最初に出会った学生たち 「鯨の会」通信 連載② 1988
布野 修司
TBSのディレクターから電話がある。「プライムタイムの本村ですが、今度、取り壊される同潤会の押上(中ノ郷)のアパートを取り上げようと思うんですけど‥‥」。松山巖さんの紹介なのだという。同潤会については多少の資料をもっている。これまでも三度ばかりNHKの番組の相談にのったことがある。わざわざ川越まで来るというので合うことにする。それが敗因であった。テレビは嫌いである。何故かって、テレビに出るような見てくれをしていないことは諸君だって知っているじゃないか。ちょっと前、NHKの「おはようジャーナル」に出されそうになったことがある。手づくりハウスとかなんとかにコメントをというような番組だったのだが、石山修武に逃げられて、人がいないのだという。すんでのところで、大野勝彦に代わってもらったのだけれど、テレビは柄じゃない。その点ラジオはいい。顔がでないから。
しかし、まあ、つい出る羽目になった。といっても、10分ほどのニュースのうちの30秒だけだ。六月一日(例の森本キャスターが復帰した日だ)一日、取材陣につき合ったのである。まあいい経験だったのだけど、放映されたのをビデオでみると(もちろん、飲んだくれていて、リアル・タイムではみられないのだ)、やっぱりがっかりである。いいことを沢山しゃべったのだけど、ほんの一言二言扱われてるだけなのである。やっぱりテレビに出るんなら、生で好きなことがいえるんじゃなくっちゃ、なんて言ってみても後の祭りだよ。 六月二日、同潤会アパートをみて回った翌日、『週間読売』から電話がある。「新宿のゴールデン街で好きなだけ酒を飲ますから何か書いて頂けますか‥‥」ときた。正直いって、思わずヨダレが出た。しかし、そうもの欲しそうにするのは性に合わない(誰かがウッソーという)。「いつですか、今、これでも忙しいんですけど」、「えー、今日」、ホントに絶句。しかしあいにくと予定があいている(シメシメ)。「しかし、ずいぶんと急なことですね。『週間読売』っていうのは、そんなにいいかげんなんですか」。受話器の向こうで、「そうなんですよ、われわれも急に上司からいわれたんですよ。渡辺武信さんの推薦なんですよ。建築界で飲んで書けるのは、宮内康か布野修司だって‥‥」。ギョッ、武信さんには多少借りがある。「もう、ことわられると首です」とかなんとか、編集の辻さん(酒飲んで、もちろん仲良くなったのだ)はもう必死である。そのうち、「いや、僕もいいかげんなのはきらいじゃないですしィ~。お酒も嫌いじゃないですしィ~」てなことを口走ってしまった。その夜は、美術評論家の高島直之を「ただで酒が飲める」と呼び出して、楽しく飲んだ。文章は、割とうまく書けた。読んだかな。読んでないだろうな。‥‥ てなのが近況である。さて、連載を続けよう。
1978年4月の中頃だった。一台のオンボロ小型トラックが東大本郷の工学部一号館の前に横づけされた。運転してきた男は、背が高く、がっしりとした、たくましい青年である。しかし、その風体はまるで、梱包屋か工務店の二代目のようであった。その印象が正しかったことは、すぐに裏づけられるのであるが、その好青年が小生の東洋大学への迎えの使者であるとは、おそらく、誰も気づかなかったにちがいない。「東洋大学の中村ですけど、布野先生の荷物を運ぶように言われたんですが‥‥」と言われた時に、僕も一瞬とまどった記憶があるのである。
中村良和君。僕が最初に出会った東洋大生である。その最初の印象は強烈であった。何故か、うきうきした気分になったことを覚えている。「たったこれだけなんですか」だったか、「ずいぶんあるんですね」だったか、中村君が言ってダンボールをあっという間に積み込むと、すぐさま川越に向かった。さらば東大よ!なんて感傷的になんかちっともならなかった。川越街道はひどく混んでおり、おかげで、随分中村君と話すことができたのである。
中村良和君は、今、豊橋にいる。JKK(住環境研究所)から積水化学工業にいって、中部セキスイツーユーホーム製作所に出向中である。何年か前、「一人じゃ寂しいから、誰かよこしてよ」といわれて、白水直人君(85年卒)が行った。しかし、人の運命というのはわからないものである。中村君が、今、豊橋にいることなど、本人も夢にも思わなかった筈なのである。その最初の出会いから、今日までの間に彼の人生は一変したのであり、ものすごいドラマがあったのである。
