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2021年2月25日木曜日

景観・風景・ランドスケープ Notes on Theory of Landscape Design

traverse08 2007 新建築学研究08 
景観・風景・ランドスケープ 景観論ノート01 
布野修司 
Notes on Theory of Landscape Design 
Shuji Funo 

  

 ニッポン放送に「菅原文太 日本人の底力」というラジオ番組がある。「俳優・菅原文太が各界で“地に足をつけた生き方をしている”客人(ゲスト)をお迎えし、客人との対談を通して、日本の本来あるべき姿を探っていく対談番組」である。

 その番組に、突然「客人」として招かれた(二〇〇六年一二月三日放送)。『京都新聞』で担当していた「私の京都新聞批評」の一文「景観と観光」(二〇〇六年一〇月八日)が、たまたま京都の撮影所にいて眼に止まったのだという。錚々(そうそう)たる客人のリストを見せられていささか怯んだけれど、生来の文太フアンであることを言訳に、厚顔にものこのこ出かけていった。そして冷や汗をかいた。本稿のもとになっているのは、その時の冷や汗である。

 問題の一文は、以下のように書き出されていた。

「「美しい国へ」というのが九月二六日に発足した安部新内閣のスローガンだという。「美しい国」と言われれば、「美しく」なくなりつつある「国土」を反射的に思う。具体的で身近な都市景観のことである。

 景観の問題は、かねてから京都が深刻で、景観法の施行とともに新たな課題と意識される眺望景観について危機的な現状が報告された(「鴨川から見た東山、京都御苑 二七眺望緊急対策必要」、九月一七日朝刊京都・滋賀総合面)。「景観は京の宝」(上田正昭、「天眼」、六月一七日朝刊)である。湖国近江にとっても景観が命であることは言うまでもない。東海道山陽新幹線から見える景観の中で、米原―京都間が最も美しいと思う。水利の秩序を基にした集落景観がよく残っているからである。しかし、滋賀でも、この間たびたび県南部のマンション建設ラッシュについて景観問題が報じられてきた(五月二五日朝刊滋賀社会面「クリックしが」など)。大津市中心街の区画整理頓挫(「地権者の合意確保が壁、景観配慮、今後の鍵」、九月一八日朝刊)は、問題の根を物語っている。・・・・」(『京都新聞』「私の京都新聞評」、二〇〇六年九月一〇日)

 菅原文太さんは、「安部首相は、「美しい国へ」とおっしゃるけれど、仕事柄日本全国を回っていると、日本は美しくなくなりつつある、日本の景観は壊れてしまっている、どうしてでしょう、どうしたらいいでしょう」と、例のドスのきいた声で、つぶやくように語り出された。

「景観が壊れてしまっている」という言葉に、得も言われぬ重みがあった。

 

一〇年住んだ宇治市(京都府)で都市計画審議会、都市景観審議会の委員を務めている。世界遺産にも登録されている平等院から巨大な壁となって見えるマンション建設の問題で、この間四苦八苦した。また、宇治川の河川改修で万葉集に詠われた景観が損なわれるという問題に今直面している。

 生まれ故郷の松江(島根県)では、もう一五年も「しまね景観賞」選定委員会の委員を務めているが、「京都駅」を超える高さの建物の建設をめぐって、さらに宍道湖の夕陽を望むマンションの建設をめぐって、苦い経験がある。そして、現在も、宍道湖と中海を繋ぐ大橋川の河川改修に伴う景観問題を考えさせられている。大橋川は、ある時は左から右へ、ある時は右から左へ流れる世にも不思議な川である。汽水でシジミが採れる。子どもの頃、泳いだ。魚を釣った、そんな川に戻って欲しい。

本稿では、いささか迂遠のようであるが、「景観問題」を考えるための基本的な概念を整理してみたい。そもそも、「景観」あるいは「風景」とは何か。「景観」あるいは「風景」という言葉、概念によって何が問題とされるのか。

「景観」という日本語は、以下にすぐ見るように、ドイツ語のランドシャフトLandshaftの訳語である。西欧語では、フランス語のペイサージュpaysage、オランダ語のラントシャプlandshap、英語のランドスケープlandscapeなど類語がある。そうした西欧語の概念を含めて、その意味と拡がりを見る必要がある。様々な分野で様々な議論があるが、ここでは、いわゆる「景観論」あるいは「風景論」をめぐって、その「論」の基本的問題、構成を確認しておこう。いわば、景観原論である。

 

 「景観」と「風景」という言葉の原義をまずみよう。

手元の辞書によると、例えば、次のようだ。

「景観」:風景外観、けしき、ながめ、また、その美しさ。自然と人間界のこととが入りまじっている現実のさま(広辞苑)。

1)けしき、ながめ、特に、すぐれたけしき、(2)〔ドイツLandschaft〕人間の視覚によってとらえられる地表面の認識像、山川・植物などの自然景観と、耕地・交通路・市街地などの文化景観に分けられる(大辞林)。

「風景」:けしき、風光、その場の情景、風姿、風采、人の様子(広辞苑)。

〔「景」はひかりの意〕(1)目の前にひろがるながめ、景色、(2)その場のようす、情景(大辞林)。

 二つの辞書では、以上のように、いずれも、第一に、「けしき(景色)」、「ながめ」、という共通の語で説明されている。また、「美しさ」あるいは「すぐれた」という価値意識と結びつけられている。また、「情景」、「風光」、「風姿」、「風采」といった類語が見える。

 こうした類語を含めると、「景観」あるいは「風景」という言葉によって、何が問題とされるのかが、およそ浮かび上がってくるであろう。

 

「景」

「景」は、「日」の「京」と書く。「京」は光のことである。すなわち、日の「ひかり」あるいは「ひざし」を意味する。「観」は「見ること」「ながめること」である。すなわち、「景観」の原義は「ひかりをみる」ことである。「みる」行為を主体的な行為と考えるか、視覚の知覚作用一般と捉えるかによってニュアンスは異なるが、一般的には視覚(光)によって捉えられた世界が「景観」である。端的には、眼に映ずるものが「景観」である。尤も、「観」は、「見ること」、「ながめること」から、「見解」、「みかた」という意味を含む。仏教では「真理を観察すること」、また、「細かな分別心」をいい、「達観」という言葉がある。さらに、「観念」という言葉が派生し、「宇宙観」「世界観」という「○○」「観」という「観」がある。しかしは、ここでは「観」のこの意味の拡がりは置いておこう。

