同時代建築研究会第一期連続シンポジウム:戦後史をいかに書くか,稲垣栄三,19780114:建築における近代化,あるいは近代主義について,大谷幸夫,19780128:戦後建築ジャーナリズム,宮内嘉久,19780210:伝統論からメタボリズムへ,川添登,19780225:建築の危機と建築家,藤井庄一郎,19780311:『建築文化』197808ー11
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追悼・宮内康 『寄せ場』、1991
追悼・宮内康
布野修司
建築家、宮内康が逝った。一九九二年一〇月三日、午後八時。享年五五才。
宮内康といえば、「日本寄せ場学会」の会員であれば、あるいは本誌の読者であれば、さらに山谷の労働者諸君であればもちろんご存じであろう。山谷労働者福祉会館の設計者であり、その企画から竣工に至るまでなくてはならぬ建築家であった。また、「寄せ場」の現実を真正面から見つめ続ける建築家であった。僕らはまたしても偉大な友人を、リーダーを失ったことになる。実に悲しい。
五月一二日の入院以来、経過を知らされていたものにとっては、遠からずこの日が来ることは予感もし、覚悟していたことであったが、それにしても早すぎる。若すぎる。残念である。
宮内康さん(本名は、康夫、康(こう)は言うなればペンネーム。何故か、本人自ら「康」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。)は、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。しかし、僕のみるところ、康さんがオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。
何故、建築を選んだのか、今にして思うと残念なのであるが、本人に聞いたことが無い。僕の知る限り、康さんは、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。僕自身は、「同建」の結成からのつきあいなのであるが、少なくとも、建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに康さんから学んだように思う。
考えてみれば、康さんの建築界におけるデビューは「建築批評」であった。その批評あるいは建築論の展開は、六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だったと思う。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だったと思う。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』(井上書院)である。
『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。もちろん、建築の分野に限らないのであるが、宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで僕らの必読書となったのである。
何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、必ずしもアジテーターであったわけではない。文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など僕らの想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。
建築批評家としてみると、宮内康の著作は決して多くない。単行本としては『風景を撃て』(相模書房)があるだけである。様々なメディアに書き続けられた原稿は第三の建築論集として纏められる機会を失ったのである。後は、同時代研究会編の『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室)など共著となる。同じく、同時代建築研究会編の『現代建築』(新曜社 近刊)が生前上梓できなかったのはいかにも残念であった。
六八年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的裂け目を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新であり、原広司である。それに対して、裂け目を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかったように思う。
極めて、大きかったのは、理科大との裁判闘争である。その経緯については、記録集『鉄格子の大学から』もあるし、『風景を撃て』にも詳しい。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。彼は、その後のかなりの時間を救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。
建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。議論を肴に酒を飲むのが何よりも好きであった。また、そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。
作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。この作品という言い方を康さんは嫌ったが宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。つい最近発表された「数理技研 オープンシステム研究所」も康さんらしい。近年の代表作といっていい出来映えを示している。天井輻射冷暖房を取り入れるなど他に先駆けた工夫もある。
しかし、振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないか。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対する異議申し立てになっているのである。康さんは結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。
そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが一目見て絶賛したのも、共感する臭いを一瞬のうちに感じとったからであろう。
建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。しかし、遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。おそらく、宮内康にとって初の受賞ではないか。しかし、これまた間に合わなかった(一一月一九日受賞式)。つくづく、不運である。
遺作になったのが、七戸町立美術館(青森県)である。無念ながら、その完成を待たずに逝くことになった。かなり大きな公共建築の仕事であり、事務所の経営も軌道に乗り始めた矢先の死であった。ただ、少なくともその完成までは、その遺志を継ぎながら、宮内康建築工房は運営されつづける予定である。
合掌
2022年8月17日水曜日
制度と道具ーイヴァン・イリッチの仕事ー,螺旋工房クロニクル019,『建築文化』,1979 07
制度と道具ーイヴァン・イリッチの仕事ー
1.
