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2026年1月31日土曜日

「建築少年」についてのメモランダム, 『雑口罵乱』④(談話室,滋賀県立大学), 2010

 最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010


談話室04

「建築少年」たちについてのモメモランダム

布野修司

 

世に「3号雑誌」という言葉がある。

創刊したのはいいけれど、3号で潰れることが多い、という意味である。『雑口罵乱』もいささかペースが落ちてきたようである。テープ起こし、から編集作業、議論したことを記録に残すのは実にいいトレーニングなのだが、うまく回転しなくなると、苦痛になってくる。ツィッターやブログで記録したからもういい、というのかもしれないけれど、紙に定着しながら再度深く考える作業は質が違う。4号は、かなり校正もきちんとするようになったし、注を入れたり、かなり様になってきたのではないか。その分時間がかかった、ということかもしれない。

5号に掲載予定も含むけれど、この間「談話室」を訪れた若い建築家たちについての感想をメモしてみたい。

 

藤村龍至1976-)の「グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性」という講演は、若い世代の時代認識を伺う上で実に面白かった。『1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ2009年)を編んで、同世代の建築家、研究者をオルガナイズする仕掛け人であり、批評家の資質をもった建築家だと思う。2010年4月から東洋大学講師ということで、32年前、同じように東洋大学に職を得て、育ててもらった僕としては、全く私的なシンパシーを抱いた。

藤村に拠れば、決定的なのは1995年である。携帯電話が一般化し出した年である。携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製のウォーキー・ターキーWalkie Talkie、すなわちトランシーバーである。大阪万博(1970年)にワイアレスホンが出展されていた記憶があるが、実用化されるのは1980年代である。そして、本体に液晶ディスプレイが搭載され、通信方式がアナログからデジタルに移行するのが1990年代半ばである。1995年以後の世代とは携帯で育った世代ということになる。

「グーグル的建築家像」というけれど、グーグルの原型となるバックリンクを分析する検索エンジンが開発されたのが19961月であり、普及は21世紀に入ってからのことである。まさに問題はこれからということだろう。紙を媒体とする建築メディアが力を失ってしまってきたことはこれまで繰り返し触れてきた通りである。今では即時に情報が飛び交う。ツィッターで、この講演、授業、講評会はつまらない、などとやられるのである。140字程度のつぶやきには思考の密度はない。大きな問題を孕んでいると思うけれど、マーケティングの分野、ネットワーキングの分野では武器になる。

何故、携帯の普及、グーグル検索の普及と建築が絡むのか。コミュニケーション手段の拡大によってコミュニティのあり方は決定的に変わる、ということである。山本理顕の提出した課題に藤村龍至が答えた「地域社会圏モデル-国家と個人のあいだを構想せよ」(INAX出版 2010年)は、その現時点の答えである。

 

山崎亮1973-)は、その武器を充分活用しつつあるように見えた。ランドスケープ・アーキテクトとして、「デザインからマネジメントへ」をうたうが、その仕事は様々な分野に広がる可能性がある。地方都市のデパートを再生したり、離島の村おこしを仕掛けたり、まったく正統なまちづくりのアプローチである。加えて、世界中に情報発信し、プロジェクトを起こすスケールをもっている。地域が、小さな企業や自治体が、機動力のあるコーディネーターを欲している。大手のコンサルタント会社や広告代理店、中央の天下り財団が幅を利かせる中で、穴がいくつも開いているのである。

藤村龍至もまた勇ましい。近い将来1000人の事務所にするという。思わず、その昔、石山修武が「ゼネコンをひとつぶっつぶす」といっていたことを思い出したが、その意気やよしである。若い世代も捨てたもんじゃない、のである。藤村の場合、もうひとつ「批判的工学主義」なる、いささか難解そうなキーワードを提示するのであるが、その設計プロセス論の展開に、C.アレグザンダーを思い出して、さらにシンパシーを覚えた。方法に立ち入る余裕はここではないが、着実に設計をまとめる手法の提示がある。CAD時代に、徹底して模型をつくるのもいい。ボトムアップには確実に繋がる手法である。

 

石山修武と言えば、馬場正尊1968-)、坂口恭平1978-)は石山研究室の出身だという。馬場正尊は「都市を使う世代の建築家」、坂口恭平は「都市狩猟採集民の暮らし」をうたう。都市へアプローチするというのは、いずれも共通している。問題はどうアプローチするかである。

馬場正尊の場合、大手の広告代理店(博報堂)に就職した後、研究室に戻った経緯があり、編集者としての顔も持っていて、さらに、建築界のサッカー大会であるA-Cupの仕掛け人、マネージャーでもある。馬場正尊に会って、その昔サッカー少年であったころが刺激され、毎年、ACupに参加するのが楽しみとなった。宮本佳明、中村雄大、小泉雅生、五十嵐太郎、塚本由春、貝島桃代らに会えるのも楽しみであるが、何よりも身体を動かすのがいい。滋賀県立大学(フノーゲルズ)は2008年準優勝である。僕は2008年に続いて2009年もBOPBest Old Player)賞をもらった。参加するだけでいいらしい。

馬場正尊の多彩な活動のなかで、時代を確実に射抜いているのが「東京R不動産」である。不動産業といえばそれまでであるが、コンヴァージョン、リニューアルの時代に中古市場を新たな視点で掘り起こした意味は大きい。ここでもインターネット世界がその発想と事業を支えている。「都市を使う」という発想と個別の設計作業をどう統合していくかが課題となるであろう。ACupや「東京コレクション」がきっかけとなって研究室の石野啓太がオープン・エーに飛び込んだ(入れてもらった)。トップランナーということで朝日新聞の土曜日版に馬場正尊が取り上げられた写真の片隅に入社したばかりの石野君の姿を見出して研究室は大盛り上がりであった。時代は確実に動いていくのである。

坂口恭平は、まるで今和次郎のように、東京を歩く。そして、ホームレスやセルフ・ビルダーの不可思議な物件を発見して回って採集してきた。『バラック浄土』で著作デビューした師匠(石山)譲りである。自らの身体で自らの棲家を建てること、この「建てること、住まうこと、生きること」が同一である位相は、「世界内存在」としての原点であり、建築家の遺伝子として引き継がれていくのだと思う。坂口恭平の場合、採集狩猟したものを「アート」として表現するほうへ向かいつつあるように見える。その行き着く先をみたい。

 

岡部友彦1977-)の場合、都市の「寄せ場」、具体的には横浜・寿町に直接関わってきた。「コトづくりから始めるまちづくり」をうたうが、馬場はそうではないかもしれないけれど、坂口にしても、都市に建築家として関わるという構えは薄い。それはそれで真っ当である。この間、日本建築学会でも「コミュニティ・アーキテクト」の職能としての可能性を議論してきているが、岡部友彦の場合、既にそれを突破してしまっている。

大阪西成の「あいりん地区」でもそうだが、かつての「ドヤ街」は大きく様変わりしている。ビジネスホテル化してきたのはかなり以前からであるが、「サポーティブ・ハウス」など行政の施策展開とも関連しながら、新たな居住形態とサービスのかたちが、貧困ビジネスも含めて出現しつつあるのである。岡部友彦は、「ドヤ」を改装して、外人バックパッカーや一般の観光客にも部屋をホテルとして提供する事業が地区にのめり込むきっかけとなった。ここでもインターネットによる予約システムが大きな武器になっている。

岡部のプロジェクトは、コンビニで余る弁当などを入手する仕組みを構築、低価格で定食を提供する食堂を経営したり、選挙への投票呼びかけをイヴェント絡みで展開するなど、多彩である。

