このブログを検索

2025年10月3日金曜日

サマルカンド:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 :布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


H04 青の都―ティムールの帝都

ウズベキスタン,サマルカンド州,

Samarkand, Uzbekistan

 

 


古くはギリシア語でトランス・オクシアナそしてアラビア語でマー・ワラー・アンナフル,そしてソグド商人の原郷としてソグディアナと呼ばれてきた,パミール高原の氷河を水源とするアム河とシル河で囲われた一大オアシス地域の中心都市がサマルカンドである。

 

①ab サマルカンドとアフラシアブ

アーリヤ(イラン)民族が南下していき,また,910世紀にテュルク民族が西進し,イスラームが東進する要となったのがこの地域であり,ティムールが本拠を置いたのがサマルカンドであり, バーブルがここからインドに向かい建てたのがムガル帝国である。

その起源は,紀元前6~7世紀のマラカンダMarakandaに遡る。そして,アフラシアブAfrasiabという城塞都市が栄えてきた。しかし,1220年にチンギス・カンに徹底的に破壊され,現在,城壁跡とラクダ草が生えるだけの荒涼たる丘が残る(図①)。

ティムール(13361405)は, 1397年に新たな庭園と宮殿の建設を命じて以降,サマルカンドをイスラーム世界の中心に見立てて整備する。4イーワーン形式の中庭をもつビビ・ハヌム・モスク,ティムール自身も眠るムハンマド・ブン・マフムード設

 レギスタン広場

計のグール・アミール(1404)など,ティムール朝はすぐれた建築文化を開花させた。方形平面の高い胴部の上に球根形の二重殻ドームを頂く形態はティムール朝様式である。続くシャー・ルフ(14051447),天文台を建設したウルグ・ベク(14471449)も、すぐれたティムール建築を残している。

サマルカンドの全体は不整形であり、

 ティムールのサマルカンド

城郭二重構造を採る。「青の宮殿」と呼ばれる城塞部は西部に配されている。都市核となるレギスタン地区にはウルグ・ベク・マドラサ(1420),シェル・ドール・マドラサ(1636),ティラー・カーリー・モスク(1660)の3つが広場を中心に配される(図②)。庭園は,ブルデイの園、よろこびの園、世界の像、すずかけの園、北の園、楽園の6つ造営されている。建設の多くは,ヒンドゥスターンの石工の手になる。「青の都」と呼ばれるのは青いカーシャン・タイル(サマルカンド・ブルー)が用いられたからである。

 バーブルは,一時奪取したサマルカンドについて詳細に記するが、各モハッラは1つの市場を持っていたという((図③))。レギスタンの北東にドームで覆われたチョルス(市場)が唯一残っているが、タキ(ターク)TaqiTok)と呼ばれる市場が辻々に配され、モハッラ(あるいはクッチャ)毎に独特な蝋燭形の列柱をテラスにもつモスクがつくられていた。タキあるいはチョルス,モスクは,ティムールの都市の基礎単位を構成する都市施設である。

 ティムール朝の後,ブハラを首都とする3つのイスラーム王朝が20世紀初頭まで続く。そして,クリミア戦争に敗れたロシアが進出してくる。トルキスタン総督府の下にロシア領に編入され(1868),ロシア革命によって,ソ連邦の一部となって以降,社会主義的都市計画が展開される。西郊外部の整然とした扇状のグリッド区画がその象徴である。そして、ソ連時代の灌漑による綿花栽培はアラル海を消滅させるほどの激変をもたらすことになった。

【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008

Golombek, Lisa and Wilber, Donald1988, “The Timurid Architecture of Iran and Turan”Vol.I, II, Princeton University Press

間野英二『バーブル・ナーマの研究』全4巻,松香堂、19952001

間野英二編『アジアの歴史と文化8 中央アジア史』同朋舎、2000

 











