居酒屋ジャーナル
建築家の未来は、まちにあり
まちが文化性のない建物で埋められていく。これからの時代、建築家の役割とは、単体の建築ではなく、まち全体を担うことではないか。関西在住の建築家と識者4人が、タウンアーキテクトの可能性を軸に、未来の建築家像を語り、青春時代の原点を振り返る。
――今、布野さんは、「タウンアーキテクト」制を提唱され、その普及に力を入れられています。タウンアーキテクトとは「まちづくりを担う建築の専門家」と考えられていますね。
建築がまちを汚している
布野 現在の日本では、地域社会が弱体化し、かつ自治体は縮小を求められていまする。その両者を繋ぐのが、タウンアーキテクトという職能で、今後その存在が必要となっていくと思ってます。一方で、建築家がその職能を担わなければ、生き残れない時代でもある。
つくる仕事は少なくなり、食えないわけです。まちづくりでは、複雑な条件をまとめ上げる設計の能力を生かせると思う。
横内 その話にとても興味を持ちます。私のように住宅中心に仕事をする建築家は、まちづくりに一番遠い存在でしょう。一般に建築家は社会的スタンスを持たず、単体の建築を一生懸命に設計する。だから、個々の建築が質の高いものでも、それらが並んだときに、まちの景観を台無しにしてしまってることがある。住宅レベルであればいいが、マンションのような大きなものは影響が大きい。京都で仕事をしていて実感しますが、新築による歴史的都市の景観破壊は、ここ10年はひどいものです。それに対して建築家が、たとえ自身の手足を縛ることになっても声を上げて異議を唱えないと駄目だと思います。
松隈 実際は法規を守ってさえすれば、何をつくってもいいわけですよね。例えば、京都三条通りの歴史的景観を構成する築100年の中京郵便局の目前に、マンションがいきなり建ってしまう。その景観破壊の責任は誰にあると問うとき、事業者や建築家が「法律は守ってます」と言って済まされることではない。
永田 まちの景観を汚くしようが、マンション業者は経済性にしか目を向けない。居住スペースを小さくしてコストを抑え、過密に居住者を建物に詰め込み利潤を上げる。その業者は販売の時、リビングに備え付けたテーブルに白いクロスをかぶせ、ワイングラスを並べるわけです。「そんなはずないやろう、人の生活は」と言いたくなる。しかしその演出が、消費者の購買意欲を刺激し、求められる生活像にさえなっていく。すると建築家もそれを前提にした設計せざるを得なくなる。
――経済性のみで建物をつくっていくことはよくないと、姉歯事件によって見直され始めているわけです。しかし、阪神・淡路大震災の時点で建築界は変わらなければならなかった。
永田 大手の住宅メーカーでは、優秀な技術者を集めて、耐震技術を開発しました。だが、文化的にはまったく稚拙なんです。日本人の家の在り方を本質的に研究せず、あくまで売れるものを追求してきただけ。
タウンアーキテクトの可能性
――先ほどの手足を縛る話は、肝心の建築家には評判が悪いですよね。そうした中で、タウンアーキテクトは、どういう方向性を目指すのですか。
布野 建築に対する縛りは、実は行政が常に行ってきました。つまり「取締行政」でやってきた。今後は、「誘導行政」になるべきです。まちの中の建築物の色や形態についても誘導していけばよい。その規定づくりを、センスのいいタウンアーキテクトに任せればいいと思う。その人物が、ある建物を真っ赤に塗れと言ったとしても、新緑に映えて美しいかもしれない。才能ある人に権限と報酬を与える。委員会システムでもよくて、複数の人に任せてもいい。
こうしたことを提案しても、なかなか実現しないので、京都の14大学の研究室を組織して、「京都コミュニティデザインリーグ(CDL)」を立ち上げ、京都のまちを地区ごとに調査・研究し、提案するまねごとを始めました。研究室の教員が各地区のタウンアーキテクトであるという発想です。残念ながら資金が続かず、活動は停滞していますが。
