中国都城の基本モデルを叙述する史料として古来一貫して言及されてきたのが『周礼』「考工記」「匠人営国」条である。その解釈をめぐって議論は終息することはないであろうが,その断片的な引用による拡大解釈を予め排除するためにも,解釈のための前提条件ははっきりさせておく必要がある。特に都城の空間的編成について,「匠人営国」条は必ずしも充分に読み込まれたとはいえない。
『周礼』は,『周礼』は,周代の官制,行政組織を記した書で,中国古代の礼書,三礼(さんらい)(『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』)[1]のひとつである。周公旦[2]の作と言われるが,内容的には疑問視されている。秦の始皇帝の焚書を経て,漢代に編纂されたものが伝わる。すなわち,前漢の河間国の献王劉徳(BC.155~130)が伝えた「古文尚書」(河間献王本)[3]のひとつで,『周官』は五篇のみで,冬官は失われており,『考工記』によってそれを補ったものとされる。王莽(BC.45~AD.23)[4]の側近である劉歆(?~23)[5]により捏造されたのではないかとする説もある[6]。いずれにせよ,『周礼』六官(篇)のうちの冬官に当たるのが『考工記』であり,その成立年代は他の五官より下がる。『考工記』の成立をいつの時代とみるかは極めて重要であり,様々な解釈の立論に大きくかかわることになる。
『周礼』『儀礼』『礼記』の三書を総合的に解釈する「三礼の学」を作り上げたのは,後漢の代表的儒者である後漢末の鄭玄である。『周礼』解釈に大きな役割を果たし,後世に大きな影響を与えたのは『鄭玄注』である。『礼記』には,戦国・秦・漢の礼家のさまざまな言説が集められているが,現存の『礼記』49篇は,唐代,『五経正義』に取り上げられ,鄭玄注に孔穎達が疏をつけた『礼記正義』が作られ,『十三経注疏』に収められている。「礼」について,『鄭玄注』が後世に大きな影響を与えたことははっきりしている。少なくとも,後漢(東漢)洛陽以降の都城建設については,鄭玄の『周礼』解釈は前提となる。
都城の建設は,「天下」,すなわち王権の正統性の問題と大きくかかわる。古代中国において,王朝の交替を正統化する理論とされたのは「天命思想」,そして「易姓革命」である。「天命思想」は,時代を経て,儒教の王権理論の核心となっていく。すなわち,王権の正統性をめぐる理論と議論には,儒教の国教化の過程が大きくかかわっている。
儒教の経典とされる『詩経』『書経』『春秋』『周易(易教)』『礼記』『楽経』の「六経(りっけい,りくけい)」について,『史記』(司馬遷)は全てを孔子が編纂したとするが[7],早くに全てが失われた『楽経』を除くと「五経(ごけい,ごきょう)」,そして,『論語』『孝経』といった儒教経典には,経典ごとに多くの種類が併存していた。それらは,今文と古文にまず大別される。今文は,口承で伝えられてきた経典とその解釈が漢代に書き留められたもので,隷書という漢代の文字(今文)で書かれている。これに対して,古文は,漢以前の文字(古文)で書かれた経典とその解釈である。前漢の哀帝(位BC.7~1)以前は,太学に学官が置かれた経書は全て今文である。『礼記』は今文で書かれ,『周礼』は古文である。しかも,経典そのものが異なる。それに対して,同じく『春秋』を経典とするが,『春秋公羊伝』は今文,『春秋左氏伝』は古文で書かれ,しかも,解釈,主張も異なっている。『周礼』解釈をめぐっては,経典の起源と来歴を押さえておく必要がある。古文経書を学官に立てるべきことを主張したのは,劉向,劉歆の父子であり,『周礼』を最も重視したのが王莽である。
儒教の「経書」に対する「緯書」は,儒教を国教化していった後漢代にも盛んに著述され,それらは全て聖人である孔子の言として受け入れられていく。「讖記」と呼ばれた予言書も,緯書の中に採り入れられて孔子の言であるとされるようになる。鄭玄(127~200),馬融(79~166)[8]らも,「緯書」を用いて経典を解釈している。鄭玄は,『周礼』『儀礼』『礼記』の注釈書を表す以前は専ら緯書の注釈書を表している。桓譚[9]や張衡[10]のような,讖緯説を信じない者は不遇を囲った。しかし,王莽以降,時代が下るにつれて,讖緯の説は,「易姓革命」論,「符命革命」論と深く結びついていき,時の王朝からは常に危険視されるようになる。南北朝以来,歴代の王朝は讖緯の書を禁書扱いし,その流通を禁圧してしまう。しかし,明朝を建てる朱元璋のような平民上がりの皇帝を産む伝統は生き続ける。
以下、『周礼』考工記の都城モデルについて明らかにしたい。
1 『周礼』
『周礼』は,古くは『周官』ともいった。天官,地官,春官,夏官,秋官,冬官からなり,天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇,冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。
冬官を除く五官は,いずれも冒頭に「惟王建國,辨方正位,體國經野,設官分職,以為民極」とある。すなわち,王が都(國)を建てること,方位を正しく定め,王都と封土を区画し,官職を設け,民の安定をはかるという基本理念が宣言されている。天官は治(国政)を所管し,長官は冢宰(ちょうさい)である。地官は
教(教育)を所管,長官は司徒,春官は礼(礼法・祭典)を所管,長官は宗伯,夏官は 兵(軍政)を所管,長官は司馬,秋官 は刑(訴訟・刑罰)を所管,長官は司寇,冬官は事(土木工作)を所管,長官は司空がそれぞれ務める。
六官がそれぞれ六十,計三百六十の官職から成るのは,天地四時(春夏秋冬),日月星辰が運行する周天の三百六十度に象っている,のだとされる(『周礼』天官・小宰,鄭玄『周礼注』)。この六官からなる政治体制は,周王朝の制度を理想化する中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えることになる。
現在に伝えられ,用いられる『周礼』は,『十三経注疏』[11]に収められた後漢の鄭玄による『周礼注』(『鄭玄注』),あるいは唐の賈公彦[12]による『周礼注疏』である。
