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2025年3月4日火曜日

合宿物語  「鯨の会」通信 連載④  1988

合宿物語  「鯨の会」通信 連載④  1988

                                                          布野修司

  韓国で大ヒットの映画「鯨の唄」()を見たか。僕は観てない。ソウルオリンピックの頃、テレビ(衛星放送)でかなり長い紹介を見ただけだ。二人の若者が一人の言葉を失った少女を救い出すストーリーだった。それによると「鯨」というのは韓国では幸せのシンボルなんだそうだ。「鯨の会」もそうすると実にいい名前なのだ。

 前回、谷田君のことを書いたら、梨を送ってもらった。鳥取の二十世紀だ。みんなで御馳走になった。ありがとう。他の研究室にも配った。実においしかった。こうでなくっちゃ。智頭には1111日~13日、再び行ってきた。一日がかりの大審査、激論に次ぐ激論の末、グランプリ二点(150万円)と優秀作十点(各30万円)を決めた。ふたを開けてみたら、グランプリの一つに、諸君の知っている(であろう)建築家、高崎正治が入っていた。しかし、それにしても、鯨の会からは誰も出さなかったんじゃないか。出せば少なくとも30万円はとれただろうに。と思うと、情けないやら、腹がたつやら……。とにかく頭にきたぞ。どんどんコンペに出すこと。出して入選したら、賞金でおごること。

 昨日(1121日)は、英語で2時間半の講義をやってきた。できるかって。まあ何とかなるものよ。英語は恥をかくことを怖れなけりゃ、通じるものよ。もっとも通じたかどうか知らないけれども。JICA(国際協力事業団)の住宅建設技術研修セミナーである。講義題目は「日本と第三世界における住宅生産システム」(Housing Const-ruction System in the Third World Countries and Japan)である。インドネシア、エジプト、チリ、フィリピン、ヨルダン等13カ国、聞き手は皆若くて優秀な政府高官である。東南アジアと日本におけるわが研究室の研究成果をぶつける絶好の機会でもあり、毎年やんなくっちゃと思いつつあるところだ。

 10月の「鯨の会」は実に面白かった。岡君のレクチャーはなかなかためにもなった。でもきっとその報告は、面白さを伝えないだろう。今年の卒論生は随分とサボッてる(ということは僕がサボッとるということだが)。もう少しましな、来ない人にも内容のわかるレポートを書けんのかね。

 と思いきや、1119日の卒論中間発表会では皆頑張った。どうも要領だけはいいらしい。誰に似たんだろう。誰が指導したんだろう。

 上原珠枝さん(82年卒)、平野敏彦くん(83年卒)、赤羽司くん(84年卒)と、このところ結婚ラッシュである。澤原武彦くん(83年卒)も来春に結婚の予定。とにかく、めでたいめでたい。みんなも、だんだんおじんになるぞ、おばんになるぞ。ウッシシ(なんのこっちゃ)。だけど小生は決して諸君より若くはなれないのだ。せめて気だけはいつまでも若くなくっちゃ。

 そういえば、うろ覚えだけど、「鯨の会」多摩支部が結成されたようだ。メンバーは、奥富敏樹(85年卒)、町田真一(85年卒)、石井敬一(85年卒)、中条広隆(85年卒)に僕。何だ、皆同じ学年じゃないか。しかし、中条がなんで入っているんだ。初めて(?)おごってもらった。教え子におごってもらうことがこんなに気持ちがいいとは知らなかった……。

 ということで連載を続けよう。

 

 第一回の合宿である。場所は新潟県の粟島。この合宿を企画し、組織し、実行したのは、山口茂(中央住宅)、塚越実(近藤建設)の名コンビである。この二人によって、布野・宮内研のその後の合宿のスタイルは決定されたといっていい程だ。

 都市病理じゃなくて人間病理だと悪口を言うのもいたけれど(言ったのはもちろん僕だろう)、このコンビの漫才にはとにかく一年中笑わされた。そのハイライトが粟島での合宿である。研究室には今でもその時の分厚いアルバムが置いてあるのであるが、毎年開いては吹き出している。

 度肝を抜かれたのは、確か山口君が妹に書かしたのだという宴会用垂幕というか横幕が用意されていたことである。第一夜、「布野大賞争奪歌謡大会」。第二夜、「宮内大賞争奪大隠し芸大会」。第三夜、「第一回布野・宮内合同合宿記念祝賀パーティー」。毎夜、大きく墨書きされた横幕を取り替えて大騒ぎだったのだ。この時の合宿には、岡君、稲葉君、それにAURA設計工房の浜田羊介さんが参加している。それにもう一人、他の研究室から誰か参加している。誰か浅瀬に飛び込んで額を切って大騒ぎしたんじゃなかったっけか。誰だっけ。

 もちろん、宴会だけじゃない。きちんとゼミもやった。しかし、圧倒的に覚えているのはとにかくめちゃくちゃ楽しかったことだ。本村は、小屋をつくるんだとかなんとか馬鹿なことをやり出すし、もうテンヤワンヤであった。二人の初代マドンナの水着姿が初々しかったのが昨日のようだ(いつか歴代マドンナ列伝をまとめよう)。

 極めつけは粟島一周チャリンコ・レース。この時の記憶が三宅島一周レース(83年)に結びつくのだけれど、とにかく疲れたよなあ。

 この研究室合宿というゼミは、他の大学にそうそうない、とてもいいシステムだと思う。研究の一つのステップを区切れるし、何よりも、学生生活の大きな想い出となる。諸君にとっても、合宿が一番印象深いのではないか。忘れないように、そのリストを挙げておこう。教師の特権で、同じとこには二度と行かないのだ。

 

1978) 青 湖(長野県)クッソー

 1979  粟   島(新潟県)

 1980  松 湖(長野県)

  1981  裏 梯(福島県)

  1982  金原温泉(長野県)

     ゲスト:永田洋明

 1983  三 島(東京都)

     ゲスト:高野雅夫(生闘学舎)

 1984  淡 島(兵庫県)

     ゲスト:山田修二(淡路かわら工房)

 1985  松 町(静岡県)

     ゲスト:石山修武

 1986  竜神村・田辺(和歌山県)

     ゲスト:渡辺豊和

 1987  美ケ原高原(長野県)

     ゲスト:渡辺豊和(京都芸短)・安藤正雄(千葉大)と三大学合同

  1988  佐 島(新潟県)

     ゲスト:安藤研(千葉大)と合同

 

