「インド・イスラーム」都市論ノート
布野修司
Notes
on Indo-Islamic Cities
Shuji Funo
What is the Islamic City?
Can we define thetypical Islamic City? Though B.S Hakim’s “Arabic-Islamic Cities: Building and Planning Principles” clearly defined the Arabic-Islamic City,but that definition is useful for another regions of Islamic world. This article is just memorandum to discuss the characteristics of so called Islamic City focusing on Indo-Islamic cities.
1 「インド・イスラーム都市」 Indo-Islamic Cities
インドには,古来,『アルタシャーストラ』 あるいは『マーナサーラ』など,都市の理念形,あるいは都市計画の手法を記した書が伝えられてきた。インドの都市の伝統を追いかけて,『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』では,そうした書物に記される「ヒンドゥー都市」の理念形を明らかにし,その影響が東南アジアに広く,強く及んでいることを具体的な事例について明らかにした。大きく取り上げたのは,マドゥライMaduraiとジャイプルJaipur,そしてチャクラヌガラCakranegara(インドネシア,ロンボクLombok島)の三都市である。宇宙の構造を具象化した都市を理想とする「ヒンドゥー都市」をチャクラヌガラという名に因んで「曼荼羅都市」と呼んだのであるが,この「曼荼羅都市」の系譜がアジアの都市の大きな伝統を形成してきたことは鮮やかに浮かび上がらせることができる。
ところが,『曼荼羅都市』でも強調したのであるが,「ヒンドゥー都市」の理念形をそのまま示す事例は,インド亜大陸そのものには,マドゥライ,ジャイプルを除くとほとんど残されていない。また歴史的にも,シルカップSirkap以降,発掘調査の遅れや文献の偏りもあって,13世紀に始まるムスリム支配期以前に遡って「ヒンドゥー都市」の展開をたどることはできない[1],のである。この事実については一応以下のように考えることができる。
[1] Chakrabarti,
D.K.,
“The Archaeology of Ancient Indian Cities”,
Oxford University Press, Delhi,
1997
①理念は理念であって,実際建設するとなると,立地する土地の形状や地形など様々な条件のためにそのまま実現されるとは限らない。例えば,ジャイプルの場合,北東の山の存在が全体の形状に大きな影響を与えている。
②また,理念通りに実現したとしても,時代を経るに従って,すなわち,人々に生きられることによってその形状も様々に変化していく。マドゥライの場合, 同心方格囲帯を成すそれぞれの街路は大きく歪んでいる。
③むしろ,そのままの理念が必要とされるのは,その文明の中核よりも周縁においてである。とりわけ,王権の所在地としての都城の場合,支配権力の正統性を表現するために,理念形が必要とされる。「曼荼羅都市」の理念をそのまま実現する都市は,アンコール・トムやマンダレーなど東南アジアの諸都市である。
それでは,インドの都市の変遷をどう考えればいいのであろうか。インドの諸都市の歴史を考える上で,残されている手掛かりがイスラームのインドへの侵入以前に遡り得ないということは,果たして,イスラームこそが「ヒンドゥー都市」の伝統を破壊したということを意味するのであろうか。あるいは,英国による植民地化のインパクトが大きいのであろうか。
