現代建築家批評20 『建築ジャーナル』2009年8月号
現代建築家批評20 メディアの中の建築家たち
イメージの源泉としての異境
渡辺豊和の著作
渡辺豊和は、現代日本の建築家として最も著作の多い建築家と言えるのではないか。「売れる、売れない」は別にするとして、著作(単著)の数は、建築、都市計画分野の著作家として知られる磯崎新、藤森照信、松山巌、陣内秀信、石山修武、鈴木博之、山口昌伴(矢田洋)などと比べて勝るとも劣らない。
私家版の『現代建築様式論』(1971)から『和風胚胎』(2007)まで24冊の著作[i]があり、今猶執筆中であるがーと書いたまもなく25冊目の『バロックの王 織田信長』(悠書館、2009年)が届いたー、大きくは3つのテーマ・ジャンルに分けることが出来る。
第一に、建築論・作品論・建築批評に関わる著作群が中心にあり、第二に、古代建築への関心を基底にした古代史に関わる著作群がある。建築史に関わる著作が二つのジャンルを接続し、第三に、建築のコスモロジー、宇宙・世界の幾何学に関わる著作が全体を取り囲んでいる。
『ヤマタイ国は阿蘇にあった』『発光するアトランティス』『扶桑国王蘇我一族の真実』『北洋伝承黙示録』『安倍晴明<占いの秘密>』といった古代史に関わる一連の著作群は、一般には、古代史ファン向けの著作と考えられている。アカデミックな著作では決してないし、いわゆる「きわもの(際物)」とも見なされてきた。日本各地にピラミッドが残されていたという人工造山説は、何回か週刊誌を賑わせた。『発行するアトランティス』をもとに、アトランティス大陸が何処にあったのかをめぐるTV特別番組もつくられたほどである。
確かに、渡辺古代史を読むといらいらするところがある。根拠が示されず、飛躍が多いのである。僕は、多少論文を書くから、もう少し、註をきちんとしたり、引用文献をはっきりさせたたりした方がいい、などと生意気にアドヴァイスするのであるが、まるで頓着しない。建築のディテールに拘らないのによく似ている。
だから、「アカデミズムは駄目なんだ、学者の論文はちっとも面白くない」と逆襲されてしまう。「古代史には謎が多いし、根拠なんかそう多くないじゃないか」。
渡辺豊和の古代史への関心は、古代都市、古代建築への関心であり、その謎を解き明かす原動力となっているのは、その建築的想像力である。建築的想像力、その直感が渡辺豊和の全てを支えているといっていい。すなわち、古代史に関わる著作群も含めて、著作活動は決して余技なのではなく、その建築的営為の一環なのである。
大和に眠る太陽の都
渡辺豊和の古代史への関心を最初に示した著作が『大和に眠る太陽の都』である。「神武帝は大和三輪山に早大華麗な先住民の文化を見た-天香具山の地底に眠り続ける巨大な石造の宮殿<磯城宮>。建築界の鬼才がその鋭い空間認識と古事記・日本書紀から掘り当てた不思議な鉱脈-イメージの古代第一弾」と帯にある。
この本には、ほぼその後に上梓される古代史関連テーマのほぼ全てが記されている。きっかけは大和盆地のど真ん中「餓鬼舎」(磯城郡田原本町)に住むことなったことである。「磯城(しき)」という地名も大きい。そして、『記紀』の記す日本の古代史の舞台が意外に狭いという感慨、大和三山が低い丘にすぎず、古墳とそう変わらない、これは人工の山ではないかという直感(発見)が、この一冊を書かせた。いわく「歴史の研究者でも、況や専門家でもない私が、それ以降奇妙な情熱にとりつかれることになる」のである。「資料もなければ知識もない。あるのは建築家としての地形を読む直感力のみなのだ」。以降、渡辺豊和は、古代のイメージ、イメージの古代に生きることになる。
取り憑かれたのは、「地図遊び」である。地図上に線を引いて様々な幾何学的関係を見出すことに夢中になるのである。きっかけとなったのが、北緯34度32分には、太陽に関わる地名や遺跡が並んでおり、これは古代日本の天文観測の主軸線ではないかという、水谷慶一著『知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく―』(日本放送出版協会)である。大和三山は、畝傍山を頂点とする二等辺三角形をなし、畝傍山と三輪山頂を結ぶ線が丁度中線となり、しかもそれは冬至の日の太陽の運行線に一致する。この作業は、『縄文夢通信』によって日本列島全体について行われ、『発光するアトランティス』によって世界に拡大される。いわく「地球幾何学」である。
