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2022年10月1日土曜日

トラブルへの対応,建築は人を殺す,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920316

 トラブルへの対応,建築は人を殺す,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920316

トラブルへの対応                          布野修司

  

 建築は人を殺す、と心底思ったことがある。僕のところへ持ち込まれたのは住宅をめぐるトラブルであった。いわゆるイージーオーダー住宅(売建住宅)の欠陥問題である。

 裁判沙汰になってから、鑑定の依頼があったのであるが、その時既に、施主の怒りにはすさまじいものがあった。いざ建ってみると、家が傾いているような気がする。基礎に手抜きがあった。ひとつの欠陥がみつかると、次々に気に入らないところが出てくる。柱のちょっとした傷さえ重大な欠陥に思えてくるのだ。

 業者の非は明かであるが、施主にも問題がある。施主は、後から猛烈に勉強したらしいのだが、そんなに勉強するなら建てる前にすればいい。業者も、最初から誠実な応対を欠いていた。

 建築の場合、100%完全無欠ということはありえないことだ。一品生産が基本だから、その出来上がりについては充分な相互理解が必要である。相互にコミュニケーションを欠いては、ちょっとしたトラブルでもどうしようもないことになる。

 施主は、頭に血がのぼっているから、冷静な判断ができない。和解勧告の補償額は微々たるもので、とてもおさまらない。和解を拒否して徹底的に戦う、という。ほとんどノイローゼ気味である。ついに、そのSさんは身体を壊して、裁判を抱えたまま亡くなってしまう。実に後味が悪いトラブルであった。




2022年9月30日金曜日

カンポンの世界,雑木林の世界14,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199010

 カンポンの世界,雑木林の世界14,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199010

雑木林の世界14

 カンポンの世界

                                  布野修司 

 この夏は暑かった。東南アジアに度々出かけて暑さには慣れていたつもりであるが、さすがにバテた。年かもしれない。七月末に能代で恒例になりつつある三大学合同の合宿(インターユニヴァーシティー・サマー・スクール *1)をした後、八月は、単行本をまとめるのにかかりきりになった。インドネシアのカンポンについての本だ。仮のタイトルを『カンポンの世界ーーージャワ都市の生活宇宙』という。

 十年ほど通ったインドネシアのカンポンについての調査研究は一応論文*2の形でまとめたのであるが、それを読んでくれた、ある編集者が本にしてみないかと勧めてくれたのである。もちろん、一般向けに書き直すのが条件である。最初、一般の読者は得られないのではないか、と躊躇したのであるが、ベテランで尊敬する編集者の重ねての勧めに作業をしてみようと思ったのである。うまくいけば、年内に出るかもしれないし、永久に出ないかもしれない。久しぶりに一生懸命勉強したという感じである。共同の編集作業が楽しみである。

 カンポン(kampung)とは、インドネシア(マレー)語でムラのことである。今日、行政単位の村を意味する言葉として用いられるのはデサ(desa)であるが、もう少し一般的に使われるのがカンポンである。村というより、カタカナのムラの感じだ。カンポンと言えば、田舎、農村といったニュアンスがある。カンポンガン(kampungan)とは田舎者のことである。しかし一方、都市の居住地も同じようにカンポンと呼ばれる。都市でも農村でも一般にカンポンと呼ばれる居住地の概念は、インドネシア(マレーシア)に固有のものと言える。

 ところが、しばしば、カンポンはスラムの同義語として用いられてきた。特に、西欧人は、カンポンをスラムと思ってきた。確かに、そのフィジカルな環境条件を見ると、都市のカンポンはスラムと呼ぶに相応しいようにみえる。生存のためにぎりぎりの条件にあるカンポンも多い。スクオット(不法占拠)することによってできあがったカンポンも少なくない。しかし、それにも関わらず、カンポンは決してスクオッター・スラムではない。 

 カンポンの世界は何故か僕を魅きつけてきた。今度の本で、僕は、カンポンの魅力について語ろうと思ったのである。何故、カンポンなのか。要するに面白いのである。日本の、のっぺらぼうな居住地が貧しく思えるほど活気に満ちているのだ。

 カンポンは地区によって極めて多様である。そして、それぞれが様々な人々からなる複合的な居住地でもある。カンポンは、民族や収入階層を異にする多様な人々からなる複合社会である。異質な人々が共存していく、そうした原理がそこにはある。

 日常生活は、ほとんどがその内部で完結しうる、そんな自律性がある。様々なものを消費するだけでなく、生産もする。ベッドタウンでは決してない。相互扶助のシステムが生活を支えている。つまり、居住地のモデルとして興味深いのである。カンポンは、決してスラムなんかではないのだ。

 カンポンは、ジャワの伝統的村落(デサ)の「共同体的」性格を何らかの形で引き継いでいる、という。ゴトン・ロヨン(Gotong Royong 相互扶助)、そしてルクン(Rukun 和合)は、ジャワ人最高の価値意識とされるのであるが、それはデサの伝統において形成されたものだ。そして、それは現在でも、カンポンの生活を支えている。

 カンポンには、ありとあらゆる物売りが訪れる。ロンボン(Rombong 屋台)とピクラン(Pikulan 天秤棒)の世界である*3。なつかしい。かって、日本の下町にも、ひっきりなしに屋台が訪れていたのだ。