少なくとも,イスラームが,イスラーム以前に形成されていた諸都市に何らかの影響を及ぼしたことは間違いない。時代は下るが,ジャイプルにしても,都市の骨格はほとんど変化しないけれど,ムスリムの居住する周辺部の街路パターンは大きく崩れていくのである。そうだとすると,インドの諸都市におけるイスラーム侵入以後を問題にする必要があるのではないか。そもそも,イスラームはどのような都市理念をもつのか,また,どのような都市をインドにおいて建設したのか,あるいは,インド土着(イスラーム以前)の都市をどのように改変したのか,等々が本書の出発点における素朴な問いである。
「インド・イスラーム文化」という言葉が一般的に用いられているのに倣えば,ここで議論の対象とするのは,「インド・イスラーム都市」ということになる。それは一体どのようなものか。果たして,そうした概念は成立するであろうか。
例えば、デリー,ラホール,アフマダーバードという三都市は、アーグラ,ファテプル・シークリーなどとともにイスラーム支配の拠点となった都市であるが、その形態はなんとなく似ている。似ているといっても,それだけでは何の意味ももたないが,気になるのが,『マーナサーラ』が「ヒンドゥー都市(村落)」の理念形のひとつとする「カールムカKārmuka」である。川もしくは海に一辺を接して,外周部は弓形で,放射状の道路体系をとる,この「カールムカ」の形態は,正方形もしくは長方形とする他の類型と比べて異質である。他に,円形もしくは多角形とするパドマPadmaのような例もあるが,他の類型も円形も同様だとするから,「同心方形囲帯構造」という意味では他の類型と同様と考えていいから,「カールムカ」だけが特異なのである。「カールムカ」とはそもそも弓を意味する。
『曼荼羅都市』では,この類型についてだけは触れることができなかったが,インドには,この「カールムカ」型と考えられる都市が存在してきたのではないか。デリー,ラホールはともかく,アフマダーバードは,川もしくは海に一辺を接して弓形(半円形)の都市の典型ではないか,と思われるのである。そして,それがひとつの型ではないか,と思わせるのが,アフマダーバードの北西130kmにあるパタンである。アフマダーバードと全く同じように弓形(半円形)をしているのである。考えてみると,ヒンドゥーの聖都ヴァーラーナシーもガンガに沿って半円形の同心構造をしている。これらの都市の形態が,「カールムカ」に基づくのだとすると,アフマダーバードは,スルタン・アフマド・シャーⅠ世によって建設された(1411)のだけれど,むしろ「ヒンドゥー都市」の伝統を基礎にしていることになる。少なくとも,「カールムカ」を手掛かりに,同心方格囲帯の都市構造あるいはグリッド・パターン以外の「ヒンドゥー都市」の系譜を追いかけてみる必要がある。アフマダーバード,ヴァーラーナシーをまず臨地調査の対象としたのは,そうした位置づけによる。
インドの都市,あるいは「ヒンドゥー都市」の伝統をめぐる以上のような素朴な関心にとって,まず明らかにすべきは,上述のように,「イスラーム都市」とは何か,である。そのために,イスラームの「都市性」,「イスラーム都市」の「地域性」をめぐる議論を前提とする必要がある。
インド亜大陸のイスラーム化(イスラーミケート)に際して,大きな影響力をもったのはペルシアである。ムスリム軍の兵士の大半はトルコ系であったが,社会の基底を形成したのはペルシア語であり,ペルシア系の人々であり,ペルシア文化である。インドのイスラーム化がペルシアネート
と呼ばれる所以である。すなわち,イスラーム化をめぐっても,単純ではない。本書で問おうとするのは,あくまで「ヒンドゥー都市」を比較の基軸とした,また,イスラーム・インパクトを視点とする,インド諸都市の比較である。ひとつの不満は,続いて触れるように,今のところ,インド亜大陸の諸都市が「イスラーム都市研究」の視野外に置かれているように思われることである。世界で最大のムスリム人口を抱えるインドネシアについては,『カンポンの世界』
において,その形成過程,居住様式,都市組織などについて詳細に明らかにした。南アジア,東南アジアにおける「曼荼羅都市」の系譜とは異なるもう一つの系譜を明らかにする上では,イスラームが大きな視点となるだろう。
2 イスラームの「都市性」:移動とネットワーク Urbanism of Islamic
Cities:Migration and Network
イスラームal-Islām
は,都市で生まれた「都市」の「宗教」
である。そして,人類最古の古代オリエントの都市文明をその内に継承することにおいて成立した,とされる
