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2025年3月12日水曜日

高松伸 京都・ベルリン・アジア,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ1,日刊建設通信新聞社,19960315

 高松伸 京都・ベルリン・アジア,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ1,日刊建設通信新聞社,19960315

 布野修司対談シリーズ

新たな建築家像を目指して布野修司対談シリーズ

新たな建築家像を目指して

高松伸

京都 ベルリン  アジア

 

 

ベルリンからアジアへ

布野:  最近、一番力を注いでいる事、今一番関心ある事って何?。

高松:  仕事があればどこにでもいくわけで、特にどれが中心ということもないんです。ドイツにオフィスを出して4年になるけど、京都の事務所より元気がよくなってきてる。それが面白いことにほとんどアジアのプロジェクトなんです。ベルリン近辺の仕事もあるんですけどね。

布野: しかし、ヨーロッパ、しかもベルリンの壁崩壊後のベルリンを拠点にアジアの仕事を展開するというのは面白いね。グローバル・アーキテクトとしての戦略はどうなんだろう。

高松: 海外のプロジェクトは、ベルリン事務所でやると最初から方針として決めているんです。一番のとっかかりは、コンペでかなりでかいものに勝ったからですね。ベルリンのバーベスブルグというもとレリーネ・リヒテンスタインとかマレーネ・デートリッヒとかで有名な、ナチが宣伝の映画を作っていた場所の再興を計り、ヨーロッパのハリウッドにしようと映画産業を中心にした拠点作りをしようというコンペがあって勝ったんです。これが決まって、バタバタっとベルリンで仕事が入って、ベルリン事務所が活気を呈し始めた。他にビジネスパークを作ったりする、ベルリン郊外で。そこに一〇棟程、各建築家がそれぞれのセクションで、大体三万から四万平米の大きさなんですが、その一発目をいただいたんです。

 ベルリン事務所を作って、一、二年の経過した頃から、もう日本はあかんと思った。なおかつそのヨーロッパもあかん、ということで、僕のパートナーはユダヤ人なんですけども、彼が、絶対これからはアジアなんだという。ユダヤ人のファミリーというか、コネクションというのは、ちょっと信じがたい程ネットワークがありまして、そういうところと通じながら、ここ二年位アジアを行ったり来たりしていたんです。また来月行くんですけど、インドのバンガルローにーーー

布野: バンガローの語源のところだ。

高松: そこで民間のディベロッパーによるホテル、コンドミニアム、それからコングレスセンターの開発プロジェクトが最終決定しまして、それとクアラルンプールで、ホテル。それからもう一つこれはどうなるかわかんないけども、バングラディシュで仕事がある。単なるオフィスビルなんですが、向こうではワールドトレードセンターといわれている。そのプロジェクトを会わせて三つ。ベルリン事務所としては、これからいろんな意味でメッセージ作りを含めて日本と違った形で仕事をしていけそうだな、という可能性がでてきたところです。

 

京都=日本最大の田舎

布野: 仕事の広がりは、みえてきたんですが、建築家として、何が今、テーマなんだろう? どこを拠点にするか、その辺りのスタンスを聞きたいんだけど。

高松: やっぱり京都で仕事がしたい。地元という認識もあるけども、自分自身はともかく京都から少しづつ仕事してきたしね。

布野: 『建築文化』の京都特集(一九九四年二月号)でも話したけど京都はなかなか難しいところがあるよね。

高松: 京都では、公共建築は一つもない。今度、やれそうなんですけどね。とにかく京都という都でやりたい。一つには、磯崎さんのホールができたり、安藤さんがいくつかやったり、原さんがJR京都駅をやったりということで、変わりつつあると思うわけ。ここ四、五年で様変わりするんじゃないかな、京都は。京都では、設計者の決め方というのがなかなか不思議なところがあって、こまめに出かけていって、こういうものも出来ますよ、こういう事もやりますよ、ということをいつも語りかけていかないと、振り向いてくれない、興味をもってくれない。この間かなり積極的にでかけていっているんです。

布野: 確かにどこでどう決まるのかよくわからないような風土はあると思う。日本全国みわたしても、京都はかなりわかりにくい。

高松: 経路がわからないんです。誰がどこで決めているのか。そのシステムがみえない。実は、一つ決まりかけてはおるんだけども。それも、ばったり当たったという感じしかない。

布野: ところで、なんで京都なのかな。

高松: 島根県で色々経験して、ずっとなんとなく思い続けているのは、言うと大げさだけども、何かこうある思想に基づいて建築ができないと、きれいにつくってもしゃあないということね。今まで京都をつくってきたのは、民間の次男坊や三男坊の贅を凝らした趣味だ。京都っていうのは、とにかくある思想をもった建築がこれからつくられていかないと駄目だと思う。そうでないと、僕のホームグラウンドの京都は、国際都市なんていうけども、日本の中においてさえも、とんでもない存在になってしまう。いま京都には僕の思うような成り立ちをする建築物というのはないんだ。思想に基づいてどういう空間をもちたいかというようなプロジェクト、これから何しようか、そういうところから関わっていければ、なかなかおもしろいチャレンジになると思う。でかくはないけども、老朽化しているから、それを壊してからどうするかとか、そういう風な類の、どうしていいかわからない様な土地はどうも生きていけそうだとか、細かいプロジェクトも含めて、プロジェクトになる前の段階のが結構あって、それが興味をそそるんです。

布野: 建築家としてはそうだと思う。ただ、もっとそれをシステム化しないといけないと思う。京都市なら京都市で、企画室のような所で、公共施設部門とか都市計画全体のプログラムは、こうですとか、そのためにはこうしたらどうかとかオープンになってていい。

 例えば、最近シティー・アーキテクトとかタウン・アーキテクトのあり方を考えているんだけど、京都のシティー・アーキテクトを決めて、それは、例えば市立芸大の学長さんにする、でもそれは全体をカヴァーできないから、中京区とか伏見区とか各区単位で、地区マスターアーキテクトを決める。それで、小学校の跡地利用とかそういうものも相談させる。地区マスターアーキテクト委員会のようなものがあって、オープンに決められていくと、という様な事を思ったりするんだけども、とてもとてもそういうような風土ではないわけだ。

高松: それはもう出来ないんとちがうか。京都は日本の最大の田舎でしょうね。行政的にもね。我々タテワリといった時のタテの割方は明快なんで、それはそれで戦略のたて方もつめより方もあるけれど、ここはタテワリでは割り切れない各部署間の粘着性もあるんです。その辺が、やっぱり公家なのかな。遠慮が働いたり、思惑も働いたりしながら、縦割りであるくせに縦割り内部での決定機構が、他の干渉を条件にしているんです。縦横無尽に割れとるわけです、ここは。面白いのは、ある部署が、企画立案したのを当然関与すべき他の部署のトップが知らないとか、そういう事が往々にしてあるんです。

 

国境の内と外

布野: 拠点としての京都、あるいはグローバルな戦略拠点としてのベルリンがあるとして、どういう建築家を目指すのか、建築家像として、どういうところを目指していこうとしているのか。

