カイロ旧市街 "歴史地区をどのように再生し、活用するか?"
The Potential of Historic CairoSome Suggestions based on EJ Student Proposals at International Workshop, 20220221
カイロ旧市街 "歴史地区をどのように再生し、活用するか?"
The Potential of Historic CairoSome Suggestions based on EJ Student Proposals at International Workshop, 20220221
さらば「裸の建築家」ー耐震強度偽造問題に思うー,共同通信,20051226
さらば「裸の建築家」ー耐震強度偽造問題に思う
司直の手が入った耐震強度偽装事件に対して、建築界からの声が聞こえない。
あってはならないことが、白日の下にされつつあるのに「建築家(建築士)」が沈黙しているのはどういうわけか。
今回の問題を契機に「構造建築士」の社会的地位、職能の確立、顕名による透明性の確保が主張されるのは当然のことである。しかし、それ以上に建築家の能力、職能こそ厳しく問われる必要がある。阪神淡路大震災に際してあらわになった建築界の無責任体制について「裸の建築家」という本を書いた。「建築家」というと全てに通じている万能の芸術家というイメージが古来あるが、ますます複雑化する現代社会においてそれは幻想に過ぎない。現場を知らず、全体を把握できない、責任もとれない「裸の建築家」があまりにも多すぎるのではないか、という指摘である。事態はまさに建築家が「裸の建築家」であることを示しつつあると思えてしかたがない。
建物をつくる場合、施主は建築家、建築事務所に設計を依頼する。施主との契約上、全責任を負うのは当該の建築家である。実際には、建物の強度については構造建築士の下請けにゆだねられる。構造建築士という存在の社会的地位の低さ、そのモラルの欠如が大々的にクローズアップされたが「構造建築士」という資格はそもそもない。日本にあるのは、「一級」「二級」「木造」の「建築士」資格である。
全責任を負った建築家の役割は施主、施工者の利潤追求の論理に対して、第三者として、社会的合理性の基盤の上にすぐれた質の空間をよりゆたかな町並みの形成を目指して設計することである。下請けの構造建築士のせいにして、口をつぐんでいることは許されることではない。
利潤追求を専らとする施主、施工者、それと一体化した設計事務所の問題は論外である。問題は「建築確認」という制度そのもの(許可制ではない)、そして今回クローズアップされた第三者検査機関による「確認」業務の代行システムにある。自治体の多大な事務量を減らすことを口実に、官から民へ、というけれど、実態は、官僚の天下りの受け皿システムが用意されただけであり、自治体にも検査機関にも検査能力がない。空前のマンションブームの中で、その限界はあらかじめ見えており、それがはっきりしたといっていい。
そもそも、耐震強度「1・0」というのは最低限守る基準である。それを順守した上で豊かな空間をつくり出すのが建築家の役割である。また、基準をクリアすればいい、というものでもない。今回、多くの国民を不安に陥れるのは、強度「0・5」以下の建物に退去命令が出されたことである。一九八一年の建築基準法改正で、それ以降の建物は大丈夫とされてきたが、今回の事件でその神話は崩れた。自分のマンションは果たして大丈夫なのか。建築家は、この不安に答えるべきだ。
地震があっても、決して死者を出さない仕組み、耐震診断、耐震補強も含めて、建築家の役割は大きい。それとも建築家は、またしても大騒動が過ぎ去るのをじっと待つだけなのだろうか。(滋賀県立大教授・建築学)
× ×
ふの・しゅうじ 1949年島根県生まれ。東大卒。京大助教授を経て現職。著書に「」など。
カピス窓が伝えるスペイン植民都市のおもかげ 世界遺産ヴィガンを訪ねて,「フィリピン」「世界100都市」『週刊朝日百科』,20021020
布野修司
石造の大きな邸宅が両側に真っ直ぐ建ち並んでいる。石畳を渇いた音をたてて馬車が走る。一見ヨーロッパの町のようだ。しかし、よく見ると二階の窓が障子のようで何とも不思議な雰囲気だ。カピス窓と呼ばれるこの窓は、木格子枠に加工したカピス貝の殻をはめ込んだものだ。室内にいると柔らかい光が射し込んで心地いい。
このヴィガンという町は、セブ(一五六五)、パナイ(一五六九)、マニラ(一五七一)についで建設されたスペインによる植民都市である。戦災等で大きくその骨格を変えたセブ、パナイ、そして近年復原されたイントラロムス(マニラの壁で囲まれたスペイン人街)と異なり、その当初の姿を今日に伝える興味深い町だ。その歴史的意義が評価され、中心部は一九九九年にユネスコの世界文化遺産に指定された。ヴィガンという名は付近の川辺に生えていた植物ビガンに由来する。
スペインはマニラを拠点としながら、各地にまず核として教会とプラサ(広場)を建設し、現地住民の集落を集めて新しく市(プエブロ)をつくった。この市には中心町(カベセラ/ポブラシオン)とその郊外の周辺村(ヴィシタ)が含まれる。マニラから北に四二五km離れたイロコス地方のヴィガン建設にあたったのはフィリピン領有の端緒を開いたレガスピの孫、サルセドである。ヴィガンは、当時フェリペ二世の王子にちなんでヴィラ・フェルナンディナと呼ばれたという。
スペイン植民都市は一般にプラサを中心として格子状に街区が形成され、プラサは教会・行政施設・スペイン人指導階層の住宅などに取り囲まれる。スペイン植民都市の計画指針となったとされるフェリペⅡ世のインディアス法が公布された一五七三年は、ヴィガン建設開始とほぼ同時期である。街区割は整然としており、街区幅は約一〇〇ヴァラ(八三、五九m)と一定である。フェリペⅡ世の指針が届いていたことが伺われる。
フィリピンのスペイン植民都市に建てられた住宅を一般にバハイ・ナ・バトいう。バハイ・ナ・バトとは、タガログ語で「石(バト)の家(バハイ)」という意味である。一階は石造、二階は木造という混構造が一般的だが、ヴィガンでは一、二階とも石造(木骨煉瓦造)である。地震と火災のために工夫された住宅形式である。一七世紀中ごろに建設が始まるが、数多く建てられたのは一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてである。建設の主体は都市富裕層の中国系メスティソであった。
バハイ・ナ・バトの一階には物置や車庫が置かれ、湿気の少ない二階で主な生活が行われる。二階に、サラ(居間、ホール)、食堂、台所、寝室、アソテア(バルコニー)などが設けられ、一階と二階は屋外大階段で結ばれる。中心となるのはサラである。サラは道路に面し、フィエスタ(お祭り)の際には窓から、集った親戚・友人一同でパレードなどを眺める。カピス窓がまさにヴィガンの街並みを特徴づけるのである。
住総研ミニシンポジウム
まちの原風景――すまいの記憶は都市を変えるか
全文
中嶋 皆さん、こんにちは。大阪市立大学の中嶋と申します。きょうは、「まちの原風景・すまいの記憶は都市を変えるか」ということでシンポジウムを開かせていただきたいと思います。
いまなぜ原風景なのかということですけれども、一九七〇年代から八〇年代、九〇年代の初頭にかけて、たとえば奥野健男先生の『文学における原風景』をはじめとする、文学のなかに原風景を読み取ろうとする試みですとか、川添登先生の『東京の原風景』という、都市を歴史的なコンテクストのなかから読み込もうとする試みなど、文学、文化人類学、心理学、建築学、さまざまな方面から風景論、あるいは原風景論みたいなものが展開されてきました。こういった動きというのは、高度成長期のあとの安定期に、それまでの急激な都市化ですとか、あるいは高度機能主義、機械化のなかで、その開発の先にみえたものが均質で没個性的なすまいであり、都市であったわけです。それに対するアンチテーゼとして生まれた一つの動きが原風景論の展開だということがいえるかと思います。
たとえば建築や都市環境に限っていいますと、歴史的コンテクストのなかから集落や都市の構造を読み解こうとする動きですとか、あるいは記号論、現象学、パターンランゲージといったものによる空間構造の解析ですとか、風景の解読とか、定量的な分析、こういったものが行われてきていました。これまでは、そういった原風景の研究が住宅計画とか都市計画になんらかの示唆を与えるのではないかということで、建築学、あるいは都市計画学のなかでとらえられてきたように思います。つまり、住み手と供給する側―住宅計画や都市計画を行う側がストレートにかかわることができる回路として、原風景を持ち込もうとしたということがいえると思います。
原風景には様々な次元のものがあって、一言でいうのは乱暴なんですけれども、現象的な、あるいは根源的な原風景といったものはともかく、たとえば個人を取り巻く、つまり経験によってつくられてきた原風景というのは、現在あまりにも不確かなものになってきているのではないかという疑問が起こってきます。かつては自然環境や地域と結びついた空間としての、経験に基づいた原風景が個人個人にあったと思います。しかし、九〇年代のバブル経済期に成長期を過ごして、現在の高度情報化社会に生きていく二〇代とか一〇代以降の世代には、そういった経験された空間としての原風景はどういう形で形成されていくのかという疑問が起こってきます。
では、そういうふうな原風景の変質というのは、計画する側が拠り所にしていたものが、今後、住宅とか都市をつくっていくうえで武器にはならないのではないか、あるいは武器になるのではないか、そういうことをちょっと考えてみたいと思いました。
原風景にもいろいろあるのですけれども、体験された空間、自分の血肉化していった空間によってもたらされたすまいや都市の原風景についてもう一度掘り起こしてみて、さらに今後の原風景がすまいや都市を変える武器になるのか、それともならないのか、といったことについて考えてみたいと思っております。
きょうは、体験された空間ということで、七〇年代に研究者としての活動を開始されて、八〇年代、九〇年代、そして現在と精力的に、おもにフィールドワークによって都市、あるいは住宅にかかわってきたお二人の先生をお招きいたしました。両先生方には、きわめて個人的なことも含めて、ご自分の原風景についての考えとか、それがその後の研究、すまい、あるいは都市のとらえ方にどういう影響を与えたのかということと、今後のすまいと都市のあり方について語っていただきたいと思っております。
ご講演をお願いする両先生のご紹介をさせていただきたいと思います。私がご紹介するまでもなく皆さんよくご存じかと思いますけれども、まず最初にご講演いただくのは陣内秀信先生です。陣内先生は一九四七年に福岡県北九州でお生まれになりまして、その後、東京大学を出られまして、ヴェネツィア建築大学に留学されて、現在、法政大学工学部建築学科の教授をされております。イタリア、東京を中心に、あるいはイスラム都市とか中国など、国内外で精力的に都市研究を進めていらっしゃいます。そして、フィールドワークを通じて、学際的な研究でわれわれに新しい都市の見方を提示していただいております。
次にお話しいただく布野修司先生は、一九四九年に島根県松江市でお生まれになりまして、東京大学工学部建築学科をご卒業になりまして、現在、京都大学大学院工学研究科の助教授をされております。お二人は大学では学年が一年違うということで、同世代の先生方にあえてお話を伺いたいということでお呼びしました。布野先生の活動としましては、皆さんもよくご存じのように、アジアのすまいと都市を対象に幅広い研究活動を展開されております。近年では京都のほうもフィールドワークとして精力的な建築活動を行っていらっしゃいます。
早速ですけれども、陣内先生、布野先生の順でご講演をお願いしたいと思います。陣内先生、よろしくお願いいたします。
陣内 陣内でございます。そんなに語るような過去があるわけでもないし、気恥ずかしい感じが非常に強くするわけですが、確かにテーマとしてはなかなか面白くて、ふだんなんとなく考えていることもたくさんこのなかに含まれるかと思ってお引き受けいたしました。しかし、話を組み立てなければいけないとなると、どうしたものかなという気がしています。
私の場合は、研究ということで、原風景がそのスタンスにどんなふうに影響しているか、あるいは少なからず影響しているのではないかということですけれども、振り返ってみると、いろいろな意味でしているなと思うのですが、レジュメのなかにもあるように、子どものころを中心にあると思うんです。しかし、それはある意味で自分の奥のほうに眠っている、基底のなかにはあるのですけれども、知らず知らずのうちに背後にあるものであって、それがまた次のステップでいろいろな原体験みたいなことをしたり、特に自分自身では海外にいって向こうの風景をみたり、あるいは向こうの人と接触して自分を振り返る。それはイタリア、地中海だったのですけれども。そして、実際にいろいろな人と研究をやっていくフェーズで、様々な風景論や都市論や美術、建築をやっている人たちとディスカッションしながら、自分の奥のほうにある原風景なるものが姿をあらわしたり、意味づけられたり、つむぎ出されたりということで、単純に原風景が研究のスタンスを決めていくかどうかという設問はむずかしくて、いろいろなことが複合的に作用して、自分のやっていることや問題意識や方法論が方向づけられているのではないかなという気がしています。
そういうことで、自分の子どものころからのこういうテーマに関しそうなことを少しレジュメで並べてみました。生まれは北九州市ですが、父親は土木のエンジニアで、ゼネコンにいて関門トンネルなんかを掘っていたらしいのですが、東京に出てきたいというので、早いころから出てきちゃったんです。ちょっと埼玉県にいたのですが、すぐに杉並に引っ越しまして、当時は今風にいえばミニ開発されてできた木造の平屋の小さい家に住んだのですが、なかなか雰囲気のある場所で、そのへんが一つの原風景だと思います。
話を具体的にしたほうがいいので、地図をおもちしたのですが、江戸の近郊農村だったあたりなんです。杉並の成宗といいまして、ここが中央線です。これは昭和三〇年ごろの地図ですが、もとが五万分の一の地図なので情報が乏しいのですけれども、何かと思い出される自分の原風景、ベースがここにあるんですね。いま現在は郵便局のすぐ裏ぐらいに住んでいるのですが、このへんをウロウロしていました(OHP・昭和三〇年の地図)。
昭和三〇年の地図というのは非常に意味があります。高度成長が始まる直前で、武蔵野の面影をまだ残している。江戸の近郊農村をベースに発展していった面影がまだある。このへんが高台ですけれども、高台から市街化が進むんですね。ここに青梅街道があって、ここに五日市街道があります。ここに善福寺川という川があって、かなり起伏があるんです。典型的な近郊の住宅地になっていくところですが、ここを下りていきますと、全部田んぼなんです。春は一面のレンゲ草がすごくきれいで、善福寺川はしょっちゅう氾濫する。
