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2024年10月6日日曜日

開催テーマ・主旨、第2回ISAIAアジアの建築交流国際シンポジウム,神戸,1998年9月8ー10日

 第Ⅱ回 アジアの建築交流国際シンポジウム 開催趣旨

The 2nd International Symposium on Architectural Interchange in Asia


「21世紀的亜州建築」

Asian Architecture in 21st Century

 

 

 21世紀は「アジアの世紀」になると言われる。中国、インドという人口大国の存在もあり、世界人口の半数近くの人々がアジアに居住するという意味でも、また、これまで世界をリードしてきた西欧世界の近代化、産業化の流れに疑問符が打たれ、その限界が意識され出したという意味でも、アジアに大きな関心が寄せられる。地球環境問題が世界共通の課題になり、持続可能な社会、都市、建築のあり方が求められる中で、アジアに何かこれまでと違った原理が求められている。

 アジアはひとつ、ではない。アジアはもとより多様である。むしろ、異質のものが多様に共存する原理をアジアの各地域は伝統としてきたのではないか。建築と都市のあり方をめぐって、アジア各地の経験を報告しあい、議論したい。真摯な議論の中から、21世紀の都市や建築についての指針を見出したい。

 1986年、日本建築学会は創立百周年を記念して「アジアの建築交流国際シンポジウム」を開催した。その後10年を経て、ますます、アジアの各地域の相互交流は深まりつつあり、シンポジウムの持続的開催の必要性が強く意識されてきた。この度、日本建築学会の呼びかけで、中国建築学会、大韓建築学会の賛同を得、三学会共催のかたちで第Ⅱ回のシンポジウムを開催する運びとなった次第である。

 会場は神戸。1995年1月の阪神・淡路大震災は未曾有の被害をもたらした。その復興の過程を見ていただきたい。また、様々な問題点を議論していただきたい。第Ⅲ回は、北京、第Ⅳ回はソウル・・・というように、具体的な都市の問題を考えるかたちで続けられることを願う。

 メイン・テーマは「21世紀のアジア建築」。安藤忠雄、ルシアンクロールの基調講演の他、6つの分科会を用意する。「建築史の誕生」「建築士制度と建築教育」「耐震と構造技術」「震災復興とまちづくり」「歴史的環境と保存」「伝統的建築技術と環境共生建築」をめぐって活発な議論が展開されることを期待したい。また、このシンポジウムを機会に交流の輪がさらに広がることを期待したい。

                               

The 2nd International Symposium on Architectural Interchange in Asia

                    「21世紀的亜州建築」

              Asian Architecture in 21st Century

                                

 

 

 It is said that 21st century will be called "Century of Asia".Asian regions are expected to play a greater role to the worldwide issues because almost half of the world's population lives in Asian regions which include the large countries like China, India and Indonesia.... We are raising a question to the process of industrialization and modernization leaded by Western countries for these centuries and throwing eyes to the Asian fields that have their own values and principles. Global environmental issues are becoming a common tasks to solve all over the world and how the sustainable society, city and architecture will be realized is the major subject of common concern.

 Asia is not one. Asia has a variety of regions. Many countries in Asia advocate Unity in diversity as a national slogan. How we find the principles that coordinate the plural elements will be our major point to emphasize. We would like to discuss the future of Asian cities and architecture in 21st century and to find the direction which we follow.

 Architectural Institute of Japan held The 1st International Symposium on Architectural Interchange in Asia in 1986. We reached to the recognition that we should continue to hold this kind of international exchange program as a result of our interchanges in several levels during this decade after 1st symposium. AIJ initiates the program that had be accepted by Architectural Institute of China and Korea very soon. This symposium will be held by three co-host organization.

  Kobe city has been selected as a venue for the symposium. Great Hanshin Earthquake was a miserable disaster. Please visit the site that are on the process of reconstruction and discuss the matter of issues. We still have the many problems to solve. We hope to hold the next symposium in Beijing or Seoul.

 Major subject of the symposium  is titled "Asian Architecture in 21st Century". We invite Tadao Ando and Lucien Kroll as keynote speakers. We have prepared 6 Sub theme. 「建築史の誕生」「建築士制度と建築教育」「耐震と構造技術」「震災復興とまちづくり」「歴史的環境と保存」「伝統的建築技術と環境共生建築」. We hope many participants will attend our symposium and play an important role to our inter exchange program.

