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2022年11月20日日曜日

地球環境時代の建築の行方,雑木林の世界20,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199104

 地球環境時代の建築の行方,雑木林の世界20,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199104

雑木林の世界20 「地球環境時代の建築の行方」

                                   布野修司

 

 建築フォーラム(AF)の最初の仕事として、国際シンポジウム「地球環境時代の建築の行方ーーーポストモダン以後 徹底討論」(二月二六日~二八日 東京銀座ヤマハホール)を無事終えた。実に興味深いシンポジウムであった。プログラムは先号に示した通りである*1

 第一日、司会を務めたのであるが、いきなり度肝を抜かれた。C.アレグザンダーがいささかむつかしい性格であることは承知していたのであるが、いきなり、「私の今日のレクチャーのタイトルは『日本の民主主義の危機』である」ときた。僕の場合、前夜の歓迎パーティーの雰囲気から、多少の予感があったからまだいい方かもしれない。聴衆はびっくりしたに違いない。シーンと静まりかえったままである。振り返ってみるとなかなかのパーフォーパンスであった。C.アレグザンダーは役者である。

 時折しも湾岸戦争に決着がつけられようとしていた。東欧の民主化の問題にしても、世界の枠組みが大きく変わろうとしている。そんな時代に建築はどうあるべきなのか考えようというのがシンポジウムの主旨であり、グローバルな大所高所からの基調講演を期待したのであった。しかし、C.アレグザンダーが、結果としてまず指摘したのは、大所高所の議論より問題の根は足元にこそあるということである。

 アレグザンダーが具体的な例として挙げたのは、名古屋市の白鳥地区の計画である。デザイン博の跡地利用について名古屋市からコンサルティングを委託された彼は、ヘクタール当り二〇〇戸の、しかも全戸に駐車場を確保した低層高密度の住宅地の計画を提案した。しかし、その計画が暗黙の内に葬られようとしている。その理由は何か。そこにこそこれからの環境を巡る問題があるのではないか。深く掘り下げて考えてみる必要があるいうのが講演の骨子なのである。C.アレグザンダーは、マシーンという言葉を使った。得体のしれないマシーンが作動し、多くの支持する計画案が否定されていく。「日本の民主主義の危機」というのは、そうした脈絡におけるタイトルであった。

 単に「低層か高層か」というのではない。また、単なる「コーダン(公団)」批判ではない。C.アレグザンダーのいうマシーンというのは、「コーダン」という官僚組織でもあり、法制度でもあり、高層住宅を理念化する思想でもあり、経済原理でもあり、現実に進行していくものを支える全てである。それに彼が繰り返し強調したのは、白鳥地区だけの問題でも、日本だけの問題でもないということである。

 C.アレグザンダーは、「いささか子供地味ているかもしれない」という。確かに、そんなところがある。難しいことを言っているのではない。普通の人のこころの琴線に触れる環境を創りあげることこそが大切なのだ。もう少し、素直になろう。平たく言えば、C.アレグサンダーの基調講演にはそんな響きがあった。

 では、普通の人の心に触れる環境とは何か、それをつかまえる方法とは何か、議論は自然とそういう方向に向かう。その理論については多くの訳書もあるのだが、C.アレグザンダーの熱っぽい主張の背後には、ある普遍的な価値が置かれているように思える。少なくとも、普遍性へ向かう意志が感じられる。それに対して、多様性を許容する原理とはなにか、地域によって異なる環境のあり方を保証する方法論とは何か、原広司、市川浩の両パネラーを加えた議論はそうした方向へと広がりをみせた。

 二日目、基調講演のM.ハッチンソンは、もしかすると日本ではあまり知られていないかもしれない。若い。僕とほぼ同じ年だ。しかし、英国王立建築家協会(RIBA)の会長である。史上最年少の会長ということであるが、老人支配の日本とはえらい違いである。彼我の違いを感じさせられる。そして、M.ハッチンソンは、かのチャールズ皇太子との論争で知られる。チャールズの近代建築批判に対する反批判の一書をものしてもいる。ちなみに、C.アレグザンダーは、このほどチャールズ皇太子から美術館の仕事を受けた。興味深い対比だ。

 M.ハッチンソンの主張は、誤解を恐れず単純化して言うと、過去の歴史や様式を美化しても始まらない、現在の都市にどう住むかが問題であり、未来へ眼を向けることが重要である、ということだ。彼は、観光バスに乗って撮ったロンドンの観光写真を写しながら、ロンドンはツーリストのための都市か、と問いかける。しかし、過去、現在、未来は果して、そう直線的に捉えられるのか、都市は住む場所なのか、メディアなのか、様式や装飾が問題なのか、生活のシステムが問題なのか、等々をめぐって議論は広がりをみせた。

 三日目、二日間の議論は、どちらかというと抽象的であった、というL.クロールは、具体的な映像を多数のスライドを用いて提示した。L.クロールは、ルーバン大学の学生寮で知られる。その後の展開と最近の仕事の多くに直接触れ得たのは貴重であった。もともとファンであったのであるが、三日の間一緒してその真面目な人柄と建築の魅力にますますひかれたのである。

 L.クロールは、徹底して多様性を許容しようとする。単調さ、繰り返し、標準化、一元化を最も嫌う。個々が自由に表現する、あらゆる場所が表情を異にする、そういう空間やランドスケープを創り出すためにはどうすればいいのか。彼は、コンピューターを積極的に使う。単なる手作り派でも住民参加派でもないのである。

 L.クロールの基調講演に対して、一方でグランド・デザインがいるのではないか、コンポーネントが用意されている必要があるのではないか、といった議論の広がりをみせた。ヨーロッパの場合も必ずしもコンポーネントについて安定した市場が成立しているわけではないということである。印象的だったのは、グランドデザインが必要であるという問いかけに対して、それでは東京にグランドデザインは存在するのかときりかえした場面である。L.クロールは近代都市計画を下水道都市計画と呼ぶ。

 とても三日の議論を要約することはできない*2。また、限られた時間で残された議論も多い。建築フォーラム(AF)としては、さらに様々な形で深めていくことになろう。

 議論だけしてても始まらない。「みんな僕の話に拍手はしてくれる。しかし、現実は動かない。何故か。」とC.アレグザンダーはいう。確かにそうだ。しかし、議論をやめるわけにはいかない。問題は、議論によって真実の問題を覆いかくしてしまうことだ。忙しすぎて余りにも議論がなくなった。少しでも議論の場所を確保しよう。先号で触れたように、それが建築フォーラム(AF)出発の初心である。

 

*1

 第一日 「環境のグランドデザイン」

     基調講演 C.アレグザンダー

     パネラー 原広司 市川浩   司会 布野修司

 第二日 「都市のグランドデザイン」       

     基調講演 M.ハッチンソン

     パネラー 木島安史 伊藤俊治 司会 山本理顕

 第三日 「住居のグランドデザイン」

     基調講演 L.クロール

     パネラー 大野勝彦 小松和彦 司会 安藤正雄

 *2 シンポジウムは、『建築文化』誌(6月、7月、8月)に掲載予定である。また、年刊『建築思潮』で取り上げることになろう。





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