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2026年2月1日日曜日

最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010

 最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010

最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生

 

                      布野修司

 

 「建築メディアのあり方について」というのが編集部の依頼である。『fin』から『traverse』まで、ガリ版雑誌から三万数千部の読者がいる日本建築学会の『建築雑誌』まで、振り返ってみると、随分と「雑誌」の発行に関わってきた。何を考えて「雑誌」メディアに拘って来たのか、自らの軌跡を振り返ってみたい。『雑口罵乱』という建築メディアについて考える材料は提供できると思う。そもそも「批評としての建築」あるいは「エディターとしての建築家」をめざしてきたような気がしないでもない。

 

 『fin』―終わりの始まり―

出雲(島根県)から上京し,大学に入学したのは一九六八年四月のことである。『建築少年たちの夢』(彰国社、2011)に書いたけれど、その年,パリで五月革命が起こり,六月,日大に続いて東大も全学ストライキに突入,一〇・二一国際反戦デーの示威行動に「新宿騒乱罪」が適用,・・・そして,翌年一月の安田講堂陥落へ,激動の一年であった。その後も全共闘運動が日本中に広がりをみせる騒然とした中で学生時代を過ごした。

しかし、学生生活が困難を極めたということは全くない。入学して二か月もしないうちに全学ストライキになったー学生がストライキすることがあるのだー。時間を持て余して、毎日映画をみて過ごした。年間200本以上、それが大学院時代にかけて数年続いたと思う。いつのまにか一端(いっぱし)の「映画少年」になっていた。

渋谷、新宿、池袋、時として銀座にも、名画座、文芸座といった小さな映画館があって、150円とか200円だった。テレビが寮(目黒区駒場の民間の寮で、向かいの部屋には、今や著名な論客と知られる佐伯啓思がいた)になかったということもあるけれど、映画に力があった時代だ。DVDを借りてきて好きな映画をみる、ダウンロードした映画を電車の中で見るなどという時代など夢にも思いもしない。土曜日になるとオールナイトでヤクザ映画を一気に5本見る。高倉健さん、菅原文太がヒーローの時代で、山場が来ると歓声が上がって拍手が映画館を包んだ。夜が明けて公園で寝ていると決まって職務質問を受ける、そんな日々だった。

魅かれたのは、J.L.ゴダール(『勝手にしやがれ』『女は女である』『気狂いピエロ』『アルファヴィル』・・・)に大島渚(『無理心中日本の夏』『絞死刑』『 帰って来たヨッパライ』『新宿泥棒日記』『少年』『東京戦争戦後秘話』『儀式』・・・)だ。もちろん、ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた欧米の監督たちや日本のアヴァンギャルドと呼ばれた監督たちの作品も軒並み見た。映画館を梯子したのである。

自然に映画を見てあれこれ議論するようになり、『映画批評』という雑誌を手にするようになった。こむつかしい議論になんとなく魅かれ、ついに趣味が昂じて『fin』というガリ版刷りの雑誌(というにはあまりにも貧相なリーフレット)を下宿(杉並区下高井戸の賄付の間借である。そういう時代もあったのだ)の友人と一緒に出した。現物は、ビラやノートやろくでもないものどもと一緒に段ボール箱に詰めて何処かに置いてあると思うけど、誰に配ったのか覚えていない。

僕の「雑誌」への拘りは『fin』に始まる。

 

TAU』・・・雛芥子の頃

建築学科に進学することになったーその理由についてはどっかに書いた気もするけれど、ここでは省略しようー。しかし、教室で建築を勉強した記憶はない。図面を引いたり、測量したり、現場で学んだことのほうが多いと思う。「竹の会所」や「木興プロジェクト」の諸君が被災地支援に出かけて行って、教室で学ぶ何倍ものことを学ぶのと一緒である。

当時,僕ら(杉本俊多,千葉政継,戸部栄一,村松克己,久米大二郎,三宅理一,川端直志,布野修司・・・)は「雛芥子」という集団名を名乗って活動していたのであるが,三里塚の鉄塔のガセットプレートの原寸図を描いたり,民家を移築したり,塹壕の測量をしたり,援農(農作業の手伝い)をしたりする一方で,「ドイツ表現主義映画」[1]の映画会を連続開催したり,「黒テント」[2]の芝居のプロデュースをしたり・・・僕の学生時代も結構忙しかった。

ドイツ表現主義の映画会をしたり、芝居のプロデュースをしたりしたのは明らかに「映画少年」の関心そのままである。映画を見まくったのが僕の何かを変えたように思う。いつのまにか「演劇少年」にもなっていた。布野修司建築論集Ⅱは『都市と劇場』(彰国社、1998年)と題する。その中に収めた「祭師たちの都市戦略」「燃え上がる都市―未来派の叛乱」という原稿は『同時代演劇』という雑誌に書いたものである。その後も劇場をめぐっては随分書いてきたー建築史は美術史の枠の中で書かれるのであるが、演劇史の範疇としても書かれるべきであるというのが僕の持論となったー。この『同時代演劇』の版型は、『群居』もそうで、『雑口罵乱』とも同じであるが、僕の雑誌メディアの原型でもある。

この頃の「雛芥子」の活動を記したのが,故坂手建剛編集長が創刊した『TAU[3](商店建築社)である(「<柩欠季>のための覚書」一九七三年一月)。続けて,「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿[4]を書いたのが僕の建築ジャーナリズム・デビュー?である。そこで,僕らは「遺留品研究所」(真壁智治,大竹誠,・・)「コンペイトウ」(井出建,松山巌,元倉真琴・・・)など兄貴分と出会った。

メディアとは、人と人を媒介する場である。

 

『建築文化』「近代の呪縛に放て」シリーズ

学生時代に,「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(一九七五~七七年)のコア・スタッフに招かれたのが運命であった。伊東豊雄をトップに,長尾重武[5],富永譲[6],北原理雄[7],八束はじめ[8],布野修司というのがメンバーで,僕は最年少であった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[9]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていたのだと思う。この企画で,渡辺豊和,毛綱モン太(毅曠),大野勝彦,石山修武,安藤忠雄といった建築家たちに次々出会った。この場で考えたことは,建築を考える原点であり続けている。「近代の呪縛」をどう解き放つか,近代建築をどう批判的に乗り越えるかがシリーズのテーマであったが,まずは直近の過去,一九六〇年代の建築のあり方をどう乗り越えるか,これが問題だ,と僕は思った。そして建築の一九六〇年代を問うことが僕の出発点となった。連載の最後に「六〇年代の喪歌」(『建築文化』,一九七七年一〇月)という文章を書き,そして,この文章を冒頭に置いて,『戦後建築論ノート』(相模書房)[10]を書いた。『建築文化』誌は既にないが、このころの『建築文化』は、真摯な議論の場を用意するという意味で、実に生き生きとしたメディアであったと思う。

『雑口罵乱』も、次々と若手建築家を招待して議論を展開してきている。その議論の中に、未来の建築を考える無数のヒントがあることは間違いない。断言していい。

 

『同時代建築通信』・・・小さなメディアの必要

「近代の呪縛に放て」シリーズに参加するのと並行して、宮内康さん、堀川勉先生とともに「同時代建築研究会」(昭和建築研究会)を組織することになる。

宮内康(本名は、康夫)は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。康さんについては、『怨恨のユートピア―宮内康の居る場所』(「怨恨のユートピア」刊行委員会、れんが書房新社、2000年)に譲りたい。

同時代建築研究会が出したのが『同時代建築通信』である。第一号は1983323日付である。ワープロ雑誌であるが、ロゴは、松山巖さんによる。第一号の冒頭に宮内康は「自前のメディアについて」と題して以下のように書く。

「私たち研究会の活動の主旨は、テーマを狭く建築の領域に限らず、出来るだけ多くの領域に、さしあたって「建築」を足がかりとして広げ、そうすることによって、私達の想像力をより豊かなものにし、思考をより予見的なものにしようとすることにある。テーマを、想像力を思い切って広げよう。・・・・」

建築メディアについて、は考えているのであるが、「建築」が問題なのではない、という認識がここにある。さしあたって「建築」を足がかりにして、・・・「何をするのか」というのは忘れないでほしいと思う。何をやっていくにせよ、何で「建築」なの!?ということは常に問われることになる。『雑口罵乱』がすごいのは、雑口罵乱になんでも議論しようということだと思う。

もうひとつ、議論したことを記録する、というのが原点である、ということがある。同時代建築研究会は、『同時代通信』をもとに二冊の本『悲喜劇・1930年代の建築と文化』(同時代研究会編,現代企画室, 1981年)と『現代建築-ポスト・モダニズムを超えて』(宮内康・布野修司編,新曜社,1993年)を出した。活字にするという行為の中で議論が深まるのである。

「同時代建築研究会」の活動と並行して、東洋大学に「鯨の会」が結成された。研究室の卒業生を含めた議論の場である「鯨の会」は、「談話室」と同じといっていいが、もう少し開かれていたかもしれない。その活動を記録するメディアとして創刊されたのが『鯨通信』である。

その創刊号に次のように書いている。

「・・・研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会が・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、・・・」

やはり場の必要性があってのメディアなのである。

小さなメディアは必要である。しかし、ツィッターの世界に記録性と議論を深める契機があるかどうか、いささか疑問に思っている。ずいぶん、テープ起こしをしたけれど、ものすごく勉強になる。『雑口罵乱』の編集そのもの、議論を紙に定着する過程に、そしてそれを読者に届ける過程に大きな意義がある。

 