 残念ながら、民宿の記録がない。合宿の話を書くと、毎回、それだけになってしまうので、各年の合宿幹事に後はまかせたい。それぞれ合宿の想い出を書いて送って欲しい。そうすれば、僕が書かなくても、それをそのまま載っければいい。僕も助かる。

 

 ところで、第四回、鯨の会には、わざわざ長野県(岡谷)から、斎藤正行君(79年卒)が出席してくれた。出張をうまく合わせてくれたのだという。こういうのはうれしいねえ。しかし、それにしても全然変わってない。人間なんてそう変わりゃせんのだ。

 飲むほどに「先生の言うことも全然変ってませんね」とくる。「そりゃあ、進歩しとらんということか」。「いやあ、ボカァー、先生と勝負してますよ、今でも」。「おまえこそ、全然変ってないじゃんか」。「そうだねえー」てな具合いだった。

 その時、この原稿の話になった。合宿のことだけ書きゃいいよなといったら、鍋があるという。

 鍋とは何か。そういや冬は、研究室で毎晩のように鍋をつくって酒飲んで、何か集計してたんだ。主役は、保坂順一君。彼の親父さんは寿司屋で、門前小僧よろしく、何でもさばいて、つくってくれる。あれもうまかったなあ。その後、電気釜を入れれば、インスタントラーメンの時代もあった。研究室の食の歴史もまたいずれまとめよう。そういえば、東洋大に来て真っ先に買ったものって何だと思う。冷蔵庫なんだよ。


2025年3月3日月曜日

研究室誕生 「鯨の会」通信 連載③  1988

 研究室誕生 「鯨の会」通信 連載③  1988

                                                  布野修司

 

 大学院の北川君から電話があった。僕が研究室に居て、彼は外だ。明日までにこの原稿を書けという。どうもおかしい。いつもは僕の方が外から指示するのに調子がくるう。去年は、上村久司君(現在、JKK 住環境研究所)が主(ぬし)のように研究室に棲みついていたから、随分と助かった。今年は、スラムに僕一人ということも少なくない。それに昨年はインスタントラーメンだったのに、今年の四年生はちゃんと出前を頼む。ずいぶんと優雅である。おかげで、僕もちゃんと昼食をとるようになった。研究室は集まってくる学生によって毎年毎年雰囲気が違うのである。

 しかし、べらぼうな話だ。いくら気楽に書くといったってあまりに急だ。自分で書いてみろといいたい気分でペン(サインペン)をとったところである。

 今年の夏というか8~9月は実に変だった。異常気象もこう続くと異常気象じゃなくなる。地球はきっとおかしくなりつつあるような気がしてならない。広瀬隆の「危険な話」は読んだかな……。

 7月の半ば、鳥取県の八頭郡は千頭(ちづ)という町に出かけてきた。「ちづサンフォーラム」という千頭杉を用いた住宅コンペのプレシンポジウムのためである。わりと真面目な話は『建築文化』九月号に書いた(「地域の活性化とは」リレー時評)から読んで欲しい。大失敗である。折角鯨通信があるのに諸君に参加を呼びかけるのを忘れた。正確には、頼んだんだけれど事務局が忘れた。審査員をやるから、関係者を入選させるわけにはいかない、などとは決して思わない。どんどん参加して欲しかったのだ。あわてて身近に声をかけたけど何人が応募してくれるか。締切は10月末である(登録締切が8月末だったのだ)。

 鳥取県と言えば谷田昭道君(81年卒)がいる。あの美声の、天使の声の谷田君だ。一度テープを送ってもらったんだけどお礼を書き忘れた。今度も、連絡し忘れた。御免。その後、曲が出来てきたらまた送ってちょうだい。あつかましいかな。

 でも行ってみて、いくつかの感激的なことがあった。一つは、二人の東洋大のOB(3期と7期)に会えたことである。もう一つは、『スラムとウサギ小屋』を読んで来たという高校生に出会ったことである。高校生だよ。読んでない諸君も多い(だよね)というのにである。東南アジアが忙しくて日本はあまり歩いてこなかったけれど、どんどん歩きたい気分である。

 昨年、「都民の家」というコンペの審査員をやったけれど、今もう一つ川口市の都市デザイン賞の審査も頼まれている。そんな歳になったのだろう。鯨の会のコンペ入選の声を早く聞きたいものだ。

 ところで合宿は佐渡へ行ってきた。千葉大の安藤正雄研究室との合同合宿である。思えば、昨年は、美ケ原高原で、京都芸術短大の渡辺豊和研究室も加えた三研究室の大合同合宿であった。今年は、五大学でインター・ユニヴァーシティーでという声もあったけど、二大学となった。石見一彦君(80年卒)に会った。ただただなつかしかった。少し太って中年になりかけていたけど、ちっとも変わりなかった。ただ、佐渡は嫁飢饉とかで、嫁さんのきてが少ないという。困ったもんだ。

 ところで、思い出したから書いておきたい。来年2月21日から3月15日ヨーロッパへ行くことになりそうである。都合のつく人は一緒に行こう。旅費は45万ぐらいかな。三週間は長すぎるかも知れないし、年度末で忙しいかもしれないけれど。最近は円高で学生は沢山集まるのだけれど、鯨の会の諸君がいてくれると学生の相手はまかせられると思ったりなんかしたりして……。その旅行プランを同封します。入ってなかったら、いよいよ事務局は駄目だと思って下さい。

 さて連載を続けよう。

 

 最初の年(78年)は、楽しく、優雅にあわただしくすぎた。79年の1月には、最初の東南アジア調査に発っているから、その準備に忙しかったのである(東南アジア研究については前号にも触れられているので、またの機会にしたい)。最初の講義は「建築意匠Ⅰ」である。何故かうれしかった。授業でも何度か話したけれど、「建築計画」という科目の前身が「建築意匠」である。先祖返りして、より好きなことがしゃべれるとうのが魅力的であったのである。「建築計画」は建築を狭くしすぎている、そうした思いが強かったのだ。

 「建築意匠」という講義は未だに固まってこない。「近代建築」を素材に好きなことをしゃべっている。途中で試験をやり始めたのは、あんまり好きなことばかりでいいのかと反省したからである。

 ジャカルタ→パダン→メダン→トバ湖→ジャカルタ→バンドン→シンガポール→バンコック→ホンコンと回って帰ってばたばたしているともう4月である。一年目は楽をしたのだけれど、卒論生をとらなければならないというので、卒論テーマを考える。実際、何をやろうか色々考えたのだと思う。それより果して卒論生が来てくれるかどうかも心配であった。今でこそ人数が多いと嫌だなんて心底思うのであるが、もし一人も来てくれなかったら、卒論テーマもくそもないのである。