古代における建築、都市が天文学そして宇宙観に大きく依拠して設計計画されたことは疑いがない[ii]。僕自身大いに興味がある。眉に唾しながら、渡辺豊和説につい耳を傾けてムキになって反論したりするのは、何か心の底で共鳴するものがあるからである。
そして、渡辺豊和が当初から拘ってきたのは石である。石造建築、巨石文化である。その古代史に並々ならぬ執念は、イワクラ(磐座)学会を設立(2005)してその会長を現在務めていることにも示されている。
その造形の源、核を解く鍵が、イメージの古代にあることは疑いがない。
地球幾何学
大和に「太陽の都」が眠っていると言いながら、『ヤマタイ国は阿蘇にあった』という。渡辺豊和は、大和に住みながら「大和」主義者ではない。生まれ故郷である「東北」に遙かに強い拘りをもっている。だから、九州説に立つとしてもおかしくないけれど、実は、ヤマタイ国=阿蘇説は、「大和三山」の配置に見出したような、地球上のいろいろな地点、とりわけ古代遺跡、聖地などが一定の幾何学的秩序のもとに位置するという「地球幾何学」の応用と思えばいい。
あるいは、渡辺豊和の脳を刺激し、疼かせ続けているのが「謎」であると思えばいい。ピラミッド、巨石、アトランティス・・・地球上には、確かに、「謎」、そこにあるはずがない「物体」[iii](どうやってつくったのか容易に理解できないもの)が少なくない。誰もが興味をもつテーマとして、日本古代史最大の謎である「邪馬台国論争」に挑んでみせたのである。
『ヤマタイ国は阿蘇にあった』は、しかし、単なる「地球幾何学」の応用ではない。『魏志倭人伝』をきちんと?読んでみせるのである。すなわち、里程や方位だけを問題にするのではなく、中国古代史に分け入って「倭人」のルーツへの関心を広大な世界へ拡大してみせてくれるのである。「倭人は南米ガラパゴス諸島を知っていた」というのは必ずしも荒唐無稽ではない。モンゴロイドの地球拡散過程についても、まだまだ多くの謎がある。
「カッパ・サイエンス」という大衆向けの小著ではあるが、決して「際物」ではない。渡辺豊和がここで強調するのは、「知的冒険」の大事さであり、「地球外視点」ということである。「地球幾何学」が成立するためには「地球外視点」が前提であるが、要するに平たく言えば、既成の見方に囚われないということだ。建築にとっても、重要なのは「地球外視点」なのだ、といいたいのである。
縄文文明
『ヤマタイ国は阿蘇にあった』に先駆けた『縄文夢通信』は、縄文時代の日本列島を隈無く覆う太陽光の光通信のネットワークが張り巡らされていて、この光の刺激を受けて各地のシャーマンが相互に夢告し合っており、「地球幾何学」に基づく地点に縄文文明の遺跡があるいうものである。
縄文か弥生か、日本の建築文化のルーツをめぐる、また建築における「日本的なるもの」をめぐる議論がある。渡辺豊和は、明らかに「縄文」派である。どころか「秋田県生まれの私は縄文人の末裔」[iv]とまでいう。実際、安倍禎任の子孫だと父親には聞かされてきた。平安後期に朝廷に十年以上にわたって徹底抗戦し滅んだ陸奥安倍氏については徹底して調べてきた。『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』[v]を素材に『北洋伝承黙示録』を書いたのも縄文の根拠地としての北東日本、そして陸奥安倍氏への拘りを示している。