鄭玄と『周礼』については,間嶋純一(2010)がある。確認すべきは,第一に,『鄭玄注』は師である馬融ら後漢の儒学者たちの『周礼』解釈[13]を踏まえたものであり,第二に,『鄭玄注』は数多くの緯書の注釈書[14]を著した後にまとめられたものであること,すなわち,鄭玄が生きた時代における理想の国家についての思想,言説が集大成されているということである。そして,第三に,『鄭玄注』は後代に大きな影響力を持ったということである。
間嶋純一(2010)は,『鄭玄注』の核心を「周公の太平を致す迹」(「周の太平国家の構想」)だとする。
鄭玄は,周公の『周礼』を周の太平国家の構想ととらえた。鄭玄の考える周の太平国家は,昊天上帝の神意にもとづいて太平を将来した周公が王として主宰する神聖国家である。そして,その国家の中心祭祀ととらえたのが天神・地示の祭祀である。
鄭玄は,六天説をとる。すなわち,最高神の昊天上帝と太微五帝(蒼帝霊威仰,赤帝赤熛怒,黄帝含枢紐,白帝白招拒,黒帝汁光紀)が宇宙を司っているとする。『周礼注』の礼体系を,昊天上帝を中核とする宇宙論体系の一部とみなすのが『鄭玄注』である。
昊天上帝(皇天上帝,天皇大帝)は宇宙の最高神であり,その実体は,天空の紫微宮にある北極帝星であり,北極大帝,北辰耀魄宝という別称をもつ。昊天上帝の下位に位置づけられる五帝は,天空中の太微(太微垣[15])の星官(星座)の中心,五帝座に位置する[16]。太微五帝は五行に配当され,蒼帝霊威仰,赤帝赤熛怒,黄帝含枢紐,白帝白招拒,黒帝汁光紀は,それぞれ五行相生説に従って木,火,土,金,水とされる。
地について,鄭玄は,崑崙山と神州を地示(地神)とする。地の中央を崑崙といい,崑崙の東南,地方五千里を神州という。世界は九州(大九州)に分かれており,中国の九州(小九州)を赤県の神州(すなわち禹の九州)といい,崑崙山はその中心にある(間嶋純一(2010))。すなわち,鄭玄が考える地上世界は,ナイン・スクエアからなる大九州であり,各州(神州)も九州(小九州)からなる。そして,神州は「方五千里」(禹の五服)の広さをもつ,というものである。九州と五服という分割パターンの整合性が問題となるが,鄭玄は,歴史的に異なる領域とその分割システムを認める。すなわち,『礼記』王制の「方三千里」を殷制,「方五千里」を堯制とし,『尚書』禹貢の五服「方万里」を夏制,『周礼』職方氏の九服「方万里」を周制と考える。そして,禹の五服がそのまま『周礼』夏官・職方氏の「方一万里」の「九服」になったと考える。
『周礼注』を支える以上のような宇宙観,天下観は,「禘」すなわち祭祀によって象徴的に表現される。
鄭玄は,天神を祭る「禘」として,園丘において昊天上帝を祀る祭祀,南郊において太微五帝の一である蒼帝霊威仰を祀る祭祀,明堂で太微五帝を祀る祭祀の三つを設定する。そして,地示として崑崙山と神州の二つの大地示を設定し,二つの「禘」,方丘祀地と北郊祀地の二つを設定する。
皇帝祭祀は秦の始皇帝に始まるとされる。そして,郊祀・宗廟の祭祀を中心とする皇帝祭祀が整備されていくのは前漢後期のことである。呪術的な祭祀から儒教的な祭祀へ,私的な祭祀から公的な祭祀へ,皇帝祭祀は変化していくが,その過程で,南郊で円丘に天を祀り,地は国都の北郊で方丘に祀る制度が成立する。その方向を確立したのは,王莽の郊祀改革である。
鄭玄は,南郊と円丘,北郊と方丘をそれぞれ別の祭場とし,冬至には円丘に昊天上帝を祀り,正月には南郊に五帝[17]を祀る,夏至には方丘に崑崙地祇を祀り,北郊には神州地祇を祀る,とした。この鄭玄の『周礼』解釈に対して,異を唱えたのが魏の王粛である。そもそも,鄭玄の六天説は後漢において必ずしも支配的ではなかった。馬融や賈逵は,天神を唯一とする一天説を採っていた。王粛はそれに従い鄭玄を批判する。すなわち,後漢から三国魏にかけて,南郊,円丘の祭祀,北方,方丘の祭祀はそれぞれ別であるとする鄭玄説と南郊と円丘,北郊と方丘をそれぞれ同一の場所であるとする王粛説の二説が成立する(ことになる。
北魏では,488年に国都平城に円丘が築かれ,翌年初めて円丘と方丘の祭祀が行われるが,鄭玄説に従って,南郊と円丘,北郊と方丘をそれぞれ別の祭場としていくことになる。そして,続く北斉,北周,隋,さらに唐初まで鄭玄説が継承されることになった。
『周礼』と都城については,続いて『考工記』(冬官)に即して明らかにするが,鄭玄によれば,周公の『周礼』の叙述と雒邑建設は並行するものであった。大平国家の構想とその国都の建設は当然関わる。鄭玄は,「土中を択びて王国を建てんと欲す」(『詩』「王城府」疎引)という。「土中」は「天下」の中心で雒邑のことである。
『周礼注』(「天官・序官」)に次のように言う。
「周公,摂に居りて六典の職を作り,之を周礼と謂い,邑を土中に営ず。七年に政を成王に致すに,此の礼を以て之に授け,雒邑に居りて天下を治めしむ。司徒の職に曰く,日至の景,尺有五寸,之を地中と謂い,天地の合する所なり,四時の交わる所なり,風雨の会する所なり,陰陽の和する所なり,然らば即ち百物阜安すれば,乃ち王国を建つ,と。」(間嶋潤一(2010))
夏至の南中時に八尺のノーモンの影が一尺五寸となる地点を「地中」(「土中」)といい,その場所が、天地が相合して、世界が秩序をえる天下の中心である。後漢の中心である洛陽を根拠づける解釈であるが,都城建設の起源がここに示されている。
2 『考工記』「匠人営国」条
中国都城の理念型というと決まって引用されるのが,『考工記』「匠人営国」条である。中国最古の技術書が『考工記』であることは間違いないが,その成立時期については,鄭玄は「此前世識 其事者記録以備大数尓」、要するにわからないといい,賈公彦は「先秦之書」というが,春秋末期,戦国初期,戦国後期,戦国年間,秦漢期と諸説がある。唐の孔穎建(574~648)[18]は「西漢人作」とし,東周(成周)がモデルとする。一方,清の江永は「東周后斎人所作」(春秋時代の斉国の制を記したものである)という。
『考工記』全体は7,000字足らずにすぎない。そして,その構成は必ずしも体系的には見えない。すなわち,記述される項目の順序,分量については大きな偏りがある。冒頭に「国有六職」とあるように,扱われているのは,攻木(木工),攻金(青銅鋳造),攻皮(皮革製造),設色(絵画,染色),刮摩(玉,石),摶人(陶器製造),の6分野である。加えて,輪人,輿人,輈人,梓人,廬人,匠人,車人,弓人という職種毎の記述がある。輪人,輿人は,馬車,牛車の車部,輿部の設計に関わる。輈人は物理学,天文学に関わる。梓人は,食器,酒器などを含めた工芸品の作成に関わる。廬人は武器,車人は,牛車,弓人は弓の製作にそれぞれ関わる。