自分自身はここに住んでいまして、こう下りてきて、ここに神社があったのですが、神社がいい位置にあるんですね。東京の山の手から郊外全部同じような風景。まさに原風景だと思うのですけれども、そういうものがまだ骨格として残っていました。下りていくと一面田んぼ。そして、下りて、丘を登って、ここに小学校がある。ここにも神社がある。いつもテリトリーとして遊んでいたのは神社の境内であり、このへんの藪、原っぱ。本当に原っぱ幻想なんですね。そして、この山にカブトムシをしょっちゅうとりにいく。このへんのため池でザリガニをとるとか、バッタを追いかける。こういう典型的な近郊の生活をしていたわけです。
一方、下町的な生活空間がありまして、自分たちが住んでいた周りは、戦後すぐできた木造の平屋の家がかなりあって、道は狭い。初期のころはまだ共同水道がありました。銭湯にも通っていた。紙芝居がくる。缶蹴りや宝探し、三角ベースを日常的にやっている。結局、自分自身で考えてみると、山の手ではないですけれども、お屋敷もずいぶんありました。それから、下町みたいなものが相まっていた。東京はそういうところが多いと思うのですけれども、両方にある種親近感をもつ。振り返ってみると、自分が東京の研究を一九七〇年代の終わり、二三年ぐらい前から始めたのですが、そのときに山の手を歩くときに、ここの自分の風景をもうちょっと都心で、歴史の集積のあるところで体験しているような、足裏の感覚で歩くというのは非常に親近感がありました。それと、このへんは非常に迷宮的、あるいは下町的な空間だったので、そういうものにどこか魅かれていったということはすごく感じます。
それで、街に出て、都市の華やかさも記憶に非常に鮮明に残っているわけで、三越の日本橋本店のパイプオルガンとか、日劇のダンシングチームの踊りとか、あるいは東横デパートの屋上遊園地にロープウエーみたいなものがあって、怖くて乗れなかったという記憶があります。それから、勝鬨橋が開くのを子どもたちが写生にいくとか、ほどよい距離なんですが、ときどき都市に出ていってそういう華やかさを体験する。阿佐ヶ谷自体は、ここはパールセンターという商店街で、このへんに各系列の映画館があり、オデオン座という洋画もあって、よくいっていました。ですから、阿佐ヶ谷自体が、子ども心ながら街の華やかさというものもなんとなく感じさせてくれる空間。やはり都市のエンターテインメント性にどこか関心があるというのも、東京の端っこだけれども、そういう経験を多少はかじったということもあったのじゃないかと思います。
そのあと茅ヶ崎に引っ越してしまうのですが、茅ヶ崎の湘南海岸というのは、東京のこことは全然違って、当時、高度成長期の前ですから、非常にきれいな松林で、別荘地で、海があり、地引き網がしょっちゅう行われていて、自分自身もずいぶん引っ張りました。それから、海中渡御が有名なんですね。漁師の文化、そして花火。非常に自然が豊かで、東京では味わえなかったような爽やかな、だけどちょっと寂しいという感じが、東京から引っ越していくとしちゃったんですね。
自分が住んでいたのは祖父がいたところですけれども、七〇坪ぐらいの敷地で平屋で、戦前の建物だったと思うのですが、典型的な応接間がついて、南向きに開いて、廊下があって、お座敷があってという、和洋折衷のちょっとハイカラな住まい。茅ヶ崎らしいということだったかもしれないですけれども、そういうのは風景を考えるときに、後にだんだん風景論に関心をもつようになるのですが、なんとなくおおらかな自然、素敵な住宅がいっぱいあるというようなものが関心を育ててくれたといえなくもないわけです。
そのあと、親が公務員だったので転勤しまして、仙台と福岡に二年、一年半住みました。いずれも官舎というのは都市域のエッジにあるんですね。ですから、その背後は田園で、ヒバリの巣を探すとか、そういうことばかりやっていました。でも、官舎にはコミュニティが非常にしっかりありまして、子どもたちは毎日遊びまくる。あるいは、母親同士のつき合いも非常にあるという、平屋の木造。だから、ほとんど平屋の木造住宅に住んでいたわけです。
それで、東京でも、茅ヶ崎でも、仙台、福岡でも、都市と自然が一体となったような生活空間で、都心派でもなければ田園派でもないという中途半端な位置なんですね。しかし、逆にみれば、それは自分自身のフットワークの軽さにもなったかなとは思います。でも、コミュニティの体験とか、町の中にいるのだけれども自然と一体となって遊ぶというのは、何か自分のベースになっていると思います。
決定的だったのは、そうやってグルグルッと回って、東京には一九六二年、高度成長期の初期の段階に戻ったのですが、本当にショックだったんです。ここが全部なくなっていたんですね。ここに新宿から荻窪まで都電が走っていたのですが、全部丸の内線に置き替わりました。一気に開発されて、田んぼだったところに阿佐ヶ谷団地ができた。杉並高校はできていたのですけれども、全部自然がなくなっちゃった。もちろん、藪はない、原っぱはない、ため池は埋められている。お墓もなくなっていたような気がします。というわけで、唯一残ったのは神社、宗教施設だけ。あとはひっそりと部分的にお屋敷が森を残しているという形で、全部宅地化されて、上も下もなくなっちゃった。要するに、武蔵野の原風景が一気に消えていたんですね。
たぶんずっと住んでいた連中にとっては、変化の過程のなかで少しずつ慣らされてわからなかったと思うのですが、五年ぐらい留守をしている間に完全に風景が一変してしまったというのは、自分自身にとっては非常にショックだった。だから、どこかで近代に対する懐疑心ができたのじゃないかと思います。
一方で、自分自身は、子どものころ五〇年代を過ごしたわけですから、当然、日本の成長期、発展期なので、未来主義的な都市のイメージがイラストで示されたりして、そういうものに憧れながら、建築や都市を勉強したいなと漠然と夢を描いていたわけで、そういうギャップが中に相当インプットされたのではないかと思います。
もう一つは、こういうリアルな原風景ではないのですが、父親は福岡県の人間ですが、鹿児島の七高で青春時代を送って、いつも錦江湾でボートに乗ってというバンカラ風の当時のイメージをずいぶん語ってくれたのですが、ここはナポリと姉妹都市ですけれども、本当にナポリとよく似ているんですね。ナポリ湾があって、ベスビオ火山があってというのが、錦江湾、桜島、歴史的な都市ということで非常に似ている。で、オペラが大好きで、イタリアへの思いを語ってくれたのが、自分にとってはイマジネーションの中の原風景になって、イタリアに少し関心ができたのじゃないかなと思います。そういうことが非常に重要なのじゃないか。実際に具体的に生活したところだけではなくて、いろいろなイメージをインプットされる体験というものも非常に重要だろうと思います。
次に、学生時代ですが、布野さんも同世代ですけれども、われわれの学生時代はほとんど勉強できない状況だったわけで、かえって喫茶店でみんなとディスカッションしたりして、いろいろ学ぶことが多かったわけです。
それで、都市、風景ということからすると、都市のなかにつくられる自由な空間、管理のなかでゲリラ的にできていく空間とか、あるいは集会に参加したり、デモに参加したりというときに垣間みられた自由な都市の空間というものが強烈で、現実にはどんどん潰されるし、そんなものはコンスタントに続くはずがないし、都市のなかから完全に消えていくわけです。しかし、そういうものは本来的に都市のなかにほしいなという思いがあって、それもヨーロッパの都市に魅かれた一つの理由なんです。
それで、七一年の夏、大学は六月三〇日に卒業したのですが、夏休みに入ってすぐ五〇日間ヨーロッパ旅行にいきました。もともとヨーロッパの中世都市に関する卒業論文をやっていまして、このころ文献がなかなかみつからないで本当に困ったのですが、幸い幾つかキーになる本と出会って、ヨーロッパの、特にイタリアを中心とした中世都市の空間的な、形態的なことを少しかじったわけです。それで、片っ端から夢中になってイタリアの都市、ヨーロッパの都市をめぐりました。ここでは原風景というより原体験といったほうがはっきりすると思いますが、子どものころからあとになって体験した原体験が自分を非常に大きく方向づけたなという気がします。
そういうところを訪ねたとか、そういう指向性をもっていたということはすでに芽生えていたわけですけれども、これが自分で取り組みたいテーマだなというふうに確認できた。都市空間がまさに人間の舞台となって使われているということとか、非常に象徴的な魅力のある場所がいっぱいある。あるいは、近代都市―自分が常日ごろつき合っていた東京という空間が非常に薄っぺらであるとか、いろいろなことで強烈な影響を受けたわけです。
原体験というふうに考えれば、それこそ地中海から非常にインスパイアされた建築家たちはいっぱいいるわけで、コルビュジエの東方への旅から、芦原さんのシエナの広場で体験したことが街並みの美学につながっているとか、あるいは安藤忠雄さんの作品のなかにもいっぱい出てくるし、山本理顕さんとか、原さんもそうかもしれません。そういうふうに考えれば、原体験が自分の生き方や作風に大きく影響するはあたりまえのことですけれども、そこで重要なのは、原風景とそのあと体験する重要なきっかけとなるような体験というのがどこかで結ばれているのじゃないか。原風景、あるいはもともとの根底に何かがあるから、原体験のなかで出会いがあったり、こだわりがさらに大きくなったり、「あ、これだ」というインスパイアされるもとになったりという、何か内的関係があるのかなという気が今回ちょっとしました。
それで、東京を脱出するようにイタリアにいったわけですが、ヴェネツィアを選んだのですけれども、どうせ東京を脱出するなら、いちばん東京と隔たりがありそうなところにいってやろう、違うイメージの都市にいってみようということで、あえてヴェネツィアを選びました。
これはカナルグランデで、街の中心部です。このへんにリアルトというのがあって、こっちのほうがサンマルコですが、このへんに駅があります。運河をちょっと入ってきたここにヴェネツィア建築大学の本部が修道院を再利用してあります。トレンティーニというのですが、当時、建築大学の規模は小さかったので、これプラス二カ所ぐらいに分散していました。これは一八〇〇年代の地図で、二〇世紀になってからぶち抜いた運河ができて、私はこのへんに住んでいて、学生食堂はこのへんにあった。この広場でいつも楽しんだり、買い物したり、学生と交流したりということで、まさに高密な迷宮の中に住んで、いろいろ調査をしていたのですが、その経験というのは強烈でして、「水上の迷宮都市の身体感覚」ということで、これは一回の旅行で訪ねていったのとはちょっと違う、原風景に近いものをここで自分自身にインプットすることになったわけです(OHP・ヴェネツィアの地図)。
それから、都心に住む面白さというのを日本の都市では味わったことがなかったので、その感覚は貴重だったなと思います。ヴェネツィアという街は、東京にいると何でも機能性ということになっちゃうのですが、そんな便利な都市ではないわけで、それよりも感性を育む、あるいは人間の振る舞いがどこも舞台のような感じなんですね。そういう演じているような演劇的な空間。それと、人と出会う場所が多いんですね。二年ぐらい住んでいるだけでも、本当におおぜいの人としょっちゅう路上で行き合う。そして、車がない。そういうなかでいろいろなことを考える強烈な経験になりました。
さらに、あとで研究を始めたときに、東京の「水の都」のコスモロジーということにこだわるようになるのですが、やはりここでの経験がそういう方向に自分の関心を育てていってくれたのじゃないかと思います。
それから、集合住宅に初めて住んだんですね。杉並にまた戻ってきたときには、最初は平屋だったのを、高度成長期でどの家も二階建てに建て替えていった時期にあたって、二階の木造の家に住んでいたわけですが、集合住宅に住むのは初めてで、下宿屋に五家族ぐらいが住んでいました。
それで、窓から運河がみえるんですね。そこにカモメがやってくる。あるいは、運河の水のレベルが干満の差とともに変化する。街の中にいながら自然で、ちょっと庭先があった。自然もあるのだけれども、都市のなかで集合住宅に住むという経験。これは関係性のなかに暮らすセンスというか、そういうことをつくづく思いました。それは簡単なことではないだろうし、単に楽しいというわけではなく、充実感というか、そこに暮らしているという実感というか、そういうものだったと思うんです。
それから、ヴェネツィアの研究をするときに、いま愛知のほうで教えていらっしゃいますが、田島學先生がミラノに一九六〇年ごろに留学していたときに持ち帰られたヴェネツィアの調査をまとめた非常に素晴らしいテキストがありまして、それを貸していただいて、一回旅行では訪ねていたのですが、図面上で徹底的にスケールとか雰囲気、空間の形態とかを想像力たくましく読み込みながら、自分でヴェネツィア形成の論理を考察するという修士論文を書いていたんです。あとになってそのことがよかったのじゃないかと思います。つまり、いかにイマジネーティブに考えるか。
中嶋さんはさっき、「若い人たちがいま感じる原風景はずいぶん違っているのではないか。われわれが思っているようなものはなくなっているのではないか」と。彼らはいまヨーロッパに簡単にいけちゃうわけですね。自分のほうから場所や空間や街の様子、風景を限られた情報から思い切り描く、想像するというプロセスを体験しないで、ポンと簡単にいっちゃうわけですよね。で、「これは東京にあるのと同じ」とかというふうにいって、全然感動もなければ、ただ日本で得た情報を追認しにいくという人たちまで出てきちゃって、かえって簡単にいけるということは不幸じゃないかなという感じさえするのですけれども、われわれの代ぐらいまではなかなかいきにくかったので、むしろ図面で本当に想像していた。場所ごとにスケール感とか雰囲気が思っていたのとだいぶ違っていたりして……。つまり、風景というのは、自分の中でイメージを醸成するということが非常に重要であるということをつくづく思いました。
そして、「地中海都市での迷路空間体験」というエッセイは、一九八七年の『都市住宅』で「旅から学ぶ」という特集が出たときに、七〇年代から八〇年代前半ぐらいに自分がいかに地中海からインスパイアされたかということを書いた気楽な文章です。
まず、南イタリアのチステルニーノという小さな街に偶然いく機会がありまして、これはまたショックを受けました。ショックをあちこちで受けている単純な人間なんですが。
この迷宮体験というのは、自分自身そのあとずいぶん影響されたなと思っております。ヴェネツィアはまだわかりやすい、まだ秩序が感じられる、まだ理解の内にある感じがしたのですが、もっと人間の隠れ家的な、根源的空間、場所、迫力。中世の街ですけれども、白く石灰で塗られていて、まさにバナキュラ建築集落の原点みたいなところで、すごく感銘を受けました。
