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2021年4月8日木曜日

現代建築家批評25 建築に何が可能か 原広司の軌跡

 現代建築家批評25 『建築ジャーナル』20101月号

現代建築家批評25 メディアの中の建築家たち


建築に何が可能か

原広司の軌跡

 

 「『建築とは何か』という問いは、『人間とは何か』という問いが不毛であると同様に、行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、『人間に何ができるか』を問うべきである。同様に建築についても、『建築に何ができるか』と問うべきであろう。このふたつの問いの内容には一見さしたる差異もないようにみえるのであるが、実はかなりの断絶がある。」(第一章 Ⅰ初源的な問い)

原広司が『建築に何が可能かー建築と人間とー』(学芸書林1967)を出版したのは30歳の時で、僕が読んだのは20歳の時だ。「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン[i])というフレーズとこの冒頭の一節は、「建築」を志した頃の奮えるような思いに結びついている。

『建築に何が可能かー建築と人間とー』は、建築を学び始めたばかりの学生にとっては難しかった。本郷の製図室で「雛芥子」の仲間たちとあれこれ議論しながら読んだ。建築に人生を賭ける問いがあること、建築には哲学、社会、人間の根源が関わっていること、建築には何よりも理論と方法が必要であることなどは理解できた。読み返してみると、思ったより赤裸々な吐露がある。いささか生硬な文章だと思うけれど、すいすい頭に入って来る。当然であろう。僕らの世代は原広司に学びながら育ったのである。

「デザイナーにとって、したいことの客観性が問題のすべてである。なぜ、そのしたいことがそれであって他でないのか。これが説得力をもたねばならない。つまり、したいことの内容が社会化されておらねばならない。・・・したいことは実証的ではない。」といった箇所に線が引かれている。「第一章 基礎的な見解」「第二章 一般的考察」が全体の1/3を超える分量があり、「第三章 反省―近代建築の方法とその批判―」を加えると3/4が建築に関わる「初源的な問い」である[ii]

『建築に何が可能か』は、今猶、新鮮である。

磯崎新の『空間へ』(美術出版社)が上梓されたのは1971年である。宮内康の『怨恨のユートピア』(井上書院)も1971年である。そして、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(相模書房)が翌1972年である。当時の建築少年たちはこの4冊を貪るように読んだ。当時の日本の建築状況については、この連載の最初に書いた通りである。長谷川堯が痛烈に批判するように、丹下健三、そしてメタボリズムをどう超えるかが既に問われていた。磯崎新と原広司は、そうした中でスターとなった。

 

 伊那谷

1936年に川崎で生まれて、両親の郷里である長野県の伊那谷、飯田市で育った。飯田高松高校出身で一級下に宮内康がいる。同じく東京大学建築学科に進んだ宮内康は、原広司の下(RAS建築研究同人)で設計活動をともにするが、大阪万国博Expo’70をめぐって距離を置くことになる。宮内康から原広司の伊那谷時代について何度か聞くことがあったが、記憶に残っているのは、とにかく優秀だったということである。原広司が自ら自分の履歴を語ることはほとんどないが、伊那谷については次のように書いている。

「飯田市は、天竜川縁りの小さな段丘にある。そこでは、夕暮れ時に、夜明けの方向つまり東方をみる。南アルプスの山々が、刻々と変化する赤い残映と化すからだ。また、日中は、陽ざしを受ける背後の山々を、ふりかえって見ることになる。谷の地形が、独特の光の見方と方向定位を誘い出しているのである。やがて、世界の僻地に集落を訪ねて遊ぶことになったが、そこで出会った数々の感動的な風景は、小さな伊那谷でかいまみた光が増幅された風景であった。」[iii]

「もし能力があれば・・」という留保付きであるが、「二千五百メートル低い位置の谷底から、氷山のように浮上している山々に移る夕陽の変化を一分間眺めただけで」、三百の絵画、詩、建築ができるはずだ、と続ける。

数学者になりたかった、ともいう[iv]。その数学への愛は一貫する。しかし、基本的な資質としては芸術家肌であり、建築家が天職であったのだと思う。

 

 RAS

1954年に東京大学に入学、1959年に卒業、大学院に進んで、1961年に修士を終えて博士課程に入学すると同時にRAS建築研究同人を設立、建築家としての活動を開始する。245才でいきなり設計活動に入るのはいささか早いと思われるかもしれないけれど、当時は普通であった。僕が吉武研究室に入った頃も、石井和紘(1944~)[v]、難波和彦(1947~)[vi]LANDIUMを開設、大学院にいながら設計を始めていた。研究室での設計活動が産学協同(癒着)として批判されたのは東大闘争の過程である。宮内康が東京理科大学を解雇された理由のひとつも大学において設計活動を行ったことであった。以降、大学外に事務所が設けられるようになるのであるが、それ以前は研究室で設計をするのは当たり前だったのである。

RASに参加したのは、香山寿夫(1937~)[vii]、宮内康らの他、三井所清典[viii]がいる。三井所は1963年にRAS建築研究同人に参加し、その解散(1970年)まで番頭役をつとめている。

 原広司は、「ビルディング・エレメント(BE)論」で学位(工学博士)を取得後、東洋大学助教授に就任(1964)、1969年に東京大学生産技術研究所助教授として呼び戻される。それとともにアトリエ・ファイ建築研究所を設立、現在に至るまで設計活動の拠点としている。

デビューは、東洋大学時代である。30才の誕生日に、羽田国際空港で夫人・若菜氏に『建築家に何が可能か』の原稿を託してヨーロッパに旅立ったというが、既にいくつかの作品が実現していた。「伊藤邸」(1966)は、彰国社が出していた学生向けの設計計画パンフレットに載っていて、こんな住宅もありうるんだ、とわくわくしたものである。僕が1978年に東洋大学に赴任して初めて知ったのであるが、東洋大学川越キャンパスの周辺で、角栄団地とか霞ヶ関小学校とか、角栄建設と関わりある仕事を結構RASはしている。Wikipediaの年表では、処女作として佐倉市立下志津小学校(第1校舎)(1967)が挙げられるが、その名を知らしめたのは、『建築年鑑』賞を受賞した「慶松幼稚園」(1968)である。 

 

 万博批判

呼び戻された東大は、東大闘争の渦中にあった。若手の助教授として警備などに駆り出されたという。原広司が、指導教官であった内田祥哉ではなく生産研究所の池辺陽に呼ばれたこと、まず研究室に入室したのが入之内瑛であり、山本理顕であったこと、そして、僕ら「雛芥子」主催のシンポジウムで原広司と「雛芥子」は直接知り合い、原広司の呼びかけで自主ゼミを始めたことなどについては既に書いた。