2024年10月5日土曜日

不可避の構造改革 これからの建築に期待すること, 建築画報,20060618

 不可避の構造改革 これからの建築に期待すること

布野修司

 

 あんまり進歩がないのかもしれない。二〇年ほど前に『戦後建築論ノート』(一九八一年)を書いて、それなりに建築の未来を展望したのだけれど、あまり付け加えることがない。丁度第二次オイルショックの後で、高度成長期が終息した閉塞感はバブルが弾けた今日とよく似ていた。「町並みや歴史的環境の保存の問題」、「地域の生態系に基づく建築のあり方」など既に議論している。

 五年ほど前にその改訂版『戦後建築の終焉---世紀末建築論ノート』(一九九五年)を出したけれど、主張の軸は変わっていない。バブルの残り火がまだ燃えさかっていたけれど、阪神淡路大震災によって「日本の近代建築」、「戦後建築」の課題が全て出尽くしたという思いがあった。そこで、八〇年代以降の建築の動向についての考察を加えるなかで、これからは個々の建築設計においても「地球のデザイン」が問われることを論じた。何も先見性を誇ろうというわけではない。近代建築批判の課題はそう簡単ではない、ということである。

 とは言え、二〇年の時の流れは重い。この間、冷戦の終焉という世界史的な大転換も経験した。求められているのは現実的諸条件の中での具体的指針であろう。「フローからストックへ」「環境共生建築」「サステイナブル・デザイン」・・・耳障りのいい言葉が飛び交うけれど、ストック重視となるとすると、日本の建築界の再編成、構造改革は不可避である。建築の寿命が倍に延びれば、あるいは先進諸国並に建設投資が半分になるとすれば、建設産業従事者は二分の一になってもおかしくない。余剰の部門は、維持管理部門へ、建築に関わるIT部門へ、そしてまちづくり部門へ、大きくシフトしていくことになるだろう。

 

    建築画報 2000618

2024年10月4日金曜日

「タウンアーキテクト」と組織事務所,日韓建設工業新聞,20000618

 「タウンアーキテクト」と組織事務所,日韓建設工業新聞,20000618

 

「タウンアーキテクト」と組織事務所

都市・街づくり・建築設計と日建設計

布野修司

 

 つい先頃、『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社)という本を上梓した。日本におけるタウンアーキテクトの可能性について出来るだけ具体的に論じたつもりである。帯に曰くこうだ。

 「迷走する建築家の生き残る道を指す・・・・「建築家」はその根拠を「地域」との関係に求め、「裸の建築家」から「町の建築家」への変革を迫られている」。

  ターゲットは日本の建築士九〇万人。発想のきっかけは、地域の景観行政。地域の町並み景観の形成のために「建築家」が果たすべき役割、そのための仕組みについて議論した。建築界が否応なく構造改革を迫られる中で、仮に「タウンアーキテクト」と呼ぶまちづくりに関わる新たな職能が生き残りを賭けて必要であるという分析も基本にある。

 ただ拙著に決定的に抜けているのが組織事務所の役割である。「全ての「建築家」が「タウンアーキテクト」であれと言っているのではない。国境を超えて活躍する建築家は必要であるし、民間の仕事はまた別である」と書いて、考察を省いた。正直言って、現実には地域における仕事の配分をめぐるややこしい問題がある。

 日建設計を頂点とする組織事務所のあり方について問われるたびに言うのは「個人の顔が見たい」「地域の固有性をどう考えるか」ということだ。その組織力、技術力への信頼は大きいけれど、個々の仕事を担うのは特定のチームである。困るのは、公共建築のコンペの設計者選定の場面だ。指名コンペへの参加者の選定、あるいはプロポーザルコンペの場合、具体的な場所に対する具体的な提案より、組織としての実績が重視される。一般に様々な評価項目毎の点数が比較されるけれど、点数で判断するなら世界一の組織力を誇る日建設計が全ての仕事を奪ってもおかしくない。担当チームの実績を比べるべきだ、地域との関わりを重視すべきだ、というのが僕の基本的主張である。はっきり言って、全ての仕事にエースを投入できるわけではない。地域によって、組織事務所内部で設計チームが勝手に選別されているとしたら地域が可哀相だ、という思いがある。地域の景観には十分配慮しましたと言いながら、地方都市には不似合いな、都会ならどこにもありそうな超高層ビルを設計するといった事例は少なくないのである。