イヴァン・イリッチの仕事が次第に明らかにされつつある。『脱学校の社会』(東京創元社 一九七七年、“ ”一九七一)『脱病院化社会||医療の限界』(晶文社一九七八年)、“ ”一九七六)についで、『自由の奪回』||現代社会における「のびやかさ」を求めて||(佑学社一九七九、“ ”一九七三)が邦訳され、“ ”一九七一(転轍社)、“ ”一九七四(晶文社)、“
”一九七八(晶文社)も邦訳され、彼のほぼ全著作が日本語に訳されるわけである。
現在、メキシコにおいて、自ら設立した国際文化資料センター(CIDOC 一九六七年設立、クエルナバーカ)によりながら活動を続けるイリッチの仕事がグローバルな関心を引き、その著作が刊行のたびに、すぐさま各国語に翻訳され、論争を巻き起こしてきたのは、その作業が現代社会の最も中心的なプロプレマティークにかかわっているからであるといえるであろう。彼は、『自由の奪回』の序章の冒頭に次のようにいう。
・ 「私はこれからの数年間、工業化時代の終末について仕事をしたいと考えている。その仕事とは、規格化され、学校が優位にたつ現代に起こりつつある言語、神話、儀式、法律の変化を跡づけることである。私は、工業的な生産様式のもつ独占性が色あせてきていること、そしてこの生産様式が提供する、工業的に生じた専門的職業が消滅しつつある点を描いてみたいと考えている」。 工業化時代の終末についての仕事、すなわち、「工業的生産様式の独占性に関する批判」と、さらに、「来たるべき社会、脱工業化社会に合致するような、他に取るべき様式を概念的に規定すること」、それがイリッチが自らに課したとてつもない仕事なのである。
このとき、彼は六〇年代末から集中的に行ってきた教育上の実験をもとに、学校についての著作を公にしていたのであるが、その著作の『脱学校社会』というタイトルが示すように、そこですでに「大量生産としての教育がパラダイムとして、他の工業的な企業と相当すること」、したがって、問題は、学校化された社会、学校を支える工業社会の総体にあることが見抜かれていたといえるだろう。『自由の奪』はすでに広範な問題領域が提示されているのである。医療の神話(医学のための医療、医療官僚制)、商品としての教育、エネルギー問題、労働、雇用の問題(分業と搾取、専門職の問題、富の終局、独占)といった、いままではそれぞれ1冊にまとめられた領域はもとより、住宅の規格化、交通(道路)計画における高速化と階層化、環境汚染、都市病理、さらには図書館の運営、果ては葬儀社の埋葬管理の方法までその記述は及ぶ。そこでは、工業化とともに生み出されてきた近代的な計画にかかわる諸分野、したがって都市計画、建築計画にかかわるほとんどすべての分野が対象化されようとしているといえるのである。
こうした広範な問題領域を視野に収めながら、イリッチはそれぞれの局面において、工業化、近代化、計画化、規格化、画一化、均一化の弊害をその具体的なメカニズムとともに指摘していく。いわば彼の作業は、工業化社会の病理を次々と切開しつつあるのである。
そうした作業は、多くの分野で多くの人々によってすでに共有化されている。例えば、わが国において、ここ数年来展開されつつある「地域主義」をめぐる議論と知的作業は、その趨勢に合致するものといいうるはずである。もちろん、その作業が容易なものでないことはいうまでもない。「地域主義」についても、清成忠男の『地域主義の時代』(東経選書、一九七九年)、樺山純一の『「地域」からの発想』(日本経済新聞社、一九七九年)など次々ととその作業が刊行されつつあり、とりわけこの二人の「地域主義」イデオローグのすぐれた理論作業は、いま、ここにおいて真に検討すべき課題を提出しているといえるのであるか、そこにも大きな問題が横たわっているといわねばならない(「地域主義の行方||中間技術と建築||」全章参照)。しかし、ある意味でイリッチはいち早くその問題を提出していたといえるのである。
イリッチは『自由の奪回』の序章において、すぐ続けて次のようにいう。
・ 「とりわけ私は、人類の三分の二が工業化時代を経験するのを避けることが、今でも可能であることを示したい。それは超工業化国家が混沌状態に対する選択として採用しなければならない、工業的生産様式のなかの超工業的なバランスを、直ちにえらぶことによって可能である。」 こうした確信にみちた展望の提出によって、数々のポレミークが組織されていったことはある程度推測できるであろう。過大な時期とそのオプティミズムへの懐疑がすぐさま交錯するはずだからである。
2.