これは丸ごと調べちゃえというので、ヴェネツィアからしょっちゅう通って調査をしたのですが、そういう迷宮空間の体験というのは、東京に戻って研究していくうえで、東京の中の迷宮性―また全然違うのですけれども、木造で建替えが激しいし、変化していく。だけれども、その場所の雰囲気というものが時代を超えて受け継がれていく東京の不思議なあり方、アイデンティティのあり方、そういうものにだんたん興味をもっていくようになったんです。人間の根源、歴史的なものがいっぱいあって、しかもシステムが近代産業革命以降に生まれてきたものとまったく違う様相を呈している。そのなかで人間が営みを続けているコミュニティがある。そういうものが平気で骨太に存在しているということにショックを受けるわけです。別の意味の原風景に自分が戻っていくというような体験をしました。
それから、イスラム世界との出会いというのは、これもまた大変幸運だったのですけれども、都立大学で教えていらした石井アキラ先生が一年間、当時テヘランにあった日本学生振興会のアパートにいらしたんですね。七七年だったと思います。で、一二月にヴェネツィアから呼ばれ出掛けていった。当時、ホメイニが出てくる前のパーレビ国王の最後の安定した時期だったのですが、イスラム都市と初めて出会って、イスタンブールやテヘランを皮切りに、小さな村から巨大都市まで、歴史が集積している日干し煉瓦でできている都市で、象徴性もある。都市の古層に向かっていくような経験でした。だけど、個と全体ということとか、ある種のプランニングが実にうまくできていて、これはなんだろうと、訳もわからず魅きつけられた。そういう強烈な異文化との出会いがあったわけです。
当時、東京というのは、世界の都市の空間のモデルからすると、外れているというか、都市の資格をもっていないというか、「巨大な村である」とか、「汚くてごみごみしている」とか、本当に否定的な言い方が強くされていたのだろうと思います。一方で、都市を大改造して高速道路を通すとか、インフラを整備するとか、いわゆる都市の限られた空間にまともに光があてられていなかったわけだけれど、やがてそういうところにみんなの関心がいくのですが、たぶん自分自身もこういう異文化との経験をしながら、どこかで東京を考えるということもあったのじゃないかと思います。
三番目ですけれども、イタリアに留学して、ヴェネツィア建築大学というところはなかなか面白い大学だったんです。常に新しい方法論、学派が出てきて、それは設計やデザインの分野でもそうですが、歴史学、あるいは都市の歴史的な解読、都市計画、あらゆるジャンルで非常に実験的な教育、研究をやっていました。
そのイタリアの学者たちとの出会いのなかで、自分自身にとって本当によかったのは、歴史が重なって存在し続けている既存のものへの深い関心をみんながもっていたということです。だから、「都市を読む」ということをみんなキーワードとしていっていたわけです。しかも、それは表層をなでるのではない、タウンスケープというのではなくて、ある意味で原風景を解読する、あるいは原構造を読み解く、その意味を思索する。そして、歴史的にどういう系譜で発展してきたのかということを考えながら、当時として、今後の都市づくり、地域づくり、設計を考えるというスタンスがかなり広まりつつある段階でした。「都市の記憶の大切さ」というのもそろそろ言い始め、あるいは「風景(paesaggio )」という言葉を使う専門家もそろそろ出ていた。
アルドロッシーもヴェネツィアで教えていたんです。ヒポロジーやタイポロジーとか、モルフォルジーという体系を考え、後に都市の記憶、連想ということへいったと思いますけれども、そういう雰囲気が七〇年代前半のイタリアにあったということは自分にとって大変ありがたかったわけです。
次に、東京に帰ってきて調査をいろいろ始めたのですが、細かいことははしょりますけれども、建築史の研究室に戻って、竹原という広島県の歴史的な都市の調査を始めたりしていたわけですが、どっちかというと「景観」とか「風景」というのは、建築史の研究室ではその言葉を使うのはタブーな感じで、町家、住宅の平面の形式とか、空間の形式。そして、集合市街区をつくり、都市がある種のモルフォルジーをもっているという、地形との関係、土地利用、そういうアプローチがどうしても進む。それは日本の都市は土地の資料が中心に出てきて、あまり立体的にいかないということもあったのかもしれないのですけれども、それよりも何よりも一方で街並み保存の修景とか、あるいは都市計画の人たちが「景観」といっているときに、歴史研究室では景観、風景というのはあまり表に出しにくいフィールドだったんですね。
ところが、自分としては幸いにも、まったく違う場面で樋口忠彦さんたちと一緒に、「東京の文化としての都市景観」というのを研究プロジェクトとして五年ぐらい続けて、民俗学、美術史、文学、歴史学などなどの人たち―前田アイさんもそのときいたわけですけれども、宮田登さんとか、当時、都市を読むというのは、文学、あるいは哲学の連中から先にスタートしたと思うのですが、そういう意味で一般の人たちと都市居住者、あるいはユーザーが感ずる都市というのは、風景、景観からいくわけで、構造を理解するということはありえないので、文学に描かれる世界。そういう領域を奥野さんたちがつくっていたのだと思うんです。
それで、樋口忠彦さんは土木の出身ですけれども、中村良夫さんとか、篠原修さんとか、むしろ土木系の人たちが、結構みんな文学青年だったのじゃないかと思うのですが、非常に思索的に文学作品をテキストにしながら、あるいは万葉集などもテキストにしながら、日本人としての原風景、集団の記憶、集団の原風景。個人がどうのこうのという議論はあまりなかったように思うのですけれども、そういう領域を大きく切り開いて、建築より先にその世界を描いたのではないかと思います。で、多木浩二さんが使った言葉でしょうけれども、「生きられた空間」というものが風景を通じて語られるようになった。
それよりちょっと前だと思うのですが、先ほど中嶋さんから紹介がありましたけれども、原風景論というのが日本で展開されました。奥野健男さんの『文学における原風景』は非常に早くて、七二年なんですね。亡くなる数年前から大変親しくさせていただいて、ご本人から聞いたような気がするのですけれども、「原風景」というのは彼の造語です。その本をもう一回読み直してみると、先ほど布野さんは「隅っこ」というのがキーワードだったという話をしていましたけれども、原っぱ、隅っこ。あらゆるジェネレーションを通じて、どこに住んでいたかを問わず、日本人の心象風景のなかに非常に強く残っているもの。
そして、日本人は農耕民族、弥生的だといわれる面があるかもしれないけれども、彼は「非常に野性味のある縄文的な、狩猟民族的な文化も本来あるはずだ」ということをいっています。実際に奥野健男さんにくっついていって、彼の自宅は恵比寿の駅からちょっと歩いて高台に登ったところですけれども、本当に原風景の片鱗がまだ残っていまして、ケヤキの大木とか、旧道が曲がるところに祠があったり、そういうものがあってそういう論が生まれたということが非常によくわかりました。
あとから考えてみると、この作品から影響を受けた建築家、建築評論家、建築研究者の方はたくさんいらしたわけで、川添登さんの『東京の原風景』―これは彼の本のごく一部をコピーしたものですが、川添さんは明らかに奥野さんの本から影響を受けたと書いているのですけれども、当時、東京はまだ巨大な村落である、都市のクオリティをもっていないとおおかたみられていた。でかいばかりで田舎っぽいと否定的だった。だけど、彼は逆に居直っていて、「庭園モザイク都市」とネーミングして、都市モデルは西洋型だけではないよと。つまり、東京をポジティブにみることを初めてやってのけたのじゃないかと思うんです。もちろん、「楽天的だ」という批判もあるのですが、そういう居住空間とか、都市の空間とか、そういうものがそれぞれの地域に長い歴史的経験とか風土に結びついて、空間のあり方があるのだ、ということをいったと思うんですね。それはやっぱり「原風景」という奥野さんの言葉と結びついていた。
ただ、奥野さんは「山の手には伝統がない」というふうにいっていたのを、川添さんはその発想を不満として、自分が育った山の手の染井、巣鴨の歴史を掘り起こして、そこに固有の地域文化が成立していたことを発見していくんですね。川添さんの軌跡というのは、私よりもっと上の世代の方々はよくご存じでしょうけれども、評論家であり、文明史家であり、生活学みたいなこともおやりで、考現学に発展していった。メタボリズムのイデオローグだったかもしれません。
そういうなかで、時代の転換点、七〇年代に入る前後にこのジェネレーションの方々はみんな模索していたのではないかと思います。そのときに奥野さんの本とも出会ったし、いろいろな出会いがあって、きっかけがあって、自分の中に眠っていた原風景が呼び覚まされたのじゃないかと思います。つまり、冒頭にいいましたけれども、原風景がずっと後の時代に自動的に研究の方向を決めるとか、作風に影響するという単純なものではなくて、いろいろなその後の経験や出会いや思索が積み重なってフェーズを構成して、それがもともと意識下にあった、あるいは奥のほうに眠っていた原風景のイメージが掘り起こされ、大きくふくらみ、意味づけられ、力を発揮していくようになるのではないかなというふうに思います。
芦原さんは、『街並みの美学』を同じ七九年に書かれるわけですが、奥野さんの「原風景」に影響を受けたと強くおっしゃっていました。学生にも、「自分の原風景とはどういうものか、絵にしなさい。文章にあらわしなさい」という課題をずいぶん出しておられました。原っぱや大木、水辺を書いてくる人が多いという話をしていたように思います。
槇先生も、『見えかくれする都市』、「奥」の思想は、最初は『展望』に書かれたのだと思いますが、三田の山の手の鬱蒼とした樹木の間に地形を利用して坂があり、裏を抜けていく道みたいなものがあったり、石垣があったり、そういう迷宮性をもっているところで生まれ育ったという体験をよくお話しされると思いますが、『見えかくれする都市』はそういうなかから確実に生まれていて、奥野さんの原風景論からインスパイアされているようです。
吉武先生については、布野さんからお話を聞いたほうがいいと思いますが、『原記憶のフィールドワーク 夢の場所 夢の建築』で、やはり奥野さんからも影響を受けているということを書いていらっしゃいます。
というわけで、七〇年代というのは、自分の過去というものがあったのだけれども、それを表に引っ張り出してきて、自分の方法論、思索の立場、スタンスの形にこしていくということはなかなかなかったのが、七〇年代にきて一気にそういう方向性をもって、それぞれ活躍の場所が違うので向きは違うのですけれども、そういう原風景論が非常に力をもった時代、時期、あるいはジェネレーションだったのじゃないかと思います。
原風景論が力をもつというのは、いろいろな段階であった思うのですけれども、私自身が非常に感銘を受けた本のなかに、西村真次という人の『江戸深川情緒の研究』というのがあるのですが、これは大正一五年に出た本で、ヴェネツィア=深川論なんですね。冒頭の部分で、イギリス人だと思うのですが、アーサー・シモンズという人が書いたヴェネツィアに入っていく光景を、彼は永代橋を越えて深川に入っていくイメージと重ねている。たぶん西村さんはヴェネツィアにいったことはないと思いますけれども、深川をヴェネツィアに見立てて、ほかの原風景を借りてきて自分の原風景をリアルに描いていく一つの手段として使う。
私はそれは非常に重要なことだと思うのですけれども、「パリの会」というのがあって、文学者や文化人が隅田川とか日本橋のあのへんの水辺でサロンをやっていて、パリを語る。そういう原風景論というのも非常に重要で、いろいろな段階であったかと思います。
それから、文学のほうでよく聞くのは、地方から出てきた作家が自分のふるさとの川と隅田川を二重写しにして創作活動をしていく。白秋が柳川を思い、室生犀星は金沢ということですね。自分自身も、江戸とヴェネツィアを重ね合わせながら考えていくということが、いろいろ物事を進めていくうえで非常に力になりました。そういう意味では、外国での出会いが自分のルーツを確認する、アイデンティファイするきっかけになっている面があったのじゃないかと思うんです。
フランス文学の清水徹さんは、「都市を読む」ということを日本で最初にいった人の一人ですが、実は彼はパリ・フランス派ですけれども、新宿副都心の高層ビル街に夕暮れどきにいたときに、ガラス面の高層ビルの壁に反射する夕暮れどきの風景、シルエットが美しくみえた。それがパリのセーヌ河のほとりで西日を受けているノートルダムのファサードをみたときの感動と二重写しになって、都市論が面白いということで始めたのだ、ということを書いているのですが、そういうことはあるのじゃないか。
世代論的にはどうかというと、不思議なことに同時代に都市史の研究者が多いんですね。住総研で一緒に研究している江戸東京フォーラムの波多野純さんとか、玉井さんとか、京都の高橋さん、建築史、都市史ということで初田亨さんとか、藤森さん。藤森さんは建築史からスタートして都市もということですが。
それから、町歩き派として冨田均さんというなかなか面白い人物がいまして、『東京徘徊』。荷風の跡を追いかけて、東京論を同世代として書いた最初が彼だと思います。それから、松山さんは作家になっちゃったけど、建築出身で、『乱歩と東京』。冨田さんは荒川区の尾久の出身で、いつも上野から飛鳥山に伸びていく丘を下から見上げて、エロチックな、色っぽい姿というものを思い、上の世界に憧れるというスタンスで東京徘徊をするんですね。松山さんは愛后神社の近くで生まれ育ったという話だったと思います。いずれにしても、変化していく東京、日本の風景をまざまざと見てきている世代がゆえに歴史に関心をもったのかなと、自分と照らし合わせるとそういうふうにも想像するのですけれども、ご本人に聞いてみないとわかりません。事実としてわれわれの世代に非常に集中している。それ以前は少なかったわけです。
しかし、原風景のあり方が研究のスタンスでどうなっているか、対象の選び方、方法がどう反映されているかというと、みんな様々だと思うんです。たとえば藤森さんは信州から出てきて、田舎はイヤだ、近世や前近代はイヤだという形で、近代の東京に憧れ、まずは仙台で勉強したわけだけれども、東京に出てきて、東京の輝く近代、かっこいい大都会、その建築ということで、明治以後の輝く近代、国家、ブルジョワジーが中心になってつくりあげた近代をまずは手掛けました。それからだんだん路上派になっていって、後になってくると自分の本性が出てくるわけですが、看板建築になり、職人とか市井の人々、生活者。で、だんだん民家とか始原的な古いところに遡り、いよいよ自然素材を使った非常に独創的な建築家としての活躍と、原風景を自分の中でどう受けとめて、どうそれぞれの年代で仕事をしていくかということを、彼ほどうまく見事にやりのけている人はいないと思うんです。
