野球!野球!野球! 「鯨の会」通信 連載⑤ 1988
布野修司
ところで鯨通信も間があいた。どうなったかなあと思いきや原稿の催促がきた。例によって至急である。困ったもんだ。間があいたから近況については書くことが山程ある。十周年記念パーティーについての報告は誰かがやるだろうから、それ以降の数々の出来事について、まずは書いておこう。
この間の最大イヴェントは、2月21日から3月15日にかけてのツアーだ。もう本当に参ったぜ。トシだよトシ。結局、鯨の会からはこの4月から研究室に入った四人と四年生、研究生の三人の七人を除けば参加者は零。忙しいし、そんなに安くないから無理もないのだけれど、せめて一人でも参加してくれていたらとつくずく思う。もう頭にきたのだ。
総勢97人、内3分の2は女の子である。その概要は「国際買い出しゼミナール」(室内89年5月号)に書いたから読んで欲しい。もうスケジュールはしっちゃかめっちゃか、大騒ぎであった。その文章を山本夏彦大先生が『週間新潮』(5月18日号)のコラムで取り挙げてくれた。その主旨は、建築ゼミナールはそっちのけのショッピング・ツアーなら、著者もオバンも一緒じゃないか。円高で海外にショッピングに出かけるけど、帰ってきて同じ品物が日本で高く売られているのにちっとも文句を言わないのはおかしいというものである。僕は、真面目に建築を勉強する奴が少なくて驚いたという主旨で書いたのだけれど、さすがは明コラムニストである。ちゃんとポイントをついてる。
また『群居』の20号(89年4月)には、何をみてきたのか少し書いた。ダブリはさけよう。ところで何に頭にきたのか。本当のところを書いておこう。
頭にきたのは、ジェネレーション・ギャップにであり、要するに自分にである。もうついていけない、という感じなのである。毎年若い学生とつき合っているのである。ゼミもし、コンパもし、野球もする。少なくとも、他の連中よりも若者の動向については分かっているつもりであった。しかし、ゼミをやったりコンパをやったりするのと、三週間の間、朝から晩までべったりとつき合うのとはまるっきり違う。まったく知らない若者の生態を見た、というと大袈裟かも知れないのであるが、とにかくショックであった。そして、もっとショックだったのは、腹が立つことが沢山あっても怒る気にならなかったことである。少し前なら、怒りを爆発させただろうと思うのに、ニコニコしているのである。参加した諸君に聞いてみればいい。僕は、表面上は実に楽しそうに旅行したように見える筈である。しかし、内心は何か違う、という違和感で一杯であった。
平均睡眠時間五時間。おそらくツアー参加者の中で、最も歩き回ったのは僕であり、最も飲んだのも僕である。歩いた距離と飲んだアルコールの量とは少なくとも一、二を争う。しかし、そうした旅行の仕方はどうもダサイのである。我ながらタフであった。従って、ショックだったのは、体力にではない。もっと違う生活スタイルの全体のようなもののギャップにである。
まあでも面白い話は山程あるから、酒の肴にはこと欠かない。聞きたい人は、鯨の会の二次会で話してあげよう。きっと腹を抱えて笑いだすぜ。ハプニング・リストは50じゃきかないんだから。 4月8日、2期生の佐久間量美君の結婚披露宴に出た。頭は多少薄くなったけど木更津高校の応援団の佐久間君が全く変わっていないので吹き出してしまった。とにかくなつかしかった。高野君、いし見君、糸居君(夫妻)、それに内田研だけど出入りしていた内山君(夫妻)、そしてとりわけ、長尾君に北澤君だ。長尾、北澤両君は卒業以来だよ。特に長尾君は、卒業前に、しかも人前結婚という形で結婚式を挙げた鯨の会結婚第一号である。また、サミット・ストアーにさっさと務め、建築を捨てた(?)第一号でもある。
この年の連中は他に、三戸(現姓和井田)辻(現姓馬場)、森川、武田、近藤、雨谷、丹治、である。大変なつかしいし、印象深い学年である。この連載も、丁度この学年の頃(1980年度)を書く順番だ。続いて書こう。
