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2021年2月23日火曜日

ミャンマーの曼荼羅都市――インド的都城の展開 Maldala Cities in Myanmar- The Development of Hindu City

traverse06 2005 新建築学研究06 

 ミャンマーの曼荼羅都市――インド的都城の展開
 Mandala Cities in Myanmar- The Development of Hindu City 
布野修司 
Shuji Funo

 はじめに 
 『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会)を上梓(2005年2月)して、その「あとがき」に記したように、次の目標となるのは二つの方向である。一つは現代都市とりわけ植民都市を基礎として巨大都市としに発展した都市をフィールドワークに基づいて解明する方向、もう一つは、オランダ植民都市以前(17世紀以前)の各地域における都市の伝統を明らかにする方向である。本稿では、後者の方向の作業として、インド的都城の伝統を概観したい。これまで、チャクラヌガラ(ロンボク島、インドネシア)、ジャイプル、マドゥライ(インド)について詳細調査を展開してきたが、その3都市を核に一書にまとめられればと思う。
  『アルタシャーストラ』や『マーナサーラ』などが理念化するインド的都城の形態をそのまま実現したと考えられる例は、シュリランガム、マドゥライ、ジャイプルを除くとほとんどない。しかも、シュリランガムにしても、マドゥライにしても、今日確認できる形態は15世紀以降の建設である。ジャイプル、チャクラヌガラは18世紀初頭の建設である。インドにおいてはシルカップのような事例以外、発掘調査の遅れや文献の偏りもあって、13世紀に始まるムスリム支配期以前に遡って都城の展開をたどることはできない。7世紀から13世紀について、インド的都城の理念を窺うのに極めて興味深いのは東南アジアである。支配の正統性を都城の形態として表現する必要性は、その理念を生んだ王権の中枢よりは周辺において必要とされるのである。
  東南アジア地域の「インド化」が開始されるのはおよそ紀元前後のこととされる。「インド化indianization」とは、インド世界を成り立たせてきた原理あるいはその文化が生んだ諸要素、具体的には、ヒンドゥー教、仏教、デーヴァ・ラージャ(神王)思想、サンスクリット語、農業技術・・・などが伝播し受容されることをいう。とりわけ、7世紀から13世紀ころにかけて東南アジアは、インド文明とりわけヒンドゥー教によって席巻される。これを東南アジアの「インド化」と呼んだのはG.セデスである 。
  インド化以前の東南アジアには、水田稲作、牛・水牛の飼育、ドンソン青銅器文化、鉄の使用、精霊崇拝、祖先信仰・・・など、ある共通の基層文化の存在が想定されている。G.セデスは先アーリヤ文化と呼ぶが、その段階でもインド亜大陸と東南アジアとの頻繁な交流はあり、例えば、水牛はインド東部で家畜化されて伝来された可能性が高い。インド文化の諸要素の伝来にあたって、インド亜大陸の先住民であるオーストロアジア語族系集団がアーリヤ人の進入とともに移動し、その文化を東南アジアにもたらしたという説もある。 カースト制は何故東南アジアには伝えられなかったかなど、東南アジアの「インド化」をめぐる議論は興味深いが、ここでは都市の形態を焦点としよう。すなわち、都市の「インド化」、インド的都城の理念の移入、受容を問題にしよう。
  G.セデスは、「インド化」の各地域における様相を時代毎に輪切りにしながら 、各地の碑文、文献の記述を照合している。13世紀半ば以降、東南アジアを席巻してきた「インド化」の流れ、「サンスクリット文化」は勢いを失う。代わって、支配的になるのは南方上座仏教である。これを「シンハラ化」と呼んで「インド化」と区別する主張もあるが、上座仏教も大きくはインド化の一環である。千原大五郎 は、このG.セデスの時代区分を下敷きにしながら、東南アジアに残る都市遺構、建築遺構を総覧しているが、現存する七世紀以前に遡るヒンドゥー建築、都市の遺構はほとんどない。また、都市の理念を詳細に明らかにできる事例はそう多くはないし、都市は大きく時代の変遷を刻んできている。主として手掛かりとするのは、現存する都市遺構であり、現在の形態である。
