すべての都市に共通しているのは、ただ一事、大「聚落(オルトシャフト)」であることである、その本質は「市場定住地」である、という定義から始めて、M.ウエーバーは、まず「消費者都市」と「生産者都市」を区別する。また「工業都市」「商人都市」「農業市民都市」という類型を区別している。さらに要塞の有無を論じて「要塞と市場の統一体としての都市」という概念を提出する。この点で、日本にそもそも都市があったかどうか疑問視できると主張するのであるが、

M.ウエーバーの都市類型論の核にあるのは「西洋における都市「ゲマインデ」の団体的性格と「市民」の身分的資格」そして「東洋におけるこの両概念の欠如」という視点である。すなわち、「都市ゲマインデ」と「市民」からなるのが都市なのである。そして「都市ゲマインデ」は、①防御施設、②市場、③裁判所を持ち、さらに④団体として、⑤自律性、自主性を持つのが条件である。自立性、自主性を持つ「市民」(住民)そして「集団」(団体)から成るのが都市である、という規定は極めて重要である。しかし、M.ウエーバーの類型論は、「アジア都市」と「ヨーロッパ都市」を予め区別することを前提としていた。中国、インド、イスラームの諸都市を例に挙げながら、アジアの諸都市はこうした特性を持たなかったと決めつけている。「近代資本主義が西洋においてのみ成立したのは何故か」を問題にするM.ウエーバーにとって、「アジア的都市」「古代都市」「中世都市」といった類型は一定の発展段階を跡づけるものとなる。また、南北ヨーロッパの都市の構造比較なども近代世界の成立という観点からなされるのである。生産様式論もこうした都市の発展段階に基づいた類型論に結びついていた。

[18] 宮崎市定,「中国都城の起源異説」(1933年),『宮崎市定全集3 古代』,岩波書店,1991

[19] 宮崎は触れないが,『管子』度地篇に「内為之城,城外為之郭」,「天子中而処,謂因天之固,帰地之利などとあり,内城に天子の居所があり,外郭に庶民が住んでいたことが推定できるのが内城外郭式である。

[20] バート・S・ホール,『火器の誕生とヨーロッパの戦争』,市場泰男,平凡社,1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが,1320年代にはありふれたものになっており,guncannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。 

[21] 文献上の記録として,火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが,科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。

[22] ロジャー・ベーコン,『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。

[23] 布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,20052月。

[24] Extended Metropolitan Region

[25] グリッド・パターンの都市については、布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン『グリッド都市―スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会,2013年2月に詳細に述べている。

[26]現在のトルコ、ペルガマ市。ヘレニズム時代に栄えたペルガモン王国の首都。発掘は1878年ドイツ人技師フーマンC. Humann とベルリン博物館のコンツェ A.Conze によって始められ,その後デルプフェルト,ウィーガント T. Wiegand らの考古学者に受け継がれた。

[27]布野修司編、『アジア都市建築史』、昭和堂、2003年。第Ⅴ章「アジアの都城とコスモロジー」(応地利明)。

[28] 中国都城については、布野修司(2015)『大元都市-中国都城の理念と空間構造、そしてその変遷』京都大学学術出版会が詳しい。

[29] インド都城については、布野修司(2005)『曼荼羅都市-ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会が詳しい。

[30] ジョゼフ・リクワート、『<まち>のイデア――ローマと古代世界の都市の形の人間学』、前川道郎,小野育雄共訳、みすず書房、1991

[31] ヘレン・ロウズナウ、『理想都市 その建築的展開』、理想都市研究会訳、鹿島出版会、1979

[32]..ハキーム『イスラーム都市――アラブのまちづくりの原理』第三書館

[33] N.J.ハブラーケンN. John Habraken,オランダの建築家,建築理論家。1928年インドネシア,バンドン生れ。デルフト工科大学(1948-1955)卒業。アイントホーフェン工科大学を経てMIT教授1975-89。オープン・ビルディング・システムの提唱で知られる。

[34] Clarence Arthur Perry (1872 – 1944)。アメリカのプランナー、社会学者。近隣住区 The neighbourhood unit論の提唱者。スタンフォード大卒。ニューヨーク市都市計画局勤務。コロンビア大、ニューヨーク大で教鞭をとる。著作に “The Neighborhood Unit,” Monograph One. Vol. 7, Regional Survey of New York and Its Environs, Neighborhood and Community Planning, New York Regional Plan, 1929. Housing for the Machine Age New York,Russell Sage Foundation, 1939など。.

