カンポン調査ノ-ト,雑木林の世界00,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター, 198309
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2022年11月6日日曜日
2022年11月5日土曜日
「樹医」制度/木造り校舎/「樹木ノ-ト」,雑木林の世界16,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199012
「樹医」制度/木造り校舎/「樹木ノ-ト」,雑木林の世界16,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199012
雑木林の世界16
「樹医」制度・木造り校舎・「樹木ノート」
布野修司
第一回「出雲市まちづくり景観賞」の審査のために再び出雲に行ってきた。僕の場合、行ってきたというより、帰ってきたという感覚である。方々の自治体でこうした顕彰制度が設けられているのであるが、島根県では初めてのことだという。いまをときめく岩國哲人市長の精力的施策のひとつとして、昨年景観条例がつくられ、それに基づいて設置されたのが「出雲市まちづくり景観賞」である。
出雲に縁があるというので柄にもなく委員長をおおせつかった。委員長といっても、審査会の議事進行役といった役どころにすぎないのであるが、総評をまとめる羽目になった。以下がその総評である。
●「出雲市まちづくり景観賞」の創設、公募に対して、第一回であるにも関わらず、まちづくり部門32件、住宅部門17件、一般建築部門14件、計63件もの応募があったことは、まちづくりおよび町並み景観に対する市民の関心の高さを示している。また、いずれの応募作品も景観賞の意義をよく理解したものであることがうかがえ、出雲市のこれからのまちづくりを考えていく上で、「出雲市まちづくり景観賞」が大きな役割を果していくことが確信される。
審査は、(1)出雲の歴史や文化が感じられるもの (2)新しい出雲のイメージにつながるもの (3)やすらぎや潤いが感じられるもの (4)公開性のあるもの という四点をゆるやかな基準として行ったが、いずれも予めこうでなければならない、という基準では必ずしもない。あくまで具体的な作品そのものを通じての評価を基本とした。ただ、景観賞の場合、作品をそれだけが自立したものとして評価するのではない。まちづくりとの関わり、地区の特性との関係が大きなポイントとなる。「出雲市まちづくり景観賞」が回を重ねていくにつれて、「出雲」らしさについて、次第に共通の理解が生まれてくることを期待したい。
審査にあたって特に考慮したのは、そうした意味でバランスである。例えば、各部門一点を原則としたにも関わらず、住宅部門で二作品の表彰となったのは、都心部と郊外住宅地という立地の違いによって、住宅のあり方や表情は異なっていいという判断からである。特に一回目ということで、景観賞のイメージが固定化される恐れを考慮し、全体のバランスを考慮した。そのために、すぐれた応募作品でも選にもれたものがあるのは残念である。
審査にあたってひとつの焦点となったのは、景観形成の、あるいは景観維持の活動をどう評価するかということであった。景観賞の目的は、いきいきとした景観をつくっていくことであって、まちづくりの活動と密接に結びついて行く必要がある。しかし、活動そのものは眼にみえない。それをどのように評価するかが議論となったのである。結果的に、活動の持続性をしばらくみたいということで今回は見送ったものがある。また、文化財指定をうけているものなど、他の賞を受けているという理由で避けたものがある。特に、まちづくり部門については、しばらく試行錯誤が必要かもしれない。
受賞作品は、いずれも水準が高く、第一回受賞にふさわしいものである。こうした作品が地区の核となって、地区そのものの景観を誘導していくこと、また、他を刺激してよりすぐれた作品を生み出していくことを願う。
こうした顕彰制度は、持続することに大きな意義がある。また、単なるイヴェントに終るのではなく、日常的なまちづくり行政と結びついていく必要がある。表彰とまちづくり協議会やシンポジウムの開催などを結びつける方法もあるかもしれない。景観賞が、回を重ねていくことによって、日本のどこにもない「出雲」独特の景観をつくりあげることにつながって行くことを期待したいと思う。可能な限りお手伝いできればと考えている。