。
予言者ムハンマド・イブン・アブドゥ・アッラーフ Muhanmad ibn ‘Abd
Allāh(570頃-632)は,商業都市メッカMecca(マッカMakkah)の商人であり,当時のアラビア社会で重視されていた家柄,血縁,地域共同体の絆を断ち切って,すべてのムスリムMuslimは同胞としてひとつのイスラーム共同体=ウンマummaを形成する,と唱えた。すなわち,イスラームは,商取引の契約を重視する倫理を基礎としており,ムスリムは,信仰そのものも神との契約に基づき,最後の審判の日には生前の善行と悪行が「はかり」にかけられると考える。商業活動による富の獲得と生活の安定は,その信仰の基礎とさえ考えられてきた。都市の本質的特性のひとつとして,「市」の機能,交換・交易の場所という特性を考えれば,イスラームがその起源において都市生活と密接不可分であったことは容易に理解できる。
イスラームが,交換・交易すなわち商業を基礎とするということは,「移動」あるいは「ネットワーク」をその本質的要素とするということである。アラビア半島の「遊牧」生活を背景として,その結節点としての港市都市,オアシス都市にイスラームは生まれた。また,「ジハードjihād((聖戦)」による「征服」と「移住」は,イスラーム世界拡大の手段であった。そして何よりも「巡礼」という「旅」のシステムがイスラームの信仰体系の中核にある。ムスリムにとって,ハッジになること,メッカという聖域への「巡礼」は今日に至るまで絶対的な価値を持つのである。
メッカは,「都市」の「宗教」であるイスラームにとっても,世界の中心に位置する唯一の特権的都市である。世界を見渡しても全く例のない都市である。この「聖なる都市」=「聖域」への「巡礼」は,人の移動,物の移動,そして情報の移動を伴う。それ故,交易,市場,商業のネットワークと結びつきまたそれらを生み出すのである。メッカは「思想の窓口」
であり,「巡礼」は,情報,知を求め,それを得る「旅」でもある。
「遊牧」,「征服」,「移住」,「巡礼」,「旅」すなわち「移動」は,以上のように,「イスラーム世界」の成立に関わり,今日までそれを支えている。実際,ムスリムのウンマの拡がりを支えたのは,移動,交通のネットワークである。時代は下るが,14世紀前半のイブン・バットゥータの大旅行
を支えたのもイスラーム都市ネットワークに他ならない。イスラームが「都市」の「宗教」であるというのは,端的に言って,都市と都市間ネットワークがイスラームを支える基礎であった,ということである。
3 「イスラーム都市」論 Theory on Islamic Cities
それでは,イスラームは具体的にはどのような都市空間を形づくってきたのか。イスラームが建設した都市はどのような空間特性をもつのか。その原型はあるのか,すなわち,「イスラーム都市」と呼びうるようなイスラームに固有の都市の理念あるいは形態があるのであろうか。そして,その地域的展開による変形はどのようなものか。さらに,現在に至る変容,転成の過程はどのようであったのか。
「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」という共同研究(研究代表者板垣雄三 文部省科学研究費 重点領域研究1988-91)の出発点における問いとテーマはおよそ以上のようであった。そして,その共同研究を通じて明らかになったことは,意外にも,「イスラーム都市」という概念は一般的には成立しないのではないか,「イスラーム都市」という固有の形態はないのではないか,ということであった。
共同研究の大きな成果のひとつである,羽田正・三浦徹編『イスラム都市研究[歴史と展望]』
の序章は「イスラム都市論の解体」(羽田正)と題される。そこでまず槍玉に挙げられるのが,植民地期におけるマグリブ
の都市研究を基にした「イスラーム都市」論である。すなわち,「ヨーロッパ都市」をモデルとして「イスラーム都市」を対置するオリエンタリズム的二分法,そのイスラーム認識のフレームがまず批判される。そして続いて問題にされ,批判されるのが,「イスラーム都市」という存在,その概念そのものである。すなわち,「イスラーム都市」の形態的,社会的特徴を一般的に規定することはできない(のではないか),という点である。