 

2025年7月1日火曜日

第3章 建築家なしの世界―原初の建築 、traverse編:建築学のすすめ,昭和堂,2015年5月

 

Traverse版 建築学のすすめ

第3章 建築家なしの世界―原初の建築 

                            布野修司

本章では、古今東西、これまでに書かれてきた「建築書」のいくつかを紹介しよう。 建築書」とは、文字通り、「建築」について書かれた書物のことである。建築書」にとって、そもそも「「建築」とは何か」というのが問題となる。だから、「「建築」とは何か」をめぐっては、古来様々な論考があり、「建築(理)論」と呼ばれる膨大な言説の蓄積を相手にすることになる。しかも、「建築論」というと、往々にして、難解で高尚な「哲学的」「思想」を展開するものと考えられている。

しかし、ここでは、「「建築」とは何か」、と真正面から問うことはやめよう。「建築」とは、もう少し簡単で身近なものである。「建築」と「建物(建造物)」はどう違うのか、「芸術としての建築」と「非芸術としての建築」はどう区別されるのか、等々の区別(差別)、「建築」という概念の特権化は、近代において成立したにすぎない[1]。ここでのテーマは、「建築」とは何か、ではなくて、「建築」をどう「つくる」か、である。大切なのは、「建築に何が可能か」(原広司[2])である。

前章(竹山聖先生)がいうように、「全ては建築である」(H.ホライン)。そして「誰もが建築家でありうる」というところから出発しよう。誤解を恐れずに最初に言い切ってしまうと、「建築書」と呼ばれてきた書物のほとんどは、「建築」を「つくる」ためのマニュアル、手引書のようなものである。

 

1 都市に寄生せよ:セルフビルドの世界

まず、課題を出そう。A3一枚の紙にどのような表現でもいいから描いてみて欲しい。

 「都市に寄生せよ―――ある日あなたは突然家族も家も失った。身よりも何もない。あなたは誰にも頼らずたった独りで生きていくことを決意する。いわゆるフーテンである。家を建てたり借りたりする気はもはやなく、またその余裕もない。都市そのものに住もうと考える。しかし、そのためにも生活上最低限の装置は必要である。時には地下鉄の入口で、あるいは橋の下で、あるいは路上で寝なければならない。都市に寄生して生きていく。以下の条件を最低限満足させる装置をデザインせよ。1.寝られること、2.食事ができること、3.人を招待できること、4.ひとりで持ち運びができること。」

 決してふざけているわけではない。山本理顕[3]さんと二人で考えて、色々な大学の「設計演習」の課題として実際に出してきた「定評ある」課題である。「フーテン」というと「フーテンの寅さん」という山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズが思い浮かぶけれど、知らない人も多いかもしれない。日本語の辞書(広辞苑、大辞林)を引いてもないが、何故か、和英辞書(研究社)を引くとbumと出てきて、a 《口》 浮浪者、 なまけ者、 飲んだくれ、 フーテン、金持ちのなまけ者.b 《口》 のらくらした生活; 《口》 飲み騒ぎ、 放蕩.・・・などとある。まあ、「ホームレス」と言ったほうが今ではわかりやすいかもしれない。

 「ホームレス」が、「ホーム」を設計するのは矛盾のようであるが、「建築」の原点がここにある。ホームレスといえども、雨露をしのぐ覆い(シェルター)がなければ生きてはいけない。身に何かを纏う、覆いをつくる、道具をつくってテーブルや椅子をつくる、・・・というのは、最初の建築行為なのである(全てが建築である)。

 この課題は、「理想の住まいを設計せよ」という課題より、余程想像力を刺激するらしい。まず、場所を想定しなければならない。また、材料を手に入れなければならない。さらに、材料を組み立てて空間をつくらなければならない。様々の発想が生まれ、楽しい創意工夫が生まれる。この創意工夫が「建築」の原点である。

発展途上国のみならず先進諸国にも、現在、数多くのホームレスが存在している。この課題は、従って、思考実験どころか、実に現実的な課題である。日本でも、第二次世界大戦後まもなく、廃墟を前にして、人々は、自らバラックを建てて住まざるを得なかった。柱と梁が足りないので壁を省いた「三角住宅」、空き缶を潰して屋根を葺いた「ブリキ住宅」、防空壕や埋設管を利用した「豪舎住宅」、「鉄管住宅」、さらには「バス住宅」「汽車住宅」もあった。無我夢中の、やむにやまれぬ必死の建築行為であるが、今日振り返れば、実に様々なアイディアである。

「建築」は、こうした身近な「住居」の問題と無縁ではない。誰だって、自分の部屋のレイアウト(家具や機器、様々なお気に入りのものの配置)を考え、カーテンの色や柄を選んでいる。そして、自分の住宅の間取りを描いたりする。基本的に「誰もが建築家」なのである。

 しかし、自らが建てる(セルフビルド(自力建設))という経験は、日本ではますます少なくなりつつある。家は買うものであって、建てるものではない。しかし、建築の原点は、自らが自らの身体を使って建てるという行為にある。M.ハイデッガーに「建てるbauenことと、住むことwhonen、そして生きることlehben[4]という論考がある。われわれが、セルフビルドの世界に魅かれるのは、「建てること」が「生きること」と全く同一でありえた位相を想い起こさせてくれるからである。

 『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』[5]でも紹介したけれど、J.ワンプラーの『すべて彼ら自身のもの』[6]という小さな本には、自ら自分の住世界を建てた様々な人々が活き活きと描かれている。

 