ここにご子息がいらっしゃるのですが、初田さんは下町派で、下町での体験をベースに大切にして、非常にユニークな建築論、都市論を展開されている。
橋爪伸也さんというのは、同世代ではないのですけれども、大阪の通天閣の下で生まれ育ったという、まさに祝祭的であり、エンターテインメントであり、あらゆる要素がごった煮になっている迫力のある大阪の都心。ちょっと下町っぽいんでしょうか。あるいは、アウトローもいっぱいいる世界だと思いますが、そういうところをベースに非常にユニークな研究をしている。ある意味で、原風景が研究にこんなにストレートに結びついている人も珍しいのじゃないかと思うんです。
自分自身はどうかというと、さっきいったように、ちょっと根が弱いんですね。杉並からスタートして、山の手的な面の良さもかじり、下町的なところ、迷宮的なところも体の中に入っているけれども、ちょっとフラフラしている。そういうスタンスのなかで比較しながら自分なりにやっていきたいなと思ってきたわけです。
最後に、最近、東京の郊外の研究を学生たちとやっているんです。ヨーロッパの場合、本当に歴史的な建物がいっぱい集積して、歴史的なイメージがそのままみえている。もちろん、中身とか細かいところはどんどん時代に合わせて変化して、逆に古い器の中の新しい機能やプログラム、そしてデザイン感覚が本当にシャレているわけですけれども、日本の場合はそうはいかないので、どんどん目まぐるしく変化していく(OHP・東京郊外の基盤となる構造)。
そのなかで、原風景はどういうことなのか。もちろん、若い世代にとってのコンビニとか、家の中の大きい冷蔵庫、あるいはコンクリートをそのまま仕上げた壁面に囲われた空間が原風景という人たちはいっぱいいるでしょうけれども、もう少し本来的な原風景に遡ってみますと、これは自分の原風景をたどってみているのですが、明治三〇年の阿佐ヶ谷です。まだ自然がいっぱいあって、江戸時代のままで、青梅街道沿い、五日市街道沿いのちょこちょことしかない農家、そして点在する民家、神社。あと、低いほうは田んぼ、上のほうは畑です(OHP・明治三〇年の地図)。
実は、子どものころ遊んだ神社がここにあるのですけれども、ここに池があるんです。われわれはよく玉虫をとりにいっていたのですが、なぜ池があるのかよくわからなかったのですが、ここは非常に重要な湧水池で、そこに弁天が祀られていた。隣りに須賀神社というのがあります。そういう武蔵野の古い構造と結びついた価値のある場所だったということが、ここ数年、このへんをもう一回調査してわかりました。
それから、ここに大宮八幡というのがあるのですけれども、ここは古来から非常に重要な場所で、縄文、弥生の集落がいっぱい出てくるんですね。川沿いのちょっと高台。鎌倉時代にできた神社ですけれども、水が湧く、聖なる水。で、宗教空間になる。このへんは古墳があるかもしれません。
実は鎌倉街道が延びているんですね。鎌倉街道というのはあちこちにあるのでむずかしいところがあるけれども、大宮八幡からずっと延びていくのも鎌倉古道だといわれていて、練馬区の円光院から、つまり、中央線というのは定規で真っ直ぐひいたようにできましたけれども、駅の場所はたいてい古道とリンクするところにあるわけですね。高円寺しかり、阿佐ヶ谷しかり。そして、青梅街道が交差するところに荻窪ができるわけです。だから、駅というのは当然その場所の古い風景と結びついてできているわけです。面白いのですが、青梅街道とぶつかるところに田端交番があるんです。この古い道と交わるところにお地蔵さんがある。パールセンターというのは、実は鎌倉古道の上にできているアーケード街なんですね。ということとか、いろいろなことがわかってきて、すごく面白い(OHP・大宮八幡を中心とする古道)。
結局、東京の近郊―杉並、世田谷、原宿、代官山あたりも面白いですし、国分寺あたりまでずっと似たようなことがいえるのですが、湧水が重要なんですね。で、川、崖が重要です。古代があり、その上に中世ができ、その上に現代があると、層を成していることが明らかになってきます。阿佐ヶ谷もそういうことで、これが青梅街道で、ここに戦後幹線道路ができて、いま二重構造が回遊性を生んで面白いです。
六番の原風景というのがどういうふうな意味をもつか、あるいは方向性をもつかということですが、自分自身、東京のディテールを掘り起こしていく作業をどんどんやっていくのは非常に面白いのじゃないかと思っています。
江戸の中心地に関しては、われわれもやったし、みんなもやっていて、本当にたくさんの情報が掘り起こされ、原風景が描かれる、絵画的資料も多い、古地図も多い。だけど、近郊農村―自分たちが一般的に暮らしている場所、あるいはもっと郊外はイメージが描けないわけですね。しかし、実際はものすごくあるんですね。そして、明治以後全部地図でたどれるんです。というわけで、個人にとっての原風景、集団にとっての原風景というのを描いていく必要がある。
個々の住宅の作品のなかにどういうふうに原風景を織り込むかというのは、また重要な面白い議論があると思うのですが、とりあえず東京のようなところでも、もっともっと地域でこういうイメージをつむぎ出していく必要があって、地域づくりに想像力が必要である。機能的な面ばかり追求して抽象空間化してしまった歴史的都心、地方都市は特に重要だと思いますが、その記憶の詰まったイメージ豊かな場所に読み替えていく、意味づけていくということが非常に重要で、きょうは千住でコミュニティ雑誌をやっている大野さんがいらしているわけですけれども、東京の幾つかの地域でやっていると思うんです。谷中の『谷根千』、神楽坂もそういう動きが出てきました。
八五年以後の東京の新しい動きで、原風景を描く。それはみんなの中に眠っているわけです。ジェネレーションごとに違っているので、語り継ぐということも必要だろうと思う。あるいは、そういうことを新鮮な目で若いジェネレーションが描き直すということも必要で、そういうディスカッション、あるいはそういう領域が非常に面白いということをもっともっとアピールしていくことが必要です。で、「原風景は都市を変えるか」という設問ではなくて、「どうすれば変えられるか」というふうに考えたいなと思っています。
中嶋 どうもありがとうございました。続きまして、布野先生にお願いしたいと思います。
布野 いつもここへくると申し上げるのですが、私は住総研には足を向けて寝られない立場でございまして、ずいぶん助成をいただいて、アジアにいって大変勉強させてもらったということがあります。そういう縁で、『すまいろん』ということであれば、何回か登場させていただきました。その前身の『研究所だより』の創刊号に司会役で出させていただいて、そのときは陣内さんの先生にあたる稲垣栄三先生、野口徹先生―お二人とも亡くなりましたけれども、大変刺激的な話が聞けたという記憶をいまでも思い出します。
それは、先ほど陣内さんがイタリアからキポロジアというのを持ち帰られたというのは結構話題でして、竹原の調査を稲垣研で始めたというときだったのを思い出したのですが、そのころ、僕もすでにここの助成をいただいて、スラバヤという街に二〇年ほど通っているのですが、そこの話を非常に向こう見ずに稲垣先生と野口先生にかなり挑発的にしゃべったことを思い出します。
というのは、そういう発展途上地域の都市を読む場合に、文献がないんですね。文献がないところでどうするのかということで相当やったわけです。そのあと、東京で気になる研究室は陣内さんのところが第一で、あとは西村先生のところぐらいですけれども、先輩でもありますし、ライバルというのはおこがましいのですけれども、京都に移ってからは、いろいろ切磋琢磨する作業をされているなとお見受けしています。
実をいうと、中嶋さんは知らなかったのですが、これはいっぺんやっているんですね。きょうは場所が違うのでいいとは思うのですが、そのときは研究の方法の話だったんです。ですから、きょうはそっちの用意を全然していませんで、準備不足でまったく申しわけないのですが、あとは中嶋さんの切り盛りで、ない頭を働かせてあとの論戦に多少なりとも加わりたいと思います。
中嶋さんは、私が京都にいったときに、M1の学生さんでして、そういう先生から頼まれると、これまた断れないということだったのですが、実はあまり考えてきていません。中嶋さんの口調で勝手に思ったのですけれども、布野はいっぱい住宅について書いているけれども、いったいおまえはどういうところに住んで育ったのか、どういうところに住むとそういう関心をもつのか、この際しゃべってもらおうじゃないか、というふうに聞いたんですね。ああ、そうか、自分史というか、そういうことをしゃべらされる年になったのかと思いながら、それは半分以上義務だなと思って、首を洗ってここへきたわけです。「さあ、殺せ」というような調子です(笑)。
ただ、いろいろ文句はあるんです。どうやったら原風景とか記憶についての話がきょうの話題になるかというのは、文句をいいながらも多少メモはつくってきたのですが、まず、おまえはいったいどういうところに住んで、どういう関心で研究してきたのか、ということですが、中嶋さんが書かれた趣旨のなかで、振り返ってつくづく思うのは、僕が研究と称してやっていることは、やっぱり自分が住んできたキャリアにすごく関係がある。
そういうところで生まれたからこういう研究になったとは思いませんけれども、ちょっとだけいいますと、大先輩の服部先生もおみえですが、私は吉武研究室という、ある意味でいうと、戦後の日本の住宅のプロトタイプ、51C型の基本設計をやった研究室を出て、研究室時代の話は延々ありますが、住まいのことをやろうと思ったのは、たぶんそういう研究室を出たからだと思っていますし、京都大学では西山夘三先生の講座におりまして、地域生活空間計画講座ということで、それも何かの縁だろうというふうには思います。京都にいった責任は住総研にありまして、この間アジアのことをいろいろやってきた。大ざっぱにいうと、そんなような脈絡です。
まずは、「さあ、殺せ」の私の住まい遍歴をご紹介したいと思います。お手元にコピーがありますが、八九年に『住宅戦争』という本を書いたのですが、たまたま結婚して最初に住んだ家は世田谷の下馬にありまして、庭先鉄賃だったんです。お茶の先生をやられている邸宅の庭先に、木賃ではなくてちょっとグレードのいい鉄筋のアパートを建てられていた。そこに住んでいたときに、隣りの隣りに野球選手の張本が住んでいたんです。いまでも同じところに住んでいますが、週刊誌にすごい豪邸と写真が出たりしたんですね。でも、みると大した豪邸じゃないんです。建売りに毛がはえたぐらいで、大して大きくない。それから、その通りは朝丘雪路と津川雅彦夫妻がお子さんを連れて歩いていた。
それで、『住宅戦争』という本は、有名人がいったいどういう家に住んでいるのかというのを調べまくって書いたんです。ちょっと興味本位すぎるなと思って、自分の住宅遍歴をさりげなく差し込んだのが「F氏の住宅遍歴」です。F氏と他人事みたいに書いてありますけれども、これは事実でありまして、これをお読みいただければ、京都にいくまでの私の住居遍歴はわかるようになっています。
先ほど中嶋さんから、松江市で生まれたというふうに紹介いただきましたが、正確にいうと出雲市です。生まれて二~三カ月住んでいた家は、いまでもプランを書けといわれれば書けるのですが、それは死ぬ間際になって一冊ぐらい書く余裕があればと思います(笑)。
あらかじめいいますと、「原風景」というのですけれども、私の住宅遍歴を長じて振り返ってみますと、なんとも貧しいというか、住まわされてきたというか、戦後の日本の住宅のありとあらゆるとはいいませんけれども、そのパターンに住まわされてきたかなという気がしているわけです。
最初は、それこそ藁葺き屋根で四ツ間取りです。これはいまでも定説があるかどうかわかりませんけれども、西日本は四ツ間取りで、東日本は広間型ということで、出雲は西日本ですので、本当に四ツ間取り型の藁葺きの民家で生まれました。これも長じてからの話ですけれども、出雲地方の民家がほかと違うというのは、わりと最近知ったのですが、出雲だけとはいいませんけれども、出雲の棟は反っているんですね。ご存じでした? これは新羅との関係が強いのかなという話をしていますけれども、出雲の建築家連中はわりとそれを意識して、棟の反りをあれしたりしますけれども、本当にそういったような民家でした。それで、二~三カ月で移りました。
住まいの遍歴というのは、皆さんだいたい二代になるはずですね。親離れするまでは先代の住居遍歴になって、それからが二代になると思います。いまみていただいているのは、お手元のコピーのなかにありますけれども、親父が結婚して最初に構えた住宅ですけれども、いちばん左の上は市営住宅です。僕は一九四九年生まれですので、ほぼ一緒です。51C前の公共住宅です。島根県の田舎で供給された四畳半に六畳、台所があって、玄関があって、風呂はないんです。51Cもないですね。ですから、団地ができると、近くに銭湯がペアでできたということですから、むしろ銭湯がなくても、とりあえずという時代のものです。ですから、戦後住宅の原型という程度の意味です(OHP・公営住宅)。
その間いろいろありますけれども、結局、いまでもこの家はありまして、ときどき帰るのですが、その変貌を描いたものです。風呂がないものですから、ここに風呂場を建てた。それは覚えています。セルフビルドなんですけれども、親父を手伝った覚えがあります。近くに大橋川という宍道湖と中海をつなぐ川があって、そのほとりで育ちました。ですから、陣内さんがおっしゃったような原っぱとか川遊びはそこらじゅうにあった。田舎ですから当然ですけれども。
その大橋川は世にも不思議な川でして、両方流れるんです。当然海に向かって流れるのですが、あるときは海から流れてくる。要するに、シジミとかセイゴ、スズキがいる汽水圏ですけれども、そこの川原にいって石を盗んできて土台をつくった。もしかすると、このセルフビルドが長じて建築をやる原点になったかもしれません。これは記憶がございます。
この狭い家で三人兄弟が次々と生まれていくわけですけれども、増築したり、僕が出てから二階建てになった。原稿のなかにも書いてあると思いますけれども、親父が水回りだけはそのまま残して改築してくれて、いまでも帰ると、なんか家に帰った気がする。つまらない話ですけれども、何か痕跡がないと、物理的には同じ空間に帰ってもなかなか記憶は蘇ってこないということをつくづく思っています。
ついでにいいますと、松江という町は、一八までいましたけれども、いま一五~一六万人の県庁所在地の小さな都市ですが、その後、もちろんバブルもあり、地方の中核都市を変えるのは、国体というのがわりと大きいですね。あと、新幹線とかいろいろあるかもしれません。私は松江南高校を出たのですが、松江南高と北高に分かれて五期生です。以前は松江高校といいまして、旧制高校です。ベビーブーマーで団塊の世代の下のほうですが、ワーッと人口がふえて、普通高校が南北に分かれたところで学んだのですが、いま帰ると、その高校の周辺はまったくわかりません。まったく記憶の手掛かりがない。すぐ近くに八重垣神社というのがありまして、授業をサボっては遊びにいったりしていた。全国的にも有名な神魂神社というのがあるのですが、そこはかろうじてあるのですけれども、高校の周辺は、運動場ができたり、建売りができたりして、新しく開発されたところはまったく知らない町と同じ。それは非常に戸惑うし、面食らう状況です。
