植民都市の特性と類型
Characteristics and Typology of Colonial Cities
オランダ植民都市研究
Study on Dutch Colonial Cities
布野修司
Shuji Funo
I am carrying out the research project on colonial cities titled ‘Comparative Study on Formation and Domestication of Colonial Cities’(1997-98) and ‘Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities’(1999-2002) sponsored by Ministory of Education and Science of Japan. I wrote an article ‘The Builders of Colonial Cities/ Planners of Western Urban Planning’ (traverse 1, 2000) as a momorandom at the beginning of the project, which was mainly focused on British Colonial Cities. Now I am consentrating on Dutch Colonial Cities and preparing publish a book “Modern World System and Colonial Cities--- Studies on Dutch Colonial Cities”. This article is a part of introduction of forthcoming book.
「植民都市の形成と土着化に関する研究」(科学研究費 国際学術研究-学術調査1997~1998年度)に続く「植民都市空間の系譜・変容・転成・保全に関する調査研究」(科学研究費 国際学術研究-学術調査1999~2002年度)によって、この間、植民都市研究を展開してきた。英国植民都市に焦点を当てた前段の研究に関連しては、”traverse 1 新建築学研究創刊号”に「植民都市の建設者・・・計画理念の移植者たち 植民都市研究のためのメモ」を書いた。植民都市研究開始時点のまさにメモである。その後、2つの報告書をまとめ、『植えつけられた都市 英国植民都市の形成,』(ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning---The making of British Colonial Cities, 2001年7月)という訳書を刊行することができた。そして、現在、オランダ植民都市に焦点を当てた後段の報告書をもとに、『近代世界システムと植民都市---オランダ植民都市研究』(仮)を執筆中である。近い将来単行本にできればと考えている。本稿は、その作業の過程における一考察である。
1 植えつけられた都市 The City Planted
植民地colonyあるいは植民都市colonial cityとは、もともと古代ギリシャ・ローマにおいて、植民あるいは移住によって建設された居住地あるいは都市をいう。ラテン語のコロニアcoloniaに起源をもち、colony(英語)、colonie(仏語)、kolonie(独語)として広く用いられるようになる。ギリシャ語ではアポイキア apoikiaと呼ばれた。人口過剰、内乱、新天地での市民権の確保、軍事拠点の設営などが植民都市建設の理由である。古代ギリシャの都市国家ポリス polis 、古代ローマの都市国家キヴィタス civitasは、黒海沿岸、トラキア南岸、リビア北岸、イタリア南部、シチリア東岸、南岸、フランス南岸などに多くの植民都市を建設した。植民都市が植民都市を建設する例も見られる。
植民地という概念は、こうして、ある集団が居住する土地を離れてある地域へ移住し、形成する社会を意味した。中世ドイツにおける東方移住も植民地の例である。しかし、植民都市は、単なる移住地というより、ある集団が土着の集団を政治的、経済的、社会的に支配するために建設する都市を一般的にはいう。処女地に新たな都市として建設される場合も、土着の社会、後背地との間に支配-被支配の関係があり、一定の領域を支配するために既存の都市、集落を奪取、占拠することによって建設されることが多いのである。
いわゆる「地理上の発見」以降、西欧諸国が海外に建設した、いわゆる「近代」植民地の場合、支配-被支配の関係は明快である。もちろん、直接的に領土支配を行う場合に限らない。いわゆる帝国主義的段階において、「植民地帝国」として問題とされるのは、直接支配する「公式の帝国」のみならず、間接統治、二重統治などが行われる「非公式の帝国」も含めた支配―被支配関係である。西欧列強の進出を受けた地域は、保護国、保護地、租借地、特殊会社領、委任統治領などの法的形態を問わず植民地と呼ばれる。
「世界システム」論に依れば、15世紀末以降、形成過程に入った「世界資本主義システム」に従属的に包摂された「周辺部」が植民地である。「中心部」におけるヨーロッパは、産業革命へ至る過程で、萌芽的に資本制生産様式を生みながら「周辺部」へ向かい、商業資本による富の蓄積を行う。 伝統的アジア域内貿易ルートの奪取による、西欧商人による世界海上ルートの支配確立、アメリカ大陸等からの金銀財宝の略奪、アジア、アフリカ地域の香料その他土着産物の入手、アフリカ奴隷貿易の発達などが富の源泉である。この富の蓄積(本源的蓄積)がヨーロッパ世界が産業資本主義へ移行する原動力となる。そして、富の蓄積のための拠点として建設されたのが近代植民都市である。