ところで、今年の素木杯争奪研究室対抗野球大会は面白かった。もちろん負けだ。それもサヨナラ負け。敗者復活戦があるからまだ終ってないけれど、これまでの試合のベスト3には入るだろう。最終回の表(ジャンケンで勝って即先攻!といったのは僕だ)7対3をなんとリトルリーグ経験者だという桝野君の走者一掃三塁打を含めて追いついたのである。(勝ち越し点が奪えないのが敗因だった)。さて、その裏、敵はオセオセである。僕だってまあ駄目だろうと思った。ピッチャーの田中君は身体は小さいけれど鯨の会でこれまでのおそらく五本の指にはいるだろうピッチャーだったのだけれど、何しろバックが例によってザルだ。この日も一、二回で7点も取られていたのである。しかし、その後、点を全く取られていない。もしかすると、という気もしないではなかった。
先頭打者痛烈なライナー。皆眼をつむる。しかし、ナント、その打球は偶然というか何というか二塁手の桝野のグラブにすっぽり。皆ドヨメク。次打者又しても痛烈な当り。今度は外野手の間を球は点々・・・・・・。サヨナラ・ランニング・ホームランと誰しも思った。そこで猛烈抗議をしたのは誰あろうこの僕だ。今のはノータッチだからエンタイトル・ツーベース。もうだから素人とはやんなっちゃうよ、とかなんとかいったら、打者走者は二塁へ強制送還である。試合再開。敵はまだ余裕があった。次打者第一球キャッチャー二木(ふたつぎ)君、眼鏡をはずして懸命のキャッチングだったけれどパスボール、ランナーは三塁へ。ランナーが三塁にいたら、万事窮すである。続く打者、四球。ランナー一、三塁。ここで登場したのが、強打者、材料研究室の青木さんだ。何人かは覚えてるだろう。抜群の野球センスの青木さんだ。この日も投げて、わがチームは完全に押さえられていたのである。
ここで、ベンチに既に下がっていた監督は敬遠を指示。監督とは僕のことだよ、もちろん。ベンチに下がったのは体力の問題ではない。全員を参加させるためだよ、知ってるでしょう、この配慮。この日僕は、一番ファースト、スタメンで出場。二打席目には、リリーフしたばかりの青木投手のスピードボールをセンター前にはじき返し貴重な二打点をあげていたのであった。
ワンアウト満塁。内野前進守備。次打者、ボテボテのピッチャーゴロ、本塁送球でツーアウト。この頃になると敵も味方も真剣そのもの。後で聞いたらガタガタ震えてる奴がいたとか。
そこで登場したのが高橋(儀平)先生。カウントはツー、スリー。息詰まるような緊張の中、ラストボールはフラフラとショートの後方へ。普通だと目を覆うところだ。今までの経験では外野フライを我がチームの選手がキャッチする確立は五割ない。しかし、誰もがイージー・フライと思った。この日のレフトは、右に左に大活躍であり、ライナーは捕るは、50メートル走って(オーバーか!?)捕るは、全てフライを処理していたのである。さあ、総当たりのジャンケンだ。楽しめるぞと僕は思った。
が、次の瞬間万歳である。敵も万歳。一同アッケにとられたのであった。そのレフトは誰かって。本人の名誉のために書かない。何人か身に覚えがあるであろう。彼は卒業まで酒の肴なのだ。
ものはついでだ。歴代名選手を思い浮かべてみよう。まずはピッチャー。
山口茂(1期)、高野肇(2期)、小美野聡(5期)、内海浩(6期)。小林拓二のツナギの力投も印象的。
続いて強打者、好打者、塚越実、丹治武夫、荒木雅秀、寺田敬三、林征弥、森進、白水直人、奥富敏樹、町田真一、北爪孝史、高橋宏、・・・・・・。 あとは忘れた。もっとうまいのがいたように思うけれど活躍しなかったんじゃないか。何分記憶がなくなりつつあるから、忘れた人は御免!
これまで、優勝、準優勝なし。不名誉な記録を更新中。但し、一昨年、第三位になった。たった一枚の賞状は、歴戦の勇士の写真とともに額にいれて飾ってある。
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