2025年10月2日木曜日

アーグラーとファテープルシークリ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



I04 アクバルの都

アーグラAgra,ファテープルシークリFatehpur Sikri,ウッタル・プラデーシュ州Uttar Pradesh,インドIndia


ムガル朝を興したバーブルは,インド支配の拠点としてアーグラの地を選ぶ。その後ムガル朝の首都はファテープル・シークリー,ラーホールと移り,シャー・ジャハーンによるシャージャーハーナーバード建設によって,最終的にデリーが帝都となるのであるが,アーグラ,ファテープル・シークリー,ラーホールの三都市はその後もムガル朝の中枢都市としての座を維持する。

 アーグラはインド北西部,デリーの南約200キロに位置し,タージ・マハルの所在地として名高い(図1)。その起源は、16世紀初めにローディー朝のシカンダルによって建設された都市に遡るが、南北に流れるヤムナー川が西に大きく湾曲する東岸に城砦が築かれ,城砦とは別にやや離れたところに都市が発達した。

アクバルは,ヤムナー川の西岸のローディー朝時代から残るバダンガル砦を解体し,アーグラ城(図2)を建設する。都市の中心はヤムナー川西岸に移り,今日のアーグラの骨格ができあがる。都市は「アクバラーバード」と名付けられる。

一方,アクバルは1569年にファテープル・シークリーの建設を始め,157484年はそこを首都とする。さらにその後1598年までラーホールに首都を移している。ただ、この間,アーグラは実質的にムガル朝の首都の地位を保ち続けた。

アクバルからアウラングゼーブまで4代の皇帝により整備されたラール・キラ(「赤い城」)と呼ばれるアーグラ城城内には,ディワーニ・アーム(「公謁殿」,ディワーニ・カース(「内謁殿」)といった宮廷施設や後宮,モーティー・マスジッド(「真珠モスク」)と呼ばれる王室専用モスクの他,バーザールまで設けられた。

インド古代の建築書で『マーナサーラ』における「カールムカ」のモデルが採用されたという説があるが、18世紀のアーグラを描いた地図(図3)をみると,以下のようなことがわかる。

①アーグラ城を中心として都市が形成されたが市壁は存在せず,タージ・マハルがもうひとつの核となっていた。

②ヤムナー川に沿って貴族や諸侯のハヴェリが多数建設され,ヤムナー川河岸が高級住宅地を形成していた。

③アーグラ城の西側に広場状の大バーザールがあり,そこから伸びる通りのいくつかはバーザールとなっていた。

④広場から北へ伸びる通りを中心軸とし,ジャーミー・マスジッドやアクバリー・マスジッドなど主要な宗教施設がその通り沿いに配された。

⑤バーザールとなっている主要な通りから細い路地が伸び,それらは狭く,不規則に曲がりくねりながら迷路状の街路ネットワークとなり,居住地区を形成していた。

ファテープル・シークリーはアクバルの計画のもと,ムスリム建築家ワハーブッディーンWahabuddinとムハンマド・ヤクブMohammad Ya'qubによって設計された。王宮は,極めて整然と計画されている(図4)。アーグラは、王宮,ジャーミー・マスジッドなどの宗教施設,バーザール・キャラバンサライといった商業施設等から構成されるが,河川の沿岸に立地していないため, 水の確保は都市の死活問題であった。水源は地下水または雨水で,それを確保し,利用するためにバーオリーや深堀井戸,ビルカbirka(地下貯水池)といった施設が造られた。ビルカは,王宮の正方形の貯水池の下,ジャーミー・マスジッド中庭の地下などに設けられた。さらにキャラバンサライの北西にも井戸が設置されている。

ファテープル・シークリーの都市構成の特質をあげると以下のようになる。

 ①岩石台地を中心軸とするほぼ長方形の範囲を都市の領域として市壁で囲み,その岩石丘上に都市の主要施設を配した。また丘陵地区をムスリムの居住地とし,丘下をヒンドゥーの居住地とするなど,都市空間の大まかなゾーニングが行われた。