戴吾三編(2002)は,『考工記』の構成について,篇,節,段を分けて,それぞれ字数を示してくれている(表1ABCD)。
『考工記』には,匠人(すなわち建築土木を担う官)で始まる条が,「匠人建国」条,「匠人営国」条,「匠人為溝洫」条と3つ並んである。その2番目の「匠人営国」条が都市計画,宮室建築に関わって,古来様々に引用される。
(1)「匠人建国」条
「匠人建国」条の全文は以下である。
「匠人建國,水地以縣。置槷以縣,視以景。為規,識日出之景,與日入之景。晝參諸日中之景,夜考之極星,以正朝夕。」
「國」すなわち都市(城邑)の建設に当たって,水平を定め,棒(標柱,グノーメン)を立て,円を描いて,午前午後の棒の影と円の交点を結んで東西南北を定める方法を記す。この方法は洋の東西を問わないよく知られた方法である。
(2)「匠人為溝洫」条
「匠人為溝洫」条は,田に溝を切って水を引く方法について述べている。全文を示せば以下である。
「匠人為溝洫。耜廣五寸,二耜為耦。一耦之伐,廣尺深尺謂之畎。田首倍之,廣二尺,深二尺謂之遂。九夫為井,井間廣四尺,深四尺謂之溝。方十里為成,成間廣八尺,深八尺謂之洫。方百里為同,同間廣二尋,深二仞謂之澮。專達於川,各載其名。凡天下之地勢,兩山之間必有川焉,大川之上必有涂焉。凡溝逆地阞,謂之不行;水屬不理孫,謂之不行。梢溝三十里而廣倍。凡行奠水,磬折以參伍。欲為淵,則句於矩。凡溝必因水勢,防必因地勢,善溝者水漱之,善防者水淫之。凡為防,廣與崇方,其殺參分去一。大防外殺。凡溝防,必一日先深之以為式,里為式然後可以傅眾力。凡任,索約大汲其版,謂之無任。葺屋參分,瓦屋四分。囷窖倉城,逆墻六分。堂涂十有二分。竇,其崇三尺。墻厚三尺,崇三之。」
(3)「匠人営国」条
続いて,「匠人営国」条の全文を以下に掲げよう。都城に触れる部分は少なく,専ら引用されるのは冒頭部分だけであるが,後段にも,ここで議論するのに必要な「九分其国,以為九分,九卿治之」といった重要な記述もある。「匠人営国」条は,大きく分けると3つの部分(A)(B)(C)からなる。
(A)匠人営国,方九里,旁三門。国中九経九緯,経塗九軌。左祖右社,面朝後(后)市。市朝一夫。
(B)夏后氏世室,堂脩二七,廣四修一。五室,三四步,四三尺。九階。四旁兩夾,窗白盛。門堂三之二,室三之一。殷人重屋,堂修七尋,堂崇三尺,四阿,重屋。周人明堂,度九尺之筵,東西九筵,南北七筵,堂崇一筵。五室,凡室二筵。室中度以几,堂上度以筵,宮中度以尋,野度以步,涂度以軌
(C)廟門容大扃七个,闈門容小扃三个。路門不容乗車之五个,応門二徹三个。内有九室,九嬪居之,外有九室,九卿朝焉。九分其国,以為九分,九卿治之。王宮門阿之制五雉,宮隅之制七雉,城隅之制九雉。経塗九軌,環塗七軌,野塗五軌。門阿之制,以為都城之制。宮隅之制,以為諸侯之城制。環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。
(A)は都城の全体について述べる。(B)は,宮室関連施設(夏后氏世室,殷人重屋,周人明堂)について,(C)は,門そして道路についての記述である。
(A)については,通常,以下のように解釈される。
「方九里」:国(都城)は九里四方である。
「旁三門」:各辺に3つの門がある。
「国中九経九緯」:南北(経),東西(緯)それぞれ九条の道路がある。
「経涂九軌」:南北道路の幅(経涂)は車九台分の幅(九軌)である。鄭玄注によって,軌は8尺とされる。経涂は8×9軌=7丈2(72)尺となる。
「左祖右社」:左に宗廟,右に社稷を置く。
「面朝後(后)市」:朝に向かい(面し),市を後にする。宮廷(宮城)は外朝に面し,市は後方に置く。市が宮の後ろ(北)にあるのは事例が少ないことから,また,後を后とする例がある[19]ことから,面朝后市,皇帝は政務を司り,皇后が市を管理する,あるいは,午前は政務を執り,午後市を観る,という解釈も提出されている[20]。
「市朝一夫」:市と朝はそれぞれ広さ一夫(百歩四方)である。
(B)については,中国古代の建築類型である宗廟(夏后氏世室),正堂(殷人重屋),明堂(周人明堂)を探る上で極めて重要であるが,鄭玄注以降の諸説をめぐって,田中淡(1995)による考察が要点をつくしている[21]。
隋長安の設計者宇文愷の明堂の復元案をめぐる議論は,その寸法体系など都市計画を考える上でも興味深いものである。これについては,王宮など宮殿建築に関して後に見よう。
(B)の最後に「室中度以几,堂上度以筵,宮中度以尋,野度以步,涂度以軌」とあるのは,寸法の単位を述べたくだりとして注目される。すなわち,室内は「几」,堂(明堂)は「筵」,宮廷は「尋」,野(敷地)は「歩」,道路(涂)幅は「軌」で計る,というのである。鄭玄注他注釈によれば,1「几」=3尺,1「筵」=9尺, 1「尋」=8尺,1「歩」=6尺,車軌の幅1「軌」=8尺である。
(C)については,門の種類と規模,および数が列挙される。注目すべきは,九,七,五,三という奇数系列の比例関係が貫かれていることである。廟門は,大扃として七,闈門は小扃として三,路門は車が乗り入れられない幅で五,応門は三,設けるという。扃は扉の「かんぬき」で,鄭玄注によると大扃は長さ三尺,小扃は長さ二尺である。雉は高さで,一般に一丈(十尺)と考えられている。
ここで宮城の構成に関わって,廟門,闈門,路門,応門が挙げられていることに留意が必要である。
「経涂九軌,環涂七軌,野涂五軌」は,既に(A)に触れられているが,環涂すなわち城壁に沿う環状道路は車7台分(56尺)で野涂すなわち城外の道(野塗)は5台分(40尺)とする。
「匠人営国」条について,ほとんど注目されることがないが,(C)において注目すべきが「九分其国,以為九分,九卿治之」である。直前にも「内有九室,九嬪居之,外有九室,九卿朝焉。」とあって,九がここでも強調されている。「国(都城)を九つに分け,さらにそれを九つにわけて,九人の卿が之を治める」というのは,『周礼』考工記の理念化する都城モデルを概念図として示す際の大きな鍵となる。
3 都城図
(1)周王城図