 カンポンの住民組織であるルクン・ワルガ(RW Rukun Warga)、ルクン・タタンガ(RT Rukun Tetannga)というのは、実は、日本軍が持ち込んだものだという。町内会と隣組である。しかし、それが何故今日に至るまで維持されているのか。日本の町内会と隣組がどうしてインドネシアに根づくことになったのか。

 カンポンについての興味はつきないのである。

 もうひとつ、カンポンをめぐって興味深いのが、カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。KIP(キップ)とは、フィジカルな居住環境整備の手法として、住宅地のインフラストラクチュアである歩車道、上下水道、ゴミ処理設備等、最小限の基盤整備を行い、住宅の改善については、居住者およびコミュニティーの相互扶助の活動に委ねるというものである。この手法は、大きな成果を挙げ、同じように居住問題に悩む発展途上国を中心に、世界的にも注目されてきた。

 このKIPについては、次のような興味深いエピソードがある。

 ジャカルタのカンポンを僕が最初に歩いたのは一九七九年の初頭のことであったが、その翌年、このKIPがある建築賞を授賞する。イスラム圏のすぐれた建築を表彰するアガ・ハーン(Aga Khan)賞である。そして、その一九八〇年の第一回アガ・ハーン賞の選定にはひとりの日本の高名な建築家が審査員が加わっていた。KIPは、結果的には全員一致で選ばれるのだけれど、その建築家はひとりだけ反対したのだという。聞けば誰でも知っている建築家である。余程、インパクトが強かったのであろう、いくつかの場所でその時のことを繰り返し述べている。

 「スクオッターというのは、不法占拠地域という意味です。難民とか、職がなくて都会に出てきた人が、その土地が誰に属していようとおかまいなく集団で丘やら原っぱを占拠し、そこに勝手に家を建てることによってできた村や町をいいます。そこには初めは電気もなければ水道もない。それを徐々に改良していって、道もでき、汚い水を流す開渠もでき、水も電気も引いてきて、さらに全体のコミュニティーセンターになるような施設も造る。こうしてできた村の例をいくつか挙げて、これにも賞をやってほしいというわけですよ。建築賞という名前がついているんですから、ある程度の文化性がないと困るんじゃないかと私は主張したんです。」

 ここで語られているのが、カンポンであり、KIPなのである。カンポンやKIPには文化性がないのだという。僕の立脚しようとする建築観とこの日本を代表する建築家の建築観とは全く異なっているようである。いささか不安になるが、違うものは違うのだから仕方がない。恐れながら、今度の本を精一杯の反論としようと考えたのであった。

 カンポンについて考えたことと、日本の都市や住居について考えることを、もとより、区別しているわけではない。カンポンに学んだことをどう自らのものとするか、こんどの本を通した僕のテーマである。

 

*1 拙稿 「秋田杉の町能代を見る」 『室内』 一九九〇年九月号

*2 『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング・システムに関する方法論的考察』 一九八七年

*3 拙著 『スラムとウサギ小屋』 青弓社 一九八五年

 


草刈十字軍,雑木林の世界02,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,198910

 草刈十字軍,雑木林の世界02,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,198910



気になるブラックボックス,人事,賞,コスト,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921026

 気になるブラックボックス,人事,賞,コスト,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921026 

気になるブラックボックス                       布野修司

                 

 困った。ブラックボックスが多すぎるというのが日頃の実感だからである。身近なところでいうと大学の建築学科の人事。もう少し、日本全体でオープンに流動化がはかれないか、などと言い出すと薮蛇である。人事は何処の世界でも難しい。学会の選挙、各賞の選考、論文審査・・・、本気で考えると、このテーマはやっぱり困る。

 あらゆる賞は情実で決まる、というのは山本夏彦大先生の名言である。コンペや建築賞もまずはそういうものだと思った方が健康的である。そうした上で、誰が誰を押してどういう力学でそうし決定がなされたかがおおっぴらにされればいい。賞が欲しくて料亭で接待とか、酒場で根回しなんてのはうんざりである。

 建築のコスト。これがわからない。おそらく最大のブラックボックスではないか。建築業界のありとあらゆる問題が絡む。流通の問題がある、重層下請構造の問題がある、コスト決定のメカニズムを明らかにしようとするとわからない問題にすぐつきあたる。アカデミックな作業として考えた場合にもそうである。ある現場とある現場のコスト比較は如何に可能か。外国に比べて日本の建設費が高いと言われるが実際どうなのか。

 そこで突き当たるのはまずは文化の問題である。そう、ブラックボックスというのは文化の問題なのだ。そこら中にブラックボックスを感じるのは日本文化の理解がまだ足りないからである。






2001年10月 未だ序走・・・表紙案出来る 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 未だ序走・・・表紙案出来る

 

2001101

住宅総合研究財団(東京世田谷)で『すまいろん』のミニ・シンポジウムに参加。陣内秀信さんと対論。

題して「まちの原風景 すまいの記憶は都市を変えるか」。テーマをよく理解しないまま出席。つい最近の引っ越しまで、我が住宅遍歴を語る。拙著『住宅戦争』に図面も載せてある。つくづく思うのは、わが貧困の住宅遍歴は日本の戦後住宅史そのものである。それぞれに住宅遍歴を語ってもらう、こんな特集もおもしろいかもしれない。大邸宅に住みながらローコスト住宅を、とか、超高層マンションに住みながら町屋をまもれ、とか言っている先生が結構いるのだ。