東洋大学時代の教え子たちが組織する「鯨の会」では、八巻秀房が中心になって、林泰代さんを顧問に「CA(コミュニティ・アーキテクト)研究会」を展開してきているが、多くの若い芽が育っていると思う。京都府宇治市の「ウトロ」地区の居住環境改善に取り組む寺川政司などもそうである。

「ウトロ」には、2010年5月これからのまちづくりを考えるシンポジウムに呼ばれて話す機会があった。そこで『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』を紹介しながら、「韓国の中の日本」について話した。するとまもなく、韓国から、この本で取り上げた日式住宅が建ち並ぶかつての日本人移住漁村・九龍浦の保存修景、街並み整備計画をめぐるシンポジウムに招かれた。「日本の街並み整備とその諸問題」と題した基調講演の中で「ウトロ」(日本の中の韓国)に触れた。相互に共同作業が出来ないか、と両方で訴えた。アジアを股にかけた仕事がこれからは増えていくに違いない。

迫慶一郎(1970-)、松原弘典(1970-)は既に中国で大活躍である。2010年9月に滋賀県立大学の布野研究室で学位を取得した川井操(1980-)は20112月から北京のUAAで働き始めている。

 

 森田一弥1971-)は、修士課程を終えて左官修行に入った。「大文」さんのところに弟子入りした竹村雅行(富嶽学園日本建築専門学校)など変り種が多い布野研究室でも筋金入りである。京都の「しっくい浅原」で、金閣寺, 妙心寺などの文化財建築物の修復工事にたずさわった後、設計を開始した。もちろん当初から建築家を志していたのであり、左官の年季明けには個展を開いている。この学年には、竹山聖研究室出身の平田晃久(1971-)や先に名を挙げた渡辺菊真、山本麻子など逸材が多い。伊東豊雄事務所を経て独立したことで、平田の方が名前が売れているのかもしれないけれど、森田も既に数々の賞を受賞して、海外からオープンデスクに来る学生がいるほどである。特に、大阪建築コンクールの渡辺節賞 (Shelf-Pod )を若くしての受賞したのは、その才能を多くが認めている証左である。

左官職人としての経験が大きく作用しているといえるだろう。「バードハウス」や「コンクリート・ポッド」などにそれがうかがえる。スペイン留学もあって、カタラン・ヴォールトに今興味があるという。

その森田は、「マイノリティ・インターナショナル」をうたう。いささか分かりにくいが、地域に蓄積された建築の知恵や技能の体系は、インターナショナルに確認し、共有できるのではないか、ということであろうか。工業化構法などによる、あるいは新技術による新奇な形態のみ追いかけるインターナショナリズムではなく、すなわち、グローバルな資本主義の展開に寄り沿うのではない、地域に根ざした、地(じ)の手法をマイノリティといいながら、積極的に押し出そうとするのである。

おそらく、そうした問題意識を共有するのが同級生である渡辺菊真である。その土嚢建築は世界を股にかけ始め、アフガニスタンからウガンダに及び始めている。ヨルダンでは石造建築を手掛けた。国内では「角館の町屋」があるが、どんな僻地であろうと飛んでいきそうな菊真であるが、高知を拠点に活動を開始し始めてもいる。これからの展開が楽しみである。

 

「談話室」が招いたアンダー50の中で、ヨコミゾマコト、西沢立衛は別格である。西沢立衛の場合、SANAAで妹島和世とともに建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受けたばかりである。プリツカー賞といえば、日本人としては、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄につぐ4(5)人目である。第1回のフィリップ・ジョンソン(1979年)を筆頭にそうそうたるメンバーが並ぶ。大家の道を歩み始めたといえるだろう。「談話室」でのやりとりで、実に感性豊かで理論家肌じゃあないですね、と評したら、「建築設計資料集成」について修士論文を書いたんです、とむきになって反論したのが面白かった。吉武研究室の流れを汲む建築計画研究室の出身だという。まことに勝手にシンパシーを抱いた。確かに、「森山邸」はある型破りの「型」の提案である。この路線には期待したい。

ヨコミゾマコト(横溝真)には初めてだと思ったけれど、「いやあ、むかし一緒に飲みましたよ」といわれて驚いた。伊東豊雄事務所時代、伊東豊雄につれられて新宿の飲み屋でカラオケやっているときにたびたび居合わせたという。1988年から2000年まで伊東事務所にいて、2001年に独立、新富広美術館の国際コンペで勝って本格デビューということになるが、独立以降すぐに手掛けて、HEMFUN2002)、HAB2003年) 、TEMMEMMSH2004年)といった住宅、集合住宅の一連の作品を見せてもらった。ローコストの悪戦苦闘にスマートに答えを出すのがいい。1970年代初頭、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕・・この連載でとりあげてきた建築家が全て、住宅から出発した頃を改めて思い出した。予算的にも敷地環境にも決して恵まれた条件にはないコンテクストにおいて創意工夫の回答を試みる、その姿勢に共感を覚えた。特に、鉄板を主架構に用いる一連の作品は一つの今日的チャレンジである。「単純な複雑さ」をねらうのだというが、単純でいいと思う。2009年、母校である東京藝術大学の准教授となった。大いなる飛躍を期待したいと思う。

「新しい座標系」を提示する藤本壮介は、最もオーソドックスな建築少年に思えた。とにかく建築が楽しくて仕方がない、といった雰囲気を全身かもし出すのがいい。アイディアを力づくでものにするんだという気迫がある。この連載でとりあげてきた建築家たちはみんな建築少年であった。どこまで建築少年でありうるかが勝負である。

安藤忠雄事務所の出身である芦澤竜一1971-)は、さらに大胆に「建築の可能性」を追求しようとしている。東京の早稲田大学出身にも関わらず、関西の水があうのだろう。かつての「関西三奇人」を髣髴させるところがある。構造デザイナーとして期待される佐藤淳1970-)は、任期付きというが東京大学に特任準教授となった。「構造は自由を失わない」と建築士法の改悪に敢然と異を唱える。実に頼もしい社会派でもある。

こうして見ると若い学生たちが話を聞きたいと思う建築家が、それぞれに魅力ある仕事をしていることは言わずもがなのことである。

 


2026年1月30日金曜日

全ては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへ, 『雑口罵乱』⑤(談話室,滋賀県立大学), 2010

 全ては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへ, 『雑口罵乱』⑤(談話室,滋賀県立大学), 2010

すべては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへ

Big Game Architecting

              布野修司

 

 「建築学のすすめ」を2000字で書け、という。何を講義してきたのか!、何を聞いていたの!、と思う。建てることは、住むこと、そして生きることです。以上。以下、誤魔化す。

 

 古今東西、これまでに書かれてきた「建築書」のいくつかを紹介しよう。「建築書」とは、文字通り、「建築」について書かれた書物のことである。

「建築書」にとって、そもそも「「建築」とは何か」というのが問題となる。だから、「「建築」とは何か」をめぐっては、古来様々な論考があり、「建築(理)論」と呼ばれる膨大な言説の蓄積を相手にすることになる。しかも、「建築論」というと、往々にして、難解で高尚な「哲学的」「思想」を展開するものと考えられている。

しかし、ここでは、「「建築」とは何か」、と真正面から問うことはやめよう。「建築」とは、もう少し簡単で身近なものである。「建築」と「建物(建造物)」はどう違うのか、「芸術としての建築」と「非芸術としての建築」はどう区別されるのか、等々の区別(差別)、「建築」という概念の特権化は、近代において成立したにすぎない[1]。ここでのテーマは、「建築」とは何か、ではなくて、「建築」をどう「つくる」か、である。大切なのは、「建築に何が可能か」(原広司[2])である。