この時期、原広司は学生たちの集会にも熱心に顔を出している。「反万博(Expo’70)」をうたう「建築家‘70行動委員会」と原広司は、建築家の万博参加をめぐってやりあっている。万博参加を批判する学生たちに対して、「そういう公式論を立てている限り、絶対に伸びないと思うね」[ix]と言い放っている。この断言には、1960年の「安保闘争」に対する総括が裏付けとしてあったとみていい[x]。大衆化による「平均化状況」こそ原広司が乗り越えようとするものであった[xi]。問題は「建築家に何が可能か」なのである。

このやりとりを引いて、原広司を「建築至上主義者」といい、「問題は、建築が、あるいはデザインが果たして可能なのかということであり、万博参加者は、その問いを最も鋭く問いつめる機会を持ち得たにも拘わらず、決断の時点でそれを放棄したのである」と痛烈に批判したのが、同じく「60年安保体験」を思考の原点に起き続けた宮内康の『怨恨のユートピア』である。かつてRASで設計活動をともにした、しかも高校の先輩後輩である二人の間に亀裂が走り、二人は方向を異にしていくことになる。「住宅から万博参加者までこの「建築は可能か」の問いは今や問われつづけており、町の名もない建築家ですらこの問いから逃れることはできないのだ」という宮内康の『怨恨のユートピア』もまた多くの学生を捉えた。戦後建築をリードしてきた前川国男が「いま最もすぐれた建築家は何もつくらない建築家である」(1971[xii]といい、原広司もまた別に一方で、平良敬一、宮内嘉久らと「AF(建築戦線アーキテクチャー・フロント)なるグループを組織し、日本建築家協会(JIA)にデモをした時代である。

 

 集落へ

東京大学に赴任してプロフェッサー・アーキテクトになって以降の10年、すなわち1970年代の原広司の仕事は、基本的に住居の設計である。後に内藤廣によって建替えられることになる「海の博物館」(1971)があるが、粟津潔邸(1972)、自邸 (1974)、松欅堂(1979)など、年に一作もない。

原広司が向かったのは世界集落調査である。「地中海」を皮切りに「中南米」「東欧・中東」「インド・ネパール」「西アフリカ」をめぐるその「集落への旅」は、山本理顕に即して触れたが、全部で5回に及び、『住居集合論15』(鹿島出版会19731979)としてまとめられる。

何故、集落へ向かったのか。「未来のための一枚の建築や都市のスケッチを描くため」にである。

『建築に何が可能か』を読み返してみて、専ら近代建築が論じられるが、必ずしも集落へ向かう気配はない。20年後、東京大学定年退官の時に『集落の教え100』(彰国社1998)がまとめられ、世界集落調査が原広司の設計にとって、大きな源泉となってきたことがわかるが、5回の紀行文をまとめた『集落への旅』(岩波新書1987)のあとがきには、簡潔に以下のようにある。

1970年代は、近代建築が大きな変貌をとげた時代である。・・・この変動期のさなかにあって、建築家はふたつのレファレンスをとった。ひとつが古典建築であり、もうひとつが集落であった。私たちは、結果としてみると、後者を参照することになったのである。」

古典建築へ向かったのは磯崎新であり、「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる潮流がそれを包み込んでいくことになった。「集落への旅」もまたB.ルドフスキーの「建築家なしの建築家」以降多くの建築家を捕らえてきた。その「集落論」「住居集合論」の位相については後に見よう。

 

「住居に都市を埋蔵する」「最後の砦としての住宅設計」

仕事がなかったのは、原広司だけではない。1973年、そして1978年と二度のオイルショックに見舞われた1970年代は、ほんとに建築が建たなかった。『建築文化』の編集長であった田尻裕彦(1931~)[xiii]さんが扱う作品がなくて困るとこぼしていたことを思い出す。銀座からネオンが消え、深夜のTV放映は自粛された、そんな時代である。

そんな1970年代に若い建築家たちを勇気付けたのが、「建築に何が可能か」という問いかけであり、「住居に都市を埋蔵する」そして「最後の砦としての住宅設計」というスローガンである。他に「はじめに閉じた空間があった」あるいは「離れて立つ」など、メタフォリカルな言い回しは原広司の真骨頂でもある。

1960年代初頭に、一斉に「都市づいて」いった建築家たちは、未来都市の虚構を万博会場に一瞬見た後、都市からの撤退を迫られていった。「きみの母を犯し、父を殺せ」とマイホーム批判によって若い建築家を挑発したのは磯崎新であったが、親あるいは親戚の小さな住宅の設計を仕事として得て、「新奇な住宅」によってデビューするのがひとつの道であった。事実、これまでに見てきたように、日本のポストモダンの旗手たちは住宅作品をひっさげてデビューすることになるのである。ただ、評価されたのは、単純な「新奇さ」ではなく、ひとつのモデルたり得る住宅かどうか、という点においてである。

その鍵が住居と都市の関係、「住居に都市を埋蔵」しているかどうかなのである。だから、ささやかな住宅設計の仕事をしながらでも都市を考えることができる!というレヴェルのメッセージではない。冒頭に「住居の歴史は、(十全な生活を可能にする)機能的要素が都市に剥奪される歴史である」と言い切り、だから「なにもかも収奪されてしまった人間にとって、防衛の拠点としての住居をつくりたい」[xiv]というのである。

1970年代に、もうひとつ、「ものからの反撃」[xv]という力強いメッセージを原は投げかけた。当時、岩波書店に「文化の現在」というシリーズ企画があって、山口昌男、中村雄二郎、鈴木忠志といったメンバーによる編集サロンが組織されて、建築家として磯崎新とともに参加していた原広司は、文化における言語・記号系の優位にたいして、建築という「もの」の力を強調するのである。建築をインタージャンルに開く役割を原広司は磯崎とともに担うことになるのである。

 

 商店街から超高層へ

原広司が日本建築学会賞を「田崎美術館」で受賞するのは1986年である。50歳での受賞は遅い。1980年代に入って、「鶴川保育園」「末田美術館」(1981)年と小規模な佳品が続くが「田崎美術館」も公共的な建築といえども小品である。学会賞を記念する『建築文化』の特集に槇文彦先生と一緒に軽井沢に行った時のことを思い出す。槇・原が親しいことはよく知っていたが、車中二人が話すのは専ら共通の趣味である将棋[xvi]のことであっけにとられた記憶がある。