 

2001102

学会賞委員会。編集委員では小嶋君が一緒。僕より若い建築家のなかでは、なんとなく信頼感がある。深く考えて設計している、誠実な感じがいい。出雲市(島根県)の地域交流センター「ビッグハート」の公開ヒヤリング方式のコンペでは僕は審査委員長であった。竣工後、車椅子が使いづらいと大問題になったが、シンポジウムを開催、きちんと対応しているのが強く印象に残っている。

 

2001108

休日であるが、タイからタルドサック講師(チュラロンコン大学)、ジャトゥロン君(キングモンクット工科大学)を編集委員の田中麻里さんが招いたスケジュールに合わせて、アジア都市建築研究会開催。もう十年近く続けていて48回目になる。題して‘The Role of Gentrification in Urban Conservation : The Case of Rattanakosin Historic Center of Metropolitan Bangkok’である。二人とはこの7月バンコクで会ったばかり。内容はショップハウスの保存の問題。ジャトロン君の先生は東大の西村先生のところで学位をとったとか。また、藤森研究室はラッタナコシン島で悉皆調査を実施中である。東アジア、東南アジアは既に共通に議論すべきフィールドである。

 

2001109

情報委員会。理事会。会員数減少の話題。財政問題は危機的で、『建築雑誌』も頁数削減が必死のようだ。頁数より、統廃合によって委員会の数を思い切って減らすとか、もっと本質的な構造改革があると思うけれど、頁数などが標的になる。総合論文集はどうも実施の方向である。「年内に決定して欲しい」と発言したけれど、覚悟したのは、建築年報は廃止、9月号を建築年報に当てる、である。この際、ユニークな年間総括を考えたい(考えるしかない)。

 

20011010日~11

学会賞委員会。一日作品審査。11日に8作品決定。専ら議論になったのは「重賞問題」である。僕の意見は、「重賞」は否定しないけれど「新人賞」的でいい、ということ。作品賞の性格を厳密に決める必要はない、と思う。常に問われているのは審査委員の見識である。

 

20011019

京都会館で京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の秋期リーグ開催。学生たちはパネルをつくって半年の調査結果を発表。14日は鴨川フェスタに参加、子どもたちを集めて「まちづくりゲーム」大好評。先日の理事会で、仙田会長が大学の地域社会に対する貢献の試みとして高く評価すると発言。うまく成長したら、他の「コミュニティ・ベースト・プランニング」の試みと一緒に『建築雑誌』で紹介できるといい。

建築学会の京都の景観に関する特別研究委員会(岡崎甚幸委員長)も一応の作業を終え、市民へ向けてのシンポジウムを12月に開催予定である。高田光雄さんにそのエッセンスを報告して欲しい、とお願いしたところ、本番にとっておくとはぐらかされた。いずれにせよ、提言より実践の段階なのだと思う。

 

20011025

4回編集委員会。上京の新幹線の中で新書をペラペラとめくる。どこか編集長というプレッシャーがあるのかもしれない。いつもは読まないものでも多少気になる。めくったのは『IT汚染』『公共事業の正しい考え方』『自治体・住民の法律入門』『天皇誕生』『謎の大王 継体天皇』である。後の二冊は、浅川先生の特集案とはあんまり関係ないかも知れない。出雲出身の出雲主義者である僕は、かなり古代史には興味がある。二冊とも天皇の誕生とその存続をテーマとしている。

表紙案4案を持参で鈴木一誌さん登場。いよいよ始まる、の予感。1月号は原稿待ち。二月号は、どたばただけれど、古谷、小嶋、塚本、貝島の4研究室の若い力と完成に大いに期待。3月号はほぼOKだけれど、なかなか発注に至らず大崎さんイライラ。4月号は、超大忙氏の伊加賀さん詰めるに至らず。次回に期待。常置欄は、まちづくりノートが少し遅れ気味。但し、概ね方向性出る。

 

4回編集委員会 議事録

 

<日 時>20011025日(木)14:0017:00

<会 場>建築会館202会議室

<出 席>委員長 布野 修司

     幹 事  石田泰一郎・大崎  純・松山  巖

     委 員 青井 哲人・伊香賀俊治・伊藤 明子・岩下  剛・岩松  準

         黒野 弘靖・高島 直之・田中 麻里・Thomas C.  Daniel

         塚本 由晴・土肥 真人・新居 照和・野口 貴文・羽山 広文

         脇田 祥尚

<議 事>

□布野委員長より、議事録をもとに前回議論の確認を行った。

 

□特集企画について

1月号「建築産業に未来はあるか(仮)」について

 末尾の「建築業界の現在・近未来を読むデータ集」(遠藤委員・岩松委員)において、『建築雑誌』の関連特集や文献紹介をしてはどうか、という意見が出された。

 また、伊藤委員から「諸団体のストラテジー+建築界ストラテジー俯瞰図」執筆するための「建設産業を取り巻く状況等に関するアンケート」について、進行状況が報告された。大まかに分類し統計を取ったうえ、全体的な動向を分析する方針との説明がされた。