  アンソニー・リード は、15世紀末から17世紀にかけて、彼の言う「交易の時代」に、東南アジア各地に存在した都市について、諸文献の推計を整理してまとめている 。A.リードは、こうした東南アジアの都市の構造は、内陸の都市であれ港湾都市であれ、基本的に同じであり、宇宙の構造を映すべく建設されたものだという。タンロンしかり、ペグー、アヴァ(インワ)、アメラプラ、マンダレーなどビルマ(ミャンマー)の都市しかり、アユタヤしかり、である。「交易の時代」は、こうした「宇宙を孕んだ都市」を激しく揺さぶるのである。この「宇宙の構造を映すべく建設された都市」がミャンマーのペグー、アヴァ、アメラプラ、マンダレーである。

  ビルマ(ミャンマー)  ビルマ(ミャンマー)の諸王朝と王都の変遷は極めて複雑である。古来、ピュー、モン、ビルマ、シャン、ラカイン(アラカン)、カチン、カヤ、チンなど多くの民族の攻防があり、現在のミャンマーの時間空間(国土と時代)を把握するのは容易ではない。イラワディ(エーラワーディ)河流域を中心とした交通、沿岸部におけるインドあるいはクメールとの交通など、国境に囚われない大きな社会文化生態学的把握が必要である。 イラワディ河中流域を中心に栄えたピュー以降、ビルマ(ミャンマー)史は、統一王朝として、アノーヤター王によるパガン王朝(1044~1287年)、バインナウン王によるハンサワティ=ペグー王朝(1287~1539年)、アラウンパヤー王によるコンバウン王朝(1752~1885年) の創始が大きな区切りとされている。加えて、インワ王朝(1364~1526年)、タウングー王朝(第1次1486~1599、第2次1597~1752年)が主だった王朝である。ビルマでは、パガン、タウングー、コンバウン朝をそれぞれ第1、第2、第3帝国と呼ぶことが多い。
  パガン王朝がモンゴルの侵略によって滅亡すると、イラワディ川流域は諸王国、諸王朝が群雄割拠する状況となる。諸王朝の拠点となった都市を挙げると以下のようである。  サガインSagain(1315-64, 1760-64)  インワInwa(アヴァAva)(1364-1555、1629-1752、1765-1783、1823-1837) タウングーTaungoo(1486-1573) シュエボーShwebo(1758-1765) コンバウンKonbaung(1783-1823、1837-1857) マンダレーMandalay(1857-1885) 1885年にビルマ王国は滅亡し、1886年に全土が英領インド帝国へ編入されることになる。 以下、シュリークシェトラ、パガン、ペグー、アヴァ、アマラプラ、マンダレーについて、その都市計画理念を検討しよう。

  1 シュリークシェトラ 
 イラワディ(エーヤワーディAyerarawady)河上・中流域には、古くからピューPyu(驃)と呼ばれる先住民が居住し、シュリークシェトラSri Ksetra(タイェーキッタヤーThayekhittaya)という王都(3~10世紀 図1)を建設していたことが知られる。ビルマの年代誌は、シュリークシェトラにはインドラ神などの神々によって須弥山の上に32の門をもつ都市が建設されたと伝えており、遺構は、その宇宙観を象るかのように円形をしており、多くの門が確認されている。32の門は32の属領に対応するもので、32人の封臣に囲まれて、その中心に王が住んでいたことを示唆する。


 その他、ベイタノーBeikthano(1~5世紀 図3)、ハリンヂーHanlin(3~9世紀)、マイミョウ(マインモー、2世紀後半~6世紀末)(図2)などには、インドとの関係を窺わせるストゥーパなど建築遺構が残されている、例えば、ベイタノー遺跡には南インドのアーンドラ朝(c.紀元前.1世紀~紀元3世紀)の影響があるとされる。また、シュリークシェトラ遺跡にはアマラーヴァティー地方、あるいはベンガル、オリッサ地方の影響がうかがえるパゴダが残されている。 ビルマ西北部、ベンガル湾沿岸に古くからのインド化国家ダニャヴァティーDhanyawady(~6世紀)が知られる。ラカイン(アラカン)族の支配域で、ヴェサリVesali(Wethali 4~9世紀)、ムラウウーMrauk U(ミョハウン)(13~18世紀)を拠点としていたと考えられている。ダニャヴァティー、ヴェサリの遺構は王宮を中心に市街を丸く囲む形態をしている 。 こうした、初期の円形の都市の系譜は、方形の都市の系譜へ転じていくように思われる。  
 