「イスラーム都市」論の淵源となったフランス植民地下のマグリブ都市研究は,私市正年によって,1830年のアルジェリア侵攻に遡って総括される
が,「イスラーム都市」という概念が提出され議論され始めるのは1920年代のことである。以降の「イスラーム都市」論の展開は,『イスラム都市研究[歴史と展望]』によれば,およそ以下のようである。
①「イスラーム都市」論は,まさにイスラームを「都市」の「宗教」であると規定することによって定立される。それを簡潔に示すのがW.マルセーズMarçais
の以下のテーゼである。
「イスラムは本質的に都市生活に適合した都市の宗教であり,遊牧生活を軽蔑し,疑う宗教である。それは,予言者ムハンマドが遊牧民を嫌悪し,敵視したことにも表れている。イスラムが都市の宗教である以上,イスラムの拡大は必然的に都市の建設を伴うことになる。都市の要素はジャーミー(集会モスク),スークsuq(市場,ペルシア語でバーザールbazar,トルコ語チャルシュ),ハンマーム(公衆浴場)である。」
ここでは,都市生活と遊牧生活が鋭く対置されているが,このテーゼの背景にあるのは,ギリシャ・ローマ都市からヨーロッパ都市への展開を普遍的な過程としてとらえる都市=文明論
である。文明の破壊者・遊牧民と文明の担い手・都市定住民という対立を含んだイスラーム社会は,ヨーロッパ社会より遅れているとする歴史観,「イスラーム社会停滞論」がその背景にあった。
②遊牧民と都市定住民の対立・分離を前提とした上で,イスラームを「都市」の「宗教」としたW.マルセーズとともに「イスラーム都市」論の軸となったのが,「イスラーム都市」の基本はスークにあり,都市の基本構造はギルド(同業者組合)組織によって成り立ち,ギルド組織が西欧中世都市と同様にコミューン
(自治)機能を持っていたとするL.マシニョンMassibnon である。
③1920年代に始まる西欧都市をモデルとする都市あるいはギルドの自治機能をめぐる議論を受けて,それを体系的に整理したのがG.E.フォン・グルーネバウム
である。まず,指摘されるのは,「イスラーム都市」共通の形態的特徴,W.マルセーズのいう都市の要素としてのジャーミー,スーク,ハンマームという都市施設の存在に加えて,街区の「狭く迷路のように曲がりくねった道,多くの袋小路,中庭構造」といった特性である。そして,西欧の自治都市のようなコミューン機能は否定するが,「イスラーム都市」は一定の自治機能を持つとする。「街区やギルドの長が都市住民と国家の間に立って一定の自治的機能を果たしていた。とくに街区は,街区ごとに閉鎖的な空間と民族的同質集団が形成されることにより共同体的結合機能を果たす上で重要であった。しかし,それらは全体としては結合されず都市はそうした街区の寄せ集めからなる。」という。もちろん,全体的統合が全く欠如しているということではない。ギリシャ・ローマ都市あるいは西欧の中世都市が市民による自治によって政治的に統合されるのに対して,「イスラーム都市」においては,ギルドあるいは街区を政治的に統合する機関は存在せず,宗教的理念によってのみ統合されるのが特徴である。
④この,一定の自治権を持つ,都市住民の統合組織としての街区組織,その寄せ集め(モザイク)という概念は,街区のフィジカルな「狭く迷路のように曲がりくねった道,多くの袋小路,中庭構造」という形態と相まって,「イスラーム都市」のイメージを形成することになる。このグルーネバウムの「イスラーム都市」のイメージあるいはモデル化は,H,ギブGibb
とH.バウエンBowenの『イスラーム社会と西洋』
にも共通し,歴史的な都市研究という形ではあるが,シリア,イラクの都市についても拡大適用されることになる
。
⑤以上の「イスラーム都市」論に対して,主としてマシュリク都市研究者から批判が出されるのは1960年代後半であり,それを受けてさらに「イスラーム都市」論の基礎をなす歴史研究として位置づけられるのが,I.P.ラピダスLapidusの『中世後期のムスリム諸都市』