「全ては建築である」(H.ホライン)。そして「誰もが建築家でありうる」というところから出発しよう。誤解を恐れずに最初に言い切ってしまうと、「建築書」と呼ばれてきた書物のほとんどは、「建築」を「つくる」ためのマニュアル、手引書のようなものである。

 

1 都市に寄生せよ:セルフビルドの世界

まず、課題を出そう。A3一枚の紙にどのような表現でもいいから描いてみて欲しい。

 「都市に寄生せよ―――ある日あなたは突然家族も家も失った。身よりも何もない。あなたは誰にも頼らずたった独りで生きていくことを決意する。いわゆるフーテンである。家を建てたり借りたりする気はもはやなく、またその余裕もない。都市そのものに住もうと考える。しかし、そのためにも生活上最低限の装置は必要である。時には地下鉄の入口で、あるいは橋の下で、あるいは路上で寝なければならない。都市に寄生して生きていく。以下の条件を最低限満足させる装置をデザインせよ。1.寝られること、2.食事ができること、3.人を招待できること、4.ひとりで持ち運びができること。」

 決してふざけているわけではない。山本理顕さんと二人で考えて、色々な大学の「設計演習」の課題として実際に出してきた「定評ある」課題である。「フーテン」というと「フーテンの寅さん」という山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズが思い浮かぶけれど、知らない人も多いかもしれない。日本語の辞書(広辞苑、大辞林)を引いてもないが、何故か、和英辞書(研究社)を引くとbumと出てきて、a 《口》 浮浪者、 なまけ者、 飲んだくれ、 フーテン、金持ちのなまけ者.b 《口》 のらくらした生活; 《口》 飲み騒ぎ、 放蕩.・・・などとある。まあ、「ホームレス」と言ったほうが今ではわかりやすいかもしれない。

 「ホームレス」が、「ホーム」を設計するのは矛盾のようであるが、「建築」の原点がここにある。ホームレスといえども、雨露をしのぐ覆い(シェルター)がなければ生きてはいけない。身に何かを纏う、覆いをつくる、道具をつくってテーブルや椅子をつくる、・・・というのは、最初の建築行為なのである(全てが建築である)。

 この課題は、「理想の住まいを設計せよ」という課題より、余程想像力を刺激するらしい。まず、場所を想定しなければならない。また、材料を手に入れなければならない。さらに、材料を組み立てて空間をつくらなければならない。様々の発想が生まれ、楽しい創意工夫が生まれる。この創意工夫が「建築」の原点である。

発展途上国のみならず先進諸国にも、現在、数多くのホームレスが存在している。この課題は、従って、思考実験どころか、実に現実的な課題である。日本でも、第二次世界大戦後まもなく、廃墟を前にして、人々は、自らバラックを建てて住まざるを得なかった。柱と梁が足りないので壁を省いた「三角住宅」、空き缶を潰して屋根を葺いた「ブリキ住宅」、防空壕や埋設管を利用した「豪舎住宅」、「鉄管住宅」、さらには「バス住宅」「汽車住宅」もあった。無我夢中の、やむにやまれぬ必死の建築行為であるが、今日振り返れば、実に様々なアイディアである。

「建築」は、こうした身近な「住居」の問題と無縁ではない。誰だって、自分の部屋のレイアウト(家具や機器、様々なお気に入りのものの配置)を考え、カーテンの色や柄を選んでいる。そして、自分の住宅の間取りを描いたりする。基本的に「誰もが建築家」なのである。

 しかし、自らが建てる(セルフビルド(自力建設))という経験は、日本ではますます少なくなりつつある。家は買うものであって、建てるものではない。しかし、建築の原点は、自らが自らの身体を使って建てるという行為にある。M.ハイデッガーに「建てるbauenことと、住むことwhonen、そして生きることlehben」という論考がある。われわれが、セルフビルドの世界に魅かれるのは、「建てること」が「生きること」と全く同一でありえた位相を想い起こさせてくれるからである。

 『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』[3]でも紹介したけれど、J.ワンプラーの『すべて彼ら自身のもの』[4]という小さな本には、自ら自分の住世界を建てた様々な人々が活き活きと描かれている。

 

2 ヴァナキュラー建築の世界

 ヴァナキュラーvernacularとは、「その土地固有の」、「土着の」、あるいは「風土的」という意味である。ラテン語のヴァナクルムvarnaculumが語源で、「自家製」、「家で育てた」という意味から、「根づくこと」あるいは「居住すること」をいう。ヴァナキュラー・アーキテクチャーというと、住宅に限らないけれど、日本語でいう「民家」というニュアンス(語感)で一般的に使われる。

 B.ルドフスキーが『建築家なしの建築Architecture without Architect』を書いて、ヴァナキュラー建築の世界の魅力を喚起したのは1960年代初頭のことである。世界を見渡せば、実際、いわゆる「建築家」が関与しない「建築」の方がはるかに多い。ごく最近まで、住居は、大工さんや職人さんによって建てられるのが普通で当たり前であった。すなわち、セルフビルドの世界が普通であって、出来合いの「建売住宅」や「プレファブ住宅」あるいは「マンション」を買うのは近代以降のシステムである。

 建築生産の工業化、建築の工場生産化(プレファブリケーション(前もってつくる))という「建築」のつくられ方の変化が決定的である。かつては、それぞれの地域で採れる材料(地域産材)を使い、その土地の気候に合った建築がつくられてきた。だから、ヴァナキュラー建築と呼ばれる。しかし、今日では、建築の材料、部品などは予め工場でつくられ、敷地には運ばれていって据え付けられるだけである。この方法だと、世界中同じように建築を建てることができる。

 世界中の大都市が似たような景観となるのは、鉄とガラスとコンクリートのような工業材料を用い、同じような建設方法で建てられるからである。ヴァナキュラー建築の世界が注目されたのは、近代建築の理念や方法に対する疑問、反省、批判からであったとみていい。

 ところで、このヴァナキュラー建築の世界には、一般に、「建築書」はない。しかし、建築をつくるための方法やルール、知恵の体系のようなものは必ずある。そうでなければ、それぞれの地域で同じような形態の建築が建てられ、美しい結晶のような集落を生み出すことはできない筈である。

 セルフビルドの世界が現場の即興的な創意工夫、ブリコラージュの技法に支えられているとすれば、ヴァナキュラー建築の世界は、人類が長年それを繰り返し、地域の伝統的知恵として蓄積されてきた地域技術、ローカル・ナレッジに支えられている。「建築書」と呼ばれるものは、この地域の現場の知恵と技能を、応用可能な知識、技術の体系としてまとめたものと考えていい。「建築書」によって、建築の知識、技術は伝播可能なものとなるのである。

 従って、建築を学ぶためにはまずヴァナキュラー建築の世界に学ぶ必要がある。また、自分で建ててみる必要がある。各地で行われている「木匠塾」や集落調査は、建築の原点に触れる最初の機会である。住居や集落の構成原理を研究することで、地域の生態系に基づいてつくられてきた建築のあり方を明らかにすることができる。「地球環境」問題がクローズ・アップされるなかで、それは今日的課題ともなっている。

まず、学ぶべきは建築の構造原理、架構方法である。テント構造、柱梁構造、井籠(校倉)構造、アーチ、ヴォールトなどヴァナキュラー建築は既に多様な架構方法を教えてくれる。柱や梁の太さや壁の厚さなど、自然や歴史の経過に耐えてきた適切なプロポーションを身体で感じることができる。