 ②王宮を城壁で囲む城砦化をせず,他の宗教的・商業的施設と一体的に計画された。軍事都市としてよりも行政機能を重視した都市であった。

 ③都市内に主要幹線道路を計画的に敷設し,市街地空間の形成,発展にひとつの秩序を与えようとする意図がみられる。

シャー・ジャハーンのデリー遷都によって,アーグラは首都の座を譲ることとなる。その後ムガル朝の衰退とともに18世紀後半にはジャート族,マラータ軍などの侵攻,掠奪に遭い,19世紀の初頭にはイギリス東インド会社領に編入された。当時アーグラは衰退の極みにあり,人口は3万人ほどであったと言われる。しかしその後イギリスによってアーグラ城の南方にカントンメント(兵営地区)が,北西方には行政機関,病院などを核とする新市街が形成され,アーグラは新旧の両市街からなる都市へと発展していくことになった。


【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530






 

 


2025年10月1日水曜日

デリー:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

  布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I14 二つの帝都を孕むメガ・シティ

デリーDelhi,首都,連邦直轄地 National Capital Territory of Delhi,インドIndia

 

 

 

 


デリーは,ヤムナー川とアラヴァリ山地北端の丘陵に囲まれた,いわゆるデリー三角地に位置し,古来多くの王都が置かれてきた。①インドラプラスタ,②ディッリー,③ラール・コートとキラー・ラーイー・ピタウラー,④シーリー,⑤トゥグルカーバード,⑥ジャハーンパーナー,⑦フィーローザーバードという歴代王都の遺跡群は,「ローマの七つの丘」になぞらえて「デリー七都」とも呼ばれる(図1)。

そして,ムガル帝国(デリー)と大英インド帝国(ニューデリー)の2つの帝都となるが,その2つの帝都の都市の骨格は,アジア有数のメガ・シティとなった今日のデリーにもうかがうことが出来る。

ムガル帝国の初代バーブルはデリーで建国を宣言するが,初期の帝都の中心は移動するオルド(宮廷)であり,アーグラ,ファテプール・シークリー,ラホールなどが拠点とされてきた。デリーを帝都としたのは第Ⅴ代シャージャハーンである。

シャージャハーンの都市(シャージャーハーナーバード)と呼ばれた帝都の宮城は,赤砂岩の城壁からラール・キラと呼ばれる。全体の計画は,長方形を面取りした八角形をベースとし,正南北の方位に合わせた1辺82mすなわち100ガズgazの正方形グリッドによって構成されている(図2)。

宮城はアクバラーバード門とサリームガル門とを結ぶ南北の通りによって二つの区画に分けられている。ヤムナー川に面した東側の区画は,皇帝の政務および私的生活の場である宮域で,外部との通路は限られている。宮城の西側の区画には,一般の居住区が設けられ,かなりの人口を擁し,ラホール門からジラウ・カーナの西端までは,屋根付きのバーザールが設けられていた。地上の楽園に見立てられた王宮にはナフル・イ・ベヘシュト(楽園の水路)が張り巡らされ,城内を流れた水は,最後には宮城を囲む堀へと流れていく設計である。

シャージャハーンが新都に入城した1648年以降,さらにチャンドニー・チョウクとファイズ・バーザールの2つの大通り,ジャーマ・マスジッド(金曜モスク)をはじめとする主要なモスク,ジャーマ・マスジッド周辺のバーザール,市壁,庭園,水路システムなどの建設が続けられ都市の骨格が形成されていった。市壁が完成するのは1658年である。

 18世紀には,チャンドニー・チョウク北側の上流階級の邸宅や庭園,宮殿が並ぶ地区,大多数の都市住民が居住していた南側の地区,キリスト教宣教師やヨーロッパ人商人たちが居住していたヤムナー川とファイズ・バーザールの間のダリアガンジュ地区の大きく3つの区域が形成されていた。

 ムガル朝の皇帝は19代続いたが,第Ⅵ代皇帝アウラングゼーブの死(1707年)以降,混乱が続き,西欧列強が侵攻してくる。 第2次マラータ戦争(180205)中にデリーは英国軍に占領され,ムガル宮廷の高官たちの宮殿が占めていた城内北東端の地区が英国勢力のレジデンシー(「総督代理公邸」)や兵舎,弾薬庫へと改変され,ダリアガンジュ地区にはインド人傭兵たちの軍営が置かれた。英国軍は丘陵地にカントンメント(兵営地)を設営し,北部に英国人の居住区であるシヴィル・ラインズが建設された。デリーの初のセンサス(1833年)によると人口は119800人,1843年には131000人,1853年には151000人の都市であった(図3)。