イリッチの作業が対象とするのは各問題領域における制度( )である。そして、制度化( )である。アイルランド系、プエルト・リコ系の住民が多く、文化間の相克の激しいニューヨーク、マンハッタンで、司祭として、コスモポリタンなインスティチューショナリゼーションの侵襲の現場に身を置いたことが、イリッチのその後の思想の方向づけに大きな影響を与えたに違いない、と『脱病院化社会』の訳者、金子嗣郎がいうように、彼の作業の基底に常にマンハッタンでの経験が据えられているといえるのである。
もちろん、彼の関心のウェイトは制度化の諸局面にあるのであって、個別領域の制度そのものにあるわけではない。イリッチは、広範な問題領域に通底する近代社会に特有な制度を徹底的には常に主題化しようとしているといえるはずである。各領域での個別の作業は、やがて構築さるべきひとつの制度論の各論であり、逆にいえば、各領域における問題とその解決をめぐって、ひとつの制度論が前提されているのである。
ただ、われわれとって極めて興味深いのは、その作業がまず、学校、病院といった制度∥施設( )、制度としての空間を対象としたことといえるであろう。イリッチの作業がすぐさま建築家やプランナーの関心をもひきつけたことは『AD』や『CASABELA』などへの反響が示していたのであるが、それは、その制度批判が施設における空間の配列の問題にも及んでいたからである。『脱学校の社会』は、近代的な諸施設のひとつとして成立してきた学校という制度を歴史の流れの中で相対化し、その限界(義務教育を通して普遍的な教育を行うことが不可能であることなど)を明言し、その具体的な再組織化の方向性を示したものであったが、それは、ノン・グレーディングやティーム・ティーチングを組み込んだオープンスクール(開かれた学校)の具体的なプランニングの問題として議論されたのである。また、『脱病院化社会』も、『空間の病院化』の出版を予定するバークレイのカリフォルニア大学建築学科教授リンドハイムら、都市や建築の分野との共同作業を踏まえてものされており、その関心が具体的な施設空間にも向けられていることを示しているといえるであろう。
医療にしろ、教育にしろ、現代社会の病理に大きくかかわる極めて重要な分野である。いずれの分野も、その抱えている問題を根源的につきつめていけば、等しく工業化社会の根底的問題につき当たることは容易に推測される。『脱病院化社会』も当然のように、医源性疾患という、本来医師、薬物、医療行為をもとにして生まれてくる新しい疾患を追いかけることにおいて、臨床的、社会的、文化的なコンテクストへの広がりをみせ、さらには「健康の政治学」を主題とするに至るのである。われわれの施設空間(制度)論も、イリッチとともに、空間的配列にかかわる制度を超えた問題の領域を確認しつつあるといえるであろう。しかし、それゆえ、イリッチの作業を施設∥制度論として読み返す実践的関心も存するともいえるのである。確かに、『自由の奪回』においてもそうであるように、イリッチは、突破口のための大きなウェイトを「政治計画」においているといえるだろう。しかし、岩内亮一がいうように、そこで大きな期待がかけられている政治的な改革が、決して既存の制度の全廃を企画する類のものではなく、いかにして個人の意思による選択を保証するかという、制度計画のための具体的な方法の提示にかかわっているという意味で注目されるのである。
制度と空間(ここでの脈絡でいえば施設空間論)をとらえるうえで、極めて重要なパースペクティブを提示しているのは、いうまでもなく、知のエピステーメーにかかわるM.フーコーの作業である。眼差し、言葉、狂気、身体、性にかかわる一連の作業は、すべて、空間と制度にかかわるものといってよいからである。イリッチの一連の仕事は、いってみれば、このフーコーの膨大な作業に匹敵するものといえるであろう。『臨床医学の誕生』、『狂気の歴史』における病院、『監獄の誕生||監視と処罪||』における監獄といった施設∥制度をとらえる視角は、イリッチの学校や病院をとらえる視角とストレートにつながっているのである。フーコーが、近代的な諸制度の成立を跡づけることにかかわっているとすれば、イリッチはその解体を展望することにかかわっている。すなわちフーコーが、制度∥施設の通時態(考古学)に焦点を当て、歴史的パースペクティブを与えるとすれば、イリッチは、制度∥施設の共時態に焦点を当てコンテンポラリーの平面でのパースペクティブを与えようとする。また、フーコーが、知の配置の構造、そしてその転換にウェイトを置くとすれば、イリッチは、具体的な道具の提出にウェイトを置いているということもできるであろう。