岩國市政は、実に派手である。話題にはことかかない。出雲で行なわれることになった十月十日の大学対抗の駅伝(「神伝」)を全国ネットで毎年放映するなどといった、そんな力量には実に感心させられるところだ。ところで、その岩國市政が随分と木造文化、木造建築に理解が深い*1ことはご存じだろうか。次々に木造文化関連の施策が打ち出されているのである。その施策が実を結び、形となって表われるまでにはしばらく時間を要しようが、興味深いことである。
ひとつには「樹医」制度(一九八九年五月着手一二月実行)がある。樹木の病虫害、植栽に関して、助言・指導を行う「樹医」を六名認定し、活動の拠点として「樹医センター」を開所(九〇年四月)、各家庭からの依頼を樹医センターで受け付け、各樹医が家庭に往診、処方箋によって対策を伝える、そんなシステムが「樹医」制度である。
そして、「樹木ノート」「木の塗り絵ブック」の配布がある。木の名前に詳しい子を育てよう、出雲出身の子供は木に強いといわれるようにしたい、という。木の名前を覚えるということは、木に対する関心を深め木をかわいがる気持ちにつながる。自然環境問題を頭ではなく、心でわかる人間を育てるのがねらいである。
さらに、木造り校舎、木造り公民館(八九年四月着手)の構想がある。子供達を木のぬくもり、温みのある校舎で育てようと、河南中学の内装には可能な限りの木材が使われている。設計に当たった市役所の伊藤幹郎さんの案内でみせて頂いたのであるが、なかなかに楽しげである。市議会は、八九年六月 木造り校舎推進決議を行なっている。今、木造り公民館の建設が進められているところだ。また、再来年に竣工予定の出雲ドーム競技場も、架構は、木造である。
一人の首長の強力なリーダーシップのもとに、木造文化の保存が計られれつつある。というより新たな木造文化の育成が行なわれつつあるといった方がいい。総じて木造文化の衰退が叫ばれるなかで、興味深いことである。もちろん、ひとりの有能な首長がいれば全て可能であるというのではない。市民が支えなければ根づくことはないであろう。その成果が華開くには時間がかかる。しかし、楽しみなことである。
出雲建築フォーラム*2の発足も少しずつ準備が進んできた。91年の神有月に、赤字ローカル線として廃止が決まった、和風の駅舎で有名な出雲大社駅を使って「出雲建築展’91」を開くことで煮詰まりつつある。近々、展覧会の要綱も発表される筈だ。その際には、多数の参加を要望したい。
今、出雲を訪れても、期待が裏切られるかもしれない。しかし、来年、再来年と少しずつ成果が形をとって現れてくる予定だ。出雲が次第に熱くなる、そんな予感がしてきた。
*1 岩國哲人『男が決断する時』 PHP 一九九〇年
2022年11月4日金曜日
2022年11月3日木曜日
2022年11月2日水曜日
「木都」能代,雑木林の世界15,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199011
「木都」能代,雑木林の世界15,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199011
雑木林の世界15
「木都」能代
布野修司
能代に再び行ってきた。行く羽目になったといった方がいい。原因は、『室内』(九月号 「室内室外」)の原稿である。能代でのインター・ユニヴァーシティ、サマー・スクールの様子を詳しく書いた。能代の抱えている問題点を僕なりに整理して指摘したのである。しかし、表現にいささか問題があった。編集部のつけた「秋田杉の町能代を見る」というタイトルのあとにリード・コピーがあって、その最後に「能代の人々の表情は暗かった」とあったのである。本文では「能代の人たちの真面目さと暗さ、そして、空前の売り手市場でにこやかな学生たちの明るさが妙に対比的であった。この暗さと明るさは一体どう共有されるのだろう」と書いただけである。随分とニュアンスが違う筈だ。ヤバイと思ったけれど、後の祭りである。「どこが暗い、もう一度来い」、というのである。もう、謝って飲み歩いた。能代の人たちは、本当は明るいのである。
「第一五回木造建築研究フォラム能代」は「木の住宅部品と地域産業ーー木都・能代の過去・現在・未来」をテーマに九月二三日盛大に開かれた。盛りだくさんのプログラムは以下の通りである。