高松: これはイメージのレベルでの話でしかないけれども、色々な所へ出かけて様々な人達に会って、いろんな注文を聞いて仕事をしていると、日本は狭いと思う。

布野: そのうち最も狭い閉鎖構造をもっているのが京都なわけだ。

高松: その狭さというのを、僕が建築家として、抱えていくのか抱えずにそれを乗り越えた上で表現を追求していくのかどちらかで、すっぱり決まってしまうんです。勿論それを抱え込んでその狭さの中で、新しさを追求していくとか、というスタンスも当然あるだろうけど、それはちょっとできない気がする。かといって外国に移住して、事務所を開いてということにも僕はならないだろうと思う。日本人だし、日本に根ざしているし、日本の文化との過ごし方もわかるし、可能ならば、狭いところに片足置いて、できるだけ孤立無援にならないようにしながら、外へいくチャンスを可能な限りものにしながら、日本人の建築家として、自分の中のボーダーラインを超えたいなと、桎梏のようなものを超えていきたいなと、イメージはあるんです。

布野: 日本の同世代の建築家とヨーロッパの建築家とは違うだろうし、アジアや第三世界での仕事の仕方も違う。例えば、コールハウスのようなジャカルタ生まれのオランダ人が、今どこで仕事しているのか。コスモポリタン的に生きる建築家もいたりいろいろだ。

高松: クールハウスとかリベスキントとかああいう人達は、本当にコスモポリタンですよ。完璧に国境がない。生活も仕事も含めて。僕には、国境があるんです。如何ともしがたいんですが。

布野: 日本人の建築家では、スターアーキテクトでもコスモポリタンというタイプはまだ生まれていないですね。でも若い世代ではどうなんだろう。

高松: 評価という言い方よりも批評という言い方がいいと思うけども、僕のつくっているものの、見られ方というのが、彼らからの目からみて、決定的に日本人なわけです。と同時に、特殊な表現の中に彼らにも、ダイレクトに訴えかけるものもあるんです。それを、言ってみればどこまで両方とも延ばしていけるか、特殊性と同時に国境を超えて心を打つものというのかな、その両方ともないと、片方ではやっていけないと僕は思うんです。両方を常にみていかないと、僕としては、難儀な事になると思います。

 

地域を犯す

布野: 日本の場合、スターアーキテクトというと、地域に出かけて行って、好き勝手して、帰るというイメージがどうしてもあるけれども、一方で組織事務所の根のはり方とか、地元の建築士議会や市との関わり方とか、その辺りの問題がありますね。

高松: 今、鳥取で話がでているんだけども、地元の人達が胸襟を開くといった感じさえあれば、そもそも準備から一緒に仕事をしていくスタンスは、やってもいいなという感じがするし、その方が可能性も広がりそうな気がしているんです。ただ、設計事務所を決める場合、特に作家事務所の場合、行政が許さないんです。今回地元の人達と組んでやろうとしているけれど、狭い範囲でのチャレンジの仕方とか、チャンスの求め方しかいまのところできない。そういう意味では民間のプロジェクトが面白いんです。そちらの方から連帯してもいいかなと、という気持ちがあるんです。ただ地方では民間のプロジェクトがほとんどないんです。

布野: 高松先生ぐらいになると、地域の小学校や中学校は受注するな、地域の建築家に委せなさいという感じがありますけども、どうですか?。そういう日常的なものは地域にまかせる。例えば県立ぐらいの多少経験とか実績が必要なものは、外からの知恵も借りる。どこでも設計受注の共同組合があって、実は下請をしている。そういうシステムがあるわけだし、そのシステムを脅かすから抵抗がある。しかし、もう少し、住み分けたい。

高松: 組織事務所が根深くそのシステムを築きあげていくわけです。地元の設計事務所とタイアップする形をとりつつ根をはって、結果的には全国津々浦々同じものになってしまう。取りあえず僕達がやらないと、作家がどうのこうのいっていられない状況になると思うんです。

布野: 一アーキテクトでは手に負えない仕事だ。

高松: 構造は少しは崩れておるんと違う?けったいなものを、島根県のようなところでつくってきたという事は、楽観的かもしれないけれど、地元の若い人達の元気が出てきたと思う。そういう人達が、今までの慣習的な設計の委託の制度であるとか、持ち回りで事務所を決めていくような、組織事務所が采配を握っているシステムに対して、若い人達が若干でも闘いを挑んでゆくなら、それは面白いと思います。

 

制度とゲリラ

布野: 一個一個ゲリラ的にインパクトのあるものをつくっていくという建築家の戦略もよくわかる。制度的枠組みの問題は大きいね。どこでも縦割り行政があって、これはどこそこの管轄だとか細かく割られて、まちをつくっていくという場合のネックが非常に大きい。街の骨格ができていないから、日本の場合は余計困る。建築家がまちづくりをやるべきだとというテーマがあるんですが、どういう手だてがあるのかな。

高松: おそらく先にシステムがつくられるということにはならない。例えば、国引きメッセの時、川べりを本当は活用したい、ということで、延々とすったもんだした挙げ句、そうはならなかった。ただ、少なくとも、あのスペースをオープンにして、すこし整備していただくと、という風な程度の理解は最終的には確保できたわけです。評価は分かれると思うけれど環境としてはよくなったと思います。事例の積み重ねしかない。

布野: コンペの審査なんかの話がきたら、とにかくインヴォルヴされて、いうことだけはいおうと思ってるんです。特に組織事務所に対しては、とにかく顔をみたいと、いいたい。指名を決める場合も頭の顔とその実績を並べたい。できるだけ密室じゃなくて、いざなんかいわれた時には、申し開きができるような場所だけは確保しておきたい。それが出来なければ降ります、というスタンスで、首はつっこんでいるんですが、ただボランティアで時間はとられるし、指名建築家に入れたのはいいけども落として恨まれたり、正直言って大変です。実績を積むしかないということは同感です。

高松: 公共建築に対して変化が起き始めているのはごく一部で、それは布野さんみたいなボランティアに助けられているということと、変わった首長さんがいて気まぐれで決まったりとか、それにしかすぎない。それから設計者の質を何で評価するかということの問題じゃないかな。ポイントで決めるのは結構なんだけども、ポイントのための評価の枠組みは絶対にオープンにしなければいけない。

布野: ポイント制というのは、追求すれば破綻するんです。ポイントの項目がどうしてそうなのか、そして、どうしてたせば総合評価になるのか、このポイントは誰が評価したのか、つつきだすと、それだけで決まらないわけです。その辺がいつもジレンマに陥るわけです。一応事務局としてはそれで議会にポイント制で何点なので選びましたと、形をつくりたいという事です。建築を選ぶ場合にそれはなじまないんです。全体を分けて採点して単純に足し会わせる、これが困る。面白いのは、いろいろな自治体で、いろいろなコンペをやっていると、当然組織事務所というのがでてきますが、その都度順位が違ったりする。当然です。項目が違ったり採点する人が違うわけですから。しかし、どんな場合も、僕は、審査委員の問題が大きいと思っています。信頼に足りる審査委員がいないんです。