それで、一八で上京して、簡単にいいますと、東京に二四年ぐらいいまして、京都に移って一〇年とひと月が過ぎたところです。ですから、住んだという意味では、松江と東京。東京が曲者でして、転々としている。いまからそれをお話します。それから京都ということです。その間に、先ほど来いっていますように、住総研のおかげで二〇年ほどアジアを中心に出まして、いちばん通ったのはスラバヤという街でして、この間数えましたら、二〇年間で一六~一七回通っていました。住んだということではないですが、滞在日数を計算すると、たぶん二年ぐらいいたことになります。場所でいうとそういうことです。
それで、上京してからは、最初は民間の寮みたいなところに住みました。いまでいうと、ワンルームマンション。寮の真ん前の部屋に佐伯啓思というのがいまして、いま京大にいますけれども、経済評論家。たまたま東大だったですが、そこに入った一年生がワーッと住むような寮でした。ですから、一応ワンルームマンションも経験しているといいたいのですが、ちょっとシステムが違いまして、食堂がついていて、風呂は共同浴場でした。フルパッケージという意味では、ワンルームとは違いますね。
そのあと、やっぱりそれが煩わしかったのか、賄い付きの下宿に移りました。たぶんいまはどこにもないですね。コンビニがあればいいわけですから。七〇年前後ぐらいは東京にまだ賄い付きがあったと証言できます。次は設備共用・トイレ共用のアパートです。関西でいうとアパート風にも住んでいます。
それで、結婚して世田谷区下馬の一〇坪ほどの2K。ここからは自立した自分の住宅遍歴の始まりなわけです。死語ではないと思いますけれども、「方・荘・号・字」―○○様方、○○荘、○○号、字。字で戸建てを建てて郊外に住むという、住宅住替え双六なんていうのがありましたけれども、物の見事にそれにはまっているなという思いをしながら、そういう選択をしていったというのがあります。二年ほど東大の助手をしていた時代に、下馬の一〇坪ほどの2Kから出発しました。
あとは、絵に描いたような話であれですが、二〇坪ほどの民間のマンションに住みまして、管理組合をやったり、マンション関係も経験しました。そのあと、東洋大に移って、これは首都圏の郊外ですが、結局、上京して最初に住んだ寮が唯一山手線の内側で、あとは環七を内側に入ったり、外側に入ったりして、遂に都心に住めませんでした。下馬は環七のちょっと内側ですが。一応、分譲の持ち家をもてたのがこれでして、朝霞です。東京駅からすると二〇キロぐらいの分譲のマンション(OHP・民間マンション)。
そのあと、これよりもうちょっと広い九〇平米ぐらいの公団の分譲に移りまして、駅でいうと国分寺で、これはいまでももっています。先ほど名前が出ていた藤森先生は国分寺の南側、僕は北側で、ちょうど同じぐらいの距離で、ときどき一緒になって、「おまえは皇居を向いて左側、俺は皇居を向いて右側」といって、遊びにいったりきたりしていました。そういうところにいました。九〇平米ぐらいの公団のスペースであがりかな、これ以上はちょっと無理だと。
順番でいくと、建築家ですから、郊外に戸建てを設計してぐらいに思っていましたら、急にふりだしに戻りまして、京都にこいということになりまして、ここ一〇年ぐらい京都で住んでいたところです。こういうところに逆戻りしました。これは五四平米ぐらいで、半分ぐらいになっちゃった(OHP・京都官舎)。一〇年間、えらい目にあいました(笑)。
ふりだしにもどって、つい最近引っ越したのが、陣内先生はご存じですけれども、オオジ先生が家を建てられまして、コモンをとって連棟で並べるタイプで、多摩とか浦安でやった時代の公団テラスハウスで、知っている人に借りてほしいということでした。八〇平米ぐらいです。ここはわりと気に入っていまして、蚊のいるコモンがなかなかいいというふうに思っています(OHP・京都マンション)。
で、「さあ、殺せ」ですが、すまいだけの話をすると、このへんが陣内さんと対照的で面白いと思うのですが、町の話をその周辺の環境を含めてしていけばきりがないわけですけれども、いまごらんになったとおり、これは誰でもわかるぞと。要するに、戦後の日本がつくってきたようなところをたいてい経験している。これは持ち家で育たれた方はあまり経験されていない。設備共用も経験したとか、民間とか公団も経験したとか、一つ前は官舎ですから、陣内さんと一緒に官舎も経験した。そういう様々な空間を経験してきたというのが私でして、ただ、嬉々として住んできたという感じはまったくしないですね。先ほどいいましたように、「住まわされてきた」。自然にミクロな住宅選択を繰り返していたらこういうことだった、という感じが非常に強いです。
ちょっとだけあとの議論のためにいいますと、すまいについてだけいいますと、戦後生まれの「団塊の世代」といわれている世代にとっての住まいの記憶というか、町の記憶というのは、藤森さんに聞いても、たぶん共有化されたものはあるのではないかという気がするんです。東京の郊外でああいう感じですから、至る所に原っぱがあって、至る所に水があるというところで育った。要するに、一九四五年段階の日本の空間のなかで話していけば、原風景みたいな話ができるかもしれないとは思います。
ところが、いまみていただきましたが、これが典型的かどうかわかりませんけれども、すまいの記憶といったときに、たぶんそんなにバラエティは出てこないのじゃないか。戦後の場合、ステレオタイプ化された、何DKといえば済むようなイメージしか出てこないのではないかという気がするんです。簡単にいうと、つくり手も住み手もみんなひっくるめて共同で選びとってきたのは、理想は庭付きの一戸建ての持ち家というのがいまでもあって、議論すればいろいろな理屈があると思いますけれども、その原型というのは、武家住宅が一種の理想に据えられてきていて、すまいの記憶をザーッと探ってみると、意外にそういう記憶しか出てこないのじゃないか。これはわかりません。「おまえの住まい方、遍歴がまずいからだ」というふうにいわれるかもしれませんけれども、そういう気がします。
言いたいのは、きょうのテーマである都市に住むということの記憶が、たぶん日本の場合は薄いのではないかという気がするんです。僕はわざと住宅のプランだけの話にしましたけれども、集まって住む形式の記憶が日本の戦後で抜けているのではないかという気がします。
そこで、こじつけですけれども、研究史については、一つは、いろいろ研究費をとったりするときの口実ですが、僕が最初にインドネシアにいったときは、そういう日本のある種のステレオタイプ化した住宅形式とは違うオルターナティブをみたいという口実をプロポーザルに書いているわけですね。
それで、いきだしたのは三〇ぐらいですが、戦後の自分が生まれてから五〇年ぐらいの、一種の追体験をするという気が非常に強かったです。要するに、インドネシアは非常に貧しい状況にあった。そこらじゅうにバラックが建っているなかで、そこに西山先生とか吉武先生がある種の提案をされたのが51Cという形式だったわけですけれども、そこには集合の論理が抜けていた。これははっきりしていると思いますけれども、そうじゃない住宅のあり方といいますか、いまの流れでいうと「集住形式」に対する期待があっていったということで、それはあまり間違っていなかった。貧しい住まい体験と、住まいのことを研究する研究室にいったことと、住総研にお金をもらったこととか、全部重なっていますが、整理していくとそういうことかなと思っています。
その後、この五年ぐらいはむちゃくちゃなことをやっていまして、去年、今年と世界一周をしたのですが、いま植民都市研究ということで、世界じゅうの都市を追いかけるという無謀なというか、手を広げすぎましたけれども、そのなかでもいちばんの興味は、都市型の住宅です。アジアでどういう形式をつくってきたか。これはたぶん陣内さんとも共有していると思うのですけれども、中国、台湾です。
こういう流れになるとは思っていなかったのですが、多少もってきていますので、幾つかおみせしていったん切ります。これはバラナシ(ベナレス)の一角です。基本的にはコートハウスになるわけですが、イスラムがきたりして、イスラムにも似ているかもしれない。ヒンズーの聖地ですけれども、こういう形式をもっている(OHP・バラナシ)。
植民都市でいいますと、コーチンという街です。オランダが都市型の住宅を発展させた国で、いまでも人口密度が大変高いわけですけれども、そのオランダがアジアにきてやった都市型住宅はオランダ本国とは違うんですね。むしろ中国系といいますか、コートハウス、外屋に近い(OHP・コーチン)。
それから、一段落したので最近はいっていませんけれども、同じインドでもジャイプールという町を相当調べました。ここはなかなか面白くて、ここがイスラムクォーターで、こっちはヒンズーが住んでいるということで、住まい方が違う(OHP・ジャイプール)。
近くでいいますと、台湾もなかなか面白いところで、間口が狭いなかで、トウテンといって、階段室を直行でバーッと通して、各階プランが違う。これは都市住宅が相当定着しています(OHP・台湾)。
かと思うと、ネパールの集落はすごく古くから集合住宅というか、都市型住宅を発達させてきています。ネパールの家はいちばん上がキッチンになっています。ちょっと信じられない。アジアはそもそも都市型住宅の形式の伝統が薄いところですけれども、アジアだけみても地域でいろいろ発達させている。
それに対して、わが貧しい住宅遍歴を振り返ってみて、ちょっと専門家として情けない。日本でどうして住む形式、記憶とか原風景になるようなものを生み出してこなかったのかということを考えています。これで切ります。
中嶋 どうもありがとうございました。講演のほうはこれで終わらせていただいて、一〇分ほど休憩してから討論に入りたいと思います。
ディスカッション
中嶋 それでは、後半の討論を始めさせていただきたいと思います。前半の講演のなかでは、陣内先生にはご自分の小さいころの家、周りの環境の話、そして学生時代に出会ったヨーロッパの街、それらが現在の先生の研究にどういうふうなインパクトを与えているかということをお話しいただきました。そして、布野先生にはご自分の住宅遍歴というものを語っていただきまして、いまの日本の都市の集まって住まうということについての問題提起をしていただきました。後半の討論では、会場の皆さまからも質問、ご意見をいただきながら進めていきたいと思います。
まず、前半の講演の部分でご質問等がありましたら、挙手してご発言いただけますでしょうか。
新井(よろず住まいの相談) 「よろず住まいの相談」という厚かましい看板で、この近くに住んでいる新井と申します。私はたまたま前回こちらで開かれた郊外住居についてのミニシンポに参加させていただいて、大変刺激を受けました。自分が六五年ほど郊外住宅に住んでいるということと、自分史ではないのですけれども、すまいの記憶、まちの記憶というものがどんなふうにこれからのまちづくりに関係するのかなということを考えたものを、『建築とまちづくり』という雑誌の一一月号に載せていただくことになっています。
そういうことで、お二人の先生方に質問というか、ひょっとすると意見を伺うということになると思うのですが、私のように一つのところに長く住んでいる人間が考える記憶というものと、お二人のようにフットワークのおよろしい方たちの考えるまちの記憶はちょっと違うかもしれないなという気がするわけですね。どういう点が違うかというのは、いろいろあると思うのですけれども、たとえば「すまいの記憶は都市を変えるか」ということですが、このテーマ自体、私にとってはいかに都市を変えないで住むかという見方もあるのではないかと思います。
私は世田谷にいますけれども、自分が住んでいた中村村の田園耕地整理に時間がかかった。時間がかかったために、最初から住んでいた方が皆さんそのまま住みついておられるという状況がある。したがって、私のまちの記憶というのは、フィジカルな記憶よりも、人との交流の記憶のほうが多いわけですね。そういう形で、私の記憶というのは、現実に起こったまちの変化を必ずしもトレースしていないわけですけれども、そういう記憶のまちというのもあるのではないかなと。それが一点。
もう一つ、郊外ということに関係があるのですけれども、私どもは戦争中、戦後は非常な食料難で、食べ物をみつけるのにどうするか。具体的にいうと、リュックサックをしょって買い出しにいったわけです。また同じようなことが起きるのじゃないかという予感がしてしようがないんですね。これは皆さんそれぞれご意見があると思うのですが、こんなに飽食の時代が続くわけがないということです。人口はいずれは減るだろうと思いますけれども、それまでいったいわれわれが生き延びられるかどうか。世界貿易がいつどんな形で崩壊するやもしれないというのが現実のものになってきています。
この後そうなったときに、われわれはどこに買い出しにいくのだろうかということを考えたときに、私は家の周りの現在もまだ残されている農地をこれからどれだけ残していくかという観点で、本流の都市づくりというか、東洋風の都市づくりというか、そんなことも視野においておく必要があるのではないかなと思うんです。できればご意見がいただければと思います。
後先になりましたけれども、きょうのお二人のお話は、私にとっては自分が書いた原稿をチェックして、頭の中を整理するのに非常に役立ったということで、感謝を申し上げたいと思います。
中嶋 いま住み続ける人にとっての原風景というのは、移動されている先生方とは違うのではないかと。あと、そういうものを含めて、人との交流とか自然環境みたいなものを守っていくような、日本流の新しい都市づくりがあるのじゃないか、ということがご質問にあったと思いますけれども、両先生方、いかがでしょうか。
陣内 私自身はしょっちゅう引越しをしていましたし、外国もヴェネツィアにトータル三年、二カ所に住んだり、ローマにいったりして、五年以上住んだのは東京だけなんですね。先ほど地図に出てきた東京杉並の小さい家に親と一五年以上いたと思います。それから、結婚して三カ所移って、いま区役所の近くにいるという状況で、本当に移っているんです。だから、家の記憶というと薄いかもしれないけれども、杉並の成宗の記憶はかえってあるんですね。ですから、自分自身かなりこだわっている原点は杉並の成宗―いまは成田東というんですけれども、そのへんにかなりあるのじゃないかと思っています。