 2パガン(バガン)
  9世紀から10世紀にかけて、ビルマ人がイラワディ川流域に南下してくる。ビルマ語の南北を指す言葉が、南=山、北=川下を意味することから、ビルマ族の原郷は現在のミャンマーではないと考えられている。山とはヒマラヤであり、北に揚子江あるいは黄河が流れている地域が母地と考えられる。中国史料が蕃夷という氏羌(ていきょう)族はチベット・ビルマ族系の諸民族とされる。  黄土高原に居住していた氏羌族は、漢民族との抗争に敗れ、南下して730年に統一国家「南詔」を建てる。この南詔がビルマ族の祖先に関係すると考えられている 。  南詔の圧政を逃れてきたビルマ族の最初の入植地はチャウセー、第二の入植地はミンブーとされる。 彼らはヤカインkaingと呼ばれる「四角い村」 を建設する(図4)。ヤカインとは、単一首長のもとの地域、国を意味し、その中心には城壁都市を置いた。そして、ビルマ族がうちたてたのがパガン王朝(11~13世紀)である。ビルマの最初の統一王朝とされる。クメール、ジャワと並んで、パガンは、東南アジアにおけるヒンドゥー・仏教の三大中心となる。
パガン朝の創始は2世紀初頭とする伝承もあるが、ピュー族、モン族を攻略したのが九世紀前半であるからそれ以前には遡らない。それ以前には、土地神であるナッNatを崇拝する村落が連合し、次第に国家が形成されていたと考えられている 。バガンの南東20kmに第一の王宮ヨンリーチュンYon HllitKyun(2~4世紀)があり、現在のバガン・ミョシット(ニュー・バガン)に第二の王宮(4~6世紀)、第三のタンパワディ王宮(6~8世紀)もバガンの南東近郊に比定されている(図5)。
最盛期を迎えたのは、実在が確認できるアノーヤターAnawratah王(アニルッダ、在位1044~77年)以降の250年間である。1287年のモンゴル侵入による滅亡まで11代の王が確認されている。パガン朝の歴代の王らが造営した堂塔の数は5,000にも及び今日なお2,000を超える遺構が残っている。上座部仏教がパガン朝の中心であるが、8世紀以前には大乗仏教の影響が強く、さらにピュー族以来のヒンドゥー教の影響も色濃かったとされる。アノータヤー王は大乗仏教徒であった可能性が高い 。シン・アラハンによって上座仏教がもたらされるが、アノーヤター王は彼のためにタートンを攻撃して経典を手に入れたというエピソードがある。しかし、これは後代の物語とされ、三代目のティライン(チャンシッター、在位1084~1113年)が自らをシュリークセトラの系譜に属するとし、ヴィシュヌの化身であるとしたように、ヒンドゥー教、大乗仏教の影響は強かったとされる。現存する寺院としては、シヴァ神を奉るナスラウング・チャンNathlaung Kyaung寺院が唯一のヒンドゥー寺院である。ヴィハーラの遺構としてはソーミンディ、タマニ、アマナなどがあるが、中庭を囲む方形平面の基本型がある。 パガン朝の建築は、一般的に、北インド式の、すなわちシカラ風の、高塔を頂く。千原大五郎は、パガンの建築様式を以下のように4期に分けている。 ピュー様式期:10世紀中葉からアノータヤー王のタトーン征討まで。ブーパヤー、ナッフラウン・チャウンなど 初期モン様式期:1057-1084。ミンカバー、シュエサンドー、シュエズィゴンなど。モン人が移入してきたこの時期、11世紀中葉にいわゆるビルマ型のパゴダが成立している。 モン様式期:1084-1113、チャンスィッター王治世期。アーナンダー・パトなど。 ビルマ様式期:1131-1287。アラウンスィードゥー王治世(1113~1167)からパガン陥落まで。シュエグージー、スーラーマニなど。 現在のバガンに林立するパゴダ(ゼディ)からかつての繁栄を偲ぶことができるがその都城の形態は明らかでない。現在も王宮跡地の発掘が続けられている。残されている東の正門サラバル門は1090年頃の建造だという。城壁は、北が500m、東が1km、南が1.1kmほど残っている。高さ2.4m、厚さ3.5mの城壁の外側には幅50mの濠が廻らされている。大きく湾曲しており、計画性はあまり感じられない。というより、歴史的に破壊、修復、補強を繰り返したと見るべきであろう。イラワディ川に接する西側は流れの変化に応じて変化を被ったことが考えられる。 興味深いのは、東と南に3つの門、北に2門が残っていることである。西門はイラワディ川に面し、しかも現状では西側城内は大きく欠損しているが、推定できるのは各辺3つづつ12の門をもつ構成であったことである。王宮跡地もがほぼ中央に位置している。その理念を窺うためには、発掘成果を待たねばならないが、後に見るアマラプラ、マンダレーと同様の構成であった可能性が高い。 

