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2022年6月28日火曜日

世紀の変わり目の「建築会議」, 篠原一男12の対話,篠原一男 渡辺豊和 布野修司,建築技術別冊4, 19990901

 世紀の変わり目の「建築会議」, 篠原一男12の対話,篠原一男 渡辺豊和 布野修司,建築技術別冊4 19990901

非西欧型モダニズムの探検


産業主義モダニズムからソシオ・カルチャル・エコ・ロジック(社会文化生態論理)へ

布野修司

 

 「非西欧型モダニズム」という言い方には違和感がある。「西欧」「非西欧」というディコトミー(二分法)は最早有効ではない。「西欧」の全否定は不毛である。また、常に「西欧」世界の欠落を補完するものとして持ち出されるのが「非西欧」である。「アジア」とはすなわち「非西欧」のことであるが、そもそも「アジア/ヨーロッパ」が同時に成立した概念であることは常に想起したい。

 「モダニズム」というのも、建築の世界では専ら「モダン・スタイル」の意味で用いられるからいささか狭い。モダニズムの建築を狭義にイメージすると、モダニズム建築に「非西欧型」という別の型があるようでちぐはぐな印象を受ける。要するに、ここでいうラディカル・ラショナリズムというのをもう少しはっきりさせておく必要があると思う。

 まず、モダニズムを産業主義モダニズムに限定して理解したい。「丹下流モダニズム」とは要するに産業主義モダニズムのことだ。「西欧」世界で生み出された産業社会の論理を如何に超えるかという設定であれば問題ははっきりしよう。

 そこでラショナリズムとは何か。敢えてラディカル・ラショナリズムというのは、産業社会の論理を支えるものとしての「西欧近代合理主義」と区別したいからである。要するに、「経済合理主義」「産業合理主義」ではなく、社会を支える正当性の根拠としての合理主義が問題なのである。「日常的合理性」、「意味論的合理性」という概念も提出されてきたけれど、単に経済の論理に回収されない生活の論理が問題であることを僕らは直感しているのである。

 近代日本の「建築家」とアジアをめぐっては、『廃墟とバラック・・・建築のアジア』(布野修司建築論集Ⅰ、彰国社、1998年)にまとめる機会があった。伊東忠太における「法隆寺のルーツ探し」という壮大なプログラムが示すように、アジアへの関心は日本建築のルーツあるいは存在証明を求める旅が大きな軸になってきた。日本建築を中国や朝鮮半島、インドや東南アジアとの関係において捉えるのはある意味で当然のことである。その視座が未だに閉ざされているのは、日本建築をナショナルな枠組みにおいて捉える近代日本の建築界の大きなバイアスの構図が生きているからである。近代日本においては「西欧」対「日本」という構図が固定化されすぎてきた。僕らには、アジアの無数の「辺境」に豊かな建築表現の文脈をいくつも見いだす膨大な作業が残されていると言わねばならない。

 そこで何が手掛かりになるのか。やはり、地域地域で建築を支える論理ではないか。産業主義がグローバルに地球を覆う論理であるとすれば、それとは異なった論理が求められているのではないか。地域という概念を支えるものとして重要なのは生態論理(エコ・ロジック)である。建築の根源的あり方は地域の自然のあり方に関わる。しかし、建築の表現は自然の生態のみに関わるわけではない。社会文化の生態力学としてのラショナルな論理に基づく建築のあり方が問題なのである。


 












 














2022年6月27日月曜日

アジアからの視点,対談 古山正雄,『空間表現論』,京都造形芸術大学通信教育部, 20020401

アジアからの視点,対談 古山正雄,『空間表現論』,京都造形芸術大学通信教育部, 20020401 

『Hiroba』、1996年6月号







2022年6月26日日曜日

2022年6月25日土曜日

2022年6月24日金曜日

2022年6月23日木曜日

『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、2018年06月号

 『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、201806月号

 

『群居』からビルドデザインを考える

 

 

対談

布野修司

秋吉浩気

 

司会

門脇耕三

 

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設計と施工の分業体制は自明なものではなく、特に住宅分野では繰り返し異議が申し立てられてきた。現代ではデジタル技術の発達を背景に両者の柔らかな結合が模索されており、1980年代には工業化された建築生産システムの成熟を背景に、設計と施工の区分を超えた職能のあり方が議論されていた。後者の主舞台ひとつが同人雑誌『群居』であるが、当時と現在の問題意識の交点を探るため、『群居』編集長を務めた布野修司氏を招いて討議を行った。