『群居』―ハウジング計画ユニオンHPU

 『戦後建築論ノート』を書いた後、ハウジング計画ユニオンHPUというグループに参加することになった。そして『群居』という雑誌を創刊する。メンバーは、大野勝彦を中心に石山修武、渡辺豊和、布野修司が設立し、野辺公一、高島直之、松村秀一らが加わった。『群居』は、198212月に『創刊準備号』、翌年4月に創刊号「特集・商品としての住居」を出して、以降18年間、同人たちの時代の経験と思索を書き留めた。200010月に50号「特集・21世紀の遺言」、そして12月号に『終刊特別号』を出して終止符を打った。

僕は編集長であったけれど、全てをリードしたのは「セキスイハイムM1」で知られる大野勝彦である。確認しておくべきは、『群居』はメディアであって、あくまで「実践」が先であった。HPU(ハウジング計画ユニオン)の結成が先であって、『群居』の創刊が後なのである。

『群居』の初心は公式には創刊宣言[11]に示されている。そして、共有されていたのは小野次郎の「住み手の要求の自己解体をこそー住宅の街路化への提案ー」[1]である。また、石山修武+大野勝彦+布野修司+渡辺豊和の座談会「箱・家・群居―戦後家体験と建築家―」(創刊準備号)「消費社会の神話と住イメージの商品化」(創刊号)「セルフビルドの可能性と限界」(第二号、1983年)「職人幻想と建築家」(第三号、1983年)に生の形で示されている。

建築家の仕事、表現の場が住宅の設計という小さい回路に縮小していくなかで、住宅の生産・流通・消費の全過程を対象化し、具体的に活動を展開すべきだ、というのが共有された方針であった。戦後まもなく、住宅の問題は全ての建築家にとって大きなテーマであった。その初心に帰って、戦後の日本の建築家の歩みを総括したいという思いがあった。

『群居』が取り上げ、議論し、記録したテーマは多岐にわたる。住宅=まちづくりを主テーマに、住宅メーカー、職人、ビルダー、ディベロッパー、プランナー、建築家のそれぞれのアプローチを繰り返し取り上げるなかで、新たな職能のイメージとして浮かび上がったのが、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」である。

『雑口罵乱』に集う諸君が何を目指すのか、それが問題である。

20年にも及ぶ『群居』の刊行において、実に幅広いテーマを扱った[12]。しかし、建築の表現の問題については充分扱うことができなかったと思う。そういう思いを強く持ち続けていた渡辺豊和さんに引き摺られるように「建築フォーラム(AF)」を結成して、『建築思潮』[13]を創刊する。これは、僕が関西に移住した時期に重なり、手伝った。編集の神様、平良敬一[14]先生の「建築思潮研究所」に出かけて、「建築思潮」という名称の使用を許可してもらったのを思い出す。『建築思潮』には、今日活躍する多くの学生たちの参加を得た。バックナンバーを探してみてみて欲しい。

Traverse

 『群居』の終刊を決めて、もの足りなく思ったのだと思う。京都大学の先生たちと『traverse―新建築学研究』を創刊した。アニュアルでこれは現在も続いている。13号の原稿を送ったばかりである。創刊の言葉は以下のようである。

 「京都大学「建築系教室」を中心とするグループを母胎として、その多彩な活動を支え、表現するメディアとして『Traverse---新建築学研究』を創刊します。『新建築学研究』を唱うのは、言うまでもなく、かつての『建築学研究』の伝統を引き継ぎたいという思いを込めてのことです。『建築学研究』は、1927(昭和2)年5月に創刊され、形態を変えながらも1944(昭和19)年の129号まで出されます。そして、戦後1946(昭和21)年に復刊されて、1950(昭和25)年156号まで発行されます。数々の優れた論考が掲載され、京都大学建築学教室の草創期より、その核として、極めて大きな役割を担ってきました。この新しいメディアも、21世紀へ向けて、京都大学「建築系教室」の活動の核となることが期待されます。

 今日、研究成果の発表の場は、『建築学研究』のころとは比較にならない程多く、新たなメディアの創刊は屋上屋を重ねるように思えるかも知れません。しかし、発表の場が分散化することによって、京都大学「建築系教室」の全体像が見失われてきているという危惧も増しつつあります。創刊の動機のひとつには、お互いの仕事を相互にコミュニケートし、相互に批判し会う場を京都大学「建築系教室」としてもちたいという願いがあります。

 もうひとつの動機として、この間の国際化のめまぐるしい進展があります。外国からの留学生も増え、諸外国の大学、研究所から学術交流を求められる機会も増えつつあります。京都大学「建築系教室」の活動成果を全体として表現することが必要とされます。自由に相互批判できる場をもち、世界へ発信するメディアをもつことによって、広く開かれた場での評価を高めることへつながると思います。

 今日のメディアを支える技術の発展にはめざましいものがあります。メディアの形態も様々な形を模索したいと考えます。学生たち、若い世代にとっても魅力的な場でありたいと考えます。いずれにせよ、どこからアクセスしても京都大学の「建築系教室」の仕事がくっきり浮かび上がる必要があります。

 「建築学の研究範囲は、総ての学術の進歩に伴ひ、極めて広汎なものとなって来た。その研究題目も微にいり細に渉って、益々広く深くなってきた。」と既に『建築学研究』の創刊の言葉(武田五一)にもあります。領域の拡大と専門分化はさらに進展しているのが今日の状況です。問題は、建築をめぐる大きな議論をする場が失われつつあることです。この新しいメディアは、予め限定された専門分野に囚われず、自由で横断的な議論の場を目指したいと思います。「Traverse」という命名にその素朴な初心が示されています。          2000年4月1日」

 まさに、「traverseという命名にその素朴な初心が示されています」である。『同時代建築通信』についても触れたが、自由で横断的であることが大事だと思う。

 そして、持続性も極めて重要である。これは極めて難しい。『群居』が終刊を余儀なくされたのも、経済的問題を含めた様々な要因が絡んでいる。『traverse』は、12号以降、完全に若い学生諸君の編集体制に移行しつつある。持続性を考えてのことである。

『京都げのむ』―京都コミュニティ・デザイン・リーグ

 

 

 

建築雑誌の終焉?

 宮内嘉久さんが亡くなったのは昨年1213日のことである。その追悼の会が先だって行われた(626日)。「水脈(みお)の会」[2](入之内瑛、橋本功、藤原千春、永田祐三、小柳津醇、有働伸也、・・・)の呼びかけで、大谷幸夫、内田祥哉などの大先生をはじめとする建築家、平良敬一、田尻裕彦などの編集者、写真家などが集った。

宮内嘉久さんと言えば、一時期顧問を務められていた本誌とも縁が深い。新日本建築家連盟(NAU)の編集部から『新建築』へ、『新建築』問題で退職自立(宮内嘉久編集事務所)、『建築年鑑』、建築ジャーナリズム研究所閉鎖、個人誌『廃墟から』、『風声』『燎火』・・・戦後建築ジャーナリズムをリードしてきた第一人者である。『廃墟から』『少数派建築論』『建築ジャーナリズム無頼』など著書も多い。

宮内嘉久さんとの苦い思い出については、本連載13、山本理顕の節(「制度」と戦う建築家)で触れた。『風声』『燎』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版する編集委員会で僕とは意見が合わず、決裂した経緯がある。その後、組織されたのが「水脈の会」である。宮内嘉久さんとは、「宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会」(2006729日)[3]が最後になった。

宮内嘉久さんの建築ジャーナリストとしての軌跡は、「自立メディア」を標榜しながら、同人誌へ、個人誌へ閉じていく過程であった。「開かれたメディア」を目指すべきだ、と「自立メディア幻想の彼方へ」[4]という文章を書いたのは、宮内嘉久さんと決裂した直後である。宮内嘉久さんは基本的に編集者というより、建築の根源的あり方に拘る批評家の資質を持ち続けた人である。

『群居』を創刊することになった背景にこの決裂があったことも既に書いたが、その『群居』も50号出し続けて、力尽きた(20001231日)[5]。僕が『同時代建築通信』(同時代建築研究会)『群居』『建築思潮』(1992-97)『Traverse』(2000年創刊―、201011号-)などメディアに拘わり続けてきたのは、おそらく「建築」を断念したこと、批評家あるいは研究者として生きようとしたー生きることを選び取らされたーことと関係があると思う。『建築雑誌』の編集に携われたこと[6]はラッキーであった。

しかし、それにしても「建築雑誌」の時代は確実に終焉へ向けて衰退して、逝きつつあるようにみえる。『都市住宅』の廃刊は198612月である。『SD200012月、『建築文化』200412月、『室内』20063月と廃刊が続いた。19945月に創刊された『10+1(INAX)20083月に廃刊となった[7]。本誌のような雑誌は実に貴重な稀有の存在である。

戦後、『国際建築』『新建築』を出発点として『建築知識』『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』『造景』などを次々に創刊してきた名編集者平良さんの『住宅建築』もついに隔月刊に追い込まれた。「建築ジャーナルが次々に廃刊、建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた」(磯崎新)のは日本も海外も同じである。

宮内嘉久さんの追悼の会で最初に挨拶に立ったのは平良敬一さんであった。何人かの大先達のスピーチがあって、こともあろうに最後に予告なく僕にマイクを向けられてうろたえた。その時のことを内藤廣がブログに書いている。

「先週の土曜日、千駄ヶ谷で行われた「宮内嘉久を偲ぶ会」に行って来ました。60年代後半、建築界は全共闘運動に刺激され、又、大阪万博についての是非をめぐって色々な意見が対立し合い、ある意味、活気のある時代でした。・・・今回参加してみて皆さんお元気です。80代~60代までが多かったのですが。最後に若手代表として布野修司さんが指名され、あいさつの中で、このままで終わらないで、紙媒体のメディアで発言していきたいと宣言して、終了しました。」

僕が若手代表というのだからそれ自体何事かを物語っているが、後日、平良さんと「最後の建築雑誌」の創刊をめぐって会った。声をかけたのは、松山巌、宇野求、中谷礼仁、青井哲人である。今のところどうなるか僕自身もわからない。