 3 ペグー
  パガン朝がクビライ・カーンの元軍に敗れて滅亡すると、中央平原地帯の各所にミョウmrujwと呼ばれる城市が成立し始める。このミョウの構造と機能は、同時代のメナム盆地のムアンに似ているという 。カヤインあるいはウィエンとの関連も興味深い。ウィエンは、チェンマイに即して見たようにモン族の伝統とされるのである。 ピュー族とともに、下ビルマにインド化以前から先住していたのがモン族(タライン族)である。タトゥンThatôn(7~10世紀)、ペグーPegu、ダゴンDagon(ラングーン)などを拠点とするラーマンニャ・デーサなどモン人国家が成立していたことが中国史料やパーリー語年代記によって確認されている。 パガン朝の終末と平行して、エーヤーワディ下流域のモッタマ・ミョウに、スコータイ王の後ろ盾によってワーレルーWareru王(1287~96年)が政権を樹立する。王朝はチェンマイ、スコータイ、アヨードヤの脅威を受け続け、1369年に都をペグー(バゴー)に移す。伝説に依れば、ペグーの起源はハンサワティHanthawady(ハンターワディHamsavati)という町である 。白鳥が浅瀬の小さな土地に飛来したことに由来する。現在その地には、ヒンサゴン・パヤが建てられている。モン族が居住し始めた当初の町にはインドからの移住者が多く含まれており、この土地をウッサUssaと呼んだという。彼らはオリッサと関係があったと考えられる。825年頃、タトゥンからタマラとウィマラという2人の兄弟のモン人僧がやってきて最初の都市が造られたという。 後期モン王朝とも呼ばれるハンサワディ=ペグー王朝(1287-1539年)の間、ペグーは南ビルマを束ねたモン族の王都として栄えた。ラーザーディリRajadarit(1385-1423)、シンソープ Shinsawbu(1453-72)、ダンマゼーディー Dammaceti(1472-92)などの諸王のもとで上座仏教体制が確立されるのである。この時代の市壁がシュエモードー・パヤの東に残されている。 ペグーは、1539年にタビンシュエーディTabinshweti王によってタウングー王国に服属させられ、再びビルマ族の支配下に置かれる。上ビルマをシャン人が支配する中で、スィッタン川上流域に勃興したのがタウングーで、ミンチーニョウ(在位1486~1531年)が王朝を建て、ダビンシュエーディがそれを継いだ。次の第三代バインナウンBayinnaung王が1566年に新都を建設し、ハンサワディと名づけた。この新都が極めて理念的に設計された王都として知られるペグーである(図6)。
ただ、このハムサワティの遺構は、古い濠を廻らした城壁の跡以外に現存しない。シュエモードー・パヤは古い伝承をもつが、歴代の統治者がしばしば増拡を繰り返してきた。現在のものは1954年のものである。また、994年の創建という横臥仏(寝仏)シュウェタリャウング・ブッダが著名であるが、現存するのは1906年建設である。しかし、近年発掘が行われつつあり、バインナウン王が建設した王宮の復元も行われた。下ビルマの歴史都市の中でも、明快な理念を確認できるのがバインナウン王によるハンサワディである。 15世紀半ば以降、ペグーの地を多くの外国人 が訪れ、記録を残しているが、16世紀中葉(1567年)にペグーを訪れたヴェニスの商人カエサル・フレデリックは、バインナウン王の下で新しく建設された都市について次のように書いている 。 「新しい都市には王宮と直臣、貴族などの居住地がある。私の滞在中に、彼らは新都市の建設を終えた。巨大な、極めて平らかな、正方形の都市である。城壁で囲われ、その回りに濠が廻らされていて、鰐が放たれている。橋はないが、各辺5つずつ計20の門がある。・・・街路は私の知る限り最も美しく、門と門の間を真っ直ぐに繋いでいる。