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『群居』の時代の建築生産

 

門脇:『群居』とはどんな雑誌だったのでしょうか。

 

布野:戦後まもなく建築家の眼前には圧倒的な住宅不足がありました。建築家は、最小限住宅やプレハブ住宅の構法など様々な提案を行います。一方、住宅公団による団地の大量供給が始まります。また、プレハブメーカーが登場します。60年代には建築家は都市に向かいます。住宅に対する戦後の取り組みが途絶えてしまったという認識があって、改めて日本の住宅をどうするのかという問題意識で集まったのが『群居』のメンバーたちでした。創刊号が「商品としての住居」。2号が「セルフビルドの世界」。3号が「職人考——住宅生産社会の変貌」。4号が「住宅と建築家」。4号で1サイクルになるような編集を考えていました。【写真:『群居』の書影】

一方に篠原一男さんの「住宅は芸術である」や池辺陽さんの「No.住宅」のように一戸一戸設計していけばいいという建築家もいたわけですが、『群居』(ハウジング計画ユニオンHPU)で常に議論していたことは、日本の住宅生産システムをどう考えるかでした。そこには、大きく分けると、大野勝彦(内田祥哉スクール)のように全体をオープン・システムとして捉える考え方と、石山修武のように工業化された部品をゲリラ的に利用しようという考え方の対立がありました。大野さんもまもなく「地域住宅工房」のネットワークを考えるようになるんですけどね。

 

門脇:最初の4号には、設計と施工が明確に分離された近代的な枠組みに対する疑義が通底していますね。

 

布野:「アーキテクトビルダー」という新しい職能像についてかなり議論したんですが、その発端にあったのは、住宅規模の建築では、設計施工分離の設計料のみでは仕事にならない、要するに儲からないという現実です。歴史を振り返れば、マスタービルダーは設計だけではなく施工も統括していたわけです。

 

門脇:住まいの設計は机上だけではできないという思いもあったのではないでしょうか。

 

布野:ぼくらが木匠塾をはじめたのは、住宅スケールであれば身体で実感した方が早いという思いがありました。造って揺すってみれば構造が分かる。学生を連れて山の中に入って、木造でバス停や茶室、農機具小屋や神社の拝殿や橋など様々なものを設計し、実際につくってみるということを毎年やりました。

 

デジタルファブリケーションの時代の建築生産

 

門脇:秋吉さんはデジタルファブリケーションを使いながら設計と施工をつなげて、さらにユーザー自身が建築家たりうるような世界をつくろうとしています。

 

秋吉:今ではショップボットという木材加工機が400万円程度で購入できます。素材生産者にこうしたハイテク機材を導入し、彼らをビルダーに変えていく事をやっています。目的としては、工場生産の家を運ぶプレファブリケーションを超えて、家のデータだけを送って現地生産するオンサイトファブリケーションを実現することです。ここでいう現地とは、資材調達から加工・アセンブルが完結する半径5km圏内のネットワークのことです。

【写真:ネットワーク図】

現在までに22地域に機械を導入してきましたが、これらを更にネットワーキングすることを考えています。これは、インターネットのような自律分散協調型のオープンな建築生産の体系を構築する試みでもあります。とはいえ、受信できる基盤がないと回線は通らないので、全国にルーターを拡散するために20182月に1億円の資金調達を実施しました。実際の導入地域では、本当につくりたい住環境や公共空間の質について、規格品ベースではなくゼロベースで、共に考え実施することを行っています。

 

布野:僕の場合、構法システムを考えて、セルフビルドを組み込むか、あるいは形態のバリエーションを組み込んだ構法システムを考えるか、あるいは部品を生産しその組み合わせに向かうのかといった事を考えていましたが、デジタル技術で標準化をしない場合どういう展開があるか、全体の設計システムはどうなるのか聞きたい。

 

秋吉:ひとつずつオリジナルな設計施工データをつくるのは時間もコストもかかるので、規矩術のようなシステムを構築できないかと考えています。この木材とこの納まりならこの寸法といったような大工の経験を数値化し、簡単な入力から加工コードまでをリアルタイムに出力できるツールを開発しています。こういった仕組みを地方に分配し、ローカルな建築家がそれを翻訳していくという「ツール+翻訳者」というモデルを考えています。

 