「景」には、およそ以下のような用法がある。

A. 地景、野景、山景、

B. 煙(焔)景、雪景、

C. 曙景、夕景、暮景、晩景、夜景、春景、秋景、

D. 真景、実景

E. 佳景、勝景(景勝)、絶景、奇景、致景、美景、

F. 遠景、近景、前景、後景、小景、全景、点(添)景、背景、借景、倒景

G. 一景、三景、八景、三六景

 Aは、自然・地形に関わる景観である。水に関わる言葉を日本では一般に用いないが、水景waterscape、川()riverscape、湖景、海景seascape・・・などがありうる。一般的に「場景」という言葉があり、その場の「光景」をいう。「景」は「ひかり」という意味だから、「光景」は同義重複である。B.は、気象に関わる自然の景観を表わしている。クラウドスケープcloudscapeという英語があるように雲景という言葉があってもおかしくない。C.は、一日の、あるいは一年の、時の変化に関わる。一般に、「時景」という言葉もある。D.は、虚景、幻景という言葉はないかもしれないが、「景」の虚実に関わる。E.は、景観の評価に関わる。いずれも美しい景観という意味である。F.は「景」の構図に関わる。G.は、美しい景観を数え上げる、風景を数え上げる(ナンバリングする)数である。

光の様々なあり方、視覚の様々な作用を区別する実に多様な用法があるものである。「朗景」とは、明るいながめのことであるが、暗景、闇景とは言わない。「景」はひかりだから当然である。「景色(けしき、けいしき)」とは「景(ひかり)」の「色」である。経済活動について専ら使われる「景気(景況)」という言葉も、もともとは、様子、けはい、ありさま、そして、「景観」、「景色」、あるいは、「景観」を添えるもの、という意味である。「此島の景気を見給ふに、心も詞も及ばれず」などと、和歌、連歌、俳諧で、景色や情景をありのままに詠んだものが「景気」である。

「情景」(景情)となると「情」が加わる。単に視覚の作用のみに関わるとは言えない。「景」といっても、視覚に限定されない用法の拡がりがある。それが「風景」である。

 

「風景」

「風景」は「景」に「風」が加わる。「風」は、一般に「かぜ」と読んで、空気の流れを意味する。ただ、「ふう」と読むと、様々な意味が加わる。

風雨、台風:かぜ、かぜが吹くこと

②風習、風俗、家風:慣習ならわし

③風雅、風流、風情:おもむき、あじわい、様子

④風貌、風采:なりふり、すがた

⑤風教、風靡:なびかせること、教え

⑥風評、風聞:それと伝わること、世間の評判

⑦風邪、中風、風病:病気

「風」とは、もともと中国では、「詩経」の六義(賦・比・興・風・雅・頌)の一を意味し、各地方(国)の民謡、をいう。日本でも、ある範囲の土地や社会にみられる生活様式、ならわし、という意味で、広く使われる。○○風のように名詞の下に付くと、それに類する、その趣がある、などの意が添えられることになる。「風景」には、この中国での意味も含まれている。すなわち、「民」の「謡」、すなわち、それぞれの土地や地域の「音」が含まれているのである。

景観が、「観」、すなわち、専ら視覚によるとすれば、風景は、「景(光)」に加えて「風」をとらえるのであるから、視覚に加えて、聴覚や触覚、さらには嗅覚も加わっていると考えられる。「風」は、はためくもの、あるいは雲や煙など、視覚によっても感じられるけれど、肌でも感じられる。風によって何かが音を出せば、耳でもわかる。「詩経」六義の「風」が、各地方の民謡というのも音である。臭いも風が運んでくる。

桑子敏雄『環境の哲学』[1]も、「「風景」とは「風と光」であり、「景色」や「景観」と異なるのは、「風」を含んでいる点である、という。「風景」は「景色」と同様に、視覚的経験によって与えられるが、風は大気の流動であるから直接には見ることができない。ただ、雲の動きや木の葉のそよぎ、水面に生じる波やなびく煙の様子によって、間接的には見ることができる。さらに、運ばれてくる梅の香りによっても知覚されるであろう。こうして「風・景」は、視覚のみならず他の感覚によって総合的に知覚されるものである。」と明快にいう。そして、「風」を読んだ西行[2]の歌などに触れた上で、「風景」を「身体の配置へと全感覚的に出現する履歴空間の相貌」と定義する。

「風」と「光」とで眼前に広がる世界をとらえたものが「風景」であるが、「風」が運ぶものは光に限らない。「景観」と「風景」を使い分けるとすると、第一に、以上のように、対象を捉える感覚のうち、視覚を基本とするか、視覚を含む全感覚によるかどうかによって区別できるだろう。

そして、さらに対象への働きかけに違いがある。

 

ランドスケープ

「景観」という言葉は、日本古来の言葉ではなく、植物学者の三好学がドイツ語のラントシャフトLandschaftに与えた訳語である。

一方、「風景」という語は、中国伝来である。「景色」、「光景」という言葉も、古くから用いられてきた。中国で、「風景fengjing」という語の最も早い用例は、三~四世紀ころの『世説新語』[3]に見えるという。また、「風光」という語は、六朝・隋・唐から使用が盛んになる。

自然」を「光」と「風」で捉える見方、精神は、必ずしも普遍的ではない。中国で、「風光」という言葉が成立するのは、六朝期における「自然」観照の態度の確立と関連している。それ以前には、「自然」が比喩的な意味をもって人間にひきつけて見られていたのに対し、「自然」を独立した対象物として眺めることが可能となり、「風景」という概念が成立するのである。すなわち、「風景」という概念をめぐって、根本において問われているのは、「自然」観であり、「自然」認識である。すなわち、そもそも、「自然」とは何か、という大問題が基底にある。そして、上に確認したように、一般には「自然」景観のみならず「文化」景観、すなわち「自然と人間界のことが入りまじっている現実のさま」が、日本語の「景観」「風景」には含まれている。

「景観」あるいは「風景」という言葉は、それ故、もう少しグローバルに検討しておく必要がある。

ドイツ語でラントは「土地・田舎・地方・国土」を意味し、ラントシャフトは「地方行政区域」を意味する。意訳すれば、「土地性」あるいは「土地の姿paese」ということになる。いずれにせよ、ランドスケープには(土)地(ランド)あるいは「地域」という概念が含まれているのである。