そして、渡辺豊和の想像力を大いに刺激することになったのが「三内丸山遺跡」の発見[vi](1994年7月)である。「三内丸山遺跡」をめぐって、メキシコのテオティワカンに思いを馳せたりしている。縄文の火焔土器とマヤ美術の類似も一般的に指摘される。陸続きのベーリング海峡あるいは太平洋を介しての交流は、考古学、言語学、人類学、農学、遺伝学の分野で様々に論じられつつある[vii]。ただ、人口500人程度と推定される「三内丸山遺跡」を「都市遺跡」とみなすのは現在のところ少数意見だ。日本に自生の都市はない、輸入品だという説に僕は与する。しかし、この間、次々に大型建物祉が発見され、日本列島に巨大建築の伝統があったことは最早疑いはない。そして、縄文時代の日本が実に豊かな世界であったことも明らかになりつつある。
そこで、渡辺豊和が興味をもつべきは巨大な木造建築であるが、何故か、木造架構については、実に繊細である。不思議といえば不思議である。後述するように、中世建築における「森への帰還」(縄文の復活)を指摘しながら、それはそのまま「和風胚胎」だったという。すなわち、放浪貴種の子、武野紹鴎があみだした数寄屋にいきつくという。「和風」を語ることのなかっただけに意外であるが、老境に向かいつつあるいうより、本来、木造作品に一貫する繊細ななまめかしさを思うと、そうした感性をもっていたのではないかと思わないでもない。
しかし、一方期待もある。渡辺豊和は、かつて「出雲大社」の復元案をつくっている。福山敏男による壮大な案が知られるが、三本の巨木を金輪締めにした遺構が発見されて、その謎はますます深まる。さらにいくつかの復元案がつくられたが、「出雲大社」を超える、巨大木造建築についての渡辺豊和の想像力をみたいと思う。
異境魔界
初期の著作として重要なのが『芸能としての建築』である。この日本建築史の系譜も、渡辺豊和の著作集の一本の柱である。
冒頭に置かれた「渡職人考」(1)は、自らの立脚点を定めようとする建築家の職能論である。西欧から移入された建築家の概念の日本における根拠の希薄さ、日本の棟梁・大工システムによるその歪曲を指摘しながら、日本の渡職人の果たした役割に思い入れながら、異境(「空間の詩学」)創出こそ建築家の使命であるとする。
この「異境」創出も渡辺豊和に一貫する。そのいくつかに触れた後で(「異境断片収集録」(2))、「平泉」(「幻の平泉へ」(3))、「舞台と劇場」(4)、「金閣寺」「東照宮」(「黄金の夢」(5))そして「密教寺院」(「弘法大師の系譜(6)」)、「巡礼の空間」(7)、「動く家・動く劇場」(8)が触れられる。いずれも、渡辺豊和が感心を抱く日本建築の系譜である。毛綱モン太の「異形の建築」シリーズ(『建築』1972)、「社寺仏閣」シリーズ(『室内』1978)が意識されていたのだと思う。僕も、後に『住まいの夢と夢の住まいーアジア住居論ー』(朝日選書、1997年)を書くが、毛綱毅曠の『詠み人知らずのデザイン』(TOTO出版、1993年)の扱う建築物にしても重なるところがある。どうも僕の建築趣向は、二人に大きな影響を受けたような気がしないでもない。
『天井桟敷から江戸を観る』、『異人・秀吉』、『和風胚胎』は、日本建築史、都市史に関わるこの系譜に属する。
『異人・秀吉』は、『群居』に4年にわたって連載した原稿がもとになっている。住宅をメイン・テーマにする『群居』に、何故秀吉なのか、と思いながら、その想像力の赴くところと、とどめる理由もなく、楽しく読んだことを思い出す。戦国時代を終焉させ、近世への道を開いた信長・秀吉が稀代の建設者であり、近世の城郭、城下町の基礎を築いたことへの関心はもちろんであるが、専ら論じられているのは「異境魔界の現出者」としての秀吉である。
『和風胚胎』は、同じように『群居』連載の「森への帰還」がもとになっているが、丁寧に註が付けられ、随分とアカデミックな体裁が採られていて少し驚く。実に読み応えのある日本中世建築史となっている。自ら『芸能としての建築』の締めくくりだという。建築は芸術ではなく、芸能であること、その担い手は、放浪する工匠たちであることが繰り返されている。「森への帰還」として、もちろん、重源の「大仏様」(天竺様)に触れられる。「和風胚胎」というけれど、渡辺豊和には「重源様式」が相応しいと思う。