 

                          (次号へ続く)

 



[1]

[2] 一九六八年に,六月劇場津野海太郎他),自由劇場佐藤信他),発見の会瓜生良介他)が共同で「演劇センター六八」を創設したのが前身。一九七〇年から黒テントによる移動演劇をはじめ,名称を「演劇センター六八/七〇」と改称。唐十郎率いる「状況劇場」の「赤テント」に対して,「黒テント」と呼ばれるようになった。一九七一年「六八/七一黒色テント」と改称。寺山修司の「天井桟敷」などとともに,六〇年代後半~七〇年代前半の「アングラ」(アンダーグラウンド)演劇ブームを代表する存在となった。現在は「劇団黒テント」が正式名称。「雛芥子」は,安田講堂前での黒テント講演「二月とキネマ」(主演:緑魔子,一九七二年五月)をプロデュースした。

[3] Trans Architecture & Urban.商店建築社が発行した建築月刊雑誌だが,四号で廃刊。近代建築の反省に伴って勃発した試行を過剰に展開した。創刊号に掲載の丹下批判「丹下健三と庁舎建築:レトリックの分析」は,七〇年代における丹下評価の先駆けとなった。(中村文美)

[4] 『都市と劇場・・・都市計画という幻想』(布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,一九九八年六月)所収。

[5] 一九四四年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業,東京大学大学院博士課程単位取得満期退学,工学博士(東京大学)。七二~八三年東京大学助手。七七~七八年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。'八三~八八年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授,学長。作品に「国分寺の家」(一九七六年)「天日向家船」(一九九六年)など。著書に『ミケランジェロのローマ』(一九八八年)『ローマ・バロックの劇場都市』(一九九三年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(一九九四年)『ローマイメージの中の永遠の都』(一九九七年)など。詩集に『きみといた朝』(二〇〇〇年)『四季・四時』(二〇〇二年)『愛にかんする季節のソネット』(二〇〇二年)。

[6] 一九四三台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。一九六七年~一九七二菊竹清訓建築設計事務所。一九七二年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(二〇〇三年)。著作に『現代建築 空間と方法』(一九八六年)『近代建築の空間再読』(一九八六年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(二〇〇三年)『現代建築解体新書』(二〇〇七年)など。

[7] 一九四七年横浜生まれ。一九七〇年東京大学工学部都市工学科卒業。一九七七年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了名古屋大学工学部助手,三重大学工学部助教授を経て一九九〇年千葉大学工学部教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七,共著,彰国社,一九八三年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著,学芸出版社,二〇〇七年)など。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン),『都市の景観』(G.カレン)など。

[8] 一九四八年山形県生まれ。一九七九年東京大学都市工学科博士課程中退,磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館,筑波センタービル等)を経て一九八五年UPM(Urban Project Machine)設立。一九八八年熊本アートポリスのディクレクターに就任。芝浦工業大学教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(一九九七年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(二〇〇二年)など。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(一九八二年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(一九八五年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(一九八六年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(一九九三年)『思想としての日本近代建築』(二〇〇五年)など。

[9] 一九三一年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。一九六〇年彰国社入社。『建築文化』編集担当,『施工』創刊編集長を経て,七〇年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで八二年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(二〇〇三年)など。

[10] 『戦後建築の終焉世紀末建築論ノート』(れんが書房新社一九九五年)は『戦後建築論ノート』の増補改訂版である。

[11] 『群居』創刊の目的:雑誌『群居』創刊の目的は、以下のように簡潔に示される。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出きる限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域との経験交流を積極的に取り上げること等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」(『群居』創刊準備号)。

[12] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略198792116号 本と住まいPART11987122717号 ショートケーキハウスの女たち198852918号 列島縦断・住まいの技術198882519号 ハウジング計画の表1988122220号 住居の空間人類学198942621号 町場-小規模生産の可能性198982522号 都市型住宅再考1989121523号 それぞれの住宅戦争199052024号 日本アジア村-外国人労働者の住まい199083025号 増殖する住宅部品1990122526号 「密室」-子供の空間199142927号 居住地再開発のオルタナティブ199182528号 建設労働1991122529号 X年目の住まい199242330号 住まいをめぐる本の冒険199291231号 日本の棟梁 1992122532号 崩壊後のユートピア199342733号 ローコスト住宅19938534号 在日的雑居論1993111535号 中高層ハウジング199432736号 世界のハウジング199482437号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[13] 『建築思潮』(学芸出版社)。「未踏の世紀末」01199212月創刊)、「死滅する都市」02199312月)、「アジア夢幻」0319953月)、「破壊の現象学」0419962月)、「漂流する風景[現代建築批判]」05(19973)



[1] 『建築文化』、19818月号

[2] 水脈の会『時代を切り拓く―20世紀の証言 』れんが書房新社、2002年がある。

[3] 「『前川國男 賊軍の将』をどう読むか」,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,20072

[4] 螺旋工房クロニクル,建築文化,彰国社,19789月号

[5] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略1987921

16号 本と住まいPART1                  19871227

17号 ショートケーキハウスの女たち              1988529

18号 列島縦断・住まいの技術                 1988825

19号 ハウジング計画の表現者                 19881222

20号 住居の空間人類学                    1989426

21号 町場-小規模生産の可能性                1989825

22号 都市型住宅再考                     19891215

23号 それぞれの住宅戦争                   1990520

24号 日本アジア村-外国人労働者の住まい           1990830

25号 増殖する住宅部品                    19901225

26号 「密室」-子供の空間                  1991429

27号 居住地再開発のオルタナティブ              1991825

28号 建設労働                        19911225

29号 X年目の住まい                     1992423

30号 住まいをめぐる本の冒険                 1992912

31号 日本の棟梁                       19921225

32号 崩壊後のユートピア                   1993427

33号 ローコスト住宅                      199385

34号 在日的雑居論                      19931115

35号 中高層ハウジング                    1994327

36号 世界のハウジング                    1994824

37号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[6] 編集委員会幹事として19871月号~198912月号。編集委員として19931月号~199512月号。編集長として20021月号~200312月号。

[7] 『国際建築』(美術出版社)1928年創刊。1967年廃刊。: 『室内』(工作社)1961年『木工界』を改名し発刊。20063月廃刊。:『建築文化』(彰国社)1946年創刊 2004年で休刊。以降特集号として隔年で刊行。(ex建築文化シナジー):SD』(鹿島出版)1965年創刊。200012月をもって休刊となり、以降若手の設計者の作品発表の場となっているコンペ「SDレビュー展」は継続し,年1回特集号を発行する。:『都市住宅』(鹿島出版)19675月創刊。198612月をもって廃刊:『群居』1982年―2000年:『10+1(INAX)19945月創刊。20083月廃刊。『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)200112月創刊。200312月廃刊。以降特別号として隔年発刊。

2026年1月31日土曜日

「建築少年」についてのメモランダム, 『雑口罵乱』④(談話室,滋賀県立大学), 2010

 最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010


談話室04

「建築少年」たちについてのモメモランダム

布野修司

 

世に「3号雑誌」という言葉がある。

創刊したのはいいけれど、3号で潰れることが多い、という意味である。『雑口罵乱』もいささかペースが落ちてきたようである。テープ起こし、から編集作業、議論したことを記録に残すのは実にいいトレーニングなのだが、うまく回転しなくなると、苦痛になってくる。ツィッターやブログで記録したからもういい、というのかもしれないけれど、紙に定着しながら再度深く考える作業は質が違う。4号は、かなり校正もきちんとするようになったし、注を入れたり、かなり様になってきたのではないか。その分時間がかかった、ということかもしれない。

5号に掲載予定も含むけれど、この間「談話室」を訪れた若い建築家たちについての感想をメモしてみたい。

 

藤村龍至1976-)の「グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性」という講演は、若い世代の時代認識を伺う上で実に面白かった。『1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ2009年)を編んで、同世代の建築家、研究者をオルガナイズする仕掛け人であり、批評家の資質をもった建築家だと思う。2010年4月から東洋大学講師ということで、32年前、同じように東洋大学に職を得て、育ててもらった僕としては、全く私的なシンパシーを抱いた。

藤村に拠れば、決定的なのは1995年である。携帯電話が一般化し出した年である。携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製のウォーキー・ターキーWalkie Talkie、すなわちトランシーバーである。大阪万博(1970年)にワイアレスホンが出展されていた記憶があるが、実用化されるのは1980年代である。そして、本体に液晶ディスプレイが搭載され、通信方式がアナログからデジタルに移行するのが1990年代半ばである。1995年以後の世代とは携帯で育った世代ということになる。

「グーグル的建築家像」というけれど、グーグルの原型となるバックリンクを分析する検索エンジンが開発されたのが19961月であり、普及は21世紀に入ってからのことである。まさに問題はこれからということだろう。紙を媒体とする建築メディアが力を失ってしまってきたことはこれまで繰り返し触れてきた通りである。今では即時に情報が飛び交う。ツィッターで、この講演、授業、講評会はつまらない、などとやられるのである。140字程度のつぶやきには思考の密度はない。大きな問題を孕んでいると思うけれど、マーケティングの分野、ネットワーキングの分野では武器になる。

何故、携帯の普及、グーグル検索の普及と建築が絡むのか。コミュニケーション手段の拡大によってコミュニティのあり方は決定的に変わる、ということである。山本理顕の提出した課題に藤村龍至が答えた「地域社会圏モデル-国家と個人のあいだを構想せよ」(INAX出版 2010年)は、その現時点の答えである。

 