2 ヴァナキュラー建築の世界

 ヴァナキュラーvernacularとは、「その土地固有の」、「土着の」、あるいは「風土的」という意味である。ラテン語のヴァナクルムvarnaculumが語源で、「自家製」、「家で育てた」という意味から、「根づくこと」あるいは「居住すること」をいう。ヴァナキュラー・アーキテクチャーというと、住宅に限らないけれど、日本語でいう「民家」というニュアンス(語感)で一般的に使われる。

 B.ルドフスキーが『建築家なしの建築Architecture without Architect[7]を書いて、ヴァナキュラー建築の世界の魅力を喚起したのは1960年代初頭のことである。世界を見渡せば、実際、いわゆる「建築家」が関与しない「建築」の方がはるかに多い。ごく最近まで、住居は、大工さんや職人さんによって建てられるのが普通で当たり前であった。すなわち、セルフビルドの世界が普通であって、出来合いの「建売住宅」や「プレファブ住宅」あるいは「マンション」を買うのは近代以降のシステムである。

 建築生産の工業化、建築の工場生産化(プレファブリケーション(前もってつくる))という「建築」のつくられ方の変化が決定的である。かつては、それぞれの地域で採れる材料(地域産材)を使い、その土地の気候に合った建築がつくられてきた。だから、ヴァナキュラー建築と呼ばれる。しかし、今日では、建築の材料、部品などは予め工場でつくられ、敷地には運ばれていって据え付けられるだけである。この方法だと、世界中同じように建築を建てることができる。

 世界中の大都市が似たような景観となるのは、鉄とガラスとコンクリートのような工業材料を用い、同じような建設方法で建てられるからである。ヴァナキュラー建築の世界が注目されたのは、近代建築の理念や方法に対する疑問、反省、批判からであったとみていい。

 ところで、このヴァナキュラー建築の世界には、一般に、「建築書」はない。しかし、建築をつくるための方法やルール、知恵の体系のようなものは必ずある。そうでなければ、それぞれの地域で同じような形態の建築が建てられ、美しい結晶のような集落を生み出すことはできない筈である。

 セルフビルドの世界が現場の即興的な創意工夫、ブリコラージュ[8]の技法に支えられているとすれば、ヴァナキュラー建築の世界は、人類が長年それを繰り返し、地域の伝統的知恵として蓄積されてきた地域技術、ローカル・ナレッジ[9]に支えられている。「建築書」と呼ばれるものは、この地域の現場の知恵と技能を、応用可能な知識、技術の体系としてまとめたものと考えていい。「建築書」によって、建築の知識、技術は伝播可能なものとなるのである。

 従って、建築を学ぶためにはまずヴァナキュラー建築の世界に学ぶ必要がある。また、自分で建ててみる必要がある。各地で行われている「木匠塾」[10]や集落調査[11]は、建築の原点に触れる最初の機会である。住居や集落の構成原理を研究することで、地域の生態系に基づいてつくられてきた建築のあり方を明らかにすることができる。「地球環境」問題がクローズ・アップされるなかで、それは今日的課題ともなっている。

まず、学ぶべきは建築の構造原理、架構方法である。テント構造、柱梁構造、井籠(校倉)構造、アーチ、ヴォールトなどヴァナキュラー建築は既に多様な架構方法を教えてくれる。柱や梁の太さや壁の厚さなど、自然や歴史の経過に耐えてきた適切なプロポーションを身体で感じることができる。

建築の架構方法は建築構造原理的に限定されるが、それだけで建築はできあがるわけではない。建築のかたちを規定する要因にはさらに様々なものがある。通常、住居のかたちを規定すると考えられる要因として挙げられるのは、①気候と地形(微地形と微気候)、②建築材料、③生業形態、④家族や社会組織、⑤世界(社会)観や宇宙観、信仰体系などである。地域が社会文化生態力学[12]によって形成されるとすれば、その基礎単位である住居も自然・社会・文化生態の複合体として捉えることが出来るであろう。世界中の住居を総覧する『世界住居誌』[13]は、以上のようなヴァナキュラー建築の構成原理を考える手掛かりとして編まれた。是非、参照して欲しい。

 建築のための様々な知恵は、当初は口伝によって、また経験そのものの伝授によって世代から世代へ伝えられたと考えられるが、やがて書物の形としてまとめられるようになる。一般に生活の全体に関わる知恵がまとめられ、その部分として建築に関わる事項が記される。日本の「家相書」、さらにそのもとになった中国の「風水書」がその例である。「家相」も「風水」も近代科学技術理論からは「迷信」とみなされてきた。しかし、本来、以上のように、土地に蓄積されてきた知恵の体系である。中国、朝鮮半島、日本、台湾は風水文化圏といっていいが、各地に同様の「建築書」が成立してきたと考えられる。フィリピンには「パマヒイン」、ジャワには「プリンボン」、バリには「アスタ・コサラ・コサラ」「アスタ・ブミ」などが知られる。それぞれの相互関係については、今後明らかにすべき建築研究のテーマである。