 とはいっても、当面自分の関心を貫くしかない。そこで、一つは、東大の頃に手がけ始めた住宅の増改築についての調査研究を軸にしようと考えた。「住ストックの更新とその改善諸方策に関する研究」というテーマである。それともう一つ、東南アジア研究がテーマになる。幸い大学院に進学した稲葉君、M2の岡君がそれぞれの軸になってくれそうな予感があった。

 以上はいささか地味である。そこで宮内先生と相談して、同時代建築研究会の関心からいくつかテーマを出すことにした。まずは、日本の近代建築史に関する研究、そして都市病理研究である。この都市病理研究は、その後紆余曲折するのであるが研究室の大きな流れをつくった。そういえば事務局の那須君も八巻君も都市病理の出である。初代から始まって、ユニークな人材が沢山集まっている。

 もう一つ、空間論研究というテーマもつくった。当時、設計をやる研究室は、山崎研究室、前田研究室、太田研究室とあったが、設計についても少し配慮したかったからだと思う。ただ、卒業設計を始めたのは、4期の飯塚君からである。以後、昨年をのぞいて毎年、卒業設計賞を獲得してきた。昨年も設計製図賞をもらったから設計は大きな柱となってきたといっていいであろう。忘れるといけなから、以下にメモしておこう。

  82年  卒業設計賞  飯塚 保

  83年  卒業設計賞  平野敏彦

  83年  設計製図賞  小美野聡

  84年  卒業設計賞  村木理会

  85年  卒業設計賞  奥富敏樹

  85年  卒業設計賞  松田和優紀

  85年  設計製図賞  岡坂 巧

  86年  卒業設計賞  浅見佐智子

  86年  卒業設計賞  内田泰啓

  87年  設計製図賞  新居隆晴

 そして、集まったのが山口、塚越、保坂、木下、斎藤、金井、本丸、そして斎藤、三浦の九名である。佐藤、三浦は今では今井、市川に姓が変わっている。9名というのはいい数である。その後20人というときもあって10名以下になることはなかったのであるが、今年7名となって(8名以上とってはいけないルールとなって)そのことを余計に感ずる。じっくりつき合える。学生も教師もサボれない感じ(あるいは教師がサボれば学生もサボる。学生がサボれば教師もサボる)がはっきりとわかるのである。

 教師をしたものであればおそらく同じであろう。最初の年はとりわけ印象深いものである。とは言え、どんな研究をしていたかというと相当あやしい。試行錯誤である。強烈な印象に残っているのは、やっぱり合宿である。

 

 ここで時間が切れた。次は、もっと早く締切をいうようにネ。


2025年3月2日日曜日

最初に出会った学生たち  「鯨の会」通信 連載②  1988

 最初に出会った学生たち      「鯨の会」通信 連載②  1988

                                           布野 修司

 

 TBSのディレクターから電話がある。「プライムタイムの本村ですが、今度、取り壊される同潤会の押上(中ノ郷)のアパートを取り上げようと思うんですけど‥‥」。松山巖さんの紹介なのだという。同潤会については多少の資料をもっている。これまでも三度ばかりNHKの番組の相談にのったことがある。わざわざ川越まで来るというので合うことにする。それが敗因であった。テレビは嫌いである。何故かって、テレビに出るような見てくれをしていないことは諸君だって知っているじゃないか。ちょっと前、NHKの「おはようジャーナル」に出されそうになったことがある。手づくりハウスとかなんとかにコメントをというような番組だったのだが、石山修武に逃げられて、人がいないのだという。すんでのところで、大野勝彦に代わってもらったのだけれど、テレビは柄じゃない。その点ラジオはいい。顔がでないから。

  しかし、まあ、つい出る羽目になった。といっても、10分ほどのニュースのうちの30秒だけだ。六月一日(例の森本キャスターが復帰した日だ)一日、取材陣につき合ったのである。まあいい経験だったのだけど、放映されたのをビデオでみると(もちろん、飲んだくれていて、リアル・タイムではみられないのだ)、やっぱりがっかりである。いいことを沢山しゃべったのだけど、ほんの一言二言扱われてるだけなのである。やっぱりテレビに出るんなら、生で好きなことがいえるんじゃなくっちゃ、なんて言ってみても後の祭りだよ。 六月二日、同潤会アパートをみて回った翌日、『週間読売』から電話がある。「新宿のゴールデン街で好きなだけ酒を飲ますから何か書いて頂けますか‥‥」ときた。正直いって、思わずヨダレが出た。しかし、そうもの欲しそうにするのは性に合わない(誰かがウッソーという)。「いつですか、今、これでも忙しいんですけど」、「えー、今日」、ホントに絶句。しかしあいにくと予定があいている(シメシメ)。「しかし、ずいぶんと急なことですね。『週間読売』っていうのは、そんなにいいかげんなんですか」。受話器の向こうで、「そうなんですよ、われわれも急に上司からいわれたんですよ。渡辺武信さんの推薦なんですよ。建築界で飲んで書けるのは、宮内康か布野修司だって‥‥」。ギョッ、武信さんには多少借りがある。「もう、ことわられると首です」とかなんとか、編集の辻さん(酒飲んで、もちろん仲良くなったのだ)はもう必死である。そのうち、「いや、僕もいいかげんなのはきらいじゃないですしィ~。お酒も嫌いじゃないですしィ~」てなことを口走ってしまった。その夜は、美術評論家の高島直之を「ただで酒が飲める」と呼び出して、楽しく飲んだ。文章は、割とうまく書けた。読んだかな。読んでないだろうな。‥‥ てなのが近況である。さて、連載を続けよう。

 

 1978年4月の中頃だった。一台のオンボロ小型トラックが東大本郷の工学部一号館の前に横づけされた。運転してきた男は、背が高く、がっしりとした、たくましい青年である。しかし、その風体はまるで、梱包屋か工務店の二代目のようであった。その印象が正しかったことは、すぐに裏づけられるのであるが、その好青年が小生の東洋大学への迎えの使者であるとは、おそらく、誰も気づかなかったにちがいない。「東洋大学の中村ですけど、布野先生の荷物を運ぶように言われたんですが‥‥」と言われた時に、僕も一瞬とまどった記憶があるのである。

 中村良和君。僕が最初に出会った東洋大生である。その最初の印象は強烈であった。何故か、うきうきした気分になったことを覚えている。「たったこれだけなんですか」だったか、「ずいぶんあるんですね」だったか、中村君が言ってダンボールをあっという間に積み込むと、すぐさま川越に向かった。さらば東大よ!なんて感傷的になんかちっともならなかった。川越街道はひどく混んでおり、おかげで、随分中村君と話すことができたのである。