建築の架構方法は建築構造原理的に限定されるが、それだけで建築はできあがるわけではない。建築のかたちを規定する要因にはさらに様々なものがある。通常、住居のかたちを規定すると考えられる要因として挙げられるのは、①気候と地形(微地形と微気候)、②建築材料、③生業形態、④家族や社会組織、⑤世界(社会)観や宇宙観、信仰体系などである。地域が社会文化生態力学[5]によって形成されるとすれば、その基礎単位である住居も自然・社会・文化生態の複合体として捉えることが出来るであろう。世界中の住居を総覧する『世界住居誌』[6]は、以上のようなヴァナキュラー建築の構成原理を考える手掛かりとして編まれた。是非、参照して欲しい。

 建築のための様々な知恵は、当初は口伝によって、また経験そのものの伝授によって世代から世代へ伝えられたと考えられるが、やがて書物の形としてまとめられるようになる。一般に生活の全体に関わる知恵がまとめられ、その部分として建築に関わる事項が記される。日本の「家相書」、さらにそのもとになった中国の「風水書」がその例である。「家相」も「風水」も近代科学技術理論からは「迷信」とみなされてきた。しかし、本来、以上のように、土地に蓄積されてきた知恵の体系である。中国、朝鮮半島、日本、台湾は風水文化圏といっていいが、各地に同様の「建築書」が成立してきたと考えられる。フィリピンには「パマヒイン」、ジャワには「プリンボン」、バリには「アスタ・コサラ・コサラ」「アスタ・ブミ」などが知られる。それぞれの相互関係については、今後明らかにすべき建築研究のテーマである。

 

3 ウィトルウィウスの『建築十書』 建築論の原典

 世界中の建築を学ぶほとんど全ての人が最初に教えられるのが、前章でも触れられているウィトルウィウスMarcus Vitruvius Pollioという名前である。前1世紀の古代ローマの建築家で、カエサルと知己であり、オクタウィアヌス(アウグストゥス帝)のもとで建設関係を統括し、ファヌムのバシリカの設計を行ったことが知られるが、その他生没年も経歴もほとんど知られないその名が建築の世界で最大の有名人であるのは、彼が現存最古の「建築書」とされる10巻からなる『建築十書De architectura libridecem』を書き、世界の建築史に多大な影響を及ぼしてきたからである。

『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築の状況、建築家の教育、建築材料、構法、各種建築の計画法などを知るうえで欠くことのできない史料であるが、建築や都市計画のみならず天文、気象、土木、軍事技術、絵画、音楽、演劇などの記述を含んでおり、総合的な技術の書、まさにアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)に関わる書である[7]

今では、ほとんど読まれることはないかもしれないが、およその構成は以下のようである。

ウィトルウィウスは、第一書の第1章において、まず、建築家の素養について書いている。建築家は制作(実技)と理論の両方に精通しなければならないとした上で、願わくは、「文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである」という。建築家に必要とされる素養は古来実に幅広い。今日でも極めて多くの複雑な要素をひとつにまとめあげるのが建築家の役割であり、そのために幅広い素養が必要とされるのは同じである。

様々の要素のうち、どういう要素に着目し、何を重視するかは建築家によって異なる。ウィトルウィウスは、用utilitas、美venustas、強の理が保たれるべきだという(第一書第32)。用の理は、計画理論、強の理は、構造理論、美の理は、造形理論あるいは美学理論ということになろう。その三位一体の上に建築理論が成り立つと考えるのである。

ウィトルウィウスは、建築を構成する基本原理として、オルディナーティオーordinatio(量的秩序に関する一般原理)、ディスポシティオーdispositio(質的秩序に関する一般原理)、ディストリブーティオーdistributio(配分・経理を内容とする実践的原理)を挙げ、基本概念として、エウリュトミアeurythmia(質的秩序に基づく美的構成)、シュムメトリアsymmetria(量的秩序に基づく格にかなった構成)、デコルdecor(建築構成の基本原理として要請されるふさわしさ)を主張する。こう書くと、『建築十書』は難解な理論書と思われるかもしれないが、実際各書は極めて具体的である。

第二書は、ほとんど建築材料に関する記述である。砂、石灰、石材、木材などについて、その製法、施工法が書かれている。また、第七書には、仕上げや塗装の方法がまとめられている。さらに、第八書は、水脈探査法、雨水の利用方法、水道・井戸などについて書かれ、第九書は、天文学、占星術、日時計の作り方について、第十書は、水車や各種器械の作り方について書かれている。すなわち、建築のために必要な事項が書かれた「マニュアル書」なのである。

第三書、第四書は、神殿について、第五書は、劇場、浴場など公共建築について、第六書が、住居について書かれている。

住居について書かれた第六書では、まず、住居の向きと太陽との関係が問題とされている(第1章)。そして続いて、上述のシュムメトリアが問題にされる。シュムメトリアは、シンメトリー(左右対称)の語源であるが、住居の各部分の比例関係、割付のことである(第2章)。さらに、主要な部屋の構成(第3章)、各部屋の向き(第4章)、デコル(第5章)というように順次説明がなされる。デコルとは、装飾、仕上げ方である。

この『建築十書』は、しかし、ウィトルウィウスの独創によるものではない。ウィトルウィウスが、古典期・ヘレニズム期のギリシア建築に心酔し、執筆にあたっては現在には伝わっていない多くのギリシアの建築書を下敷きとしていたとされる。第六書の第7章にはギリシアの住宅について書かれている。また、メソポタミア文明に遡る建築技術の流れがささらにその基になっていることは容易に想定できる。長い歴史の流れの中で人類が蓄積してきた建築の技術を集大成する「建築書」の代表が『建築十書』である。

ルネサンス期になって、この『建築十書』は大々的に再発見されることになる。すでにローマ時代にもたびたび引用され、中世には修道院を中心として研究が行われていた。特に、カール大帝の時代には、ローマ帝国再建のための技術的手引きとして熱心に読まれたことが知られている。しかし、ルネサンスの文芸復興の大きなうねりの中で、L. B. アルベルティの建築書をはじめとする多くの注釈書、訳書があらわれることによって、それは確たるものとなり、西欧における建築学の基礎とみなされるようになるのである。

 

4 ヴァストゥー・シャーストラ:マーナサーラ

建築という概念が西欧起源であることが示すように、建築論の伝統は西欧のものといっていいほど,西欧的価値形態に根ざしている。しかし、建築をつくるためのマニュアルとしての「建築書」は、どこでも必要であり、どこにでも存在してきたと考えられる。

例えば、インドには古来「シルパ・シャーストラ Silpa Sāstra(諸技芸の書)」と呼ばれる、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群がある。「シルパ Silpa」とは「規範」、「シャーストラ Sāstra」とは「科学」を意味する。最も有名なのは、マウリヤ朝のチャンドラグプタに仕えたカウティリヤが書いたとされる『アルタ・シャーストラ(実利論)』[8]である。これは統治に関わる様々な領域を扱い、理想的な都市計画[9]について記述することで知られる。

「シルパ・シャーストラ」の中で、ヴァストゥーVastu・シャーストラと呼ばれるものが建築に関わる。ヴァストゥーというのは、「建造物」あるいは「居住」を意味する。最も完全なものは『マーナサーラ』Mānasāraであり、他に『マヤマタ』Mayamata、『カサヤパ』Casyapa、『ヴァユガナサ』Vayghanasa、『スチャラディカラ』Scaladhicara、『ヴィスバカラミヤ』Viswacaramiya、『サナテゥチュマラ』Sanatucumara、『サラスバトゥヤム』Saraswatyam、『パンチャラトゥラム』Pancharatramなどがある。