 *アンケートは、最終的に依頼346件に対して回答125件がありました(回答率:36%)。

 鈴木一誌氏から、1月号の表紙デザイン案が4点示された。

 鈴木氏より、「この4つのグラフを重ねることで何が言いたいのか(言えるのか)が見えてこないように思われる。読者に何を読みとってほしいかを強調してみたらどうか」との指摘がされ、次の案が示された。

 1)グラフは、2つないし3つぐらいが妥当ではないか。

 2)「○○は××である」といったキャッチコピーか、読み解きを用意したらどうか。

 3)グラフに一般社会的事象を重ね合わせたらどうか

 上記の方針に対して、岩松委員から再度検討いただくこととし、3)については菊岡氏の原稿も見ながら最終チェックを加える方針とした。

 表紙の印刷では、白地を基調にし、予算の範囲で用紙も再検討する。

 本文用紙は、可能な限り再生紙を中心に使用することとした。

2月号「公共空間-なんでこうなるの?(仮)」について

 塚本委員から、特集で取り上げる対象のリストが提出された(ほかに「バス停」が追加された)。誌面は全体を見開きで構成し、左ページは全面写真、右ページはインタビュー記事により構成する方針が示された。取材は、担当委員の研究室に所属する学生さんにお願いする。表紙のアイデアは、担当委員の宿題とした。

 *その後、事務局より、布野委員長+担当委員のお名前による正式な取材依頼状を、各取材先にお送りしました。

 なお、布野委員長より、2月号には「2001年度の大会報告」が掲載されることが説明された。この報告は全体的に画一的・議事録的で、読み物として物足りない面があることから、会員に大会の概要をより分かりやすく伝えるために、今回の依頼では「発言者を羅列した画一的な記録よりも、当日の主要なテーマや、中心となった議論、その結果何が明らかになったのか、をご報告いただきたい」旨を強調して依頼したことが説明された。

3月号「建築の情報技術革命(仮)」について

 大崎幹事から最終企画案が提出され、原案どおりで依頼を行うこととした。

 なお、記事が2ページの場合と4ページとでは原稿の密度に大きな差が出やすいことに配慮し、3ページによる依頼も行って全体のバランスを図る方針が説明された。「CALSの現状」の執筆者は未定であったが、建築研究所に当たる方針で今後調整する。特集の末尾で大崎幹事による総括を掲載することとした。

 表紙は、情報関連用語を羅列したものをデザイン化する方針とした。

 また、この特集では難解な用語が多く用いられる場合も予想されることから、読者の理解を助ける「用語解説」欄を設けたらどうかという案が出され、各執筆のページ内かあるいは別ページとして掲載することとした(レイアウトを鈴木一誌氏に依頼)。

 *原稿依頼において、「執筆内容に関連する用語を一つお選び頂いたうえ、100字程度で説明してください」という依頼をしました。

4月号「京都議定書と建築(仮)」について

 伊香賀委員より企画案が提出され、議論した。出された意見は下記のとおり。

・用語の解説を入れたらどうか。

・用語はそれぞれの誌面で、記事に関連付けて掲載したらどうか。

・議定書の発効に伴い、例えば、いままで使ってきた建材が使えなくなる(使わない方が 良い)といった具体例が挙がると良い

・この特集のポイントを、①用語の解説、②地球環境問題に対してわわわれは身の回りで何をすべきか(何ができるか)の2つに置いたらどうか。

 

7月号「室内空気汚染問題の今」について

 岩下委員から企画案が提出され、議論した。今後議論を継続します。

5月号以降の特集テーマについて

 新たに提案された特集企画は下記のとおり。

 ・「建築コスト7不思議」(岩松委員)

 ・「多民族共生社会」(浅川委員)

 ・「インド建築」「非西洋世界の建築」「アジアから近代建築を考える」(新居委員)

 ・「被害調査の方法論」「木質構造特集」(藤田委員)

 布野委員長より、今後のテーマとして下記の大枠が説明された。

 ・5月号「古代遺跡」(浅川委員)

 ・6月号「木造または構造デザイン」(藤田委員) →大会予告号につき小特集

 ・7月号「室内空気汚染問題の現在」(岩下委員、羽山委員)

 ・8月号(都市関係で、北沢委員に原案作成を依頼)

 ・9月号「建築年報2002

 ・10月号(環境関係で、石田委員に原案作成を依頼)

 ・11月号(構造関係で、福和委員・野口委員に原案作成を依頼)

□特集アーカイブスの提案について

 青井委員から、「過去の類似テーマを総括する」という編集方針に基づき、毎月の特集において『建築雑誌』の過去の議論や作業を総括するという提案がなされた。また、1月号を想定した私案が提出された。議論の結果、新たにページ枠は確保せず、必要に応じて特集の枠内に組み入れる方針とした。

□連載について

  下記の依頼を行うこととした。

  →3月号 小笠原伸氏(テーマ:1960年代クレージーキャッツ映画と高度成長)

  →3月号 宇高雄志氏(テーマ:マラッカ)

  →5月号以降は、岩下・羽山・野口の各委員より企画案を提出していただく。

  →3月号 瀧澤重志氏(テーマ:人工生命関係)