布野:それはすごく大事なことで、地方のアトリエこそがそういう武器を使うべきだと思う。UAoの伊藤麻理さんは大きなコンペを獲っていますが、CADでディテールまで自分で設計するといいます。それがBIMになればいいんでしょう。若い建築家は、新しい道具を駆使した方が良い。その伝道師が必要なんだと思います。

 

ヴァナキュラーかシステムか

 

門脇:生産がローカルに閉じているとそれが制約になり、その地域独特のヴァナキュラーな建築が生まれやすい。一方で近世に普及した規矩術はシステマティックな体系で、むしろ大工技術の均質化・画一化をもたらしました。両者はかなり違った方向性をもっていますが、秋吉さんはヴァナキュラーとシステムのどちらを目指しているのでしょうか。

 

秋吉:ヴァナキュラーなシステムが無数に生成されるプラットフォームを目指しています。CLTのような中央集約的な規格材から非規格な部材を生成する手法や、根曲がり材のような非規格材から建築を生成する手法を構築しています。

 

布野: 僕は、スケルトンとインフィル、さらにクラディング(外装)を分けるオーソドックスなフレームで考えてきました。インフィルは使い手側の勝手に任せる。ただし、躯体システムは建築家が提案する必要がある。問題はそのシステムです。躯体システムをサステナブルに考えること。更新する場合も、それがサステナブルである必要がある。

 

秋吉:今大阪で進めているプロジェクトがまさにスケルトンインフィル的です。大阪には裸貸という文化があり、建具や畳ごと引っ越していた。クライアントからは、5年単位で裸貸しできる躯体を考えて欲しいと頼まれました。すべて90mmCLTパネルで構成されており、1mピッチの板柱の間に910mmの規格品を埋め込めるだろうと考えています。たとえば、家族四人で住み始めたときには2階をリビングに1階を居室として利用し、子ども成長して家を出たら下を店舗として貸し、上に寝室を移動するようなことを提案しています。さらに二戸一のスケルトンが群を成しマイクログリッド化することで、電気効率を向上させています。【図:アクソメ】

 

布野:まさにそういうことです。住まい方の型が重要です。その型にたいして用意された材料が循環系になっているかどうか。この規模のモデルからしか流通していかないはずなので、それはぜひ実現させてください。システムを、物語をつくって使いながら見せていくことは大事です。

 

現代の「群居」はいかに可能か

 

門脇:市井の人びとの思いから出発して、それが街並(すなわち「群居」)になるような住環境はこれから本当に構想可能でしょうか。

 

布野:おそらく構法やデジタルファブリケーションのような技術と同時に、住み方自体を考え直すことが必要でしょう。少子高齢化の時代に老人が一人で4人家族の家に住んでいたら熱効率的にも問題だから、シェアハウスやコレクティブハウスがモデルなるべきなのですが、日本の住宅産業はこれまでずっと戸建モデルとマンションモデルで来てしまいました。だからぜひ新しいモデルを開発してほしいですね。

 

門脇:街並の根拠となるようなベースビルディングをしっかりデザインしていかないといけないということですね。

 

秋吉:住まい方に関する感性を取り戻していく事を目的として、生活家具をゼロベースで発想し作るワークショップを実施しています。自分の事を突き詰めていくと、自分の家族や地域といった全体の事を考えていかざるを得なくなります。裏を返すと、街並みに対する能動性を生むためには、生活に関する主体性を取り戻さねばならない。この草の根的な活動の先に、ベースビルディングそのものを町場が定義していく未来がある。私人による小さなビルドの積み重ねから、群居はデザインされていく。そう信じています。






2022年6月20日月曜日

ダプール<木箱のキッチン>,at,デルファイ研究所,199312

ダプール<木箱のキッチン>,at,デルファイ研究所,199312


ダプール・・・木箱のキッチン

ウジュン スラバヤ インドネシア

      

                布野修司

 

 カンポンを歩いていると、路地に高さ六〇センチから八〇センチ、奥行き七〇センチ、幅一メートル二〇センチ程度の木の箱が並んでいるのに気がついた。「アパ・イニ?(これなあに)」と聞くと「ダプール」という。ダプールというとキッチン、台所のことだ。訝しがっていると、蓋を開けて見せてくれた。なるほど、中には、こんろや釜、水瓶、食器類など台所用具一式が収まっている。