 

マスターアーキテクト制の可能性

高松: 日本ではマスターアーキテクトの制度が育たないのかな。

布野: 内井先生流のマスターアーキテクト制がありますが、マスターアーキテクトがいて、材料や仕様を決めて、あるいはガイドラインをつくって、複数の事務所なり建築家なりにやってもらって、統括するわけだけど、建築の中には抵抗が多い。

高松: ベルリンのIBAの場合、それぞれのプロジェクトに対してそのプロジェクトに適当と思われる何人かのメンバーを選ぶ。マスターなんだけども、マスターのもとで何人かの委員が合議をしてプロジェクトのメンバーを選定するわけです。そういう風なワンクッションあれば、その都度のプロジェクトで妥当性を求められるけれども、内井先生のケースの場合は、画一的なものになってしまう可能性があるね。外からみた場合に、自分の欲望を押さえて、実は自分が表現をしているのではないかとか、みられかねない。マスターアーキテクトの制度そのものは、そごくいいと思うけどもね。ベルリンだと、市が必ず関与し審査するわでです。それがその建築家がいて

布野: シュッタトアルヒテクトですね。

高松: その人がものすごく権限をもっていて、建築家を首にすることができる。彼が延々と口を出して反対すれば、建築できない。そこまで権限があるんです。勿論任期制で、報酬も保証されています。

布野: 熊本アートポリスのコミッショナー・システムは、従来のボスが仕事を配るタイプと変わらないから、日本には馴染みやすいかもしれない。権限がつけば、ヨーロッパ型のタウンアーキテクト的になるのかもしれないけれど、今の中央自治の制度の枠組みでは無理だと思うので、もう少しゆるやかにデザインボードとかデザインコミッテイを集団で指導するような形ができないかなと思ってるんだけど。

高松: ただ誰か一人頭に立てるということになると、、日本では難しい。やはりコミッテイですね。

布野: それが回っていくということだと思います。

高松: 任期をつくって変わっていくと。京都はどうかな。

 

アジアとの往復運動

布野: 最近表現の問題として、世界的な流れとしては、誰に注目していますか?

高松: デザインだけは国境がなくなってきていると思う。国境のない国境ができている感じなんです。デザインの派閥が狭くなってきている。我々が若い頃は、遠ーくにカーンがいて、そういう感じだったのが、今そういうのがない。

布野: 日本の建築家の戦線が世界の戦線と一緒になっている。

高松: それと情報のあり方にも非常に大きく関係しています。特に、意匠に関する情報のあり方において。常に尖ったものが一番情報が多いのが当たり前なんだけども、あっと言う間に行き渡っている。

布野: 国境なき国境というか、せばまったデザインの最前線をかなり意識してきているわけだ。表現のコンテスクトとしては、それをまづは睨みながら、仕事をしているんだ。

高松: そうでもない。憧れは、カーンというのが常にあるし。

布野: 最近少し変わってきてるよに。迷っているところがある。

高松: この間の展覧会で、自分で展示して後で冷静になってみても、迷っているのがわかるんですが、取りあえず、このまま振れながらいこうかなと。ただ、国境のない国境といったけど、その中で型にだけははまりたくない。少しでもそこから距離をとっていきたいと思います。おそらくどんどん狭くなるに違いないし、そこからまた飛び出して、広い国境をつくっていきたい。

布野: これだけインターナショナルなアーキテクトなんだから、若い人達を引っ張ってほしいですね。概念とかことばでぐんぐん引っ張っていく建築家がいなくなったと思う。

高松: トレードセンター的な存在になって、引張っていけるような存在というのは、ほしいですね。僕はまだ引張ってもらいたい年齢です。

布野: そろそろ来ますよ。言葉は悪いけれど、仕事を配ったり、プロデューサー的な仕事もしないといけない。

高松: それは覚悟しています。渡辺(豊和)さんでゲリラが終わって、僕らが細々と続いているところで、今ゲリラ的な人がいない。若い建築家はみんなビッグなところに摺り寄っていって、仕事をもらって、そういう形にしかなっていない。もう枠をつくっている。アーキテクトに毛にはえたようなのが沢山出だしている。そういう風なことをみてると、ゲリラを育てていかなくてはいかんなと、すごく思います。

布野: 最終的におさまるべき場所というか、目標はどう?

高松: 今本当に振れている状態で、イメージを抱く余裕も全くないです。僕は、むしろ単純で、常に突拍子のない新しいものをつくりたいだけなんです。僕のイメージとしての建築家というのが、常にチャレンジしていくということでしかないんです。

布野: 新しいものをつくるために今何が決め手だと考える?

高松: この間少しずつアジアにでていって、我々が今まで受けた教育の中には全く存在しなかった美学があり、ものの存在の仕方がからきし違うので、ものすごくびっくりしたんだ。それがそのままダイレクトにヒントになるというのでなくて、僕が嬉しかったのは、表現の中にまだ可能性がある、ということなんです。我々は、表現を閉じこめることに一生懸命だったけども、カラッとぬけてしまうような、あっけなくぬけていくようなもので、なるほどこれも建築だと、こういうものもつくれるかもしれないな、という思いが特にアジアで感じています。少し自分にも可能性を感じ始めています。それもあって、京都も拠点にしながらアジアとの往復運動をできるだけやってみたいなという気持ちがあります。

布野: それは大いに期待したいです。  

 

布野: 国内では?

高松: ううん、ないね。ご存じのように島根県の公共建築のプロジェクトが今工事中であったり、少しづつ出来上がってきたり、新たに一つ二つチャレンジするとか、三、四年位前から年に二つ位づつ積極的に営業しています。おどしも含めて。

 

 

 

 

布野: 今まで日本で歩いていて、面白いと考えている地域があったら、教えてほしいんですが。

高松: あまり歩いてないけど、まちとして、やっぱり圧倒的に島根県でしょう。布野: 広島とか長崎とかどうですか?

高松: 長崎は興味あります。

布野: 長崎のやり方は、どう思いますか?堀池さんのことですが。

高松: まだ始まったばかりですが、一人で配っておられて、僕が一発目です。布野: かれは、嘱託のアドバイザーで、どういう権限があるのですか?

高松: 進言する権限があるんです。彼一人で決めています。あそこは三菱造船で、完璧な日本設計の馬上ですから、なにを決めようと、どういう風にしようと必ず

布野: 長崎のどういうところが面白いのですか?

高松: 浮足立ち方が面白い。

布野: 造船で空洞化していることとかですか?

高松: 勿論産業のあり方そのものもそうだけど、堀池さんがはいってああいう動き方をしただけで、発注形態が変わっているんです。だからどうしていいかわからなくなって、内井さんに声をかけたりしたようです。以外と長崎というまちは、建築家が仕事をしていないんです。今井さんと村野さんぐらいでしょう。白井さんが小さいのをつくっていますが、建築家の存在をあんまり知らないです。今回特に   でやって僕がやって、  やると賛否両論、火の粉が多いかもしれないけども、建築家って面白いなという風にもでてきそうな感じがします。

布野: 他にはありませんか?