 中村良和君は、今、豊橋にいる。JKK(住環境研究所)から積水化学工業にいって、中部セキスイツーユーホーム製作所に出向中である。何年か前、「一人じゃ寂しいから、誰かよこしてよ」といわれて、白水直人君(85年卒)が行った。しかし、人の運命というのはわからないものである。中村君が、今、豊橋にいることなど、本人も夢にも思わなかった筈なのである。その最初の出会いから、今日までの間に彼の人生は一変したのであり、ものすごいドラマがあったのである。

 最初に出会った時、彼は、前田研究室の研究生であった。しかし、同時に、北区の滝野川で工務店を営んでいる親父さんの元で、大工の修行中であること、続いて、電気屋、建具屋など下職の見習いを数カ月づつ続けるつもりであること、そうした上で、親父の跡をつぐつもりであること、全く新しい建築家のタイプを目指すことなどなどを、川越街道の上で語り続けた。正直いって、新鮮だった。二年程、東大で助手をして、アモルフの宇野君や竹内君、団紀彦君なんかのエスキースを見て、学生との接触はあったのであるが、東大には、こんなタイプの学生はいない。その時、一つの世界が開かれたような気がした。ひとつの構想が芽生えた。中村君と僕とのその構想は次第に膨らんでいく。そして、着々と実現するかにみえた。しかし、その矢先の事故であり、遭難であった。そう、彼は有数の山男でもあったのである。

 川越へ向かう車の中で、中村君は既に山男としての夢を、ヒマラヤ登山の夢を語っていた。海外登山の実績のある山岳会に属していたのである。その後、沢山の学生にあったのだけれど、はっきり言うけど、人間としての巾は、東大生より、東洋大生の方が上である。諸君の中には、音楽にかけてはセミ・プロ級が何人もいる。寿司をにぎらせたら、包丁をにぎらせたら、本職はだしのやつがいる。野球をやらせたらどうだ。(一瞬口ごもって)すごい奴らばかりである。スポーツをやらせたら、青白きインテリなんかに負けはしない。おまけに、もてるやつらばかりときたら、いうことなしである(そうだよねえ諸君)。中村君はそうした最初の学生であった。

 彼の二重遭難の話は後にしよう。それは四年後の暮れのことである。忘れもしない、宮内康さんが野球で骨折した日だ。東洋大学につくと、諸君のよく知ってる研究室に荷物を運びあげた。ガランとしていた。それがスラムとなるのに一年とかからなかったように思う。それまでのスラムは内田研究室であった。それ以後、その名誉の言葉はわが研究室につきまとい、今なお、つきまとっている。何人かの学生、大学院生が手伝ってくれた。その中に、岡利実君がいた。岡君も印象深い、彼と一緒に東南アジア研究を始めることになったのである。岡君と中村君は親友であった。岡君は理論派であり、中村君は実践派といった印象であったことを覚えている。

 最初の年、何をしていたかは、あんまり覚えていない。授業もあんまりしなくてよかったような気がする。もっぱら、前田研究室の院生、学生とゼミなどをつきあった。稲葉君の学年である。原稿のリストをみてみると、その年、悠木一也のペンネ-ムで『建築文化』に「螺旋工房クロニクル」というコラムを連載している。他に『現代思想』に書くなど、もっぱら原稿を書いていたようである。もちろん、一方で東南アジア・プロジェクトが開始されつつあった。同時代建築研究会も盛んであった。一方で、東大の院生、日本女子大の二人の学生(現 彦坂裕夫人、浜口恵子さん)の卒論をみていた記憶がある。楽しく、優雅であった。そうした中で忘れられないことがある。それは、前田研究室の合宿(青木湖)で起こった悪夢のような出来事である。

 断じて信じて欲しいのだけれど、僕は酒が飲めなかった。師匠である宮内康先生に聞いて欲しい。絶対ホントなのだ。その合宿で、新田君(現 近藤建設)という一人の学生が「飲み比べをしよう」という。皆はやしたてる。新任のセンコーとしては、学生に甘くみられるのが嫌だった。「よ~し」と受けてたった。新田君は底なしであった。しかし、その彼がトイレへ行ってゲエゲエはいて(後でわかって僕は怒り狂ったのだ。彼にはそういう特技があった。)さらに挑んできたのである。そしてクライマックスをむかえた。民宿の庭で、いきなり胴上げされたのである。このテクニックを僕はうかつにも知らなかった。人を酔わせる悪どい手だと今でも思う。こう書いてても眼から火花が出そうだ。チクショー。あとは知らない。花火をもってそこら中を駆け摺りまわった。何人もが火傷したという。挙げ句の果てに田圃に飛び込んで泥だらけになった。将棋板をひっくり返した。それで寝てしまった。

 翌朝、ガンガンする頭で恥ずかしさを感じて、ゼミを放っぽり出して、東京へ帰った。前田先生もあきれたと思う。この時以来、前田先生は僕のことを大酒飲みだと思い込んで、方々で言いふらすのでホトホト困ったのだ。満員で暑くて、トイレでゲエゲエ吐いた。ほとんど死にそうであった。その時は、とんでもない大学にきたと正直思った。酒をきたえなければと思ったのはこの時なのだ。「布野先生に酒を飲ますな」という噂はあっという間に広まった。学生の見る眼も変わった。「この先生はほんとは馬鹿なんだ」と、実に親しげなのである。                                   (以下次号) 

2025年3月1日土曜日

東洋大へ来た頃のこと 連載①、「鯨の会」通信01、1988

 東洋大へ来た頃のこと      「鯨の会」通信 連載①  1988

                             布野 修司

 

 「鯨の会」の通信を出すから何か書いてくれとのことである。というのはウソで、ホントは何か書かせてくれといったのは僕の方らしい。酔っぱらってて記憶がないから・・・そう僕は32才になった頃、つまり諸君とアメリカへ研修旅行へいってから、酔うと記憶がなくなるようになったのである。布野・宮内研でいうと4期生、飯塚君たちの学年は責任を感じて欲しい。デモマア、年のせいですね。君達も気をつけよう。・・・定かではないのだが。まあ、せっかくスペースを頂いたので、何事かをつづってみたいと思う。編集部というか事務局に「130 人の一人づつについて思い出を連載していいか」と聞いたら、「そんなに続くかどうか保証できない」などというので、「一期毎なら10号だけど」といったら、「そのぐらい出るかもしれない」という。思い出話をつづりながら近況も報告して欲しいということである。