「マーナ mana」は「寸法」また「―サラ sara」は「基準」を意味し、「マーナサーラ」とは「寸法の基準」の意味である[10]。『マーナサーラ』はサンスクリット語で書かれているが、その内容はアチャルヤ P.K.Acharyaの英訳(1934年)によって広く知られる[11]

全体は70章からなる。まず1章で創造者ブラフマーに対する祈りが捧げられ全体の内容が簡単に触れられ、建築家の資格と寸法体系(2章)、建築の分類(3章)、敷地の選定(4章)、土壌検査(5章)、方位棒の建立(6章)、敷地計画(7章)、供犠供物(8章)と続く。9章は村、10章は都市と城塞、11章から17章は建築各部、18章から30章までは1階建てから12階建ての建築が順次扱われる。31章は宮廷、以下建築類型別の記述が42章まで続く。43章は車でさらに、家具、神像の寸法にまで記述は及んでいる。極めて総合的、体系的である。成立年代は諸説あるが、アチャルヤ によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものである。

第2章では、建築家の資格、階層(建築家、設計製図師、画家、大工指物師)を述べた上で、寸法の体系を明らかにしている。八進法が用いられ、知覚可能な最小の単位はパラマーヌparama~nu(原子)、その8倍がラタドゥーリratha-dhu~li(車塵、分子)、その8倍がヴァーラーグラva~la~gra(髪の毛)、さらにシラミの卵、シラミ、ヤバyaba(大麦の粒)となって指の幅アングラanguraとなる。このアングラには大中小があり、8ヤバ、7ヤバ、6ヤバの三種がある。

建築にはこのアングラが単位として用いられるが、その12倍をヴィタスティvitasti(スパン:親指と小指の間)とする。さらにその2倍をキシュクkishku、それに1アングラを足したものをパラージャパチャpara~ja~patyaとして肘尺(キュービット)として用いる。すなわち、24アングラもしくは25アングラが肘尺とされるが、2627アングラのものもあって複雑である。26アングラをダヌール・ムシュティdhanur-mushtiというが、その4倍がダンダdandaで、さらにその8倍がラジュrajjuとなる。キシュクは広く一般的に用いられるが主として車、パラージャパチャは住居、ダヌール・ムシュティは寺院などの建造物に用いられる。距離に用いられるのがダンダである。

配置計画については9章(村)、10章(都市城塞)、32章(寺院伽藍)、36章(住宅)、40章(王宮)に記述されているが、マンダラの配置を用いるのが共通である。そのマンダラのパターンを記述するのが7章である。正方形を順次分割していくパターンがそこで名づけられている。すなわちサカラSakala(1×1=1)、ペチャカPechaka(2×2=4分割)、・・・チャンラカンタChanrakanta32×32=1024分割)の32種類である。円、正三角形の分割も同様である。

そしてこの分割パターンにミクロコスモスとしての人体、そして神々の布置としての宇宙が重ね合わせられるが、原人プルシャを当てはめたものをヴァストゥ・プルシャ・マンダラという。最も一般的に用いられるのはパラマシャーイカParama-s’a-yika9×9=81分割)もしくはチャンディタChandita8×8=64分割)である。

村落計画、都市計画についてはそれぞれ8つのタイプが区別されている。村落について挙げるとダンダカDandaka、サルバトバドラSarvatobhadra、ナンディヤバルタNandya-varta、パドマカPadmaka、スバスティカSvastika、プラスタラPurastara、カルムカKa-rmuka、チャトゥールムカChaturmukha8種である。都市および城砦についてはここでは省かざるを得ない。『曼荼羅都市』を参照されたい。

建築の設計については、まず全体の規模、形式を決定し、それをもとに細部の比例関係を決定する方法が述べられている。一般の建築物については1階建てから12階建てまで、それぞれ大、中、小、全部で36の類型が分けられている。そして、幅に対して高さをどうするかに関しては1:11:11/41:1・1/2、1:113/41:2という5種類のプロポーションが用意されている。

 興味深いのは、内容は別にして、全体構成が、ヴィトルヴィウスの『建築十書』の構成に極めてよく似ていることである。誰か、しっかり研究して欲しい。

 

5 営造法式と匠明:木割書の世界

 中国にも、もちろん、建築、都市計画に関わる書物がある。中国都城の理念を記す『周礼』「孝工記」[12]はしばしば引かれるところである。この『周礼』「孝工記」をめぐる中国都城に関わる議論はここではおこう[13]

 現存する「建築書」となるとかなり時代は下る。中国最古の建築書とされるのは、北宋の徽宗の宮廷で、国家の営造を司る将作監の職にあった李誡(李明仲)がまとめた『営造方式』(1100)である[14]

 『営造法式』は、全34巻からなり、巻12は建築の名称と述語の考証、労働日数の算出法、巻315は建築の各部分の施工技法、巻1628は各工事の積算規定を示し、巻2934には付図を掲載する。

 その基本は、拱(肘木)の断面寸法を基準とした8等級の「材」を定め、これをモデュールとした建築の架構を示し、さらに積算方法や労働時間などを詳細に規定するものである。建築の主要な架構を扱う「大木作」のなかの「椽(えん)」(日本でいう垂木)の項をみると、「架」(母屋桁間の水平距離、スパン)を六尺以内とし、椽の長さは傾斜に沿って求めることなど、続けて椽の間隔、扇垂木とする場合の手法などが示されている。『営造法式』は、こうした詳細な規定を多岐の項目にわたって記述し、様々な形式、規模を示しているのである。

中国には、その後、『魯般営造正式』(明代弘治年間(1465-1505)頃)、『工程做法さほう』(1736(乾隆元)年)74巻、『欽定工部則例』(1815(嘉慶20)年)141巻などの「建築書」がまとめられている。

 こうした中国の「建築書」の伝統は、当然、朝鮮半島、日本にも伝えられる。もちろん、中国の「建築書」がそのまま伝えられたということではない。広い中国においても、「建築書」がそのまま用いられたとは限らない。木造文化圏における「建築書」の比較は、それ自体大きなテーマである。

 日本で知られている最古の「木割書」は、法隆寺大工であった平正隆の書いた『三代巻(さんだいのまき)』(1489年)である。そして最も完備しているとされるのが『匠明』(1608年)である。江戸幕府大棟梁の家柄であった平内(へいのうち)家に代々秘伝書として伝わってきたものである。木割りそのものは、古代から存在してきたと考えられるが、「木割書」が生まれたのは、工匠の頭となる大工職が世襲されるようになってからのことで、室町時代に、大工棟梁の家の秘伝書として成立したとされる。江戸末期に至ると、数多くの木割書がつくられ、木版本も刊行されて、広く流布することになる。

 『匠明』は、門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿記集の五巻からなる。門(31棟)、社(神社本殿13棟他)、塔(15基)、堂(本堂、鐘楼、方丈等22棟)、殿(主殿、能舞台等諸建物)という建物種別に木割り(各部の寸法)が示されている。指図(平面図、立面図)が示され、その説明がなされる、という記述のスタイルである。

 「塔記集」の「三重塔」のところを注釈書によりながら、図面を起こしたことがある。今日では、CADを用いて3G画面が容易につくれる。一週間に一度の演習で半年かかったけれど、ヴァーチャルでも物が建ちあがるのは実に楽しいものである。記述は簡潔であるが、日本の木造建築のつくり方がよくわかる。『営造法式』とやり方が異なるのも面白い。

 古今東西、「建築書」の基本にあるのは、寸法、モヂュール(基準寸法)である。石材であれ、煉瓦材であれ、木材であれ、単位となる部材の寸法から全てが組み立てられる。そして、尺にしてもフットfootにしても、そうであるように、寸法の基準は身体寸法である。部材の太さや、長さは、身体寸法をもとに測って、経験上、もつかどうか(倒れるかどうか)の経験を蓄えてきたのである。