 

3 ウィトルウィウスの『建築十書』 建築論の原典

 世界中の建築を学ぶほとんど全ての人が最初に教えられるのが、前章でも触れられているウィトルウィウスMarcus Vitruvius Pollioという名前である。前1世紀の古代ローマの建築家で、カエサルと知己であり、オクタウィアヌス(アウグストゥス帝)のもとで建設関係を統括し、ファヌムのバシリカの設計を行ったことが知られるが、その他生没年も経歴もほとんど知られないその名が建築の世界で最大の有名人であるのは、彼が現存最古の「建築書」とされる10巻からなる『建築十書De architectura libridecem』を書き、世界の建築史に多大な影響を及ぼしてきたからである。

『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築の状況、建築家の教育、建築材料、構法、各種建築の計画法などを知るうえで欠くことのできない史料であるが、建築や都市計画のみならず天文、気象、土木、軍事技術、絵画、音楽、演劇などの記述を含んでおり、総合的な技術の書、まさにアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)に関わる書である[14]

今では、ほとんど読まれることはないかもしれないが、およその構成は以下のようである。

ウィトルウィウスは、第一書の第1章において、まず、建築家の素養について書いている。建築家は制作(実技)と理論の両方に精通しなければならないとした上で、願わくは、「文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである」という。建築家に必要とされる素養は古来実に幅広い。今日でも極めて多くの複雑な要素をひとつにまとめあげるのが建築家の役割であり、そのために幅広い素養が必要とされるのは同じである。

様々の要素のうち、どういう要素に着目し、何を重視するかは建築家によって異なる。ウィトルウィウスは、用utilitas、美venustas、強の理が保たれるべきだという(第一書第32)。用の理は、計画理論、強の理は、構造理論、美の理は、造形理論あるいは美学理論ということになろう。その三位一体の上に建築理論が成り立つと考えるのである。

ウィトルウィウスは、建築を構成する基本原理として、オルディナーティオーordinatio(量的秩序に関する一般原理)、ディスポシティオーdispositio(質的秩序に関する一般原理)、ディストリブーティオーdistributio(配分・経理を内容とする実践的原理)を挙げ、基本概念として、エウリュトミアeurythmia(質的秩序に基づく美的構成)、シュムメトリアsymmetria(量的秩序に基づく格にかなった構成)、デコルdecor(建築構成の基本原理として要請されるふさわしさ)を主張する。こう書くと、『建築十書』は難解な理論書と思われるかもしれないが、実際各書は極めて具体的である。

第二書は、ほとんど建築材料に関する記述である。砂、石灰、石材、木材などについて、その製法、施工法が書かれている。また、第七書には、仕上げや塗装の方法がまとめられている。さらに、第八書は、水脈探査法、雨水の利用方法、水道・井戸などについて書かれ、第九書は、天文学、占星術、日時計の作り方について、第十書は、水車や各種器械の作り方について書かれている。すなわち、建築のために必要な事項が書かれた「マニュアル書」なのである。

第三書、第四書は、神殿について、第五書は、劇場、浴場など公共建築について、第六書が、住居について書かれている。

住居について書かれた第六書では、まず、住居の向きと太陽との関係が問題とされている(第1章)。そして続いて、上述のシュムメトリアが問題にされる。シュムメトリアは、シンメトリー(左右対称)の語源であるが、住居の各部分の比例関係、割付のことである(第2章)。さらに、主要な部屋の構成(第3章)、各部屋の向き(第4章)、デコル(第5章)というように順次説明がなされる。デコルとは、装飾、仕上げ方である。

この『建築十書』は、しかし、ウィトルウィウスの独創によるものではない。ウィトルウィウスが、古典期・ヘレニズム期のギリシア建築に心酔し、執筆にあたっては現在には伝わっていない多くのギリシアの建築書を下敷きとしていたとされる。第六書の第7章にはギリシアの住宅について書かれている。また、メソポタミア文明に遡る建築技術の流れがささらにその基になっていることは容易に想定できる。長い歴史の流れの中で人類が蓄積してきた建築の技術を集大成する「建築書」の代表が『建築十書』である。

ルネサンス期になって、この『建築十書』は大々的に再発見されることになる。すでにローマ時代にもたびたび引用され、中世には修道院を中心として研究が行われていた。特に、カール大帝の時代には、ローマ帝国再建のための技術的手引きとして熱心に読まれたことが知られている。しかし、ルネサンスの文芸復興の大きなうねりの中で、L. B. アルベルティの建築書[15]をはじめとする多くの注釈書、訳書があらわれることによって、それは確たるものとなり、西欧における建築学の基礎とみなされるようになるのである。

 

4 ヴァストゥー・シャーストラ:マーナサーラ

建築という概念が西欧起源であることが示すように、建築論の伝統は西欧のものといっていいほど,西欧的価値形態に根ざしている。しかし、建築をつくるためのマニュアルとしての「建築書」は、どこでも必要であり、どこにでも存在してきたと考えられる。

