都市組織の世界史―イスラーム都市の構成原理―、地球文明学会、20170417
・都市文明 の起源や歴史における都市の役割についてのお話ならどれも関心はあるのです
が、布野さんが現在進めておられる世界都市比較もお聞きしたいことの一つです(柳澤先生)
・布野先生にお教えいただきたいことを以下に記述します。
布野先生のご著書「ムガール都市」のなかで、以下が記述されています。
1;「イスラーム都市原理は有機都市である」
2;「イスラームは基本的には都市全体の具体的な形態に関心を持たない」とされています。
3;「イスラーム都市の都市計画において、部分(身近な居住区・街区)からの街づくりが主体で、全体(マスタープラン)から部分を考えることはない」
「全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることで全体が構成される」
4;「都市の公(公共施設)をつくるのに、ワクフ(寄進)財で建設する」
以上の論点とイスラーム都市の原理の追及は、私のように都市計画をしているものにとっては、素晴らしい卓見であります。そこでなぜこのような都市原理が生まれたのかについて、いくつかの質問をさせていただきたく存じます。
1;イスラーム都市の特徴は、迷路と細かい街路からなる、密集状況の住まい方です。なぜ、このような高度密集迷路型の街区で、安定し安全な都市共同体が維持されているのかが、不思議です。また、この高度密集迷路街区に、様々な宗教が異なる人々が仲良く同居しているのはどういう背景があるのでしょうか。いま、トランプ大統領の出現や、EUでの移民族排斥運動が盛んになってきました。異質なものの共存が都市の機能の一つですが、それが受け入れない状況になっています。イスラーム都市が、異質を共存という形で受けいれ、しかも西欧の幾何学的都市(例えば見通し)とは異なる安定し平和な高度密集迷路型の街区を作り上げた原理は何でしょうか。都市の形態、規模、都市人口、都市人口密度、建築密度、都市機能、経済などの指標は、都市の発展進化指標として有効な尺度でしょうか。
2;「イスラーム都市原理は有機都市である」とされていますが、有機体ということは、生物の生命体モデルに近いという意味でしょうか。もし、生物モデルとすれば、イスラーム都市は、都市の発展(巨大化、膨張、拡ネットワーク的拡張)を生物進化という視点でとらえることができるということでしょうか。
3;都市という実態は、国家とどのような関係があるのか。イスラーム帝国が拡張膨張・拡張・巨大化していく過程で、イスラーム都市化は、帝国化のなかでどのような位置にあったのでしょうか。帝国化と都市化との関係で、イスラーム文明圏での、都市の挙動について、お教えいただければありがたいです。
4;ワクフでの都市の公を作る論理は、現代都市で進行している従来の役所が作るマスタープランによるまちづくり、すなわち全体から部分への志向に疑問を抱かせます。と同時に、藤本様が進められているバイオマスでの共同体づくりや、近藤様の省エネルギー都市などの都市の部分から都市全体を変えていく手法に、大きな勇気を与えるものですし、住民参加の効力も明らかです。私のゼロエミッションの街づくりも大きな励みになります。このような戦略(部分から全体)は地球規模の環境問題(地球温暖化など)に直面している地球文明に新しい文明の姿を描く契機になります。高谷様の守山への確執もそこにあるのではないか。世界単位論も、同じ思潮だと思います。石油・石炭を使い続けている限り、グローバル経済は、地球温暖化をもたらし、水不足、インフラがだめになり、食糧生産が困難になり、格差を助長し、飢餓と感染症と戦争を世界に蔓延していくでしょう。巨大な文明の中に、小さな自立したバイオマス文明をつくることは、ワフクのような部分から公共を作り出し、全体を構造改革する手法に学ぶ必要があります。このような手法がいかに未来の文明に普遍性を持つかが、今後の地球文明学の大きな課題だと、勝手に思い込んでいます。ワフクの方式が、世界のスタンダードになることができないでしょうか。お教え願いたいです。
以上です。都市とは何かについて、亡き高谷様からむつかしい宿題をいただいておりますが、なかなか容易に解けません。布野先生のイスラーム都市に大きな感銘を受けました。お話をお伺いできることを楽しみにしています。吉村元男