    なお、伊香賀委員から環境工学関連ソフトが紹介された。

  →3月号 小山雄二氏(大阪→新居委員打診)、羽深久夫氏(北海道→支部通信委員)

 Foreign Eyes

  →2月号 Michael Webb氏(その後、多忙により後回しにしてほしいとの要望があり、

   急遽、Miodrag Mitrasinovic氏(アメリカ)に依頼しました。)

  →2月号 天野裕氏

□RILEM小委員会から、紹介記事の掲載依頼について

 RILEM小委員会より、RILEMのテクニカル・コミッティの紹介記事の掲載依頼について、掲載するとすれば「技術ノート」か「活動レポート」になろうという前提で議論した。①「技術ノート」として見ると、企画内容として不十分であるので、全体構成を4回程度の企画案としてまとめていただく。②「活動レポート」であれば、活動報告的な内容で随時掲載する。という2つの選択肢を検討していただくよう、RILEM小委員会に回答することとした。

□「情報ネットワーク」の改変案について

 標記について、情報委員会(編集委員会の上部委員会)で議論されている内容が事務局から報告された。改変の方針として、①分かりやすい誌面を構成する、②情報の多様化を図る、③経費の削減を図る、こととし、具体的なイメージが示された。

 誌面レイアウトについては、それぞれの項目ごとに分けたレイアウトやデザインを鈴木一誌氏に依頼する方針が確認された。

□ホームページについて

 大崎幹事より、進行状況が報告された。

□総合論文誌構想について

 布野委員長より、2002年度から新たに『建築雑誌』増刊として刊行される「総合論文誌」の構想が説明された。この刊行に伴い、「建築年報」の独立刊行を廃止すること、『建築雑誌』9月号の特集を「建築年報」の内容に充てる方針が説明された。

 

会議後、松山さんから、『路上の症候群 19782000 松山巖の仕事Ⅰ』(中央公論新社)を頂く。「何冊でるんですか?」と問うと二冊とのこと。二冊目は長めの論考を集めたという。じっくり読ませて頂こうと思う。

 

20011029

政策科学研究所(東京)に呼ばれ「アジアの都市と居住モデル」と題して講義。「都市における人間とテクノロジーに関する研究会」という。機械学科の先生が主体だけれど社会科学系の先生も多い。こんなテーマであれば建築学会はもっと活躍すべきだ、と思う。

 

2022年9月29日木曜日

「防災の日」を前に,事故は一定の確率で起こる?,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920831

 「防災の日」を前に,事故は一定の確率で起こる?,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920831

防災の日を前に                     布野修司

                 

 臍を曲げて言えば、「防災の日」などというのがまずよくない。また、それをたまたま発売日が会うからといってテーマにするセンスがよくない。「防災の日」に、防災訓練をしたり、いざという時のトレーニングをするのはいいだろう。災害時のパニックを避けるための準備は必要である。しかし、「防災の日」がないと災害のことなど考えないという感覚こそが恐ろしい。事実、「防災の日」があるおかげで、その日を除けば、一般庶民は災害をほとんど意識することはないのである。

 しかし、建設現場となるとそうはいかない。安全対策はどこの現場でも頭が痛い。注意をし、毎日点検するのだけれど、それでも事故は起こる。

 先日、暗然とするようなレクチャーを受けた。安全対策は徹底されてきたのであるが、それでも事故は一定の確率で起こっているのだという。要するに、極論すれば、安全対策の如何に関わらず事故は起こるのである。もちろん、これはマクロな統計上の話である。でも、例えばトンネル工事で、距離数に比例して死亡者が出るというデータをどう解釈すればいいのか。また、ヨーロッパやアメリカと比べても、その確率は高いのだとしたら、どうか。

 結論は、日本の建設産業の構造に根ざしているということになりはしないか。その体質改善は、「防災の日」だろうがなんだろうが、以前から一貫するテーマである。






2022年9月27日火曜日

2022年9月26日月曜日

書評 実にドラスティックなブルーノ・タウトの軌跡,書評:田中辰明・柚本玲『建築家ブルーノ・タウト』,図書新聞2994号,2010 12 18

 実にドラスティックなブルーノ・タウトの軌跡

布野修司

 

 本書は、建築家ブルーノ・タウトに関する、現在日本語で読める最良のガイドブックである。

 主著者は、一九七一年から七三年にかけて西ベルリンに滞在し、尋ねて来た恩師、建築家武基雄を、そのたっての希望でオンケルズ・トムズ・ヒュッテ(アンクル・トムの小屋)・ジードルング(集合住宅団地)に案内して、ブルーノ・タウトのジードルング作品を知ったという。爾来四〇年、ブルーノ・タウトの現存する作品の全てを見て周り、写真に収めた、その長年にわたるタウト詣でをもとにまとめられたのが本書である。中心は、そのいくつかが二〇〇八年に世界文化遺産に登録されたジードルング作品である。

 ブルーノ・タウトは、戦時中に日本に滞在したこと、そして「桂離宮」評価を軸とする『日本美の再発見』『日本文化私観』といった日本文化論を書いたことによって、近代建築家としての知名度は、日本において、ル・コルビュジェ、F.L.ライトらにまさるともおとらない。しかし、その建築家としての軌跡は必ずしも知られていない。