建築家としてのステップアップとしては、むしろ、「ヤマトインターナショナル(東京本社)」(1987)の方がデビュー作という印象が強い。以降、「那覇市立城西小学校」「飯田市美術博物館」など作品が相次ぎ「梅田スカイビル」(1993)まで一気である。

70年代から80年代にかけて、原広司が手がけたのが「群馬・渋川駅前商店街83街区」(1983)という興味深いプロジェクトである。住宅設計から一歩踏み出したのは、今日でいう街づくりであった。随分通って、合意形成に翻弄される。隣通しの垣根を取り払うこと、後ろ庭をつないで通路を採るといったことだけで随分時間をとった。当時、しばしば会う機会があったのであるが、ほとほと疲れた、二度とやりたくないとこぼすのを聞いたことがある。

しかし、それにしても「最後の砦としての住宅設計」から商店街へ、そして超高層ビルへ、あざやかな絵に描いたような軌跡を辿ったのが原広司である。

 

 地球外建築へ

 「空中庭園・連結超高層建築」として「梅田スカイビル」を実現させ(1993)、並行して「未来都市500m×500m×500m」構想(1992)をまとめると、一方で「京都駅ビル」(JR京都駅改築国際設計競技最優秀作品、1991)の設計を開始しながら、一方で「地球外建築Extra-Terrestrial Architecture」の構想をまとめる。未来工学研究所から月面の建築についての可能性を依頼されるのである。

 日本建築の1990年代は、2つの巨大建築を実現させた原広司の時代であったといえるかもしれない。「地球外建築」を巻頭にまとめた作品集『原広司』[xvii]は「建築の可能態」という副題が付されている。「地球外建築」のプロジェクトは単なる月面建築のデザインではない。「地球外建築」の提案は、「新しい宇宙風景の構築」であり、「世界風景の拡張計画」であり、「宇宙社会の在り方の提案」である。地上300kmの高度で地球を周回する宇宙ステーションである直径10kmの「LEO(地球低軌道)リング」「月面地球広場」「地球居住区」「宇宙庭園」「中継基地」「宇宙牧場」などが描かれる。原広司の構想力は、ついに宇宙にまで拡大膨張するのである。

 そして、21世紀に入って、札幌ドーム2001)、しもきた克雪ドーム(2006)などドーム建築を手掛けるなど、押しも押されもせぬ堂々たる建築家となった。

ところが一方、東京大学を定年退官(1997)になって、南米ウルグアイに通い始めることになる。国際セミナーに招かれたのが直接のきっかけであるが、毎年セミナーやワークショップを行う中で、不法占拠者たちのための実験住宅を建設するプロジェクトが持ち上がる。その全過程をまとめたのが『DISCRETE CITY』(2004[xviii]である。

その中で原広司は、大江健三郎に「集落の教え」に対して、恩返しとして新しい集落をつくったらどうかと言われ、非常に痛いところを衝かれたと思ったことが、実験住宅建設に結びついたのだと振り返っている。

最後の砦としての住居から集落へ、そして超高層から地球外建築へ突き抜けた末に、不法占拠者たちの実験住宅へ、原広司の軌跡はその円環を閉じたようにみえる。



[i] 『アデン アラビア』ポール・ニザン著作集1,篠田浩一郎、晶文社、1966

[ii] 1960年代に書かれた「建築の創造に関する考察」(カオティシズムの意義と創造性の問題 客観性・価値判断 建築諸活動とそれらの連関性)(『建築』19621012月号)、「平均化の状況における建築家の立場」(『建築年鑑』1963年版)、「露出した美学とその建築」(『国際建築』19651月号)、「建築の方法」(部分と総体の論理 形態形成の論理)(『建築』196513月号)、「有孔体の理論とデザイン」(『国際建築』19666月号)などが基礎になっている。

[iii]  『空間<機能から様相へ>』P1

[iv]  「チカチカ数学者になりたい」『デザイン批評』1969

[v] 石井和紘建築研究所。東京大学吉武泰水研究室出身。博士課程在学中に、直島小学校(1970年)でデビュー。代表作に「ジャイロルーフ」(甍賞、1987年)「数奇屋邑」(日本建築学会賞受賞、1989年)など、著作に『イェール建築通勤留学』(1977)『私の建築手法』(1994)『建築の地球学』(1997など。

[vi] 界工作社、東京大学教授(2003~)。東京大学池辺陽研究室出身。

[vii] 東京都生まれ。 1960 東京大学工学部建築学科卒、1966ペンシルヴァニア大学美術学部大学院修了(M.Arch)、ルイス・カーンに師事する 。東京大学名誉教授(工学博士)有限会社香山壽夫建築研究所所長。1996日本建築学会賞彩の国さいたま芸術劇場)、2000公共建築賞、2002日本建築学会作品選奨、2005日本芸術院賞受賞。

[viii] 1963年東京大学建築学科卒業。アルセッド建築研究所。東京建築士会会長。芝浦工業大学名誉教授。

[ix] 「座談会 われわれは不可能に挑戦する」『デザイン批評』N0.81968

[x] 原広司は『建築に何が可能か』を60年安保の書という(『空間<機能から様相へ>』「序」)。

[xi] 「この(安保闘争の)大衆化した運動は、統一的な像をむすぶどころか、ずれを露出した。と同時に、統計と平均の馬鹿さ加減をさらけ出した。・・・デモに参加した数十万人というスケールが私にショックを与えた。ずれの露出は、私を連帯の希求ではなく個の充実に走らせた。・・・ずれが止揚されるという教条は幻想にすぎない。ずれたままで連帯ははかられねばならない。ずれを永続的に解消しようとすれば、平均が待っているだけだ。その平均たるや、まさに幻想の自慰行為である。」(「歴史も喚問する」『建築に何が可能か』)

[xii] 『建築家』1971年春号

[xiii] 早稲田大学文学部卒業。60年彰国社入社。『建築文化』編集部員、『施工』創刊編集長を経て、70年『建築文化』編集長。その後、企画室長の任期を挟んで82年まで『建築文化』編集長。

[xiv] 『別冊 都市住宅』住宅特集11、鹿島出版会、1975年秋

[xv] 「ものからの反撃-ありうべき建築をもとめて」『世界』19777

[xvi] 『空間<機能から様相へ>』で「空間図式」を説明する際に「私は将棋のプロの棋士たちにたちに強い関心をもっている。・・・この二〇年間に、将棋の三世代を見てきた。・・・米長邦雄がライバルの中原誠との対局で指した「6七金寄」は、・・・現代日本の精神史のなかで光っている」などと書いている(「序」)。