第2回 地球文明学会で高谷が発言したこと
2015年11月10日
高谷好一
都市とは何かということだが、抽象的に議論するとわかりにくくなる。皆がそれぞれに違った都市を想像して、それで議論して、混乱が起こる危険がある。
それで、私の提案は、具体的な都市を並べてみて、それで都市とはこういうものだというのを前にして、そこから議論したらどうかと思う。
そのとき、二つの方法があるが、人類史の中で実際に存在した都市を縦に並べてみることだ。例えば、紀元前3000年頃のメソポタミアの都市、それから紀元前後のギリシアやローマの都市、もっと後になって現れるイスラームの都市、それからヨーロッパの都市、特に産業革命後の都市、それから今日の東京のような大都市。それを一度、縦に並べてみる。しかし、たぶんこれでも都市の一部しか出ていない。だから本当は、いくつかの生態区を想定して、それぞれの生態区における都市の歴史を定義する。例えば、砂漠・オアシス地帯には、どのような都市が生まれたのか?東南アジアのような森の多い多島海では?あるいは日本のような稲作をやる盆地では?などと並べてみて、生態という横軸と歴史という縦軸の中で都市群のマトリックスを作ってみると、よくわかるのではないかと思う。皆、共通したイメージを持つことができて、議論がしやすい。もっとも、この作業自体が大変な作業になるのだけど。
『野生が都市を救う』は素晴らしかった。ずいぶん前に出版されているのだが、今読んでも新しい。言い出したのが早すぎて、当時はあまり売れなかったのではないかと思った。
ところで、本の主張の一つが、「都市の中に自然を作ろう」ということだったと思うが、私は「なるほどな」と思った。都市はあまりにも人工物に満ち満ちていて、殺風景すぎる。何とかしてもう少し自然を入れなきゃいけない。と同感した。
しかし、すぐ後にこんなふうにも思った。「俺の住んでいる守山のあたりの田舎のことが忘れられているのではないか」。都市はどんどん大きくなっている。やがて、地球全体が都市になってしまうのではないか。少なくとも、平野部は全部都市になる。そんなときには、中自然をわざわざ作るよりも、今ある田舎を中自然として積極的に活かした方が手っ取り早いのではないか?そんな、いささかいじわるなことを考えた。
東南アジアの森の人たちは、本当に多くの植物の名前などを知っている。その用途を知っている。これは腹痛の薬だとか、これは蛇に噛まれたとき傷口に塗ればよいとか。その知識は多様で深い。森の中で木や草とともに、それを十分に利用して生きている、といってよいかと思う。その知識は私たちが本で読んだものの何百倍もある。
彼らはまた、森の中で迷ったりしない。私たちは地図とコンパスをもって森に入り、それでも迷って慌てふためき、パニックに陥る。しかし、彼らはそんなことはない。仮に一時k迷ったとしても、2、3分すると自分がどこにいるのかを知り、行くべき方向をちゃんと見出す。これは彼らが「物語」の地図を頭の中にもっているから。この木は村で一番大事にしているドリアンの木だ、とか、この背面にべったり苔の生えた岩は、昔から化け物の住処とされているところだとか。この小さな流れは、魚毒草がたくさん採れる小川だとか、森に散らばっている木や岩や泉や流れなど、あらゆるものに物語があって、それでたとえ一瞬自分の居場所がわからなくても、すぐに物語の地点を見つけ出し、そこからは安心してその物語の途をたどって行く。
この「物語」の地図は、単に標高や距離だけが無機的に示されているのではなく、それにまつわる一連の話があって、それは昔からの言い伝えや、場合によっては見えない地下の話にまで広がるものなので、それは豊かで深いものである。東南アジアの人たちはそういう世界に住んでいる。日本の団地に住んで、地面とも木とも草とも、隣人とさえ切り離された生活をしている人と比べると、その豊かさは何万倍もあるといってよいのだと私は思っている。