「匠人営国」条の以上のようなごく僅かの記述から都城モデル図を作成するには限界があるが,古来多くの論考が積み重ねられ,具体的な解釈を示す都市概念図が描かれ,あるいは記述を何らかの手掛かりにして実際に建設が行われてきた。描かれた都市概念図の代表的なものが以下である(図1ABCDE)。B,Cは基本的に同じとみていい。
A. 宋・聶崇義の『三礼図』[22]「周王城図」
B.『元河南志』「周王城図」
C.『永楽大典』[23]巻9561(『河南志』収録)
D.清・戴震の『考工記図』
E.『欽定礼記義疏』付録『禮器図』「朝市廛里図」
各図に共通するのは「旁三門」である。しかし,各図には違いがあって,解釈のずれを窺うことができる。方九里というのであるが,B=Cは長方形に描かれている。「方九里」を必ずしも正方形とするのではなく,面積と考える見方があることがわかる。中でも確認すべきは,A~Cが東西南北,相対する門を3本の道で結んでいることである。Dは,「一道三涂三道九涂」と書き込みがあるから,「九経九緯」の解釈はA~Cと共通である。ひとつの門には三道(三車線)あり,縦横三本ずつの道で合わせてそれぞれ九車線となる。すなわち,歴史的には,「九経九緯」は,縦横九本ずつの道と必ずしも解釈されてはこなかったのである。
街路体系に加えて,各図には建物配置についていくつかの解釈が示されている。A,Cは文字の書き込みはなく情報量は少ないが,Cの中央には4行3列の建物が描かれている。同じBは,正宮を中心に,小寝五,小宮五の建物が描かれる。また,手前下部に面朝,上部に東市と書き込みがあるDの中央には六宮六寝,三朝と,社稷,宗廟の書き込みがある。六宮六寝は「匠人営国」条にはないが,魏晋以後,ひとつの空間形式として解釈されてきた。寝は王の公私にわたる生活の場であり,宮には后以下夫人,女御などが分居する。六寝(大極殿(前殿,後殿),東堂,西堂,東閣,西閣)と六宮(あるいは後宮)は南北に並べられる。三朝とは,内朝,中朝,外朝をいう。B=Cの場合,環涂は城壁外にめぐらされているが,いずれにせよ,A~Dにおいては,環涂は「九経九緯」に含められてはいない。
日本で最初にこの『考工記』の解釈を試みたのは那波利貞である[24]。そこで取り出されたのが「前朝後市」「左祖右社」「中央宮闕」「左右民廛」の原則であるが,その基になったのがE.『禮器図』「朝市廛里」である。これは王城全体を図化したものではない。「旁三門」ということで,各辺三門を道路で結ぶと16分割になるから,ナイン・スクエア(3×3=9)すなわち井田形に分割するパターンの都市計画図には問題が生じることになる。礪波護[25],村田治郎[26]がつとに指摘するところであるが,実は,このナイン・スクエア(3×3)分割と「旁三門」(4×4)分割をめぐってモデル図面は異なることになる。当然と言えば当然である。
鍵となるのは「方九里」である。九という数字は,繰り返し指摘するように,九機,九州,九服のように極めて理念的な数字である。「九経九緯」もまさにそうであり,上に掲げた「匠人営国」条にもやたらと九という数が出てくる。単なる理念,象徴(聖数)とみなすのではなく,具体的な数字と考えると,「里」を単位として全体を9×9=81区画に分割するのが自然である。「方九里」の正方形を各辺一里ずつ9分割すると,1区画は方一里,すなわち,方300歩である。方300歩は「井田制」の基本単位である。
しかし,「九経九緯」を縦横の道と考え,さらに「旁三門」という数字と整合させようとすると,上述のように問題が生じる。「九経九緯」に,城壁沿いの周回道路である環塗を含めるかどうかで異なるが,いずれにしても,9×9=81分割とすると,「八経八緯」か「十経十緯」となって合わない。わざわざ環塗の幅員について記すのだから「九経九緯」とは別だと考えると,全体は10×10=100区画となる。
環塗が「九経九緯」に含められていると考えると全体は8×8=64区画に分けられる。要するに,「九経九緯」の内側には64の空間単位が区切られ,外側を含めると10×10=100の空間単位が出来る。どちらもありうるが,後者の場合,「旁三門」を均等に配置できない。前者の場合,全体は,それぞれ4区画からなる4×4=16の大区画に均等に分けることができる。
「旁三門」の3門の間隔は等しく配置したいと考えると、1辺は4分割するのが、都合がいい。だとすると,8×8が自然である。応地利明(2012)は,この8×8=64分割を『周礼』考工記の基本モデルとする(図2)。しかし,この場合,「方九里」と整合しない。「旁三門」の均等配置と「方九里」のどちらかを重視することになる。
この問題を解決するためには,3と4の公倍数である12で全体を分割するモデルが考えられる。実際,そう考えた建築家がいる。ボードーパヤー王のアマラプラとミンドン・ミン王のマンダレーの建築家たちである(図3ab,布野修司(2006))。このモデルによれば,「旁三門」は,等間隔に配置できるし,「九経九緯」を三道(三軌)×3と考えれば,ひとつの解答になる。
繰り返せば,問題は「方九里」という理念と数の体系ということになる。
(2)「方九里」「旁三門」「九経九緯」:街路体系と街区分割
「方九里」「旁三門」「九経九緯」という極めて単純な数の体系が問題となる中で,注目すべきモデルを提出したのが賀業鉅(1985,1986)[27]である(都城モデルA)。賀業鉅の都城モデル図(図4a)は,『考工記』を基にして描かれた最も詳細なものであり,都城の内部構造を問題にするそれまでなかったモデル提案として評価される[28]。その後,王世仁(2001),張蓉(2010)など新たな解釈の展開もある。以下に具体的に検討したい。
賀業鉅が出発点とするのは「方九里」である。そして,中国古代において理想的と考えられていた「井田制」による分割単位(方一里=井)を前提とする。「方九里」の正方形を各辺一里ずつ9分割すると全体は81区画からなる。1区画は方一里,すなわち,方300歩である。ところがこれだと,以上のように「旁三門」「九経九緯」と整合性がとれない。そこで,賀業鉅は,次のように考える。
各辺の3門を等間隔に配することは出来ないが,中央に主門を設けるのは自然である。そうすると中央の区画は2分割するのが素直である。150歩×300歩の区画が生じるが隣接する300歩×300歩の区画と合わせると300歩×450歩の区画となる。