[xvii] 鹿島出版会、1995

[xviii]  TOTO出版2004

2021年4月7日水曜日

現代建築家批評24  地球に根ざして・・・周縁から  象設計集団の作品

 現代建築家批評24 『建築ジャーナル』200912月号

現代建築家批評24 メディアの中の建築家たち


地球に根ざして・・・周縁から 

象設計集団の作品

 

樋口裕康,富田玲子は既に古希を迎えた。「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(杜甫曲江詩)という。樋口さんなどとっくにこの心境であろうか。富田さんが『小さな建築』(2007年)をまとめたのもひとつの区切りが意識されている。ふたりとも,最近は講演で忙しそうである。十勝の拠点では,町山一郎さんが「象精神」溢れるブログを書き続けている。

象設計集団は,集大成の時期を迎え,世代交代というべきか,第二期象設計集団のスタートというべきか,さらに新たな展開が期待される段階に入っているといっていい。

 『空間に恋して』が「いろはカルタ」に見立てて編集されているのは象らしい。「笠原小学校」の外廊下の柱一本一本には、「江戸いろは」の句が刻み込まれているし,ナントのワークショップ(2001)でも,「いろは」47文字を使って作品や考え方を掛け軸にしていた。『空間に恋して』には,長文も短文もある。視点も視野もばらばらである。体系を嫌うといってもいい。しかし,「決して気まぐれではない。どの言葉にも私たちの思いが込められている」のである。

 「7つの原則」があるから,それ以上の整理はいらない,具体的作品[i]の多様性にゆだねるということであろう。

僕は,『戦後建築論ノート』(相模書房,1981年)の最後に,日本建築界の行方を論ずる中で(「閉じつつ開く」),次のように書いた。それから30年近く経つ。今もその期待は変わらない。しかし一方で,象設計集団のこの間の活動が一段落するのを振り返るとき,中心,すなわち,都市を果敢に攻めることこそいまや問題ではないか,と思い始めている。

「一つの指針は,その場を中心的なるものと周縁的なるものとの境界に設定することである。制度と空間とのヴィヴィッドな空間を見つめうる場所に設定することである。そして,さらに,そこでの具体的な活動を,少なくとも,時間軸としての昭和,空間軸としてのアジアによって張られる時空の広がりのなかで,繰り返し位置づけていくことである。

具体的な試みも,すでに多様に開始されているといっていい。たとえば,象グループの沖縄での仕事や内田雄造,大谷英二等の土佐・高知の被差別部落の計画は,もっとも先鋭にその方向性を示すものであったといっていい。市民社会から疎外された被差別部落,本土から疎外され続けた辺境の地,沖縄,いずれも,われわれにとって周縁の世界であった。」

 

 コミュニティ・アーキテクトの可能性―地域と建築家―

 地域と象設計集団というと,まずは「沖縄」である。そして,「宮代」であり,「宜蘭」であり,「十勝」である。70年代,80年代,90年代,そして2000年代とオーヴァー・ラップしながらも地域との関わりの密度は移行してきている。

地域と建築家の関わりといっても,いくつかのレヴェル,アプローチの位相がある。第一に,地域と建築家の持続的関わりの問題がある。また,建築家の居る場所,依拠する場所としての地域がある。タウンアーキテクト,コミュニティ・アーキテクトとして地域に関わるのと,「世界建築家」として地域に関わるのかは決定的に異なる。第二に,地域づくりと建築との関係の問題がある。たとえ,一個の「小さな建築」であれ,その設計を都市計画,地域計画の一環として捉えるか,自己表現の機会ととらえるか,あるいは新規の技術あるいは新奇な形態の実験ととらえるかは決定的に異なる。そして,第三に,地域性をどう表現するか,地域の中から,どのような建築言語を引き出すのか,という建築の方法のレヴェルがある。

コミュニティ・アーキテクトあるいはタウンアーキテクトのあり方を問題とする中で,コミュニティ・アーキテクトは「地」の人なのか,「風」の人なのか(あるいは「火」の人か)ということが問題となる。すなわち,コミュニティ・アーキテクトは,地域に住み地域の生活者であり続ける必要があるのか,「風」のように地域を吹き抜けながら,地域の価値を発見する役割を担うのか,という問題である。「火」の人というのは,マッチポンプのように火をつけるけれど,あとは地域を顧みない,あるいは,建築作品を建てるだけで地域を顧みない(「やり逃げ」)建築家のことである。

地域にとっては,「地」の人も,「風」の人も,場合によっては「火」の人も必要である。しかし,建築家としては,常にそのスタンスが問われる。象設計集団が十勝を拠点にして20年になる。その仕事の多くが十勝を中心とした北海道となるのは必然である。廃校を事務所に転用することを皮切りに,広々とした土地,厳しい冬を背景にしながら,「北海道ホテル」(1995-2001)「森の交流館」(1996)「十勝ビール」(1997)「高橋建設」(1998)・・・と場所の表現が追求されつつある。帯広には,五百もの建築を建てた五十嵐正[ii]のような建築家がいるけれど,象設計集団の場合,最終的にローカル・アーキテクト(地方建築家)になろうというわけではないであろう。

地球に根ざしているかどうか、それが問題なのである。

 

 発見的方法

 沖縄に先だって,吉阪研究室における大島計画がその原点と言われるが,象の方法の出発点はフィールドワークである。「一刻一刻が発見」であり,「こんな面白いことが他にあろうか」というフィールドワークが「建築そのもの」であるというのは,「発見のための視点と視野,実現のための手段と工夫,どれがいいのかそれをみんなで見つけよう」(吉阪隆正)という行為だからである。

 沖縄でのその実践は鮮やかであった。今でも,象の沖縄の仕事を特集した『建築文化』[iii]のコピーを持っているほどだ。折に触れて学生たちに配るのである。

 「山原(ヤンバル)」の土地利用,自然生態の分析,「環境構造線」と名づける景観分析,方言地名の分析,「ウタキ(御獄)」「アサギ」といった場所の意味を読み解く集落の空間構造の解析,水系の分析,「ヒンプン」「シーサー」といった建築的要素,街のディテールの発見といった地域の自然文化社会の生態空間を捉える手法が既に示されている。その地域空間へのアプローチは,ひたすらその古層へ向かい,歴史的空間の型をステレオタイプ化するのではない。コンクリート・ブロック(花ブロック)も発見されるのである。戦災を受けた沖縄に,米軍が戦後持ち込み一般的に用いられてきたコンクリート・ブロックが「今帰仁村中央公民館」「名護市庁舎」に積極的に用いられることになる。照明,時計塔,鐘つき塔,風見・方位塔,パーゴラなどがブロックでデザインされることになる。すなわち,建築生産体制もまたフィールドワークによって発見されるのである。