例えば、インドには古来「シルパ・シャーストラ Silpa Sāstra(諸技芸の書)」と呼ばれる、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群がある。「シルパ Silpa」とは「規範」、「シャーストラ Sāstra」とは「科学」を意味する。最も有名なのは、マウリヤ朝のチャンドラグプタに仕えたカウティリヤが書いたとされる『アルタ・シャーストラ(実利論)』[16]である。これは統治に関わる様々な領域を扱い、理想的な都市計画[17]について記述することで知られる。

「シルパ・シャーストラ」の中で、ヴァストゥーVastu・シャーストラと呼ばれるものが建築に関わる。ヴァストゥーというのは、「建造物」あるいは「居住」を意味する。最も完全なものは『マーナサーラ』Mānasāraであり、他に『マヤマタ』Mayamata、『カサヤパ』Casyapa、『ヴァユガナサ』Vayghanasa、『スチャラディカラ』Scaladhicara、『ヴィスバカラミヤ』Viswacaramiya、『サナテゥチュマラ』Sanatucumara、『サラスバトゥヤム』Saraswatyam、『パンチャラトゥラム』Pancharatramなどがある。

「マーナ mana」は「寸法」また「―サラ sara」は「基準」を意味し、「マーナサーラ」とは「寸法の基準」の意味である[18]。『マーナサーラ』はサンスクリット語で書かれているが、その内容はアチャルヤ P.K.Acharyaの英訳(1934年)によって広く知られる[19]

全体は70章からなる。まず1章で創造者ブラフマーに対する祈りが捧げられ全体の内容が簡単に触れられ、建築家の資格と寸法体系(2章)、建築の分類(3章)、敷地の選定(4章)、土壌検査(5章)、方位棒の建立(6章)、敷地計画(7章)、供犠供物(8章)と続く。9章は村、10章は都市と城塞、11章から17章は建築各部、18章から30章までは1階建てから12階建ての建築が順次扱われる。31章は宮廷、以下建築類型別の記述が42章まで続く。43章は車でさらに、家具、神像の寸法にまで記述は及んでいる。極めて総合的、体系的である。成立年代は諸説あるが、アチャルヤ によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものである。

第2章では、建築家の資格、階層(建築家、設計製図師、画家、大工指物師)を述べた上で、寸法の体系を明らかにしている。八進法が用いられ、知覚可能な最小の単位はパラマーヌparama~nu(原子)、その8倍がラタドゥーリratha-dhu~li(車塵、分子)、その8倍がヴァーラーグラva~la~gra(髪の毛)、さらにシラミの卵、シラミ、ヤバyaba(大麦の粒)となって指の幅アングラanguraとなる。このアングラには大中小があり、8ヤバ、7ヤバ、6ヤバの三種がある。

建築にはこのアングラが単位として用いられるが、その12倍をヴィタスティvitasti(スパン:親指と小指の間)とする。さらにその2倍をキシュクkishku、それに1アングラを足したものをパラージャパチャpara~ja~patyaとして肘尺(キュービット)として用いる。すなわち、24アングラもしくは25アングラが肘尺とされるが、2627アングラのものもあって複雑である。26アングラをダヌール・ムシュティdhanur-mushtiというが、その4倍がダンダdandaで、さらにその8倍がラジュrajjuとなる。キシュクは広く一般的に用いられるが主として車、パラージャパチャは住居、ダヌール・ムシュティは寺院などの建造物に用いられる。距離に用いられるのがダンダである。

配置計画については9章(村)、10章(都市城塞)、32章(寺院伽藍)、36章(住宅)、40章(王宮)に記述されているが、マンダラの配置を用いるのが共通である。そのマンダラのパターンを記述するのが7章である。正方形を順次分割していくパターンがそこで名づけられている。すなわちサカラSakala(1×1=1)、ペチャカPechaka(2×2=4分割)、・・・チャンラカンタChanrakanta32×32=1024分割)の32種類である。円、正三角形の分割も同様である。

そしてこの分割パターンにミクロコスモスとしての人体、そして神々の布置としての宇宙が重ね合わせられるが、原人プルシャを当てはめたものをヴァストゥ・プルシャ・マンダラという。最も一般的に用いられるのはパラマシャーイカParama-s’a-yika9×9=81分割)もしくはチャンディタChandita8×8=64分割)である。

村落計画、都市計画についてはそれぞれ8つのタイプが区別されている。村落について挙げるとダンダカDandaka、サルバトバドラSarvatobhadra、ナンディヤバルタNandya-varta、パドマカPadmaka、スバスティカSvastika、プラスタラPurastara、カルムカKa-rmuka、チャトゥールムカChaturmukha8種である。都市および城砦についてはここでは省かざるを得ない。『曼荼羅都市』を参照されたい。

建築の設計については、まず全体の規模、形式を決定し、それをもとに細部の比例関係を決定する方法が述べられている。一般の建築物については1階建てから12階建てまで、それぞれ大、中、小、全部で36の類型が分けられている。そして、幅に対して高さをどうするかに関しては1:11:11/41:1・1/2、1:113/41:2という5種類のプロポーションが用意されている。