タウトの軌跡は実にドラスティックである。本書に掲載された略年表からもそれは容易に伺える。タウトと言えば、まず、「ドイツ工作連盟」博覧会の「ガラスの家」(一九一四年)である。そしてアンビルドの想像力溢れる「アルプス建築」(一九一九年)である。また、マグデブルグ市の建築顧問としての「色彩宣言」であり、ベルリン住宅供給公社(GEHAG)建築顧問としてのジードルング建設である。そして日本での活動である。タウトは「表現主義」の建築家として出発する。ロシア革命直後に「十一月グループ」のメンバーになっているが、ラディカルな建築家として知られる。しかし、一九二〇年代に入ると新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)と呼ばれる機能主義建築家に転じていったとされる。その象徴が一連のジードルング作品である。そして、ナチスの台頭とともに、いわば亡命の形で日本に来るのである。

 一九七六年、初めて一人でドヨーロッパの諸都市を走り回った建築行脚を思い出した。この最初のヨーロッパ建築行脚のひとつのターゲットは「表現派」の建築であった。オランダのアムステルダム派の建築も随分見て回ったが、ドイツが中心であった。ヘーガー、ヘトガーといった北方ドイツの表現派を追いかけて、ブレーメン、ハンブルグ、ハノーバーにも足を運んだ。東ベルリンにも一日潜入して、ハンス・ペルツィッヒの「ベルリン大劇場」を見た。数え上げてみたらドイツだけで三二都市になる。振り返ってみると、他には眼もくれずに「近代建築」のみ見て回った若気の至りの旅行である。

ベルリンでは、もちろん、ブルーノ・タウトのみならず、ミース・ファン・デル・ローエ、W.グロピウス、H.シャロウンらが設計建設したジードルングを見て回った。オンケル・トムズ・ヒュッテとともにおそらくブルーノ・タウトの作品の中で最も有名であろう馬蹄形のブリッツ・ジードルングも見た。半世紀の時の流れを経て、汚れも目立っていたけれど、迫力があった。ただの団地ではないのである。本書に掲載されたタウトのジードルング写真を見て、その新鮮さに驚く(ブリッツ・ジードルングの写真がないのは実に残念)。日本の住宅公団の団地が世界文化遺産になることなど想像ができないことを思えば、彼我の差異をいまさらのように感じてしまう。

 タウトについての関心は、今でもやはり「表現主義」から「新即物主義」への展開である。本書にも掲載されている扇形のプラン(平面、間取り)をした自邸がある。小住宅である。彼にはこの自邸を「動線」をもとに機能主義的に分析した論文があって、いち早く日本語にも訳されている。すなわち、日本には合理的設計手法の先駆として紹介された経緯がある。そしてタウトはその延長において「桂離宮」を再発見(評価)したと考えられている。しかし、そのタウトと、「アルプス建築」のタウト、「色彩宣言」のタウトとは必ずしも結びつかないのである。本書に不満があるとすれば、この展開についてほとんど触れられていないように思えることである。 


シンポジウム:地方の時代と建築文化,岡山のまちづくりフォーラム実行委員会, 建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会,岡山,19951110

 シンポジウム:地方の時代と建築文化,岡山のまちづくりフォーラム実行委員会, 建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会,岡山,19951110














2022年9月25日日曜日

建築行政,これだけは改めたい,情報公開という唯一の指針、日経アーキテクチャー,19970127

 建築行政,これだけは改めたい,情報公開という唯一の指針、日経アーキテクチャー,19970127

情報公開という唯一の指針 

 布野修司

 

 「これだけは改めたい」というためには、建築行政全般が頭に入っていないと話にならない。断片的に指摘しても、青臭い議論だ、と一蹴されるのが常だ。それに特に今求められているのは、全ての行政分野における、ひいては日本社会全体の「構造改革」であって、小手先の修正ではないのである。

 例えば、建設業の構造改革(建設省経済局)ということで、職人(技能者)教育を改めて(考えて)欲しい、と言ったとする。しかし、それは労働行政の問題であり、文部行政の問題であり、さらに偏差値社会全体の問題につながって、容易ではない。建築指導行政(建設省住宅局)について、取締行政(規制)から誘導行政へ、といっても、具体的な現場では縦割りの施策と補助金の配分システムが問題であり、錯綜する権利関係を解くのは難しい。

 縦割り行政を廃せよ、地方分権を、規制緩和を、談合廃止、等々、現在の日本の官僚制度と官僚組織をめぐる議論の中におよそ問題は指摘されている。

 しかし、構造改革が一気に行われるなんてことはありえない。議論を持続するためにどうしても必要なことは、情報公開である。唯一の指針といってもいい。開かれた議論の中でユニークな試みも許容する新たな仕組みをつくりあげるしかないと思う。

 以上を前提として、敢えてひとつだけ「これだけは改めたい」というとしたら、設計入札である。さらにその廃止に伴う、公開ヒヤリング等を含む公共建築の設計者選定(設計競技)の仕組みの構築である。審査委員会の任期、責任の明確化から、検査士制度あるいはタウン・アーキテクト構想まで、あらゆる個別の問題から構造改革につながる提案が可能なのである。