2種類の区画が出来ることになるが,そして,道路間の間隔も異なるが,環涂も含めて「九経九緯」となる。平安京のような単純な等間隔のグリッドをよしとする感覚からは違和感があるかもしれないが,例えば長安の場合など区画(里坊)の単位は5種類あるのであって,東西南北(左右前後)は対称であり,ひとつの形式的に整合性がとれたモデルといっていい。この賀業鉅モデルについては,続いてその内部構成を検討しよう。そこで触れるが,賀業鉅と同じ街路体系を提起しながら,異なる施設配置を考える王世仁(2000)案(図5)もある(都城モデルB)。
賀業鉅の街路体系モデルについては,他にも案を提出できる。応地利明(2011)が8×8=64分割の単純グリッド案を提出していることは上述の通りである(図2)。
他の案として注目すべきなのが張蓉(2010)の提案(図6)である(都城モデルC)。張蓉は,「九分其国,以為九分,九卿治之」を重視し,「九分其国」を出発点とする。すなわち,3×3=9のナインスクエア・モデルをまず設定する。「方九里」も当然前提となり,全体は方三里の区画9つからなることになる。そして次に,「旁三門」を考慮する。この場合,各辺を3等分した上で,それぞれの中央に門を設けるのが自然である,とする。方三里の中央を道路が貫通することになるが,各辺は均等割りにはならないが門の間隔は等しい。続いて「九経九緯」を考慮する。これも方三里で考えると,先に配置した門の左右を等分するのが自然である。方三里に3本ずつ道路が通り,「九経九緯」となる。ただ,「九経九緯」は等間隔とはならない。またこの場合,方三里の区画は,4×4=16に分割されることになる。三里の4分の1だから半端であるが,歩を単位とすれば225(300×3/4=225)歩四方が下位単位となる。全体を12×12=144に区画したグリッドをもとに門,街路を配置する案である。
この張蓉(2010)の提案は,ある意味で当然で,「旁三門」(4×4)分割と「方九里」(ナイン・スクエア)(3×3)分割とを整合させようとすると,公倍数である12×12分割を前提にすればいいのである。おそらく同じ問題に悩んだであろう,アヌラーダプラあるいはマンダレーの設計者は同じ解答を提出したのである。アヌラーダプラもマンダレーも各辺は均等割りされ,門間の距離は同一となる(図3ab)。
(3)王宮・朝・祖・社・市
街路体系に基づいて区画された街区に各施設が割り当てられるが,「匠人営国」条が規定するのは上述のように極めて少ない。そこで他の史書や考古学的実例をもとにした考察が付け加えられていくことになるが,ここでは「匠人営国」条の記述に限定しよう。
手掛かりは,「左祖右社,面朝後(后)市」のみである。「中央宮闕」という記載はないが,左右,前後というのであるから,中央に王宮を設定するのは前提である。
賀業鉅は,まず,中央の方三里(9井(区画))を宮城に当て,その南前,3区画を宮前区とし,合わせて12区画を宮廷区とする。宮前区には,中央に外朝,東に宗廟(左祖)と府庫,西に社稷壇(右社)と厩が置かれる。そして,主門に続くその前の2区画を官衛(官署)に当てる。市は中軸線上宮城の北に配されるが,その市との関係を考慮し,東北の9区画のうちの2区画を倉庫に当てる。さらに一般の居住区を貴族,卿大夫の国宅と商工業者の閭里(廛)に分けて配する。当然,国宅は宮廷近くに配されることになる。
この賀業鉅の施設配置は既に「匠人営国」条を超えている。あまり着目されず通常無視されてしまうが,賀業鉅の全体配置図には,都城の中央断面図というべき南北中軸線上に諸施設を門とともに並べたもう一枚の図がある(図4b)。市と外朝,官衛(官署)については,このディテールの検討によってその配置と規模が推定されたと思われる。これについては続いてみたい。
疑問なのは,市に2夫(畝)が当てられていることである。また,東北の9区画のうちの2区画を倉庫に当てていることである。後にも触れるが,何故,「市朝一夫」という記述を無視するのかは理解できない[29]。各用途の都城全体に占める割合を賀業鉅は示しているが,それによると,宮廷区は14.8%,国宅区が9.8%,閭里区が70.1%である。理念から,都城の現実的あり方へ,その関心のウエイトが向けられていることが推測できる。
賀業鉅の都城モデル図が現実的設計に傾いていくのに対して,賀業鉅の全体計画図をもとにして,王宮・祖・社・市・朝を極めて理念的に配置して見せるのが王世仁(2001)である(図5)。賀業鉅と王世仁の都城モデルの違いは,大きく2つある。
①「九経九緯」について,環涂を含めず,中央の経涂と緯涂を27軌(すなわち三経涂(緯涂))とする。
②中央方三里を3×3=9区分し,中央の区画(方一里)を宮とし,中央東西南北の区画(方一里)の中央一夫(井)にそれぞれ祖・稷,朝・市を配置する。東北区画に厩,西北区画に庫,東南,西南の区画に署(官署)を置く。
厩,倉,署といった施設の配置は「匠人営国」条の規定にはない。また,市について,宮城内中央北に配置した市は官市であるとして,都城の東南,西南に市を?マークつきで示しているのも逸脱である。しかし,全体として「匠人営国」条の理念を図式的に示しているという点では賀業鉅のモデルよりすっきりしている。
「匠人営国」条には,上述のように,その他に宗廟,正堂,明堂についての記述があり(B),門についての記述(C)がある。
王宮の構成について,賀業鋸に従ってみると以下のようになる。
宮垣・宮門:「王宮門阿之制五雉,宮隅之制七雉」とある。雉は丈で,城壁高さは,隅部は七丈,その他は五丈である。門は,廟門,闈門,路門,応門とあってそれぞれ大きさが規定されている。大扃,小扃は,鄭玄注によるとそれぞれ3尺,2尺で,廟門は21尺,闈門は6尺ということになる。路門は車が5台以上,応門は3台以上通ることができなければならない。『詩経』『書経』に宮城正門の皋門,中門の応門の名が見えることから,鄭玄は,『周礼』秋官「朝士」注で天子は五門(皋門-庫門-雉門-応門-路門),諸侯は三門(皋門-応門-路門)という説を示しているが,清代の江水,焦循らは,天子も諸侯も三門(皋門(庫門)-応門(雉門)-路門)で名のみが異なるとする(田中淡(1989))。賀業鋸も,皋門-応門-路門を執る。
三朝:外朝(大廷)(臣下が政務を行う空間),治朝(天子の執務空間),燕朝(天子の私的日常空間)から宮廷が構成されるという「三朝」制度については,「匠人営国」条に記述はない。ただ,賀業鉅は,『周礼』の「大司冠」「小司冠」「朝士」などを引いて,基本モデルの前提としている。