●基調講演
梅村 魁 「木都の思い出と住宅部品」
●基調報告
牛丸幸也 「木都としての形成過程と現状」
小林 司 「産地能代の現状分析」
米倉豊夫 「わが国の住宅部品産業と能代」
●パネルディスカッション(第一部)
大野勝彦 「住宅部品の開発コンセプト」
西方里見 「地域型木造住宅の部品開発コンセプト」
黒川哲郎 「地域性と部品開発」
小玉祐一郎「木の開口部品と居住性」
山田 滋 「住宅部品とBL制度」
●パネルディスカッション(第二部)
安藤正雄 「住宅部品の流通と地域産業」
網 幸太 「販売・流通システムの構築を」
岩下繁昭 「国際化時代における地域産業の活性化」
上西久男 「住宅部品流通業の役割」
●総括
上村 武
フォラムの内容については『木の建築』他、木造建築研究フォラムの報告に任せよう。それに『群居』の次号(25号)も、部品特集である。能代の議論もなんらかの形で反映される筈だ。
とかなんとか格好をつけようとしても駄目だろう。正直に言うと、フォラムは最初と最後しか聞いていないのである。最後の上村先生の的確なまとめで何が議論されたのかはおよそわかったのだけれど、それでもって知ったかぶりして感想など書いたら大顰蹙をかってしまうだろう。
しかし、別にさぼっていたわけではない。梅村先生のお供に徹したのである。基調講演でも話されたのだけれど、一九四九年の能代大火の後、翌五〇年に建てられた市役所は先生の研究室の設計なのである。四十年前に建てられた鉄筋コンクリートの建物は日本海中部沖地震にもびくともしないで建っている。梅村先生は随分となつかしそうであった。お供しながら実に多くのことを話して頂いた。僕にとっては、フォラムにまさるともおとらない貴重なレクチャーであった。
能代は昔から風が強く、板葺の民家が多く、それ故、火事が多かった。戦後不燃化が徐々にすすんできたのはそのせいであるが、不燃化が進んで来たのは他の都市も同じである。「木都」を標榜するのであれば、能代の街がまずそうあるべきだ、という議論を聞いた。確かに、そうだと思う。しかし、同時に、どこでも、「紺屋の白袴」的なこともあったのではないか、とも思う。他の街を立派に飾るために一生懸命で、自分のところはつい後回しになるのである。しかし、そろそろ、それぞれの地域がどうあるべきかを示すべき時なのであろう。
計画されている能代市の体育館は木造ではないのだという。せっかくだったら木造でやればいいのにと思うけれどなかなかそうもいかないらしい。理由の一つが、木造だと高いからだという。もし、そうだとすれば、何をか言わんやである。能代はそんなにも余裕がないのであろうか。いまだにもって「紺屋の白袴」なのであろうか。そんなことはあるまい。
フォラムのテーマであった木材、木製品の生産・流通の問題がそこに集約されているのではないか。日本建築学会賞を得た渡辺豊和の和歌山県の龍神村体育館のように混構造という手もある。木の使いようだって色々あるし、実際、多様な部品が能代で生産されているのである。木のこれぞという使い方を見せてほしい。特に公共建築である。地元で木を使わないというのでは、木材産業の振興も積極性が感じられなくなってくるではないか。まだ、本気で困ってはいないのではないか。秋田材のブランドにまだまだ自信があるということである。
ついでにバラせば、龍神村体育館の場合も、木材は、一旦北海道へ運んで集成材に加工して、再び、龍神村へ運んでくるというプロセスを経ている。大断面の集成材の工場が地元になかったからである。地域産業の抱える問題は、ことほどさように簡単ではないのである。
フォラムでは、米倉豊夫先生の迫力に度肝を抜かれた。「パネ協」(日本住宅パネル工業共同組合)の経験には学ぶべき多くのことがある。フォラムの後、藤沢好一先生にくっついていって、秋田市の御宅で厚かましくご馳走になりながら、さらに話をうかがえたのであるが、話のスケールの大きさには驚きっ放しであった。
また、フォラムの発言では、網さんの「一パーセントは山に帰す」というフレーズが妙に心に残っている。一年に一度は、家族で山に下草刈にいって、汗を流して、そしてワインパーティーをやる、そしてそれを贅沢な遊びにすることぐらい、みんなでできるのではないか。熱帯降雨林の問題だってそうである。一パーセントを基金にすれば、なにがしかのことができるのではないか。フォラムの席ではないが、網さんは、熱っぽく語り続けていたように思う。