スペイン、ポルトガルが先鞭をつけ、オランダ、フランス、イギリスが続いた「周辺部」への進出は、当初、アジアにおいては、商業的進出の形をとる。現地社会は必ずしも大きな変革を被ったわけではない。交易拠点として設けられた基地(商館、要塞)がやがて植民都市の核となる。一方、アメリカ大陸においては、直接的植民地支配の形態がとられる。原住民社会は徹底的に破壊され、略奪される。その上に植民地支配の拠点として植民都市が当初から建設された。植民地支配にもいくつかの形態があるが、西欧列強は、富の配分を決定づける海上支配権をめぐって熾烈な抗争を繰り広げた。そして、最終的に勝利をおさめることになったのがイギリスであった。
こうして、植民地社会をめぐる理論的枠組みとしては、A.G.フランク、S.アミン以降の従属理論、そしてI.ウォーラーステインによる世界システム論の展開がある。二重社会論あるいはそれを基礎とする発展途上地域の「プライメイト・シティ」をめぐる議論も、基本的には「低開発」をめぐる世界資本主義システムの社会経済構造に関する理論的枠組みによって行われてきたといっていい。近代世界システムの成立と平行する、植民都市の形成、変容、転成の過程が、都市あるいは都市化を一般的な歴史過程として空間生態学的に問題にするのではなく、社会的経済的生産物として、とりわけ産業資本主義、さらに世界資本主義の展開との関連において考える見方を要請してきたのである。中心に従属する周辺、あるいは搾取する中心というテーゼは、いささか紋切り型の図式となりつつあるあるけれども、植民都市がまさに中心と周辺との従属的関係、支配―被支配の関係を媒介するものであったとすれば前提とされていいであろう。問題は、ポスト・コロニアルの時代である。世界経済を構成する諸地域、諸要素ははるかに複雑で流動的なのである。
『植えることと計画すること---英国植民都市の形成』 において、R.ホームは「全ての都市はある意味で植民都市であるAll cities are in a way colonial」という 。
「世界経済の中心には、常に、強大で攻撃的で特権的な、恐れられると同時に崇められる力動的な、特別な国家が存在する。それは15世紀のヴェニスであり、17世紀のオランダであり、18世紀から19世紀においてはイギリスであった。20世紀の現在、それはアメリカである………。暴力を振るうことをためらわなかったのがこうした大国である。だからわれわれはためらうことなく、またアナクロニズムの怖れなくして植民地主義そして帝国主義という用語を用いるのである。 都市の形成は、この過程の重要な鍵である。また、植民都市という概念は理論展開の上でまだ有効であるけれど、全ての都市はある意味で植民都市である。都市は、農業の余剰生産物を集積し、サーヴィスを提供し、政治的管理をおこなうために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出されるのである。輸送手段の発達は、海外や支配の道具となったのである。」
R.ホームがここで依拠しているのはF.ブローデルF. Braudel である。世界経済の展開と植民都市の関係こそが主題であるが、それ以前に「全ての都市はある意味で植民都市である」というテーゼが前提とするのは、都市を本質的に権力との関係においてとらえる理論である。R.ホームが「都市は、農業の余剰生産物を集積し、サーヴィスを提供し、政治的管理をおこなうために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出されるのである」という時、余剰生産物は藤田弘夫のいう「社会的余剰」 である。都市は、そもそもその成立、起源において権力の発生と結びついており、 「都市は、巨大な権力が目的を達成するために、特定の場所に拠点を設け、そこに目的達成のための施設を建設するなかで形成された」のである。そうした意味で、植民都市は、都市の本質を露わにする都市である。
重要なのは、植民都市という概念が二重の権力関係、支配-被支配関係を含んでいることである。すなわち、都市と農村との支配-被支配関係のみならず、宗主国と植民地、あるいは、ある社会と別の社会との支配-被支配関係の二重の関係において植民都市は成立するのである。R.ホームに先立って、A.D.キングも「全ての都市は植民地的であると言えるAll cities can be described as colonial」というが 、二つのレヴェルを区別している。植民都市は、「ローカルなレヴェルで、後背地を組織し、非都市領域の供給する余剰で生きている」と同時に「グローバルなレヴェルで、自らの社会と他の社会の両方の余剰を組織している」のである。この二重の関係性が植民都市の本質に関わるのである。都市は、歴史的には、地理的に限定された社会において、農業生産物の余剰を奪取し、サーヴィスを提供するために、ある集団が他の集団を支配する権力の働きによって生み出される。そして続いて、その社会の内部に、さらに余剰を作り出し、搾取し、政治的支配を強化する手段として、別の都市が植えつけられる。これが植民都市である。さらに、この論理は、交通手段の発達によって、ある社会の境界を越えて他の領土を組み入れる過程にも拡大される。こうして、植民都市は、現地人に対する支配を確立し維持していくための道具となるのである。