 タウンアーキエクトは地域の住人である必要はないけれど、地域と持続的な関係をもつのが原則である。組織事務所の組織原理と地域をベースとするタウンアーキテクトの原理は両立しうるのか。まちづくりには手間暇がかかる。ワークショップ方式によるプログラムの設定から、維持管理まで、組織事務所は果たして余裕をもって人員を割けるのか。そもそもまちづくりはNPOのような組織の方が向いているのではないか。自治体の営繕部局との関係はどうなるのか。それぞれの役割分担、棲み分けが楽観的な答えなのだろうけれど、果たしてどうか。

               日刊建設工業新聞社                2000618



 

2024年10月3日木曜日

特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都「戦争と平和を問い直す」「建築と戦争 」建築とは戦うことである,キャンパスプラザ京都,2012年6月1日

特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都

キャンパスプラザ京都 20120601

戦争と平和を問い直す 
建築と戦争」  建築とは戦うことである

 布野修司(滋賀県立大学)

建築計画学・地域生活空間計画学・環境設計・建築批評

 

[1] 戦後建築論ノート,相模書房,1981615

[2] スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

[3] 住宅戦争,彰国社,19891210

[4] カンポンの世界,パルコ出版,1991725

[5] 戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

[6] 住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,19971025

[7] 廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510 [8] 都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

[9] 国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

[10] 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310

[11] 曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

12]建築少年たちの夢 現代建築水滸伝、彰国社、2011610

o  布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,20038

o  布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,[植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017,監訳書

o  布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,20052

o  布野修司,カンポンの世界,パルコ出版,19917

o  布野修司,曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

o  Shuji Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

o  布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,20085

o  布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、20105


o   

建築と戦争
国家・様式・テクノロジー
日本建築をめぐるプロブレマティーク

 

1 戦争と建築:帝冠併合様式

 近代建築理念の受容定着

 戦争(戦時ファシズム体制)と植民地

2 丹下健三と広島平和記念館

3 白井晟一と原爆堂計画

 

関連年表

       1928 日本インターナショナル建築会結成

       1928 神奈川県庁舎竣工

       1929     名古屋市庁舎コンペ

       1930     明治製菓本郷店コンペ

       1931     新興建築家連盟結成即解体:東京帝室博物館コンペ

       1932     第一生命保険相互会社本館コンペ:東京工業大学水力実験室 岡村蚊象「新興建築家の実践とは」

       1933     名古屋市庁舎竣工 京都市立美術館竣工:日本青年建築家連盟結成 デザム

       1934     木村産業研究所(前川國男) バウハウス閉鎖 B.タウト来日:軍人会館竣工 築地本願寺 明治生命館:東京市庁舎コンペ:ひのもと会館コンペ

       1935     土浦亀城邸 そごう百貨店(村野藤吾):  パリ万博日本館コンペ

       1936     国会議事堂竣工    2.26事件 落水荘:日本工作文化連盟発足

       1937     東京帝室博物館竣工 静岡県庁舎竣工:パリ万博 日本館(坂倉準三):大連市公会堂コンペ:日支事変

       1938     愛知県庁舎竣工 鉄鋼工作物築造禁止 国家総動員法

       1939     忠霊塔コンペ 若狭亭(堀口捨己) 岸記念体育会館

       1940     建築資材統制:1941     木材統制規制

       1942     大東亜建設記念営造計画コンペ

       1943     在盤石日本文化会館コンペ 惜檪荘(吉田五十八)

       1944     建築雑誌休刊 浜口隆一「日本国民建築様式の問題」

       1945     敗戦

       1946     プレモス74: 1947     NAU結成 『ヒューマニズムの建築』『これからのすまい』

 

虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築

布野修司

プロローグ

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。・・・・

Ⅰ 白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。・・・

公認の儀式

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。・・・・

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった。・・・

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。・・・

Ⅱ 建築の前夜

白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。・・・・

建築・哲学・革命

白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。・・・

スタイルとしての近代

白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930103日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた。・・・

「新興建築家」の「悪夢」

前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」は、山口文象19021978の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。・・・

建築修行

1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という。レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」と答えている。・・・・

Ⅲ 建築の精神 

精一杯のソーシャリズム

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』195212月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』19538月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。・・・

原爆堂の謎

白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい。・・・

伝統・民衆・創造:縄文的なるもの

 建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。・・・

Ⅳ 建築の根源

白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。・・・

木と石

 「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。・・・・

アジア

 西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」・・・

デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること

 おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。・・・・

エピローグ

白井晟一が亡くなったのは、19831121日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986626日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化19865月)という文章を書いた。・・・・