秋田にはよくよく縁があるのだろう。こう書いているうちに秋田の商工会議所から電話があった。「職人問題」についてフォーラムやるから出てくれないか、という。行ってこなくちゃ。
2022年11月1日火曜日
2022年10月31日月曜日
2001年11月 いざ、出陣 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日
いざ、出陣
2001年11月5日
二冊目の本『手の孤独、手の力 松山巖の仕事Ⅱ』が届く。二冊とも装画、装幀は松山さんの手になる。結局、鈴木一誌さんに頼むことになったのであるが、表紙を松山さんに頼むという発想に間違いはなかったと思う。この二冊目は、長めの原稿が収められている。クロニクルの体裁をとったⅠと異なり、Ⅱはしっかりと編まれている。この構成の力も松山さんの本領である。全体はⅠ~Ⅶに分けられ、各章の冒頭に「あなたは天の川を見たことがあるか」と繰り返される。松山さんと違って田舎育ちだから、家の前の空き地で夏の夜、茣蓙に寝っ転がって仰ぎ見た記憶はある。しかし、感動をもって甦ってくるという感じはない。「更け行くや水田の上の天の川」(惟然)などという情景は既に僕らの世代のものではない。最後に収められた文章は「手の孤独、手の秘密」と題されている。手の力、手の仕事についての省察である。その中に、大学四年の時に小さな別荘を手作りで建てた話が出てくる。他の場所でも松山さんは書いているからそのことは知っているのだが、手の仕事への拘りが全ての評論活動の原点にあるのだと思う。
ちょっと前に、藤森照信先生から『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)を頂く。一気に読んだ。これは『住宅術入門』とすべきじゃないかとまず思った。ここにも徹底した手への拘りがある。しかし、藤森先生のこの脳天を突き抜けるような無心の明るさと松山さんの本から受けるある種の重さとの違いは一体どこから来るのだろう。
2001年11月10日~11日
駆け足で札幌、函館を回る。研究室出身の三井所隆史君と会って一晩飲む。土日とあって羽山先生尋ねる時間なし。申し訳ありません。
2001年11月15日
1月号特集企画、下河辺淳vs.平島治 対談。遠藤和義、岩松準両委員とともに出席司会。上京の新幹線の中で、まず、日刊建設工業新聞の特集「建設産業大改革」にざっと眼を通す。ピントこない。そんなに危機感はなさそうな印象である。そこで送られてきたばかりの古川修先生の遺稿集『建設業の世界』(大成出版社)をじっくり読んだ。古川先生とは京都大学ではご一緒することはなかったけれど不思議な縁である。そのことは「小林如泥のこと」と題して追悼集『獺祭魚』(だっさいぎょ)に書いた。ご存命であれば真っ先に相談したかった1月号の特集である。下河辺淳先生は古川先生と同級生で親友である。遠藤委員は古川先生のお弟子さん、岩松準委員はかつてNIRAで下河辺先生のもとにあった。僕は勝手に「建築産業に未来はあるか」(仮)という特集に最も相応しい人をあれこれ考えて下河辺先生を思いついたと思っていたのであるが、予め多くの縁が今回の対談を導いていたのである。
予め遠藤委員作製のメモを両氏には送ってあるが、まあシナリオ通りには進行しないだろうとは思っていた。それにしても、いきなり下河辺先生に足払いをかけられてしまった。
「建築業というのは何ですか?家具屋さんは建築業ですか?」
びっくりしたけれどうろたえはしなかった。古川先生の本の冒頭(「建設業のはなし」)にその議論があり、読んだばかりであったのである。遠藤さんに振って答えて頂いた。家具を売るだけだと小売業とか卸業であるが、それを据え付けると建築業になる。要するに建築業と言ってもその拡がりはとてつもなく大きいのである。
「建築業の何が問題なんですか?私には何も申し上げることがないんだけど・・・」
最初の口頭試問にかろうじてパスすると次はメガトン級の発言である。これにはいささかうろたえた。体制を立て直して恐る恐る日本の産業構造の転換について問うと、これには答えざるを得ないと思われたのか、ビシバシと眼から鱗が落ちるような発言が機関銃の弾のように飛んできた。実に刺激的な1時間半であった。
乞うご期待である。
2001年11月20日
第五回編集委員会。上京の新幹線の中では西垣通『IT革命』(岩波新書)と何故か相原恭子『京都 舞妓と芸妓の奥座敷』(文春新書)。