高松: 大阪市がおもしろい。府はあかんけど。

布野: 京都と比べるとどう違うのですか?

高松: 決定の仕方がクリアなんです。コンペにしろどういう形にしろ、タテワリのある部署が建築家に託すにしろ、非常に明解です。それから予算がすごい。布野: 震災がらみのプロジェクトはないですか?

高松: ないです。民間のはなしはぼちぼちありますが、はっきりいって断っています。ひとつ民間のですが、はなしをしに行ったら、デザインのかけらもないとにかく頑丈なものを一刻も早くつくれといわれまして。

布野: 宝塚の駅前のはかなり大きいフリーの仕事でしたが。

高松: あれは、珍しいケースでしょう。ああいう形がどんどん増えれば、たとえダメもとでも、参加はしたいと思うけども、芦屋ではそういう形をとらないでしょう。震災復興では宝塚のケースはベストとは言わないまでもオープンでいいと思います。

 

 

布野: 海外での仕事というのはいろいろ日本と違うことがあると思うんだけどさっきのバーベスブルグのコンペは、どこが主催ですか?

高松: これは、こっちでいうと何になるのかな。財団法人になるのかな。そういう団体を作っているんです。それを民間のいろんな会社が投資をしいるんです。

布野: 日本でいうと民間のコンペですか。

高松: 民間のコンペでも主導はあくまでも行政ですね。向こうはご存じのように、民間のプロジェクトであれ何であれ、ほとんどコンペティションになっていてそれを審査することも含めて行政が指導しなおかつ審査しますから、土地の管理も含めて行政指導型の財団法人による、最初はそういう出発をしているわけから。

布野: 審査員はどういうメンバーですか?

高松: 審査員は全員行政の中と、運営管理する人達とそれから映画関係者とアーチスト達、監督も入ったりしてる。

布野: 著名なアーキテクトは入っていないんですか?

高松: 地元のアーキテクトですが、例えばアクセフという建築家がいます。これは、この前のベルリンのものすごくでかい公共建築のコンペで一位になっています。アクセフ・シュルフです。どちらかというと、地元の有名なというか有力な建築家が審査するんです。

布野: さっき二名選ばれたということは二段階ですか?

高松: 三段階です。

布野: 最初どういう事を要求されるんですか?

高松: ほとんど全部だね。日本のコンペと比べるとおはなしにならないぐらい作業量が多い。基本設計以上です。ディテール、コストも提出です。設計見積もりやランニングコストもです。

布野: 指名料は?

高松: 日本円にして一千万ぐらいです。

布野: 何社指名するんですか?

高松: 7社です。一段階目は、ヒアリングで、どうしようもないのが落とされて、次に残った中で最終選考で二名選ばれて、これは延々と呼び出しては選考されて。

布野: 最初の提出で選ばれて次ぎが、ヒアリングですか?

高松: ヒアリングも入って、最初の選考です。ヒアリングを済ませて、その時に何社残ったかわからないですが、それから二社になったんです。

布野: その時の作業はどういうものですか?

高松: その時は面接だけです。作業はなかったです。最終二名残った中での選考の時には、新しく向こうが要望を出すんです。こうこうこういうにしてくれるかとか、ここが問題があるんで、どういう解決方法が考えられるかとか、それから最初のペースするための材料がほとんど最初に準備したモテリアルと同じ位の量がいるんです。アイデアはいいと、ただデザインは気にくわんとか、そういう話が出てくるんです。そうするとそれをもう一度プレゼンテーションすると、絶対もういっぺんやるわけで、その段階が長かったです。

布野: こういうプロジェクトではどういう作業の仕方をしているのですか?

高松: その都度分担を決めるんだけども、これの場合は、向こうの事務所でマテリアルを全部立ちあげると。うちの方では、スケッチを送って、ファックスでやりとりしながら、それをベースにして向こうでつくる。ただコンピューターグラフィックは、こちらです。向こうのその時の動員できる人数がその技量に応じて、こっちらからも行かせてます。

布野: 今アジアで沢山決まりつつあったり、もう始まっているプロジェクトについても同じやり方ですか?

高松: 向こうの事務所の作業というのは、日本の設計事務所とちょっと違っていて、エンジニアリングを変えつつ、その都度組む。基本的にデザインだけというわけでもないけども、デザインを重点的に事務所でやって、具体的に設備であると構造であるとか、具体的な費用面での条件で共同事務所をその都度作るという感じかな。オバラップというような大事務所も使っています。日本だと、もう全部自分の台所でやらざるを得ないんですね。向こうはそれがないんで、プロジェクト毎にメンバーを組み替える事にしています。

 

布野: 震災でやられたものはないですか?

高松: ガラスが割れた程度です。

布野: あれから半年経ったけれども、直後直感的に何を考えましたか?

高松: 僕は直後に空を飛んだんです。出雲に向けて、直後第一便だったかもしれない。空港まで行くのに、反対車線をライトをつけて、ヘッドホーンを鳴らして走ったんです。飛んだら、もう真っ赤に燃えてて、何かどうのこうのいうよりとにかく戦慄したね。

布野: 多少建築観が変わったというような事はありますか?

高松: その後たまたま設計するのが、ど真ん中にあったので、調査に行ったんですが、頑丈につくらなあかんなと。ただ千年だか何百年に一回でてくるんでは、しゃあないと思う。建築が  的な基準でどうのこうのというのは、どの程度かよく分からないが、当分はデザインのはなしはできそうもないな、と。事実その後どこのプロジェクトにに行っても地震のはなしで、意匠のはなしは、その次ぎでした。最初に頑丈ですと言わないといけない。

 

布野: ここのところ出雲で試行錯誤をしてるんです。出雲市にデザインコア会議というのをつくって、デザインの問題は必ずそこで議論することはできないかと思ってるんです。しかし、その仕組みをどう考えればいいのか。

高松: それはもう、先生方にはとにかくボランティアでやってもらわないといけない。建築家は、行政からしたら業者にしかすぎないんです。なかなか入りづらいところがある。発注元に潜り込んでいって、口出しできるようなところに身を潜めないといけないんです。我々は、業者ですからつくるしかないんです。行政が受け入れやすいという場があるとおもうんです。一つ二つじゃなくて沢山つくればそれなりにメリットがあるから、ある種の公共建築のタイプはできると思う。そのタイプづくりにやれるところまでは、やっていきたいと思う。たとえゲリラとはいえ、そのタイプみたいなものを自分の手でやってみたい。

布野: 公共建築のタイプといった時、それも今あやしいんではないですか?たとえば駅前にデパートをつくっても、客が集まるのかと、鉄道が死んでいてどうしようもない。だからむしろ美術館や水族館をつくったりとか。公共建築のプログラム自体も変わってきている。   

高松: タイプというのはフォームではなくて、公共建築の成り立ち、そのもののタイプです。美術館つくっても、運用されるわけないからお金もかかるし。美術館という名前を借りるというかついてるけども、どういう風な運営形態があって、それは汎用可能とか他のケースにも使えていけるのかとか、そこから建築をつくるということがでてくると思う。そういうものがつくれたらと思います。