それで、あまりにも変わるんですよね。さっき布野さんが、自分が住んでいたところにいってみたら、神社しかなかったと。実は私も茅ヶ崎とか仙台は怖くて住んでいたところにいかれないのですが、完全になくなっていると思う。それから、福岡にはいってみたけれども、周りが本当に変わっている。ただ、住宅の周りは残っている。そういうなかで、本当に変わっていくということをどういうふうに考えるのか。
一方、ヴェネツィアは、ときどき戻る機会があるのですけれども、もちろん住人が変化している、レストランの経営者が変化しているというのはあるのですが、たたずまいは変わらない。本当に精神的に安定して迎えてくれる。
変化ということで非常に思うのですが、日本の社会、価値観、あるいは消費の動向、世の中の動き、まちの表情、すべてが変化するということがベースになって動いているところが否が応でもあって、結局、変化を促進し、それに乗っかって引っ張っていくのは若者の世代になってしまうということで、どうしてもローティーンの文化になっちゃう。これは大変きついことかなと。面白がって若い文化についていくところは自分の中にあるのですけれども、それだけの社会、あるいは都市の風景、居住のあり方ということになってしまいますと、根本的に大きなものがどんどん失われていくのじゃないかという不安もあるわけです。
やっぱり欧米がいいのは、大人の価値観がしっかり根づいている。いく場所もある。まちの中で、あるいはいろいろな都市の施設やレストランでも、主役として社会の中で立ち振る舞える。そういうまちの風景の変化というのは、それは誰が担うか、誰が消費動向をつくるか、ターゲットはどうなっているのか、マーケットはどうなのかということは、文化、社会の奥深いところで結びついているのじゃないかと思っていて、そのへんがヨーロッパと日本の決定的に違う面じゃないか。
ところが、一方で日本の社会は変わらない面が非常にあって、先ほど人間の交流との記憶が重要だというお話があって、私は文化人類学をやっている川田順造さんという方とおつき合いがあって、ここの研究会でもいっぺん、深川の高橋という、まさに下町的なところの記憶の話をしていただいたのですけれども、震災でも戦災でも焼けて、古い建物は一つも残っていないんですね。でも、みんな居住歴は長いんです。震災以前からずっと住んでいる人、商店を経営している人が半分以上いる。ですから、人間関係はしっかりしている。お祭りはしっかりしている。商店街の営みが非常に骨太に展開している。
それで、川田さんというのは、西アフリカの文字のない社会でフィールド調査をやっていて、無文字社会でどうやって歴史や伝統が受け継がれていくかという研究、方法論を打ち立てて、大変な仕事をされたデビストロスの弟子なんですが、深川でそういうことをやっているんですね。
深川はそういう記憶をいっぱいもっているということで、日本の都市の記憶の受け継がれ方というのはヨーロッパとは全然違っていて、逆にヨーロッパはそういう伝承ができませんので、建物のことに非常にこだわるわけです。形、器を残さない限り、自分たちの記憶が受け継がれないというふうに考えるんですね。だから、物にこだわる。日本の場合、だからといって物を壊してもいいというふうになっちゃうとまずいですけれども、できるだけ物にもこだわりながら、しかし、本質的には人と人との関係とか、祭りの運営とか……。
それで、実際に千住のコミュニティ雑誌、あるいは『谷根千』の活躍というのは、あんなに地域の記憶がどんどん掘り起こされるのは、ヨーロッパの都市では考えられないことだと思うんです。それだけ人々が受け継いでいる。住んでいる人々の間に知識とか認識とか、記憶、物語がたっぷりあるんですね。一つの地域で何年も地域雑誌が可能になるということは考えられない。雑誌『東京人』もそうですね。八五年ぐらいに創刊してずっとやっているのですが、月刊で毎月特集を組んでいますけれども、こんなに記憶がいっぱいあるまちってないのじゃないかと思うんです。だけど、それをもっと自覚化して、すまいづくりやまちづくりに結びつける必要があるのじゃないかということを感じました。
中嶋 都市の記憶をいかに掘り起こしていくか。そして、日本の都市のつくり方というのは、何を残して、何を残さないかという選択を常に迫られる都市づくりがずっと進んできていると思うのですけれども、原風景のほうに戻すと、そういうものを掘り起こして、それが物である必要はないかもしれないのですが、人との交流とか独自の歴史、あるいは共有できるものを掘り起こすのが新しいまちづくりの方法ではないか、というような話ではないかと思うのですけれども、布野先生はそのへんはいかがでしょうか。
布野 ご質問に対しては、単純に、ある都市なりある地域に住み続けている人の原風景と、その地にとって余所者だったりする原風景はどうかというふうに質問を置き換えますと、いまの話とも絡むと思うのですが、基本的に都市というのは、集団の作品、しかも歴史の作品。いろいろな人がかかわってできているわけです。その場合に、きょうのテーマである記憶とか原風景といったときに、誰にとっての記憶であり、誰にとっての原風景なのか。そこで、住み続けている人の原風景と、ちょっとだけ住んで通りすぎただけの記憶がどうかということですが、たぶん答えは「共有されている」ということですね。中嶋さんが問題にされているのは、共有された原風景なり、共有された記憶が何かまちづくりの手掛かりになるのではないかと。
それは僕もそういうふうに思います。特にまちづくりという立場に立つと、方法論の問題の議論があって、たとえば文化人類学では二年住まないといけないというある種のルールが全世界的にできていますけれども、じゃ、二年住めばその地域社会がわかるのかという問題とか、余所者には永久にわからないのかとか、たぶんそういう問題にもつながっていくと思います。一つ言いたいのは、京都の町の話がいちばんわかりやすいと思います。
もう一つは、個人の話を先にしますと、個人でもイメージとか印象が変わるということがあると思うんですね。具体的にいうと、たとえば僕が学生時代に帰省したときに、松江の町が東京っぽくなるのが嫌で嫌でしようがなかったんです。要するに、東京にありそうなシャレた喫茶店がいっぱいできていくとか、僕は藤森さんほど憧れていったわけではないけれども、やっぱり地域は地域であってほしい。そういう面と、逆に「松江っていいところですね」といわれると、またそれに反発したり……いろいろ複雑です。個人でも、年によっても違ってきているということです。
もう一つ、京都の話をしたらわかりやすいというのは、京都は一二〇〇年の都ですから、京都生まれと余所者ではすごく違うんですね。簡単にいうと、京都生まれで京都を憎んでいる人と、京都生まれで京都を愛しまくっている人と、余所者で京都が好きな人と、マトリックスで四つに分けるとわかりやすい。だいたいそういうものが絡んで京都のイメージとか原風景が語られているわけです。ですけれども、京都の町で非常にやりにくいのは、京都生まれで京都を愛しているという部分がなかなか言葉になって出てこないので、方法論的にはそこをどうすくうかとか、これはどこの地域でもそうだと思いますけれども、住んでいる人と、ツーリストでくる人とか、そういうものの共有のイメージをどうつくるかということだと思うんですね。
東京はすでに四〇〇年からのすごい歴史があるわけで、掘り起こせばいっぱいあるんです。僕の経験を一個だけいうと、千葉に波崎という漁港があるんですね。日本一投票率が低くて、離婚率が高いので有名です。そこのまち起こしを頼まれたのですが、とにかく町は砂ばかりなんです。そこに日立の工場がきたりということもあって、「港だから、うちには歴史がありません」というのですが、調べると、江戸時代の新田開発の話とか、二宮尊徳がどうしたとか、いろいろな話が出てくるんですね。基本的にはあらゆる地域に歴史があり、記憶が詰まっている。これは絶対に手掛かりにすべきだと思っています。
具体的に何が手掛かりになるのかというのが、たぶんきょうのテーマだと思いますが、陣内さんは神社とおっしゃいましたけれども、確かに土地の力にかかわるものもあるのですが、一つは自然の景観ですね。これはさっきいいませんでしたけれども、市街地景観はガタガタにやられても、自然景観も京都のようにほとんど大景観的には意識できなくなっていても、僕の故郷に帰ると、宍道湖があって、それを囲んで山があると、それが一つの手掛かりになるなというふうには思います。あと幾つか考えはありますけれども、いったん切ります。
中嶋 このシンポジウムで大前提としてというか、確認したかったことは、タイトルにもありますように、まちの原風景とか、すまいの記憶というのが、本当に今後のまちづくりを進めていくうえで力になるのかということだったのですが、お二人の先生は、それはもちろん力になるということでよろしいのでしょうか。
陣内 いま布野さんが京都の話をなさったわけだけど、原風景が嫌で否定したいと思う人、あるいはそういう時期はかなりあるのじゃないか。よっぽどいい原風景をしょって、すくすくと育ってきても、挫折とか、嫌な人と出会ったりとか、必ず結びついてネガティブに考えることがあるかもしれない。たとえば森まゆみさんだって、「若いころは谷中は嫌で嫌でしようがなかった」という話をよくなさいますよね。で、ある年齢になり、子育ても始め、良さがだんだんわかってくる。
さっき僕が紹介した川田順造さんという文化人類学者は、深川が嫌で嫌でしようがなかった。で、パリに脱出したわけですね。で、デビストロスのもとで勉強して、西アフリカのサバンナでフィールドワークを一〇年ぐらいやって、ある年齢になって自分の故郷―
小名木川沿いの深川高橋という非常に雰囲気のあるところで、昔はまるで駅のターミナル盛り場みたいに船の発着場が栄えたところなんです。それで、子どものころは嫌で嫌でしようがなかったところが非常に懐かしくなって、ある年齢になってから調査を始めて、「三角測量」と彼はいうのだけれどもパリ、西アフリカ、深川と。
そういう構造のなかで原風景が生き生きと蘇ってくるということは非常にあるのじゃないかと思うし、原風景というのはいっぱいあって、対象化する必要がある。ベタベタのなかでつき合っているだけではだめなのじゃないかと思うんです。そこにずっと長くいらっしゃって、原風景がずっと好きでという立場もあるかもしれない。あるいは、ずっといてこだわって、自分の中で反芻してという良さも当然あると思いますが、いっぺん立体的に対象化するということが非常に重要です。
そういうなかでの原風景というのは、イメージの中で増幅されたり変化して、客観的な原風景というのはあるわけないので、非常に主観的であり、でも集団で共有されている。その共有のされ方だって、誰がどういうふうにつくったかとか、史実そのもので忠実に検証していくというものではないわけですよね。だからこそ先に駆り立てる力があり、戦略的にまちづくりや計画論のなかでつくっていく方法があるのじゃないかと思うのですけれども。
そういうふうに考えると、原風景というのは、みんな人生においてずっとポジティブということは絶対になくて、かえってネガティブで脱出したいという原動力になっている。だけど、そのなかでまちづくりの大きな力になるのじゃないかと思います。
中嶋 ポジティブなものとネガティブなものと、原風景がもつ力というのは否定できないというふうに思うのですが、先ほどの陣内先生の話のなかで、子どものころからずっと意識せずに育った原風景が、もう一度成人してからの体験によって掘り起こされていくという、追体験というわけではないですけれども、もう一度掘り起こす刺激みたいなものを与えるきっかけをつくっていくことがまちづくり、すまいのなかで必要なのかなというふうに思うのですが、そういうことが研究者の役割であり、建築計画をしていく人間の仕事ではないのかなと。そういう意味で、原風景というものを大切に考えたいなと思うのですけれども、布野先生、いかがでしょうか。
布野 まず、「原風景とは何ですか」と。要するに、地域でもいいですし、いまいっている原風景というのは何をいっているのだろうと。実をいうと、新幹線の中でそれを考えていたのですが、もしそれが共有されてあるのなら話は早いですね。
永橋(中央設計) 私は弥生町、根津の後ろの異人坂の前に住んでいるんですね。もともと一九三七年に逗子で生まれて、逗子にもいったりきたりして、数えてみたら一六回転居しているんです。戦時中は江田島の海軍兵学校の官舎に住んでいて、原爆の光と音に驚いた覚えがあります。数年前に、『建築とまちづくり』で「都市の記憶」ということで原稿を書かされまして、それといま郊外と都心に住んでどうかというのを書けといわれて、きょうは大変興味をもってきました。
いまの原風景という話ですが、私が江田島にいたときは、なんとか逗子に帰りたいという思いがあったんです。ところが、四一年たって友だちと江田島を歩いてみると、坂道からお寺から小学校、もろもろがたまらない思いになるわけですね。そして、逗子でまちづくり条例というのをつくるのに、一二年間やっているまちづくり研究会が関係しているのですが、逗子でいえば海と斜面緑地。谷中にも六九年から八四年まで子どもを育てるので住んでいたことがあるんですが、人間関係でいえば、お祭りで浴衣を着て、子どもは神輿を追うとか、幼稚園の保護者会の副会長をやるとか、そういうことですね。その地域に住んで、人とのつながりみたいなものがとても大事です。極端ですが、三階以下の低層に住む、自家用車は使わない、職住接近という三つがきちんとあればまちは変わっていくし、日本の都市の質も変わるのじゃないかと思うんですね。
いま異人坂にはローンを組んで住んでいるわけです。それは、本郷三丁目にある事務所まで一時間半かけて逗子から通ってくることが体力的に自信がないものですから、やむをえず借金をして、砂上の楼閣に住んでいるみたいなもので実に不安定なわけです。借金をして持ち家をもつというようなはすまいとかまちを良くしていかないと思うんです。
それから、陣内さんが窓から何がみえるかということをおっしゃっていましたけれども、たまたま私の家からは遠くに隅田川の花火がかわいらしくみえるんですね。すぐ後ろは根津小学校で、三階建てだと子どもたちが動いているのがみえる。やっぱり窓から何がみえて、どんなふうな住まい方が楽しいのかというのを、もっともっと経験している人たちがしゃべったり、書いたりすることが大切です。それから、この町のこの坂道、あの崖、あの緑がどれほどということを、子どもたちも含めて語り合っていく。そういうふうにして、自分が育った子どものときの住まいのあり方、遊び場がどれほど大事なのかということが自覚できるようにしていくということがとても大事じゃないかという思いがしています。
いまは、保育園とか診療所、病院、高齢者の施設、学校などが大事だと思うんですね。そういう公共的な施設を、あとあとまで懐かしめるようにつくっていくということが大事だと思います。私は横須賀高校に途中から入って、小泉さんは後輩ですけれども、コンクリートになってからはいったことがないですね。私の横須賀高校は木造の建物。みんなそんな思いで原風景を呼び起こすことが大事じゃないかなと思っております。