 インド大反乱後,1858年にインドは英国の直接統治下におかれる。1866年には,市街地を貫いて鉄道や駅,接続道路が建設されるなど,シャージャーハーナーバードは大きく改変される。デリーにとって決定的な転換になったのは,1911年のジョージⅤ世によるデリーへの遷都決定である。建築家エドウィン・ラッチェンス(18691944)を中心に新都ニューデリーの計画案がまとめられ,建設が開始され,1931年に落成する。このニューデリー計画は,プレトリア,キャンベラとともに大英帝国の植民地首都の完成形態といってよく,第二次世界大戦後独立していくアジア・アフリカ・ラテン・アメリカ諸国の首都計画のモデルとなる(図4)。

 そして、オールド・デリーも1947年の分離独立によって大きく変わる。多くのムスリムの流出とパンジャーブからの大量の移民の流入,さらにデリーの急激な人口増加により,多くの地区で,ほとんど全面的な住民の入れ替えが起こった。現在も、ムガル帝国に遡るハヴェリの形態もわずかに残るが、狭小住居が密集する(図5)。 194151年の10年間にオールド・デリーの人口は2倍以上になっている。

 分離独立後のデリーは急激な都市化によってアジア有数のプライメイト・シティとなり、深刻な都市問題、居住問題を数多く抱えてしまう。新旧二つのデリーを包括的に整備する近代的都市計画の体系と手法が導入されたが,多くの問題は未解決のまま今日に至っている。

 

【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530

布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,20017








 


2025年9月30日火曜日

ラホール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

  布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I01 ムガル帝国の古都

ラーホールLahore,パンジャーブ州Punjab,パキスタンPakistan

 

 

 

 


 パンジャーブ州の州都ラーホールは、デリーの北西約400キロの地,インダス川の支流ラーヴィー川の南岸に位置する。

ラーホールのの起源は12世紀に遡るとされ、その名は,『ラーマーヤナ』に登場する伝説の英雄,ラム・チャンドラの息子,ラウLav(ローLoh)に由来するとされる。ラーホールという都市は,アフガニスタン,ペシャーワル地方,北インド,ラージャスターン地方にもあり,ラージプートの年代記には「ローの城」を意味するロー・コットとして言及される。ムスリムの著作の中では、ガズナ朝ムハンマドと同時代のアブ・リハーン・アル・バルーニによる,ローハワルLohawarという記述が最も古く、ローハワルあるいはラウハワルが転じてラーホールになったという。

 ガズニ朝によって1021年に占領されるまで,ヒンドゥー・ラージプートの支配下にあったが,イスラーム勢力の度重なる侵略によって破壊され、この時期の記録や建築的遺跡は残されていない。

 ガズナ朝のスルタン・マフムード(位1014-30)の家臣,マリク・アッヤーズによって城砦が築かれ,当初はマフムードプルと呼ばれた。ガズニ朝が滅んだ後,ラーホールはゴール朝のスルタン・ムハンマド・ゴーリーによって占領され、その後継者のクトゥブ・アッディーン・アイバクは首都をデリーへ移したために,ラーホールは一地方都市となり,大きな繁栄をみなかった。13世紀末のハルジー朝の時代には,多数のモンゴル人が市外に住みつき,その地区はモガルプラと呼ばれていたという。

現在のラーホール旧市街が築かれたのはアクバル(位15561605)の時代であり,1566年までには城砦が建設された。市壁の周囲は約4.8,12の市門を備える(図3)。その後,ジャハーンギール(位1605-27,シャー・ジャハーン(位162858)によって城砦が整備され,の西に,アウラングゼーブ(位16581707)によって,インド亜大陸随一の規模を誇るバードシャー ヒー・モスク(1674)が建設され,城砦地区が完成する(図1)。北西に城砦地区が位置し,東のデリー門から城砦の南を通り西のタクサリー門へと通じる街路,および北,南の各市門からその通りへと通じる街路を主 要な幹線道とする(図2)。この市壁で囲まれた城塞地区(旧市街地)の形態そのものは,現在に至るまで大きな変化はない。歴史的なハヴェリ(中庭式邸宅)もいくつか残っている(図3)。