 

 番外:震災復興・地域再生とコミュニティ・アーキテクト

日本建築学会・副会長

復旧復興支援部会 部会長 布野修司(滋賀県立大学)

大災害は、それが襲った社会、地域の拠って立つ基盤、社会経済政治文化の構造を露にする。東日本大震災が露にしたのは、エネルギー、資源、人材など、日本が如何に東北地方に依存してきたかということであり、少子高齢化がいきつく地域社会の近未来の姿である。復旧復興支援は、日本全体の問題である。また、東北各地の復興を考えることは、そのまま日本各地の地域社会の再生を考えることである。

 

東北大学大学院経済学研究科 『東日本大震災復興研究Ⅰ』

河北新報出版センター 20120317





















2024年10月2日水曜日

環境・建築デザイン専攻のこの一年、環境・建築デザイン専攻、滋賀県立大学環境科学部、2008年3月

 環境・建築デザイン専攻のこの一年

 

 

布野修司

環境・建築デザイン専攻・専攻主任

 

 


2007年は、学生たちの活躍が続いた年でした。石野啓太君(4回生)「マチニワ」が日本建築家協会東海支部設計競技で金賞を受賞、日本建築学会Student Summer Seminar 2007で、奥田早恵さん(4回生)「hanasaku」が優秀賞、牧川雄介君(3回生)「しえる」が遠藤精一・福島加津也賞、橋本知佳さん(3回生)「木漏日」が小西泰孝・福島加津也賞を受賞しました。さらに日本文化デザイン会議(神戸大会)の設計競技「日本、一部、沈没」で、岡崎まり、仲濱春洋、中貴志(以上M1)、中村喜裕(4回生)のチームの「Parasitic Town」が最終8作品に残り、さらに公開審査に臨んだ結果、堂々の優秀賞(準優賞)を獲得しました。

学生たちの自主的活動組織」である「談話室」の活動では、山本理顕(518日)、馬場正尊(712日)、佐藤淳(1211日)、中村好文(1214日)と一線の建築家を招いて活発な議論が展開されました。また、昨年度の活動をまとめた『雑口罵乱』創刊号「環境・地域性」が出版されました。滋賀県立大学の「環境建築デザイン学科」の活動を広く社会に発信していく雑誌として、また、上下をつなぐメディアとして育って欲しいと思います。今年からA-Cupという全国規模の建築系のサッカー大会に本格的参加(6月)、幅広い交流関係を構築しつつあります。

人事としては、山本直彦講師が奈良女子大学准教授として41日付で転任になられました。2年という短い赴任でしたが、諸般の事情から送り出すことになりました。今後の活躍を期待したいと思います。入れ替わる形ですが、陶器教授の昇任に伴う准教授として高田豊文(三重大助教授)が着任されました。虎姫高校の出身で、願ってもない人材として、故郷での大いに期待したいと思います。最適設計の構造力学の理論派でありながら、フラードームを手作りでつくる演習など建築構造教育に積極的な素晴らしい先生です。地域防災についても三重県での実績を踏まえて滋賀県での活躍が楽しみです。

開学以来13年目を迎えた「環境・建築デザイン専攻」は、20084月から「環境建築デザイン学科」として独立することになります。2007年の前半は、文部科学省への届け出、また、国土交通省の建築士資格の継続申請で追われることになりました。

「耐震偽装問題」以降、建築界は大揺れです。大学もそうした趨勢と無縁ではありません。建築士法改正で、受験資格について大きな変化が起こりつつあります。日本建築学会あげておおわらわですが、国土交通省の改編の動きは、事態の改善には逆行と言わざるを得ません。国土交通省の住宅局の建築指導課と直接議論しつつありますが、事態は容易ではない状況にあります。とりわけ、建築士の受験資格、大学院の実務実績の問題は大学にとって深刻です。しかし、滋賀県立大学の環境建築デザイン教育は揺るぎないものとして、確固として進んでいきたいと考えています。

独立法人(公立大学法人)化がスタートして2年目、様々な問題を抱えながらも、新たな模索が続いています。ひとつの柱は地域貢献です。文部科学省の「地域再生人材創出拠点の形成」プログラム(科学技術振興調整費)は軌道に乗りました。奥貫隆教授を中心とするその試みは、次のステップをにらんだ動きが必要となりつつあります。「霞が関」の方針に翻弄される研究教育プログラムですが、「近江楽座」(現代GP)から「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」地域再生学座に至る歩みは、確実に滋賀県立大学の主軸に位置づけられていると思います。奥貫先生が次期環境科学部長に選出されたのは、大きな流れだと思います。