2022年9月24日土曜日

建築界の涼しくなる話,そして、建築家はいなくなった、日経アーキテクチャー,19960812

建築界の涼しくなる話,そして、建築家はいなくなった、日経アーキテクチャー,19960812

そして、建築家はいなくなった・・・

布野修司

 

 建築学科が無くなるという話は、怪談でもミステリーでもない。現在進行中のノン・フィクションである。日常的にぞっとしている。させられている。

 建築学科が無くなるというのは、この間の大学改革(大学院重点化、教養学部の廃止等々)にともなって、その名前が消えつつあることを言う。もちろん、建築学科という名前が全ての大学で無くなるわけではなし、名前が無くなったって、「建築」あるいは「建築コース」が無くなるわけではない。

 しかし、建築学科の再編成の過程で起こりつつあることはそう楽観もできない。要するに問題は、建築学科はどういう人材を育てるのかである。あるいは、建築家を建築学科は育てられるのか、ということである。古くて新しい建築教育の問題である。

 現場を知らない教師が建築を教える。自分の住宅の設計もしない教師が建築を教える。これは、心底ぞっとすることである。もちろん、この教師とは僕のことだけれど、余りにそんな教師が多すぎないか。

 最近、土木の先生とつきあう。デザイン教育にすこぶる熱心な先生である。もうセンスは「建築家」と変わらない。やっぱり、デザイナーは建築学科でないと育たないといいたい気分はある。しかし、何の根拠もないことにぞっとする。土木と建築との間にデザインの境界などないのである。

 建築学科が何も建築家を育てるわけではない。安藤忠雄の例を出すまでもなく、独学の建築家は少なくない。また、インダストリアル・デザインや美術の世界からの転身の例も枚挙に暇がない。もしかすると、建築学科なんか要らないのかもしれない。逆に、建築学科という制度が建築家を生まないのだとすれば大いに滑稽でそれこそぞっとするではないか。 



 

2022年9月23日金曜日

現実とフィクションのあいだを建築的に論じる:映画的建築 建築的映画 五十嵐太郎,図書新聞,20090718

現実とフィクションのあいだを建築的に論じる:映画的建築 建築的映画 五十嵐太郎,図書新聞,20090718

布野修司

 

 題名に惹かれ、一端(いっぱし)の映画少年であった昔、年間200本を超える映画を見て過ごした、また、ドイツ表現主義映画の連続映写会(『カリガリ博士』『ゴーレム』『ノスフェラトゥ』『ドクトル・マブゼ』『ファントム』・・・・)・シンポジウムを開催したこともある学生時代を思い起こしながら手に取った。一読して、いささか後悔、評する資格がないと思った。なにしろ、取り上げられる映画のほとんどを見ていないのである。古今東西の映画がDVDやインターネットで見ることができる、本書はそうした時代の作品である。年間200本見たといっても、毎週土日にオールナイトで「ヤクザ映画」を5本見るといったレヴェルであり、そうした時代のことである。映画の成立する(映画(およびTV)産業が拠ってたつ、あるいはIT産業が用意する)メディア環境の大転換をまず思う。とても批評することは適わないのであるが、本書の概要を紹介して最低限の務めを果たしたいと思う。

 著者は、冒頭序に、映画(映像)と建築をめぐる言説の基本的スタンスの違いを整理してくれている。第一に、映画に登場する建築や都市を論ずるものがある。実在の都市・建築を取り上げるもの(飯島洋一『映画の中の現代建築』)だけでなく、第二に、架空の空間も論考の対象になる。建築が生活の舞台を用意し、都市景観を形成している以上、映画が実在の空間を舞台として用いるのは一般的なことである。現実の空間を形作る建築とそれを舞台として展開される映画は、必ずしもクロスするところはない。映画と建築をめぐってテーマとなるのは、どういう文脈で、映画の場所、舞台が設定されているか、建築がどういう象徴として、またどういう記号として扱われているかである。

現実の空間が舞台として設定される映画でも、セットが用いられる場合がある。これはもはやフィクショナルな空間であり、架空の空間もまた舞台とされる。舞台美術、セット技術、CGやアニメによる空間表現の問題がテーマとなる。著者に拠れば、『戦争と建築』『「結婚式教会」の誕生』に続く作品として、現実とフィクションのあいだを建築的に論じることをテーマとするのが本書である。

映像表現の問題としては、ここまでは古典的といっていい。あくまでも映画は何を表現するかである。なんとなく血が騒いで、S.クラカウアーの『カリガリからヒトラーまで ドイツ映画1918-33における集団心理の構造分析』(1947年)を思い起こして、本棚の奥からぼろぼろになった本を見つけ出した。映画が成立しつつあった過程の、まだ、トーキーがない時代の映画についてのすぐれた映像論である。F.ラングの『メトロポリス』で描かれた未来都市、架空の都市が、『ベルリン・アレキサンダー広場』に帰着する、見事な分析だと思う。映像表現は、時代の芯を捉えているかどうかが鍵である。

 続いて、著者は、映画と建築家の関係を三つに分類する。①映画の登場人物としての建築家(『摩天楼』1949、『冬のソナタ』2002)、②建築家のドキュメンタリー(『マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して』2003、『ヒトラーの建築家アルベルト・シュペーア』2005)、③建築家が自ら製作に関わった映像の三つである。①②は、しかし、「建築的映画」あるいは「映画的建築」というテーマと必ずしもクロスはしない。③は、建築家による自らの作品のプロモーション・ビデオが例として挙げられる。