1848年にイギリス統治時代が始まるが、当時のラーホール市域は,基本的に市壁の内部に限定され,周囲にはモザング,ナワン・コット,キーラ・グジャール・シン,ガリ・シャーフ,バグバンプラなどの村々が点在するのみであった。

植民地時代に,英国統治の行政地区として,シヴィル・ラインと呼ばれる道路網および鉄道が整備され,役所,住宅,商店等イギリス人のための総合的な生活環境が整えられていった。モール・ロードと呼ばれる道が道路網の中枢となり,モール・ロード沿いに重要な機関がインド・サラセン様式によって建設された。総督官邸(1849),高等裁判所(1889),電信局(1880),大学(1876),郵便局(1912)などである(図4)。 現在もイギリスにより建設されたこれらの地区が,ラーホールの中心地区となっている。また軍隊のためのカントンメントがさらに南東郊外に建設され,ラーホールは旧市街,シヴィル・ライン,カントンメントという3つの地域から構成されるようになった(図5)。

1947年のインド,パキスタンの分離独立により,パンジャーブ州は分割され,ラーホールはパキスタンのパンジャーブ州都となる。独立後,ラーホールは近代都市 への道を歩み始める。道路網が再整備され,水道施設などが整えられた。ラーホール改善トラストLITが設置され,都市計画にあたった。LITはラーホールの郊外地域の開発を進め,市域の拡大を促した。市南部および南東部にサマナバードとグルバーグの開発をおこない,都市の発展の方向を決定づけた。市の北部にもシャードバーグの建設を行ったが南部のような発展を見なかった。

 独立後,ラーホールに居住していた多くのヒンドゥー教徒,シク教徒がインドへ移住し,代わりにインドから大量のムスリムがラーホールへと流入した。またその後の都市発展にともなってラーホールの人口は大きく増加した。20世紀末には500万人を超え、現在、周辺を含めると人口は1036万人(2016)に及ぶ。近代化の進展と急激な人口増加により,ラーホールでも都市問題が顕在化している。特に周辺農村から貧民層が流入し,大量のスクォッター集落を生み出している。これらはカッチー・アーバーディーと呼ばれ,放置された土地や川沿い,鉄道沿いに広がっている。ラーホール開発局L.D.Aによってその対策が進められているが,現在では彼らの存在を不可避なものと認め,これらのカッチー・アーバーディーに飲料水や排水設備を供与し,彼らの環境への適応を援助するという解決がはかられている。






【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530

布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,20017


 



2025年9月29日月曜日

ジャイプル:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I12 ピンク・シティ-ジャイ・シンⅡ世の王都

ジャイプルJaipur,ラージャスターンRajasthan,インドRepublic of India

 

 ジャイプル,マハラジャ(藩王)であり,政治家であり武人,天文学者・数学者でもあったジャイ・シンⅡ世16881743)によって建設された。ジャイプルとは,「ジャイ・シンの都市(プル)」という意味である。ヒンドゥーのコスモロジーに基づいて、中心に王宮と最も重要な寺院ゴヴィンダデーヴァ、ジャンタル・マンタル(天文台)(図①)を置く、整然としたグリッド街区によって構成される、実にユニークな都市である。時を経て、ラム・シン(18351880年)が大英帝国ヴィクトリア女王の夫君アルバート公の訪問(1853年)に際に「歓迎」を意味するピンク色で建物のファサードを統一して以降、ピンク・シティと呼ばれる。ラージャスターンの州都であり,行政,交易の中心都市として、その建設当初から金融と宝飾、とりわけエメラルドの都市として知られる。