 建築にとって極めて重要なのが、以上の意味での寸法感覚、スケール(規模)感覚である。スケール感覚を身につけるには、ここでも、ヴァナキュラー建築に学ぶことである。美しいプロポーションというのは、力学的にも理にかなっているからである。また、身の回りのものがどのような寸法なのか、身をもって測るのがいい。

 

6 パターン・ランゲージ

 以上のように、前近代においては、それぞれの地域で「建築書」がつくられ、伝えられてきた。技術的に洗練度の高い地域から低い地域へ技術は流れる。また、民族の興亡、交流が余りない地域で(例えば日本)、技術は洗練される。

 しかし、上述のように、産業革命による産業社会の到来によって、建築のあり方、つくり方は一変する。鉄とガラスとコンクリートを主材料とすることにおいて、以前とは、比較にならないほど大規模の建築(大空間、超構想)をつくることができるようになるのである。鉄筋コンクリート(RC)構造は、圧縮に強いセメントと引張りに強い鉄の熱膨張率がたまたまほぼ同じで、付着性が高いという偶然を基にした発明である。最初は、植木鉢とかボートがつくられ、建物に使われだすのは19世紀末のことである[15]。また、高層建築がつくられだすのも19世紀末のシカゴにおいてである[16]。大変革が起こって、わずか百年余りである。この間は、建築技術の発展が大きく建築のあり方を支配することになった。

 社会が複雑化し、多様になったことも大きい。全く新たな建築類型も出現してきた。建築をつくる方法もまた大きく変化するのも当然である。

 現代の建築理論家として知られるクリストファー・アレグザンダーC.Alexanderは、『形の合成に関するノート』で、この間の事情を図のように、うまく説明する。

 すなわち、ヴァナキュラー建築の世界では、かたちFormは、コンテクストContext(文脈、脈絡、前後関係、状況)によって決まり、一定の照合関係が成立してきた。そして、建築家が設計する場合には、建築家がコンテクストを把握することによって形成された心的イメージをかたちに置き換える方法がとられてきた。しかし、現代社会においては、コンテクストが複雑化、多様化しており、それを一人の人間が把握することは困難であり、一定の抽象化が必要になる。また、複雑な用件をまとめあげるには、コンピューターが必要になる。

 C.アレグザンダーは、『コミュニティとプライヴァシー』には、住宅を設計する場合が書かれている。住宅の間取りを考えて、条件を挙げてみて欲しい。「台所は食堂に近い方がいい」、「台所は明るく南向きがいい」・・・おそらく、無数の条件や項目を書き上げることができるだろう。中には当然矛盾した条件、項目が含まれる。そうすると優先順位を決める必要がある。数多くの条件を整理して、それをひとつの空間にまとめるのが設計である。C.アレグザンダーは、その整理を行う筋道、プログラムを示したのである。

 設計のプロセスを如何に論理化するかが、建築理論の課題である。しかし、全て論理化できるかというと、必ずしも、そうはいかない。設計の決定のプロセスには、当然、様々な価値判断が必要とされるからである。

 C.アレグザンダーが『形の合成に関するノート』で示した方法は、当初、条件を書き出せば論理的に設計が出来る、そういうモデルと受け取られたが、彼自身は、住み手や使い手が設計のプロセスに関与するモデル構築にむかう。

 ひとつは、「パターン・ランゲージ」と呼ばれる、建築の語彙(ヴォキャブラリー)と辞書を用意する方法である。誰でも、この語彙と辞書を使って設計できるのが理想である。この語彙が果たしてどこでも使えるのか、普遍性を持つのか、という議論はあるが、ヴァナキュラー建築は、地方言語の宝庫である。

 また、C.アレグザンダーは『住宅の生産』において、実際の建設も行うこと、現場で設計することの重要性を主張する。そして「アーキテクト・ビルダー」という概念を提出する。

 さらに、都市計画についても、『まちづくりの新しい理論』において、住民参加型の、あるいはワークショップ形式の設計計画方法論を展開している。

 C.アレグザンダーに一貫するのは、如何に複雑な社会になろうとも、自らが直接関与できる現場から発想すること、決定のプロセスを透明化し、オープンにすることである。

 

 建築理論の系譜といいながら、いささか、簡単に過ぎたであろうか。身近なスケールの家具や住宅についてはわかるけど、超高層など設計できるであろうか、と言われれば、基本はそうかわらない、といいたい。

建築理論の流れを丹念に追いかけるとすれば、さらに何十枚もの紙数がいるであろう。すぐれた建築を生み出す建築家であれば、必ず、それなりに説得力ある理論をもっている。それぞれに、大いに学んで欲しい。

 

 


 



[1] そもそも「建築」という言葉は、欧米語のArchitecture、の訳語で日本語にはなかった。中国語にもなくて、むしろ、明治の文明開化の時代に日本語による翻訳語が中国語としても用いられるようになった例の一つである。

 伊東忠太(1867-1952)という稀代の建築家、建築史家が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を論ず」()という論文を書いて、「建築」、「建築家」、「建築学」、「建築学科」という言葉が定着することになるが、伊東の論文のタイトルからわかるように、直前は、「造家」という言葉が使われていた。「造船」、「造家」・・・というのは、わかりやすいが、「建築」は、「造家」ではない、「建造物」Buildingと「建築」Architectureは違うと、伊東忠太は、先の論文で主張したである。

それまでは、土木建築工事一般を「普請(ふしん)」、建物に関する工事を「作事(さくじ)」と呼んでいた。

しかし、が、要するに、「建築は芸術であって、単なる工学技術ではない」というのである。この「芸術としての建築」という観念は、「芸術」という観念の成立に関わっている。

そもそも「芸術」とは、と語源を遡ると、西欧語ではアート、アール art(英語、フランス語)、アルテ arte(イタリア語、スペイン語)、さらにアルス ars(ラテン語)に至る。一方、ドイツ語ではクンスト Kunstといい、技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発し、art arte の由来するアルス ars は、テクネーtechnéの訳語として用いられる。すなわち語源からみれば、芸術は技術と類縁であり、最広義には技術にふくまれる。

[2] 原広司、『建築に何が可能か』

[3] 布野修司、『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』、朝日選書、1997

[4] J.Wampler“All Their Own: Towards Autonomy in Building Environment”Oxford University Press New York 1977

[5] 立本成文、『地域研究の問題と方法 社会文化生態力学の試み』、京都大学学術出版会、1996

[6] 布野修司監修、『世界住居誌』、昭和堂、2005

[7] そもそもArchitecture・・・の語源は、ラテン語のアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)、アルキテクトンArchitechtónである。「始源(根源)の技術」という意味である。すなわち、アーキテクチャーという言葉は、「建築」という分野にとどまらない。原義に遡れば、「コンピューター・アーキテクト」といった言葉が用いられるのは何も不思議はないのである。

[8] カウティリヤ、『実利論』上下、上村勝彦訳、岩波文庫、1984年。Shamasastry, R., “Arthasastra of Kautilya”, University of Mysore, Oriental Library Publications, 1915. Kangle, R.P., “The Kautilia Artaśāstra”Part 1 Sanskrit Text with a Glossary, Part 2 An English Translation with Critical and Explanatory Notes, Part3 A Study, Bombay University, 1965. Reprint, Delhi, Motilal Banarsidass Publisher, 1986, 1988, 1992

[9] 布野修司、『曼荼羅都市』、京都大学学術出版会、2006

[10] 『マーナサーラ』とは作者の名前であるという説もある。

[11] Acharya, P.K. Architecture of Manasara Vol. I-V. New Delhi, Munshiram Manoharlal Publishers, 1984. [First edition 1934]