 今回の「鯨の会」の発足について僕はほとんど何もしていない。特に「鯨の会」という名前については全く相談もうけていない。大洋ホエールズのまわしものがいるなと直感して、文句いったら、「先生、アンチ・ジャイアンツでしょう」とか、「『鯨井中野台2100』の『鯨』だ」とか、「それならナンデ『川越の会』とか『中野台の会』じゃないのだ」というとしどろもどろなのだ。「イヤ、升味で鯨が食べれなくなるからだ」とか「『鯨飲』の鯨」だとか「捕鯨は断固続けるべきだ」とか、全くいい加減である。こんないいかげんな会なんか嫌かというと、そうでもない。名前はついてしまったのだから、あきらめることにする・・・変な名前だと思う人もあきらめよう・・・。実は、僕もこういう会があったらいいなと思っていたのである。それに、第一回の会でも少しだけ時間をもらって話したのだけれど、「鯨の会」の発足について、僕に全く責任がないわけでもない。研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、とふと思い、昨年の12月だったか、何人かのOBたちに忘年会と称して集まってもらって、何となくこういう会があればなあなどとつぶやいたり、わめいたりしただけである。後は、一切知らない。全ては、秘密裡に進められた。もっとも、後で聞くと、宮内先生が色々とアドヴァイスして下さったらしい。そうでなければ、こんなスマートに、会など発足する筈が無いのである。

 以上は本音である。だがしかし、もちろん、別の本音もある。それは本音というより夢といった方がいいのだけれど、その夢については諸君がゲラゲラ笑い出すといけないから書かない。それに、会がこれからどうなっていくかは誰にもわからないのだから、一人の年長のメンバーにすぎない僕が勝手に自分の夢を押しつけるわけにはいかないのだ・・・その夢について聞きたければ、定例会の二次会に出て聞いてちょうだい。酒の席なら、多少のホラも許されるんじゃないか・・・。   

 

 さて、前置きが長くなった。まず近況だけど、『群居』、『同時代建築通信』の読者であれば御存知であろう。僕は僕でそう変わっていないのである。ただ年をとった。学生は丁度、一回り(12年)下より若い世代になってしまった。宮内康先生がウシ年で丁度一回り上だから、宮内先生に最初に出会った頃のことを思い出すと、何となく感じがわかる。しかし、さらにもう一回り下になったらどんな感じだろう・・・宮内先生に聞いてみなくちゃ・・・。東洋大にきた頃、生まれたばかりだった上の子がもう4年生である。当り前だけど、その頃は自分の子供の世代である。諸君と同じようにその年の学生と酒が飲めるかどうか自信がないのである。まあ、将来の話は後でいい。何回かにわけてこの10年を振り返ってみよう。

 

 それは1978年の正月が明けて早々のことだったと思う。内田雄造さんから一本の電話をもらった。「君を東洋大に招きたいから履歴書を出して欲しい」。随分唐突であった。全くの寝耳に水である。それまでそういう話は全くなかったし、夢にも考えていなかったことである。内田先生、前田先生の名前はもちろん知っていたし、東大の吉武先生が筑波へ行かれる時の研究室のちょっとしたゴタゴタを通じて面識もあった。しかし、それ以外の先生については全く知らなかった。太田邦夫先生、上杉啓先生ですらそうである。両先生も僕について全く知らなかったと思う。しかし、もう一人だけ、東洋大の先生で知ってる先生がいた。誰でしょう。もちろん、いうまでもなく、それは宮内康先生である。同時代建築研究会を始めたのは1976年の暮れだから、その頃は毎月一度は会っていたわけである。しかし、当然のことながら、非常勤である宮内先生から、そんな話は一切聞かされていない。しかし、確かめたわけじゃないから定かではないけど、僕に関する具体的な情報は、宮内先生を通じて、前田、内田の両先生に伝えられたに違いないのだ。そうだとすれば、僕が東洋大にくる大きなきっかけは、そもそも宮内先生にあったことになる。それが事実であろう。なぜなら、その頃、僕は、多少、建築ジャーナリズムに文章を書き出してはいたけれど、全くといっていい程、業績はなかったのである。

 しかし、今にして思えば随分乱暴な話である。前もって意向を確認もせずにいきなり履歴書である。しかし、僕は即座に答えた。「行きます。宜しくお願いします。」。理由は簡単である。東洋大の方に自由な空気があるという直感である。そして、その直感は決して間違ってはいなかったのである。

 

  ここで以下次号と書いたら、「まだスペースがあります」と事務局が言う。全くもってダラシナイ事務局である。「そして、その直感は決して間違っていなかったのである‥‥」すばらしいエンディングではないか、それなのに、以下は蛇足である。

 

 電話をもらって、まもなく、内田さんと渋谷の茶店で会った。その茶店にはデビュー前の清水由貴子がいたのを覚えている。清水由貴子って誰かって?知らないかなあ?欽チャンバンド・・・古いなあ・・・に帰ってきたアイドルとかいうんでしばらく出てたよ。どうでもいいけど、それだけ記憶が鮮明ということである。それに僕が芸能界に強いのは昔からなのだ・・・もっとも最近はダメだけど・・・。その時、1~2度TVに出ただけの清水由貴子をそれと分かったくらいなのだ。

その茶店では、内田さんから履歴書の書き方について教えてもらったのである。その後一度、もしかすると同じ日だったかも知れないのだが、前田先生、内田先生と、新宿駅前のバーというか茶店でビールを軽く飲んだ。That's all. である。僕が君達と出会う運命は決まったのである。もちろん、後できくと、僕を採用するかどうかをめぐっては多少もめたらしい。しかし、当時の僕にはそんなことは知る由もなかった。3月には、もう設計製図会議に呼ばれて、いっぱしの意見をはいた記憶がある。その会議には入れ替わりで神戸大学へいく重村力さんがいたのがまるで昨日のようである。

                                 (次号へ続く)

 

2025年2月23日日曜日

「日本のモダニズム建築の初心とは?」布野修司 | 2016/10/12 | 書評『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談議』六曜社,2016年8月25日, 『建築討論』010号:2016年冬号(10月ー12月)

 『建築討論』010号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 | 2016/10/12 | 書評, 010号:2016号(10-12月)

http://touron.aij.or.jp/2016/11/2963 

日本のモダニズム建築の初心とは?

The Original Intention of Japanese Modernist Architects?