一方の門の前に立てば他方が見渡せ、10人から12人が並んで騎乗できるほど広い。・・・王宮は都市の中心にあって城壁で囲われ、さらに濠が廻らされている。」 以上から、新しく建設されたペグーは6×6の分割パターン、『マーナサーラ』にいうウグラピータUgrapīthaを基礎にしていたことが明らかである 。 また、もうひとつ考えられるのは、タウングーがモデルになっていたことである。タウングーは極めて整然とした矩形(正方形)をしている。分割のパターンは明確化できないが、東西南北に門を持つ形式(ダンダカ)である。タウングーの都市理念について、まず考えられるのは、「四角い村」カインの伝統である。そして、インド的な都城理念の影響である。 全36区画から中央の王宮の4区画を引くと32となる。この32という数字、中央の1を足して33という数字は、偶然ではないであろう。上座部系仏教において、メール山(須弥山)の頂上に住むとされる神々が33である 。東南アジアでは、33は、家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数とされている(図7) 。ペグーがその宇宙観に基づいて首都を建設したのは明らかである。
バインナウン王の死後、王朝は衰退し、第四代ナレースエン(在位1581-99年)の代で崩壊する。第1次タウングー朝は一世紀の命であった。新都は半世紀もたなかったことになる。1740年にモン族が蜂起し、ペグーを再び首都とするが、1757年にアラウンパヤーAlaungpaya王によって完全に破壊されてしまう。アラウンパヤー王は上ビルマの王となり、1852年の英国への服属までアヴァの支配下に置かれる。ボードーパヤ王(1782~1819年)によってある程度再建されるが、バゴー川の流れが変わり、港の機能を失うとともにペグーはかつての栄光を失うことになった。

 4 インワ(アヴァ)
  タウングー朝の再興は、ニャウンヤン(在位1604~06年)によってなされる。彼は古都インワに新たにミョウを建設し(1597年)、新都とする 。 インワ(アヴァ) は、もともとサガインを拠点としたシャン族によって築かれた都市であるが、1364年にビルマ族の王都となり、以降400年にわたって王都であり続けた。ただ、ここでも多くの攻防があり、棄都、遷都が繰り返されている。インワが最終的に放棄される大きなきっかけになったのは1838年の地震である。王都は大きく破壊され、1841年に遷都が決定されたのである。 インワは、北はイラワディ河、東はミットゥゲMyitnge川によって区切られている。ミットゥゲ川はもともと人工の運河で、インワは運河に囲われた水都である。インワとはシャン語でインレイIn-Lay「湖への入口」という意味である。物資の集散する要衝の地に位置し、雨期には船でしか行き来できない独立性の高い島となる。アユタヤに似ている。 かつてのインワは、現在では大半が耕地と化している。残された遺構もマハー・アウンミェー・ボンザン僧院と珠玉の木造僧院バガヤ・チャウンぐらいである。ただ、濠と城壁の跡は確認できる。 興味深いのは、まず、各辺2門をもつグリッド・パターンをしていることである。東西が長い長方形をしているけれど、インワがバガン、トゥングー、ペグーの都市理念を引き継いでいることは明らかであろう。 また、城郭二重の構造が明確に窺えることも興味深い(図8,9)。北東の角に城塞が置かれ、その中央に王宮がある。そして、市街はジグザグの市壁と濠でさらに囲まれている。このジグザグの形態は、ビルマの他の都市には見られない。南北は対称になっており幾何学的である。市街といっても、水田ないし池、あるいは運河網である。基本的にインワは水利都市、水生都市であり、郭壁は水の制御のために設けられたものである。

 5 アマラプラ