英語もドイツ語もオランダ語のラントシャプlandshapが基になっているという。そして、「土地の姿」という原義は、フランス語のペイサージュも同様で、オギュスタン・ベルクに依れば、ペイサージュという概念は、一六世紀のフランドルにおいて現われたのだという[4]。「自然」を絵の背景ではなく、それ自体として描いたフランドル派の画家たちの登場によって、ペイサージュそしてラントシャプが成立する。そして、オランダ語のラントシャプが口語英語のランドスキップlandskipを経て、ランドスケープになったという。スケープscapeという言葉は、基本的に「景」と考えていいだろう。ランドスケープを直訳すると、「(土)地景」である。ただ、「地景」というと、それこそ「地形」=土地そのもの(地面)のかたちを連想させる。そこで、より一般的に「景観」という訳語が選ばれたのであろう。

「景観」も「風景」も、日本語それ自体には、対象は含まれていない。しかし、以上に明らかなように、「自然」あるいは「土地」、「地域」をどう観るか、が、その前提である。「自然」それ自体を、対象として捉えるという知覚のあり方、認識そのものが、「風景」あるいは「ランドスケープ」という概念の成立に関わっているのである。そうした意味では、「ランドスケープ」の訳語としては、「風景」の方が適当であるように思える。しかし、ランドスケープという概念の成立が、近代における「風景画」[5](日本語では「景観画」とは言わない)の成立と関わる[6]、とすると、中国で遙か前に成立してきた「風景」をそのまま訳語とするのは問題である。中国には「山水画」[7]の伝統がある。

中国伝統の「山水shansui」あるいは「風水fengsui」といった概念と「風景」という概念の関係は興味深い問題である。

「風景」という日本語の現象学的分析として、内田芳明著『風景とは何か』[8]が、実に要を得ている。「風景」とは、「風情」-「情景」である。すなわち、「風景」というのは、「情」を挟んで成り立っている(「風(情)景」)と解釈できる。「風景」は、情、すなわち、心と感情を含んだものである。

そして、「風景」にしても「景観」にしても、「主として主観性を示している、あるいは主情性に溢れている」のに対して、西欧語のそれ、ランドスケープは、「対象性、客観性そして場所性を示している」という。「日本のばあいには、対象についての主観的な感じ方、感情性、自分中心の好みや感じ方の方面が主として表現されているのに、西欧のばあいには主我性、主観性から一応自由に、外界にある土地について、その地理的空間性、風土生活環境の場所性(トポス性)と形状性(ゲシュタルト)、それらの特徴が「風景」だと認識されている」とされる。

対象の客観的特質とそれをとらえる主観的把握という、洋の東西での力点の違いは一般的に指摘されるところである。オギュスタン・ベルクは、「西欧の景観、日本の風景」[9]という。内田芳明の場合、「景観」を「自己中心の主観的な身勝手な見方をあらわすもの」、「対象の部分を断片化する見方」として、現象学的概念としての「風景」と区別している。しかし、「景観」は、以上のように、もともと翻訳語である。オギュスタン・ベルクに従って、ここでは、西欧的概念としての「ランドスケープ=景観」の概念と中国・日本の「風景」を区別しておこう。

「景観」というのは、土地の客観的な姿に関わり、「風景」は、土地に対する主観的思いに関わる。別の言い方をすると、「景観」とは「われわれが見るWe see」であり、「風景」とは「私が観るI see」である。「風景」が単に視覚によって「観る」ものではないことは以上に確認した通りである。

 

「自然」

「景観」も「風景」も、その語義には対象を含まないけれど、「自然」あるいは「土地」の知覚あるいは認識に関わる概念である。「景観」と「風景」という言葉が、それぞれの「自然」観、「土地」観に関わっていることは、以上のたどたどしい定義からも窺えるところである。

「自然」とは何か。「土地」とは何か。「自然景観」と「文化景観」は、どう区別されるのか。そもそも「自然」とは何か。「景観戦争」において、しばしば「自然」であるかどうかは争点になる。

中国語の「自然」は、「自らある状態」あるいは「自らあること」を意味する。「人為を加えず、本来のままである」、いわゆる「無為自然」である[10]。この中国語の「自然」がそのまま日本語に入ってきたと考えられる。もともとは「じねん」と読んだ。重要なのは、「自然」が、ある状態(「然」)を表す言葉であり、存在を示す言葉ではない、ことである。

 「自然」という概念、言葉が日本にそのまま持ち込まれたことは、様々な用例によって明らかにされている。空海の『十住心論』には「経に自然(じねん)というは、いわく、一類の外道を計すらく、一切の法はみな自然にして有なり、これを造作するものなし」(巻第一)とある。この「経に自然というは」の「自然」は、サンスクリットのsvabh´va(「自ずからあるもの」の意)の訳だという。仏教の自然観を考える上で興味深いが、空海がこれを「大唐にあるところの老荘の教えは天の自然の道に立つ。またこの計に同じ」と言っていることも興味深い。時代は下って、親鸞には『自然法爾(じねんほうに)』がある。「自然(じねん)」は、人為的でなく、おのずからそうあることを意味する形容詞また副詞として用いられるのが一般的であった。安藤昌益の『自然真営道』においても、「自(ひと)り然()す」活真というように、形容詞として用いられている。

「自然」が森羅万象の対象的世界一般を指す名詞となるのは、蘭学が導入され、オランダ語のナトゥールnatuurの訳語となってからである[11]。オランダ語のナトゥールや英語のネイチャーnatureのもとは、ラテン語のナトゥラnaturaである。ナトゥラは、「生まれるnascor」という動詞から派生した言葉で、ギリシア語のフュシスphysisの訳語である。フュシスもまた「生まれる、生じるphyomai」という動詞から派生した言葉で、おのずと生じたもの一般を意味し、人工の規則や慣習であるノモスnomosの対語となる[12]

要するに、「自然」も「ネイチャー」も、「人為が加えられていない」という意味であるが、その「状態」をいうのか「対象」をいうのか、生き方や在り方のある価値的状態を表わすのか、自ずから生じた「もの」を意味するか、洋の東西で異なっているのである。

人為か自然か、という区別は、「自然景観」と「文化景観」の区別に繋がる。しかし、今日、人為の加わらない「自然」など果たしてあるであろうか。

例えば、人跡未踏の地など地球上にほぼないのではないか。チョモランマの登山道のゴミが問題になる時代である。人類の探検の最前線は宇宙である。もちろん、個々の人為によって変わることのない素晴らしい「大自然」は、地球上に今猶存在している。しかし、異常気象が取り沙汰されるように、人為は地球の環境全体、気候までも左右するに至っているのである。すなわち、今日「自然」には何らかの人為が加わっている。従って、われわれが目の当たりにする景観は、基本的に「文化的景観」といっていいのである。