『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談議』六曜社、2016825

 

今や、こうしてじっくり「建築」について語り合う建築家がいなくなったという思いがこみ上げてくる。もしかすると、こうした議論を取り上げるメディアが少なくなったというべきか。そんなことはない、日々酒場で、あるいはSNS上で活発な議論は行われているという声もあるかもしれない。しかし、建築をつくる力となる、そんな熾烈な議論がなされているかどうかは、疑わしいのではないか。もとより問題は、こうした建築談議に耐える建築がつくられなくなったのではないか、ということである。

 


 本書は、磯崎新と藤森照信の対談集(「建築談議」)であり、『磯崎新と藤森照信の茶席建築談議』に次ぐ第二弾である。モダニズム建築談議をめぐっては第三弾として「モダニズム建築談議 その2」が用意されているという。

 「モダニズム建築談議」でとり上げられるのは8人の建築家である。西欧経験によって2人ずつペアで組合せられて議論され、そのまま4章構成、アントニン・レーモンド(18881976)と吉村順三(1908-97)―アメリカと深く関係した二人―(第一章)、前川國男(1905-86)と坂倉準三(1901-86)―戦中のフランス派―(第二章)、白井晟一(1905-83)と山口文象(1902-78)―戦前にドイツに渡った二人―(第三章)、大江宏(1913-89)と吉坂隆正(1917-80)―戦後一九五〇年代初頭に渡航―(第四章)とされている。

 レーモンドは、1888年生まれであり、ル・コルビュジエ(1887-1965)とほぼ同い年である。フロンク・ロイド・ライト(1867-1959)のもとで学び、帝国ホテルの建設のために来日(1919年)、1921年に日本に事務所を開設している。8人のなかでは別格であり、日本におけるモダニズム建築の師匠のひとりであり、ひとつの水脈源といってい。吉村順三はレーモンド事務所出身であり、前川國男もル・コルビュジエのもとから帰国して勤めたのもレーモンド事務所である。大江宏と吉坂隆正のペアはいささか苦しい。吉坂は本書では最年少で、戦後1950-52年にフランス政府給費留学生としてル・コルビュジエのアトリエで学んでいる。前川國男とは一回り世代が違う。大江宏と言えば、ペアとして東京帝国大学の同級生丹下健三(1913-2005)が思い浮かぶが、本書では、岸田日出刀、丹下健三、浜口隆一、浅田孝は脇役という(序)。中心軸として前提されているのは、日本のモダニズム建築のチャンピオン、丹下健三である。丹下健三については、丹下健三・藤森照信『丹下健三』(新建築社、2002年)があるし、生誕100周年を期にまとめられた『丹下健三を語る 初期から1970年代までの軌跡』(鹿島出版会、2013年)がある。


 

序は「語られなかった、戦前・戦中を切りぬけてきた「モダニズム」」と題される。日本の近代建築を主導してきた建築家たち、本書では、8人の建築家が、戦前戦中をどう切りぬけてきたか、モダニズム建築をどう受容し、どう展開してきたのかが本書のテーマである。取り上げられる建築家は全て戦前生まれであり、その戦前戦後の「切りぬけかた」が問題にされる。「モダニズム建築」の受容、咀嚼、そして展開がテーマである。

確かに、「15年戦争期」(満州事変の勃発(1931)から第二次世界大戦の終結(1945)まで)の日本建築については、今でも「語られていない」といっていい。戦後70年(2016年)を経て、今まさに「安保法制」が大きな議論を呼ぶ中で戦前戦中の建築そして建築のあり方がとわれるのは問われるのは大きな意味がある。

もちろん、戦前・戦後の連続・非連続をめぐってこれまで問題にされてこなかったわけではない。1960年代末から1970年代にかけて、僕自身、同時代建築研究会(1976年~1991年)を組織する中で、建築における戦前戦後の連続非連続を問題にしてきた。そのひとつの成果が同時代建築研究会『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)である。1960年代を1920年代に、1970年代を1930年代に重ね合わせて歴史を振り返る、そうした時代感覚が70年代にはあった。磯崎新にも『建築の一九三〇年代 系譜と脈絡』(鹿島出版会、1978年)がある。

 

 

 

スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎」

撮影:布野修司

 

戦前の建築運動に関わった高山英華、西山夘三、竹村新太郎、浜口隆一といった先達にインタビューをしたことを思い出す。山口文象先生にはその晩年に何回か戦前から戦後まもなくにかけてのことを聞いた。ただ、本書でとり上げられている建築家のなかで直接声咳に接したのは、前川國男、山口文象、大江宏、吉坂隆正の4人にすぎない。前川國男については『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)に「Mr.建築家-前川國男というラデカリズム」という文章を書いたことがあるし、白井晟一についてもなど何回か書いたことがある。しかし、戦中の建築界について依然として隔靴掻痒の感が残る。先達へのインタビューということでは、オーラルヒストリーというかたちでまとめられてはいないが、建築家・建築史家としての藤森照信の右に出るものはないであろう。本書の魅力の第一は、今や建築界の生き字引!?といっていい磯崎新と稀代の建築探偵藤森照信のやりとりから明かされる、これまでに知られてこなかった情報である。

A.レーモンドについては、日本の近代建築の初期作品としてとり上げられる「赤星喜介邸」(1932)、「夏の家」(1933)、戦後建築の出発となる「リーダーズダイジェスト東京支社」(1951、現存せず、日本建築学会賞作品賞、1952年)などが知られ、軽井沢の「聖ポール教会」(1934)、「東京女子大学礼拝堂」(1934)、旧井上房一郎邸(1951)、「群馬音楽センター」(1961)、札幌ミカエル教会(1961)、札幌聖ミカエル教会(1961)、南山大学(1964)など、その作品の多くは身近に親しまれている。

僕も、ポンディシェリーの「スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎」(1937)も含めて多くを見ている。しかし、これまでじっくりその軌跡をたどってみたことはない。今回の談議によって初めて知ったのは、レーモンドの自邸「霊南坂の家」(1926)とそれを紹介する日仏対訳の『一建築士の住宅』(洪洋社、1931)である。藤森照信によれば、この小冊子の出版は、この自邸でオーギュスト・ペレ(ル・ランシ―の教会、1923年)に次いで世界で2番目にコンクリート打ち放し表現の作品をつくったのは自分であることを主張したかったためだという。コルビュジェの「スイス学生会館」が着工するのは1930年で、コルビュジェの打ち放しコンクリートの第一号であるが、それより早い、というわけである。談議は、こうしていきなり、本吉精吾の自邸(1924)に始まる日本におけるコンクリート表現の歴史が話題とされる。一般には、「白い家」あるいは「豆腐を切ったような建築」と揶揄されるように、木造でペンキを塗って仕上げるスタイルのみ真似した「近代建築」が導入されたとされるのであるが、コンクリートの建築表現そのものの歴史が通観されるのである。また、ディテール、仕上げの変遷も語られる。もちろん、木造モダニズムの系譜も語られる。吉村順三の「軽井沢の山荘」(1962)がそのひとつの焦点となるが、A.レーモンドの半割丸太の「手挟み」構法にも触れられる。