昨年(2008年)、不思議な縁で安土城の摠見寺の住職、加藤耕文師に出会い、摠見寺を再建したいという師の願いを知って、コンペを手伝った。渡辺豊和さんに審査員を頼んだのは言うまでもない。審査委員会では、相変わらずの豊和節の全開であった。
曼陀羅都市
渡辺豊和の建築論は、常に都市論を含んでいる。都市と建築の密接な関係は常に意識されている。独立当初に都市再開発のプロジェクトを数多く手掛けたことが大きいと言えるかもしれないが、本来、建築という営為の背景を描き出そうとすれば、都市との関係がテーマとなるのは当然のことである。
「大和に眠る太陽の都」にしても、「アトランティス」にしても古代への関心は、都市であり同時に建築への関心である。秀吉への関心が京都の城下町化(御土居の建設)など都市計画に及ぶのは当然である。
都市計画プロジェクトも、京都造形大学と京都大学布野研究室の共同作品である「百年後の奈良・仏都計画」(1994)、阪神淡路大震災の復興計画として発表された「神戸2100計画」(1996)「再生平安京」(1998)「北九州プロジェクト」(1998)など発表している。都市計画論をまとめたのが『二一〇〇年庭園曼荼羅都市』である。
E.ハワード、F.L.ライト、W.グロピウス、M.v.d.ローエ、ル・コルビュジェなどの近代都市計画を批判しながら呈示する「曼陀羅都市」は、C.G.ユングのいう「元型」となる都市像を基層にもち、歴史的には「曼陀羅都市」の系譜に属する[viii]。東西南北格子による地球被覆の主張など「地球幾何学」を想起させるが、曼陀羅の空間的形式をただ当て嵌めたというものではない。「地形不改変の原則」「地形特性の強調」が第一にうたわれ、地区の自立と自給体制を支える交通体系、エネルギー供給システム、居住空間モデルなどが具体的に提案されている。
ペルシアあるいはイスラーム
渡辺豊和の建築イメージの源泉をめぐって、著作群をみてきたが、もうひとつ触れるべきはペルシアあるいはイスラームである。
「曼陀羅都市」論として、渡辺がひとつのモデルとするのが、ムガル帝国の首都「シャージャハナバード」(オールド・デリー)であり「イスファハン」なのである[ix]。またそれ以前に「飛鳥はきわめてペルシア的様相の濃厚な都市であったことに確信を含めている」といい、「イスラーム圏に旅する機会が多いが特にイランにひかれる」と書いている[x]。
イスラーム建築への造詣も深い。京都に移り住んで、大学が近かったこともあって、京都造形大学の大学院の授業を渡辺豊和さんと一緒に10年余り受け持った。前期は毎週のように会っていたことになる。僕は専ら出版したばかりの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウォータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,学芸出版社,1997)や『アジア都市建築史』(布野修司+アジア都市建築研究会、昭和堂,2003年)を材料にしゃべった。『匠明』や『営造方式』も読んだが、渡辺豊和さんが繰り返し読んだのがアンリ・スチルランの『イスラームの建築と文化』(神谷武夫訳、原書房、1987年)である。渡辺豊和がイスラーム建築の幾何学に魅せられてきたことは間違いがない。その作品の艶めかしい形態が精緻な幾何学に拠っていることはその嗜好と無縁ではないのである。
渡辺豊和の著作に共通するのは、常にユーラシア・スケールでものを見ることである。『扶桑国王 蘇我一族の真実』(新人物往来社、2004年)が「飛鳥ゾロアスター教伝来秘史」を副題としているのがまさにそうであるが、ペルシア(イラン)と日本との交流を様々に読み解いてみせてくれている。ゾロアスター(拝火)教については松本清張の『火の回廊』があり、伊藤義教の『ペルシア文化渡来考』(岩波書店、1980年)もある。古代におけるペルシアと日本の関係はアカデミックにも様々に論じられるところである。蘇我氏に先駆けて安倍氏のルーツをユーラシアに探ったのが『安倍晴明<占いの秘密>』であり、そして秦氏を追いかけたのが新刊『バロックの王 織田信長』である。