 インドネシアを歩き始めた(1979年)頃のことを思い起こす。日本も戦後まもなくはこんな状況ではなかったかという住宅問題,都市問題を目の当たりにして,建築家はどうするのか,何をどう組み立てるのか,ということを随分考えた。直感的に自明であったのは,何か理念的なモデル(平面型)を呈示するだけでは何も動かない,ということである。すなわち,地域(場所)で調達可能な建築材料,職人集団が継承してきた技能,建築生産体制を前提とすることが出発点になると言うことである。

 

 新しい村

 沖縄での方法は,今日喧伝されるエコロジカル・プランニング,エコロジカル・デザインの手法をはるかに先取りするものであったと言っていい。沖縄という,本土から疎外され,その戦後復興,高度成長から取り残されてきたが故に,場所のポテンシャルを維持してきた地域だから成功したということではない。台湾という中国本土からみれば「化外の地」であった場所だから象流のアプローチが成功したということではない。その第一原則である「場所の表現」は,あらゆる場所で有効であるのが前提である。

 そのアプローチが首都圏においても可能であることを示したのが宮代町である。宮代町は,富田玲子の疎開先でその後も夏休みを過ごした町であり,「世界のどこにもないものを」といった宮代町の町長,齋藤甲馬は富田玲子の叔父(父の兄)であるという縁があった。建築家を育てるのはこうした縁であり,自治体に一人のすぐれた人物―コミュニティ・アーキテクト―が居れば,公共建築については思い切った挑戦ができる。「進修館」(1980)は,「低層建築でいい」「議会を円卓でやる」「使わないときは町民ホールとして開放する」という町長の提案が大きかった。

 設計については,「宮代の風景をつくる」「街の軸づくり」という方針が意識されている。環境構造線を意識的に創り出そうというのである。「進修館」を街中の屋敷林と見立て,世界の中心として,街の軸としての南北軸,筑波山―富士山をつなぐ軸に,同心円を重ねるプランは,コスモロジー派の方法を思わせる。「遠い宇宙,南極,北極,富士山,筑波山をこの場所に呼び寄せてしまおうと欲張ったのです」と富田はいう。

 「進修館」とともに「笠原小学校」(1982)の設計も町から委託される。「教室は住まい」であり,「学校は街である」という象の一連の学校作品の最初の作品であり,代表作といっていい。象設計集団にとって宮代での仕事が大きいのは,その後も持続的な関わりを維持してきているからである。「笠原小学校」の南にあった老朽化した町役場の代わりに,「進修館」の南に地元の建築家たちによって木造新庁舎が建てられ,町役場の跡地に,「農のあるまちづくり」計画のシンボルとして「新しい村」が計画されつつある。地産地消の流通システム作り,「メイド・イン宮代」の商品開発,市場,工房,集落農園,育苗温室,機械化センターの整備など農家をサポートする施設が集中するのが「新しい村」である。

 首都圏の町とは言え,江戸時代に新田開発(ほっつけ(堀上げ田))によって拓かれた場所である。市街地の近くに位置しながら未だかつての農村風景を残している。ほっつけの再生と森の拡充が「新しい村」の中心テーマである。  

 

 社区総体営造

 前述のように,台湾での仕事も,郭中端という吉阪研究室のかつてのメンバーを通じての縁である。「冬山河親水公園」以降宜蘭で次々に懸の行政中心の建築を次々に設計してきたことも上述の通りである。1988年に設立された象設計集団の台湾事務所には今では,かなりのスタッフがいる。東京事務所とともに,南北から日本を挟撃する鮮やかなシフトを敷いていることも,既に触れた通りである。

 台湾には,東南アジアに通い始めて(1979年)以降,その行き帰りに度々訪れる機会があった[iv]。李登揮が初代大統領に選ばれる時も,次の再選の時も,さらに民進党の陳水扁が大統領になった選挙の時も,1999921集集大地震の調査で台湾に居た。だから,台湾の街づくりについては,それなりによく知っているつもりである。もともと移民社会であり,しかも国民党の相互監視システムにおいて,1980年代末まではコミュニティーなど存在しないに等しい状況であった。

38年間続いていた戒厳令が解除された1987に象設計集団の宜蘭行きも開始されるのであるが,翌年蒋経国が死去し,李登輝副が本省人として初めて総統に就任して以降,社会の基礎としての地域社会の構築(再建)を目標に掲げ,運動の先鞭をきったのは行政院文化建設委員会の陳其南である。彼の発案,主導の元に開始されたのが「社区総体営造」運動(1994)である。並行してノーベル化学賞受賞者の李遠哲中央研究院(SINICA)院長を会長に「社区営造学会」も立ち上げられた。その中心にいたの,早稲田大学で重村力らと「生活集積としての都市研究」を展開してきた陳亮全(台湾大学)である。

陳其南とは何度か「社区総体営造」をめぐって話をしたことがある。彼が言うにはアメリカ流のCBD(Community Based Development)ではなく日本の「まちづくり」に学んだのだという。もしそうだとすれば,象設計集団の台湾での影響力はわれわれの想像以上といっていい。

 昨年(2008年),陳其南も招いて,「社区総体営造 (台湾まちづくり)の課題」(日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建,社區營造與地域建築師(Town Architects))(日本建築学会建築計画委員会春季学術研究集会)というシンポジウムを台北で開催したのであるが,そのシンポジウムで黄聲遠という若い建築家に出会った。そして,その宜蘭での一連の仕事を見て驚いた。イエール帰りだというけれど,現場に模型を吸えてあれこれ検討したり,いかにも泥臭い。その方法は,まるで設立当初の象設計集団なのである。台北から遠く離れた宜蘭のオフィスビルに30人もの若者が寝泊りして,駅前の倉庫の改造,バス停の設計,遊歩道の整備などありとあらゆる仕事を手がけている。台湾で黄聲遠は既に有名でTV特番もつくられている。象の遺伝子が地域に根づいていく,確かな道筋が見えたと思った。

 

 石・土・瓦・竹・木・・地・水・火・風・空

 あまりにも「ぺらぺら」「ひらひら」「すかすか」の建築が多すぎるなかで,象設計集団の作品群の存在感は際立っている。石・土・瓦・竹・木・・・とにかく,自然材料,生物材料を使う。そして,地・水・火・風・空,自然の中に建築空間を成立させる。象設計集団の作品群から,様々な素材の使い方,ディテールを学ぶことが出来る。「高野ランドスケーププランニング」との一貫するコラボレーション,「カワラマン」山田脩二の「淡路かわら房」との連携などがそれを支えてきた。