である。ラピダスは,ヨーロッパ対イスラーム(アジア),自治対自治不在,都市対農村といった二分法が「イスラーム都市」という虚像を生み出してきたとし,様々な社会集団とそのネットワークの機能と構造に着目し,形態としての都市より,プロセスとしての都市を解明することで二分法を乗り越えることを主張する。具体的に対象とするのはマムルーク朝時代のシリアの諸都市であるが,都市-農村を含む地域における有機的なネットワークの構造を解析することによって,イスラーム社会の歴史的発展と全体的構造を動態的に捕らえる方法モデルの展開として評価が高い
。「ヨーロッパ対イスラーム」というオリエンタリズム的二項対立のパターンを抜けきっていない,街区を中心とした社会的諸集団の連帯意識を重視し,都市の権力を巡ってそれらが結合したり,抗争したりすると考えたことはモザイク論の焼き直しにすぎない,という批判はあるが,イスラーム社会・都市モデルを時代,地域を越えて無限定に適用させているわけではなく,そのモデルは柔軟性に富んでいて,諸集団の社会関係の,とり結びかたの変化に対応して,各時代,地域ごとの特徴的なモデルにつくり変えうる可能性をもっている,というのが羽田正である
。
⑥こうして,「イスラーム都市」論の批判的総括によって,時代,地域を特定した上での都市研究の深化が必要とされ目指されることになるが,1970年代から80年代にかけての成果として,D.E.エイケルマンEickelman
,E.ワースWirth ,J.L.アブー=ルゴドAbu-Lughod ,B.S.ハキームHakim
などの著作がある。
羽田等は,結局,「イスラーム都市研究」の総括を通じて「イスラーム都市」という枠組みを否定するに至る。そして,「アラブ地域だけで話を終わらせず,イランやトルコ,さらにはインド亜大陸,インドネシア,西アフリカなど「周縁」のイスラム諸地域とのきめ細かな比較,中国や日本社会など異文化地域との大胆な比較を通じて,新しい都市研究の視角を見いだすことができるかもしれない」とした。すなわち,「イスラーム都市」という枠組みを取り払った上での,新たな視角に基づいた都市研究を展望する。それを受けた三浦徹による『イスラム都市研究[歴史と展望]』の終章は「都市研究の再構築に向けて」
と題され,都市を,地理・経済・社会・歴史文化のあり方を見通す枠組み(参照枠)として用いるために,具体的な座標軸として,「空間としての都市」,「交点としての都市」,「集合としての都市」,「歴史としての都市」,「文化としての都市」をあげている。
当然この総括が出発点となる。第一に焦点を当てるとすれば、「インド亜大陸」のイスラーム諸都市であり,主たる座標軸とするのは「空間としての都市」である。
4 「イスラーム都市」とコスモロジー Islamic Cities and Cosmology
グルーネバウムは,「狭く迷路のように曲がりくねった道,多くの袋小路,中庭構造」といった特性を「イスラーム都市」の形態的特徴としたのであるが,E.ワースWirth
は,西アジアの「イスラーム期」の諸都市の特徴として,同様に,①都市計画の規則性,迷路・不規則性の発生,②袋小路,③中庭構造,④街区,⑤スークを挙げた上で,いずれも,「イスラーム都市」に固有ではないとする。それに対して,「アラブ・イスラーム都市」の構成原理を規定できるとするのがB.S.ハキームの『アラブ・イスラーム都市』
である。都市の物理的な形態について,すぐさま確認できるのは以下のような諸点である。
A.
「イスラーム都市」として一般的にイメージされる,西アジアの諸都市の,迷路状の街路に中庭式住居がびっしりと建並ぶ街区構成を基本とする都市形態は,明らかにイスラーム以前に遡る。
B.
西アジアの中でも,あるいはイスラームが成立する中核域であるアラビア半島,イラク,シリア地域を見ても,都市の形態,街区の空間構成は異なる。例えば,高層住宅が林立するイエメンのサナアのような都市がある。また,ダマスクスのように,既存都市(ローマの植民都市)を基にして築かれる場合がある。さらにイスラームがいち早く及ぶ北アフリカ,イベリア半島(マグリブ)の諸都市を見ても,諸都市の形態は多様である。
C.
イスラーム(「イスラーム国家」「イスラーム王朝」)が初めて自ら設計実現したバグダードの円城は,一方でホーラーサン地方の円形都市の伝統を継承しているとされる。また,その後,その設計理念,形態が他の都市に引き継がれた形跡がない。アッバース朝において,バグダードを遷都するかたちで建設されたサーマッラーは,バグダードとは全く形態を異にしている。
D.