アーリア人の中央アジアからインド北西部への移動(紀元前2000~1500)、アケメネス朝ペルシャの南下拡大(紀元前6世紀)、アレクサンドロス大王の東方遠征(紀元前4世紀)、匈奴、フン族、ゲルマン族等の西方移動(4~7世紀)、トルコ族のユーラシア東部から西部への移動(9~11世紀)、モンゴル帝国の形成(13世紀)そしてチムール帝国の拡大(14~15世紀)、古来、人類は大規模な移動を繰り返してきた。しかし、15世紀末以降、世界全域にわたった西欧列強による海外進出ほど大規模なものはない。植民都市を建設し、支配したのは、少数のヨーロッパ人であり、白人(コーカソイド)であり、キリスト教徒である。そして、植民地建設の中核を担ったのは奴隷貿易である。歴史上際だった特徴を持つのが近代植民都市である。
母都市と植民都市との関係は、近代以前においては、一定の距離の領域内における諸都市間のネットワークに包摂されていったと考えられる。しかし、「大航海時代」以降の宗主国と植民地、母都市と植民都市の関係は、グローバルな交易ネットワークに巻き込まれていくことになる。そこでは、都市と農村とのローカルな関係は、世界規模におけるメトロポリスとコロニーの関係になるのである。近代世界システム、その中核を支える世界資本主義によって関連づけられる諸都市が植民都市なのである。
植民都市の本質は、それが自らの社会とは異なった社会に移植されることにある。植民都市は、まさに、「植えつけられた都市」である。植民都市の本質はまさに「植民」にある。キーワードは、「プラントplant」あるいは「プランティングplanting」である。
R.ホームは、見事に韻を踏んで自らの著書のタイトル にも用いたプランティングという概念について以下のように書いている。
「2世紀にわたり、大英帝国の支配地拡大は植民都市を‘植えつける 'ことによって達成されていった。植民省 Colonial Officeの前身(18世紀後半に設立)は、プランテーション局the Board of Plantationsと呼ばれていた。オックスフォード英語辞典では、最初の用例として、1586年以来、‘プランテーション'という言葉は人を定住させることという意味で使われている。後にこの言葉は、プランテーション・システムという生産様式に関連づけられ、より多くに受け入れられている近代的意味を持つようになった。そして、このシステムは、特に17世紀、18世紀において、新世界で進化し、奴隷や犯罪者、出稼ぎ労働者など様々な輸入労働力の形態を組織化することになった。」
コーヒーやサトウキビなど植物を植えつけること、そして、その栽培のための労働力として人々を植えつけること、すなわち、都市を植えつけることが植民地建設である。
単なる移住、移動、移植ではない。人や物が世界規模で移動し始めたことが決定的である。一定の地域で、物の生産、流通、消費が完結していた自給自足的世界、「60日経済」といわれる経済規模であった「ヨーロッパ世界経済」をはるかに超える「遠隔地」が世界経済に繰り込まれるのである。資本蓄積の原動力となるのは「格差」である。あるいは、圧倒的な「量」である。「遠隔地」貿易による時間差、賃金格差、物価、世界資本主義システムは、あらゆる格差を価値増殖に繰り込むシステムである。植民都市はそのシステムを稼働し続けるための装置として建設されたのである。
2 植民都市の特性 The Characteristics of Colonial Cities
植民都市は、以上に見たように、宗主国と植民都市、植民都市と土着社会の二重の支配-被支配関係を基礎にしている。また、植民地と植民都市の関係、植民帝国における諸植民都市との関係、さらには最終的には世界経済システムに包摂される諸関係の網目の核に位置する。そうした様々な関係は、植民都市内部の空間編成として表現される。西欧世界と非西欧世界(文明と野蛮)、宗主国と植民地(中心と周縁)の支配-非支配関係を媒介(結合-分離)するのが植民都市である。
A 複合社会
植民によって形成される植民都市は、様々な住民によって構成される。植民地社会は多民族からなる複合社会plural societyである。オランダの社会学者J. S.ファーニバル は,同一の政治単位内に二つ以上の、人種的要素、宗教的要素など様々な要素、あるいは社会体制が隣接して存在しながら,互いに混合・融合することがないような社会を複合社会と呼んだ。また、イギリスの社会人類学者ラドクリフ・ブラウン は,未開民族とヨーロッパ人の接触以来,両者によって構成されるようになった社会を複合社会と呼んだ。
植民都市においては、西欧人と現地民、エリート層と一般住民とが大きく二分化される。そして、白人と黒人、インディオなど土着民、ムーラート、メスチーソ、ユーレイシアン等混血、クレオール(クリオーリョ)など多人種、多民族によって様々な社会階層が形成される。植民社会を主として構成するのは、
①植民地社会のエリート層を形成する植民地権力ないし植民地帝国権力の居住集団、
②民族混合の、他の植民地あるいは半植民地からの移住集団、
③土着の知識階層、伝統的エリート、
④土着のあるいは域内移住を含む土着の民族集団・部族・クランなどである 。
そして、植民地の経済構造も複合的なものとなる。ファーム・セクターとバザール・セクター、あるいはフォーマル・セクターとインフォーマル・セクターといった対概念でとらえられるが、西欧社会と現地世界、支配層と被支配層の二分化に対応して、世界経済システムと現地経済システムが併存する、二重経済構造が特徴となる。二重経済論を最初に提唱したのはブーケ である。その後、シンガー H. Singer やヒギンズ B. Higgins などの技術的二重構造論と,ルイス W. A. Lewis などの経済的二重構造論が展開される。技術的二重構造論は、近代部門は西欧技術を、在来部門は農業や中小企業の伝統技術を用い、両者の間には労働資本比率,労働生産性,賃金などで大きな格差が存在するとする。経済的二重構造論は、資本主義的な近代部門に対して,労働力供給のプールとなる伝統部門が存在するものとされる。