すなわち、われわれはすでに、施設空間論のための二軸を、フーコーとイリッチによって与えられているといってもよいのである。そしてまた、フーコーとイリッチを一つの脈絡のもとに読み直すことは、極めて魅力的な作業といいうるはずである。||建築の分野においてもそうした関心が偏在していることは、例えば、先頃その“ ”( )が邦訳化された(『理想都市』理想都市研究会 鹿島出版会)、H.ロウズナウ女史の“
~ ”( 年)にも示されているといえるであろう。一七六〇■一八〇〇年というフーコーがいう意味での時間的閾において、病院、監獄、教育施設等の具体的プランを解読しているのである。
3.
『自由の奪回』において、イリッチは「のびやかさ( )」という概念とともに「多元的均衡」という概念を提出している。彼自身がひとつの脈絡のもとに用いようとする「のびやかさ」とともかく、「多元的均衡」は、例えば、H.マルクーゼの『一次元的人間』などを想起すれば、ある程度その近代社会批判の方向性を暗示させるかもしれない。しかし、もし、「のびやかさ」や「多元的均衡」という概念が、その邦訳タイトル「自由の奪回」がイメージさせるように、単に制度批判として提出されているとしたら、そしてイリッチのこの書の意義をあげつらう必要はないであろう。同じような指摘はいくらでもあるからである。『自由の奪回』が興味深いのは、まさにそれが手法論・道具論( )として展開されようとしているところにある。イリッチは、「私の主題は道具であり、観念ではない」という。また、「架空な未来の共同体を詳細に描くことは、私の目的に役立たないのであろう。私は幻想ではなく行動のためのガイドラインを提供したい。のびのびとした生活を保証するような現代社会は、なんびんとの理想や希望もはるかに越えた、新しい驚異の開花を生むことができる。私はユートピアではなく、どの地域社会にもユニークな社会機構を選択させる手順を提案しているのである」ともいう。「のびやか」という今のところ少なくとも日本語にはなじまない言葉も、明らかに道具概念とのかかわりにおいて選ばれている。イリッチは「・のびやか・という言葉を、責任をもって制約された道具をもつ現代社会を意味する専門用語として選んだ」のである。もちろん、彼は「・のびやかさ・という言葉を、工業的生産とは反対の意味を示すものとして選んでいる」。しかし、「責任をもって制約された道具をもつ現代社会」という言い方が示すように、それは単に工業的生産にかかわる道具の全否定ではない。彼の目差すものは、別のところでいうように、むしろ、工業化の総合理論を正確に構築することといってもよい。「社会計画もしくは社会技術のアセスメントに従事しなければならない人々」と「道具が人間と人間の目標を圧制するときに、その道具の権力を抑制したいと欲する人々」との間に共通の言葉を準備すること、それが彼の道具論の構想なのである。
こうしたイリッチの立論は、いうまでもなく、E.T.シューマッハーの中間技術論を想起させるであろう。寄しくも、シューマッハーの“ ”とイリッチの“ ”は同じ一九七三年に出版されたのであるが
その二つには明らかに通底する問題意識を認めることができるのである。中間技術(代替技術、適正技術、全体技術、地域(地縁)技術、生産技術)に係わる諸文献が、一様に二つの文献に言及していることも、その影響力をうかがわせるであろう。