 興味深いのは、内容は別にして、全体構成が、ヴィトルヴィウスの『建築十書』の構成に極めてよく似ていることである。誰か、しっかり研究して欲しい。

 

5 営造法式と匠明:木割書の世界

 中国にも、もちろん、建築、都市計画に関わる書物がある。中国都城の理念を記す『周礼』「孝工記」[20]はしばしば引かれるところである。この『周礼』「孝工記」をめぐる中国都城に関わる議論はここではおこう[21]

 現存する「建築書」となるとかなり時代は下る。中国最古の建築書とされるのは、北宋の徽宗の宮廷で、国家の営造を司る将作監の職にあった李誡(李明仲)がまとめた『営造方式』(1100)である[22]

 『営造法式』は、全34巻からなり、巻12は建築の名称と述語の考証、労働日数の算出法、巻315は建築の各部分の施工技法、巻1628は各工事の積算規定を示し、巻2934には付図を掲載する。

 その基本は、きょう■(肘木)の断面寸法を基準とした8等級の「材」を定め、これをモデュールとした建築の架構を示し、さらに積算方法や労働時間などを詳細に規定するものである。建築の主要な架構を扱う「大木作」のなかの「椽(えん)」(日本でいう垂木)の項をみると、「架」(母屋桁間の水平距離、スパン)を六尺以内とし、椽の長さは傾斜に沿って求めることなど、続けて椽の間隔、扇垂木とする場合の手法などが示されている。『営造法式』は、こうした詳細な規定を多岐の項目にわたって記述し、様々な形式、規模を示しているのである。

中国には、その後、『魯般営造正式』(明代弘治年間(1465-1505)頃)、『工程做法さほう』(1736(乾隆元)年)74巻、『欽定工部則例』(1815(嘉慶20)年)141巻などの「建築書」がまとめられている。

 こうした中国の「建築書」の伝統は、当然、朝鮮半島、日本にも伝えられる。もちろん、中国の「建築書」がそのまま伝えられたということではない。広い中国においても、「建築書」がそのまま用いられたとは限らない。木造文化圏における「建築書」の比較は、それ自体大きなテーマである。

 日本で知られている最古の「木割書」は、法隆寺大工であった平正隆の書いた『三代巻(さんだいのまき)』(1489年)である。そして最も完備しているとされるのが『匠明』(1608年)である。江戸幕府大棟梁の家柄であった平内(へいのうち)家に代々秘伝書として伝わってきたものである。木割りそのものは、古代から存在してきたと考えられるが、「木割書」が生まれたのは、工匠の頭となる大工職が世襲されるようになってからのことで、室町時代に、大工棟梁の家の秘伝書として成立したとされる。江戸末期に至ると、数多くの木割書がつくられ、木版本も刊行されて、広く流布することになる。

 『匠明』は、門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿記集の五巻からなる。門(31棟)、社(神社本殿13棟他)、塔(15基)、堂(本堂、鐘楼、方丈等22棟)、殿(主殿、能舞台等諸建物)という建物種別に木割り(各部の寸法)が示されている。指図(平面図、立面図)が示され、その説明がなされる、という記述のスタイルである。

 「塔記集」の「三重塔」のところを注釈書によりながら、図面を起こしたことがある。今日では、CADを用いて3G画面が容易につくれる。一週間に一度の演習で半年かかったけれど、ヴァーチャルでも物が建ちあがるのは実に楽しいものである。記述は簡潔であるが、日本の木造建築のつくり方がよくわかる。『営造法式』とやり方が異なるのも面白い。

 古今東西、「建築書」の基本にあるのは、寸法、モヂュール(基準寸法)である。石材であれ、煉瓦材であれ、木材であれ、単位となる部材の寸法から全てが組み立てられる。そして、尺にしてもフットfootにしても、そうであるように、寸法の基準は身体寸法である。部材の太さや、長さは、身体寸法をもとに測って、経験上、もつかどうか(倒れるかどうか)の経験を蓄えてきたのである。

 建築にとって極めて重要なのが、以上の意味での寸法感覚、スケール(規模)感覚である。スケール感覚を身につけるには、ここでも、ヴァナキュラー建築に学ぶことである。美しいプロポーションというのは、力学的にも理にかなっているからである。また、身の回りのものがどのような寸法なのか、身をもって測るのがいい。

 

6 パターン・ランゲージ

 さて、以上のように、前近代においては、それぞれの地域で「建築書」がつくられ、伝えられてきた。技術的に洗練度の高い地域から低い地域へ技術は流れる。また、民族の興亡、交流が余りない地域で(例えば日本)、技術は洗練される。

