坂内徳明(ばんない とくあき、1949年1月 - )、ロシア文学・文化研究者、一橋大学名誉教授。一橋大学社会学博士。
- 著書
- 『ロシア文化の基層』 日本エディタースクール出版部 1991.4
- 『ルボーク ロシアの民衆版画』 東洋書店 2006.2 (ユーラシア選書)
- 翻訳
- 神話学入門 ステブリン=カーメンスキイ 菅原邦城共訳 東海大学出版会 1980.12 (東海選書)
- ロシアの木造建築 民家・付属小屋・橋・風車 A.B.オポローヴニコフ 井上書院 1986.3
- ロシアの縁日 ペトルーシカがやってきた A.F.ネクルィローヴァ 平凡社 1986.7 (叢書演劇と見世物の文化史)
- マザー・ロシア ロシア文化と女性神話 ジョアンナ・ハッブズ 青土社 2000.4
昨年暮れ、坂内徳明先生に『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』(2021.10.17、私家本)を頂いた。同じ1949年生まれで、東洋大時代からの近所付き合い、一緒に研究会をしていたこともある。2015年に東京に戻ってきたら、いい時に戻ってきた、と、放送大学の面接授業を頼まれたのも坂内先生が放送大学東京多摩学習センター所長だったから。これまでも『ロシアの木造建築 民家・付属小屋・橋・風車』( A.B.オポローヴニコフ 井上書院 1986.3)も頂いたし、論文もそのつど頂いてきた。
『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』は、年明けに一気に読んで、実に面白かった。主役となる女帝とは、ピョートル大帝(在位:1678 - 1725)亡き後、4代目に帝位を継いだアンナ・イオアンノブナ女帝(在位:1730~1740)である。読解の素材とされるのがルボークと呼ばれる風俗版画である。ルボークには道化が描かれるが、ロシア帝国の宮廷に、これほど道化たちが入り込んでいるとは知らなかった。道化の伝統と言えば、コメディア・デラルテを想いうかべるが、実際、イタリアからアンナの宮廷に入ったファルノスことペドリーロがいる。
『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』を読んでつくづく思うのは、ロシアの建築史、都市史についてあまりに知らないことである。とりわけ、帝都ペテルブルグの建築群を設計したトレジーニ、ミケティ、キヤヴェリ、ラストレリ父子、リナルディ、そして、パラディオ他、イタリア建築との関係、『世界都市史事典』では、同級生でドイツ建築史の杉本俊多にサンクトペテルブルグについて書いてもらったのだけれど、シモン・ステヴィンらオランダ都市計画の影響があるという。オランダの建築家がイタリアの建築家に影響を受けたことははっきりしており、オランダの建築家たちは、黄金の世紀(17世紀)が過ぎると北欧に向かう。
アジアのウエスタン・インパクトについては関心をもってきたけれど、ヨーロッパにおける中心と周縁についてあまりに無知なのである。とりあえず、ヨーロッパ建築史でロシア建築がどう書かれてきたのかを知りたいのである。そのために、本書はもっと読まれる必要がある。
『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』は、一枚の木版画を読み解くことから語りだされる(序 一枚の木版画)。この木版画がルボークである。17世紀半ば以降にロシアに誕生した風俗版画の一種という。最後の「余禄 道化と鬼とー近代に向き合う-」で、江戸時代に広くした庶民画である大津絵と比較されるが、江戸時代の瓦版、役者絵、浮世絵と比較するのは乱暴に過ぎるだろうか。 20世紀初頭まで、銅版画、リトグラフと印刷技術の発達とともに技法は変化しながら持続したルボークは、ロシア社会の重要なメディアであった。新聞であり、風俗画であり、法令伝達、啓蒙、プロパガンダの手段であり、ロシア文化を担う重要なメディアであった(①)。文化史、民族誌の分野では膨大な収集、編纂作業が行われている、らしい。坂内が焦点を当てるのは、木版画に描かれた「道化」である。
全体は、序と余滴の間の七つの論考から成るが、「一 ≪怒涛≫の後ーピョートル大帝なきロシアとアンナ女帝-」で、帝政ロシア(1721~1917)第4代の女帝アンナの治世(1730~40)に焦点を当てる背景と狙いが明らかにされる。