人為と自然をめぐっては、さらに興味深い議論がある。極めて手入れの行き届いた杉(例えば北山杉)の林と下草が繁茂する原生林を比べると、日本人の多くは前者に「自然」を感じる、というのである。すなわち、人為が加わらないことが、必ずしも「自然」と思われない場合があるということである。「自ずからある」という原理がそこにはないからである。

問題は、自然と人為の関係が根底的に変化してしまっていることである。近代科学技術の依拠する「自然」観は、基本的に、自然は人間とは別の独立した外的な対象であり、人間が支配しうるものだと考える。あるいは、征服しうるものと考える。そうした自然観が支配的となることによって、事実、「自然」は、一貫して「人工化(人工環境化)」しつつあるのである。

「景観」あるいは「風景」の対象となる「自然」は、以上のように、外的な対象としての「自然」ではない。「自ずから然る」中国・日本の自然観に立ち帰るとすると、今日的には、「自然」をひとつの「生きたシステム」として、捉え直す必要があるだろう。「生きたシステム」としての「自然」は、要素の単なる機械的寄せ集めではなく、要素間の緊密な相互作用をもつ全体である。そして、人為の加わらない自然が既にあり得ないとすれば、人間は「自然」のシステムの外にあるものではなく、まさにその一員として、「自然」のシステムと調和していかねばならない。いわゆる「自然との共生」である。

 

アラビア半島のオアシス都市に住む人々は、沙漠に遠足に行くのを楽しみにしているのだという。日本人の感覚からするととても理解できないのであるが、世界には様々な土地、そして「風景」、「景観」がある。

「日本」に関わる、いくつかの代表的「景観論」「風景論」「風土論」をみよう。この場合、「日本」という枠組み自体が問題となる。問題は、「土地の姿」であり、日本も北から南まで、様々な土地の景観があるのであって、「日本」という景観や風景を一括できるかどうかは、別の次元の問題、「日本文化」論の問題となる。しかし、「日本」を、どこか別の地域「○○」(例えば、アラビア半島、例えば、出雲)に置き換えても、基本的に同じ問題は議論できる。土地を越えて伝播するものが「文明」であるとすれば、土地に拘束されるのが「文化」である。

「景観」を考えることは、「日本」のみならず、「世界」の「土地の姿」を考えることである。

 

「風水」

中国には古来「風水」という説、理論がある。土地をどうとらえるか、どう「景観」をつくるか、について、極めて実践的な知、あるいは術の体系とされるのが「風水」説である。中国で生まれ、朝鮮半島、日本、台湾、フィリピン、ヴェトナムなど、その影響圏は「中国世界」周縁に拡がる。今日、フェンスイfeng shuiあるいはチャイニーズ・ジオマンシー(中国地相学)と言えば、世界的な流行でもある。

「風水」は、「地理」「地学」ともいう。また、「堪輿(かんよ)」「青烏(せいう)」「陰陽」「山」などともいう。「地理」「地学」といえば、なんとなく理解した気になるが、[風水]書と呼ばれる書物群は、一般的に「風水」という言葉を冠さず、「地理」の語を書名に含むものが多い[13]。「地理」は「天文」に対応する。すなわち、「地」すなわち山や川など大地の「理」を見極めることをいう。

「堪輿」は、もともと吉日選びの占法のことで、堪は天道、輿は地道を意味する。「陰陽」は、風水の基礎となる「陰陽論」からきており、「青烏」は、『青烏経』という、伝説上の風水師・青烏子に仮託された風水書に由来する。「山」は、「山師」の「山」である。山を歩いて(「遊山」「踏山」)、鉱脈、水脈などを見つけるのが「山師」である。

「風水」は、「風」と「水」である。端的には気候を意味する。風水の古典とされる郭璞(かくはく)(二七六~三二四)の『葬経』に、次のような有名な典拠がある。

「風水的首要原則是得水、次為蔵風」

風水の基本原理を一言で言い表すとされる、いわゆる「蔵風得水」(風をたくわえて水を得る)である。

また、風水の中心概念である「気」も次のように説明される。

「夫陰陽之気噫為風、弁為動、斗為雷、降為雨、行乎地中而為生気」

陰陽の「気」が風を起こし、動きを起こし、雷を鳴らし、雨を降らし地中に入って「生気」となる、というのである。

風水説は、この「気」論を核に、陰陽・五行説、易の八卦説を取り込む形で成立する。管輅(かんろ)(二〇八~二五六)ならびに上述の郭璞が風水説を体系化したとされるが、とくに江西地方と福建地方に風水家が多く輩出し、流派をなした。地勢判断を重視したのが形(勢学)派(江西学派)で、羅経(羅盤)判断を重視したのが(原)理(学)派(福建学派)である。

風水説は、専ら、術として用いられた。最も吉相と見られる地を選んで、その地に都城、住居、墳墓をつくらせる地相学、宅相(家相)学、墓相学と結びつくのである。生人の住居の場合を陽宅、墓地の場合を陰宅とよぶ。陽宅風水が、いわゆる家相である。顧客のために吉相の地を鑑定する職業人を「地師」「堪輿家」「風水先生」「風水師」などと称する。

風水説の理論的諸問題については、それを論じる少なからぬ書物に譲ろう。

風水説は、「迷信」あるいは「疑似科学」として、科学的根拠に欠けるものとして位置づけられてきた。また、風水説には、流派があり、諸説があって、その体系が全体的に明らかにされているわけではない。風水ブームとされるが、根拠や典拠が明らかにされない、占いの一種という扱い、も少なくない。ただ、風水説には、それこそ「風水」「地理」の伝統的な理解、「景観」「風景」の読み方が示されているという期待がある。ここでの関心もその視点にある。

中国では、社会主義体制において基本的に風水説は否定され、顧みられることはなかった。しかし、この間、その見直しが進められ、建築、都市計画に関連しては、風水説を環境工学的に読み直す多くの書物が著されつつある[14]