高松伸

京都 ベルリン  アジア


ベルリンからアジアへ

布野:  最近、一番力を注いでいる事、今一番関心ある事って何?。

高松:  仕事があればどこにでもいくわけで、特にどれが中心ということもないんです。ドイツにオフィスを出して4年になるけど、京都の事務所より元気がよくなってきてる。それが面白いことにほとんどアジアのプロジェクトなんです。ベルリン近辺の仕事もあるんですけどね。

布野: しかし、ヨーロッパ、しかもベルリンの壁崩壊後のベルリンを拠点にアジアの仕事を展開するというのは面白いね。グローバル・アーキテクトとしての戦略はどうなんだろう。

高松: 海外のプロジェクトは、ベルリン事務所でやると最初から方針として決めているんです。一番のとっかかりは、コンペでかなりでかいものに勝ったからですね。ベルリンのバーベスブルグというもとレリーネ・リヒテンスタインとかマレーネ・デートリッヒとかで有名な、ナチが宣伝の映画を作っていた場所の再興を計り、ヨーロッパのハリウッドにしようと映画産業を中心にした拠点作りをしようというコンペがあって勝ったんです。これが決まって、バタバタっとベルリンで仕事が入って、ベルリン事務所が活気を呈し始めた。他にビジネスパークを作ったりする、ベルリン郊外で。そこに一〇棟程、各建築家がそれぞれのセクションで、大体三万から四万平米の大きさなんですが、その一発目をいただいたんです。

 ベルリン事務所を作って、一、二年の経過した頃から、もう日本はあかんと思った。なおかつそのヨーロッパもあかん、ということで、僕のパートナーはユダヤ人なんですけども、彼が、絶対これからはアジアなんだという。ユダヤ人のファミリーというか、コネクションというのは、ちょっと信じがたい程ネットワークがありまして、そういうところと通じながら、ここ二年位アジアを行ったり来たりしていたんです。また来月行くんですけど、インドのバンガルローにーーー

布野: バンガローの語源のところだ。

高松: そこで民間のディベロッパーによるホテル、コンドミニアム、それからコングレスセンターの開発プロジェクトが最終決定しまして、それとクアラルンプールで、ホテル。それからもう一つこれはどうなるかわかんないけども、バングラディシュで仕事がある。単なるオフィスビルなんですが、向こうではワールドトレードセンターといわれている。そのプロジェクトを会わせて三つ。ベルリン事務所としては、これからいろんな意味でメッセージ作りを含めて日本と違った形で仕事をしていけそうだな、という可能性がでてきたところです。

 

京都=日本最大の田舎

布野: 仕事の広がりは、みえてきたんですが、建築家として、何が今、テーマなんだろう? どこを拠点にするか、その辺りのスタンスを聞きたいんだけど。

高松: やっぱり京都で仕事がしたい。地元という認識もあるけども、自分自身はともかく京都から少しづつ仕事してきたしね。

布野: 『建築文化』の京都特集(一九九四年二月号)でも話したけど京都はなかなか難しいところがあるよね。

高松: 京都では、公共建築は一つもない。今度、やれそうなんですけどね。とにかく京都という都でやりたい。一つには、磯崎さんのホールができたり、安藤さんがいくつかやったり、原さんがJR京都駅をやったりということで、変わりつつあると思うわけ。ここ四、五年で様変わりするんじゃないかな、京都は。京都では、設計者の決め方というのがなかなか不思議なところがあって、こまめに出かけていって、こういうものも出来ますよ、こういう事もやりますよ、ということをいつも語りかけていかないと、振り向いてくれない、興味をもってくれない。この間かなり積極的にでかけていっているんです。

布野: 確かにどこでどう決まるのかよくわからないような風土はあると思う。日本全国みわたしても、京都はかなりわかりにくい。

高松: 経路がわからないんです。誰がどこで決めているのか。そのシステムがみえない。実は、一つ決まりかけてはおるんだけども。それも、ばったり当たったという感じしかない。

布野: ところで、なんで京都なのかな。

高松: 島根県で色々経験して、ずっとなんとなく思い続けているのは、言うと大げさだけども、何かこうある思想に基づいて建築ができないと、きれいにつくってもしゃあないということね。今まで京都をつくってきたのは、民間の次男坊や三男坊の贅を凝らした趣味だ。京都っていうのは、とにかくある思想をもった建築がこれからつくられていかないと駄目だと思う。そうでないと、僕のホームグラウンドの京都は、国際都市なんていうけども、日本の中においてさえも、とんでもない存在になってしまう。いま京都には僕の思うような成り立ちをする建築物というのはないんだ。思想に基づいてどういう空間をもちたいかというようなプロジェクト、これから何しようか、そういうところから関わっていければ、なかなかおもしろいチャレンジになると思う。でかくはないけども、老朽化しているから、それを壊してからどうするかとか、そういう風な類の、どうしていいかわからない様な土地はどうも生きていけそうだとか、細かいプロジェクトも含めて、プロジェクトになる前の段階のが結構あって、それが興味をそそるんです。

布野: 建築家としてはそうだと思う。ただ、もっとそれをシステム化しないといけないと思う。京都市なら京都市で、企画室のような所で、公共施設部門とか都市計画全体のプログラムは、こうですとか、そのためにはこうしたらどうかとかオープンになってていい。

 例えば、最近シティー・アーキテクトとかタウン・アーキテクトのあり方を考えているんだけど、京都のシティー・アーキテクトを決めて、それは、例えば市立芸大の学長さんにする、でもそれは全体をカヴァーできないから、中京区とか伏見区とか各区単位で、地区マスターアーキテクトを決める。それで、小学校の跡地利用とかそういうものも相談させる。地区マスターアーキテクト委員会のようなものがあって、オープンに決められていくと、という様な事を思ったりするんだけども、とてもとてもそういうような風土ではないわけだ。

高松: それはもう出来ないんとちがうか。京都は日本の最大の田舎でしょうね。行政的にもね。我々タテワリといった時のタテの割方は明快なんで、それはそれで戦略のたて方もつめより方もあるけれど、ここはタテワリでは割り切れない各部署間の粘着性もあるんです。その辺が、やっぱり公家なのかな。遠慮が働いたり、思惑も働いたりしながら、縦割りであるくせに縦割り内部での決定機構が、他の干渉を条件にしているんです。縦横無尽に割れとるわけです、ここは。面白いのは、ある部署が、企画立案したのを当然関与すべき他の部署のトップが知らないとか、そういう事が往々にしてあるんです。

 

国境の内と外

布野: 拠点としての京都、あるいはグローバルな戦略拠点としてのベルリンがあるとして、どういう建築家を目指すのか、建築家像として、どういうところを目指していこうとしているのか。