山崎亮1973-)は、その武器を充分活用しつつあるように見えた。ランドスケープ・アーキテクトとして、「デザインからマネジメントへ」をうたうが、その仕事は様々な分野に広がる可能性がある。地方都市のデパートを再生したり、離島の村おこしを仕掛けたり、まったく正統なまちづくりのアプローチである。加えて、世界中に情報発信し、プロジェクトを起こすスケールをもっている。地域が、小さな企業や自治体が、機動力のあるコーディネーターを欲している。大手のコンサルタント会社や広告代理店、中央の天下り財団が幅を利かせる中で、穴がいくつも開いているのである。

藤村龍至もまた勇ましい。近い将来1000人の事務所にするという。思わず、その昔、石山修武が「ゼネコンをひとつぶっつぶす」といっていたことを思い出したが、その意気やよしである。若い世代も捨てたもんじゃない、のである。藤村の場合、もうひとつ「批判的工学主義」なる、いささか難解そうなキーワードを提示するのであるが、その設計プロセス論の展開に、C.アレグザンダーを思い出して、さらにシンパシーを覚えた。方法に立ち入る余裕はここではないが、着実に設計をまとめる手法の提示がある。CAD時代に、徹底して模型をつくるのもいい。ボトムアップには確実に繋がる手法である。

 

石山修武と言えば、馬場正尊1968-)、坂口恭平1978-)は石山研究室の出身だという。馬場正尊は「都市を使う世代の建築家」、坂口恭平は「都市狩猟採集民の暮らし」をうたう。都市へアプローチするというのは、いずれも共通している。問題はどうアプローチするかである。

馬場正尊の場合、大手の広告代理店(博報堂)に就職した後、研究室に戻った経緯があり、編集者としての顔も持っていて、さらに、建築界のサッカー大会であるA-Cupの仕掛け人、マネージャーでもある。馬場正尊に会って、その昔サッカー少年であったころが刺激され、毎年、ACupに参加するのが楽しみとなった。宮本佳明、中村雄大、小泉雅生、五十嵐太郎、塚本由春、貝島桃代らに会えるのも楽しみであるが、何よりも身体を動かすのがいい。滋賀県立大学(フノーゲルズ)は2008年準優勝である。僕は2008年に続いて2009年もBOPBest Old Player)賞をもらった。参加するだけでいいらしい。

馬場正尊の多彩な活動のなかで、時代を確実に射抜いているのが「東京R不動産」である。不動産業といえばそれまでであるが、コンヴァージョン、リニューアルの時代に中古市場を新たな視点で掘り起こした意味は大きい。ここでもインターネット世界がその発想と事業を支えている。「都市を使う」という発想と個別の設計作業をどう統合していくかが課題となるであろう。ACupや「東京コレクション」がきっかけとなって研究室の石野啓太がオープン・エーに飛び込んだ(入れてもらった)。トップランナーということで朝日新聞の土曜日版に馬場正尊が取り上げられた写真の片隅に入社したばかりの石野君の姿を見出して研究室は大盛り上がりであった。時代は確実に動いていくのである。

坂口恭平は、まるで今和次郎のように、東京を歩く。そして、ホームレスやセルフ・ビルダーの不可思議な物件を発見して回って採集してきた。『バラック浄土』で著作デビューした師匠(石山)譲りである。自らの身体で自らの棲家を建てること、この「建てること、住まうこと、生きること」が同一である位相は、「世界内存在」としての原点であり、建築家の遺伝子として引き継がれていくのだと思う。坂口恭平の場合、採集狩猟したものを「アート」として表現するほうへ向かいつつあるように見える。その行き着く先をみたい。

 

岡部友彦1977-)の場合、都市の「寄せ場」、具体的には横浜・寿町に直接関わってきた。「コトづくりから始めるまちづくり」をうたうが、馬場はそうではないかもしれないけれど、坂口にしても、都市に建築家として関わるという構えは薄い。それはそれで真っ当である。この間、日本建築学会でも「コミュニティ・アーキテクト」の職能としての可能性を議論してきているが、岡部友彦の場合、既にそれを突破してしまっている。

大阪西成の「あいりん地区」でもそうだが、かつての「ドヤ街」は大きく様変わりしている。ビジネスホテル化してきたのはかなり以前からであるが、「サポーティブ・ハウス」など行政の施策展開とも関連しながら、新たな居住形態とサービスのかたちが、貧困ビジネスも含めて出現しつつあるのである。岡部友彦は、「ドヤ」を改装して、外人バックパッカーや一般の観光客にも部屋をホテルとして提供する事業が地区にのめり込むきっかけとなった。ここでもインターネットによる予約システムが大きな武器になっている。

岡部のプロジェクトは、コンビニで余る弁当などを入手する仕組みを構築、低価格で定食を提供する食堂を経営したり、選挙への投票呼びかけをイヴェント絡みで展開するなど、多彩である。

東洋大学時代の教え子たちが組織する「鯨の会」では、八巻秀房が中心になって、林泰代さんを顧問に「CA(コミュニティ・アーキテクト)研究会」を展開してきているが、多くの若い芽が育っていると思う。京都府宇治市の「ウトロ」地区の居住環境改善に取り組む寺川政司などもそうである。

「ウトロ」には、2010年5月これからのまちづくりを考えるシンポジウムに呼ばれて話す機会があった。そこで『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』を紹介しながら、「韓国の中の日本」について話した。するとまもなく、韓国から、この本で取り上げた日式住宅が建ち並ぶかつての日本人移住漁村・九龍浦の保存修景、街並み整備計画をめぐるシンポジウムに招かれた。「日本の街並み整備とその諸問題」と題した基調講演の中で「ウトロ」(日本の中の韓国)に触れた。相互に共同作業が出来ないか、と両方で訴えた。アジアを股にかけた仕事がこれからは増えていくに違いない。

迫慶一郎(1970-)、松原弘典(1970-)は既に中国で大活躍である。2010年9月に滋賀県立大学の布野研究室で学位を取得した川井操(1980-)は20112月から北京のUAAで働き始めている。

 

 森田一弥1971-)は、修士課程を終えて左官修行に入った。「大文」さんのところに弟子入りした竹村雅行(富嶽学園日本建築専門学校)など変り種が多い布野研究室でも筋金入りである。京都の「しっくい浅原」で、金閣寺, 妙心寺などの文化財建築物の修復工事にたずさわった後、設計を開始した。もちろん当初から建築家を志していたのであり、左官の年季明けには個展を開いている。この学年には、竹山聖研究室出身の平田晃久(1971-)や先に名を挙げた渡辺菊真、山本麻子など逸材が多い。伊東豊雄事務所を経て独立したことで、平田の方が名前が売れているのかもしれないけれど、森田も既に数々の賞を受賞して、海外からオープンデスクに来る学生がいるほどである。特に、大阪建築コンクールの渡辺節賞 (Shelf-Pod )を若くしての受賞したのは、その才能を多くが認めている証左である。

左官職人としての経験が大きく作用しているといえるだろう。「バードハウス」や「コンクリート・ポッド」などにそれがうかがえる。スペイン留学もあって、カタラン・ヴォールトに今興味があるという。

その森田は、「マイノリティ・インターナショナル」をうたう。いささか分かりにくいが、地域に蓄積された建築の知恵や技能の体系は、インターナショナルに確認し、共有できるのではないか、ということであろうか。工業化構法などによる、あるいは新技術による新奇な形態のみ追いかけるインターナショナリズムではなく、すなわち、グローバルな資本主義の展開に寄り沿うのではない、地域に根ざした、地(じ)の手法をマイノリティといいながら、積極的に押し出そうとするのである。

おそらく、そうした問題意識を共有するのが同級生である渡辺菊真である。その土嚢建築は世界を股にかけ始め、アフガニスタンからウガンダに及び始めている。ヨルダンでは石造建築を手掛けた。国内では「角館の町屋」があるが、どんな僻地であろうと飛んでいきそうな菊真であるが、高知を拠点に活動を開始し始めてもいる。これからの展開が楽しみである。

 

「談話室」が招いたアンダー50の中で、ヨコミゾマコト、西沢立衛は別格である。西沢立衛の場合、SANAAで妹島和世とともに建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受けたばかりである。プリツカー賞といえば、日本人としては、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄につぐ4(5)人目である。第1回のフィリップ・ジョンソン(1979年)を筆頭にそうそうたるメンバーが並ぶ。大家の道を歩み始めたといえるだろう。「談話室」でのやりとりで、実に感性豊かで理論家肌じゃあないですね、と評したら、「建築設計資料集成」について修士論文を書いたんです、とむきになって反論したのが面白かった。吉武研究室の流れを汲む建築計画研究室の出身だという。まことに勝手にシンパシーを抱いた。確かに、「森山邸」はある型破りの「型」の提案である。この路線には期待したい。

ヨコミゾマコト(横溝真)には初めてだと思ったけれど、「いやあ、むかし一緒に飲みましたよ」といわれて驚いた。伊東豊雄事務所時代、伊東豊雄につれられて新宿の飲み屋でカラオケやっているときにたびたび居合わせたという。1988年から2000年まで伊東事務所にいて、2001年に独立、新富広美術館の国際コンペで勝って本格デビューということになるが、独立以降すぐに手掛けて、HEMFUN2002)、HAB2003年) 、TEMMEMMSH2004年)といった住宅、集合住宅の一連の作品を見せてもらった。ローコストの悪戦苦闘にスマートに答えを出すのがいい。1970年代初頭、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕・・この連載でとりあげてきた建築家が全て、住宅から出発した頃を改めて思い出した。予算的にも敷地環境にも決して恵まれた条件にはないコンテクストにおいて創意工夫の回答を試みる、その姿勢に共感を覚えた。特に、鉄板を主架構に用いる一連の作品は一つの今日的チャレンジである。「単純な複雑さ」をねらうのだというが、単純でいいと思う。2009年、母校である東京藝術大学の准教授となった。大いなる飛躍を期待したいと思う。