[12] 『周礼』:しゅらい Zhu l° 古くは《周官》ともいった。中国古代の礼書,三礼の一つ。西周王朝の行政組織を記述したものとされ,天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇(だいしこう),冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。これら六つの官は,理念的にはそれぞれ60の官職から成り,合計360という職務は1年の日数に対応するのだとされる。ただ冬官大司空の篇は古く失われ,漢代に替りに〈考工記〉が補われた。伝説的には,周公旦が周代初年に礼を制した際,この書物も編まれたとされるが,内容がそれにそぐわないことは,近人の銭穆〈周官著作年代故〉が詳論するところである。また前漢末の劉(りゆうきん)の偽作だとする主張もあるが,おそらくこの書物の主体になる部分は,戦国末期,天下が統一に向かう趨勢の中で,一つの統一国家像を描き出すため,以前からの種々の伝承をまとめて編纂されたものであろう。編纂の中心となったのは斉国の学者たちであったと推定されている。この書物は漢代にすでに〈六国陰謀の書〉と呼ばれ,王(おうもう)の新政権や王安石の新法実施などに際し政治的に利用されたほか,六官からなる政治体制は中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えた。(小南 一郎)

[13] 応地利明、「Ⅴ アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』、昭和堂、2003

[14] これに先立って、神宗の下で王安石によって財政再建のための支配機構の整理が打ち出され、1068年に将作監に下された命により1091年に完成した建築書250冊も『営造法式』と称するが、同書はあまりにも大部で、広闊で、未整理であったらしく、重ねて李明仲に命がくだったとされる。

[15] 1850年ころに,フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初といわれ,その後,67年に J. モニエが鉄筋コンクリートの部材を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりとされる。フランスで発明された鉄筋コンクリート部材は,その特許がドイツに買い取られて基本的な研究が行われ,80年代の終りには,圧縮をコンクリートで,引張りを鉄筋で受け持つ鉄筋コンクリートばりの理論的計算法が発表された。日本で土木構造物に鉄筋コンクリートが初めて使用されたのは,1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋といわれる。

[16] 鉄道事業の発達とともにアメリカ中西部の商業,工業の中心地として発展し始めていたシカゴでは,急激な人口の集中による都市化が進む一方,1871年に起こった大火によりそれまでの木造による商業施設の大部分が焼失し,復興のための建設ブームを迎えていた。その中で生み出されたのが、シカゴ構造と呼ばれる鉄骨構造の高層建築である。ジェニー William Le Baron Jenney(18321907)やホラバード William Holabird(18541923)ら、シカゴ派と呼ばれる建築技術者らが当時建物の装飾や構造材に補助的に使われていた鋳鉄と,土木分野や工業製品に使われ始めた鋼を柱やはりに使用し始めるのである。また,エレベーターも当時安全装置を備えて実用段階に入り始め、従来45階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新する高さにまで達することができた。ホームインシュアランス・ビル(188512),リライアンス・ビル(189416)がその先駆である。


2026年1月29日木曜日

初心に還る, 『雑口罵乱』③(談話室,滋賀県立大学), 2009

 初心に還る, 『雑口罵乱』③(談話室,滋賀県立大学), 2009

初心に還る

布野修司 

 昨年(2008)の1月号から『建築ジャーナル』誌に「メディアの中の建築家たち」と題して日本の現代建築家を取り上げて連載している。1月~3月号は前書きの総論のような形で、4月号から3ヶ月、安藤忠雄、続く7月~9月号を藤森照信、以降、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団と続けて、原広司論(20101月~3月号)を入稿したところである。

2008年の4月号は「ボクサーから東大教授へ 安藤忠雄の軌跡」というタイトルであったが、連休の前だったか後だったか、いきなり安藤さんが電話してきた。どうも気に入らなかったらしい。

聞くと、3箇所誤りがあるという。さしさわりがあるので書かないが、ひとつはボクサー時代の戦績が違うという。「ボクサー時のリングネームは「グレート安藤」、フェザー級、戦歴はプロ戦績通算831分―231337分け、という説もある。」と書いたのであるが、そんな試合数できるわけがないじゃないか!という。しかし、Wikipediaに書いてあるじゃないか、と言い返すと、あれが間違っているのだ!とのこと。単行本にするとき訂正します、で一件落着、と思いきや、「それはそうと、今度お前の大学に話しに行ってやるよ。この間、東大の入学式で1万人の前でしゃべったけど、評判よかったよ。建築といわず、新入生にしゃべるよ」とおっしゃる。

「ええ!」と絶句。

あとは省略するけれど、学長を引っ張り出すやらなんやら800人ぐらいは集まった。その様子を石野君が書いている。DVDにとってあるけれど、そのまま使うことはまかりならん、とのこと。安藤節は生の毒舌がいい。

西沢立衛さんとは初めてであったが、スライド・レクチャーを聞いて、そのセンスに感心。いきなり、「西沢さんは理論家肌じゃないのがいいね」と言って怒らせてしまった。「僕ほど理論家はいない」のだとか。なんでも修士論文は「設計資料集成」についてなんだそうで、建築計画学の野村東太先生とか小滝一正先生に習ったとか。吉武研究室出身の僕とは義兄弟ということになる。

いつか西沢論をという気になったけれど、先の連載は、僕の年齢以上と決めていて、隈研吾、妹島和世以下の世代は、第二ラウンドに書けたらいいと思う。

芦澤さんの会は、海外で出席できなかったけれど、一昨年卒業設計の講評会に来てもらって知っている。とにかく元気がいい。昨年来てもらった、ヨコミゾマコト、藤本荘介、佐藤淳も含めて、連載でとりあげる候補である。

飯田さんとは、学会賞作品賞の審査委員会で一緒だったけれど、ほぼ同い年で、初めて全体の仕事を見せてもらった。手堅い。横浜国大はこれであと北村恒さん呼ばなくちゃ。

重村さんとは学生時代からの付き合い。その全仕事をあらためてみせてもらった。生命循環都市の方向性は真に共鳴できる。

談話室は、学生たちのためだけではない。教師にとっても、自分の仕事、自分の歴史を振り返る機会でもある。いつも刺激をもらえる。建築を志した頃の初心を思い出さしてくれる。

今年、ついにというか、なんというか、還暦を迎えた。来年からは赤ん坊に還ったつもりで頑張ろうかな。

2026年1月28日水曜日

「あらゆる賞はコネクションである」,『雑口罵乱』⑧,2015年6月

 「あらゆる賞はコネクション」,『雑口罵乱』20156

 

あらゆる賞はコネクションである。

 

布野修司

 

 「あらゆる賞はコネクションである」。

 「建築の賞について」という編集部の依頼を聞いて、すぐさま想起したのが辛口コラムニストとして知られ、雑誌『室内』の編集長であった山本夏彦さんのこの名言である。「コネ」というと何かずるいというか、うしろめたいニュアンスがあるが、あらゆる賞にコネクションが大きく作用するのはその通りだと思う。

問題はコネクションとは何かである。

これについては、最後に振り返るとして、頭に思い浮かぶことを綴ってみよう。

建築の賞は世界中に無数にある。実施設計のためのコンペ、さらには学生を主たる応募者とするアイディア・コンペの類の賞を含めれば、日常的に行われているといっていい。しかし、それぞれの賞にはそれぞれ機能と役割がある。