  第2次タウングー朝は、タールン王(在位1629~48年)の死後衰退を始め、最終的にはペグーを拠点とするモン人勢力によって1752年に滅亡する。その年、モーソーボー(シュエボ)の首長であったアウンゼーヤがペグー軍を退け、自ら王であることを宣言、アラウンパヤーを名乗った。コンバウン朝(1752~1885年)の成立である 。  アウランパヤー以下、コンバウン朝の王たちは「ビルマ世界」の実現を目指した。「ビルマ世界」とは、地理的には、東はベトナム、西はインド、北はアッサム、南はスリランカに至る世界である。歴代の王はその世界の征服を目指して征服行動を繰り返した。  「ビルマ世界」構想を支えたのは、仏教の宇宙観である。アウランパヤー王、シンビューシン王、ボードパヤー王は、支配の正統性を主張するために自らを転輪聖王を名乗った 。  その首都は転輪聖王の支配する宇宙の中心に位置するものでなければならなかった。 アマラプラは、ボードーパヤーBodawpaya王によって1783年に建設される。1823年にバジドーBagyidawによってインワに王都が戻されるが、1841年に再び王都となる。そして、ミンドン・ミン王によってマンダレー遷都が決定され、1860年に完了する。アマラプラの王宮の木造建造物はマンダレーに移築され、残っていない。アマラプラは「不死の都」という名にも関わらず短命であった。  その都市形態は、残された地図に依れば、理念をそのまま具現するように、極めて整然としている。そして、そのことは王宮の北にあった寺院マ・パ・チェ・パヤMa Pa Khet Payaに残された地図からも確認される。各辺3門、大きくは4×4=16のブロックに分割され、さらに各ブロックは3×3=9のナインスクエアに分割されている。従って、全体は12×12=144の区画からなる。中央の王宮は、そのうち、東西4×南北5=20区画を占めている。北東、南東、北西、南西の4隅にはそれぞれパヤ(ツェディ)が置かれている。  現在復元中のマ・パ・チェ・パヤに残された地図に依れば、王城内の居住の様子をある程度窺うことができる(図11)。
 4×4=16ブロックを、東を上、北を左にして北東角を(1,1)、南東角を(1,4)、北西角を(4,1)、南西角を(4,4)のように示すと、パゴダは以上の4隅の他、(1,2)に1、(1,4)に2、(3,4)に1、計8つある。ミンドン王の邸宅は(2,4)、チボー王(王子)の邸宅は(4,3)にあった。女王の邸宅はは第1(4,3)、第2(4,1)、第3(3,4)の他、(3,2)(4,1)(4,3)合わせて7ある。西北に集中するのに対して、王子宅は(2,3)(2,4)(3,4)に集中している。  王宮周辺には、高官が居住するが、外国からの賓客を応対する外務大臣は(3,1)、隣接して接待所が設けられていた。通訳はかなり多く、(1,3)に6、(3、4)に4人など13人確認できる。アマラプラは国際都市であった。タイの大使は(2,1)に居住していた。国王の行動を知らせる官房長官は(2,3)、他に法律家、休廷料理人、刑務所などが王宮周辺にあった。その他、占星術師・占い師(1,2)(1,3)、音楽師(1,4)、大工(1,2)なども城内に居住していた。  14世紀モン人のハムサワティは三つの地方のそれぞれが32のミョウに分けられていたが、コンバウン朝の王は政治的伝統として32ミョウを意識していたという。  現在、4隅のパゴダは残されているが、他の敷地の大半は軍隊が利用している。 

  6 マンダレー 
 ミンドン・ミン王は、1853年に王位を継承すると、前首都アマラプラを棄て、1857年に新首都マンダレーの建設に着手する。5人の監督官が指名され、新都建設に伴って15万人が移住したという。  下ビルマへ英国の侵入を許した事態を前にして、新首都は新たな仏教世界のヴィジョンを表すものでなければならなかった。新たな世界は若い仏教徒である王によって築かれなければならなかった。マンダレーという名前は曼陀羅に由来する。宇宙の中心に位置すべきなのがマンダレーである。 しかし、マンダレーは束の間の曼陀羅都市であった。英国はマンダレーを占領(1886年)すると、宇宙の中心としての都市をダフェリン要塞Fort Dufferinに改造してしまう。要塞は、英軍司令部をはじめ、植民地政府関係の機関で占められ、住民は市の南部に移住させられた。英国は、その後、王宮、城塞、城門などを復元するが、第2次世界大戦の際、全ては破壊されたのであった。  マンダレーの王宮博物館、またマンダレー博物館に残された地図は極めて明快である。城郭とも綺麗なグリッドによって構成されている。全体は大きく4×4=16ブロックに分割され、さらに各ブロックが3×3=9(ナインスクエア)区画に分けられて12×12=144区画からなるのはアマラプラと同じである。しかし、最外周の中央に城壁が設けられているから、最外周の区画は半分の区画となる。中央は10×10=100区画となる。その内、中央の王宮が4×4=16区画を占める(図12)。