 藤森照信が,日本の建築家を,物の実在性を求める「赤派」と抽象性を求める「白派」の二つに分けたことに前に触れたが,象設計集団の場合,正真正銘の「赤派」である。藤森の「自然素材への拘り」がどこか「遊び」(数寄)のように思えるのに対して,象設計集団は,自然素材,生物材料を本来的なあり方に即して使う迫力がある。それは,ヴァナキュラー建築の世界に通ずる創意工夫の世界である。

 象設計集団の作品群に,何故か(どういうネットワークなのか),能都町・縄文真脇温泉(1993,草津温泉・白旗の湯・湯畑広場(1994,かんなべ湯の森・ゆとろぎ(1994,丹後宇川温泉・よし野の里(2001)など温泉シリーズがある。十勝の一連の仕事にしても,雄大な自然の中に佇む建築が象設計集団にはふさわしいように思える。「仕事と遊びの日々を堪能する異能の集団」[v]にとっては,何よりも,自然が前提である。「野外パーティーを開ける庭付きの空間」が欲しくて十勝に引っ越したのである。

 

 都市へ

十勝を拠点として,北海道を中心に仕事をしていくのはいい。沖縄,台湾,十勝に限らず地域再生の課題はそこら中に転がっている。しかし,一方,われわれが直面しているのは都市再生という課題である。象の都市再生も見たいと思う。問題の根は「都市と農村」の関係にあるのである。

抜き刷りをもらって読んだのだけれど、重村さんの神戸大学退任記念の講演は「生命循環都市へ」と題されている。そして、「物質循環から生命の循環へ」向かう都市のあり方を展望している。重村さんもまたチーム・ズーの一員として地域(農村計画)をベースに仕事をしてきたのであるが, 「持続型社会」「循環型社会」「低炭素社会」といった言葉が軽やかに流布するなかで,問題の根が,都市と農村との関係の根源にあることを指摘しているように思えた。

富田さんの『小さな建築』に,「樹木のような高層建築」「穴あきチーズのような建築」「集落的建築」のスケッチがある。象設計集団にしてみれば余計なおせっかい,ということになるかもしれないけれど,そうした建築を都市(東京)で見たいと思う。住宅作品を除くと,東京での仕事は少ない。そうした中で,「葛飾の家」(1998)「武蔵野の家」(2001)という特別養護老人ホームの仕事がある。これは集合住宅といっていいけれど,住宅が一戸一戸集まって,街になり,都市になっていく,そんな象の作品を見たいと思う。



[i] 象設計集団の主な受賞:1977・芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門)今帰仁村中央公民館/都市計画学会石川賞 沖縄における一連の都市計画:1979・名護市庁舎公開設計競技 最優秀賞:1982・日本建築学会賞/甍賞 銀賞/労働福祉事業団山口保養所 錦グリーンパレス:1987・甍賞 金賞 /安佐町農協生活文化会館
1990・日本デザイン賞 大賞 ドーモ・チャンプルー/横浜市街並み景観賞 磯子アベニュー:1991・RACコンテスト グランプリ/みちのく杜の湖畔公園インフォメーションセンター/・台湾 カマラン賞/冬山河風景区親水公園における価値観と仕事上の態度/たちかわ市デザイン賞 市長賞 /昭和記念公園こどもの国インフォメーションセンター:1994・石川県景観賞 大賞 能都町縄文真脇温泉/ドイツ Frankfurter Zwilling 賞/北海道立釧路芸術館公開設計競技 最優秀賞
1996・フランス バール樹木園指名設計競技最優秀賞:1997・全税共地域文化賞 /地域における芸術文化の振興に資する活動:1998・多治見市立中学校指名設計競技 最優秀賞/広島街づくりデザイン賞大賞 矢野南小学校:2000・台湾「公共工程品質賞」金賞受賞 宜蘭縣議会:2001・台湾「公共工程品質賞」金賞受賞 土牛小学校
2002・文部科学大臣奨励賞賞受賞 多治見中学校/第8回公共建築賞優秀賞受賞 矢野南小学校:2003・北海道赤レンガ建築奨励賞 高橋建設/エコビルド賞受賞 高橋建設/台湾「優良緑建築設計賞」 宜蘭県庁舎:2004・第10回石川県景観賞 石川県九谷焼美術館

[ii] 建築家五十嵐正帯広で五百の建築をつくった文:植田実,写真:藤塚光政,西田書店)

[iii] 19779月号

[iv] また,京都大学の布野研究室にもかなりの台湾からの留学生がいて,彼らとともに何度かフィールド調査をする機会があった。黄蘭翔(台湾大学)と若くして亡くなったが,闕銘宗が布野研究室の台湾研究の中心であった。闕銘宗,布野修司,田中禎彦:新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997月/闕銘宗,布野修司,田中禎彦:台北市の寺廟,神壇の類型とその分布に関する考察,日本建築学会計画系論文集,526,p185-192,199912月/闕銘宗,布野修司:寺廟,神壇の組織形態と都市コミュニティー:台北市東門地区を事例として,日本建築学会計画系論文集,537, 219-225,200011月。

[v] 『空間に恋して』帯








2021年4月6日火曜日

現代建築家批評23 現場(フィールド)から  象設計集団の7つの原則

 現代建築家批評23 『建築ジャーナル』200911月号

現代建築家批評23 メディアの中の建築家たち


現場(フィールド)から 

象設計集団の7つの原則

 

 象設計集団の著作は極めて少ない。作品集として編まれた『象設計集団』(鹿島出版会,1987)と『空間に恋して』(工作舎,2004年),そして,富田玲子の自分史といっていい『小さな建築』(みすず書房,2007)がほとんど全てである[i]。「メディアの中の建築家たち」というにはふさわしくないのが象設計集団である。

 そして,言葉だけの理論とか方法論,体系化から遠いのも象設計集団である。

 建築は理屈ではない!建築は言葉だけではない!