世界で最も権威があるのは、建築界のノーベル賞とも言われるプリツカー賞であるとされる。「国籍・人種・思想・信条を問わず、建築を通じて人類や環境に一貫した意義深い貢献をしてきた」「存命の建築家を対象とする」[1]1979の第一回受賞者フィリップ・ジョンソン以降、ルイス・バラガンジェームス・スターリングケヴィン・ローチと錚々たる建築家が並び、日本人受賞者も丹下健三、槇文彦、安藤忠雄、妹島和世・西澤立衛(SANAA)、伊東豊雄、坂茂の7人を数える。賞の権威は、副賞10万ドルという賞金の額もあるが、こうした世界的に著名な建築家たちの受賞によって裏打ちされる。しかし、以下に触れるように問題は実は審査員である[2]。プリツカー賞の背後には磯崎新が「国際建築マフィア」というネットワークがあるのである。マフィアという言葉は、ここでいうコネクションという言葉で置き換えてもいい。

歴史的に古いと言えば、1848年第1回の王立英国建築家協会RIBAゴールドメダル1907年第一回のアメリカ建築家協会AIAゴールドメダルがある。世界建築家協会UIA[3]加盟の各国建築家協会はそれぞれ顕彰制度をもっている。日本の場合、職能団体としての出自をもち、建築界を代表する組織として最も古い日本建築学会AIJの学会賞(作品賞)の創設が早く第1回は1949年、日本建築家協会JIAJIA新人賞の創設は1989年、日本建築大賞・日本建築協会賞の創設は2005年である。すなわち、それぞれ各国で最高と考えられている建築賞が設けられている。従って、日本を基盤に建築を志したからには、まずは目指せ、「日本建築学会賞」ということになる。

それから先はここではおこう。日本建築学会賞以降、文化勲章受章までに至る安藤忠雄の受賞歴[4]を見てみれば容易に理解できるであろう。建築界を超えて様々な分野で建築活動を評価する賞がある。

さて、建築少年たちに声を大にして言いたいのは、あらゆる建築賞を目指せ、あらゆるコンペに応募せよ、ということである。

何故か。

何よりも、建築の力がつくからである。日々の設計演習に真摯に取組むこと、必要な技能を身につけること、様々なトゥールを自在に使えるようになることは言うまでもないことである。しかし、身近にいる指導教員がすぐれた建築家であるとは限らないのである。

受賞すれば自信になる。そして、次のステップに進むことができる。受賞を逃したとしても、受賞作品と自分の作品を比較することで目標を確認することができる。

学生でも、建築新人戦があり、卒業設計の日本一決定戦があり、日本建築学会、様々な団体、企業が主催するコンペがある。海外に眼を向ければ国際コンペも少なくない。

受賞の実績があれば、様々な実施設計の機会を得られる職を得ることにつながっていくということがある。実際、既に、学生のコンペ歴、受賞歴は、就職活動に用いられている。この実態については、評価は分かれるだろう。すなわち、どういう場で、どういう組織形態で建築を設計していくかは別の議論になる。

設計を始める場合、まずコネクションが必要となる。磯崎新に「君の父を殺せ、母を犯せ」といった名言があるけれど、多くの建築家は自宅や親戚の仕事からスタートするのである。そして、その仕事が何らかの賞を受賞することは社会的に認められていく評価につながる。公衆トイレであれ、なんであれ、コンペなどで仕事を獲得していくことは、次の仕事につながる力となる。以下、具体的な事例は省略しよう。成功した建築家の軌跡には多くを学ぶことができるだろう。

さて、建築の賞の問題である。具体的には、建築の評価基準と審査委員が問題となる。また、それ以前に受賞者をどう特定するかという問題がある。

建築の場合、美術作品や文学作品のように基本的に個人によって制作されることはない。集団の作品である。企画設計があって、現場での施工があって初めて実現する。日本建築学会賞の作品賞は、「近年中、国内に竣工した建築(庭園・インテリア、その他を含む)の単独の作品であり、社会的、文化的見地からも極めて高い水準が認められる独創的なもの、あるいは新たな建築の可能性を示唆するもので、時代を画すると目される優れた作品を対象とする」が、基本的には個人を対象としてきた。結局、主たる役割を担った少数のものを表彰するということで作品ごとに審査委員会ごとに判断がなされてきている。象設計集団(今帰仁公民館)のように、建築の側自らが集団名でなければ受賞しないと主張したケースもあるが、身近にいくつかの例を知っているけれど、個人の受賞が原則だとして、共同設計者が受賞者から外された応募者も少なくない。

既に、受賞者をめぐるこうした議論において、建築の評価の視点と誰が決定するのか、という問題の深さをみることができる。建築は実に多様な評価の側面を持っている、ということである。それは文学でも美術でも同じといえるかもしれないが、個人の作品を対象として、個人としての審査員が自らの作品を賭けて評価を下す場合はわかりやすいだろう。芥川賞、直木賞といった文学賞では、数人の作家が受賞者を決めることになるが、嘘か真か知らないが、一人の作家(審査員)がこの作品の受賞は絶対に認めないと言い張ると、受賞できないという話を聞いたことがある。多様な評価とは言え、譲れない基準は個々にはありうる。単に多数決で決されるとは限らないのである。実際、審査委員会が割れれば、受賞者なしということもしばしばある。

建築でも基本的に同様の問題が起こりうるが、実施コンペの場合、該当者なしとはいかない(実際にはあり得るし、歴史的には様々な事例がある)。建築の多様な評価の側面についてはイチイチ説明しないが、建築が社会的な作品として具体的に「使用」されるという点が大きな特性である。すなわち、誰でも建築家でありうるし、誰でも建築を評価しうるのである。実施コンペの場合、特に、建築の専門家以外も含めて誰が審査委員となり、どういう枠組みで審査委員会が編成されるかが問題となるのは、建築の評価の平面は他の「芸術」ジャンルよりはるかに広いのである。「建築」とは何か、「芸術」とは何か、「建築」は果たして「芸術」か?といった議論もその評価に関わってくるのである。

「建築は、99%社会がつくる」といったのは村野藤吾であるが、そうだとすると、建築の評価もまた99%社会の側にある。あらゆる賞はコネクションであるという時、念頭にあるのはそういう脈絡である。建築は社会的なネットワーク(コネクション)によってつくられ、評価される。賞を貰うために「コネ」を使うという次元の話ではない。磯崎新は、実は、プリツカー賞の審査員を第1回から第6回まで務めている。しかし、磯崎はプリツカー賞を受賞しているわけではないのである。

コネクションを拡げながら自らの建築の理念、方法に関する理解をアピールしていくこと、それが賞への王道である。



[1] アメリカ人実業家でハイアットの事実上の創業者であるジェイ・プリツカーと妻のシンディによって設立された。原則として1年に1人表彰している。

[3] UIAゴールドメダルは1984年以降不定期で授与されている。

[4] 1979 - 日本建築学会賞住吉の長屋1983 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)1985 - アルヴァ・アアルト賞1986 - 芸術選奨文部大臣賞新人賞1986 - 毎日デザイン賞1987 - 毎日芸術賞1988 - 吉田五十八賞(城戸崎邸)1994 - 日本芸術大賞大阪府立近つ飛鳥博物館),朝日賞1995年度プリツカー賞受賞 1996 - 高松宮殿下記念世界文化賞,国際教会建築賞(フラテソーレ)1997王立英国建築家協RIBAゴールドメダル2002アメリカ建築家協会AIAゴールドメダル 京都賞 ローマ大学名誉博士号,同済大学名誉教授2003化功労者2005年国際建築家連合UIAゴールドメダル2010文化勲章 ジョン・F・ケネディセンター芸術金賞 第四回後藤新平賞 大阪キワニス賞 2010 - 文化勲章

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...