高松: これはイメージのレベルでの話でしかないけれども、色々な所へ出かけて様々な人達に会って、いろんな注文を聞いて仕事をしていると、日本は狭いと思う。

布野: そのうち最も狭い閉鎖構造をもっているのが京都なわけだ。

高松: その狭さというのを、僕が建築家として、抱えていくのか抱えずにそれを乗り越えた上で表現を追求していくのかどちらかで、すっぱり決まってしまうんです。勿論それを抱え込んでその狭さの中で、新しさを追求していくとか、というスタンスも当然あるだろうけど、それはちょっとできない気がする。かといって外国に移住して、事務所を開いてということにも僕はならないだろうと思う。日本人だし、日本に根ざしているし、日本の文化との過ごし方もわかるし、可能ならば、狭いところに片足置いて、できるだけ孤立無援にならないようにしながら、外へいくチャンスを可能な限りものにしながら、日本人の建築家として、自分の中のボーダーラインを超えたいなと、桎梏のようなものを超えていきたいなと、イメージはあるんです。

布野: 日本の同世代の建築家とヨーロッパの建築家とは違うだろうし、アジアや第三世界での仕事の仕方も違う。例えば、コールハウスのようなジャカルタ生まれのオランダ人が、今どこで仕事しているのか。コスモポリタン的に生きる建築家もいたりいろいろだ。

高松: クールハウスとかリベスキントとかああいう人達は、本当にコスモポリタンですよ。完璧に国境がない。生活も仕事も含めて。僕には、国境があるんです。如何ともしがたいんですが。

布野: 日本人の建築家では、スターアーキテクトでもコスモポリタンというタイプはまだ生まれていないですね。でも若い世代ではどうなんだろう。

高松: 評価という言い方よりも批評という言い方がいいと思うけども、僕のつくっているものの、見られ方というのが、彼らからの目からみて、決定的に日本人なわけです。と同時に、特殊な表現の中に彼らにも、ダイレクトに訴えかけるものもあるんです。それを、言ってみればどこまで両方とも延ばしていけるか、特殊性と同時に国境を超えて心を打つものというのかな、その両方ともないと、片方ではやっていけないと僕は思うんです。両方を常にみていかないと、僕としては、難儀な事になると思います。

 

地域を犯す

布野: 日本の場合、スターアーキテクトというと、地域に出かけて行って、好き勝手して、帰るというイメージがどうしてもあるけれども、一方で組織事務所の根のはり方とか、地元の建築士議会や市との関わり方とか、その辺りの問題がありますね。

高松: 今、鳥取で話がでているんだけども、地元の人達が胸襟を開くといった感じさえあれば、そもそも準備から一緒に仕事をしていくスタンスは、やってもいいなという感じがするし、その方が可能性も広がりそうな気がしているんです。ただ、設計事務所を決める場合、特に作家事務所の場合、行政が許さないんです。今回地元の人達と組んでやろうとしているけれど、狭い範囲でのチャレンジの仕方とか、チャンスの求め方しかいまのところできない。そういう意味では民間のプロジェクトが面白いんです。そちらの方から連帯してもいいかなと、という気持ちがあるんです。ただ地方では民間のプロジェクトがほとんどないんです。

布野: 高松先生ぐらいになると、地域の小学校や中学校は受注するな、地域の建築家に委せなさいという感じがありますけども、どうですか?。そういう日常的なものは地域にまかせる。例えば県立ぐらいの多少経験とか実績が必要なものは、外からの知恵も借りる。どこでも設計受注の共同組合があって、実は下請をしている。そういうシステムがあるわけだし、そのシステムを脅かすから抵抗がある。しかし、もう少し、住み分けたい。

高松: 組織事務所が根深くそのシステムを築きあげていくわけです。地元の設計事務所とタイアップする形をとりつつ根をはって、結果的には全国津々浦々同じものになってしまう。取りあえず僕達がやらないと、作家がどうのこうのいっていられない状況になると思うんです。

布野: 一アーキテクトでは手に負えない仕事だ。

高松: 構造は少しは崩れておるんと違う?けったいなものを、島根県のようなところでつくってきたという事は、楽観的かもしれないけれど、地元の若い人達の元気が出てきたと思う。そういう人達が、今までの慣習的な設計の委託の制度であるとか、持ち回りで事務所を決めていくような、組織事務所が采配を握っているシステムに対して、若い人達が若干でも闘いを挑んでゆくなら、それは面白いと思います。

 

制度とゲリラ

布野: 一個一個ゲリラ的にインパクトのあるものをつくっていくという建築家の戦略もよくわかる。制度的枠組みの問題は大きいね。どこでも縦割り行政があって、これはどこそこの管轄だとか細かく割られて、まちをつくっていくという場合のネックが非常に大きい。街の骨格ができていないから、日本の場合は余計困る。建築家がまちづくりをやるべきだとというテーマがあるんですが、どういう手だてがあるのかな。

高松: おそらく先にシステムがつくられるということにはならない。例えば、国引きメッセの時、川べりを本当は活用したい、ということで、延々とすったもんだした挙げ句、そうはならなかった。ただ、少なくとも、あのスペースをオープンにして、すこし整備していただくと、という風な程度の理解は最終的には確保できたわけです。評価は分かれると思うけれど環境としてはよくなったと思います。事例の積み重ねしかない。

布野: コンペの審査なんかの話がきたら、とにかくインヴォルヴされて、いうことだけはいおうと思ってるんです。特に組織事務所に対しては、とにかく顔をみたいと、いいたい。指名を決める場合も頭の顔とその実績を並べたい。できるだけ密室じゃなくて、いざなんかいわれた時には、申し開きができるような場所だけは確保しておきたい。それが出来なければ降ります、というスタンスで、首はつっこんでいるんですが、ただボランティアで時間はとられるし、指名建築家に入れたのはいいけども落として恨まれたり、正直言って大変です。実績を積むしかないということは同感です。

高松: 公共建築に対して変化が起き始めているのはごく一部で、それは布野さんみたいなボランティアに助けられているということと、変わった首長さんがいて気まぐれで決まったりとか、それにしかすぎない。それから設計者の質を何で評価するかということの問題じゃないかな。ポイントで決めるのは結構なんだけども、ポイントのための評価の枠組みは絶対にオープンにしなければいけない。

布野: ポイント制というのは、追求すれば破綻するんです。ポイントの項目がどうしてそうなのか、そして、どうしてたせば総合評価になるのか、このポイントは誰が評価したのか、つつきだすと、それだけで決まらないわけです。その辺がいつもジレンマに陥るわけです。一応事務局としてはそれで議会にポイント制で何点なので選びましたと、形をつくりたいという事です。建築を選ぶ場合にそれはなじまないんです。全体を分けて採点して単純に足し会わせる、これが困る。面白いのは、いろいろな自治体で、いろいろなコンペをやっていると、当然組織事務所というのがでてきますが、その都度順位が違ったりする。当然です。項目が違ったり採点する人が違うわけですから。しかし、どんな場合も、僕は、審査委員の問題が大きいと思っています。信頼に足りる審査委員がいないんです。

 

