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2025年3月1日土曜日

東洋大へ来た頃のこと 連載①、「鯨の会」通信01、1988

 東洋大へ来た頃のこと      「鯨の会」通信 連載①  1988

                             布野 修司

 

 「鯨の会」の通信を出すから何か書いてくれとのことである。というのはウソで、ホントは何か書かせてくれといったのは僕の方らしい。酔っぱらってて記憶がないから・・・そう僕は32才になった頃、つまり諸君とアメリカへ研修旅行へいってから、酔うと記憶がなくなるようになったのである。布野・宮内研でいうと4期生、飯塚君たちの学年は責任を感じて欲しい。デモマア、年のせいですね。君達も気をつけよう。・・・定かではないのだが。まあ、せっかくスペースを頂いたので、何事かをつづってみたいと思う。編集部というか事務局に「130 人の一人づつについて思い出を連載していいか」と聞いたら、「そんなに続くかどうか保証できない」などというので、「一期毎なら10号だけど」といったら、「そのぐらい出るかもしれない」という。思い出話をつづりながら近況も報告して欲しいということである。

 今回の「鯨の会」の発足について僕はほとんど何もしていない。特に「鯨の会」という名前については全く相談もうけていない。大洋ホエールズのまわしものがいるなと直感して、文句いったら、「先生、アンチ・ジャイアンツでしょう」とか、「『鯨井中野台2100』の『鯨』だ」とか、「それならナンデ『川越の会』とか『中野台の会』じゃないのだ」というとしどろもどろなのだ。「イヤ、升味で鯨が食べれなくなるからだ」とか「『鯨飲』の鯨」だとか「捕鯨は断固続けるべきだ」とか、全くいい加減である。こんないいかげんな会なんか嫌かというと、そうでもない。名前はついてしまったのだから、あきらめることにする・・・変な名前だと思う人もあきらめよう・・・。実は、僕もこういう会があったらいいなと思っていたのである。それに、第一回の会でも少しだけ時間をもらって話したのだけれど、「鯨の会」の発足について、僕に全く責任がないわけでもない。研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、とふと思い、昨年の12月だったか、何人かのOBたちに忘年会と称して集まってもらって、何となくこういう会があればなあなどとつぶやいたり、わめいたりしただけである。後は、一切知らない。全ては、秘密裡に進められた。もっとも、後で聞くと、宮内先生が色々とアドヴァイスして下さったらしい。そうでなければ、こんなスマートに、会など発足する筈が無いのである。

 以上は本音である。だがしかし、もちろん、別の本音もある。それは本音というより夢といった方がいいのだけれど、その夢については諸君がゲラゲラ笑い出すといけないから書かない。それに、会がこれからどうなっていくかは誰にもわからないのだから、一人の年長のメンバーにすぎない僕が勝手に自分の夢を押しつけるわけにはいかないのだ・・・その夢について聞きたければ、定例会の二次会に出て聞いてちょうだい。酒の席なら、多少のホラも許されるんじゃないか・・・。   

 

 さて、前置きが長くなった。まず近況だけど、『群居』、『同時代建築通信』の読者であれば御存知であろう。僕は僕でそう変わっていないのである。ただ年をとった。学生は丁度、一回り(12年)下より若い世代になってしまった。宮内康先生がウシ年で丁度一回り上だから、宮内先生に最初に出会った頃のことを思い出すと、何となく感じがわかる。しかし、さらにもう一回り下になったらどんな感じだろう・・・宮内先生に聞いてみなくちゃ・・・。東洋大にきた頃、生まれたばかりだった上の子がもう4年生である。当り前だけど、その頃は自分の子供の世代である。諸君と同じようにその年の学生と酒が飲めるかどうか自信がないのである。まあ、将来の話は後でいい。何回かにわけてこの10年を振り返ってみよう。

 

 それは1978年の正月が明けて早々のことだったと思う。内田雄造さんから一本の電話をもらった。「君を東洋大に招きたいから履歴書を出して欲しい」。随分唐突であった。全くの寝耳に水である。それまでそういう話は全くなかったし、夢にも考えていなかったことである。内田先生、前田先生の名前はもちろん知っていたし、東大の吉武先生が筑波へ行かれる時の研究室のちょっとしたゴタゴタを通じて面識もあった。しかし、それ以外の先生については全く知らなかった。太田邦夫先生、上杉啓先生ですらそうである。両先生も僕について全く知らなかったと思う。しかし、もう一人だけ、東洋大の先生で知ってる先生がいた。誰でしょう。もちろん、いうまでもなく、それは宮内康先生である。同時代建築研究会を始めたのは1976年の暮れだから、その頃は毎月一度は会っていたわけである。しかし、当然のことながら、非常勤である宮内先生から、そんな話は一切聞かされていない。しかし、確かめたわけじゃないから定かではないけど、僕に関する具体的な情報は、宮内先生を通じて、前田、内田の両先生に伝えられたに違いないのだ。そうだとすれば、僕が東洋大にくる大きなきっかけは、そもそも宮内先生にあったことになる。それが事実であろう。なぜなら、その頃、僕は、多少、建築ジャーナリズムに文章を書き出してはいたけれど、全くといっていい程、業績はなかったのである。

 しかし、今にして思えば随分乱暴な話である。前もって意向を確認もせずにいきなり履歴書である。しかし、僕は即座に答えた。「行きます。宜しくお願いします。」。理由は簡単である。東洋大の方に自由な空気があるという直感である。そして、その直感は決して間違ってはいなかったのである。

 

  ここで以下次号と書いたら、「まだスペースがあります」と事務局が言う。全くもってダラシナイ事務局である。「そして、その直感は決して間違っていなかったのである‥‥」すばらしいエンディングではないか、それなのに、以下は蛇足である。

 

 電話をもらって、まもなく、内田さんと渋谷の茶店で会った。その茶店にはデビュー前の清水由貴子がいたのを覚えている。清水由貴子って誰かって?知らないかなあ?欽チャンバンド・・・古いなあ・・・に帰ってきたアイドルとかいうんでしばらく出てたよ。どうでもいいけど、それだけ記憶が鮮明ということである。それに僕が芸能界に強いのは昔からなのだ・・・もっとも最近はダメだけど・・・。その時、1~2度TVに出ただけの清水由貴子をそれと分かったくらいなのだ。

その茶店では、内田さんから履歴書の書き方について教えてもらったのである。その後一度、もしかすると同じ日だったかも知れないのだが、前田先生、内田先生と、新宿駅前のバーというか茶店でビールを軽く飲んだ。That's all. である。僕が君達と出会う運命は決まったのである。もちろん、後できくと、僕を採用するかどうかをめぐっては多少もめたらしい。しかし、当時の僕にはそんなことは知る由もなかった。3月には、もう設計製図会議に呼ばれて、いっぱしの意見をはいた記憶がある。その会議には入れ替わりで神戸大学へいく重村力さんがいたのがまるで昨日のようである。

                                 (次号へ続く)

 

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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...