 ジャカルタでもスラバヤでもそうだ。かなり高密度のカンポンに行くとこの木箱のキッチンを見ることが出来る。平屋でも千人を超え、一五〇〇人にもなるカンポンがある。そうしたカンポンの住居は極めて狭い。一室かせいぜい二室である。台所のスペースがとれない。いきおい外の路地にはみ出してくることになる。そこで考案されたのがこのカンポンのシステム・キッチンなのである。

 そうしたカンポンの世帯数を数えるのは簡単である。外にはみ出したダプールの数を数えればいいのである。ダプールにも色々個性がある。全て一式台所用品が収められている。また、そこで煮炊きも行われる。蓋をして鍵をかけるのであるが、ベンチにもなる。なかなかの工夫である。

 しかし、それにしても狭い。どうやって暮らすのだろうと誰でも思う。日本であったら考えられないのであるが、気候条件はまるで異なる。生活の中心は戸外なのである。それこそ食事も戸外でとる。料理や調理も戸外で行なう。散髪も戸外である。散髪屋さんのほうが移動してきて戸外に店を開くのである。子供たちが水浴びするのも戸外だし、洗濯も戸外である。場合によると戸外に寝ることもある。公共の、あるいは共用の戸外空間があって個々の住居空間が最少でも生活が成り立つのである。

 経済生活においても、お互いに協力し合う相互扶助の仕組みがある。頼母子(無尽)講である。インドネシアの場合、アリサンと呼ばれる。伝統的な民間金融の仕組みが生きている。一日にいくらかづつ、あるいは、周単位、月単位でお金を出し合い、くじで順に使う。場合によると、二千人規模のアリサンがある。住居の建設や修繕が可能な額である。利子の観念の薄いイスラーム圏だからということもあるけれど、そうした相互扶助のシステムがあってはじめて、経済的貧困を克服できるのである。

 こうした高密度のカンポンにおいて、極めて深刻なのは水の問題である。この間、カンポン・インプルーブメントが進められてきたのであるが、それでも上水道の設備は依然として十分とは言えず、毎日購入する形がまだ珍しくないのである。井戸は海水がまじり飲用水には使えない。水売りやカンポンの中の有力者から分けてもらうのである。また、ゴミの問題も大きい。カンポン内の清掃のシステムは整備されているのであるが、都市全体については未整備である。

 東南アジアの居住問題はまだまだ根深い。

 



 

2022年6月19日日曜日

亀甲墓,at,デルファイ研究所,199401

 亀甲墓,at,デルファイ研究所,199401

亀甲墓                 アンペナン ロンボク島 インドネシア

                布野修司

 

 ロンボク島アンペナン、今は少し南に位置するルンブールにその役割を譲ったのであるが、西ロンボクの昔からの港町である。バリからの入植者たちやオランダが上陸したのもこのアンペナンである。その近郊にかなりの規模の中国人墓地があった。ロンボク島はヒンドゥー、イスラームが重層する珍しい島なのであるが、さらに古くから中国人が居住してきた事実をその墓地は物語っていた。

 東南アジアに限らず世界中どこでもそうなのであるが、どんな辺鄙な場所でもチャイニーズの店がある。僕の場合、何でも食べるから食事は苦にならないのであるが、普通の日本人だとタイ料理にしても、インドネシア料理にしてもーーパダン料理など各地の料理はあるけれどインドネシア料理と呼べるのは別にないのであるがーー合わない人が多い。激辛のエスニック料理が流行るなど通も増えつつあるけれど、やはり辛いのである。チリーが効きすぎていてすぐに下痢をしたりする。そうした時助かるのがチャイニーズ料理の店である。どんなところにもあるからほんとにびっくりする。チャイニーズ世界の広がりはすごいといつも思う。

 チャイニーズのそうした広がりと居住の歴史を示すのが各都市の中華街、チャイナタウンである。かって華僑と呼ばれたチャイニーズたちは、インドネシアの場合、中国人カンポンを形成してきたのである。例えば、バタヴィアの建設当初からチャイニーズは居住している。植民された多くの民族のなかで最大多数を占めている。一七四〇年には、商業活動に従事し、次第に増加してきたチャイニーズに脅威を感じたオランダ人はチャイニーズを市外に追放するという事態も起こっている。しかし、そうした都市だけではない。カンポンを形成しなくても各地に散らばって住む。それを示すのが各地に残されている亀甲墓である。こんな辺鄙な島にもと実に至るところで眼にするのである。