「私はのびのびした制度や道具を設計するための技術的な手引の作成に寄与しようとは思わない。また明らかにより良い技術になるであろうものへの販売キャンペインを約束したいとも思わない」とイリッチはいう。具体的な道具の手引書については、われわれはG.ボイル、B.ハーバーの“ ”などを手にしつつあるのであるが、彼の関心は『自由の奪回』では、道具のための基準の設定であり、道具の構造である。そして、彼のいう次元分析によって、生活の均衡のもとになる道具の次元を明らかにすることである。そこで彼が主張するのは、①自然力の支配が機能するのは、自然を利用したあげく、自然が人間にとって無用になるといった結果にならない限りにおいてであること(生物学的崩壊)、②制度が機能するのは、人が自分でできることと、非人格的な制度に奉仕する道具が人のためにしてやれることとの微妙な均衡を、制度が保証する限りにおいてであること(徹底的独占)、③正式の教育制度も均衡に基づくべきものであり、その特殊なお膳立てが自主的学習の機会以上の価値を有してはならないこと(計画過剰)、④社会におけるコミュニケーションの増加は、社会を一層人間的にすることもできるが、それは少数派を多数派から隔てる力の開きが狭まるときに限られること(分極作用)、⑤技術革新の度合が増大することは伝統に根づくこと、意味の充実、安全保障が強められる場合にのみ価値があること(旧式化)である。
具体的な展望について、イリッチは一般的に、①科学の脱神話化、②言語の再発見、③法律手続の回復に関して検討する。そして、その展望において、政治的改革が重要なウェイトを占めていることはすでに触れた。しかし、例えば、住宅の規格化について彼が次のようにいうとき、その方向性をある程度推察することができるであろう。
・ 「建設産業は、近代的な国民国家がその社会に、市民の貧困の近代化を押しつける産業の事例である。建設産業に与えられる法的保護との財政的援助は、これに該当しないで、はるかに効率的に自分で家を建てる人の機会を縮小し、ついには削除した。つい最近、メキシコはすべての勤労者に適当な住宅を供給する目的の、全体計画に着手した。第一段階として、住居ユニットの建設のための新しい基準が設定された。この基準は、家を買う小市民を、産業がつくり出す搾取から擁護するのを意図した。逆説的ではあるが、この同じ基準は、もともと自分自身で家を建てる機会をもったはるかに多くの人々を収奪した。・・家が建てられるべき方法を規定することによって、住宅の欠乏は増大していく。よりよい住宅を提供するという社会の口実は、よりすぐれた健康を提供するという医者の口実、より高速を提供するという技術者の口実に見られたのと同種のペテンである。・・
シンポジウム:都市と建築の現在と未来,オーストリア現代建築展京都展「ミニマルを超えて」,19990206,シンポジウム,"高松伸,布野修司,竹山聖,Peter Alison, Friedlich Achleitner"
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2022年8月16日火曜日
序説の人生,ミニレター、室内,200001
「室内」ミニレター:序説の人生
暗鬱たる世紀末!?にも関わらず・相も変わらずバタバタとしております。・・
前略 新しい世紀を迎えるというのに、あんまり浮き浮きした気分になれません。学生の就職は決まらず、大学でも改革という名の人減らしの話ばかりです。「大学を出たけれど」の昭和恐慌の時代は知りませんが、この「出口無し」の感じは、オイルショックの時代と比べてもかなりのものです。豊かな時代に育った若い世代には、この不況は余計応えるのではないのでしょうか。暗鬱たる世紀末です。
とはいうものの、そんなに深刻に滅入っている暇はありません。五〇歳にもなると、先も見えます。とにかくやれることをやるだけ、という心境です。近々『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』という本を上梓します。ただ序説を書いただけでは話にならないでしょう。また、「植民都市研究」ということで、もうしばらくはアジアを飛び回ります。あとはそれをまとめる作業が残ります。「アジア都市建築史序説」に取りかかって二十年になるのですが、まだ序説のあたりをうろうろしております。 早々
布野修司
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traverse11 2010 新建築学研究11 Ondor, Mal & Nisshiki Jutaku(Japanese Style House):Transformation of Korean Traditional House オンドルとマル,そして日式住宅...