編集委員会は、少し余裕が出て来る。段々議論を楽しむようになれればと思う。とは言え、いよいよ出発ということで決めなくてはいけないことが山積している。大きな問題は常設コラムの順序を含めた紙面の構成である。表紙にインパクトある図表を!と決めたのだけれど中身のレイアウト方針が見えない。わかりやすく!が絶対方針であるが、わかりやすくといっても基準があるわけではない。カラー頁をたくさん使えばいい、ということでもないだろう。主だった決定事項は以下の通り。
○
建築ソフトのフロンティアをカラー頁として特集の前に置く。
○
会告、情報ネットワークの改革の一矢として、青井委員提案の「建築アーカイブス」を末尾に置く。
二番目は特集以外の頁を使う。頁数削減の中にきらりと光る頁、資料性の高い記事をつくりたい。
それに加えて、布野編集委員会の方針として、本文用紙は可能な限り再生紙、印刷インクは大豆インクを中心に使用することとした。4月号の京都議定書をめぐる議論のなかから、「隗よりはじめよ」となった次第。再生紙も可能な限り使いたい、と思う。
3月号「建築の情報技術革命(仮)」の発注は終わり、既に焦点は4月号である。
常置欄について、今のところ、「建築のアジア 世界の植民地建築」は僕の担当である。そのタイトルをめぐって、多少の議論があった。その欄は、要するに、あまり知られない、変わった建築を紹介しようという、歴代の委員会が設けてきたグラビア欄を引き継ぐものだ。「奇想天外の建築」というと力が入るから、「西欧以外の地域を取り上げて、面白い建築を紹介します。いわゆる植民地建築、宗主国の建築と土着の建築の折衷がテーマです」という趣旨を考えた。そこで「アジアの建築」ではなくて「建築のアジア」か。
アジアという言葉は、アッシリア起源で、古代ギリシャ語、古代ローマ語にも既にある。興味深いのはヨーロッパと対であるということだ。asuに対するereb(irib)が語源だという。すなわち、日いづる所(東)asuと日没する所(西)erebという意味でasuが訛ってasiaになった。erebがエウローピュとなりエウロパスすなわちヨーロッパ=キリスト教世界という定式化が行われるのは15世紀のことである。
ここでいうアジアは非西欧のことです、というと、アフリカもアメリカも入るんですか、と皆さん。入ります、というと怪訝な顔。そこで、「建築のクレオール」という案が出された。クレオールというのは現地生まれの白人という意味である。西欧建築が依然として優位のような気がしないでもない。要するに、西欧建築一辺倒ではない見方で建築を紹介したいということである。
2001年11月22日
京都大学にて「建築のあり方を考える会」。お誘いを受けていたけれど、これまでの会には所要で参加できず、初めて出席。古阪秀三(京都大学)、青木義次(東京工業大学)の二人が主唱者。原田(京都大学)、室崎(神戸大学)の両先生が報告。他に浅野史郎(日本大学)、藤井晴行(東京工業大学)の両先生が参加。「建築のあり方を考える会」とは、またなんと漠然とした会だろうと思っていたところ、建築界の問題点がボンボン飛び出す。防災が専門のお二人の報告だけれど、法の問題から建築教育の問題まで話題はどんどんひろがる。キーワードは「倫理」であろうか。編集委員会のネタがごろごろ出てくる。いささか感動である。学会の委員会とは全く関係ない、こんな会があるとは。
2001年11月30日
大阪の綿業会館で、高崎正治さんの「RIBA(英国王立建築家協会)名誉会員、2001年ジェンクス賞受賞」記念パーティーに出席。あんまりこうしたパーティーには出ないのであるが、京都造形芸術大学で一緒という縁で渡辺豊和さんに発起人を頼まれたのである。というとちょっと他人行儀であるが、高崎さんはまだ無名の頃から知っている。実にたいしたものだと思う。名誉会員は日本人7人目だという。その作品の評価は二つに分かれようが、異形の建築をつくり続ける力量は大変なものである。
突っ立っていると、安藤忠雄さんがやってきた。久しぶりである。東大のこと、京大のこと、随分話した。そうしていると長谷川逸子さんが来る。びっくりしたけれど、たまたま講演で來阪したとのこと。これまた久しぶりである。パーティーというのはこうした久しぶりの出会いがいい。永田祐三さんとも久しぶりに話した。宮本佳明さんとは彼が学生以来ではなかったか。中谷礼人さんとは話し損ねた。大阪の主だった建築家は参加されていたように思う。いい会であった。二次会では出江寛先生と話した。結局長谷川さんは大阪に泊まることになった。