風水説は、まず、世界の地理について、その全体像(「天下の大幹」)を述べる。また、王朝の都、帝都の選地が問題にされる。そして、具体的な手法として、「龍法」、「穴法」、「砂法」、「水法」の「地理の四科」が説かれる。「龍法」は、生気が流れる筋道、「龍脈」を見つける方法、「穴法」は、生気が濃密に集まる点、「龍穴」を見いだす方法、「砂法」は、「龍穴」の周囲を囲う方法、「水法」は、水を流す方法である。「龍脈」とは山脈のことであり、砂とは山のことである。風水では、龍が隠喩として極めて象徴的に用いられる。「龍法」の見立てとして、生龍、死龍、強龍、弱龍、順龍、逆龍、病龍、殺龍などの類型が用いられる。「穴法」も、「穴形」などについて、いくつかの類型論が展開される。「龍法」も「穴法」も、「景観」の構成要素とその配置、すなわち「景観の構造」に関わっているのである。

「風水」説として一般に流布するのが、「四神相応」(青竜=東、朱雀=南、白虎=西、玄武=北)である。これは、平安京=京都がこれに基づいたとされるように、都市計画、その軸線計画に関わる。「穴」の前の朝山、案山、背後の楽山、羅城、水口の諸山などを砂を盛って配置する模型をつくったのである。「水法」は、様々な水源、水流の形を評価する。水をその形態から様々に分類し、その得失(吉凶)を述べるのである。

風水が今見直され、ブームと呼ばれるほどに関心を呼ぶのは、以上からそれなりに理解できるのではないか。「風」にしても「水」にしても、台風、洪水、水不足など、今日も、我々は悩み続けているのである。

中国から「風水」説が伝わった朝鮮半島では、三国時代にはすでに都邑の選地(占地)の論拠として重視された。新羅末から高麗初にかけて道詵(どうせん、どうしん)によって体系化されたとされる。朝鮮の風水については、村山知順の大著『朝鮮の風水』[15]がある。

道詵は朝鮮の地形を舟形とみなし、太白山・金剛山をその船首に、月出山をその船尾と見なし、舵を扶安の辺山、櫂を智異山、腹部を雲住山に当てた上で、国家安寧のためには、すなわち、舟を安定させることが必要で、要所に寺塔を建て仏像を安置すべしと唱えた。この大きな構図、マクロな地理観は、朝鮮半島の一体的把握につながるであろう。風水説は、高麗朝においても、風水は仏寺建立と結びついて重んじられた。また、王都の選地にあたっても、「風水」は重視され、しばしば遷都論の論拠となった。李朝初の鶏竜山への遷都計画やソウルへの遷都も風水説に拠った。

韓国社会において、「風水」が現在もなお、少なからぬ意味をもっていることは、序章で述べた。「日帝断脈説」[16]による「国立博物館(旧朝鮮総督府)」の解体という事件である。また、墓地の選定など、一般庶民の間で、「風水」への関心は高く、風水師に鑑定を依頼するのは珍しくない。

ところで、日本は、「風水」をどのように受容してきたのか。

『日本書記』推古天皇十年(六〇二)の条に、「百済の僧・観勒がやって来て、暦、天文、地理、遁甲、方術の書」を献上したとあるが、この「地理」書の具体的内容、その後の帰趨ははっきりしない。その命脈を伺えるのは「陰陽道」である。「陰陽師」に都にふさわしい「相地」を「視占」させたという記事が『日本書紀』に見えるのである。

日本に持ち込まれた風水書そのものは明らかでないのであるが、一般には、風水的選地の思想が受容されていったことは、日本における「家相」あるいは「気学」の伝統が示しているだろう。

平安京など日本の都城が風水説によって造営されたとする黄永融著『風水都市―歴史都市の空間構成―』[17]がある。NHK特集で平安京の造営を風水説で説明する番組があり、黄さんがそのオリジナリティをめぐって怒っていたことを思い出すけれど、ひとつの解釈としてはありうるだろう。また、来村多加史の『風水と天皇陵』[18]など、実に興味深い。

「風水」説はともかく、日本の都城が中国の理念をもとに造営されたことは疑いがない。また、前方後円墳など古墳も「天円地方」の中国的宇宙観との連関は否定しがたい。さらに、仏教建築は、中国建築の全く新たな建築技術を日本にもたらすものであった。

古墳の建設、仏教建築の導入、そして都城の建設は、日本に全く新たな景観をもたらすことになった。いずれも人為の造形であり、日本における景観作法、景観造作の出発点である。

 

「風土記」

ランドスケープあるいはランドシャフトは、本来「土地の姿」という意味であり、一定の地表の空間的まとまり=「地域」を表現する概念であった。

地理学が「景観」を極めて重要な概念として扱ってきたのは、そうした意味で当然である。「景観」は、それぞれの土地の自然・文化・社会の生態学的表現である。

「風水」とともに「風土」という言葉がある。「景観」あるいは「風景」が前提とする一定の空間的まとまりとはどのように知覚され認識されるのか。

「風土」ということで、すぐさま思い起こされるのは「風土記」であろう。

唯一の完本である『出雲風土記』(七三三年)を見ると、まず出雲国の地域区分がなされ、それぞれの「郡」「郷」について、「郡郷の名は好き字を著け、その郡内に生ずるところの銀銅、彩色、草木、禽獣、魚虫等の物は具(つぶさ)にその品目を録し、及び土地の沃涯(よくせき)、山川原野の名号の所由(いわれ)、また古老相伝の旧聞異事は、史籍に載せて言上せよ」という命に従って、その地名のいわれ、地形、産物などが列挙されている。これは、まさに「土地の姿」である。

古墳、仏教寺院、都城が全く新たな景観を形成する一方で、当時の地域の姿を記したのが「風土記」である。「風土記」に記載される世界を日本の景観の第一期景観層としよう。縄文時代に遡る「風土記」以前の日本列島の景観は、「日本」という枠組みが形成される以前の景観層をとどめていたとみていい。

「風土」という言葉も中国起源であり、『風土記』という地誌の作成も中国に由来する。「風土」とは、端的には、「土地の状態、すなわち、その土地の気候・地味など」(広辞苑)を意味する。しかし、単に気候・地形・地質をいうのではなく、「住民の慣習や文化に影響を及ぼす、その土地の気候・地形・地質など」(『大辞林』)と、人間の営みとの関係を含んだ概念である。

「風土」は、「風」と「土」からなる。「風」は、空気の流れであるが、季節によって異なり、様々な気象現象を引き起こす。『説文解字』(許慎(後漢))は、「風動いて蟲生ず」という。風という字の中の虫は、一年中で最も早く生じる生物のことである。「風土」は、単なる「土地の状態」というより、「土地の生命力」を含意する。土地は、天地の交合によって天から与えられた光や熱、雨水などに恵まれているが、生命を培うこれらの力が地上を吹く風に宿ると考えられてきたのである。