「新しい座標系」を提示する藤本壮介は、最もオーソドックスな建築少年に思えた。とにかく建築が楽しくて仕方がない、といった雰囲気を全身かもし出すのがいい。アイディアを力づくでものにするんだという気迫がある。この連載でとりあげてきた建築家たちはみんな建築少年であった。どこまで建築少年でありうるかが勝負である。

安藤忠雄事務所の出身である芦澤竜一1971-)は、さらに大胆に「建築の可能性」を追求しようとしている。東京の早稲田大学出身にも関わらず、関西の水があうのだろう。かつての「関西三奇人」を髣髴させるところがある。構造デザイナーとして期待される佐藤淳1970-)は、任期付きというが東京大学に特任準教授となった。「構造は自由を失わない」と建築士法の改悪に敢然と異を唱える。実に頼もしい社会派でもある。

こうして見ると若い学生たちが話を聞きたいと思う建築家が、それぞれに魅力ある仕事をしていることは言わずもがなのことである。

 


2026年1月30日金曜日

全ては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへ, 『雑口罵乱』⑤(談話室,滋賀県立大学), 2010

 全ては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへ, 『雑口罵乱』⑤(談話室,滋賀県立大学), 2010

すべては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへ

Big Game Architecting

              布野修司

 

 「建築学のすすめ」を2000字で書け、という。何を講義してきたのか!、何を聞いていたの!、と思う。建てることは、住むこと、そして生きることです。以上。以下、誤魔化す。

 

 古今東西、これまでに書かれてきた「建築書」のいくつかを紹介しよう。「建築書」とは、文字通り、「建築」について書かれた書物のことである。

「建築書」にとって、そもそも「「建築」とは何か」というのが問題となる。だから、「「建築」とは何か」をめぐっては、古来様々な論考があり、「建築(理)論」と呼ばれる膨大な言説の蓄積を相手にすることになる。しかも、「建築論」というと、往々にして、難解で高尚な「哲学的」「思想」を展開するものと考えられている。

しかし、ここでは、「「建築」とは何か」、と真正面から問うことはやめよう。「建築」とは、もう少し簡単で身近なものである。「建築」と「建物(建造物)」はどう違うのか、「芸術としての建築」と「非芸術としての建築」はどう区別されるのか、等々の区別(差別)、「建築」という概念の特権化は、近代において成立したにすぎない[1]。ここでのテーマは、「建築」とは何か、ではなくて、「建築」をどう「つくる」か、である。大切なのは、「建築に何が可能か」(原広司[2])である。

「全ては建築である」(H.ホライン)。そして「誰もが建築家でありうる」というところから出発しよう。誤解を恐れずに最初に言い切ってしまうと、「建築書」と呼ばれてきた書物のほとんどは、「建築」を「つくる」ためのマニュアル、手引書のようなものである。

 

1 都市に寄生せよ:セルフビルドの世界

まず、課題を出そう。A3一枚の紙にどのような表現でもいいから描いてみて欲しい。

 「都市に寄生せよ―――ある日あなたは突然家族も家も失った。身よりも何もない。あなたは誰にも頼らずたった独りで生きていくことを決意する。いわゆるフーテンである。家を建てたり借りたりする気はもはやなく、またその余裕もない。都市そのものに住もうと考える。しかし、そのためにも生活上最低限の装置は必要である。時には地下鉄の入口で、あるいは橋の下で、あるいは路上で寝なければならない。都市に寄生して生きていく。以下の条件を最低限満足させる装置をデザインせよ。1.寝られること、2.食事ができること、3.人を招待できること、4.ひとりで持ち運びができること。」

 決してふざけているわけではない。山本理顕さんと二人で考えて、色々な大学の「設計演習」の課題として実際に出してきた「定評ある」課題である。「フーテン」というと「フーテンの寅さん」という山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズが思い浮かぶけれど、知らない人も多いかもしれない。日本語の辞書(広辞苑、大辞林)を引いてもないが、何故か、和英辞書(研究社)を引くとbumと出てきて、a 《口》 浮浪者、 なまけ者、 飲んだくれ、 フーテン、金持ちのなまけ者.b 《口》 のらくらした生活; 《口》 飲み騒ぎ、 放蕩.・・・などとある。まあ、「ホームレス」と言ったほうが今ではわかりやすいかもしれない。

 「ホームレス」が、「ホーム」を設計するのは矛盾のようであるが、「建築」の原点がここにある。ホームレスといえども、雨露をしのぐ覆い(シェルター)がなければ生きてはいけない。身に何かを纏う、覆いをつくる、道具をつくってテーブルや椅子をつくる、・・・というのは、最初の建築行為なのである(全てが建築である)。

 この課題は、「理想の住まいを設計せよ」という課題より、余程想像力を刺激するらしい。まず、場所を想定しなければならない。また、材料を手に入れなければならない。さらに、材料を組み立てて空間をつくらなければならない。様々の発想が生まれ、楽しい創意工夫が生まれる。この創意工夫が「建築」の原点である。

発展途上国のみならず先進諸国にも、現在、数多くのホームレスが存在している。この課題は、従って、思考実験どころか、実に現実的な課題である。日本でも、第二次世界大戦後まもなく、廃墟を前にして、人々は、自らバラックを建てて住まざるを得なかった。柱と梁が足りないので壁を省いた「三角住宅」、空き缶を潰して屋根を葺いた「ブリキ住宅」、防空壕や埋設管を利用した「豪舎住宅」、「鉄管住宅」、さらには「バス住宅」「汽車住宅」もあった。無我夢中の、やむにやまれぬ必死の建築行為であるが、今日振り返れば、実に様々なアイディアである。

「建築」は、こうした身近な「住居」の問題と無縁ではない。誰だって、自分の部屋のレイアウト(家具や機器、様々なお気に入りのものの配置)を考え、カーテンの色や柄を選んでいる。そして、自分の住宅の間取りを描いたりする。基本的に「誰もが建築家」なのである。

 しかし、自らが建てる(セルフビルド(自力建設))という経験は、日本ではますます少なくなりつつある。家は買うものであって、建てるものではない。しかし、建築の原点は、自らが自らの身体を使って建てるという行為にある。M.ハイデッガーに「建てるbauenことと、住むことwhonen、そして生きることlehben」という論考がある。われわれが、セルフビルドの世界に魅かれるのは、「建てること」が「生きること」と全く同一でありえた位相を想い起こさせてくれるからである。

 『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』[3]でも紹介したけれど、J.ワンプラーの『すべて彼ら自身のもの』[4]という小さな本には、自ら自分の住世界を建てた様々な人々が活き活きと描かれている。

 

2 ヴァナキュラー建築の世界

 ヴァナキュラーvernacularとは、「その土地固有の」、「土着の」、あるいは「風土的」という意味である。ラテン語のヴァナクルムvarnaculumが語源で、「自家製」、「家で育てた」という意味から、「根づくこと」あるいは「居住すること」をいう。ヴァナキュラー・アーキテクチャーというと、住宅に限らないけれど、日本語でいう「民家」というニュアンス(語感)で一般的に使われる。

 B.ルドフスキーが『建築家なしの建築Architecture without Architect』を書いて、ヴァナキュラー建築の世界の魅力を喚起したのは1960年代初頭のことである。世界を見渡せば、実際、いわゆる「建築家」が関与しない「建築」の方がはるかに多い。ごく最近まで、住居は、大工さんや職人さんによって建てられるのが普通で当たり前であった。すなわち、セルフビルドの世界が普通であって、出来合いの「建売住宅」や「プレファブ住宅」あるいは「マンション」を買うのは近代以降のシステムである。

 建築生産の工業化、建築の工場生産化(プレファブリケーション(前もってつくる))という「建築」のつくられ方の変化が決定的である。かつては、それぞれの地域で採れる材料(地域産材)を使い、その土地の気候に合った建築がつくられてきた。だから、ヴァナキュラー建築と呼ばれる。しかし、今日では、建築の材料、部品などは予め工場でつくられ、敷地には運ばれていって据え付けられるだけである。この方法だと、世界中同じように建築を建てることができる。

 世界中の大都市が似たような景観となるのは、鉄とガラスとコンクリートのような工業材料を用い、同じような建設方法で建てられるからである。ヴァナキュラー建築の世界が注目されたのは、近代建築の理念や方法に対する疑問、反省、批判からであったとみていい。

 ところで、このヴァナキュラー建築の世界には、一般に、「建築書」はない。しかし、建築をつくるための方法やルール、知恵の体系のようなものは必ずある。そうでなければ、それぞれの地域で同じような形態の建築が建てられ、美しい結晶のような集落を生み出すことはできない筈である。

 セルフビルドの世界が現場の即興的な創意工夫、ブリコラージュの技法に支えられているとすれば、ヴァナキュラー建築の世界は、人類が長年それを繰り返し、地域の伝統的知恵として蓄積されてきた地域技術、ローカル・ナレッジに支えられている。「建築書」と呼ばれるものは、この地域の現場の知恵と技能を、応用可能な知識、技術の体系としてまとめたものと考えていい。「建築書」によって、建築の知識、技術は伝播可能なものとなるのである。

 従って、建築を学ぶためにはまずヴァナキュラー建築の世界に学ぶ必要がある。また、自分で建ててみる必要がある。各地で行われている「木匠塾」や集落調査は、建築の原点に触れる最初の機会である。住居や集落の構成原理を研究することで、地域の生態系に基づいてつくられてきた建築のあり方を明らかにすることができる。「地球環境」問題がクローズ・アップされるなかで、それは今日的課題ともなっている。

まず、学ぶべきは建築の構造原理、架構方法である。テント構造、柱梁構造、井籠(校倉)構造、アーチ、ヴォールトなどヴァナキュラー建築は既に多様な架構方法を教えてくれる。柱や梁の太さや壁の厚さなど、自然や歴史の経過に耐えてきた適切なプロポーションを身体で感じることができる。