イスラームが,イラン,トルコなど非アラブ地域に及んだ時,各地にはそれぞれ土着の都市の伝統があった。さらに,南アジア,東南アジアにおいて大きな影響力をもっていたのはヒンドゥー都市の理念であり伝統である。イスラームがインドに建設した諸都市は,西アジアの諸都市とは様相を異にしている。さらに東南アジアの諸都市,ジャワの諸都市,例えば,バントゥンやマラッカのような都市と西アジア諸都市の形態は明らかに異なっている。
具体的に建設された諸都市が歴史的地域的諸条件の中で多様な形態を採るのは当然である。「ヒンドゥー都市」にしても「中国都城」にしても,その理念型をそのまま実現する都市はそうあるわけではないのである。むしろ,「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」を通じて確認されたこととして指摘すべきは次の事実である。
E. イスラームには,イスラーム固有の都市の理念型を著わす書物がない。
「「イスラーム世界」には独特の形態と生活様式を持った「イスラーム都市」が存在する」というテーゼを否定した羽田は,その後,「イスラーム世界」という概念そのものの解体へ向かったように思われる。羽田が徹底して否定し拒否しようとするのは,「イスラーム世界」というフレーム,それを成立させるパラダイム,イデオロギー,その政治的機能である。「ヨーロッパ世界」vs「イスラーム世界」という対立構図(「文明の衝突」論)を根底的に批判するために,そのフレームそのものを問い,その解体を展望するところまで行き着くのである。
羽田の『イスラーム世界の創造』
は,「イスラーム世界」という概念の成立(フレーム・アップ)をめぐる徹底したメタ・クリティークの試みである。このレヴェルにおいて,「イスラーム世界」をアプリオリに前提とする「イスラーム都市」という概念もまた容認できないことは明らかであろう
。そしてさらに,都市の具体的形態,それを構成する諸要素に関わるレヴェルにおいても,繰り返し「イスラーム都市」の共通性,統一性を否定する。例えば,「イスラーム建築や美術に見られる統一性」によって「イスラーム世界」の存在を説明しようとする主張を次のように斥けるのである。
「イスラーム建築の統一性を示す事例とは,「イスラーム世界」のどこに行ってもモスクがあること,モスクは必ずマッカの方向を向いて建てられ,マッカ側の壁にはミフラーブと呼ばれるマッカの方向示すアーチ型の壁のくぼみがあること,大きなモスクには必ずミンバル(説教壇)とミナレット(尖塔)が備わっていること,といった程度のことである。建築の材料や形式,それに装飾の様式は地域によって様々である。・・・・・・・モスク建築を材料にして,その統一性を強調するか,そこには統一性がないとみるかは,論者が議論をどちらの方向に導きたいかによって決まる。「イスラーム世界」が存在すると考えるから,モスク建築には多様性の中に統一性が見られると説明するのである。逆に,もし論者が歴史的な意味での「イスラーム世界」はなかったと考えるなら,モスク建築の不統一性をその例証として挙げることも可能であろう。」
「イスラーム世界」というフレームの設定こそが問題であるとする羽田にとっては,「イスラーム都市」という概念は予め成り立たない。具体的な形態としても「イスラーム都市」の共通性,統一性を否定することによって,「イスラーム世界」という概念をいわば二重に否定しようとするのである。ただ,「イスラム都市論の解体」にしろ「イスラーム世界の創造」にしても,その主張は極めてアンヴィバレントである。「イスラーム都市」あるいは「イスラーム世界」という概念を成り立たせる根拠,パラダイム,イデオロギーの基底を問い批判するのであるが,それを相対化する新たな認識の地平は今のところ必ずしも示されていないのである
。 ここでは,「イスラーム都市」という概念にもう少し踏みとどまってみよう。
F.
都市や建築の具体的な形態,例えば例に挙げられるモスクの基本的特性,基本的要素が統一的であることを,果たして「・・・といった程度のことである」と言い切って済まされるであろうか。都市や建築の具体的形態を問おうとするものにとっては,モスクの存在は極めて重要な問題である。モスクが必ずメッカの方向を意識して建設されることは極めて特異なことである。通常,都市や集落の計画において重視されるのは東西南北の基本方位であり,また,立地する場所の地勢,山,川の位置と流れや勾配の方向なのである。しかも,支配者がムスリムであるかどうか,シャリーアsharī’a
(イスラーム法)が統治原理となっているかどうかに関わらず,モスクという空間そのものが無視し得ない要素である。少なくとも,東アジアの諸都市において,モスクは必ずしも主要で本質的な要素ではなかった。モスクの形式や形態の差異を超えて,モスクが存在する都市景観そのものがその都市を特徴づけるし,それなりの空間秩序を持ち込むのは当然である。続いて強調するように,アジア都市論,あるいはアジア都市研究という大きな平面を仮構してみると,「イスラーム都市」と呼びうるような類型を区別できるのではないか。
G.