こうして、植民都市は異質な要素の重層する複合的空間となる。多人種、多民族による文化的背景を異にする多様な住民構成、非土着民による土着民の支配、土着エリート層と一般土着民の二分化、、域外、域内からの移住者と土着民との競合、都市民と農民との寄生的関係など諸対立を内に含む階層(カースト)的社会構成、二重の政治経済構造が植民都市を特徴づけるのである。
B 結節点
植民都市は、西欧世界と現地社会、宗主国と植民地とを結合する。植民都市の起源は、そもそも交易拠点の建設にある。西欧世界では産しない香辛料や貴金属、農業生産物など一次産品を得るのが交易拠点建設の目的である。植民都市は、こうしてもともと港市都市であり、西欧世界と土着の社会の結節点に位置した。西欧世界に必要なものを生産し、輸出する、また西欧世界の製造物を輸入する市場が置かれるのが植民都市である。初期の貿易商人にとって、都市建設は必ずしも必要ない。しかし、継続的な交易のために都市は必要不可欠なものとなる。交易のためには港が必要であり、港を支えるためには諸々のサーヴィスが必要となる。金融や保険も含めて貿易のための組織が定住すれば、その定住者を支える様々な職業が必要となるのである。
植民都市では、諸々の物資が集められ、交換される。それに伴って人々も移動し、混住する。そうした意味で様々な交通の結節空間である。すなわち、植民都市は、ネットワーク関係に基礎をおいて成立するのである。ポルトガル領インドがそうであるように、初期の植民地支配は領土支配ではなく、交易拠点としての植民都市のネットワークに他ならないのである。
C 複写と転送
しかし、植民都市が媒介するのは、単に経済的な関係だけではない。R.J.ホルヴァートは「植民都市は、統治者と被統治者の間の政治的、軍事的、経済的、宗教的、社会的、そして知的中継地である。」 という。
軍事技術、経済システム、キリスト教、・・・すなわち、植民都市空間が媒介するのは、生活様式の全体に関わる西欧的な諸価値であり、西欧文明の全体である。植民地化を正当化する最大の根拠は文明化であった。西欧世界の規範やモデルは植民都市を通じて植民地にもたらされる。植民都市の景観は、西欧都市の複写(コピー)として、西欧の都市計画理念と技術に基づいて形作られる。植民都市に決まって建てられる時計塔(クロック・タワー)は、西欧的な時間(産業的時間)の観念の象徴である。劇場など様々な公共施設の建設は、西欧的市民社会の規範を移入する。A.D. キングは、「植民都市計画の第一の特徴は、母国から植民地社会へ、諸価値と諸イデオロギー(産業資本主義)を輸出することである」 という。つまるところ、西欧化(西欧世界の諸制度)、続いて産業化(産業社会の諸システム)を媒介するのが植民都市である。また、それが文明化であった。
しかし、植民都市は、西欧の文明を一方的に輸出するだけではない。非西欧世界の様々な文物もまた、植民都市を通じて西欧世界にもたらさられるのである。非西欧世界の「野蛮」はエキゾチシズムの対象となり、もの珍しい物品は収集され、剥製にされ、博覧会の展示対象となった。未知の世界は知的探求の対象となり、人類学、民俗学、地理学など近代人文諸科学の成立につながっていく。T.G. マッギーは、「植民都市は二つの文明の相互交渉の結合環」という 。「支配ー従属関係に基因する第三の植民地文化」という概念をA.D. キングは提出する。植民都市は、西欧都市のコピーそのままではない。建築様式は現地の気候に合わせて変化するし、土着の様式もまた大きく取り入れられるのである。それぞれの植民都市における媒介(分離―結合)機能の強度によって様々な植民地文化が生み出されてきたのである。
D 都市村落
植民都市は、植民地社会の支配機構である。土着社会に対して、また、都市の後背地である農村に対して、都市本来の機能をもっている。ただ、全く白人のみによってほとんど現地民との関係をもたずに未開地に建設される場合を除けば、植民都市と母都市(本国における都市)は異なる。要するに、遥かに複合的、重層的な諸要素からなるということであるが、ポイントは土着世界との直接的関係をもち、その内にその要素を取り込んでいることである。そうした意味で、植民都市は植民地社会の縮図(ミクロコスモス)である。
植民都市は、少数の統治者によって支配される。通常、ヨーロッパ人の居住区域と大多数の土着住民の居住区域は空間的に分離される。商館から要塞化された商館へ、さらに要塞へ、という形で植民地拠点は強化拡大されていくが、そこに居住したのは基本的にヨーロッパ人のみである。その段階では、要塞そのものが現地社会との境界線である。次の段階で、城塞都市が建設される。すなわち、その内部に土着住民を含んだ都市が建設される。しかし、その場合もヨーロッパ人と土着住民との居住区域は基本的には分離される。インドネシアの都市史を明らかにするP. D. ミローンは、都市という概念がヨーロッパ人とその活動の集中した拠点のみについて用いられたことを強調している 。
こうした植民都市の建設過程は、西欧の都市とは異なる都市形態を出現させることになる。結果として、都市内に農村的要素を取り込む形態が一般化するのである。オランダ領東インドにおける都市内村落カンポンがそのいい例である。土着の村落の共同体組織や慣習、生活様式は都市内においても保持され続けるのである。
E セグリゲーション
植民都市内における重層的複合的諸関係は、支配-被支配関係を第一原理とする空間的分離によって示される。