 しかし、上述のように、産業革命による産業社会の到来によって、建築のあり方、つくり方は一変する。鉄とガラスとコンクリートを主材料とすることにおいて、以前とは、比較にならないほど大規模の建築(大空間、超構想)をつくることができるようになるのである。鉄筋コンクリート(RC)構造は、圧縮に強いセメントと引張りに強い鉄の熱膨張率がたまたまほぼ同じで、付着性が高いという偶然を基にした発明である。最初は、植木鉢とかボートがつくられ、建物に使われだすのは19世紀末のことである[23]。また、高層建築がつくられだすのも19世紀末のシカゴにおいてである[24]。大変革が起こって、わずか百年余りである。この間は、建築技術の発展が大きく建築のあり方を支配することになった。

 社会が複雑化し、多様になったことも大きい。全く新たな建築類型も出現してきた。建築をつくる方法もまた大きく変化するのも当然である。

 現代の建築理論家として知られるクリストファー・アレグザンダーC.Alexanderは、『形の合成に関するノート』[25]で、この間の事情を図のように、うまく説明する。

 すなわち、ヴァナキュラー建築の世界では、かたちFormは、コンテクストContext(文脈、脈絡、前後関係、状況)によって決まり、一定の照合関係が成立してきた。そして、建築家が設計する場合には、建築家がコンテクストを把握することによって形成された心的イメージをかたちに置き換える方法がとられてきた。しかし、現代社会においては、コンテクストが複雑化、多様化しており、それを一人の人間が把握することは困難であり、一定の抽象化が必要になる。また、複雑な用件をまとめあげるには、コンピューターが必要になる。

 C.アレグザンダーは、『コミュニティとプライヴァシー』[26]には、住宅を設計する場合が書かれている。住宅の間取りを考えて、条件を挙げてみて欲しい。「台所は食堂に近い方がいい」、「台所は明るく南向きがいい」・・・おそらく、無数の条件や項目を書き上げることができるだろう。中には当然矛盾した条件、項目が含まれる。そうすると優先順位を決める必要がある。数多くの条件を整理して、それをひとつの空間にまとめるのが設計である。C.アレグザンダーは、その整理を行う筋道、プログラムを示したのである。

 設計のプロセスを如何に論理化するかが、建築理論の課題である。しかし、全て論理化できるかというと、必ずしも、そうはいかない。設計の決定のプロセスには、当然、様々な価値判断が必要とされるからである。

 C.アレグザンダーが『形の合成に関するノート』で示した方法は、当初、条件を書き出せば論理的に設計が出来る、そういうモデルと受け取られたが、彼自身は、住み手や使い手が設計のプロセスに関与するモデル構築にむかう。

 ひとつは、「パターン・ランゲージ」と呼ばれる、建築の語彙(ヴォキャブラリー)と辞書を用意する方法である[27]。誰でも、この語彙と辞書を使って設計できるのが理想である。この語彙が果たしてどこでも使えるのか、普遍性を持つのか、という議論はあるが、ヴァナキュラー建築は、地方言語の宝庫である。

 また、C.アレグザンダーは『住宅の生産』[28]において、実際の建設も行うこと、現場で設計することの重要性を主張する。そして「アーキテクト・ビルダー」という概念を提出する。

 さらに、都市計画についても、『まちづくりの新しい理論』[29]において、住民参加型の、あるいはワークショップ形式の設計計画方法論を展開している。

 C.アレグザンダーに一貫するのは、如何に複雑な社会になろうとも、自らが直接関与できる現場から発想すること、決定のプロセスを透明化し、オープンにすることである。

 

 建築理論の系譜といいながら、いささか、簡単に過ぎたであろうか。身近なスケールの家具や住宅についてはわかるけど、超高層など設計できるであろうか、と言われれば、基本はそうかわらない、といいたい。

建築理論の流れを丹念に追いかけるとすれば、さらに何十枚もの紙数がいるであろう。すぐれた建築を生み出す建築家であれば、必ず、それなりに説得力ある理論をもっている。それぞれに、大いに学んで欲しい。

 

 

 



[1] そもそも「建築」という言葉は、欧米語のArchitecture、の訳語で日本語にはなかった。中国語にもなくて、むしろ、明治の文明開化の時代に日本語による翻訳語が中国語としても用いられるようになった例の一つである。

 伊東忠太(1867-1952)という稀代の建築家、建築史家が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を論ず」()という論文を書いて、「建築」、「建築家」、「建築学」、「建築学科」という言葉が定着することになるが、伊東の論文のタイトルからわかるように、直前は、「造家」という言葉が使われていた。「造船」、「造家」・・・というのは、わかりやすいが、「建築」は、「造家」ではない、「建造物」Buildingと「建築」Architectureは違うと、伊東忠太は、先の論文で主張したである。

それまでは、土木建築工事一般を「普請(ふしん)」、建物に関する工事を「作事(さくじ)」と呼んでいた。

しかし、が、要するに、「建築は芸術であって、単なる工学技術ではない」というのである。この「芸術としての建築」という観念は、「芸術」という観念の成立に関わっている。