建築の架構方法は建築構造原理的に限定されるが、それだけで建築はできあがるわけではない。建築のかたちを規定する要因にはさらに様々なものがある。通常、住居のかたちを規定すると考えられる要因として挙げられるのは、①気候と地形(微地形と微気候)、②建築材料、③生業形態、④家族や社会組織、⑤世界(社会)観や宇宙観、信仰体系などである。地域が社会文化生態力学[5]によって形成されるとすれば、その基礎単位である住居も自然・社会・文化生態の複合体として捉えることが出来るであろう。世界中の住居を総覧する『世界住居誌』[6]は、以上のようなヴァナキュラー建築の構成原理を考える手掛かりとして編まれた。是非、参照して欲しい。

 建築のための様々な知恵は、当初は口伝によって、また経験そのものの伝授によって世代から世代へ伝えられたと考えられるが、やがて書物の形としてまとめられるようになる。一般に生活の全体に関わる知恵がまとめられ、その部分として建築に関わる事項が記される。日本の「家相書」、さらにそのもとになった中国の「風水書」がその例である。「家相」も「風水」も近代科学技術理論からは「迷信」とみなされてきた。しかし、本来、以上のように、土地に蓄積されてきた知恵の体系である。中国、朝鮮半島、日本、台湾は風水文化圏といっていいが、各地に同様の「建築書」が成立してきたと考えられる。フィリピンには「パマヒイン」、ジャワには「プリンボン」、バリには「アスタ・コサラ・コサラ」「アスタ・ブミ」などが知られる。それぞれの相互関係については、今後明らかにすべき建築研究のテーマである。

 

3 ウィトルウィウスの『建築十書』 建築論の原典

 世界中の建築を学ぶほとんど全ての人が最初に教えられるのが、前章でも触れられているウィトルウィウスMarcus Vitruvius Pollioという名前である。前1世紀の古代ローマの建築家で、カエサルと知己であり、オクタウィアヌス(アウグストゥス帝)のもとで建設関係を統括し、ファヌムのバシリカの設計を行ったことが知られるが、その他生没年も経歴もほとんど知られないその名が建築の世界で最大の有名人であるのは、彼が現存最古の「建築書」とされる10巻からなる『建築十書De architectura libridecem』を書き、世界の建築史に多大な影響を及ぼしてきたからである。

『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築の状況、建築家の教育、建築材料、構法、各種建築の計画法などを知るうえで欠くことのできない史料であるが、建築や都市計画のみならず天文、気象、土木、軍事技術、絵画、音楽、演劇などの記述を含んでおり、総合的な技術の書、まさにアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)に関わる書である[7]

今では、ほとんど読まれることはないかもしれないが、およその構成は以下のようである。

ウィトルウィウスは、第一書の第1章において、まず、建築家の素養について書いている。建築家は制作(実技)と理論の両方に精通しなければならないとした上で、願わくは、「文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである」という。建築家に必要とされる素養は古来実に幅広い。今日でも極めて多くの複雑な要素をひとつにまとめあげるのが建築家の役割であり、そのために幅広い素養が必要とされるのは同じである。

様々の要素のうち、どういう要素に着目し、何を重視するかは建築家によって異なる。ウィトルウィウスは、用utilitas、美venustas、強の理が保たれるべきだという(第一書第32)。用の理は、計画理論、強の理は、構造理論、美の理は、造形理論あるいは美学理論ということになろう。その三位一体の上に建築理論が成り立つと考えるのである。

ウィトルウィウスは、建築を構成する基本原理として、オルディナーティオーordinatio(量的秩序に関する一般原理)、ディスポシティオーdispositio(質的秩序に関する一般原理)、ディストリブーティオーdistributio(配分・経理を内容とする実践的原理)を挙げ、基本概念として、エウリュトミアeurythmia(質的秩序に基づく美的構成)、シュムメトリアsymmetria(量的秩序に基づく格にかなった構成)、デコルdecor(建築構成の基本原理として要請されるふさわしさ)を主張する。こう書くと、『建築十書』は難解な理論書と思われるかもしれないが、実際各書は極めて具体的である。

第二書は、ほとんど建築材料に関する記述である。砂、石灰、石材、木材などについて、その製法、施工法が書かれている。また、第七書には、仕上げや塗装の方法がまとめられている。さらに、第八書は、水脈探査法、雨水の利用方法、水道・井戸などについて書かれ、第九書は、天文学、占星術、日時計の作り方について、第十書は、水車や各種器械の作り方について書かれている。すなわち、建築のために必要な事項が書かれた「マニュアル書」なのである。

第三書、第四書は、神殿について、第五書は、劇場、浴場など公共建築について、第六書が、住居について書かれている。

住居について書かれた第六書では、まず、住居の向きと太陽との関係が問題とされている(第1章)。そして続いて、上述のシュムメトリアが問題にされる。シュムメトリアは、シンメトリー(左右対称)の語源であるが、住居の各部分の比例関係、割付のことである(第2章)。さらに、主要な部屋の構成(第3章)、各部屋の向き(第4章)、デコル(第5章)というように順次説明がなされる。デコルとは、装飾、仕上げ方である。

この『建築十書』は、しかし、ウィトルウィウスの独創によるものではない。ウィトルウィウスが、古典期・ヘレニズム期のギリシア建築に心酔し、執筆にあたっては現在には伝わっていない多くのギリシアの建築書を下敷きとしていたとされる。第六書の第7章にはギリシアの住宅について書かれている。また、メソポタミア文明に遡る建築技術の流れがささらにその基になっていることは容易に想定できる。長い歴史の流れの中で人類が蓄積してきた建築の技術を集大成する「建築書」の代表が『建築十書』である。

ルネサンス期になって、この『建築十書』は大々的に再発見されることになる。すでにローマ時代にもたびたび引用され、中世には修道院を中心として研究が行われていた。特に、カール大帝の時代には、ローマ帝国再建のための技術的手引きとして熱心に読まれたことが知られている。しかし、ルネサンスの文芸復興の大きなうねりの中で、L. B. アルベルティの建築書をはじめとする多くの注釈書、訳書があらわれることによって、それは確たるものとなり、西欧における建築学の基礎とみなされるようになるのである。

 

4 ヴァストゥー・シャーストラ:マーナサーラ

建築という概念が西欧起源であることが示すように、建築論の伝統は西欧のものといっていいほど,西欧的価値形態に根ざしている。しかし、建築をつくるためのマニュアルとしての「建築書」は、どこでも必要であり、どこにでも存在してきたと考えられる。

例えば、インドには古来「シルパ・シャーストラ Silpa Sāstra(諸技芸の書)」と呼ばれる、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群がある。「シルパ Silpa」とは「規範」、「シャーストラ Sāstra」とは「科学」を意味する。最も有名なのは、マウリヤ朝のチャンドラグプタに仕えたカウティリヤが書いたとされる『アルタ・シャーストラ(実利論)』[8]である。これは統治に関わる様々な領域を扱い、理想的な都市計画[9]について記述することで知られる。

「シルパ・シャーストラ」の中で、ヴァストゥーVastu・シャーストラと呼ばれるものが建築に関わる。ヴァストゥーというのは、「建造物」あるいは「居住」を意味する。最も完全なものは『マーナサーラ』Mānasāraであり、他に『マヤマタ』Mayamata、『カサヤパ』Casyapa、『ヴァユガナサ』Vayghanasa、『スチャラディカラ』Scaladhicara、『ヴィスバカラミヤ』Viswacaramiya、『サナテゥチュマラ』Sanatucumara、『サラスバトゥヤム』Saraswatyam、『パンチャラトゥラム』Pancharatramなどがある。

「マーナ mana」は「寸法」また「―サラ sara」は「基準」を意味し、「マーナサーラ」とは「寸法の基準」の意味である[10]。『マーナサーラ』はサンスクリット語で書かれているが、その内容はアチャルヤ P.K.Acharyaの英訳(1934年)によって広く知られる[11]

全体は70章からなる。まず1章で創造者ブラフマーに対する祈りが捧げられ全体の内容が簡単に触れられ、建築家の資格と寸法体系(2章)、建築の分類(3章)、敷地の選定(4章)、土壌検査(5章)、方位棒の建立(6章)、敷地計画(7章)、供犠供物(8章)と続く。9章は村、10章は都市と城塞、11章から17章は建築各部、18章から30章までは1階建てから12階建ての建築が順次扱われる。31章は宮廷、以下建築類型別の記述が42章まで続く。43章は車でさらに、家具、神像の寸法にまで記述は及んでいる。極めて総合的、体系的である。成立年代は諸説あるが、アチャルヤ によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものである。

第2章では、建築家の資格、階層(建築家、設計製図師、画家、大工指物師)を述べた上で、寸法の体系を明らかにしている。八進法が用いられ、知覚可能な最小の単位はパラマーヌparama~nu(原子)、その8倍がラタドゥーリratha-dhu~li(車塵、分子)、その8倍がヴァーラーグラva~la~gra(髪の毛)、さらにシラミの卵、シラミ、ヤバyaba(大麦の粒)となって指の幅アングラanguraとなる。このアングラには大中小があり、8ヤバ、7ヤバ、6ヤバの三種がある。

建築にはこのアングラが単位として用いられるが、その12倍をヴィタスティvitasti(スパン:親指と小指の間)とする。さらにその2倍をキシュクkishku、それに1アングラを足したものをパラージャパチャpara~ja~patyaとして肘尺(キュービット)として用いる。すなわち、24アングラもしくは25アングラが肘尺とされるが、2627アングラのものもあって複雑である。26アングラをダヌール・ムシュティdhanur-mushtiというが、その4倍がダンダdandaで、さらにその8倍がラジュrajjuとなる。キシュクは広く一般的に用いられるが主として車、パラージャパチャは住居、ダヌール・ムシュティは寺院などの建造物に用いられる。距離に用いられるのがダンダである。