 「方法論を場所にもち込むのではなく,場所がもつ初源的な力を発見し,それらを収斂させること」[ii]が重要である。

確かにそうだ。

もちろん、建築設計に言語は不可欠であるし,その建築思想を伝え広げていくためにはメディアが必要である。ただ、設立メンバーであるTHOには,そうしたメディア戦略が希薄であったといえるかもしれない。裏返せば,そうした戦略など必要としない,恵まれたネットワークが象設計集団を支え続けたということであろう。象設計集団のすごいところは,沖縄から北海道までフィールドに収めて,チーム・ズー(動物園)という組織(ネットワーク)を一気に創り上げたことである。まちづくりと建築,地域おこし(再生)と建築を逸早く鮮明につなげて見せてくれたのが象設計集団である。

一方,これはまさにメディアの問題と言っていいのであるが,象が北海道(十勝・帯広)へ移転してから,地域をベースに活動する建築家のあり方が建築ジャーナリズムから消えていったように思う。重村さんが「俺は象のスポークスマンだ(った)」というのを何度か耳にしたような気がするけれど,象設計集団の方法をより拡大していく批評家なり理論家なり、メディア戦略がさらに必要だったかもしれない。もしかすると,日本のまちづくりの四半世紀の後退に繋がったのかもしれないのである。しかし、象設計集団が早すぎたと言ってもいい。まちづくりと建築,地域おこし(再生)と建築が本気で追及されだすのは、阪神淡路大震災(1995年)以降であり、地球環境時代が意識され出すのは今世紀に入ってからなのである。

チーム・ズー(動物園)というかたちの鮮やかな集団ネットワークもその継承が問題となる。そのときに必要なひとつが塾やワークショップを含めた持続的な教育機関であり,理論,方法,体系ということかもしれない。しかし,現場(フィールド)でしか伝えようのないものが「建築」である。

 

 小さな建築

「小さな建築」と富田玲子はいう。「小さな建築」というのは,均質で画一的な空間をただ積み重ねただけの超高層ビルの林立する都市,地下に閉鎖的な空間がアメーバのように広がる都市への批判である。しかし,「小さな建築」は,もちろん,「小さな」建築ということではない。もちろん,人間や樹木の大きさに基づくヒューマン・スケールは極めて大切である。しかし,ただ単純に規模が小さければいいというのではない。だから,「小さな建築」という言葉だけではいささか弱い。超高層建築が最も効率的で経済的であるというのが現実を支配する圧倒的な価値観なのである。「空間に恋して」というのがぴったりするのであるが,この「空間」というのが一般に伝わらないもどかしさがある。そこで象が掲げるのが7つの原則である。

 

 生き方の指針

7つの原則とは,1場所の表現,2 住居とは何だろう?学校とは?道とは?,3 多様性(多様であること),4五感に訴える,6 あいまいもこ,7 自力建設の7つである。

何故,この7つの原則なのか。極めて具体的な項目もあれば,抽象的な項目もある。この7つの原則の全体性や体系を詮索するのは意味がないかもしれない。何しろ,「あいまいもこは,限定されないで,どっちつかずで,はっきりしないことです。建築か庭か街か,内部空間か外部空間か,建物か衣服か,遊びか仕事か,今か昔か未来か,完成か未完成か,株序があるのかないのか,部分か全体か,本気か冗談か,生徒か先生か,誰がデザインしたのか,‥‥‥私たちはこのようなことがらについて,あいまいもこな世界に住み続けていきたいのです。」(「6 あいまいもこ」)を原則としているのである。

経済論理が支配するなかで,また,ますます管理社会化が進行する中で,こうした曖昧模糊に耐えるのは容易ではない。象の7原則は,われわれの生き方そのものに関わっているのであって,しかも,誰もが遵守できるとは限らないのである。 富田玲子の『小さな建築』には,7つの原則を含めて,その生き方そのものが活き活きと表現されている。

 

 場所の表現

 原則の第一に挙げられるのは「1.場所の表現」である。

私たちは,建築がその建つ場所を映し出すことを望んでいます。デザインが場所や地域の固有性を表現するよう努めます。村を歩きまわり,景観を調査して,土地が培ってきた表情を学びます。人々の暮らしを見つめ,土地の歴史を調べます。このようにして,デザインのなかにその場所らしさを表現するための鍵やきっかけを掘り起こしてゆきます。

われわれが既に共有してきたはずの指針がここに簡潔に示されている。問題は,地域の固有性とは何かである。象設計集団は,作品を通じて,その問いに解答し続けてきた。作品に即してわれわれは象設計集団の「場所の表現」を問うことになる。地域を超えるものとは何か,地域をつなぐものとは何か,も同時に問われることになる。地域を通じて,あるいは,地域を超えて一貫する「象らしさ」というものは,おそらく拒否されている。それが「あいまいもこ」の原則であり,協働設計の原則でもある。そして「3.多様であること」という原則でもある。

問題は,歩き回り,土地の景観や表情,歴史,場所らしさを表現するための鍵やきっかけを掘り起こす方法,吉阪隆正のいう「発見的方法」である。

 

 制度と空間

続いて,「2 住居とは何だろう?学校とは?道とは?」という原則が疑問形で書かれていて,いささかとまどう。しかし,全くもってオーソドックスな原則であることが理解できる。

「コミュニティー,学校,家族の基本的な生活のありさまをよく観察して,人々がつくろうとしているものの根本的な要求を知ることが出発点になります。時に人々は,自分たちの欲求や希望をはっきりとは自覚していないことがあります。そこで,人々と共に考え,新しい生活のしかたを提案していくことが,象の仕事の重要な部分となります。私たちの目標は,人々の今日の要求を満たす空間を創り出すこと,と同時に,その人たちの生活の地平を広げるための新たな機会を提供することです。」

後段[iii],「1.場所の表現」とダブっているから省略するが,この原則は,第一に,われわれの生活の拠点としての住居,学校,コミュニティ(近隣社会)を原点に置くということである。この原則は,大都市であれ地方都市であり,過疎の農山村漁村であれ,共通な指針となりうる。

象設計集団のホーム・ページを覗くと「象の住宅」「象の学校」「象の福祉施設」という3つの「営業分野」として立てられている。

この原則の平易な文章を読みながら,否応なく「建築計画学」の原点を思い起こす。また,先に触れたが,象設計集団の設立者である富田玲子がわずかの期間吉武泰水研究室に所属して,丹下健三研究室に移籍したエピソードを思い出す。「基本的な生活のありさまをよく観察して」,「人々がつくろうとしているものの根本的な要求を知ること」は,「建築計画学」に限らず,全ての建築家にとって基本的な姿勢である筈である。しかし,そうしたアプローチが次第に受け入れられなくなる状況がある。そしてそれ以前に,公共住宅,学校,病院,図書館・・・という施設=制度(インスティチューション)毎の空間体系に社会空間を編成する役割を「建築計画学」が担ったことは否定できないように思えるのである。

 

 自力建設

 具体的は建設方法として,7原則の最後に自力建設がうたわれる。確かに,象は,「名護市庁舎」にしても,用賀プロムナード」「冬山河親水公園」にしても,市民,住民など建築の使用者に建築の施工に直接参加を求めている。十勝に移っても,「まいまい井戸」をみんなでつくったり,雪でドーム建築や野天風呂をつくるワークショップを開いたり,廃材を用いて自力建設(「ひかり保育所」)をしたりしている。