横内 私は、設計事務所を経営しつつ大学に席を置いています。だから、何か社会的な提案をしなければという責任を感じています。最近考えていることはまちづくりなんです。昨年、学生と20年ぶりにイタリアを訪れました。フェレンツェでは、交通規制が布かれ、車が走っておらず、みなが散策を楽しんでる。見違えるように美しいまちになっていました。建築家こそこうした魅力あるまちへの再生案を出していくべきだと実感しました。
疾風怒涛の青春で目指したこと
――建築家の将来像としてのタウンアーキテクトの可能性に期待したいと思います。未来に目を向けるためにも、みなさんの原点、建築を志した当初のお話を聞かせてください。
布野 私が大学に入学した1968年は東大闘争の最盛期でした。1970年には、反万国博の運動があった。旧日本建築家協会(旧JAA)に対して、ジャーナリストの宮内嘉久さんや平良敬一さん、原(広司)さんなどが、、「アーキテクチュアフロント(AF 建築戦線)」を結成して、デモをした。それをまた追求しに行った覚えがある。
1970年代後半は、建築ジャーナリズムの場をつくろうと、宮内さんらと『地平線』という雑誌の創刊について議論しました。永田さんもそのときのメンバーだった。しかし宮内さんらと若い私たちの意見が食い違い、結局1号も出せずに潰れた。
横内 私は大学卒業後にアメリカ留学して設計の経験を積み、27歳の時、前川國男建築設計事務所に入所しました。1982年です。ボストンでは槇文彦さん級のかっこいい建築はいくらでもあり、当時日本で活躍していたスター建築家にはあまり共感できませんでした。そんな中、前川建築の泥臭いが誠実な設計に、かえって衝撃を受けていました。そこで前川さんという人間に接してみたくなり、その門を叩きました。
松隈 私が横内さんより1年先に前川事務所に勤めていました。前川さんに惹かれたのは、学生の頃、大学の講演に来られて「今、つくらない建築家が、最も良心的な建築家だ」という言葉に感動したからです。当時私は学生運動にかかわっていたので、面接時にそのビラを持っていきました。すると前川さんは、「君は全共闘か?」と私に聞き、若い所員にも訊ねる。すると周囲から「僕は全共闘です」などと声があがる。前川さんの事務所は社会的に意識の高い人が集まるのだなと感じました。そこに建築界の現状を変えていきたいとする前川さんの姿勢を垣間見る思いがしました。
永田 私たちの世代が若い頃も、前川さんは神様でした。関西では、村野藤吾さんです。この大建築家のどちらかに就職したかった。しかし事務所の月給が当時6,000円で、これでは食えない。それで1965年、月給25,000円の竹中工務店に入ったわけです。
私が前川さんと出会ったのは1975年頃で、前川さんや白井晟一さんを囲む「風声会」を通してでした。会の宴会の後、前川事務所の当時所員だった大宇根弘司さんと、建設中だった甲府の山梨県立美術館を見学に行きました。すると目の高さに、太いサッシュが水平に入っている。「なんでそんなところに」と問うと、大宇根さんは「親父(前川さん)にきちっと入れとけと指示された」と答える。そこで思わず「下手くそやな」と言ってしまったものです。大建築家に対するあこがれがあって、彼らと同じようなものがつくりたいという気持ちは強く、志は高かったなあ。
布野 昔話は面白いねえ。シリーズでやろうか。
<プロフィール>
布野修司
滋賀県立大学環境学科教授
ふの・しゅうじ|1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など
永田祐三
永田北野建築研究所代表
ながた・ゆうぞう|1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)
松隈洋
京都工芸繊維大学助教授
まつくま・ひろし|1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など
横内敏人
横内敏人建築設計事務所代表
よこうち・としひと|1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1位
<案内>
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