 中国人の場合、墓の建設は大きな意味を持っている。墓地の位置などを決定する基本となるのが風水思想である。東南アジア一体に風水思想が広がっているのはチャイニーズの移住と密接なつながりがあることはいうまでもない。

 中国の風水思想というと必ず引かれるデ・ホロートの『中国の風水思想』(註1)によれば、古来、中国人は、どんなところでも死者を収める自由をもってきたのだが、一方で準公共的な共同墓地の伝統をもってきた。その場所の選定に関わるのが風水である。そこの風水が最適であると見なされたためにびっしりと墓が並んでいるような土地は、概して人口の密集したところに近接している。そして、次第にその土地は一般の人も使用する自由な埋葬場所になっていく。最初は一族、一門の所有権ははっきりしているのであるが、次第にその所有権は曖昧になり、最後には「万人堆」と呼ばれるような自由共同墓地になるのである。アンペナン近郊の墓地はまさにそのような墓地であった。

 

 

註1 牧尾良海訳 第一書房 一九八六年、(大正大学出版部、一九七七年)。デ・ホロートはオランダの中国学者で大著『中国宗教制度』を著した。その一部「死者の処置」などを翻訳したものである。

 




2022年6月18日土曜日

ジョグロ,at,デルファイ研究所,199403

 ジョグロ,at,デルファイ研究所,199403


ジョグロ     

ジャワ インドネシア

      

                布野修司

 

 ジャワ(中部ジャワ、東ジャワ)の住居は、その屋根形態および架構形式によっていくつかに類型化される。その代表的なものが、ジョグロ、リマサン、スロトン、そしてカンポンである。規模が大きくなると、いくつかの住棟で構成されるが、住居の形式は基本的には屋根の形態で認識されるのである。

  リマサンは、基本的には、寄せ棟の形式をいう。カンポン(       )は、カンポンで一般的にみられることから、そう呼ばれてきたのであろう。切妻の形態をいう。それに対して、ジョグロ       は最も格式の高い住居である。写真を見て欲しい。中央部の急勾配の寄せ棟屋根が高く突き出した形態が特徴的である。中央の四本柱(サカ・グル:          )の上部に梁桁が何重にも組まれ、その上に小屋組がなされる。内部のピラミッド状の木組みは、ヒンドゥー教の宗教施設であるチャンディー建築に由来し、トゥンパン・サリ(            )と呼ばれる。スラマタン(儀礼)の時に用意される米飯を円錐状ににしたものもトゥンパンと呼ばれている。

 基本型は、中央の四本柱を中心に、一六本の柱で屋根が支えられるものである。屋根は、中央の急勾配の寄せ棟とそれを囲む下屋(げや)の二面からなる。大規模になると、更に四周にもう一列の柱列がつくられ、三六本の柱で屋根を支えるものもある。

  屋根形態を問わず、ジャワの基本的な住居ユニットはオマと呼ばれる。オマの内部は、ダレムと呼ばれる。半戸外のベランダが、エンペランである。そして、ダレムは、前と後ろの二つ、もしくは、前と中央と後ろの三つの部分に分かれる。後部はスントンと呼ばれ、壁で囲まれた三つの部分からなる。向かって左(西)の部屋、スントン・クロンが米など食糧の倉庫、右(東)、スントン・ウエタンが武器や道具類の倉庫として使われる。中央のスントン・テンガは、床が高くつくられ、装飾を施されたベッドが置かれる。その外側の入口の両脇には戸棚が置かれるのが一般的である。スントン・テンガのベッドは、稲の神であるスリ、またそれが変身すると考えられている南海の女神ララ・キドゥルの場所と考えられ、結婚式などの儀礼の時を除いて、普段はカーテンで仕切られ公開されない。スントン・テンガは、オマの聖域である。スントン・テンガは、クロボンガンとも呼ばれる。

 この構成がヒンドゥーの世界観を表しているという説がある。特にジョグロの中央部の突出は、メール山(マハメール)を象徴するというのである。。サカ・グルは垂直軸における中心であり、様々な彫刻によって飾られている。確かに求心性の高い架構であり、間取りである。

 面白いことに、この四本柱の架構方式は、モスクにも用いられた。ジャワで最初にイスラム化されたデマックのモスクがそうだ。また、オランダ人たちもこの形式を自分たちの邸宅の架構方式として採用している。ひとつの架構形式がこうして普遍化している地域はかなり珍しいのではないか。