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2022年11月2日水曜日

「木都」能代,雑木林の世界15,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199011

 「木都」能代雑木林の世界15住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199011

雑木林の世界15

 「木都」能代

                        布野修司

 

 能代に再び行ってきた。行く羽目になったといった方がいい。原因は、『室内』(九月号 「室内室外」)の原稿である。能代でのインター・ユニヴァーシティ、サマー・スクールの様子を詳しく書いた。能代の抱えている問題点を僕なりに整理して指摘したのである。しかし、表現にいささか問題があった。編集部のつけた「秋田杉の町能代を見る」というタイトルのあとにリード・コピーがあって、その最後に「能代の人々の表情は暗かった」とあったのである。本文では「能代の人たちの真面目さと暗さ、そして、空前の売り手市場でにこやかな学生たちの明るさが妙に対比的であった。この暗さと明るさは一体どう共有されるのだろう」と書いただけである。随分とニュアンスが違う筈だ。ヤバイと思ったけれど、後の祭りである。「どこが暗い、もう一度来い」、というのである。もう、謝って飲み歩いた。能代の人たちは、本当は明るいのである。

 「第一五回木造建築研究フォラム能代」は「木の住宅部品と地域産業ーー木都・能代の過去・現在・未来」をテーマに九月二三日盛大に開かれた。盛りだくさんのプログラムは以下の通りである。

●基調講演

 梅村 魁 「木都の思い出と住宅部品」

●基調報告

 牛丸幸也 「木都としての形成過程と現状」

 小林 司 「産地能代の現状分析」

 米倉豊夫 「わが国の住宅部品産業と能代」

●パネルディスカッション(第一部)

 大野勝彦 「住宅部品の開発コンセプト」

 西方里見 「地域型木造住宅の部品開発コンセプト」

 黒川哲郎 「地域性と部品開発」

 小玉祐一郎「木の開口部品と居住性」

 山田 滋 「住宅部品とBL制度」

●パネルディスカッション(第二部)

 安藤正雄 「住宅部品の流通と地域産業」

 網 幸太 「販売・流通システムの構築を」

 岩下繁昭 「国際化時代における地域産業の活性化」

 上西久男 「住宅部品流通業の役割」

●総括

 上村 武

 

 フォラムの内容については『木の建築』他、木造建築研究フォラムの報告に任せよう。それに『群居』の次号(25号)も、部品特集である。能代の議論もなんらかの形で反映される筈だ。

 とかなんとか格好をつけようとしても駄目だろう。正直に言うと、フォラムは最初と最後しか聞いていないのである。最後の上村先生の的確なまとめで何が議論されたのかはおよそわかったのだけれど、それでもって知ったかぶりして感想など書いたら大顰蹙をかってしまうだろう。

 しかし、別にさぼっていたわけではない。梅村先生のお供に徹したのである。基調講演でも話されたのだけれど、一九四九年の能代大火の後、翌五〇年に建てられた市役所は先生の研究室の設計なのである。四十年前に建てられた鉄筋コンクリートの建物は日本海中部沖地震にもびくともしないで建っている。梅村先生は随分となつかしそうであった。お供しながら実に多くのことを話して頂いた。僕にとっては、フォラムにまさるともおとらない貴重なレクチャーであった。

 能代は昔から風が強く、板葺の民家が多く、それ故、火事が多かった。戦後不燃化が徐々にすすんできたのはそのせいであるが、不燃化が進んで来たのは他の都市も同じである。「木都」を標榜するのであれば、能代の街がまずそうあるべきだ、という議論を聞いた。確かに、そうだと思う。しかし、同時に、どこでも、「紺屋の白袴」的なこともあったのではないか、とも思う。他の街を立派に飾るために一生懸命で、自分のところはつい後回しになるのである。しかし、そろそろ、それぞれの地域がどうあるべきかを示すべき時なのであろう。

 計画されている能代市の体育館は木造ではないのだという。せっかくだったら木造でやればいいのにと思うけれどなかなかそうもいかないらしい。理由の一つが、木造だと高いからだという。もし、そうだとすれば、何をか言わんやである。能代はそんなにも余裕がないのであろうか。いまだにもって「紺屋の白袴」なのであろうか。そんなことはあるまい。

 フォラムのテーマであった木材、木製品の生産・流通の問題がそこに集約されているのではないか。日本建築学会賞を得た渡辺豊和の和歌山県の龍神村体育館のように混構造という手もある。木の使いようだって色々あるし、実際、多様な部品が能代で生産されているのである。木のこれぞという使い方を見せてほしい。特に公共建築である。地元で木を使わないというのでは、木材産業の振興も積極性が感じられなくなってくるではないか。まだ、本気で困ってはいないのではないか。秋田材のブランドにまだまだ自信があるということである。

 ついでにバラせば、龍神村体育館の場合も、木材は、一旦北海道へ運んで集成材に加工して、再び、龍神村へ運んでくるというプロセスを経ている。大断面の集成材の工場が地元になかったからである。地域産業の抱える問題は、ことほどさように簡単ではないのである。

 フォラムでは、米倉豊夫先生の迫力に度肝を抜かれた。「パネ協」(日本住宅パネル工業共同組合)の経験には学ぶべき多くのことがある。フォラムの後、藤沢好一先生にくっついていって、秋田市の御宅で厚かましくご馳走になりながら、さらに話をうかがえたのであるが、話のスケールの大きさには驚きっ放しであった。

 また、フォラムの発言では、網さんの「一パーセントは山に帰す」というフレーズが妙に心に残っている。一年に一度は、家族で山に下草刈にいって、汗を流して、そしてワインパーティーをやる、そしてそれを贅沢な遊びにすることぐらい、みんなでできるのではないか。熱帯降雨林の問題だってそうである。一パーセントを基金にすれば、なにがしかのことができるのではないか。フォラムの席ではないが、網さんは、熱っぽく語り続けていたように思う。

 秋田にはよくよく縁があるのだろう。こう書いているうちに秋田の商工会議所から電話があった。「職人問題」についてフォーラムやるから出てくれないか、という。行ってこなくちゃ。





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