そもそも「芸術」とは、と語源を遡ると、西欧語ではアート、アール art(英語、フランス語)、アルテ arte(イタリア語、スペイン語)、さらにアルス ars(ラテン語)に至る。一方、ドイツ語ではクンスト Kunstといい、技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発し、art arte の由来するアルス ars は、テクネーtechnéの訳語として用いられる。すなわち語源からみれば、芸術は技術と類縁であり、最広義には技術にふくまれる。

[2] 原広司、『建築に何が可能か』

[3] 山本理顕

[4]

[5] 布野修司、『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』、朝日選書、1997

[6] J.Wampler“All Their Own: Towards Autonomy in Building Environment”Oxford University Press New York 1977

[7]

[8] ブリコラージュ

[9] C.ギアツ

[11] 原研究室

[12] 立本成文、『地域研究の問題と方法 社会文化生態力学の試み』、京都大学学術出版会、1996

[13] 布野修司監修、『世界住居誌』、昭和堂、2005

[14] そもそもArchitecture・・・の語源は、ラテン語のアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)、アルキテクトンArchitechtónである。「始源(根源)の技術」という意味である。すなわち、アーキテクチャーという言葉は、「建築」という分野にとどまらない。原義に遡れば、「コンピューター・アーキテクト」といった言葉が用いられるのは何も不思議はないのである。

[16] カウティリヤ、『実利論』上下、上村勝彦訳、岩波文庫、1984年。Shamasastry, R., “Arthasastra of Kautilya”, University of Mysore, Oriental Library Publications, 1915. Kangle, R.P., “The Kautilia Artaśāstra”Part 1 Sanskrit Text with a Glossary, Part 2 An English Translation with Critical and Explanatory Notes, Part3 A Study, Bombay University, 1965. Reprint, Delhi, Motilal Banarsidass Publisher, 1986, 1988, 1992

[17] 布野修司、『曼荼羅都市』、京都大学学術出版会、2006

[18] 『マーナサーラ』とは作者の名前であるという説もある。

[19] Acharya, P.K. Architecture of Manasara Vol. I-V. New Delhi, Munshiram Manoharlal Publishers, 1984. [First edition 1934]

[20] 『周礼』:しゅらい Zhu l° 古くは《周官》ともいった。中国古代の礼書,三礼の一つ。西周王朝の行政組織を記述したものとされ,天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇(だいしこう),冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。これら六つの官は,理念的にはそれぞれ60の官職から成り,合計360という職務は1年の日数に対応するのだとされる。ただ冬官大司空の篇は古く失われ,漢代に替りに〈考工記〉が補われた。伝説的には,周公旦が周代初年に礼を制した際,この書物も編まれたとされるが,内容がそれにそぐわないことは,近人の銭穆〈周官著作年代故〉が詳論するところである。また前漢末の劉垢(りゆうきん)の偽作だとする主張もあるが,おそらくこの書物の主体になる部分は,戦国末期,天下が統一に向かう趨勢の中で,一つの統一国家像を描き出すため,以前からの種々の伝承をまとめて編纂されたものであろう。編纂の中心となったのは斉国の学者たちであったと推定されている。この書物は漢代にすでに〈六国陰謀の書〉と呼ばれ,王裸(おうもう)の新政権や王安石の新法実施などに際し政治的に利用されたほか,六官からなる政治体制は中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えた。(小南 一郎)

[21] 応地利明、「Ⅴ アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』、昭和堂、2003

[22] これに先立って、神宗の下で王安石によって財政再建のための支配機構の整理が打ち出され、1068年に将作監に下された命により1091年に完成した建築書250冊も『営造法式』と称するが、同書はあまりにも大部で、広闊で、未整理であったらしく、重ねて李明仲に命がくだったとされる。

[23] 1850年ころに,フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初といわれ,その後,67年に J. モニエが鉄筋コンクリートの部材を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりとされる。フランスで発明された鉄筋コンクリート部材は,その特許がドイツに買い取られて基本的な研究が行われ,80年代の終りには,圧縮をコンクリートで,引張りを鉄筋で受け持つ鉄筋コンクリートばりの理論的計算法が発表された。日本で土木構造物に鉄筋コンクリートが初めて使用されたのは,1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋といわれる。

[24] 鉄道事業の発達とともにアメリカ中西部の商業,工業の中心地として発展し始めていたシカゴでは,急激な人口の集中による都市化が進む一方,1871年に起こった大火によりそれまでの木造による商業施設の大部分が焼失し,復興のための建設ブームを迎えていた。その中で生み出されたのが、シカゴ構造と呼ばれる鉄骨構造の高層建築である。ジェニー William Le Baron Jenney(18321907)やホラバード William Holabird(18541923)ら、シカゴ派と呼ばれる建築技術者らが当時建物の装飾や構造材に補助的に使われていた鋳鉄と,土木分野や工業製品に使われ始めた鋼を柱やはりに使用し始めるのである。また,エレベーターも当時安全装置を備えて実用段階に入り始め、従来45階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新する高さにまで達することができた。ホームインシュアランス・ビル(188512),リライアンス・ビル(189416)がその先駆である。

[25] Notes on the Synthesis

[26] Community and Privacy

[27] Pattern Language


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...