 本書は、4部からなるが、以上のような整理に従うと、第4部が専ら①②③に関わる。『摩天楼』の他、ル・コルビュジェの『今日の建築』(1930)、イームズ夫妻の『パワーズ。オブ・テン』(1977)、シドニー・ポラックの『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』(2005)などが論じられる。おそらく、著者が最も興味を持っているのは第3部「架空の都市」ではないか。宮崎駿のアニメ作品、『新世紀エヴァンゲリオン』など、SFやアニメ作品が専ら扱われる。叙述は最も活き活きしているように思う。第2部「空間と風景」において、映像表現と建築空間の間が問われる。『ブレードランナー』『ブラック・レイン』ぐらいはついていけたが、大半は見ていないから、理解が及ばない点が多々ある。映像、建築、言語の表現の位相の差異を否応なく考えることになる。そして第1部「舞台と美術」では、小津安二郎作品、また美術監督種田陽平の手がけた作品を中心に、映画美術が扱われる。この第1部は、建築家にとっては最も親しい。映画のみならず演劇も含めて舞台美術(設計)は、建築の空間の設計と多くを共有しているからである。

 「映画的建築」というのは、映画のあるシーンを成立させる建築ということであろうか。空間に生起するある一瞬のシーンをイメージして設計するというのは建築家の基本的構えであり、映像作家と建築家はほとんど方法を共有しているといっていい。実際、すぐれた映画監督の絵コンテは建築家のスケッチやパース(透視図)と全く変わらないのである。本書では、美術監督の種田陽平や黒澤明映画の美術を担当した村木与四郎(『東京の忘れものー黒澤映画の美術監督が描いた昭和』)に触れられている。ただ、映像表現がシーンの不連続的連続(モンタージュ)を手法とするのに対して、建築空間は日常生活の時間と空間を引き受けなければならない。

 「建築的映画」というのは、単なる比喩であろうか。あるいは、映画のシナリオや映像が、建築が部材など各部の要素から組立てられるように構成される、具体的な手法についていうのであろうか。

小津安二郎の方法について、「日本映画に建築の方法をもたらした」というドナルド・リチーの指摘(『小津安二郎の美学』)が引かれている。「日本の大工が一定のサイズの畳や襖、同一の骨組みや横架材を使って家を建てるように、小津はいわば感情の基準寸法の映画を組み立てる時に、自分が使おうとする多くの画面のサイズ、そのイメージの輪郭を知っていたし、そしてこれらの画面はどの作品でも全く同じように繰り返し出てくるのである。」 「大工のように、・・・作品の仕上げに着手し、一連の構造上のアクセントとバランスで各場面をつなぎ、・・・完全な住居を作り出す」という「大工のように」は、職人芸といったレヴェルの比喩ではない。小津の場合、実際に映画において(あるいは映画の前提となる)空間を設計しているというのである。

 おそらく、映像によって空間を設計するといった小津映画のような「建築的映画」は、そう多くはないだろう。しかし、SF映画の場合、基本的に背景となる舞台は予め設計されるから全て「建築的映画」といっていい。本書で扱われる映画の多くがSF映画であり、アニメ映画であることは、著者の建築的関心からすれば必然でもある。「架空の都市」が1部を割いて扱われるのもよく理解できる。

 映画(演劇)と建築をめぐっては、集団的表現(制作)あるいは集団的想像力をめぐる問題、映画上映の空間(映画館あるいは上映スペース)の問題などをテーマとして思いつくけれど、本書の関心とは次元が異なっている。欲を言えば、映画の方法と建築の方法をより突き詰めて比較する論考が欲しかったように思う。 



日経アーキテクチャーへの注文,素人っぽさがいい,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921221

 日経アーキテクチャーへの注文,素人っぽさがいい,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921221

日経アーキテクチャーへの注文  

                 布野修司


 『日経アーキテクチャー』のいいところは、一も二もなく、徹底して記者の取材を基本とすることである。建築業界のあれやこれやにとらわれずクールなのがいい。素人っぽいといってもいいのであるが、一般人が普通に建築をみるバランスがいいと思う。

 当たり前のことなのだけれど、足で取材する建築ジャーナリズムがあまりにも少ない。デスクに座っているだけで、気の合う建築家からの情報や大建築家からの命令(?)に従うだけの、あるいは持ち込みを待っているだけの専門誌が多すぎる。編集部員が少ない、取材が費が出ない、言い訳はいつも聞くけれどもいっこうに改善の気配がない。

 その点『日経アーキテクチャー』は、編集部員が極めて多い。副編集長が4人もいる雑誌なんてそうざらにはない。編集費も潤沢のようにみえる。他の専門誌がかなわないのも無理ないのであろう。

 『日経アーキテクチャー』に不満があるとすれば、やはり、一般に開かれていないことである。一般の書店に置かれ、一般の人が手にすることが出来れば日本の建築界にとって「カクメイ」的だと思うのであるが、そうもいかないのだろう。日本建築学会の『建築雑誌』の書店置きにも色々と問題があるという。

  『日経アーキテクチャー』の独走は当分続くと思う。ほめ殺しかな。