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2024年6月15日土曜日

西スマトラ地震被災調査緊急報告「バラック建ての木造建築群の被害はほぼ皆無 生活の証を継承」建築ジャーナル,201001



建築ジャーナル海外レポート

西スマトラ地震被災調査緊急報告

布野修司(滋賀県立大学)

 

東京文化財研究所に拠点を置く文化遺産国際協力コンソーシアムの末端の一委員に加えて頂いている縁で、また、インドネシアには布野は強いであろうという誰かの思い込みがあって、ユネスコ(ジャカルタ事務所)およびインドネシア政府の要請で、西スマトラへ行ってきた。去る930日(2009年)に西スマトラを襲った地震の被災の実態調査と復興計画の指針、アクションプランを提言するというのが一週間という短い期間に課せられたミッションである。メンバーは、清水 真一 (文化遺産国際協力センター)、武内正彦(文化庁)、竹内 泰(宮城大学)、秋枝ユミイザベル(東京文化財研究所)、田代亜紀子(文化遺産国際協力コンソーシアム)、そして、布野である。

 限られた時間での限られた範囲の調査であるが、それでこそ、フィールドワーカーの経験と能力が問われる。レポートの内容は、機会があれば公表することとして、以下は、直感的緊急速報レポートである。

 西スマトラ、パダンへは実に30年振り、二度目であった。東南アジア研究にのめり込むことになるきっかけとなった最初の旅であったが、その目的は、緩やかにカーブを描いて反る棟、ゴンジョングGonjongと呼ばれる尖塔で有名な、世界最大の母系社会を形成するミナンカバウMinangkabauの民家であり、パダンという都市には泊まっただけだから、初めてのようなものであった。

3日間歩き回ったけれど、パダンは魅力的な都市であった。その都市形成の歴史を記すスペースはここではない。多くの歴史的遺産がダメージを受けた。この遺産をどう再建するのか、どう復興計画につなげていくのか、ミッションは重い。

戦前のインドネシアで都市計画に活躍したオランダの建築家、T.カールステンの設計した市庁舎が多少のクラックが入ったけれど健在であったのは感激であったー彼は日本の捕虜収容所で1945年に死んだー。デルフト工科大学の同級生(1911年卒)で彼を蘭領インドネシアに呼んだM.ポントの仕事についても思い起こした。

 大規模で、3階以上、RC構造、したがって多くの公共建築、とりわけ、官庁建築、そして小中学校など学校建築が軒並みやられている。官庁建築は、1980年代以降、ミナンカバウのゴンジョングを屋根に載せたインドネシア版「帝冠様式」で設計されてきたが、それらがほぼ半壊していた。最悪なのは、スマトラ最大級の図書館、公文書館が倒壊し、貴重な文書が失われたことである。文書だから掘り返せば、と思うけれど、雨季で、連日のシャワーである。シャワーといっても日本の大雨の10倍ぐらいの激しさである。現場に行ったけれど如何ともし難い。都市の記憶を繋ぐ、ひとつの大きな手掛かりは歴史的建造物だけど、それも相当ダメージを受けている。

しかし、伝統的な木造建築、そして平屋の建築はほとんどびくともしていない。バラック建ての木造建築群が何事もなかったようであったのは感動的ですらあった。さすがに、震源地に近い村では、平屋のレンガ造も決定的ダメージを受けていたが、不思議なことに、幹線道路、電気、水道といったインフラストラクチャーにダメージがほとんどなかった。それが救いである。また、応急仮設住宅地などというのは必要ない。皆壊れた自分の家の近所で頑張っている。この仕組みこそ、維持されるべきであり、日本が失い、あるいは捨ててきたものではなかったか。

阪神淡路大震災以降、ずっと考え続けているけれど、壊れても人命が失われないシステム(設計、まちづくり)、生きた証が継承される空間システムがあらゆるところで必要なのである。












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