 

A.レーモンドについては、一般にも、第2次世界大戦の最中、アメリカ軍少将カーチス・ルメイが焼夷弾の効果を検証する実験のためユタ州の砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現する際協力したこと、また、今日も大手の国際的建設コンサルタント会社として有名なパシフィックコンサルタンツ株式会社を共同設立(1951)したことなどが知られている。この建築談議においては、それらに加えて、レーモンド家はチェコのユダヤ教改革派の代表的な家であったこと、プラハを去ったのは。チェコ(プラハ)工科大学の建築学生クラブの会計責任者をしており、その金を持ち逃げしたからで、国際手配を逃れるためにアメリカでは改名していたといったエピソードが語られている。

戦前戦中のエピソードについては、他にも様々に話題にされている。戦争中に、丹下健三、浜口隆一が、今は時勢だから、「新日本建築様式」をやるべきだと迫ったこと、日本の敗戦を覚悟して北海道に対比した浜口隆一に対して、丹下健三は竹槍で玉砕すると言っていたこと、日本共産党の活動家として大森ギャング事件(銀行強盗)に関与し、逮捕された今泉善一(193244年収監、出獄後、前川國男建築設計事務所に所属、新日本建築家集団NAUの結成に加わった)は、共産党内に入り込んだスパイMによって騙されて資金稼ぎを試みたこと、強盗事件は問題にされず、拷問はなかったこと、坂倉準三が「シュメールクラブ(スメラ学塾)」という日本主義、天皇主義の右翼グループを組織していたこと等々、モダニズム建築の作品が語られる背景として、なまなましい戦中の建築家の立ち居振る舞いについて、歯に衣着せずというか、誰に気兼ねをすることなくというか、遠慮なく語られている。

僕は、戦前から戦後にかけての建築運動の流れを追いかけ、上述のように、幾人かの当事者にインタビューを重ねたこともあり、また、藤森さんから直接聞いて知っていたことがほとんどであるが、作品や出来事の位置づけ、ディテールについては認識を新たにしたことが少なくない。

 僕が『戦後建築論ノート』(1981年)を上梓した頃までは、戦中の建築家の行動についてはヴェールに包まれていて、それを問題にするのはタブーと思われるような雰囲気があった。戦前戦後の連続非連続を問う必要性が意識されたのはそれ故にであり、焦点になったのは、前川國男の建築家としての軌跡をそのまま日本の近代建築の歴史とする「非転向」の神話である。

1930年にコルビュジエのもとから帰国して以降、前川國男は全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」、「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けた、この前川國男の軌跡は、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。しかし、果たしてそうか?戦中の建築家の活動についての探索が開始されたのは1970年代以降である。

 前川國男が最後までフラットルーフの国際様式によってコンペに挑み続けたというのは事実ではない。また、日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に決して荷担しなかった、というのも神話にすぎない。まして、戦争記念建築の競技設計へ参加しなかった、というのは史実に反する。敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(1937年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペでは、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。

前川國男は二重の敗北を喫したと、この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けたのが宮内嘉久である(『前川國男作品集-建築の方法 Ⅱ』美術出版社,1990年)。また、井上章一は、帝冠様式の問題を軸に、忠霊塔(1939年)と大東亜記念営造計画(1942年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(1943年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題とし、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペに相次いで一等入選することによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は日本のファシズム建築様式ではないこと、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないことを主張する(『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日新聞社、1995年)。さらに、前川國男については、松隈洋が『建築の前夜 前川國男論』(2016をまとめている。「Mr.建築家-前川國男というラデカリズム」」と題して書いた前川國男についての僕の位置づけは本書によって大きく揺らぐことはないが、若い世代の建築史家によって。より広範に、多くの建築家について掘り下げられる必要があると思う。





 

 白井晟一と山口文象をめぐっても多くの謎がある。談議には、白井晟一をめぐる艶っぽい話(ラブアフェア)が数々と出てくる。林芙美子との恋愛関係は一般的にも知られるが、林芙美子邸を設計したのは山口文象である。三人は同時期にヨーロッパに滞在していた。不明なのは、白井晟一のヨーロッパにおける、そして帰国後の「左翼」としての活動である。山口文象については、創宇社、新興建築家連盟といった建築運動の展開を軸にして、水谷武彦、山脇巌といったバウハウスに学んだ建築家たち、高山英華、西山夘三らを含めた「左翼」建築家の系譜が議論されている。革命、すなわち社会主義、共産主義の実現を目指す運動の中でモダニズム建築の実現を目指す建築家たちが如何に葛藤したかが、様々に話題にされるのである。

 随所に興味深い発言がある。藤森照信が「新興建築家連盟が潰れて何が起こったかというと、今泉、梅田(譲)の創宇社系は、地下に潜っていく。帝国大学系の山田、谷口、土浦、前川などは、社会主義路線を捨てて、リベラル左派に変わり、バウハウスを範に日本工作文化連盟を結成する。この流れの遠い果てに磯崎さんや私なんかは続くわけです。」と言えば、磯崎新は「テクノクラートとしての硬派と軟派がいて、軟派はデザイナーです。僕はこの分類については、藤森さんの先生の村松貞次郎さんからお前は軟派だというように決めつけられたことが買ってあります。俺たち硬派で建築を考える奴らには、もっての外の不届きしごくという感じですよ。村松さんはそういう人でしょ。ところがその弟子のが軟派中の極め付き軟派なんだから、まあ世の中はいろいろ不思議ですよね。」と言う、雑口罵乱な感じである。

 焦点は、革命(社会変革)と建築、権力と建築、テクノロジーと表現の間の関係をどうとらえるかにある。磯崎新は、「1968年」に社会変革と建築デザインの間の絶対的裂け目をみたというが、一貫して、そのアポリアに拘り続けているように思える(「「世界建築」の羅針盤 磯崎新」:布野修司『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(彰国社、2011年))。 すなわち、戦前戦後におけるモダニズム建築をめぐる問題は決して過去の問題ではない。