最初に出会った時、彼は、前田研究室の研究生であった。しかし、同時に、北区の滝野川で工務店を営んでいる親父さんの元で、大工の修行中であること、続いて、電気屋、建具屋など下職の見習いを数カ月づつ続けるつもりであること、そうした上で、親父の跡をつぐつもりであること、全く新しい建築家のタイプを目指すことなどなどを、川越街道の上で語り続けた。正直いって、新鮮だった。二年程、東大で助手をして、アモルフの宇野君や竹内君、団紀彦君なんかのエスキースを見て、学生との接触はあったのであるが、東大には、こんなタイプの学生はいない。その時、一つの世界が開かれたような気がした。ひとつの構想が芽生えた。中村君と僕とのその構想は次第に膨らんでいく。そして、着々と実現するかにみえた。しかし、その矢先の事故であり、遭難であった。そう、彼は有数の山男でもあったのである。
川越へ向かう車の中で、中村君は既に山男としての夢を、ヒマラヤ登山の夢を語っていた。海外登山の実績のある山岳会に属していたのである。その後、沢山の学生にあったのだけれど、はっきり言うけど、人間としての巾は、東大生より、東洋大生の方が上である。諸君の中には、音楽にかけてはセミ・プロ級が何人もいる。寿司をにぎらせたら、包丁をにぎらせたら、本職はだしのやつがいる。野球をやらせたらどうだ。(一瞬口ごもって)すごい奴らばかりである。スポーツをやらせたら、青白きインテリなんかに負けはしない。おまけに、もてるやつらばかりときたら、いうことなしである(そうだよねえ諸君)。中村君はそうした最初の学生であった。
彼の二重遭難の話は後にしよう。それは四年後の暮れのことである。忘れもしない、宮内康さんが野球で骨折した日だ。東洋大学につくと、諸君のよく知ってる研究室に荷物を運びあげた。ガランとしていた。それがスラムとなるのに一年とかからなかったように思う。それまでのスラムは内田研究室であった。それ以後、その名誉の言葉はわが研究室につきまとい、今なお、つきまとっている。何人かの学生、大学院生が手伝ってくれた。その中に、岡利実君がいた。岡君も印象深い、彼と一緒に東南アジア研究を始めることになったのである。岡君と中村君は親友であった。岡君は理論派であり、中村君は実践派といった印象であったことを覚えている。
最初の年、何をしていたかは、あんまり覚えていない。授業もあんまりしなくてよかったような気がする。もっぱら、前田研究室の院生、学生とゼミなどをつきあった。稲葉君の学年である。原稿のリストをみてみると、その年、悠木一也のペンネ-ムで『建築文化』に「螺旋工房クロニクル」というコラムを連載している。他に『現代思想』に書くなど、もっぱら原稿を書いていたようである。もちろん、一方で東南アジア・プロジェクトが開始されつつあった。同時代建築研究会も盛んであった。一方で、東大の院生、日本女子大の二人の学生(現 彦坂裕夫人、浜口恵子さん)の卒論をみていた記憶がある。楽しく、優雅であった。そうした中で忘れられないことがある。それは、前田研究室の合宿(青木湖)で起こった悪夢のような出来事である。
断じて信じて欲しいのだけれど、僕は酒が飲めなかった。師匠である宮内康先生に聞いて欲しい。絶対ホントなのだ。その合宿で、新田君(現 近藤建設)という一人の学生が「飲み比べをしよう」という。皆はやしたてる。新任のセンコーとしては、学生に甘くみられるのが嫌だった。「よ~し」と受けてたった。新田君は底なしであった。しかし、その彼がトイレへ行ってゲエゲエはいて(後でわかって僕は怒り狂ったのだ。彼にはそういう特技があった。)さらに挑んできたのである。そしてクライマックスをむかえた。民宿の庭で、いきなり胴上げされたのである。このテクニックを僕はうかつにも知らなかった。人を酔わせる悪どい手だと今でも思う。こう書いてても眼から火花が出そうだ。チクショー。あとは知らない。花火をもってそこら中を駆け摺りまわった。何人もが火傷したという。挙げ句の果てに田圃に飛び込んで泥だらけになった。将棋板をひっくり返した。それで寝てしまった。
翌朝、ガンガンする頭で恥ずかしさを感じて、ゼミを放っぽり出して、東京へ帰った。前田先生もあきれたと思う。この時以来、前田先生は僕のことを大酒飲みだと思い込んで、方々で言いふらすのでホトホト困ったのだ。満員で暑くて、トイレでゲエゲエ吐いた。ほとんど死にそうであった。その時は、とんでもない大学にきたと正直思った。酒をきたえなければと思ったのはこの時なのだ。「布野先生に酒を飲ますな」という噂はあっという間に広まった。学生の見る眼も変わった。「この先生はほんとは馬鹿なんだ」と、実に親しげなのである。 (以下次号)
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