配置計画については9章(村)、10章(都市城塞)、32章(寺院伽藍)、36章(住宅)、40章(王宮)に記述されているが、マンダラの配置を用いるのが共通である。そのマンダラのパターンを記述するのが7章である。正方形を順次分割していくパターンがそこで名づけられている。すなわちサカラSakala(1×1=1)、ペチャカPechaka(2×2=4分割)、・・・チャンラカンタChanrakanta32×32=1024分割)の32種類である。円、正三角形の分割も同様である。

そしてこの分割パターンにミクロコスモスとしての人体、そして神々の布置としての宇宙が重ね合わせられるが、原人プルシャを当てはめたものをヴァストゥ・プルシャ・マンダラという。最も一般的に用いられるのはパラマシャーイカParama-s’a-yika9×9=81分割)もしくはチャンディタChandita8×8=64分割)である。

村落計画、都市計画についてはそれぞれ8つのタイプが区別されている。村落について挙げるとダンダカDandaka、サルバトバドラSarvatobhadra、ナンディヤバルタNandya-varta、パドマカPadmaka、スバスティカSvastika、プラスタラPurastara、カルムカKa-rmuka、チャトゥールムカChaturmukha8種である。都市および城砦についてはここでは省かざるを得ない。『曼荼羅都市』を参照されたい。

建築の設計については、まず全体の規模、形式を決定し、それをもとに細部の比例関係を決定する方法が述べられている。一般の建築物については1階建てから12階建てまで、それぞれ大、中、小、全部で36の類型が分けられている。そして、幅に対して高さをどうするかに関しては1:11:11/41:1・1/2、1:113/41:2という5種類のプロポーションが用意されている。

 興味深いのは、内容は別にして、全体構成が、ヴィトルヴィウスの『建築十書』の構成に極めてよく似ていることである。誰か、しっかり研究して欲しい。

 

5 営造法式と匠明:木割書の世界

 中国にも、もちろん、建築、都市計画に関わる書物がある。中国都城の理念を記す『周礼』「孝工記」[12]はしばしば引かれるところである。この『周礼』「孝工記」をめぐる中国都城に関わる議論はここではおこう[13]

 現存する「建築書」となるとかなり時代は下る。中国最古の建築書とされるのは、北宋の徽宗の宮廷で、国家の営造を司る将作監の職にあった李誡(李明仲)がまとめた『営造方式』(1100)である[14]

 『営造法式』は、全34巻からなり、巻12は建築の名称と述語の考証、労働日数の算出法、巻315は建築の各部分の施工技法、巻1628は各工事の積算規定を示し、巻2934には付図を掲載する。

 その基本は、拱(肘木)の断面寸法を基準とした8等級の「材」を定め、これをモデュールとした建築の架構を示し、さらに積算方法や労働時間などを詳細に規定するものである。建築の主要な架構を扱う「大木作」のなかの「椽(えん)」(日本でいう垂木)の項をみると、「架」(母屋桁間の水平距離、スパン)を六尺以内とし、椽の長さは傾斜に沿って求めることなど、続けて椽の間隔、扇垂木とする場合の手法などが示されている。『営造法式』は、こうした詳細な規定を多岐の項目にわたって記述し、様々な形式、規模を示しているのである。

中国には、その後、『魯般営造正式』(明代弘治年間(1465-1505)頃)、『工程做法さほう』(1736(乾隆元)年)74巻、『欽定工部則例』(1815(嘉慶20)年)141巻などの「建築書」がまとめられている。

 こうした中国の「建築書」の伝統は、当然、朝鮮半島、日本にも伝えられる。もちろん、中国の「建築書」がそのまま伝えられたということではない。広い中国においても、「建築書」がそのまま用いられたとは限らない。木造文化圏における「建築書」の比較は、それ自体大きなテーマである。

 日本で知られている最古の「木割書」は、法隆寺大工であった平正隆の書いた『三代巻(さんだいのまき)』(1489年)である。そして最も完備しているとされるのが『匠明』(1608年)である。江戸幕府大棟梁の家柄であった平内(へいのうち)家に代々秘伝書として伝わってきたものである。木割りそのものは、古代から存在してきたと考えられるが、「木割書」が生まれたのは、工匠の頭となる大工職が世襲されるようになってからのことで、室町時代に、大工棟梁の家の秘伝書として成立したとされる。江戸末期に至ると、数多くの木割書がつくられ、木版本も刊行されて、広く流布することになる。

 『匠明』は、門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿記集の五巻からなる。門(31棟)、社(神社本殿13棟他)、塔(15基)、堂(本堂、鐘楼、方丈等22棟)、殿(主殿、能舞台等諸建物)という建物種別に木割り(各部の寸法)が示されている。指図(平面図、立面図)が示され、その説明がなされる、という記述のスタイルである。

 「塔記集」の「三重塔」のところを注釈書によりながら、図面を起こしたことがある。今日では、CADを用いて3G画面が容易につくれる。一週間に一度の演習で半年かかったけれど、ヴァーチャルでも物が建ちあがるのは実に楽しいものである。記述は簡潔であるが、日本の木造建築のつくり方がよくわかる。『営造法式』とやり方が異なるのも面白い。

 古今東西、「建築書」の基本にあるのは、寸法、モヂュール(基準寸法)である。石材であれ、煉瓦材であれ、木材であれ、単位となる部材の寸法から全てが組み立てられる。そして、尺にしてもフットfootにしても、そうであるように、寸法の基準は身体寸法である。部材の太さや、長さは、身体寸法をもとに測って、経験上、もつかどうか(倒れるかどうか)の経験を蓄えてきたのである。

 建築にとって極めて重要なのが、以上の意味での寸法感覚、スケール(規模)感覚である。スケール感覚を身につけるには、ここでも、ヴァナキュラー建築に学ぶことである。美しいプロポーションというのは、力学的にも理にかなっているからである。また、身の回りのものがどのような寸法なのか、身をもって測るのがいい。

 

6 パターン・ランゲージ

 以上のように、前近代においては、それぞれの地域で「建築書」がつくられ、伝えられてきた。技術的に洗練度の高い地域から低い地域へ技術は流れる。また、民族の興亡、交流が余りない地域で(例えば日本)、技術は洗練される。

 しかし、上述のように、産業革命による産業社会の到来によって、建築のあり方、つくり方は一変する。鉄とガラスとコンクリートを主材料とすることにおいて、以前とは、比較にならないほど大規模の建築(大空間、超構想)をつくることができるようになるのである。鉄筋コンクリート(RC)構造は、圧縮に強いセメントと引張りに強い鉄の熱膨張率がたまたまほぼ同じで、付着性が高いという偶然を基にした発明である。最初は、植木鉢とかボートがつくられ、建物に使われだすのは19世紀末のことである[15]。また、高層建築がつくられだすのも19世紀末のシカゴにおいてである[16]。大変革が起こって、わずか百年余りである。この間は、建築技術の発展が大きく建築のあり方を支配することになった。

 社会が複雑化し、多様になったことも大きい。全く新たな建築類型も出現してきた。建築をつくる方法もまた大きく変化するのも当然である。

 現代の建築理論家として知られるクリストファー・アレグザンダーC.Alexanderは、『形の合成に関するノート』で、この間の事情を図のように、うまく説明する。

 すなわち、ヴァナキュラー建築の世界では、かたちFormは、コンテクストContext(文脈、脈絡、前後関係、状況)によって決まり、一定の照合関係が成立してきた。そして、建築家が設計する場合には、建築家がコンテクストを把握することによって形成された心的イメージをかたちに置き換える方法がとられてきた。しかし、現代社会においては、コンテクストが複雑化、多様化しており、それを一人の人間が把握することは困難であり、一定の抽象化が必要になる。また、複雑な用件をまとめあげるには、コンピューターが必要になる。

 C.アレグザンダーは、『コミュニティとプライヴァシー』には、住宅を設計する場合が書かれている。住宅の間取りを考えて、条件を挙げてみて欲しい。「台所は食堂に近い方がいい」、「台所は明るく南向きがいい」・・・おそらく、無数の条件や項目を書き上げることができるだろう。中には当然矛盾した条件、項目が含まれる。そうすると優先順位を決める必要がある。数多くの条件を整理して、それをひとつの空間にまとめるのが設計である。C.アレグザンダーは、その整理を行う筋道、プログラムを示したのである。

 設計のプロセスを如何に論理化するかが、建築理論の課題である。しかし、全て論理化できるかというと、必ずしも、そうはいかない。設計の決定のプロセスには、当然、様々な価値判断が必要とされるからである。

 C.アレグザンダーが『形の合成に関するノート』で示した方法は、当初、条件を書き出せば論理的に設計が出来る、そういうモデルと受け取られたが、彼自身は、住み手や使い手が設計のプロセスに関与するモデル構築にむかう。

 ひとつは、「パターン・ランゲージ」と呼ばれる、建築の語彙(ヴォキャブラリー)と辞書を用意する方法である。誰でも、この語彙と辞書を使って設計できるのが理想である。この語彙が果たしてどこでも使えるのか、普遍性を持つのか、という議論はあるが、ヴァナキュラー建築は、地方言語の宝庫である。

 また、C.アレグザンダーは『住宅の生産』において、実際の建設も行うこと、現場で設計することの重要性を主張する。そして「アーキテクト・ビルダー」という概念を提出する。

 さらに、都市計画についても、『まちづくりの新しい理論』において、住民参加型の、あるいはワークショップ形式の設計計画方法論を展開している。

 C.アレグザンダーに一貫するのは、如何に複雑な社会になろうとも、自らが直接関与できる現場から発想すること、決定のプロセスを透明化し、オープンにすることである。

 