形状、規模について、オコノーは、「完全な正方形で6,666フィート四方。城壁の高さは18キュービット、555フィート毎に金色の尖塔をもつ監視塔が設置された 。12の門をもち、4つの主門は王宮の東西南北に置かれる。」と書いている。また、アウン・ソー は、「城塞は正方形で各辺10ファロン 。城壁の高さは25フィート。12門が等間隔に配され、ピャタットpyattatと呼ばれる木造の塔が中間の小塔32と合わせて48ある。濠の幅は225フィート、深さは11フィートである。5つの木造橋のうち、4つは東西南北の王道に繋がっている。」という。さらに、ディダ・サラヤ は、「城壁は各辺2,225ヤード、それぞれ3つのポルティコを持ち、中央は正確に東西南北を向いている。市壁に沿って、89ワwa(178m)毎に胸壁が設けられピャタットが建てられている。市壁は高さ27フィート、厚さ10フィートである。銃丸は7フィートの高さに設けられている。濠は城壁から135フィート外側に、幅250フィート、深さ11フィートである。」という。  各辺の長さ、6,666フィート、10ファロン、2,225ヤード は微妙に異なる。10ファロンは2200ヤードだから5ヤード=4.572m違うが、2,225ヤードは6,675フィートであり、1フィートを30.48cmとすると、ほぼ2km(2031.8m~2034.5m)である。現在のマンダレー旧城内は軍が使用し、王宮以外は侵入地域となっていて実測ができない 。しかし、現行地図、航空写真から各辺がおよそ2kmであることは裏づけられる。問題は、計画の際にどういう単位を用いたかである。10ファロンというのは区切りがいいが、6,666フィートというのは少し不自然である。 現在ミャンマーで使われる寸法は、英国支配の歴史を受けて、ヤードである。伝統的にラマrama、ペイpei、ガイgaiが用いられてきたが、12ラマ=1ペイ、3ペイ=1ガイで、市販されている物差しは1ガイ=915mmであるから、ヤード=3フィートとほぼ同じである。別に、タールtarという単位が用いられ、300tar=約1kmという。1tar=4gaiとなる 。 以上を基に計画寸法を推定すると、図のようになる。重要視したのは王宮博物館に残された模式図である。すなわち、最外周は1/2区画となっていることから、城壁内部の規模は11×11=121区画と考える。4×4=16のブロックは600gai(150tar)四方、各区画は200gai(50tar)四方とすると、各辺は100gai+200gai×10+100gai=2200gaiとなる。街路幅は、航空写真および城外の実測から60gaiと推定できる。  入手できた二葉の地図から、マンダレー城内の居住形態について窺うことができる(図13、14)。
4-5 ジャワ  アンコール期のクメールに先立ってヒンドゥー・仏教建築の華を開かせたのはジャワである。これまでに出土したサンスクリット碑文や中国史料 から5世紀にはジャワにインド文明が及んでいたとされる 。 チャンディ ・アルジュナ、チャンディ・ビマなど最古の建築遺構は中部ジャワのディエン高原にあり、7世紀のものという。以降、7世紀末から10世紀初頭にかけて建てられた数多くの建築が中部ジャワには残っている。中部ジャワ最初のインド化国家とされるマタラム の王都はメダンと呼ばれたことが碑文から知られるが、その場所についてははっきりしたことはわかっていない。やがて、シャイレンドラ朝(750~832年)が盛んになり、ボロブドゥールなど仏教建築を建造する。832年ごろシャイレンドラ朝のサマラトゥンガ王が死去し、マタラム王のラカイ・ピカタンが実権を握ると、仏教に代わってヒンドゥー教の建造物が盛んに造られるようになる。  数多くのチャンディのうち、最も著名なのはチャンディ・ボロブドゥールとチャンディ・ロロ・ジョングラン(別名プランバナン)である。前者はシャイレンドラ朝による大乗仏教の遺構であり、1814年に「発見」された。6層の方形段台ピラミッドの上に3層の円形段台が重ねられ、中心ストゥーパをとりまいて3層円形段台上に各32、24、16の計72基の小ストゥーパが円形に並べられている。各層の壁面は仏典にまつわる浮き彫りのパネルによって飾られている。ボロブドゥールが一体何を意味するかをめぐっては、様々な解釈がなされている。