寝宮:「内有九室,九嬪居之,外有九室,九卿朝焉」をどう解釈するかについても明らかではないが,内朝に九室あって九嬪(宮中女官)が居住し,外庁に九室あって,九卿が執務するということであろう。
官府:官衙等施設についても「匠人営国」条は何も記述しないが,賀業鉅は『周礼』等の記述から必要施設を想定する。
以上をもとに,賀業鉅が宮廷区の基本モデルとするのは図4cdである。
廟社:宗廟,社稷についても,「匠人営国」条には「左祖右社」とあるだけである。賀業鉅は,ここでも『礼記』王制など古文献をもとに加え,宗廟については,七廟制でおのおのが独立した建築であったとして図4eのように復元する。
市:市についても,「匠人営国」条には「面朝後(后)市」と「市朝一夫」とある。賀業鉅は,後ではなく后の字を使うが,「宮后之市」という意味だとして,位置については「宮前之外朝」に対して北にあるという,通常の解釈を採る。問題は,「市朝一夫」であるが,賀業鉅は,「市朝」は市の広場のことで,市を除く一夫がさらに営業,駐場官員,事務所,「廛」などのスペースとして必要と考える。
(4)閭里―街区の構成
さて,賀業鉅に従って続いて問題にしたいのは,その他一般の街区の構成,すなわち,閭里あるいは国宅の構成である。
里は,社会構成の単位となる隣保組織として古代より用いられてきた。里は壁で囲われ,門を閭,里中の道を巷と呼んだ。それ故,里のことを閭里ともいった。
1里=25家説,50家説,70家説,100家説など,古文献には諸説ある。賀業鉅は,『周礼』地官大司徒の「令五家為比,使之相保,五比為閭,使之相受,四閭為族,使之相葬,・・・」,そして『周礼』地官小司徒の「五人為伍,五伍為両,四両為卒,五卒為旅,五旅為師,五師為軍,以起軍旅,以作田役,・・・」,さらに『周礼』地官遂人の「遂人掌邦之野・・・・五家為隣,五隣為里,四里為酂」から,里は5家を単位(比,伍,隣)として,五単位25家からなり,4里=100家で上位単位(族,卒,酂)が構成されるとする。
問題は里の規模であるが,賀業鋸は,1閭=25戸,戸当たり二畝半,社,里垣,里門,道路など公共用地を合わせて,一つの里の規模を100畝=一夫とする。以上の根拠は不明であるが,一夫=100畝については,「井田制」の基本単位である。
賀業鉅の想定する街路体系に基づくと,街区は1里×1里と1里×1.5里の2種類に分かれる。前者を甲類,後者を乙類とするが,後者は,市を含む街区とそれ以外が異なるから,乙類Ⅰ式,乙類Ⅱ式に分かれる。それぞれを賀業鉅に従って示せば,図4fghのようになる。各図は,閭の大きさがその位置によって異なっており,厳密には考えられてはいない。甲類は8閭,乙類Ⅰ式,乙類Ⅱ式はそれぞれ12閭,16閭からなる。それぞれの位置は図4iに示される。
賀業鉅は,自らのモデルに即して,閭里の居住人口を推計している。それによると王城全体は6万人,480閭,約57井からなる。甲類36里には,人口密度1,000人/井で,7,200戸,3万6,000人が居住する。戸当たり5人の計算である。乙類には,それぞれ2.400戸,12,000人が住むとする。
(5)経涂・環涂・野涂―街路
『周礼』考工記の短い記述の中で,目立って多く触れられるのが街路幅である。「国中九経九緯,経塗九軌」「経塗九軌,環塗七軌,野塗五軌。」「環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。」と3ヵ所触れられる。街路幅は,経涂(緯涂),環塗,野涂の3つのレヴェルに分けられる。既に説明したが,南北道路の幅(経涂)は車九台分の幅(九軌)で,鄭玄注では軌は8尺,経涂は8×9軌=7丈2(72)尺と考えられる。王城内側を周回する環塗は7軌すなわち56尺,王城外の野涂は5軌すなわち40尺である。都城の規模によって異なり,「環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。」,すなわち,諸侯城の経涂は王城の環塗,「都」の経涂は王城の野涂とするということである。平安京の朱雀大路は280尺,大路120尺(100尺),小路40尺であるから,そう大きいわけではない。もっとも,隋唐長安城となると,その朱雀大街は東西100歩=600尺である。
街路は,「匠人営国」条では触れられないが,『王制』に「道有三涂」とあり,考古学的遺構からも「一道三涂」制が採られていたことが知られる。中央の一涂を車道,左右を人道とする,また,男子が右,女子が左(「道路男子由右,女子由左,車坐中央」『王制』)あるいは「左出右入」,と区分されていた。
賀業鉅は,経緯涂および環塗の断面形状を図4jのように想定する。また,「都」の野涂,すなわち一般の街路幅を3軌=24尺と想定している。
4 『周礼』都城モデル
『周礼』考工記「匠人営国」条に記載される事項は以上につきる。これを基にした都城モデルについても代表的なものをみてきた。それらについて触れてきたように,『周礼』考工記「匠人営国」条が理念化する都城モデルはひとつの平面図式に限定することはできない。様々な解釈が可能であるということであるが,そもそも「方九里,旁三門。国中九経九緯」をすっきりと体系的に図式化できないのである。以下に,基準となるグリッドを確認すると以下のようである。
基準グリッドA 「方九里」ということで,全体形状は九里四方の正方形,と考えることができる。また,1里=300歩をナイン・スクエアに分割する井田モデルが想起され,全体を9×9の「方一里」の正方形に分割するグリッドが基準分割線として考えられる。
基準グリッドB 「旁三門」ということで,一般的には各辺に等間隔に門を配すると考えることができる。この場合,東西,南北の相対する門を結ぶ街路を想定できるから,全体は4×4=16に大きく分割される。各区画の一辺は,2.25(9/4)里=675歩となる。
基準グリッドC A,Bの分割をともに可能にする基準グリッドは,全体を12×12=144の街区に分割するものとなる。この場合,1区画は,225歩四方となる。
基準グリッドD 「九経九緯」ということで,全体は10×10=100もしくは8×8=64に分割される。両端の環塗を「九経九緯」に含めるかどうかで2案となるのである。経涂,環涂,野涂の幅員をわざわざ区別して記載しているのであるから,10×10=100と考えるのが自然である。この場合,1区画は270歩四方となる。