 最も興味のあるのは「日本という国が建築を表現だとみなしていない」(「建築をイデオロギーの表現とみていない日本」)という発言である。第二次世界大戦中にファシズム体制をつくりあげたドイツ、イタリア、日本の3ヵ国についてかねて指摘されてきたことであるが、ドイツは古典主義建築を、イタリアはモダニズム建築を、そして日本は「日本趣味」「東洋趣味」(帝冠様式)建築を、ファシズム建築様式と規定するように、ファシズム体制と建築様式に一対一の対応があったわけではない。しかし、ファシズム体制に与した建築家たちが戦後永久に追放されたドイツ、イタリアと異なり、日本ではそうしたパージは行われなかった。日本では建築様式は趣味の問題であり、思想戦略、文化戦略の対象とならなかったのは、佐野利器的建築観が支配的であったからだと藤森照信はいう。磯崎新は「日本では、建築デザインは趣味の問題と見られていて、建築家がそれを表現するという観点が社会的に成立していなかったわけですよ。たとえば僕が、帝冠様式はそれに対して、日本の左翼運動とモダニズム派とがお互いに組んで抵抗した様式だと言うと、井上章一さんはそういう証拠はないと反論します。日本政府がこれを日本国家様式として認めて、これをやれと言った記録の証拠がないんだから、帝冠様式を批判するわけにはいかないと彼はいいます」という。もちろん、証拠がない、関心がないということと表現のイデオロギーそしてその方法の問題は同じではない。デザインの問題が単なる覇権争いということであれば、今日の建築界もその延長にあることになるであろう。

 僕の白井晟一論については「虚白庵の暗闇  白井晟一と戦後建築」(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー:建築の昭和』彰国社、1998)「」(白井晟一『精神と空間』青幻社2010『』)などに委ねたいと思う。山口文象については、まとめて論考を書く機会はなかったのである、晩年何度かお会いして白井晟一との関係なども尋ねた折に、戦後RIAに展開していった事務所の歩みを振り返りながら、独り粘土を捏ねたい、と言われたことが耳に残っている。

 

 大江宏をめぐっては、まず、磯崎新によって同級生である丹下健三、浜口隆一を加えて3人の卒業設計の比較がなされる。それぞれの作品と元ネタと思われるモダニズム建築の対比は実に面白い。モダニズム建築の粋を実現したと評価される「法政大学5558号」から「乃木神社」「神宮美術館」「国立能楽堂」へ、日本建築へ回帰していったと目される大江宏の軌跡について、藤森は日本建築のリヴァイヴァルとするが、一方でその正統性が確認されている。興味深いのは、大江宏が数寄屋、茶室を手掛けなかったことである。

 「国立能楽堂」が建設中の頃、僕は、彰国社の新建築学体系第一巻『建築概論』(1982)の編集委員会で月一回大江先生と会う機会があった。毎回、ゲストを呼んでの建築談議は実に楽しかった。そうした中で、強烈に覚えているのは、建築と非建築というものがあるんだ、と繰り返し離されたことである。当時大江宏先生のご自宅近くに住んでおり毎回タクシーで送ってもらったのであるが、タクシーのなかでの会話はいまでも忘れない。怖いもの知らずで、劇場史についての俄か勉強をもとに能舞台の目付柱がどうのこう、僕はバラックに建築を見たいなどとしゃべった。今でも冷汗が出てくる。

ヴァナキュラー建築については一概に否定されたわけではない。インドネシアの住居を紹介する機会があったのだが、アチェの住居のプロポーションがいい、と食い入るように見られていたことも覚えている。また、談議でも触れられるが、「混在併存」ということを離されていた。大江宏の可能性はさらに掘り下げる意味があると思う。

吉坂隆正をめぐっても興味深いエピソードが明かされる。磯崎新が丹下健三邸で結婚式を挙げた初婚の相手は吉坂研究室に所属していたのだという。また、藤森照信は、建築家としてデビューするとき、吉坂の「満州の泥の家」のスケッチに力を得た、という。コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、グロピウスそしてU研究室の集団設計、今和次郎のバラック装飾社などをめぐって談議は弾んでいる。

 

こうして、磯崎・藤森の建築談議は、戦前戦中に遡り、翻って、現在の日本建築を撃つ。それとともに二人の立ち位置も浮かび上がらせる。全体の構図は、丹下スクールと今・吉坂スクールの共存で、磯崎、藤森それぞれがそれぞれのスクールを引継いでいるというわけである。

磯崎新のあとがきはこうである。

 「丹下健三、白井晟一は縄文的なるものについて語りますが、根本は弥生的です。これに対して、藤森さんが今和次郎、吉坂隆正のラインを取り出します。本人達は何も語ったりしないけれど、焼跡バラックに住み込むことから思考を開始している。彼らの思考こそが縄文的と呼ばれるべきでしょう。私は前者に学んだのだから、やはり国家的・社会制度的・技術主義的な近代主義者の末裔です。藤森さんは日本の近代化の総過程を相対化したあげくに、みずからゴミ拾いを演じて歴史の深層へと分け入ります。」

 

 

共著者

磯崎新 いそざき・あらた

1931年大分県生まれ。東京大学工学部建築学科卒業後、丹下健三研究室を経て、1963年磯崎新アトリエを設立。60年代に大分市を中心とした建築群を設計、90年代にはバルセロナ、オーランド、クラコフ、京都など、今世紀に入り中東、中国、中央アジアまで広く建築活動を行う傍ら、建築評論をはじめさまざまな領域に対して執筆や発言をしている。またカリフォルニア大学、ハーバード大学などの客員教授を歴任、多くの国際コンペでの審査員も務める。著書に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社、2015)、『磯崎新の建築談義 全12巻(六耀社、20012004)、『磯崎新建築論集 全8巻』(岩波書店、2013-2015)、『挽歌集』(白水社、2014)ほか多数。

 

藤本照信 ふじもり・てるのぶ

1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専攻は近代建築、都市計画史。東京大学名誉教授。1986年、赤瀬川原平、南伸坊らと路上観察学会を結成し、『建築探偵の冒険・東京編』を刊行(サントリー学芸賞受賞)。1991年<神長官守矢資料館>で建築家としてデビュー。1998年、日本近代の都市・建築史の研究(『明治の東京計画』および『日本の近代建築』)で日本建築学会賞(論文)、2001年<熊本県立農業大学校学生寮>で日本建築学会賞(作品集)を受賞。著書に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社、2015)、『藤森照信の茶室学』(六耀社、2012)、『日本建築集中講義』(淡交社、2013)『日本の近代建築』上・下巻(岩波新書、1993)ほか多数。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...