マスターアーキテクト制の可能性

高松: 日本ではマスターアーキテクトの制度が育たないのかな。

布野: 内井先生流のマスターアーキテクト制がありますが、マスターアーキテクトがいて、材料や仕様を決めて、あるいはガイドラインをつくって、複数の事務所なり建築家なりにやってもらって、統括するわけだけど、建築の中には抵抗が多い。

高松: ベルリンのIBAの場合、それぞれのプロジェクトに対してそのプロジェクトに適当と思われる何人かのメンバーを選ぶ。マスターなんだけども、マスターのもとで何人かの委員が合議をしてプロジェクトのメンバーを選定するわけです。そういう風なワンクッションあれば、その都度のプロジェクトで妥当性を求められるけれども、内井先生のケースの場合は、画一的なものになってしまう可能性があるね。外からみた場合に、自分の欲望を押さえて、実は自分が表現をしているのではないかとか、みられかねない。マスターアーキテクトの制度そのものは、そごくいいと思うけどもね。ベルリンだと、市が必ず関与し審査するわでです。それがその建築家がいて

布野: シュッタトアルヒテクトですね。

高松: その人がものすごく権限をもっていて、建築家を首にすることができる。彼が延々と口を出して反対すれば、建築できない。そこまで権限があるんです。勿論任期制で、報酬も保証されています。

布野: 熊本アートポリスのコミッショナー・システムは、従来のボスが仕事を配るタイプと変わらないから、日本には馴染みやすいかもしれない。権限がつけば、ヨーロッパ型のタウンアーキテクト的になるのかもしれないけれど、今の中央自治の制度の枠組みでは無理だと思うので、もう少しゆるやかにデザインボードとかデザインコミッテイを集団で指導するような形ができないかなと思ってるんだけど。

高松: ただ誰か一人頭に立てるということになると、、日本では難しい。やはりコミッテイですね。

布野: それが回っていくということだと思います。

高松: 任期をつくって変わっていくと。京都はどうかな。

 

アジアとの往復運動

布野: 最近表現の問題として、世界的な流れとしては、誰に注目していますか?

高松: デザインだけは国境がなくなってきていると思う。国境のない国境ができている感じなんです。デザインの派閥が狭くなってきている。我々が若い頃は、遠ーくにカーンがいて、そういう感じだったのが、今そういうのがない。

布野: 日本の建築家の戦線が世界の戦線と一緒になっている。

高松: それと情報のあり方にも非常に大きく関係しています。特に、意匠に関する情報のあり方において。常に尖ったものが一番情報が多いのが当たり前なんだけども、あっと言う間に行き渡っている。

布野: 国境なき国境というか、せばまったデザインの最前線をかなり意識してきているわけだ。表現のコンテスクトとしては、それをまづは睨みながら、仕事をしているんだ。

高松: そうでもない。憧れは、カーンというのが常にあるし。

布野: 最近少し変わってきてるよに。迷っているところがある。

高松: この間の展覧会で、自分で展示して後で冷静になってみても、迷っているのがわかるんですが、取りあえず、このまま振れながらいこうかなと。ただ、国境のない国境といったけど、その中で型にだけははまりたくない。少しでもそこから距離をとっていきたいと思います。おそらくどんどん狭くなるに違いないし、そこからまた飛び出して、広い国境をつくっていきたい。

布野: これだけインターナショナルなアーキテクトなんだから、若い人達を引っ張ってほしいですね。概念とかことばでぐんぐん引っ張っていく建築家がいなくなったと思う。

高松: トレードセンター的な存在になって、引張っていけるような存在というのは、ほしいですね。僕はまだ引張ってもらいたい年齢です。

布野: そろそろ来ますよ。言葉は悪いけれど、仕事を配ったり、プロデューサー的な仕事もしないといけない。

高松: それは覚悟しています。渡辺(豊和)さんでゲリラが終わって、僕らが細々と続いているところで、今ゲリラ的な人がいない。若い建築家はみんなビッグなところに摺り寄っていって、仕事をもらって、そういう形にしかなっていない。もう枠をつくっている。アーキテクトに毛にはえたようなのが沢山出だしている。そういう風なことをみてると、ゲリラを育てていかなくてはいかんなと、すごく思います。

布野: 最終的におさまるべき場所というか、目標はどう?

高松: 今本当に振れている状態で、イメージを抱く余裕も全くないです。僕は、むしろ単純で、常に突拍子のない新しいものをつくりたいだけなんです。僕のイメージとしての建築家というのが、常にチャレンジしていくということでしかないんです。

布野: 新しいものをつくるために今何が決め手だと考える?

高松: この間少しずつアジアにでていって、我々が今まで受けた教育の中には全く存在しなかった美学があり、ものの存在の仕方がからきし違うので、ものすごくびっくりしたんだ。それがそのままダイレクトにヒントになるというのでなくて、僕が嬉しかったのは、表現の中にまだ可能性がある、ということなんです。我々は、表現を閉じこめることに一生懸命だったけども、カラッとぬけてしまうような、あっけなくぬけていくようなもので、なるほどこれも建築だと、こういうものもつくれるかもしれないな、という思いが特にアジアで感じています。少し自分にも可能性を感じ始めています。それもあって、京都も拠点にしながらアジアとの往復運動をできるだけやってみたいなという気持ちがあります。

布野: それは大いに期待したいです。  

 

布野: 国内では?

高松: ううん、ないね。ご存じのように島根県の公共建築のプロジェクトが今工事中であったり、少しづつ出来上がってきたり、新たに一つ二つチャレンジするとか、三、四年位前から年に二つ位づつ積極的に営業しています。おどしも含めて。

 

 

 

 

布野: 今まで日本で歩いていて、面白いと考えている地域があったら、教えてほしいんですが。

高松: あまり歩いてないけど、まちとして、やっぱり圧倒的に島根県でしょう。布野: 広島とか長崎とかどうですか?

高松: 長崎は興味あります。

布野: 長崎のやり方は、どう思いますか?堀池さんのことですが。

高松: まだ始まったばかりですが、一人で配っておられて、僕が一発目です。布野: かれは、嘱託のアドバイザーで、どういう権限があるのですか?

高松: 進言する権限があるんです。彼一人で決めています。あそこは三菱造船で、完璧な日本設計の馬上ですから、なにを決めようと、どういう風にしようと必ず

布野: 長崎のどういうところが面白いのですか?

高松: 浮足立ち方が面白い。

布野: 造船で空洞化していることとかですか?

高松: 勿論産業のあり方そのものもそうだけど、堀池さんがはいってああいう動き方をしただけで、発注形態が変わっているんです。だからどうしていいかわからなくなって、内井さんに声をかけたりしたようです。以外と長崎というまちは、建築家が仕事をしていないんです。今井さんと村野さんぐらいでしょう。白井さんが小さいのをつくっていますが、建築家の存在をあんまり知らないです。今回特に   でやって僕がやって、  やると賛否両論、火の粉が多いかもしれないけども、建築家って面白いなという風にもでてきそうな感じがします。

布野: 他にはありませんか?

高松: 大阪市がおもしろい。府はあかんけど。

布野: 京都と比べるとどう違うのですか?