[i] 1971年 2月『現代建築様式論』(私家版)/1981年 8月『地底建築論』(明現社)/1983年 6月『芸能としての建築』 (晶文社)/1983年 6月『大和に眠る太陽の都』 (学芸出版社)/1983年 9月『神殿と神話』(原書房)/1986年 1月『現代建築<空間と方法>No.26』(同朋社出版)/1986年 11月『縄文夢通信』(徳間書店)/1987年 11月『天の建築、地の住居』(人文書院)/1988年 11月『建築を侮蔑せよ、さらば滅びん』(彰国社)/1991年 4月『発光するアトランティス』(人文書院)/1991年 8月『天井桟敷から江戸を観る』(原書房)/1992年 4月『離島寒村の構図』(住まいの図書館出版局)/1993年 3月『ヤマタイ国は阿蘇にあった』(光文社)/1995年 5月『癒しの庭』(学芸出版社)/1996年 3月『異人・秀吉』(新泉社)1997年 9月『北洋伝承黙示録』 (新泉社)/1998年 5月『記号としての建築』(昭和堂)/1998年 9月『空間の深層』(学芸出版社)/2000年 6月『建築のマギ(魔術)』(角川書店)/2001年 1月『安倍晴明<占いの秘密>』(文英堂)/2004年 7月『扶桑国王蘇我一族の真実』(新人物往来社)2004年 9月『二一〇〇年庭園曼荼羅都市』(建築資料研究社)/2006年 8月『文象先生のころ毛綱モンちゃんのころ』(acetate)/2007年12月『和風胚胎』(学芸出版社)
[ii] インドにしろ、中国にしろ、古代の都城の理念は、そのコスモロジーと密接に関わっている。インドについては『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(京都大学学術出版会,2006年)である程度明らかにしたところである。北京の東西南北には、日壇月壇、天壇地壇が配されている。北魏洛陽の南郊に置かれていた焔台は天文観測装置である。
[iii] OPAC=Out of
Place Artifacts
[iv] 『和風胚胎』あとがき。
[v] 1947年に五所川原市の旧家和田喜八郎家で発見された古文書。江戸中期寛政元年から文政五年にわたって書かれたものとされる。『市浦村史資料編』(1975年)として刊行された。
[vi] 三内丸山遺跡はすでに江戸時代から知られ、最も古い記録として、山崎立朴の『永禄日記(館野越本)』(1623)がある。また、江戸時代後期、菅江真澄が現地を訪れ、『すみかの山』(1799)に、縄文時代中期の土器や土偶の精巧なスケッチと考察を記している。1953年の慶応大学などによる発掘調査、67年、76年、87年の青森市教育委員会による発掘調査によって、縄文時代中期の大人用の墓が56基、大型住居跡が検出された。そして、1992年度から始まった県営野球場建設に先立つ発掘調査で、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわし、さらに膨大な量の土器や石器などの生活関連遺物や土偶などの祭祀遺物が出土した。1994年7月、直径約1メートルのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱建物跡の発見をきっかけに、遺跡の永久保存と活用が決定された。1997年に国史跡、2000年11月に特別史跡に指定された。
[vii] P.ベルウッド『農耕起源の人類史』(長田俊樹・佐藤洋一郎監訳、京都大学学術出版会、2008年)、『太平洋 東南アジアとオセアニアの人類史』(植木武・服部研二訳、法政大学出版局、1989年)
[viii] 布野修司、『曼陀羅都市』(京都大学出版会、2006年)参照
[ix] 「イスラーム金剛型」「インド胎蔵型」を渡辺は区別するが、イスラーム都市と幾何学については『ムガル都市 イスラーム都市の空間変容』(布野修司+山根周著、京都大学出版会、2008年)に譲りたい。
[x] 『扶桑国王蘇我一族の真実』おわりに。