もうひとつ環境科学の研究ベースの柱が期待されます。環境建築デザイン学科としても、環境科学部としての先進的な研究プロジェクトを目指したいと思います。「環境建築」の具体的なモデルを具体化することは大きな課題となっています。松岡拓公雄教授を中心とする学生たちを含んだ設計チームは精力的に工学部新館の実施計画にとり組んでいます。

「大学全入時代を迎え、また、昨今の「建設不信」の風潮の中、環境・建築デザイン専攻の応募者の減少が心配されます。充実した教育研究を展開することが基本ですが、対外的なアピール、高大連携など考慮する必要があります。議論を進めていかなければと考えております。」と昨年書きました。事態は変わりません。環境建築デザインの分野は、しかし、これからますます必要とされる実に魅力的な分野であることに変わりはありません。確実な努力を続けていきたいと考えています。


2024年10月1日火曜日

「軽く」なっていく建築に未来はあるか,居酒屋ジャーナル3,建築ジャーナル,200609

 「軽く」なっていく建築に未来はあるか

 

21世紀の建築は、薄く軽くなっていく。かつてポストモダニズムが強調した個性の表出ではなく、実体感のない建築を打ち出す建築家がもてはやされいる。そんな時代に、建築家が本当につくるべきものは何かを、関西在住の建築家と識者4人が、批評精神旺盛に語る。

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――今、建築家の仕事は減少しています。そんな中でも、建築家が手がけていくべき建築はあるのでしょうか。

 

「バラック」に糧がある

 

布野 1970年代のオイルショック後も不景気は大変でで、若い建築家には現在のように住宅設計の仕事ぐらいしかなかった。私が編集長ということになった『群居』では、住宅が中心だった。今でも建築家はもっと本気で住宅に取り組むべきだと思う。

永田 布野さんの場合は、建築家が実際に設計して分かるところを、設計前に、その建築の位置付けなり評価が読めてしまう。だからつくらず、批評活動しているのとちがうかな。

布野 住宅5棟ぐらい手がけたし、やる気はなくはなかったけど、俺よりあいつの方がうまい、というのが分かっちゃうんだよね。

永田 布野さんの若い頃の著作の中で、「家はウサギ小屋でいいじゃないか」と批評していた。ウサギ小屋の中に、未来の建築の可能性を打ち出すものがあるんやと。そして誰よりも先駆けてアジア建築に興味を持ってきちんと論じたことに、私は惹かれるわけ。

布野 何故か、廃墟とバラックに惹かれる。

永田 私も昔からそうです。大阪・

西成のドヤ街を電車で通りかかるとき、すごくいいのよ。バラックのような建物に屋根が1枚しゅっと降り、その下に花がきれいに植えてある。そういう混沌とした世界の中に、私たち建築家がイメージしてものをつくっていく上での糧がある。こういう方向で建築家が考えないから、東京の汐溜から品川に建つような、きれいなだけでつまらないビル群が出来ていく。いくらカーテンウォールのプロポーションを上手く収めても、力のある建築にならない。

 私らは、布野さんが論じる言葉の中のものを、日々、一生懸命図面に描いて形にしようとしている。

――布野さんは、理想とする住まいなり、都市のイメージがあるわけですか。

布野 はっきりあったら、建築家になってますよ。建築をつくるというのは、基本的に暴力ですよ。下手すると、地球を傷つけて、粗大ゴミをつくるのと同じですよ。

 建築の道に進んだ当初から、そのプレッシャーを感じていました。私は東大の吉武泰水先生の研究室に入りましが、入ったときの問題が東大闘争の発火点になった東大医学部の北病棟問題です。吉武先生がツー・フロア一看護単位というシステムを提案したんです。一階にひとつづナースステーションを設けるのが普通だったけど、二回にひとつでいい、という提案。そのとき看護婦さんたちが「労働強化だ」って怒った。合理的な設計として提案したんだけど、・・・吉武先生は、それを真剣に悩んで、自分のプランを全部説明して、一回生の私に「何か提案はあるか」と訊ねられた。先入観のない意見を求めたのでしょう。えらい先生だと思いました。