服部(千葉大学) 理解が及ばないものですから、私なりに問題を整理してお伺いしたいのですけれども、まず、途中まで問題になっていたように、「原風景とは何か」というのが非常に大きな問題だと思います。それから、いまの方、前の新井さんの話にあるように、原風景というところから価値をどういうふうに出して、どういう都市をつくり、どういう建築をつくるかというプロセスの問題があると思うんです。
後半のほうはみんな得意なので、自分の好きなことを述べればいいのですけれども、中嶋さんの問題設定からいうと、「記憶は都市を変えるか」というところを問題にされていますので、前半の原風景の考え方とか、計画論なり設計論にどういうふうに結びついてくるかということで持論を述べさせていただいて、お伺いしたいんです。
これは、パリの日本人に、パリの都市はどういうものかというイメージマップを描かせた研究があるんですね。そうすると、もちろんパリで生まれ育っているわけではないのですが、中心部に建物が密集してある。だけど、郊外にいくと緑が延々と広がっているというような絵を描く人がほとんどなんだそうです。実際にパリというのは、中心部があって、周辺は高層の公共的なニュータウンがいっぱいありまして、とても緑なんかないぐらい郊外は広がっているわけです。日本の東京と非常に似ているわけです。しかし、それにもかかわらず、都心と郊外というと、建物と自然という対比を感じているのが日本人だ、というんですね。これはいいかどうかわからないけれども、統計的にとったときに、日本人はそういう都市の風景をイメージしているということです。
ドイツに原風景学というのがあるのですけれども、原風景学のなかでいうと、最も根源的な風景意識なんですね。それはパリで日本人の調査をしただけなのでわからないのですが、日本人にとってそういうものがあるのかないのか。陣内さんとか布野さんというのは、遊民というか、それなりにバラエティに富んだ経験をもっておられると思いますが、日本人ともっと広く含めた場合に、はたしてそういうものがあるか、という問題ですね。
これは僕の研究ですけれども、多摩にいっていろいろな高層群のある住まいとか、低層の集落のある住まいをみせて、「どこがいちばん好きですか」と聞くと、だいたい「戸建てがあるところがいい」というんですね。それは原風景と関係しているかどうかわからないですけれども。たとえば伊豆の山の中に住んでいる人に聞くと、「高層住宅に住んでみたい気がする」というんですね。これはまた不思議なことで、先ほど布野さんは島根からという話で、布野さんはあまり高層住宅を拒否していないと直観的に思っていたのだけれども、低層で緑の中に住んでいる日本人という、いわゆる都市に流入した人にとっては、高層・高密、あるいは緑のない空間というのはそんなに拒否反応をもたないで受けとめられたのではないかと思う。それが原風景かどうかわかりませんけれども。
きょうみたいないいかげんな原風景の定義でいえば、過去の経験程度のお話でしょう、いまここで提起されているのは。僕がいった日本人共有の原風景感みたいな話からきているわけじゃないから。過去の経験的なことでいうなら、たとえば伊豆の何とか町の人たち、緑が鬱蒼と繁ったような空間にいる人にとって、高層・高密空間はなにも怖くない。いきたいという感じになるんですね。もっとオーバーにいうなら、憧れてくる。それで、千葉は東京でマンションに住んでいた人が戸建てを集中的に買う場所ですが、そこでやってみると、「二度といきたくない」となるんですね。やっぱり緑が多いところが多いんですね。そのあたりの議論をもう少しやっていただけるといいなと、まず一つ思います。
原風景の共通したイメージとはいったい何なのか、日本人にとっていったい何なのか。そういうものをわれわれが共有できないというのが非常に大きな問題だと思います。だからこそ都市はどんどん変わっちゃうし、極端にいうと、どこにいったっていいというふうになるのではないかと私は思うんです。私はこれで帰りますけれども、これがきっかけで話が弾めばいいと思って、あえて長々としゃべらせていただきました。
陣内 いまの服部先生のような、日本人共通の原風景という設定をするのだとすると、樋口忠彦さんがそういう形を追求していて、それも一つのタイプではなくて、いろいろなバリエーションがある。それは地形の構造が全国で違っていたり、山の奥と海辺では違っている。ですから、バリエーションが出てくるのですが、たとえば山の辺にあって水の辺にあるとか、そこでは共通しているわけですよね。そういうのはわりと説得力があって、万葉の時代からずっと好ましい、精神的にも安定した居住ができる場。だけど、いつもみんながそこに住めるわけではないわけですね。工業の発達とか、城の構え方などが歴史的に変わってくると、全然違うパターンにいって、どこかからとめどもなくそういう原型にこだわらないで、都市をどんどんつくっていっちゃう。あるいは、せっかく水の辺や山の辺という可能性があったところを全部ならして埋め立てて、全然違う抽象的な世界をつくってきたということで、いまの議論はいままでにあったのではないかと伺っていましたけれども、それではまずいんですか。
服部(千葉大学) 陣内さんが問題にされているような識者の見解というのは、直接風景を問題にする人ですね。僕が問題にしている、原風景学というのをやっている人、もう少し人類学とか方法論なんかをやっている連中の世界にあるんですね。その人たちにとっては、「日本人には原風景はない」という感じに近い発言が多いですね。
陣内 そうですか。それは勝手な誤解じゃないですか。
服部(千葉大学) 誤解ですか。
陣内 と思いますね。日本人は原風景はすごくあると思いますけどね。
服部(千葉大学) じゃ、それが問題だと思います。それから、中段でいった、いわゆる移り住んでいく過程で得た知識というか、記憶というのは原風景であるというふうに断定してしまえば、みんなバラバラですよね。もっともっと根源的だというと、万葉とか、もっと前からきているものかもしれないので、それはちょっと話としては整理のしかたがむずかしい。
陣内 ただ、僕は中嶋さんが提起されている地平というか、場というのは、日本人が普遍的にみんなが共有する原風景というのはありうるけれども、そうじゃなくて、それぞれの場所や地域の人たちがいろいろなバラエティをもちながら、個々の事情に応じて抱く原風景のことをいっていると思うんですね。そうしないと、事は抽象的なモデルづくりみたいな話になっちゃって、実践的な面白さが導き出されないのじゃないかと思って、僕は中嶋さんの問題提起はわりと好意的に受けとめたのですけれども。
服部(千葉大学) いや、僕も好意的に受けとめていますよ(笑)。
布野 僕が何もいわずに、「原風景っていったい何ですか」といったのでそういう話になったのですが、僕の意図は、日本人という構えはあらゆる議論でしたくないので、陣内さんがいうのは、樋口さんの日本列島の景観の構造を原型を幾つか分けるという話で、それは当然ありえますし、意識に遡ってそれをということを聞こうとしたわけではないんですね。
ちょっと横にそれますけれども、高層を容認するとかおっしゃったので、はたと思ったのですが、僕は一階主義者で、だいたい一階を選択して住んでいるので、たぶん高層は嫌いなんだろうなと思ったんです。それより茶化していいたいのは、たとえば京都で町家を守れとか、職住近接だとか、それはいいのですけれども、それをいっている先生がえらい高層マンションに住まわれていたりして、あれはいったいなんだというのに思い当たったりしましたけれども、それは原風景に関係するか、しないのか。
僕が聞きたかったのは、中嶋さんが書かれた冒頭に、「没個性化した現代の都市やすまいに……」というのがあって、「かつてそれはもっていた固有の」とありますけれども、かつては共有されたものが何かあって、それが失われたという立て方ですね。そうすると、いま没個性化した都市で育った若い人たちの原風景はいったいどうか、ということを裏で聞きたかったのですけれども。
中嶋 「原風景」という言葉のほうにお話が移っているのですけれども、おそらく聞かれるだろうなと。少し無防備に「原風景」という言葉を使っているのは私も意識しておりまして、私の中で原風景をどういうふうに考えているかということですが、先ほどの服部先生のお話にもありましたように、万人が共有しているような、あるいは日本人、あるいは地形が覚えているような根源的、現象的な原風景というのがまずベースとしてあると思っております。それは歴史的な景観でしたり、地形だったり、そういうものがまずベースにあって、その上に個人の経験的な原風景というのがつくられていくというふうに思っていまして、この二つの位相というか……。
まず最初の根源的、現象的というのは、心の中の問題であったりとか、場所を座標とした原風景みたいなものが一つあって、その上に生活する個人を中心とした軸の原風景が重なり合いながら、あるイメージをつくっていく。そういうことが原風景の構造ではないかと、自分の中ではそういうふうに考えていまして、今回、そのなかでも根源的とか現象的なものの原風景はひとまずおいておいて、その上で展開してきた自分史のなかでの、自分を中心座標として形成されていく原風景というものを取り上げてみたいと考えて、今回のシンポジウムはフィールドワークを中心に研究されている先生方をお二人お呼びしたということです。それがまず第一点、今回の原風景というものに対する私なりの解釈です。
もう一つは、いま布野先生がおっしゃったように、「没個性化した」と趣旨のほうに書かせていただいているのですが、「没個性化した現在の都市やすまいにかつてそれらがもっていた」というのは、私は研究自体は歴史的環境のほうが専門でして、歴史的な環境みたいなもの、それぞれが個性をもっていたものが均質化されていっているのが現在ではないかという意味でこの文章を書かせていただいていまして、その均質化した空間に住んでいるわれわれ、私は三〇代なんですけれども、それ以下の世代の人々がこれからもつであろう自分を軸とした原風景というものは、非常に貧しいものではないのか。いままで原風景というのは、都市をつくるある手掛かりにしようとわれわれは考えていたのだけれども、そういったものが失われているのじゃないか。そうだったら、どういう方法で原風景を掘り返したらいいのか、ということを考えてみたいと思っているのがこの趣旨ですけれども、いかがでしょうか。
陣内 そのとおりだと思うのですが、どんどん変化して、均質化して、没個性的になったというような、こういう失われていくものを嘆くというか、批判するというか、そういうのは……。実はこの間オランダからきた都市の研究をしている学者と話をしていて、「いつの時代の人もそういってきた」というんですね。そうかもしれない。だけど、「日本は変化が激しいんだから」といったのだけれども、「いや、そういうことはないだろう」といっていた。そういう視点にドキッとしたんです。だから、必ずしもいまだけの問題ではないのかもしれない。永井荷風がすでに昭和の初期に『日和下駄』のなかで、急速に近代化して、江戸が失われていくことをすごく嘆いて、クリティカルに書いている。だから、クリティカルな視点をもつことは非常に重要だと思うんだけれども、いまの時代だけの固有の問題というふうには考えないほうがいいのかなと、オランダ人の話を聞いて思ったんですね。
それから、外国からくる連中を日本の郊外に連れていくと、面白がるんですね。あるいは、うちの杉並の周りの住宅地、戸建てでそれなりに庭があったり、緑があったり、坂があったり、そんなに僕らは個性があると思っていないのですが、もっと古い中心部の山手の本郷とかにいけば、すごい個性があるとリアルにわかるのだけれども、杉並のうちの周辺は本当にニュートラル状態に思っていて、個性があるなんて誰も思っていない。だけど、外国人を連れていくと、外国の人にもいろいろ種類があって、特にヨーロッパの人、アメリカの人ですが、アメリカにはない、ヨーロッパにはない、ある日本の何かを受け継いでいる面白さ、個性があると。
これは郊外の分譲住宅地がどうなのかという議論はあると思うのですが、非常に単純な設計方法で、山を切り崩し、碁盤目型とか、車優先とか、住宅が立ち並んでいるのもパターンは幾つかしかなくて選んでいるとか、そういう意味では非常に均質的なのかもしれないけれども、この生産システムとか、こういう風景というのは、ある意味で一九七〇年代、八〇年代、九〇年代、日本にしかないものかもしれないんですね。だから、もうちょっとそこがもっている質というのをちゃんと考えないといけないのじゃないかと。
実は、郊外に育った連中で、修士論文とか、卒業論文で、郊外の中の面白さをどうやって自分たちの世代のアイデンティティとして発見しなければいけないかみたいな問題意識をもって調べた連中が何人かいるんですね。
これはなかなかむずかしいのですけれども、われわれの世代は頭ごなしに「個性がない」とか、「空間として質が落ちている」というのだけれども、もう少し何が問題なのかということをちゃんと検討しながら、それはフィジカルなものだけではなく、人間関係もあるだろうし、都心からの距離とか、機能がどれだけ交ざっているかとか、いろいろなことがあって、そのクオリティを判断するのはむずかしいですけれども。
郊外研究というのは、コマーシャルなレベルから、マーケットリサーチで三浦展さんという人がやっていますね。彼は郊外学はないということで、社会学の立場からやっていたり、ホンマタカシさんの写真に魅かれて郊外研究をやる若者も多いんですね。だから、いろいろなジェネレーションの人が郊外研究をやらなきゃいけないのじゃないか。郊外で育った人は、自分たちのアイデンティティそのものなので、そこに愛着もあるんですね。そのへんは非常に重要なテーマだろうと僕はみているんです。
中嶋 われわれの世代というか、各世代がもつアイデンティティみたいなものを発掘するということが、すぐ方法論に結びつけるのはどうかと思うのですけれども、それが今後の都市の中の質をみていく力になっていくということですね。先生はいかがですか。
布野 力についてといわれれば、一言いわないといけないのですが、いまの三浦展さんというのは、前はパルコにおられて、アクロスで商品の売れ行きの分析をされていたんですね。郊外に人口が張りつくから、そこに商品が出ていくわけですね。それを分析するなかで、彼は独自の展開をするのですけれども、要するに、没個性化しようが何しようが、一方で現実の都市をつくっていくメカニズムがあるわけです。それを抜きにして、記憶が力になるとかならないというのは、たぶん無防備すぎて、現実のメカニズムのなかで、先ほど紹介した僕のつまらない住宅遍歴も、あるメカニズムのなかで自分はそれなりに最良の住宅選択してきたつもりだけれども、手のひらで動いていたというところがあるわけですね。日本列島全体がそういうメカニズムで動いてきた。バブルがはじけるまで、土地のスぺキュレーションで動くというような、市場原理というのがあるわけですから、それが強いから日本列島全体が同じようになっていくということですから、それに楔を打ち込むような概念とか手法というものに結びつけていかないと、力にはならない。