「風土」、すなわち「土地の生命力」が土地毎に異なるのは当然である。『後漢書』にはそうした用法が見え、二世紀末には『冀州(きしゆう)風土記』など、『風土記』を称する地誌が現われる。

「風土」という言葉は、英語にはクライメイトclimate(気候)と訳される。ここでも洋の東西の違いがある。クライメイトの語源である「クリマKlima」は、「風土」という意味で使われるが、古代ギリシアで傾きや傾斜を意味した。それが気候や気候帯を意味することになったのは、太陽光線と水平面とのなす角度が場所ごとに変わることからである。「風土」に対応する言葉が「気候」であることは、西欧世界では、「風土」を規定する主たる要因が「気候」であると考えられてきたことを示している。そうした意味では、上述のように、「風水」の方がクライメイトの訳にふさわしいだろう。

『風土記』の記載項目を見ても明らかなように、「風土」は、「気候」のみを意味するわけではない。「気候」を大きな要因とするが、地質、地形、地勢、地味・・・など、土地の特性の全体(土地柄)が「風土」と呼ばれるのである。

「風土」をどうとらえるか、どう捉えてきたのか、については、それこそ、あらゆる学問分野が関与する。「景観」あるいは「風景」、「自然」あるいは「風土」という言葉をめぐる著作に数限りがないのは、土地のあり方ひいては社会の根底に関わるものがそこにあるからである。

 

「近江八景」

 江戸時代の半ば、享保年間に、「五畿内」の「国」について、それぞれ、その沿革、範囲、道路、形勝、風俗、また、郡ごとに、郷名、村里、山川、物産、神社、陵墓、寺院、古蹟、氏族などを記述した、「五畿内」に関する最初の総合的地誌となる『日本輿地通志畿内部』(『五機内志』)全六一巻(一七三四)がある。この編纂者であった関祖衡は、その著『新人国記』(一七〇一)に、「人情は国の風水に因れり」、「その風土の形勝を知らざれば、その因る所を弁ふることなし」と書いている。「風土」「風水」によって、土地あるいは地域を把握する伝統は、江戸時代にも継承されていることを知ることができる。そして、近世末にかけて、日本の景観享受のひとつの作法ができあがってくる。

第一に、「近江八景」を先駆とする、景勝地を数え上げることが行われ出す。第二に、それとともに「富嶽三六景」のような「風景画」が登場する。第三に、景勝地を比較観察して、それぞれの価値や品格を論評する、古川古松軒(一七二六~一八〇七)の『西遊雑記』(一七八三頃)、『東遊雑記』(一七八八頃)といった著作が現れ始める、のである。

大室幹雄に「近代日本風景批評史」という副題を付した『月瀬幻影(げつらいげんえい)』[19]という著書がある。続いて上梓されたのが、日本の「景観」「風景」をめぐる古典的著作とみなされている志賀重昴の『日本風景論』をめぐる『志賀重昴『日本風景論』精読』[20]である。かねてからの大室フアンで、その壮大な歴史人類学的パースペクティブと該博な知見に魅せられ放しで、中国都市論に関わる著作をはじめとして、ほとんどの著作を手にしているが、「風景論」をめぐっても教えられることが多い。

 『月瀬幻影』の詩人石雲嶺を中心とする藤枝詩壇の読んだ風景を論じた第二章「藤枝詩壇における江戸シノワズリ」に、次のような一節がある。

 「それはこの社会の歴史開始以来はじめて現われた新鮮な景観だった。歴史地理学的に俯瞰するならば、それは、弥生時代に芽をのばしはじめた水田耕作を胚胎とする農耕文化が、遅々たる成長の工作をかさねたあと、徳川幕府による鎖国下二百年を越える四海昌平のあいだに進歩の度を速めて、ほぼひとつの文明の完成に達した時点で現れた特色ある景観であった」

 一八世紀末から一九世紀初頭にかけて、日本「全国各地の都会あるいは町と村で、ひとしく現れつつあった光景」は、「・・・農作可能な微地形に、微細に分かれて緊密に結合した人々の集団が、わずかばかりの畜力のほかは、労働力のほぼ全体を人力で供給しながら作りあげた景観」であり、総体的な印象は「偉大とか崇高という形容にはまるでふさわしくない」、「かわいらしくて美しいといえばいえる」、「全体が入念にしつらえられた工芸品のような世界」であった。

 この時期の日本の景観を、日本の第二期景観層としよう。今日、日本の景観の原点として振り返られるのはこの景観層である。

近世の詩人、京都を中心とする教養人士たちは、これを風景として享受するに当たって、中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」あるいは「西湖十景」などにならって数え上げた。

「瀟湘八景」とは、洞庭湖(湖南省)に流入する瀟、湘二水を中心とする江南の景観が、宋代に、画題として、詩的な名称とともに八つにまとめられものをいう。

日本の先例とされるのが「近江八景」で、一七世紀前半には、琵琶湖南部の景観から、「比良の暮雪」「矢橋(やばせ)の帰帆」「石山の秋月」「瀬田の夕照」「三井(みい)の晩鐘」「堅田の落雁」「粟津の晴嵐」「唐崎の夜雨」の八つを切り取っている。すべて「瀟湘八景」の「江天暮雪」「遠浦帰帆」「洞庭秋月」「漁村夕照」「煙寺晩鐘」「平沙落雁」「山市晴嵐」「瀟湘夜雨」に対応づけられている。下二文字は眺められるべき景物、またその季節または時刻を示す。明の心越禅師の命名という、いまでは名のみ残る武蔵六浦の津周辺(横浜市)の「金沢八景」も、「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「小泉夜雨」「乙艫(おつとも)帰帆」「称名晩鐘」「平潟落雁」「野島夕照」「内川暮雪」と同様である。

 「瀟湘八景」の場合、風景のイメージは明確な境界をもたず大きな広がりをもつが、「近江八景」は、場所が「湖西」に限定され、またそれぞれの景観も狭く「縮景」されてしまっているというのが、大室幹雄の指摘であるが、陸奥の「八戸八景」、陸前の「松島八景」、磐城の「八沢八景」、薩摩の「鹿児島八景」などに広がっていく従って、紋切り型は崩されて、土地や場所とその景観が一体化した名称になっていく。また、「吸江十景」「桑山一二景」「関の湖一六景」「多度三八景」のように、数も自在に増やされていく。

 こうして、日本の第二期景観層は、「風景として発見」された。「○○」「○景」という数え上げの作法が、日本の風景享受の作法となるのである。北斎の『富嶽三十六景』(一八三一~三三)とか、広重の『東海道五十三次』(一八三三~三四)『木曾街道六十九次』(一八三五~四二)などもその一環である。