基準グリッドE(B‘) 8×8=64分割であれば,Bのグリッドをさらに分割すればいいが,この場合,基準となる区画は337.5歩四方となる。
基準グリッドF A,B,Dの基準グリッドを整合させるためには,単純には全体を60×60=360に分割すればいい。この場合,グリッドの単位は45歩四方となる。
A,B,Dをわかりやすい数の体系として整合させることが難しいことから,「九経九緯」を「一道三涂」制と結びつけて解釈することが行われてきた。この場合,3つの主要街路を想定すればいいことになるが,門の間を等間隔と考えるのであれば基準グリッドBになる。
問題は,区画の単位をどう設定するかということになるが,Aの「方一里」以外は,いずれもすっきりした数字にはならない。そこで,「方一里」を前提として都城モデル図を考えたのが賀業鋸であり,王世仁である。
都城モデルA 賀業鋸は,環涂を「九経九緯」に含めるが,それだと「十経十緯」となるので中央の区画を2分割として,経涂,緯涂を1本減らしている。
都城モデルB 王世仁は,環涂を「九経九緯」に含めないが,それだと「八経八緯」にしかならないので,賀業鋸のモデルを下敷きにして,中央軸線街路のみ「一道三涂」とする。
都城モデルC 張蓉もまた,「方九里」を前提とするが,「旁三門」を、各辺九里を3里ずつ3等分した上で,それぞれの区画の中央に設定する。この場合,方三里を3×3=9の方一里に分割するシステムは崩され,4×4=16に分割する,すなわち,全体を12×12=144の街区に分割するシステムを採用することになる。ただ,張蓉は「九経九緯」を考慮していない。
都城モデルD 「九経九緯」を考慮しないのであれば,また,「一道三涂」ということにすれば,さらに,「方九里」も問わないとすれば,最も体系的なモデルとなるのは,上述のように,アマラプラでありマンダレーである。
ただ,井田制は田地のモデルであり,また,空間モデルとして確定したものがあるわけではない。それよりも,都市の街区としてのモデルについては,史書に言及があるわけではない。午汲古城を下敷きにした宮崎市定の想定図(図7)や防牆制の遺構などが参照されるところである。賀業鋸が唯一,里坊の空間構造を示すところであるが,隋唐長安の「十字街」もひとつの解答である。
都城モデルE A,B,Cの折衷案となるが,都城モデルの一案を試みれば図8のようになる。すなわち,
①「方九里」ということで,まず「方一里」単位のグリッドを想定する。
③「九経九緯」に環塗は含めない。ナイン・スクエアのそれぞれに3本の経涂・緯涂を通すことによって3×3=9経(9緯)とする。但し,中央の「方三里」の周囲に経涂・緯涂を通すことを優先させる。すなわち,まず,全体をナイン・スクエア(3×3=9)分割する経涂・緯涂を通す。また,全体の中央に経涂・緯涂を通す。中央の区画は,中央と境界の経緯で3本となる。
④各「方三里」は4×4=16に分割されるが,十字街をもつ450歩×450歩の坊4つからなるとする。すなわち,坊は単一のモデルとなる。450歩×450歩という坊は,隋唐長安には見られないが,唐長安城の坊の規模(350歩×350歩, 450歩×350歩, 650歩×350歩, 650歩×400歩, 650歩×550歩,但し,唐では,一里=360歩)と比較して,妥当な規模であろう。
⑤内部構成は,例えば,米田賢次郎の城内阡陌モデル(図9)をほぼそのまま採用すれば,里坊のモデルを想定できる。米田健次郎は阡陌、すなわち、方1000歩、4坊からなる城郭モデルを考えるが、その場合、500歩×500歩が一坊で、この場合,1閭(里)=100戸,10閭(里)=1坊(=1000戸)、1坊=250戸である。
450歩×450歩の1坊をモデル化すれば、一坊を10×10のグリッド、すなわち、方45歩のグリッドに分けて考えるのが自然である。これはまさに上で議論した基準グリッドFである。方4歩を一戸に割り当てれば、坊は100戸、二戸に割り当てれば坊は200戸になる。
賀業鋸のモデルでは,300歩×300歩=8閭×25家=200戸,300歩×450歩=12閭×25家あるいは16閭×25家=400戸という想定だから,450歩×450歩=18閭×25家~24閭×25家=500戸~600戸である。
仮に方45歩に5戸割り当てれば、坊=500戸、4坊=1里=2000戸となる。中央の宮城区を除くと8(方三里)×4坊=32坊×500戸=16000戸,一戸=5人とすると8万人の都城モデルとなる。
いきなり飛躍するが、この450歩×450歩=1坊のモデルは、大都の設計のモデルとなったのではないか。大都の街区は44歩×44歩の正方形の敷地が10戸で胡同と胡同の間の一街区を形成しているのである[30]。
⑥「左祖右社」「面朝後市」は,中央の「方三里」に配置されるとする(都市モデルB)。
⑦宮城の構成は,都城モデルAに従う。
主要参考文献
応地利明(2011)『都城の系譜』京都大学学術出版会
布野修司(2006)『曼荼羅都市 ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会
間嶋潤一(2010)『鄭玄と『周礼』―周の太平国家の構想―』明治書院
戴吾三編(2002)『考工記図説』山東画報出版社
賀業鋸(1985)『考工記営国制度研究』,中国建築工業出版社
賀業鋸(1986)『中国古代城市規画史論叢』,中国建築工業出版社
楊寛(1987)『中国都城の起源と発展(中国古代都城的起源和発展)』,尾形勇,高木智見訳,西嶋定生監訳,学生社
王世仁(2000)『王世仁建築歴史理論文集』中国建築工業出版社
叶驍軍(1986)『中國都城歴史図録』蘭州大学出版社
同済大学城市規劃教研室編(1982)『中國城市建設史』中国建築工業出版社
[1] 『周礼』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』をいう。鄭玄が『周礼』『儀礼』『礼記』の三書を総合的に解釈する「三礼の学」を作り上げて以来,「三礼」という。『礼記』には,戦国・秦・漢の礼家のさまざまな言説が集められているが,現存の『礼記』49篇は,唐代,『五経正義』に取り上げられ,鄭玄注に孔穎達が疏をつけた『礼記正義』が作られ,『十三経注疏』に収められている。