マドラス(チェンナイ)に関して、S.J. レワンドウスキーは、植民都市の配置形態が西欧の都市設計のモデルによることが土着住民の居住分離につながることを指摘する。自治体の行財政は、いわゆる「ホワイトタウン」の住む植民地のエリートのために行われ、土着民はその視野外に置かれるのである。S.J. レワンドウスキーは、「ホワイト・タウン」を含む内部のファクトリーと「ブラックタウン」を統括するフォート、フォートに労働力を供給する村落の三つの地区を区別する 。三つの地区は全く密度を異にする。J. E.ブラッシュも、インドの植民都市の二重性が、土着の都市の中心とイギリス人の中心業務地区 (CBD) という二つの中心の明確な密度の差異として表現されると指摘している 。A.D.キングもまた植民都市の居住区の低密度性を指摘し、植民都市の最大の特徴を、土着の都市、カントンメント(軍営地)、市民居住地(シビル・ステーション)の三重の分割にあるとする 。ブリーズも新旧デリーに即して、伝統的土着の居住区、シビルライン(行政官僚、外国外交官)、政府住宅地(鉄道、警察関係)、カントンメント、バスティーbastis bustees(不法占拠地区)、村落地区、郊外スプロール地区という構成要素を列挙している 。
植民都市の形態は極めて多様であるが、基本的には重層的な二項対立をその内に含んでいる。土着の集落とヨーロッパ人居住区(カントンメント、シビル・ラインズ)、土着の民家とコロニアル住宅(バンガロー)、ヒンドゥー寺院やモスクと教会、バザールとショップ、・・・など、異質の要素が空間の分離を象徴するのである。
そして、究極のセグリゲーション・システムを完成させたのが南アフリカである。すなわち、南アフリカにおいては、アパルトヘイト体制が確立され、人種毎の隔離居住が制度化されるのである。黒人住民を一定地域に居住させるホームランド政策は、原住民土地法Natives Land act(1913年)を端緒とする 。黒人は指定用地以外の土地を購入することを禁止された。そして、原住民(都市地域)法が全国的に制定され(1923年)、集団地域法Group Areas Act(1950年)につながる。南アフリカでは、近代都市計画のゾーニング(用途地域性)の手法がセグリゲーションを固定化する大きな役割を果たすのである 。R.J.デイビス らは、「人種と民族集団の分離は、歴史的に南アフリカ都市における社会的、経済的、空間的構成の中心的特質である。」 と述べる。そして、A.D. キングは、「植民都市における景観的特徴は、人種差別である」という 。
3 植民都市の機能と形態 The Function and Form of Colonial Cities
植民都市の起源は、交易拠点として設けられる商館である。そこでの取引、貿易が植民都市の第一の機能である。西欧世界では産しない第一次産品をその製造品と交換することがその原点である。そして、その取引、貿易をめぐって引き起こされる様々な軋轢、抗争に対処するために防御機能が付加される。商館の要塞化、要塞の建設が次の段階となる。また、布教のための拠点として教会や修道院が設置される。交易や布教のための拠点を恒常的に維持するためには、商館員や兵士の常駐が必要とされる。植民あるいは移住の第一歩となる。それとともに市街が形成されることになる。市街地が成長すれば、それを支える後背地も成長する。植民地社会が拡大するにつれて、植民都市は段階的に都市の持つ諸機能を備えていくことになる。
しかし、植民都市の場合、その機能のいくつかを本国の諸都市が代替することによって、ある機能が突出するというのがむしろ一般的である。また、植民都市の成長は必ずしも以上のように単純ではない。植民が複雑なネットワークによってなされるからである。香料貿易の段階から奴隷貿易によるプランテーション開発が行われるようになると植民都市の構成も大きく変わっていくのである。
植民都市のその起源について、例えば、ラテンアメリカの植民都市を単純に機能的な観点からみると、行政ー官僚都市・・・メキシコ、クスコ、リマ、コンセプシオン、ブエノスアイレス、鉱山ー製造都市・・サン・ルイ、ポトシ、ラ・プラタ、貿易ー農業都市・・カルタヘナ、ヴェラクルス、軍事ー宗教都市・・・アスンシオン、ロス・アンジェルス、など大まかに類型化できる 。こうしたレヴェルの類型化であれば一般的な都市の特性を指摘するだけであるだけであるが、植民都市は単一の機能を都市核にして発展したところに特徴がある。スペインの植民地化が典型的であるように、軍事(征服)と宗教(布教)は当初一体であるが、それぞれ独立した形もありうる。宗教都市には、諸会派による宗教コロニーも含まれるであろう。サン・フアン、グアヤキル、サン・プラス、カルタヘナなどは軍港として発展した都市である。
アフリカの場合、当初、城塞ー商館が造られ、後に農産物、鉱産物の集散地となるパターンが一般的である。アフリカのほとんどの近代都市は、行政、貿易、交通の拠点として発達した。ナイロビは1899年に全くの白紙から出発し、まず鉄道駅が建設された。鉱山開発が行われたところでは大規模な都市開発が行われる。北ローデシアやカタンガの町は鉱山会社の企業都市であった。エリザベトビルは鉱山キャンプから都市に成長した例である。一般にアフリカの植民都市の3類型として考えられるのは、土着の構造の上に植民地構造が重ねられる産業ー前産業の混合都市、鉱山開発に関わる都市(中央アフリカ)、沿岸部に設置される商館、上陸拠点(橋頭堡)"beach-heads"などの飛び地"enclaves"である。全く新に建設された都市を加えれば4類型であるが、この4類型はラテンアメリカにも共通に見られる。また、東南アジアについてみると、前産業都市の上に西洋の都市形態を重ねたもの(ラングーン、フエ)、西洋の影響を受けた土着の集落(バンコク)を区別することができるから、土着都市との関係についてはさらに大きく二つを区別できる。
T.G.マッギーは、アジアの植民諸都市を念頭に、政治ー経済的機能を強調し、多機能港湾都市、小港湾都市、小都市、鉄道ジャンクション、地方中心都市、高地リゾートタウン(ヒルステーション)を区別している 。これには、英領インドにおけるカントンメント(兵営都市)やシビル・ラインズのような形態も加えるべきであろう。