数え上げ(ナンバリング)の発想は「権力もしくは権力への期待による支配と管理と抑制の政治的論理である」と、ここでも鋭く喝破するのが大室幹雄である。風景の享受は、本質的には、個々の主観に属し、無限の多様性に向かうものである。だから、「数による風景の把握は風景を殺す」のである。だが、しかし、この日本の第一地景の「風景としての発見」は、景観とそれを享受する人の関係を安定させることになった。

 

『日本風景論』

 日本の「景観」あるいは「風景」に関する古典的著作として決まって言及されるのが、志賀重昴(一八六三~一九二七年)の『日本風景論』[21](一八九四年)である。日清戦争の年(一八九四年)に上梓され、日露戦争(一九〇四―〇五年)の前年まで一五版まで版を重ねた大ベストセラーである。

 『日本風景論』は、「江山洵美是吾郷」(こうざんじゅんびわがきょう)と書き出され、日本風景の「瀟洒」「美」「跌宕(てっとう)」がまず列挙される。跌宕とは、雄大なこと、細事にかかわらず、のびのびしていること、である。そして、ひたすら日本の風景を美しい、と唱える。志賀が、『日本人』や『亜細亜』といった雑誌を出していた「政教社」にあって、反欧化思想、国粋主義の喧伝者としての役割を果たしたことはよく知られるところである。

 『日本風景論』は、日本風景の特性を大きく「日本には気候、海流の多変多様なる事」(二章)「日本には水蒸気の多量なる事」(三章)「日本には火山岩の多々なる事」(四章)「日本には流水の浸食激烈なる事」(五章)と四項目に分けて記述する。志賀は、平均気温や降水量の分布図を示したこの著書によって、日本の近代地理学の祖とも目される[22]。『地理学講義』(一九一九年)の他、『河及湖沢』(一九〇一年)、『外国地理参考書』(一九〇二年)、『世界山水図説』(一九一二年)、『知られざる国々』(一九二六年)などを著わし、英国王立地学協会の名誉会員にも推戴(一九一七年)されている。

 四章に「付録」として、「登山の気風を興作すべし」という一節が全体の二割もの頁数を割いて設けられている。志賀は近代登山の主唱者ともされる。ただ、志賀本人は登山家であったわけではなく、登山技術についての記述には、英国人著作家による種本があったことが明らかにされている。

 『日本風景論』には、また、旅行案内書の趣がある。実際、当時出版されていた英文旅行案内書『A Handbook for Travellers in Japan(一九八一年)の記述から多くの引用、翻訳がなされている。『日本風景論』に、外国人の旅行のための情報、外国人の見る「日本」という視線があることは注目されていいだろう。二章、三章にも、末尾には、欧米人がその国においては見ることのできない日本の風物、風景を列挙するところである。

大室幹雄の『志賀重昴『日本風景論』精読』には、志賀重昴の風景論の射程について、多彩な評価がなされている。また、『日本風景論』がどう読まれたか、についても詳述されている。とても要約するところではないが、次のような文章がある。

「全体としてみれば、『日本風景論』の新しさは、日本の風景が世界中でいちばん美しく優れていると宣明した一事にあった。・・・・志賀にとっての日本とは、明治二七年の時点で現存していた「日本帝国」であった。ゆえに、この作品の総体としての新しさは、日本のながい歴史において、はじめて風景と国家とを結び会わせたことであった。」

また、「江山洵美是吾郷」の「吾郷」について、次のようにもいう。

「「吾郷」は人間一般の人称的にして普遍的でもある存在の場所であることから、志賀が歴史的に生存している個別的な場所、すなわち志賀の日本へ収縮してしまった。」

 「国粋主義」あるいはナショナリズムと『日本風景論』の関連をめぐっては多くが指摘するところであるが、日露戦争期に著された小島烏水の『日本山水論』、太平洋戦争期における上原敬二の『日本風景美論』(一九四三年)も含めて、歴史的に拘束されたものとして読む必要があるのは当然である。しかし、『日本風景論』にもうひとつの継承を読むこともできる。

 

景観と生態圏

志賀重昴は、一八八六年に、海軍兵学校の練習鑑「筑波」に従軍記者として乗り込み、一〇ヶ月にわたって、カロリン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイ諸島を巡っている。その踏査、見聞をもとに著わしたのが、『日本風景論』に先だつ『南洋時事』(一八八七年)である。その後も、志賀は、台湾、福建、江南(一八九九年)、南樺太(一九〇五年)などへの踏査を続けるが、一九一〇年には、アフリカ、南アメリカ、ヨーロッパなど世界周遊の旅を行っている。また、一九一二年には、アメリカ、カナダにも渡り、一九二二年には、世界周遊の旅を再び行っている。志賀の一連の著作は、当時の日本人としては類のない広範な世界見聞に基づくものであった。

現代のフィールドワーカーとして世界を股にかける応地利明に「文化圏と生態圏の発見」[23]という論文があり、『日本風景論』が大きくとりあげられている。「地理学」を出自とする応地にとって、志賀重昴の諸著作や内村鑑三の『人文地理学講義』『地理学考』などの著作がごく親しいのは当然であって、夙に「初期札幌農学校における地理学教育―Prof. J.C.Cutter, Lecture on the geography of Europe, 1881を中心として―」[24]といった論文もある。

もう二〇年近くも、アジア研究をともにさせて頂いて、応地先生のフィールドに根ざした該博な知識にはいつも教えられるが、ここでも教えられる。『日本風景論』を「モンスーン的風土論」として位置づけながら、次のように言うのである。

「風景であれ文化であれ、日本の特質をモンスーンとむすびつけて理解しようとする認識は、日本列島の外へと広がる生態圏の「発見」へと導く端緒となっていく。それは、近代とともに始まった「世界の中の日本」の探求に、生態圏という新しい次元を拓くものであった。志賀は、夏の季節風を媒介項として具体的な地理的圏域を措定しつつ、風景を手がかりに日本をとりまく生態圏・文化圏の存在を論じたのである。」

世界の風土を大きく「モンスーン的風土」「沙漠的風土」「牧場的風土」の三つに分けて論じたのが和辻哲郎の『風土』[25](一九三五年)である。『日本風景論』から『風土』へ、応地論文は、モンスーンが日本においてどのように認識されてきたか、「南洋」そして「稲作文化」への関心を中心に跡づけながら、「風土生態圏」という空間認識の成立を丹念に論じている。風景と「帝国日本」を直結させた明治期の「日本風景論」は、昭和の初頭に批判・再評価され、新たに組み直されるという。その結晶が和辻の『風土』である。