そして、「二 赤鼻道化、参上ー《戯け》の時代」において、序の一枚のルボークに描かれた《赤鼻のファルノス》こと、イタリア人宮廷道化ペデリーロと思しきが登場する。大道芸人(スコモローフ)、放浪芸人と言えば、コメディア・デラルテが思い浮かぶ。16世紀中頃にイタリア北部で生まれ、その後18世紀にかけてヨーロッパ各地で流行したというが、帝政ロシアの宮廷にもイタリアの道化師は及んでいたのである。ピョートルの西欧諸国へのグレート・ジャーニー(1697~98)が関係するかと思ったけれど、ピョートルはイタリアには行っていないという。しかし、サンクトペテルブルクの建設、その都市計画にイタリア人建築家が参加していたことを考えると、ロシアとイタリアの関係が気になる。ピョートル以前にモスクワ公国時代に既にイタリアとの関係はあり、クレムリン内の建築にイタリア人建築家が招かれているという。坂内は、ここで、ロシアにおける大道芸人(スコモローフ)の起源を遡るが、ピョートルの時代にその歴史は形成され、あんなに引き継がれたらしい。そして、イタリア喜劇を代表するアルレキーノはロシアでも早くから道化師の代名詞として広く知られていたらしい。
そして、「三 芸は身を助くー或るイタリア人楽師のメタモルフォーゼ」において、ペドリーロの素性が詮索される。当時、ロシアには常設の劇場がなかったから、そと都度、移動舞台が設営されたという。その昔、黒テントの安田講堂前のテント興行に関わったころ、劇場史に夢中になったことを思い出す。そのころ読んだのが山口昌男の『道化の民族学』(1975)であり、F.イエイツの『世界劇場』(1978)である。請われるままに「実験劇場と観客への回路,イタリア式の閉ざされた箱とエンプティスペース」(芸術倶楽部,フィルムアート社,197309(布野修司建築論集Ⅱ収録))「劇場あるいは劇的場なるものをめぐって」(建築文化,彰国社,197810)「地球座の謎,F.A. イエーツ世界劇場に関するノート」(現代思想,青土社,197811(布野修司建築論集Ⅱ収録)といった原稿を書いた。
パラディオ(1508~80)のテアトロオリンピコが1580年、シェイクピア(1564~1616)のグローブ座が1614年である。ロシアではこれらに1世紀以上遅れるわけであるが、イタリアからの芸人たちの宿舎として「冬の館」が建てられたのは1733年らしいが、宮廷の舞台はどのような空間で、最初の劇場はいつ建てられたのか?実に興味深いのが、アンナ女帝の末年に、ネヴァ川氷上に氷で建てられた《氷の館》《氷の宮殿》《氷の家》と呼ばれる「劇場」で新婚カップルの一夜の光景をマスカラード(仮装行列)の一行が見学するという奇妙な祭りである。マスカラードの伝統もピョートル大帝時代に遡るという。この氷の「に劇場」における出来事は、「六 《氷の館》ーロシア式結婚協奏曲」で詳述される。《氷の館》の立面図と平面図も示されるが。通常の建築の図面で、とても氷の建築には見えない。三つの部屋が並ぶが、これはいったいどういう空間なのか謎と興味は深まる。
ペドリーロのロシア滞在は10年足らずであったが、その記憶は様々に後世に伝わる。「四 宮廷道化、都市伝説となるー笑噺のコスモス-」は、フォークロアの中に、そしてルボークに中に、道化の世界が渉猟される。そして、「五 道化の妻たちー仲人婆と「悪妻」-」では、道化をとりまく男女、夫婦関係、女性に焦点を当てて、道化の世界が掘り下げられる。
そして、最後の「七 皇帝とフォークロア-語り部の女たちに囲まれて」で、アンナ女帝に焦点を当ててテーマが締めくくられる。
タイトルに直截に示されるテーマについて、安直に反芻することは控えるが、帝政ロシア初期のサンクトぺテルスブルグの空間、建築群について、ロシアの近代化について考えてみたい。とりわけ《氷の館》について知りたい。近代的な諸施設のロシアにおける原初の形態とはどのようなものであったのか。
①これを知るにはまず『ルボーク ロシアの民衆版画』を読む必要がある。その上で、印刷術の歴史(グーテンベルグ革命(1545))を整理したい。木版印刷の起源は、紀元前の中国に遡るというが、ルボークの起源は?その製造、工房、販売など生産流通過程についてはわかっている、筈。
②ロシアにおける最初の常設劇場とは?
③氷の宮殿について、さらに詳細がしりたい。
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