チャンディ・パオンとチャンディ・ムンドゥットが一軸上に並んでいることで1つのグループと考えられている。興味深いのは、中部ジャワにおけるチャンディのほとんどが東あるいは西を向いている中で、この二つのチャンディが西北を向いていることである。 チャンディ・ロロ・ジョングランはシヴァ神を主神とするヒンドゥー寺院で、856年の創建とされる。大小240のチャンディ群からなり、大きく外苑、中苑、内苑の三つの境内にわかれる。内苑には中心祠堂と両側の脇祠堂にそれぞれ対峙する少祠堂合わせて6つのチャンディが建っている。  他にチャンディ・コンプレックスとして、チャンディ・セウ、チャンディ・ルンブン、チャンディ・プラオサンなどがあり、いずれも極めて幾何学的な構成をしている。  ヒンドゥー・ジャワ文化の中心はやがて東部ジャワに移る。929年に即位したシンドク Sindok 王(在位929‐947)の時、おそらく噴火,大地震,伝染病,外敵侵入のうちのいずれかの理由により,都は東部ジャワ内陸部のクディリに移動するのである。以降1222年の滅亡まではクディリ朝と呼ぶが、王たちは依然としてマタラム王を称していた。ヒンドゥー王国の中心は、クディリ(c.930~1222年)から、シンガサリ(1222~1292年)、マジャパヒト(1293~c.1520)年に移る。いずれもブランタス川の上流に位置し、スラバヤがその外港である。  東南アジアの大陸部においては、シンガサリ王国の成立した13世紀は大きな転換点とされる。インド的な統治様式の限界が明らかになり、サンスクリット文化が衰退するのと平行して、土着の年代記が編纂されるようになる。タイ人の台頭がその象徴であり、13世紀には、現在の民族分布がほぼ定まったとされる。しかし、このG.セデス流の見方は島嶼部においては当てはまらない。クディリ→シンガサリ→マジャパヒトという王国の変遷においても、インド的な枠組みは維持され、いずれもヒンドゥー教、大乗仏教を基礎とする国家であったのである。また、ジャワでは9世紀の初めから碑文の言語は古ジャワ語に切り替わっている 。  東ジャワ期になるとヒンドゥー教と大乗仏教の混交は一層進み、密教化する。ストゥーパ、ヴィハーラはなく神像を収めた祠堂チャンディが各地に残されているが、中部ジャワ期と比べると、一般的に幅が短く高さが高い。また、カーラ・マカラ装飾のうち上部のカーラのみとなる。カーラは陸の、マカラは海の、いずれも想像上の動物で開口部の上下に用いられる装飾である。多くの遺構があるが、バリ島のゴア・ガジャ、グヌン・カウィはクディリ朝のものである。チャンディ・キダル、チャンディ・ジャゴ、チャンディ・パナタランがシンガサリ朝の代表的チャンディである。また、トロウラン周辺にチャンディ・ジャウィ、チャンディ・ティクスなどマジャパヒト王国の遺構が残っている。  シンガサリ=マジャパヒト王国の歴史については、マジャパヒト王国の宮廷詩人プラパンチャが1365年に書いた『ナーガラクルターガマ』が知られる。このロンタル椰子の葉に書かれた作品が発見されたのがチャクラヌガラの王宮であることは冒頭に触れた通りである。その後、1979年にバリで、H.I.R.ヒンツラーHinzlerとJ.ショテルマンSchotermannによって、異本『デーシャワルナナ』が発見され、S.ロブソンによって英訳されている 。「デーシャワルナナ」とは「地方の描写」という意味であり、もともと『ナーガラクルターガマ』も本文に明記されている名前は、「デーシャワルナナ」である。『デーシャワルナナ』は、シンガサリ王国の創建者ラージャサ王の誕生に始まり、1343年のバリ遠征で終わる。ジャワの歴史については、もうひとつ、作者不詳の『パララトン』 が知られる。王の事績を編年体で記した年代記で、ラージャサ王の誕生に始まり1486年の記事で終わる。 『デーシャワルナナ』の第2章はマジャパヒトの首都についての記述に当てられている。その形態を復元する大きな手掛かりである。 マジャパヒト王国は、16世紀初頭には、イスラーム勢力に追われてバリ島に拠点を移すことになる。このヒンドゥー教の衰退期におけるユニークな遺構がラウ山、プナクンガン山に残るチャンディ・スクとチャンディ・チョトである。

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