高松: 決定の仕方がクリアなんです。コンペにしろどういう形にしろ、タテワリのある部署が建築家に託すにしろ、非常に明解です。それから予算がすごい。布野: 震災がらみのプロジェクトはないですか?

高松: ないです。民間のはなしはぼちぼちありますが、はっきりいって断っています。ひとつ民間のですが、はなしをしに行ったら、デザインのかけらもないとにかく頑丈なものを一刻も早くつくれといわれまして。

布野: 宝塚の駅前のはかなり大きいフリーの仕事でしたが。

高松: あれは、珍しいケースでしょう。ああいう形がどんどん増えれば、たとえダメもとでも、参加はしたいと思うけども、芦屋ではそういう形をとらないでしょう。震災復興では宝塚のケースはベストとは言わないまでもオープンでいいと思います。

 

 

布野: 海外での仕事というのはいろいろ日本と違うことがあると思うんだけどさっきのバーベスブルグのコンペは、どこが主催ですか?

高松: これは、こっちでいうと何になるのかな。財団法人になるのかな。そういう団体を作っているんです。それを民間のいろんな会社が投資をしいるんです。

布野: 日本でいうと民間のコンペですか。

高松: 民間のコンペでも主導はあくまでも行政ですね。向こうはご存じのように、民間のプロジェクトであれ何であれ、ほとんどコンペティションになっていてそれを審査することも含めて行政が指導しなおかつ審査しますから、土地の管理も含めて行政指導型の財団法人による、最初はそういう出発をしているわけから。

布野: 審査員はどういうメンバーですか?

高松: 審査員は全員行政の中と、運営管理する人達とそれから映画関係者とアーチスト達、監督も入ったりしてる。

布野: 著名なアーキテクトは入っていないんですか?

高松: 地元のアーキテクトですが、例えばアクセフという建築家がいます。これは、この前のベルリンのものすごくでかい公共建築のコンペで一位になっています。アクセフ・シュルフです。どちらかというと、地元の有名なというか有力な建築家が審査するんです。

布野: さっき二名選ばれたということは二段階ですか?

高松: 三段階です。

布野: 最初どういう事を要求されるんですか?

高松: ほとんど全部だね。日本のコンペと比べるとおはなしにならないぐらい作業量が多い。基本設計以上です。ディテール、コストも提出です。設計見積もりやランニングコストもです。

布野: 指名料は?

高松: 日本円にして一千万ぐらいです。

布野: 何社指名するんですか?

高松: 7社です。一段階目は、ヒアリングで、どうしようもないのが落とされて、次に残った中で最終選考で二名選ばれて、これは延々と呼び出しては選考されて。

布野: 最初の提出で選ばれて次ぎが、ヒアリングですか?

高松: ヒアリングも入って、最初の選考です。ヒアリングを済ませて、その時に何社残ったかわからないですが、それから二社になったんです。

布野: その時の作業はどういうものですか?

高松: その時は面接だけです。作業はなかったです。最終二名残った中での選考の時には、新しく向こうが要望を出すんです。こうこうこういうにしてくれるかとか、ここが問題があるんで、どういう解決方法が考えられるかとか、それから最初のペースするための材料がほとんど最初に準備したモテリアルと同じ位の量がいるんです。アイデアはいいと、ただデザインは気にくわんとか、そういう話が出てくるんです。そうするとそれをもう一度プレゼンテーションすると、絶対もういっぺんやるわけで、その段階が長かったです。

布野: こういうプロジェクトではどういう作業の仕方をしているのですか?

高松: その都度分担を決めるんだけども、これの場合は、向こうの事務所でマテリアルを全部立ちあげると。うちの方では、スケッチを送って、ファックスでやりとりしながら、それをベースにして向こうでつくる。ただコンピューターグラフィックは、こちらです。向こうのその時の動員できる人数がその技量に応じて、こっちらからも行かせてます。

布野: 今アジアで沢山決まりつつあったり、もう始まっているプロジェクトについても同じやり方ですか?

高松: 向こうの事務所の作業というのは、日本の設計事務所とちょっと違っていて、エンジニアリングを変えつつ、その都度組む。基本的にデザインだけというわけでもないけども、デザインを重点的に事務所でやって、具体的に設備であると構造であるとか、具体的な費用面での条件で共同事務所をその都度作るという感じかな。オバラップというような大事務所も使っています。日本だと、もう全部自分の台所でやらざるを得ないんですね。向こうはそれがないんで、プロジェクト毎にメンバーを組み替える事にしています。

 

布野: 震災でやられたものはないですか?

高松: ガラスが割れた程度です。

布野: あれから半年経ったけれども、直後直感的に何を考えましたか?

高松: 僕は直後に空を飛んだんです。出雲に向けて、直後第一便だったかもしれない。空港まで行くのに、反対車線をライトをつけて、ヘッドホーンを鳴らして走ったんです。飛んだら、もう真っ赤に燃えてて、何かどうのこうのいうよりとにかく戦慄したね。

布野: 多少建築観が変わったというような事はありますか?

高松: その後たまたま設計するのが、ど真ん中にあったので、調査に行ったんですが、頑丈につくらなあかんなと。ただ千年だか何百年に一回でてくるんでは、しゃあないと思う。建築が  的な基準でどうのこうのというのは、どの程度かよく分からないが、当分はデザインのはなしはできそうもないな、と。事実その後どこのプロジェクトにに行っても地震のはなしで、意匠のはなしは、その次ぎでした。最初に頑丈ですと言わないといけない。

 

布野: ここのところ出雲で試行錯誤をしてるんです。出雲市にデザインコア会議というのをつくって、デザインの問題は必ずそこで議論することはできないかと思ってるんです。しかし、その仕組みをどう考えればいいのか。

高松: それはもう、先生方にはとにかくボランティアでやってもらわないといけない。建築家は、行政からしたら業者にしかすぎないんです。なかなか入りづらいところがある。発注元に潜り込んでいって、口出しできるようなところに身を潜めないといけないんです。我々は、業者ですからつくるしかないんです。行政が受け入れやすいという場があるとおもうんです。一つ二つじゃなくて沢山つくればそれなりにメリットがあるから、ある種の公共建築のタイプはできると思う。そのタイプづくりにやれるところまでは、やっていきたいと思う。たとえゲリラとはいえ、そのタイプみたいなものを自分の手でやってみたい。

布野: 公共建築のタイプといった時、それも今あやしいんではないですか?たとえば駅前にデパートをつくっても、客が集まるのかと、鉄道が死んでいてどうしようもない。だからむしろ美術館や水族館をつくったりとか。公共建築のプログラム自体も変わってきている。   

高松: タイプというのはフォームではなくて、公共建築の成り立ち、そのもののタイプです。美術館つくっても、運用されるわけないからお金もかかるし。美術館という名前を借りるというかついてるけども、どういう風な運営形態があって、それは汎用可能とか他のケースにも使えていけるのかとか、そこから建築をつくるということがでてくると思う。そういうものがつくれたらと思います。




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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...