 和辻の『風土』論は、知られるように、人間存在の風土的規定を三つの類型において捉える。中国・日本を含むモンスーン地帯、アラビア・アフリカ・蒙古などに広がる沙漠地帯、ヨーロッパの牧場地帯にそれぞれ対応したモンスーン型、沙漠型、牧場型の三つである。この三類型は、土地の姿をもう少し細やかに見ようとするものにとっては、いささか大雑把に過ぎるように思える。また、基本的には環境決定論の趣がある。しかし、沙漠型という一項を介在させることにおいて、西欧vs日本という単純な二項対立は逃れていた。その「風土」、「生態圏」への視点は、戦後の、梅棹忠夫の「文明の生態史観」、中尾佐助、上山春らの「照葉樹林文化論」などにつながっていく、というのが応地論文である。高谷好一の「世界単位論」、立本成文の「文化生態複合論」などを含めて、応地らの地域研究が鍵語とするのも、「風土」であり、「生態圏」である。

こうして「景観論」「風景論」は、「日本」という枠組みを超えていく。その方向で要請されるのは、「モンスーン地帯」、「稲作文化圏」、「照葉樹林文化圏」といった大きなフレームである。そして一方、以上に見てきたように、日本の中でもそれぞれの地域の差異、土地の微地形、微気候を見極めるミクロなフレームが必要である。

 

以下、続稿

 



[1] 桑子敏雄、『県境の哲学 日本の思想を現代に活かす』、講談社学術文庫、1999

[2] 桑子敏雄、『西行の風景』、NHKブックス、1999

[3] 中国南北朝の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集。登場する人物は当時の実在の人物で、彼らの風貌や言動が描かれている。今日『四部叢刊』に収めるものは上中下三巻に分かつが、テクストによってその巻数は二、三、八、十、十一等の異同がある。

[4] オギュスタン・ベルク、『風土の日本-自然と通態の文化』、篠田勝英訳、ちくま学芸文庫、1992

[5] 風景画の先駆者の一人にアントワープの画家パティニールがいるが、この画家を、初めて「風景画家Landschaftsmaler」という言葉を用いて呼んだのは、A.デューラーだという(1521年)。

[6] 風景のための風景画の独立は西洋ではルネサンス期に初めて成立するに対し、中国では既に六朝時代に山水画が描かれ、隋唐より日本へも伝来し、「やまと絵」へにも取り入れられていく。

[7] 山水画が本格的に興隆し始めるのは、六朝時代からであり、完全に独立した分野となるのは、呉道玄(道子)、李思訓・李昭道父子、あるいは王維らが出現する盛唐時代、さらに山水画のみを専門とする画家が一個の画家として認められるようになるのは、中唐から晩唐時代にまで下る。

[8] 内田芳明、朝日選書、1992

[9] オギュスタン・ベルク『西欧の景観、日本の風景-そして造景の時代』、講談社現代新書、1990

[10] 『老子』に「悠として其れ言を貴(わす)れ、功成り事遂げて、百姓(ひやくせい)皆我を自然と謂う」(第一七章)、「人は地に法(のつと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(第二五章)などとある。老子は、「自ずから然る」ことにほかならない」としている。「無為自然」である。自分が無為であることは、また物のあるがままを尊ぶことであり、「万物の自然を輔(たす)けて而も敢て為さず」(第六四章)ということにもなり、万物の「自(おの)ずから然(しか)る」ことを重んずることになる。すなわち、「万物」あるいは「天地」の「人為の加わらない、おのずからある状態」が「自然」である。

[11] 1796(寛政8)に出版された稲村三伯の最初の蘭日辞典『波留麻和解(ハルマわげ)』で、ナトゥールに「自然」という訳がはじめて用いられた。

[12] もともと、ギリシアにおいては、「自ずと生まれ、成長し、衰え、死ぬもの一般」が「自然」であり、「自らのうちに運動変化の原理をもつもの」(アリストテレス)が「自然」であった。すなわち、無機的自然ではなく、生命ある有機的自然である。「自然」は、決して、人間に対立するものではなく、生命的自然の一部としてそれに包み込まれている。「自然」は、人間や神をもうちに包み込む生ける統一体であり、中国やインドの伝統的な自然観もほぼ同様であったと考えられる。しかし、キリスト教世界において、神―人間―自然という截然とした階層的秩序が現れてくる。そこでは自然も人間も神により創造されたものであり、神はこれらのものからまったく超越している。人間もまた自然と同格のものではなく、むしろ自然の上にあってこれを支配し利用する権利を神からさずかったものとなる。

近代西欧の自然観も本質的にはこのキリスト教世界に含まれていた自然観を継承し、いっそう方法的に自覚発展させたと言える。すなわち自然を人間とは独立無縁な対立者としてこれを客観化し、この純粋な他者を、外からさまざまな操作を加えて量的に分析し、そこに〈法則〉を確立して、これを把握し利用しようとするのである。そこには自然から人間的要素としての色やにおいなどの〈第二性質〉や〈目的意識〉などが追放され、もっぱらこれを〈大きさ〉〈形〉〈運動〉などの自然自身の要素に分解して因果的、数学的に解析していく近代の機械論的自然観(機械論)が成立することになる。

[13] 三浦國雄、『風水講義』、文春新書、2006年によれば、風水を冠するのは歐陽純の『風水一書』しかないという。

[14] 全冥編、『風水興建築』上冊・下冊、中国建材工業出版社、1999年は、大部の集大成である。

[15] 村山知順、『朝鮮の風水』、朝鮮総督府、1931年、国書刊行会、1972

[16] 野崎充彦、『韓国の風水師たち』、人文書院、1994

[17] 学芸出版社、1999

[18] 講談社現代新書、2004

[19] 中公叢書、2002

[20] 岩波現代文庫、2003

[21] 志賀重昴、『日本風景論』、近藤信之校訂、岩波文庫、1995

[22] 大槻徳治、『日本地理学の先達 志賀重昴と田中啓爾』、西田書店、1992

[23] 山室新一編、『「帝国」日本の学知 第8巻 空間形成と世界認識』、岩波書店、200610

[24] 『人文地理』、三四―五、一九八二年、二六―四四頁

[25] 和辻哲郎、『風土』、岩波文庫、1979

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