田舎がよいのは、そこには汲めども尽きぬ「物語」があるからだ。例えば、「この杉の木には天狗が住んでいた」とか、「この松の木には五寸釘が打ちつけられていた」とか、「この小溝沿いには細道があって、お宮に集まった一行が列を作ってお伊勢参りに行ったのだ」など、いっぱいある。お宮だけではない。ちょっとした曲がり角や道傍にころがっているような地蔵さんにも、あるいはもっと新しい消防ポンプ小屋にも、供出米の検査場にも、みな物語がある。これらの物語は、住民がみな知っている。小さな話で、それ自体大きな論理や思想につながるものではない。しかし、皆でそれを共有しているということは、大変なことなのだ。そんなことは、学校での教育や読書からは得られないものだ。長い歴史をかけて、共にその地に住んできたということの中で出来上がったものだ。土地の文化、土地が持っている物語というものだ。
たしかに、団地にも物語はあろう。町に作られた公園にも物語は作られよう。しかし、それが本当の「物語」になるには、やっぱり時間がかかる。何百年という時間がかかる。中にはこの社会に染み込んだ「時間」がある。
私自身が田舎に住む人間として、この田舎に何を感じているのか、どう見ているのかを言わせてもらいたい。それは納得の世界だということ。私の母などは納得して死んでいった。私の母の人生は決してよいことばかりではなかった。没落したので、大変な貧乏だったし、それで京都に女中に出ていた。生まれ故郷に帰っても、苦しい生活ばかりだった。そんな中で近所の人たちや親せきたちともよくいさかいもあったようだ。もちろん、楽しいこともあった。要するに、このあたりの普通の田舎の社会の例にもれず、相互監視の中で、それでも精一杯、なるだけ楽しく生きてきたようだ。
年老いてからは、私と二人だけの生活が長く続いた。その頃は、もう90歳を過ぎていたが、天気が良いと、毎日屋敷の草むしりをしていた。1日中していた。ナンマンダブツナンマンダブツと言いながら、草取りをしていた。これは口癖だけで、決して素晴らしい仏教信者というのではなかった。私はそれをよく知っている。仏教の教えではないが、何か独特の安堵心のようなものをもっていた。それをもって、ただ口癖のナンマンダブツを繰り返して、ひたすら草むしりをしていた。草に話しかけているようでもあり、自分の一生を思い出しているようでもあった。
そんな母を見ていて、いつも私は思っていた。「おふくろは、納得の人生を送ったな」ということ。苦しかったことも楽しかったこともみな昇華してしまって、ただ「これで良かったのだ。おかげさまで。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と言っていたようだった。
田舎に生きるというのは、こういうこと。そこにある「物語」の中に自分も溶け込んでしまって、一生を終えるということ。ここにあるのが、「納得の世界」。
私は土「土地の主」というのを自分自身の分担する研究の中心に据えたいと思っている。もともとは、その土地の本当の持ち主は誰なのか、ということをはっきりさせることだ。ご先祖様であるのかもしれないし、自分たちとは無関係の先住者がいて、その人の魂が土地に染み込んでいて、これを「土地の主」と私自身が感じているのかもしれない。
この「土地の主」という言葉は東南アジアではよく聞く言葉だが、最近ではラオスで聞いた。ラオ人の村に行くと、たいてい社があって、「プー・ター」を祀っていると話してくれた。多くの場合、クメール人だ。彼らが入植してくる前には広くクメール人がいて、その人たちの魂がこの土地にはこびりついている。粗末に扱うとたたられる。だが、大事にすると守護神になる」という。この種の「土地の神」が今の時点での私の最大の関心事だ。
ただ、この「土地の主」は全世界的にあるものではないのかもしれない。私のいう「生態型世界単位」の範囲、すなわちもともと森林の卓越していたところだけにあるものなのかもしれない。たぶん、砂漠地帯などにはないだろう。欧米にもない可能性がある。森といっても北の森は東南アジアの森と違って、オオカミとクマのいる森だ。草・木の卓越する南の森とは違う。それに、北の森にはキリスト教が早くから入り込んでしまった。地球文明を考えるとき、やはり私としては生態区を抜きにしては考えらえないように思う。
【お酒をのんだとき、吉村が言ったこと】
「野生→コモンズ」という言葉をキーワードにしてきた。
コモンズの次のキーワードを考えねばならない。皆で考えよう。「コスモロジー」というのが一つの案かと思う。
この研究会では、できたら具体的なプロジェクトをやってみたい。例えば、内湖を復活して「本当にきれいな湖畔を作り出す」ということを具体的にやってみることだ。