イスラームが「都市」の「宗教」であり,「都市性」を基礎とするのであれば,それは具体的な都市の形態,空間構成に表現されることはないのか,という最初の問いも残されている。例えば,モスクとその周辺,あるいはスーク(バーザール)の空間は「イスラーム都市」を特徴付けるのではないか。ムスリム社会を分析する「市場社会論」「ネットワーク論」
を具体的な空間のあり方に即して確認してみる必要はあるのではないか。
H.
「イスラーム都市」論,とりわけ,B.S.ハキームの『アラブ・イスラーム都市』
が刺激的であったのは,チュニスの都市形成の原理を明快に描き出したことである。中でも,イスラーム法(シャリーア)とワクフwaqf(寄進)制度を基本とする都市計画手法は,決して大袈裟ではなく「世界都市計画史」という観点からも,また今日の都市計画手法の問題としても,注目すべきものである。すなわち,ディテール,相隣関係の細かいルールをもとに都市の街区が形成される仕組み,ワクフ(寄進)財として公共的施設を建設する仕組みは,予め全体計画(マスタープラン)として立案される都市計画の伝統とは異なるのである。イスラームの根幹にシャリーアあるいはワクフ制があるとすれば,それらが都市計画原理としても一般的に用いられたであろうことは大きな前提である。チュニスのみならず他の都市においてもB.S.ハキームと同様の作業が積み重ねられる必要があるのではないか。
「比較の手法によるイスラームの都市性」という共同研究の結論を,「イスラーム都市」という固有の形態はないのではないか,と,「のではないか」と留保をつけたのは,以上のような視点F~Hにおいてである。
そして,何よりも以下のような点において,逆説的に「イスラーム都市」が規定できるのではないかと考えるからである。それは上記のEに大いに関わっている。
I.
都市計画の伝統についてアジアを広く見渡してみると,都市とコスモロジーが密接に関わりをもつ地域がある。ひとつは「中国都城」の理念が成立した地域(中原)とその影響圏,もうひとつは「インド都城」が成立した地域とその影響圏である。中国の中原を核心域として生み出された中国都城の理念は,朝鮮半島,日本,ヴェトナム北部に及びそれを基にした少なからぬ都市を生んだ。一方,インド北部で生み出されたヒンドゥー都市の理念は,東南アジアに及んでアンコール諸都市などいくつかの都市を実現させた。しかし,キルタル山脈-中央ブラーフイ山脈-スライマーン山脈-ヒンドゥークシュ山脈以西の西アジアには,そうした都市をコスモスの表現と見なす伝統は見られない。,中国そしてインドには,都市計画の理念,手法を記す書物があるけれども,西アジアにはないように思われる(管見にして知らない)。もしそうだとすると(おそらくそうではないのではないか)
,その伝統をむしろイスラームは引き継いでいるのではないか。
J.
イスラームには,ひとつの都市を完結したひとつの宇宙と見なす考え方はない。イスラームにおいて最も重要な都市は,メッカであり,またメディナMedina(マディーナMadinah)であり,さらにエルサレムJerusalemである。メッカを中心とする都市のネットワークが宇宙(世界)を構成すると考えられている。西アジアにおけるイスラームとイスラーム以前の都市の関係は不明である。上述のように,イスラーム成立以前の都市の伝統がその後も引き継がれていることははっきりしているけれど,こうした都市間ネットワークこそが世界であるとする思想はイスラーム以前にはおそらくないのではないか。こうしてコスモロジカルな秩序と都市空間の秩序という観点に関して,その関係の欠如という特性において,「イスラーム都市」をひとまず規定することができるのではないか。
以上を踏まえて,いささか大胆な仮説を提出すれば以下のようである。
K.