2022年10月29日土曜日
2022年10月28日金曜日
都市再生の本質ー光と影のはざまでー秩序と混沌ー「都市組織」と「都市住居」ー私にとって都市の魅力,『建築と社会』,200604
都市再生の本質ー光と影のはざまでー秩序と混沌ー「都市組織」と「都市住居」ー私にとって都市の魅力,『建築と社会』,200604
私にとって都市の魅力
布野修司
都市の魅力とは何か、と真正面から問われると、いささか戸惑う。正直、あんまり考えたことがない。ただ、『カンポンの世界』[1]以降、都市については興味を抱き続けているし、近年の『近代世界システムと植民都市』[2]、『曼荼羅都市』[3]に至るまで、調査研究の中心は「都市組織urban tissue, urban fabric」のあり方であり、「都市住居」の型である。世界中で人々が作り上げてきた「都市組織」の多様なあり方、そしてそれに適合した都市住宅の型の生み出す街並み景観の多様なあり方に魅せられ続けている。
日本の都市が魅力を失いつつあるのは、都市住居の一定の型を支える都市組織のあり方を欠きつつあるからである。そして、都市再生が叫ばれるのも、それ以前に、人々が集まって住む仕組みが崩れつつあるからである。
都市の魅力とは何か、ということは、つまるところ、都市とは何か、ということであろう。都市とは何かをめぐっては、古来多くの議論があるが[4]、その基礎は、活力ある群衆Energized crowdingの存在である。「都市とは社会的に異質な個人が集まる、比較的大きな密度の高い恒常的な居住地である」(L.ワース、生活様式としてのアーバニズム)、「都市とは地域社会の権力と文化の最大の凝集点である」(L.マンフォード)といった定義を持ち出すまでもなく、都市の中心をなすのは、大勢の人が行き交い、蝟集する場所である。観光名所、盛り場、市場、広場、雑踏、路地・・・どんな都市であれ、活き活きと人が暮らす場所は魅力的である。日本の都市の中心市街地が活力を失ったのは、端的に人が集わなくなったからである。日本の都市の郊外住宅地が魅力に乏しいのは、個々の生活が車によってバラバラに分断されつつあるからである。
バラックの海
これまでアジアを中心に数多くの都市を歩き回ってきたが、軽い興奮とともに心地よさを覚えるのが、貧相なバラックが建並ぶ、一般的には「スラム」と呼ばれるような住宅地である。そこら中にゴミが散らかり、下水は臭う、騒々しくて、人いきれでむっとする、普通の人であれば、思わず、目を背け、鼻をつまむような物的環境だけれど、何故か懐かしい。戦後まもなくの状況を直接体験しているわけではないから、この懐かしさは不思議である。
「スラム」を歩き回るのは、単なる好奇心ではない。生来の貧乏性だからと言えば言えるが、このバラックの世界に感ずる親しさは、個人の感性の問題というより、ある「共通感覚」ではないかと思う。それは、人と人とのつながり、そのぬくもりに感ずる「共有」「共生」の感覚に近い。物理的な環境は生存のためにぎりぎりといった劣悪極まりない場合でも、そのコミュニティはしっかりしている。相互扶助の組織がなければ生活が成り立たないのだから、それは当然である。突然の来訪者に対しても、暖かく迎え入れてくれるのが普通である。危ない目にあったことはほとんどない。
また、何よりも人々が活き活きしている。必死で生きている人々には素直に感動を覚える。寄せ場やホームレスの仮小屋に興味を寄せる若い世代が少なくないのも、社会問題への関心以前に「生きること」への共感があるのだと思う。
バラックの世界では、「生きること」と「建てること」、そして「住むこと」が全く同じ位相にある。我々が失ってきたのは、こうした直接的な都市への関わりである。
カンポンの世界
カンポンkampungとは、インドネシア(マレー)語でムラという意味である。カンポンガンkampunganというと「イナカモン」というニュアンスである。都市の居住地なのにムラという。このカンポン(都市村落urban village)には、多くのことを学んだが、そのエコ・コミュニティと呼びうるような特性、生態原理は以下のようである。
多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural
societyは、発展途上国の大都市の都市村落の共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。
完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。
自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。
共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。
共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。
物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。
このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。カンポンは、そうした意味でも、「都市組織」のひとつのモデルといっていい。
歴史の中の都市:都市の記憶・文化変容・都市の規模
都市はひとつの作品である。都市に住み、建築行為を行うこと自体が、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。そういう意味では、都市は集団の作品である。都市の建設は、一朝一夕に出来るものではない。完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。そういう意味では、都市は歴史の作品である。
都市の魅力は、それ故、その歴史性にも大きな基礎を置いている。実際、都市を歩く楽しみのひとつはその歴史的追体験にある。都市の記憶が豊富であればある程、一般的にその都市は魅力的なのである。
もちろん、都市の歴史には負の遺産として記憶されるものもある。近代植民都市の歴史は、ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の侵略の歴史である。しかし、ヨーロッパ文化と土着の文化の衝突、葛藤を含めて、その都市の形成、変容の過程は、それぞれの都市の歴史である。都市が、本来、カンポンのように多様な階層、民族が混住し、多様な価値感を許容するものであるとすれば、多様な居住文化が相互に影響し合うことこそその魅力の源泉である。例えば、住居の形式を見ると、ヨーロッパの形式がそのまま移植される場合もあれば、土着の形式がそのまま借用される場合もある。また、多くの場合、折衷的な形式が新たに創り出される。新たに創り出された形式は、歴史の流れの中で大きな伝統となっていく。相互遺産mutual heritage、二親dual parentageという概念も共有されつつあり、世界文化遺産に登録される植民都市も少なくないのである。
曼荼羅都市
世界史の中で都市の歴史を振り返る時、産業革命、蒸気船、蒸気機関車の出現による変化、19世紀末以降の大転換が決定的である。都市はヒューマン・スケールを超えて膨張し始め、とどまることを知らない。魅力的な都市は、基本的に歩いて楽しめる都市である。近代以前の都市はほとんどそうである。
[1]
布野修司:『カンポンの世界』,パルコ出版,1991年
[2]
布野修司編:『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年
[3]
布野修司、『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』、京都大学学術出版会、2006年
[4] 布野修司:「都市のかたちーその起源、変容、転成、保全ー」、『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻、岩波書店、2005年3月
2022年10月27日木曜日
2022年10月26日水曜日
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traverse11 2010 新建築学研究11 Ondor, Mal & Nisshiki Jutaku(Japanese Style House):Transformation of Korean Traditional House オンドルとマル,そして日式住宅...