 建築家としてヴィディヤダールの名が知られるが、全体は格子状の街路によって計画され、中央東西には、西のチャンドポール(月)門からスーラジポール(日)門まで幹線街路が一直線に走り、間口2間程の店舗が連なるバザールが両側に並ぶ(図②)。また、東西南北の幹線街路の交差点にはチョウパルと呼ばれる350フィート四方の広場が置かれる。バザールとチョウパルによって予め都市の骨格を定めた上で、個々のハヴェリ(中庭式住居)が建設される。ハヴェリの建設にあたっては、高さなどヴィディヤダールの指示に従うことが求められた。ジャイプルには,多くの行政官や軍人が居住したが、その行政官の俸給として与えられた土地をジャギルといい,ジャイプルに土地を所有する層はジャギルダールと呼ばれる。18世紀後半には,そのジャギルダール のために住居を建設し,年収の一割を徴収する施策が採られた。起工式は、17271129日とされるが、ジャンタル・マンタルは、前もって建設が開始されている。1729年には、現在に残る市壁、市門すなわち外形は完成し、主要な街区は、1734年までには完成している。統一的な都市景観は最初期に形成されるが、現在の形態ができあがるのは19世紀末のことである(図③)。

 ジャイプルの全体は、ナイン・スクエア(3x3=9分割)システムあるいは9x9のプルシャ・マンダラに基づいて街区(チョウクリ)に分割されているが、完全な形をしているわけではない。北西部は、ナハルガル 城砦が築かれた山によって街区が欠け、南東部は東に1街区突出する形になっている。また、全体は正南北ではなく約15°時計回りに傾いている。東南部の突出については、北西の区画が山腹にかかって実現できないため、東南部にその代替を計画したという説がある。また、 グリッドが傾いているのは、ジャイ・シンの星座である獅子座の方向に合わせたという説、また、軸線の傾きは日影をつくり、風の道を考慮したためだという説がある。

 東西南北の幹線街路によって区切られるチョウクリ の大きさは必ずしも一定ではないが、街路寸法にははっきりとしたランクがあり(100フィート(30.48m,50フィート(15.24m,25フィート(7.62m,12.5フィート(3.81m)),ヒエラルキーに従って住区を構成する計画理念があったと考えられる。

 住居は基本的にはハヴェリと呼ばれる中庭式住居であり、中庭式住居を並べることによって街区が構成される。(図④)。当初は平屋もしくは2階建てであったが、現在は、46階建てが一般的である。現在まで残っている歴史的なハヴェリ,ジャイ・シンが招いた有力商人の建設したものである。

 19世紀に入ると,マラータ族の侵入によってジャイプルは衰退するが、ラム・シンの治世になると,再び活況を呈する。水道,ガス灯が設置され,病院,学校,大学,博物館が建設された。マド・シン Ⅲ世(18801922)の治世は再び衰退の時代となる。マン・シンⅡ世(19221940)の治世となると,市の行政は州議会によって執行されるようになる(1926年)。そして、1930年代以降,人口増加が始まる。1931-41年の10年は市壁外,特に南部郊外の人口増加が大きい。大学,病院が建設されるなど市街の開発が行われ、多くの人々が市の南部に住居を建設し始めるのである。

 戦後の変化は著しい。独立(1947)直後には約40万人に膨れ上がっている。第二次世界大戦後に多くの工場が立地し始めたことが人口増加の要因である。そして、その後も人口増加は続き、現在は300万人を超える都市となり、城壁内への地下鉄の敷設など、大きく変容しつつある。



図① ジャンタル・マンタル 撮影:布野修司

図② バザールの景観 撮影:布野修司

図③ ジャイプル 1881年 Roy, Ascim Kumar(1978), “History of the Jaipur City”, Manohar, New Delhi, 1978

図④ ジャイプルの街区 Survey of India 192528

 

 

 


参考文献

 

布野修司(2006)『曼荼羅都市-ヒンドゥー-都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会(「第Ⅲ章 ジャイプル」)。

 Ashim Kumar Roy:History of the Jaipur City Manohar New Delhi 1978

 J. Sarkar:A History of Jaipur Dehli 1984

S.B.Upadhyay: Urban Planning Printwell JaipurIndia1992

JDA: Vidyadhar NagarJaipur 1994

A. Nilsson: Jaipur in the Sign of Leo Magasin Tessin 1987

Aman Nath: JaipurIndia Book House PVT LTD1993 

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...