イスラームは,基本的に都市全体の具体的な形態については関心をもたない。専ら関心を集中するのは,身近な居住地,街区のあり方である(H)。イスラームは,「偶像禁止」を遵守することにおいて,基本的に建築の様式,装飾等には関心を持たない。だからといって,イスラーム建築が他に比べて劣っていると言うことでは決してない。「偶像禁止」ということで,むしろ精緻な幾何学を発展させ,数多くのすぐれた建築を生み出してきたことはよく知られるところである。しかし,モスクにしてもキブラqibla(メッカの方向)
のみが唯一重要視されるだけで,その形式,様式は時代によって,地域によって異なる。場合によっては,異教徒の建造物をそのまま使用して,執着するところがない。土着の建築様式を借用するのはむしろ基本的手法であり,一般的である。建築の型についてのこうした無頓着からの類推にすぎないけれど,都市の形態についてもイスラームは一定の型に拘るところはないのではないか。
以上の準備をした上で,「イスラーム都市」解体論に戻ろう。このレヴェルでは,羽田の「イスラーム世界」論の整理は実に有り難い。今日,「イスラーム世界」という場合,ⅰ.理念的な意味でのムスリム共同体,ⅱ.イスラーム諸国会議機構,ⅲ.住民の多数がムスリムである地域,ⅳ.支配者がムスリムでイスラーム法による統治が行われている地域(歴史的「イスラーム世界」)の4つが区別される。
羽田が認めるのは①の規定のみであるが,ウンマは個別の都市を超えた世界であり,理念としてのウンマがあるひとつの都市として具象化されることはないから,ここでは問題とはなりえないだろう。問題は,理念としての「イスラーム都市」が存在するかどうかである。
ⅱ.は別として,ⅲ.の規定は,都市のレヴェルでは捨てがたい。インドネシアやマレーシアなど,ムスリムが大多数を占める都市を「イスラーム都市」あるいは「ムスリム都市」と呼ぶのにそう違和感はないからである。しかし,都市全体をそう規定することができるかどうかは疑問である。問題にできるのは,ムスリムの居住区や街区のレヴェルに限定されるであろう。
結局,「イスラーム都市」と規定できるのは,ⅳ.の歴史的「イスラーム世界」における都市,すなわち「支配者がムスリムでイスラーム法による統治が行われていた」都市ということになる。逆に言えば,歴史的な限定の上であれば「イスラーム都市」という概念を問題にしうる,ということである。
この歴史的な「イスラーム都市」をまず振り返る必要がある。その作業において,都市とイスラームをめぐって基本的な概念を整理しなければならない。究極的にはイスラームとは何か,ということになるが,イスラームにおける,宇宙,国家,社会,都市,街区,住居などに関わる空間概念について考察したい。具体的には,都市と農村,遊牧と牧畜の関係,都市の形態,居住地の空間構成が焦点となるであろう。
以上の作業を踏まえた上で,イスラーム侵入以後のインドの諸都市を問題にしたいと思う。インド世界へイスラームが及ぶのは8世紀初頭のことである。最初にイスラーム化されたのはシンド地方である。アラブの核心域からのイスラームの伝播は,紅海ルート,ペルシア湾ルートを通じての海域ルートが先行する。しかし,シンド地方からイスラームがインド亜大陸にそのまま伸張していったわけではない。イスラームがアム河を越えるのは10世紀末以降のことである。
トルコ系ムスリム諸族の西北インドへの侵入は,十世紀のガズナ朝(977-1186)勢力に始まり,ゴール朝(1148-1215)が続いた。そして,ゴール朝のインド方面の領土は,マムルーク出身の将軍クトゥブ・アッディーン・アイバク(在位1206-10)に継承される。このアイバクが,チャーハマーナ朝(973頃-1192)の都であったデリーを拠点に建てたのが,いわゆる奴隷王朝(1206-90)である。以降,デリー・サルタナット(デリー・スルタン朝)と呼ばれる5王朝が継起する。そして,最後のロディー朝を倒して,ムガル朝を樹立するのがバーブルである。ムガル朝において,インド・イスラーム世界が本格的に形作られることになる。イスラームの西北インドへの侵入の拠点となったのがラホールであり,興亡の中心であり続けたのがデリーである。デリー・サルタナットに反旗を翻した地方政権が建設したのがアフマダーバードである。
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