植民都市は、まず、その起源における機能、あるいは核となる機能によって、交易(商館)都市、鉱山都市、行政都市、宗教都市、軍事都市に分けられる。この分類が都市の起源もしくは都市の本質 に関わる諸説と一致するのは当然であろう。すなわち、都市の起源をめぐる諸説として、A.剰余説、B.市場説、C.軍事(防御)説、D.宗教(神殿都市)説、E.政治権力説などがあるが、ここでの植民都市の類型は、それぞれの説に当てはまるであろう。鉱山都市は、後のプランテーション都市などを含めて生産を管理する都市である。古来、採集狩猟の時代から、人々は集落を形成してきた。しかし、都市の発生は一般的には農耕の発生と結びつけられて理解される。天水利用による農耕の開始によって定住集落がつくられる。決定的なのは、灌漑技術の発展による生産力の増大であった。集落規模は急速に拡大し、その数が増すとともにそれを束ねる、ネットワークの中心、結節点としての都市の誕生に至る、というのが一般的な生産力理論に基づくA.剰余説である。しかし、余剰というのは、そもそもの都市の起源において、権力によって強制される社会的余剰であるというのがE.政治権力説である。都市を権力の空間的装置とする見方にたてば、C.は当然であるし、B.も前提である。そして、布教や宗教的ユートピアの希求が都市建設に結びつく場合がD.であるとすれば、都市の最も本質的な特性を示すのが植民都市である。まさに「全ての都市はある意味で植民都市」である。その本質のどの局面、機能が強調されるかによってまず植民都市を分類できるということである。
そして、機能の複合度によって、植民都市を分類できる。商館から小港湾都市、さらに多機能港湾都市まで、複合度は都市の規模とも相関する。また、通常、歴史的な形成段階に関わる。
以上に見るように、植民都市を類型化する第2の軸となるのは、既存の都市、土着の都市や集落、後背地との関係である。すなわち、建設されるのが処女地か既存の都市、集落かによって植民都市は区別される。既存の都市という場合、先行して建設された植民都市を含む。また、既存の都市、集落といってもインドやナイジェリアのように長い都市的伝統を持つ場合やアステカ文明のように高度な都市文明を発達させている場合と、人口も少なく、都市の伝統ももたない南アフリカや北アメリカの場合が区別できる。
大多数の場合、既存の都市をベースに改変を重ねて建設される(⑤)が、ほとんど改変を加えなかったザンジバルの例(①)や既存の都市を全く破壊してその上に建設したメキシコシティの例(⑥)がある。また、バタヴィアのように既存の集落をもとに新たな都市が計画される場合(④)、ニューデリーのように既存の都市に近接して建設される場合(②)、ラバトのように既存の都市を無視して距離を置いて建設される場合(③)がある。全く新たに建設される場合も、植民者のみのために建設されたシドニーのような例(⑦)のほか、植民者のみならず土着民も含めて計画されたキングストンのような例(⑧)もある。
要するに、機能分担が現地社会との間で当初どのように行われるかによって植民都市の形態は異なる。西欧人と現地人がどのように棲み分けるか、西欧的都市原理と土着の都市原理のどちらが優越するかによってその性格は異なる。カントンメントや、ヒルステーションは、ほぼ西欧人のみが居住した閉じた空間である。
さらに都市の立地も類型化の軸となりうる。沿岸部か内陸か、低地か高地かは植民都市のそもそもの選地に関わり、特性を規定する。立地はそれぞれの都市の機能に密接に関わっている。また、現地社会との関係も立地に関わる。一般的に沿岸部から内陸へという植民地化の段階を想定すれば、歴史的な形成段階にも関わる。
都市のフィジカルな形態に着目すると、商館、要塞、城塞、市街のように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。商館るいはロッジは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。そこで、要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞が建設される。また、商館とは別に要塞が建設される。商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われる。また、要塞と市街が一体化した城塞となる。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成される。オランダ植民都市については後に具体的に見るが、数多くの植民都市の事例を見ると、以上は歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。あるいは、理念的にも想定できる。
宮崎市定は、中国古代城郭の起源をめぐって、「紙上考古学」と称して、山城式→城主郭従式→内城外郭式→城従郭主式→城壁式という発展形式を想定する 。そして、この発展過程はギリシャ、ローマの都市の場合と共通であるという。植民都市の場合、その発展過程を具体的に示すことができ、そうした意味でも都市の原型といいうるであろう。