ですから、議論すべきは、たとえば陣内さんがやられた、そういうふうに一元的に東京なら東京が変わっていく、地上げがあって建て替わっていく、効率でいくというのに対して、ウォーターフロントがあるじゃないかと。産業構造が転換して、当時用なしになっていた土地といったって水辺があるじゃないか、細かくみたら緑もたくさんあるのじゃないかというのを読んでみせて、ちょっと変わってくるというか、そういうものも逆に取り込んで住宅開発をやろうとか、そういうふうなメカニズムがあるから。
そのへんのときに、下手な記憶というとすでにいっぱいあるじゃないですか。テーマパークみたいな一種のキッチュ的なやり方。住宅もそうですよ。なぜここにヨーロッパの街なのというような商店街がいっぱいあったりするわけだから、本気でやるのなら、そこまで立ち入って議論したほうがいいかなと。
中嶋 確かに、そういうメカニズムという前提以前の話で今回進めてきたわけですけれども、陣内先生、布野先生がそれぞれ東京、京都で進めていらっしゃるような、それをどうシステムに乗せていくか、それをどういうムーブメントとして結びつけていくかというのがわれわれの非常に大きな課題で、それを少し議論しただけで進むものではなくて、やはり活動というか、運動を通じて広げていくべきものだとは思います。それで、今回、その前提として原風景をもう一度ということでお話しいただいたのですけれども、布野先生にまとめていただいたのですが、今後、こういうものをいかにシステムに乗せていくか、あるいは力となるような動きに乗せていくかということが、今回、確認できたかなと思っているのですが、いかがでしょうか。
陣内 高層に住むかどうかという話があって、谷中にもいらっしゃったという方から大変重要なお話をたくさんいただいたのですが、いま実際に都心回帰で、地価が下がったということもあって、ずいぶんマンション建設、あるいは高層の住宅建設が活発になっていますよね。窓からみる風景の大切さをおっしゃったわけですけれども、僕も東京の場合、窓からみる楽しさ、面白さ、価値観がちょっと違う方向にいっている。つまり、高層の住棟からみる眺望はものすごく価値があるわけですね。それに魅かれて高くても買っちゃう。で、もっと低い集合住宅、谷中とか千駄木とかの景観とか、周りの環境とちゃんと協調できるような高さ。本当に低層、中層の集合住宅からのながめというか、そういうもの……。
さっき自分の話のなかで関係性のなかで生きる面白さということを申し上げたのですが、窓からみえる風景というのはまさにそうで、ヴェネツィアとかローマの集合住宅に住んで、みんな四階ぐらい、せいぜい五階なんですが、すごく窓からのながめがいいんです。つまり、周りの家並み、瓦、煙突、窓、生活の気配、路上の人のざわめき、恋人同士の語らい、みんなひしひしと伝わってくるんですよね。そういうなかに都市に住む実感を感じて、これは僕自身、日本では狭い平屋の一戸建てというのが多かったわけだけれども、そういうものと違う都市に住む面白さというのを体験したんですね。
で、日本のいまのマンション設計にはそういうものがほとんど入っていないのじゃないか。勝手に自分の建物の論理で建っているわけですね。周りを壊しているわけです。だけど、マンションもたくさん集まってくると、もう少しお互いにいい関係で並んで、しかも周りにうまく開かれて、眺望も楽しめるというゆるやかないい関係をどうやってつくるかというイメージがないとまずいのじゃないか。
そういう意味で、できたら自分も日本で暮らすときにはいままで木造の庭付きの家しかなかったのですが、集合住宅に住んでもいいなという気持ちはありますが、そういうものができてくればいいかなと。
もう一つは、布野さんのお話のなかで、僕自身の体験とものすごく重なる面が多いのですが、どうも住まわされてきた、あるいは狭い家にという、どうみても豊かな経験とは言いにくいというお話があったのだけれども、もう一つの角度からいいますと、芳賀徹さんという比較文化の研究者も研究会でずいぶん議論していたのですが、彼が信貴山絵巻とか中世の絵巻物をもってきて、そのなかに非常に質素な木造のあばら家みたいな絵が描かれているのだけれども、そのなかで本当に家族がアットホームに暮らしている場面が描かれているというんですね。そういうフィジカルには狭くて、ヨーロッパの家のように立派じゃない、なんでもないところなんだけれども、そこに温もりがあって、家族、人間関係の場があって、周りに木立があったり、庭があったり、路上にも開かれていたりするんですね。そういう柔らかい住まい方のイメージというのは、必ずしも狭くて住まわされてきた貧困な日本の戦後の住宅というだけでは片づけられない、いい面もあるのじゃないかと、楽天的にいえばね。
布野 アジアにはまだいっぱいありますよね。
陣内 そういう面はスピリットとして大切にして、集合住宅のなかに盛り込んでいかなきゃならないのじゃないかと思います。
中嶋 日本にはそういうものはないのでしょうか。石田先生がいらしているので、できれば一言いただければ……。
石田(東京都立大学) きょう参加しているなかで都市計画が専門だというのはあまりいなくて、建築系の人が多いのですけれども、話しだすと長くなるので、二つのことだけいっておきますと、私自身は七〇年生きているのですが、そのうち六七年は基盤整備が計画的に行われたところに住んでいるんです。そのうち三十数年は近代的な区画整備でやられたところ。三〇年弱が江戸時代の新田開発のところで武蔵野市の吉祥寺。あとの三~四年が軍用地の跡地が計画的に開発されたところに住んでいるんですね。ですから、近代の都市計画による画一的で原風景みたいなものを常に壊してきたようなところに住んでいるので、きょうの議論は私の生活体験にはつながらない。
ただ、原風景と関係して仕事をしているのがたった一つあって、サントメ新田の保存の問題をここのところ一〇年ぐらいつき合ってきているんです。実は武蔵野市の吉祥寺が新田開発をやられたのとまったく同じシステムでやられたところで、僕にとってサントメ新田はまさに原風景なんです。ただ、これは江戸時代ではあるけれども、きわめて画一的に、きわめて広域に計画開発したところなんですね。それがなぜか知らないけれども、サントメ新田の人たちにとってみても、原風景として非常に貴重に思われている。また、外からきた人も非常に高く評価して、なんとか保存しなければいけないということで運動している都市側の住民もいるんですね。
このへんが画一的とかなんとかというなかで、いかに原風景的なものをつくり出していくのかということのヒントになるのか、ならないのか。きょうは自分が計画開発をいろいろやってきた立場で、原風景という考え方に立って、計画開発というのはどうやってやるのかということをじっと考えて座っていました。
中嶋 どういう開発ができるか、お答えは出ましたでしょうか。
布野 僕の脈絡でいうと、型を提出するということだと思っているのですが、それでは見当外れでしょうか。要するに、敷地割にしても、僕はどちらかというと上物を含めた型に興味があるのですが、ある型をもって景観をつくっているところでないと、風景として記憶に残るものはできないじゃないかという気がしているのですが、いかがでしょうか。
石田(東京都立大学) いや、私は答えを出しているわけではなくて、議論の足しになればいいと思って……。
布野 要するに、画一的だから悪いという話はまったくなくて、むしろ景観をつくっている……。
陣内 条理性のある地域は美しいところが多いし、それを飛行機の上からみると、感激しちゃうぐらいの……。だから、規則性とか計画性、均一というのとは違うのじゃないかと思うんですね。計画的にできた原風景でいいところはいっぱいあると思いますよ。
中嶋 何が悪くて何がいいものになるのかというのは、それはどこにあるのでしょうか。
陣内 たとえば僕はイタリアの都市の形成史をやっているのですけれども、平野部にローマ人が最初はカストロムという駐屯地みたいなところをつくるわけですね。札幌のスタートと似ているかもしれないですけれども。それはある意味で非常に画一的で、規則的で、計画的で、それだけだと最初はなんの面白さはなかったかもしれないけれども、だけどしっかりした型はあった。その中で住みこなし、変化し、成熟し、いろいろな物語が加わり、フィジカルにもいろいろな要素を加えてということで、そのなかにしっかりした型があるということは、布野さんがおっしゃったように非常に重要で、そういうものが時代が変わると型への考え方が変わるわけですよね。しかも、建築レベルの型がその上に重なってきて変わるわけですね。だから、都市のストラクチャーとしては、ある時代に開発された型がそこにあって、またこうという、そういう全体を面白がっちゃうというか、そういうものをきちっとみつめて、自分の思い出や風景と重ねていくような風土というか、そういう雰囲気をつくらないといけないのじゃないかと思うんですね。
布野 でも、型は少し強すぎるので、訂正します。ルールといったほうがいいのかもしれないですね。ある町なら町でルールが共有される。そういうふうに置き換えたほうがいいかなと。自分の持論のほうにもっていきますけれども、
たとえばヨーロッパ人がみて、日本の街や、特に香港のようなところは、ヨーロッパ人の目からみるとすごい猥雑で混沌としているという……。
陣内 でも、喜ぶ。夜なんか夢中でネオンを撮りまくりますね。
布野 日本の繁華街でもああいうのがあって、ああいう美学が共有されていればいい、というぐらいに広げておきたい。建築の型というと狭すぎますので。それが原風景だったり記憶だったりするかもしれませんけれども、そういうのをみんなが共有して、ルールにのっとって街並みをつくっているというのなら、感動を与えたり、外人が面白がったりする。
陣内 たぶん日本人で外国に長くいる人がいちばん懐かしく感じるのは、それこそネオンがいっぱいある祝祭的な繁華街だと思いますね。だから、そこも原風景になると思う。僕は縁日のシーンというのは原風景の一つだと昔から思っているんですけど、それがいまの都市からどんどんなくなっていっている。
だから、いろいろなレベルがあると思うんです。郊外の田園が新田開発され、集落があって、神社なんかも当然ある。街道沿いに並木がある。全体にシステムがうまくできているんですよね。それは生産、農耕という営みと結びついている。そういうすべてのシステムがなんともいえないいい風景をつくっていると思うんです。その有機的な関係がどこかからずれちゃって、ある論理だけで開発が進んじゃう。スペキュレーションも起こる。全体の地域のバランスのいい土地利用とか、関係性をつくるという開発ができなくなっちゃって、逆にあったものが壊されていくということですね。そういうもののなかから原風景は生まれないと思うんです。型というよりは、いろいろなレベルの関係性ですね。それはフィジカルな景観だけではなくて、自分的な記憶はみんなしょっているわけだし、生産システムと結びついている。
荒居(千住蔵研究会) 千住をフィールドにして、千住というまちを元気にさせるような仕組みをやっています。ちょっと違う視点でお話ししていただきたいのですが、まず、「没個性化した現在の都市や住まい」と簡単に中嶋さんは書いていらっしゃいますが、実は「没個性化したのは誰だ」という話が別にあるわけです。
歴史的な町の話をさせていただくと、たとえば長野の海野、福島の大内などという町にいかれると、「海野方式」ということで一言で解決できる、土壁がもろにみえている土蔵が並んでいるということで解決できるような、本当に没個性化の、それだけの町なんです。だけども、その町を一歩出て、もう一回見直すと、それはその町の個性として成立しているというのがあるんですね。ですから、中嶋さんがせっかくおっしゃっている「別個性化した現在の都市やすまい」というのは、それそのものも個性じゃないかなという気がしているんです。
先ほど陣内先生は漢字のお話をなさっていましたけれども、それでパッと思い出したのは、『ブラックレイン』という映画のなかで、大阪の街の夜景をすごくきれいに取り上げていて、「あ、大阪だ」というのがネオンのイメージでわかる。それも一つのキャラクターだなという気がしているんですね。
それから、千住というところで駅前の再開発をしているのですが、かれこれ一〇年以上前の基本計画をそのまま形にしている。まちの方にお話を伺うと、みんな首をひねるんです。首をひねってしまうのですが、じゃどういう形で持ち上げていけば、自分たちが本当にほしいまち、本当に住みたいものができるかというのがまったくみえない。そういう手法が行政のなかにもないし、コンサルのなかにも出てこない。そういうことがまちがだんだん貧しくなっていく原因なのかなという気がちょっとしているんです。
私たちはまちの中を自分の意思で物をみて歩いて、お話を伺っていると、共通の思いがあったり、共通の感性があったりしているんです。それがなんらかの形で計画なり、建築なりというところにうまく反映されていないということがものすごく気になっている。どうしたらいいのかというのはよくわからないのですが、それをそもそも解析していけば、おそらくおっしゃるとおり記憶が都市を変えていくのじゃないかと思います。いい方向に、住みやすい方向に変えていくと思うんです。気持ちのいい空間ができあがってくると思うんですね。
たまたまですけれども、今年の秋から東京理科大学の理工学部で、前に「こんぺいとう」をやっていらした井出先生が学生さんを千住に連れてきて、千住の方のお話を聞いて、徹底的に聞いて、そのなかから建築計画をやろうじゃないかというゼミを開くというお話があったんです。そういうような形とか、ともかく話を聞いて、そこから汲み上げるという、自分の意思の目線がすごく必要なのかなという感想を持っているんですね。結論になったのかどうかよくわからないですけれども、そんなイメージをもちました。どうもありがとうございました。
中嶋 結局、収束したのかしなかったのかわからないのですが、今回の議論で、いろいろなことがわかってきたような気がしております。「原風景」という言葉で都市をみようということで始めたのですけれども、それをつくっているものを最後に両先生方にまとめていただいたのですが、それがフィジカルなものであれ、もっと人的なものであれ、ルールとか、あるゆるやかなレベルの関係性のなかで共有されるようなものというふうに置き換えたほうがいいのではないかということと、最後に荒居さんにもいっていただきましたように、共有しているある感性というものを反映する、汲み上げるようなシステムというものがすまい、まちといったものを動かしていくということではないかと、今回の議論で考えさせていただいたと思います。進行が悪くて申しわけございませんでしたけれども、きょうのシンポジウムはこれで締めさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
―了―