松隈 布野さんや永田さんの世代は、歴史の証人ですから。1970年安保のときに原広司がどうしたとか、個々の建築家の考えや動きを、若い人に向けてしゃべってほしいですよ。

 

社会性から外れたポストモダン

 

――建築家の力は弱くなってきて、今後どう生きるべきかを問いなおすべき、というのは前回、横内さんが問題提起されました。建築を志したときは、やはり希望を持っていたわけでしょう。

横内 私たちの世代は、松隈さんも同じですが、学園紛争も収まった1970年前半に大学に入学しました。だから先輩より、素直に建築を学ぺた気がします。ポストモダニズムがブームの頃で、刺激的な小住宅、都市住宅がつくり始められた。特にアメリカの建築が華々しくて、学生の私はそれに憧れました。卒業後、アメリカに留学しましたが、その地の先端的なポストモダニズムの建築を見てがっかりしたんです。ロバート・ベンチュリーやチャールズ・ムーアにしても、張りぼてみたいで、これは建築ではないと実感しました。帰国して日本のポストモダニズム建築を見ても、同様に表層的でした。モダニズムが持っていた普遍性や客観性が、ポストモダンの時代になって急に個人的な言語になり、社会から外れていったように思えたのです。そこで信用できる建築家は前川國男しかいないと事務所の門を叩き、5年間勤務しました。

 その後、たまたま妻の実家がある京都の京都芸術短期大学に講師として赴任したとき、あろうことかポストモダニストの権化のような渡辺豊和が上司になった。関西はすごいところだと思いました。安藤忠雄もそうですが、彼らの作家意識は強く、尋常じゃない。そのスピリットは永田さんにもありますよ。

永田 そうかな。

――上司と部下の目指すものが違ったわけですよね。

横内 教育の場でしたから、問題ありませんでした。それより社会の流れが組織的なところに向かう中で、渡辺さんの自分を貫く生き方には学ぶことが多かったですよ。「作家」の覚悟をひしひしと感じました。

永田 関西には作家がわずかしかいないからね。

横内 わずかしかいない人がすごい。

布野 その点、東京は東京芸術大学にしても人材を出していますよ。関西ももっとがんばらないと。横内さんも大学で自分の2世を育ててほしい。松隈さんにも言いたい。前川國男の展覧会が全国巡回し、巨匠の仕事を世の中に再認識させた功績は素晴らしい。しかし、これからは松隈自身のオリジナリティを出した仕事に期待したい。

 

「軽く」に向かう建築に疑問

 

――建築家として、つくりたいもの、つくるべきだと思うものはありますか。

横内 それは分かりませんが、言葉で表現できないからつくっています。私たちの世代は、ポストモダンに対する嫌悪感があります。そこでモダニズムを見直したのはいいが、、ネオモダンのようなものがスタイルだけで出てきている。一方で作家性を否定する。例えば隈研吾の「負ける建築」とか、作家性を否定することで逆に作家性を打ち出すところがある。だから、建築がどんどんと薄く軽く、実体あるものから単なる情報になっていくところに収斂しているような気がします。

布野 アンチポストモダンがネオモダニズムという流れになっている。私に言わせると「バラック」ですよ。山本理顕の仕事は、評価していますが、きれいな「バラック」ですね。伊東豊雄さんは、もう少し、先端を走りたい。

横内 伊東豊雄の建築はそれでも実体感があります。せんだいメディアテークだってやはりごつい。

布野 彼は、身について、ごついのは嫌いですよ。。しかし、建築と成立させるために、ごつさも許容する歳になった。。妹島和世、西沢立衛になると、ピュアにピュアに軽く軽くしようとしてきた。

横内 あの世代はつくる規模が小さいというのもある。

布野 昨年、伊東豊雄とは一緒に飲みました。若き日の彼と、あまり印象は変わらなかった。彼は今65歳で、自在に仕事をしている。安藤忠雄はもとより分かりやすく、「緑が大事」「水が大事」と一般受けが巧みだが、その路線は飽きられるか、スタンダードになるしかない。その点、伊東豊雄はがんばってると思う。コンピューター技術を駆使し、表現の最先端を追求している。制度的に勝負しているのは山本理顕だと思う。私の立場と近いところにいる。そういうことと一切関係なくエコロジー派で仕事をしているのは藤森照信。今、私が日本の建築家で一目置くのは、伊東豊雄、山本理顕、藤森照信の3人ぐらいです(次号に続く)。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1

 

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