C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」論や石山修武の「セルフビルド論」に通底する,建築の設計施工の密接なつながりに関する象の基本的な構えが「7.自力建設」の原則である。しかし,全ての建築を自力建設することが可能なわけではない。「自力建設」が大切だから,超高層建築や大規模建築ではなくて「小さな建築」なのだ,というわけでもない。

「自力建設とは,・・・自らの地域を,自らの手でつくり上げてゆく哲学です。近代の制度を超え,地域を超える生命の叫びです」

地域を自らの手でつくり上げながら地域を超える,実に困難な課題である。そして,「機械よりは多くの雑多な人々,知識よりは知恵,速さよりは持続力,理性よりは情熱,狂気,妥当よりは過剰,規範よりは埓外のものごと,結論よりは終わりのない問いかけ」と続いて,「形姿に求められるものは魔力」,そして「最後に,空間の緑化がもっとも大切です。」とくる。制度あるいは秩序からあくまで逸脱,逃走しながら「空間の形姿」の力そして「緑化」に賭けるということか。

 

 自然と身体

「自力建設」という原則は,すなわち,直接建築の施工過程に直接参加するという指針として,「4.五感に訴える」という原則と関連するものとして理解できる。また,「5.自然を受けとめ,自然を楽しむ」という原則とも密接に関連する。この2つの原則はわかりやすい。

地球環境時代といいながら,ますます人工環境化しつつあるのが,われわれが生きている空間である。雨が降ろうが風が吹こうが気候を自由にコントロールできるドーム球場のような空間がその象徴である。そして,そうした空間をつくり続けているのが一般の建築家たちである。

象は,そうした建築を拒否して,「風,水,太陽,星,そして遠くに見える山を直接的に導入」しようとする。「気候を楽しむためには,厳しい暑さや寒さや,湿気を和らげるための工夫が必要となります。深い庇,土に覆われた屋根,風の道,防風林,パーゴラ,木陰などは,私たちがよく用いる装置です。」これはわかりやすい。もっと単純な指針が「緑化」である。

人工環境化によって,われわれの身体感覚も衰えていく。象が目指すのは,「人々の情感に強く訴える環境」である。「人々が,光と影,音,香り,手ざわりや足ざわり,運動感覚を通じて空間の特性を感じ取り,さらにその外の世界とのつながりに心を向ける」建築である。「建物の中で暑さや寒さを感じたり,季節の移り変りを感じたりできることは,大切な要素です。自然と共に暮らしてきた永い時間の中で,人間の身体は体内で時間の流れを感じるように進化してきました。私たちは,体内時計のリズムを守りながら,季節の移ろいに対する感受性を高めるような空間をデザインしたいのです。」

そのために,象は自然素材,,,,雪にこだわる。また,自然の要素の表現にこだわる。それ故,身体を基礎にした技能,手作りの技術が基本に置かれるのである。

 

 多様性

 原則の3番目「多様であること」は,以下のようである。

「建築とは人々の出会いです。多様な空間特性が総合的に組み立てられた環境の中では,その環境を媒介にしてさまざまな出会い人と人の,あるいは人と物のが生まれます。私たちは計画する空間の中に形態,素材,スケールの多様性とそれらを結び付ける秩序を用意します。そこにやってくる個々の人が,強く引きつけられる部分や全体を発見し,それを共有する人の存在に気づき,そして共に平和を信じることができるよう願っているのです。これは均質で画一的な空間の中では期待できないことです。」

「建築とは人々の出会いです」。しかし,人々が出会えば建築になるとは限らない。象設計集団が目指すのは,単なる形式的な,コミュニティ・ベイスト・デザイン,住民参加による建築,プロセスとしての建築,いわゆるワークショップ方式,なのではない。コミュニティー派の建築家たちの仕事が往々にして単なる手続きに終始して,凡庸な空間しか生み出さないことである。象設計集団の場合,あくまで多様な人々が出会う媒介としての環境が問題である。「空間の中に形態,素材,スケールの多様性とそれらを結び付ける秩序を用意」することが目指される。象設計集団は,人々の出会いを愛する。そして,人々の出会いを誘起する空間の力,建築の力を信じるのである。

 

 フィールドワーク

 原則は原則である。何をどうすればいいのか。出発はフィールドワークである。象設計集団の原点である1971年の沖縄について樋口裕康は次のように書いている。

 「沖縄は好奇心を激しく刺激した。カッカッ興奮した。闇雲にフィールドワークに走る。持ち物はカメラ,スケッチブック,村の地図,ひもの付いた画板,コンベックス,四色ボールペン。日々,一刻一刻が発見である。こんな面白いことが他にあろうか?フィールドワークは調査ではない,記録することではない。これこそ建築である。身体のダイナミズム,衝動。まぶしく,くそ暑い,ニカワ質の大気の中で,身体が形を捉えていった。言葉が形を生み出していった。」[iv]

 未だにフィールドワークの魅力に取り憑かれてアジアを歩き回っている僕にとって感動的な文章である。

 そして,地域の中で何をやるか。

 「行動:まず行動することーゲリラの段階。情熱:恐いもの知らずの突撃,素人の恐ろしさ。夢:夢は人々を結束させる。楽天家。ねばり:一つの地域でねばること。冷静:暴れた後は頭を冷やして考える。行動の後は整理する。悩む:建築設計をとおして地域を見る。好奇心:好奇心にみちみちて,感動しなければならない。信念:プロとしてではなく,素朴に人間としてみて,いいというものはよいのである。信念を持って,よいものはよいという。闘争心:クビをかけたり,ケンカをしなければならない。」[v]




[i]  『世界建築設計図集 29 宮代町進修館』土井 鷹雄/ 出版:同朋舎/ 発行年月:1984。『冬山河親水公園 建築リフル 009象設計集団/ 出版:TOTO出版』『特集:象設計集団あいまいもこ』建築文化199310月号。

[ii] 象の「7つの原則」 7.自力建設

[iii] 「・・・私たちは,建築がその建つ場所を映し出すことを望んでいます。デザインが場所や地域の固有性を表現するよう努めます。村を歩きまわり,景観を調査して,土地が培ってきた表情を学びます。人々の暮らしを見つめ,土地の歴史を調べます。このようにして,デザインのなかにその場所らしさを表現するための鍵やきっかけを掘り起こしてゆきます。」

[iv] 『空間に恋して』p23

[v] 『空間に恋して』p25