植民都市の機能、形態をその起源について一般的に類型化するとおよそ以上のようであるが、その後の歴史的な展開こそが問題である。西欧世界における都市形成の過程と植民都市の形成過程は必ずしも同じではない。「西欧」と「非西欧」の「出会い」はかつてない規模の異質な文明の衝突である。「西欧」による「非西欧」の富の収奪は、近代資本主義成立の本源的蓄積となるほどの大規模なものである。本国と植民都市、植民都市と現地社会、植民都市のネットワーク間の関係は複雑である。従属理論を待つまでもなく、植民都市が西欧都市の発展段階をそのまま踏んで発展してきたとはとてもいえないであろう。何よりも、植民都市を起源とするプライメイト・シティ の存在そのものがその歴史的形成過程の逸脱を示している。植民都市を大きく位置づけるためには、都市化の段階、都市の構造に関わる概念と議論が必要となる。
4 オランダ植民都市の類型 Typology of Dutch Colonial Cities
オランダの海外進出に伴って建設された数多くの植民地(商館、要塞、都市)は、その立地、土着の都市との関係、存続期間、規模、形態、機能など様々な観点から類型化できる。R. ラベンRabenは、オランダ植民都市の共通点を以下のように指摘している 。
(1) 河口か入江、島に立地する。
(2) 行政、軍事、経済の中心は四角形か五角形の要塞か城塞である。ただし、ポルトガル支配から引き継いだものは例外となる。
(3) 付属する街は、城壁がある場合も無い場合も、要塞からは、オープン・スペースによって切り離されている。
(4) 直交する街区形態が好まれ、一本の中心的街路(もしくは運河)が都市の長軸方向に走る。
(5) 都市の中心は、完全ではないが幾何学的なグリッド・パターンをとる。地形への柔軟な対応が行われ、幾何学的完全性は必ずしも徹底的ではない。
(6) 住宅地の敷地割りは、不規則で比較的小さくて狭い。特にオランダと比べた場合顕著である。住宅の配置は、無計画で厳密に検討されていない場合が多い。
スペイン植民都市の場合、フェリペⅡ世の1573年の教書に代表されるようなインディアス法に規定されるモデルや計画指針があるが、オランダ植民都市の場合、必ずしも直接的な計画指針があるわけではない。ただ、以上のような共通性は一般的に認められるし、オランダ本国における都市計画の伝統が植民地にも用いられていることは明らかである。また、S.ステヴィンの「理想港湾都市」のモデルも知られている。詳細な検討は後の課題とし、ここでは都市形態についてみよう。
都市形態、街区形態に焦点を置く際に手掛かりになるのは残された地図や絵画資料である。幸いハーグの国立公文書館(ARA)には膨大な地図資料が系統的に残されている。その膨大な地図資料を整理することによって、ファン・オールスRon van Oers は、157のオランダ植民都市(VOC管轄:南アフリカ6、東インド87、WIC管轄:西アフリカ26、アメリカ38)をリストアップしている。そしてさらに都市図が残る39の都市と残された全ての図のリストを列挙している。ただ、その中には重複や混乱があり、不明のものもある。
ファン・オールスは、その中から都市の空間構成が読みとれる18の都市を選定し、その分類を試みた。18の都市とその立地、規模、街路形態、全体配置・構成は、表4-1の通りである。
ファン・オールスの分類は設計の理念を問題にするのであるが、その分類軸選定の意図はいまひとつはっきりしない。無名のデザイン を含むのは解せないし、植民都市の土着化、変容、転成を問題にする立場からは別の分類軸が必要となる。いま少し厳密な類型化を試みよう。まずここで問題にするのは空間構成であり、形態である。
極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。
表4-1(略) 都市 建設年 規模
k㎡ 立地
○:処女地
V:土着の都市集落 全体配置
C:閉鎖
O:開放 街路形態
R:規則的
IR:不規則
G:グリッド 要塞の形
Q:四角
P:五角
C:城塞
O:その他 全体構成
T:要塞+市街+周辺居住地
D:要塞+市街
E:城塞市街一体
Amboina 1605 0.40 Pポルトガル C R Q T
Batavia 1619 1.40 V○ C R Q D
Recife/Mauritsstad 1630 1.32 P C IR QP D
Willemstad 1634 0,12 ○ C R Q D
Galle 1640 0.56 P C R C E
Malakka 1641 0.60 VP C R C T
Negombo 1644 0.37 P C G Q D
Kaaostad 1652 1.30 ○ O G QP D
Colombo 1656 0.98 P C R C T
Cochin 1663 1.20 VP C R C E
Paramaribo 1667 4.00 ○ O G P D
Pondicherry 1693 2.34 Fフランス C G Q D
Semarang 1708 0.24 V C IR P E
Philipsburg 1734 0.37 ○ O R O D
Surabaya 1743 0.30 V C R Q T
Stabroek 1748 3.00 ○ O G O D
Unnamed Design 1780 5.00 ○ O G O D
Nieuw Amsterdam 1788 0.98 ○ O G O T
都市のフィジカルな構成という観点から、囲われた空間に着目すると、商館factorij、要塞fort, vesting、城塞kasteel、市街stadのように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。
A 商館 factory
B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory
C 要塞 (+商館)fort(+factory)
D 要塞+市街 fort+city
E 城塞 castle
F 城塞+市街 castle+city
Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は基本的には戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。
商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、民居を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。
植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、例え商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。
数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる 。従って、どの段階をもって類型化するかが問題となる。当然のことながら、歴史的な時間の経過とともにひとつの都市も形態や機能を変えて行くのである。そうした意味では、予め全体計画がなされているかどうかは分類の大きな視点となる。ここではまずオランダが関与した過程の最終段階を問題にしよう。A~Fの分類によって、その起源の形態はおよそ把握できる。
一時的に建設された商館、そして要塞の数も合わせて数え上げればその数は膨大になる。A. F. ランカーLancker(1987)は全ての要塞を地図上にプロットしている。バタヴィア周辺だけでも無数の要塞が建設されている。
まず、商館、要塞、城塞の形態の類型をめぐるケース・スタディとしてスリランカをみてみたい。
キャンディー王国と手を結んだオランダは、1639年3月にトリンコマリーTrincomali、1640年2月にネゴンボNegomboを奪還し、3月にはゴール攻略に成功した。この後、オランダと当時ポルトガルを領有していたスペインとの間で休戦協定(12年協定)が結ばれたため、戦争は一時休止することとなる。支配領域の確認が行われ、オランダは1645年に最初のセイロン総督を任命している。オランダは統治区域を3つの「司令区」に分割し、西部のコロンボ司令地に総督を、南部のゴール、北部のジャフナJaffnaに副総督を配した。そして、数多くのの要塞を建設する。スリランカについてA. F. ランカーは21のフォートをプロットしている。B.Van リアLierの地図(1751年)には22のフォートの平面図が描かれている。
そのフォートは、いくつかに類型化できる。まず、城壁をもたない仮設的なものがある。仮設型は、野営地を木製の防御柵で周囲を囲っているだけで、平常時には監視のためのごく僅かな駐屯兵がいるのみであった。恒久的な要塞は、矩形のものと多角形のもの、その他を区別できる。矩形のものには、稜堡bastionの数によって、対角線稜堡配置型と四隅稜堡配置型がある。
1 仮設型:アクレッサAkluressa、ハクマナHakmana
2 矩形
2a対角線稜堡配置型:プーネリンPoonerine、カトゥワナKatuwana、エレファント・パスElephant Pass
2b四隅稜堡配置型:バティカロアBatticaloa、マナールMannar、カルピティヤKalpitiya
3 多角形型:ネゴンボ、ジャフナ、ハンウェラHanwella、マタラMatara
4 特殊型:ポイント・ペドロPoint Pedro、ハンバントタHambantota、トリンコマリーTrincomalee
以上は要塞機能のみを有するもので、通常100人程の駐屯兵が配された。中央には大きな広場が位置し、これを囲み城壁沿いに兵舎、倉庫及び病院、店舗等が配される。ゲートに近接して警備室が置かれ、稜堡下には火薬庫、周辺には武器庫が配される。また貯水槽が籠城の際の水供給源としてフォートに不可欠な要素として置かれた。
5 城塞都市:ゴールGalle、コロンボColombo、ジャフナJaffna
それに対して、要塞都市と呼べるのが、ゴールGalle、コロンボColombo、ジャフナJaffna である。この三つは行政センターとしての役割も兼ねており、当然、フォートは大規模なものとなった。半島を要塞化したゴールは、不整形であり、城壁には多数の稜堡が配された。フォート内には駐屯兵だけでなく、商人、職人、東インド会社従業員等多数の人々が居住した。
都市全体が防御壁で囲われるのが要塞都市であるが、ゴールとコロンボには構造の違いがある。すなわち、ゴールが上述したEのタイプであるのに対して、コロンボはFのタイプである。そして、コロンボの場合、城塞と市街の間に緩衝地帯が設けられているのが特徴的である。この城塞と市街の間にエスプラナードを設ける形式は英国植民都市のボンベイ、チェンナイ、カルカッタなどに引き継がれていくものである。
スリランカの22の植民拠点(商館、要塞、城塞)は以上のようであり、先のA~Fの分類パターンに収まることを確認できるが、オランダ植民都市の全体はどうか見よう。オランダが建設した商館、要塞は無数であり、ここでは短期しか存続し得なかったものは除こう。大半はA~Cに分類される。
デン・ハーグの国立公文書館(ARA)に地図が残されている157の植民拠点、植民都市のうちR.ファン・オールスが存続期間を明らかにしていないものがあるが、他資料も参照しながら一定期間存続したものをリストアップし、そのうち都市のレイアウトが表現された都市図が残されている都市は、R.ファン・オールスが不明としその後ジョージタウン(ガイアナ)と判明したものも含めて整理し直すと38となる。
都市の内部構成、すなわち、基幹構造、施設分布、街区構成、住居類型などをめぐっては、個々の都市誌を分析した上で論ずることになる。
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