 建築理論の系譜といいながら、いささか、簡単に過ぎたであろうか。身近なスケールの家具や住宅についてはわかるけど、超高層など設計できるであろうか、と言われれば、基本はそうかわらない、といいたい。

建築理論の流れを丹念に追いかけるとすれば、さらに何十枚もの紙数がいるであろう。すぐれた建築を生み出す建築家であれば、必ず、それなりに説得力ある理論をもっている。それぞれに、大いに学んで欲しい。

 

 


 



[1] そもそも「建築」という言葉は、欧米語のArchitecture、の訳語で日本語にはなかった。中国語にもなくて、むしろ、明治の文明開化の時代に日本語による翻訳語が中国語としても用いられるようになった例の一つである。

 伊東忠太(1867-1952)という稀代の建築家、建築史家が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を論ず」()という論文を書いて、「建築」、「建築家」、「建築学」、「建築学科」という言葉が定着することになるが、伊東の論文のタイトルからわかるように、直前は、「造家」という言葉が使われていた。「造船」、「造家」・・・というのは、わかりやすいが、「建築」は、「造家」ではない、「建造物」Buildingと「建築」Architectureは違うと、伊東忠太は、先の論文で主張したである。

それまでは、土木建築工事一般を「普請(ふしん)」、建物に関する工事を「作事(さくじ)」と呼んでいた。

しかし、が、要するに、「建築は芸術であって、単なる工学技術ではない」というのである。この「芸術としての建築」という観念は、「芸術」という観念の成立に関わっている。

そもそも「芸術」とは、と語源を遡ると、西欧語ではアート、アール art(英語、フランス語)、アルテ arte(イタリア語、スペイン語)、さらにアルス ars(ラテン語)に至る。一方、ドイツ語ではクンスト Kunstといい、技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発し、art arte の由来するアルス ars は、テクネーtechnéの訳語として用いられる。すなわち語源からみれば、芸術は技術と類縁であり、最広義には技術にふくまれる。

[2] 原広司、『建築に何が可能か』

[3] 布野修司、『住まいの夢と夢の住まい―アジア住居論―』、朝日選書、1997

[4] J.Wampler“All Their Own: Towards Autonomy in Building Environment”Oxford University Press New York 1977

[5] 立本成文、『地域研究の問題と方法 社会文化生態力学の試み』、京都大学学術出版会、1996

[6] 布野修司監修、『世界住居誌』、昭和堂、2005

[7] そもそもArchitecture・・・の語源は、ラテン語のアルケーArche(始源)のテクネーtechne(技術、制作)、アルキテクトンArchitechtónである。「始源(根源)の技術」という意味である。すなわち、アーキテクチャーという言葉は、「建築」という分野にとどまらない。原義に遡れば、「コンピューター・アーキテクト」といった言葉が用いられるのは何も不思議はないのである。

[8] カウティリヤ、『実利論』上下、上村勝彦訳、岩波文庫、1984年。Shamasastry, R., “Arthasastra of Kautilya”, University of Mysore, Oriental Library Publications, 1915. Kangle, R.P., “The Kautilia Artaśāstra”Part 1 Sanskrit Text with a Glossary, Part 2 An English Translation with Critical and Explanatory Notes, Part3 A Study, Bombay University, 1965. Reprint, Delhi, Motilal Banarsidass Publisher, 1986, 1988, 1992

[9] 布野修司、『曼荼羅都市』、京都大学学術出版会、2006

[10] 『マーナサーラ』とは作者の名前であるという説もある。

[11] Acharya, P.K. Architecture of Manasara Vol. I-V. New Delhi, Munshiram Manoharlal Publishers, 1984. [First edition 1934]

[12] 『周礼』:しゅらい Zhu l° 古くは《周官》ともいった。中国古代の礼書,三礼の一つ。西周王朝の行政組織を記述したものとされ,天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇(だいしこう),冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。これら六つの官は,理念的にはそれぞれ60の官職から成り,合計360という職務は1年の日数に対応するのだとされる。ただ冬官大司空の篇は古く失われ,漢代に替りに〈考工記〉が補われた。伝説的には,周公旦が周代初年に礼を制した際,この書物も編まれたとされるが,内容がそれにそぐわないことは,近人の銭穆〈周官著作年代故〉が詳論するところである。また前漢末の劉(りゆうきん)の偽作だとする主張もあるが,おそらくこの書物の主体になる部分は,戦国末期,天下が統一に向かう趨勢の中で,一つの統一国家像を描き出すため,以前からの種々の伝承をまとめて編纂されたものであろう。編纂の中心となったのは斉国の学者たちであったと推定されている。この書物は漢代にすでに〈六国陰謀の書〉と呼ばれ,王(おうもう)の新政権や王安石の新法実施などに際し政治的に利用されたほか,六官からなる政治体制は中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えた。(小南 一郎)

[13] 応地利明、「Ⅴ アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』、昭和堂、2003

[14] これに先立って、神宗の下で王安石によって財政再建のための支配機構の整理が打ち出され、1068年に将作監に下された命により1091年に完成した建築書250冊も『営造法式』と称するが、同書はあまりにも大部で、広闊で、未整理であったらしく、重ねて李明仲に命がくだったとされる。

[15] 1850年ころに,フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初といわれ,その後,67年に J. モニエが鉄筋コンクリートの部材を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりとされる。フランスで発明された鉄筋コンクリート部材は,その特許がドイツに買い取られて基本的な研究が行われ,80年代の終りには,圧縮をコンクリートで,引張りを鉄筋で受け持つ鉄筋コンクリートばりの理論的計算法が発表された。日本で土木構造物に鉄筋コンクリートが初めて使用されたのは,1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋といわれる。

[16] 鉄道事業の発達とともにアメリカ中西部の商業,工業の中心地として発展し始めていたシカゴでは,急激な人口の集中による都市化が進む一方,1871年に起こった大火によりそれまでの木造による商業施設の大部分が焼失し,復興のための建設ブームを迎えていた。その中で生み出されたのが、シカゴ構造と呼ばれる鉄骨構造の高層建築である。ジェニー William Le Baron Jenney(18321907)やホラバード William Holabird(18541923)ら、シカゴ派と呼ばれる建築技術者らが当時建物の装飾や構造材に補助的に使われていた鋳鉄と,土木分野や工業製品に使われ始めた鋼を柱やはりに使用し始めるのである。また,エレベーターも当時安全装置を備えて実用段階に入り始め、従来45階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新する高さにまで達することができた。ホームインシュアランス・ビル(188512),リライアンス・ビル(189416)がその先駆である。


2026年1月29日木曜日

初心に還る, 『雑口罵乱』③(談話室,滋賀県立大学), 2009

 初心に還る, 『雑口罵乱』③(談話室,滋賀県立大学), 2009

初心に還る

布野修司 

 昨年(2008)の1月号から『建築ジャーナル』誌に「メディアの中の建築家たち」と題して日本の現代建築家を取り上げて連載している。1月~3月号は前書きの総論のような形で、4月号から3ヶ月、安藤忠雄、続く7月~9月号を藤森照信、以降、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団と続けて、原広司論(20101月~3月号)を入稿したところである。

2008年の4月号は「ボクサーから東大教授へ 安藤忠雄の軌跡」というタイトルであったが、連休の前だったか後だったか、いきなり安藤さんが電話してきた。どうも気に入らなかったらしい。

聞くと、3箇所誤りがあるという。さしさわりがあるので書かないが、ひとつはボクサー時代の戦績が違うという。「ボクサー時のリングネームは「グレート安藤」、フェザー級、戦歴はプロ戦績通算831分―231337分け、という説もある。」と書いたのであるが、そんな試合数できるわけがないじゃないか!という。しかし、Wikipediaに書いてあるじゃないか、と言い返すと、あれが間違っているのだ!とのこと。単行本にするとき訂正します、で一件落着、と思いきや、「それはそうと、今度お前の大学に話しに行ってやるよ。この間、東大の入学式で1万人の前でしゃべったけど、評判よかったよ。建築といわず、新入生にしゃべるよ」とおっしゃる。

「ええ!」と絶句。

あとは省略するけれど、学長を引っ張り出すやらなんやら800人ぐらいは集まった。その様子を石野君が書いている。DVDにとってあるけれど、そのまま使うことはまかりならん、とのこと。安藤節は生の毒舌がいい。

西沢立衛さんとは初めてであったが、スライド・レクチャーを聞いて、そのセンスに感心。いきなり、「西沢さんは理論家肌じゃないのがいいね」と言って怒らせてしまった。「僕ほど理論家はいない」のだとか。なんでも修士論文は「設計資料集成」についてなんだそうで、建築計画学の野村東太先生とか小滝一正先生に習ったとか。吉武研究室出身の僕とは義兄弟ということになる。

いつか西沢論をという気になったけれど、先の連載は、僕の年齢以上と決めていて、隈研吾、妹島和世以下の世代は、第二ラウンドに書けたらいいと思う。

芦澤さんの会は、海外で出席できなかったけれど、一昨年卒業設計の講評会に来てもらって知っている。とにかく元気がいい。昨年来てもらった、ヨコミゾマコト、藤本荘介、佐藤淳も含めて、連載でとりあげる候補である。

飯田さんとは、学会賞作品賞の審査委員会で一緒だったけれど、ほぼ同い年で、初めて全体の仕事を見せてもらった。手堅い。横浜国大はこれであと北村恒さん呼ばなくちゃ。

重村さんとは学生時代からの付き合い。その全仕事をあらためてみせてもらった。生命循環都市の方向性は真に共鳴できる。

談話室は、学生たちのためだけではない。教師にとっても、自分の仕事、自分の歴史を振り返る機会でもある。いつも刺激をもらえる。建築を志した頃の初心を思い出さしてくれる。

今年、ついにというか、なんというか、還暦を迎えた。来年からは赤ん坊に還ったつもりで頑張ろうかな。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...