[2] 姓は姫,諱は旦,周公は称号。周王朝を建国した初代武王の同母弟で,その補佐を勤め,さらに武王の子成王を補佐して建国直後の周を安定させた。太公望や召公奭と並び,周建国の大功臣の一人とされる。周成立後,曲阜に封じられて,魯公となる。すなわち,魯の開祖でもある(酒見賢一(2003))。
[4] 劉氏漢王朝の前後漢の間に新王朝(紀元9~23)を建てた。王莽は,古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。中国史上初めての禅譲である。王莽は周代の治世を理想とし,『周官』を元に国策を行ったことから王莽捏造説が生まれた。
[5] 前漢末から新にかけての経学者,天文学者,目録者。字は子駿。漢の時の爵位は紅休侯,新では嘉新公。五行相生説に基づく新しい五徳終始説を唱え,五徳は木→火→土→金→水の順序で循環し,漢王朝は火徳であるとした。
[7]『春秋』『周易(易教)』『礼記』に孔子が関わった可能性は低いとされる。
[9] 生没年不詳。前漢末から後漢初の儒家。字は君山,相 (安徽省宿県北西)生。後漢の光武帝のもとで議郎,給事中となるが,讖緯説を否定したことから,帝の怒りをかって地方官に左遷された。著書に時局を論じた《新論》29編があったが,原本は失われて輯本が残されるだけである。
[10] 78~139年。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)生。「東京賦」「西京賦」など文学者,詩人として知られるが,霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算網論」を著した天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家でもあった。その発明には,世界最初の水力渾天儀(117年),水時計,候風と名付けられた世界初の地動儀(132年),つまり地震感知器などがある。南陽で下級官吏となり,元初三(116)年張衡38歳の時,暦法機構の最高官職の太史令についた。建光二(122)年,公車馬令に出任した。永建三年から永和元年(128年-136年)の間,再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為,また,順帝の時代の宦官政治に我慢できず,朝廷を辞し,河北に去った。
[11] 十三経について漢以来の権威ある注疏を選んで集成した書物いう。唐の『五経正義』も収められる。もともと『十三経注』と『十三経疏』が別々とされていたが,南宋末に,一つに合刻して刊行された(十行本)。刊本には十行本以降,正徳本,閩本,南監本,北監本,汲古閣本,武英殿本,阮元本などがあり,清の阮元本がもっとも善本とされ用いられてきた。
[14] 『隋書』経籍志には,『易緯注』八巻,『尚書緯注』三巻,『尚書中侯注』五巻,『礼緯注』三巻が挙げられている。加えて,『旧唐書』経籍志などは『詩緯注』三巻があるとする。すなわち,鄭玄は緯書の大半に注釈を行ったとされる。そしてさらに,散佚してしまっているが,緯書の注釈について,また,経書解釈について,その理念と方法をまとめた『六芸論』がある。
[17] 青帝霊威仰,赤帝赤熛怒,黄帝含枢紐,白帝白招拒,黒帝汁光紀
[18] 太宗李世民に信任され,魏微と共に隋史の修撰に参画した。『五経正義』170巻の撰述で知られる。
[19] 『欽定礼器義疏』付録「禮器図」巻1「朝市廛里」の俗本の「後」は「后」の誤植であるという。
[20] 礪波護は,『周礼』天官冢宰の内宰の条に,「およそ国を建つるに,后を佐けて市を立つ。・・・」とあり,鄭玄は,「王は朝を立て,后は市を立つ。陰陽相成の義なり。」と注していることを指摘して,朝と市はそれぞれ天子と皇后によって主催されるべし,という思想があり,陰陽思想によって説明されるとする(礪波護,「中国都城の思想」,岸俊男編『都城の生態』,中央公論社,1987年)。
[21] 宮室についての全文とその解釈は,田中淡の論考(「第1章 「考工記」匠人営国とその解釈」『中国建築史の研究』,弘文堂,1989年,5~26頁)参照。
[22] 中国,宋の聶崇義の撰。20巻。礼(れい)の経典である《儀礼(ぎらい)》《周礼(しゆらい)》《礼記(らいき)》の3書は,本文だけを読んでも理解困難な部分が多いところから,その中に出る衣冠や用具,施設などを図に描いたもの。その際,鄭玄(じようげん)らの著した6種の旧図を用いたと称するが,鄭玄の旧図の存在などについては疑問がある。この書物の編纂は五代の末年に宮廷の礼制を整える仕事から始まり,宋代に入って完成したあと,その図は国子監の壁にも描かれたという。
[23] 中国明代に編纂された中国最大級の類書 22,877巻・11,095冊・目録60巻,1408年(永楽6年)の成立。1562年(嘉靖41年)に,原本の他に正副の二本がつくられ,隆慶年間(1567年 -1572年)の初めに完成した。原本は南京,正本は文淵閣,副本は北京の皇城内に置かれた。
[24] 那波利貞,「支那首都計画史上より見たる唐の長安城」,『桑原博士還暦記念・東洋史論叢』,弘文堂,1931年。
[25] 礪波護,「中国の都城」,『日本古代文化の探求・都城』上田正昭編,1976年。
[26] 村田治郎,「中国帝都の平面型」,『中国の帝都』,綜芸社,1981年。
[27] 賀業鋸,『考工記営国制度研究』,中国建築工業出版社,1985年。『中国古代城市規画史論叢』,中国建築工業出版社,1986年。
[28] 応地利明(2011)は,賀業鉅(1985,1986)のモデルを『周礼』理念にほぼ忠実だとしながらも退けるが,応地の都城モデルの場合,街区の内部構造までは問題にしていない。
[29] 応地利明(2011)案の場合,宮殿が4分の1(16/64),市場が8分の1(8/64),朝廷が同じく8分の1(8/64)を占めることになる。「市朝一夫」は全く考慮されていない。
[30] 鄧奕,布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,第526号,p175-183,1999年12月.鄧奕,布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,第536号,p163-170, 2000年10月