現代建築家批評25 『建築ジャーナル』2010年1月号
現代建築家批評25 メディアの中の建築家たち
建築に何が可能か
原広司の軌跡
「『建築とは何か』という問いは、『人間とは何か』という問いが不毛であると同様に、行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、『人間に何ができるか』を問うべきである。同様に建築についても、『建築に何ができるか』と問うべきであろう。このふたつの問いの内容には一見さしたる差異もないようにみえるのであるが、実はかなりの断絶がある。」(第一章 Ⅰ初源的な問い)
原広司が『建築に何が可能かー建築と人間とー』(学芸書林1967)を出版したのは30歳の時で、僕が読んだのは20歳の時だ。「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン[i])というフレーズとこの冒頭の一節は、「建築」を志した頃の奮えるような思いに結びついている。
『建築に何が可能かー建築と人間とー』は、建築を学び始めたばかりの学生にとっては難しかった。本郷の製図室で「雛芥子」の仲間たちとあれこれ議論しながら読んだ。建築に人生を賭ける問いがあること、建築には哲学、社会、人間の根源が関わっていること、建築には何よりも理論と方法が必要であることなどは理解できた。読み返してみると、思ったより赤裸々な吐露がある。いささか生硬な文章だと思うけれど、すいすい頭に入って来る。当然であろう。僕らの世代は原広司に学びながら育ったのである。
「デザイナーにとって、したいことの客観性が問題のすべてである。なぜ、そのしたいことがそれであって他でないのか。これが説得力をもたねばならない。つまり、したいことの内容が社会化されておらねばならない。・・・したいことは実証的ではない。」といった箇所に線が引かれている。「第一章 基礎的な見解」「第二章 一般的考察」が全体の1/3を超える分量があり、「第三章 反省―近代建築の方法とその批判―」を加えると3/4が建築に関わる「初源的な問い」である[ii]。
『建築に何が可能か』は、今猶、新鮮である。
磯崎新の『空間へ』(美術出版社)が上梓されたのは1971年である。宮内康の『怨恨のユートピア』(井上書院)も1971年である。そして、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(相模書房)が翌1972年である。当時の建築少年たちはこの4冊を貪るように読んだ。当時の日本の建築状況については、この連載の最初に書いた通りである。長谷川堯が痛烈に批判するように、丹下健三、そしてメタボリズムをどう超えるかが既に問われていた。磯崎新と原広司は、そうした中でスターとなった。
伊那谷
1936年に川崎で生まれて、両親の郷里である長野県の伊那谷、飯田市で育った。飯田高松高校出身で一級下に宮内康がいる。同じく東京大学建築学科に進んだ宮内康は、原広司の下(RAS建築研究同人)で設計活動をともにするが、大阪万国博Expo’70をめぐって距離を置くことになる。宮内康から原広司の伊那谷時代について何度か聞くことがあったが、記憶に残っているのは、とにかく優秀だったということである。原広司が自ら自分の履歴を語ることはほとんどないが、伊那谷については次のように書いている。
「飯田市は、天竜川縁りの小さな段丘にある。そこでは、夕暮れ時に、夜明けの方向つまり東方をみる。南アルプスの山々が、刻々と変化する赤い残映と化すからだ。また、日中は、陽ざしを受ける背後の山々を、ふりかえって見ることになる。谷の地形が、独特の光の見方と方向定位を誘い出しているのである。やがて、世界の僻地に集落を訪ねて遊ぶことになったが、そこで出会った数々の感動的な風景は、小さな伊那谷でかいまみた光が増幅された風景であった。」[iii]
「もし能力があれば・・」という留保付きであるが、「二千五百メートル低い位置の谷底から、氷山のように浮上している山々に移る夕陽の変化を一分間眺めただけで」、三百の絵画、詩、建築ができるはずだ、と続ける。
数学者になりたかった、ともいう[iv]。その数学への愛は一貫する。しかし、基本的な資質としては芸術家肌であり、建築家が天職であったのだと思う。
RAS
1954年に東京大学に入学、1959年に卒業、大学院に進んで、1961年に修士を終えて博士課程に入学すると同時にRAS建築研究同人を設立、建築家としての活動を開始する。24~5才でいきなり設計活動に入るのはいささか早いと思われるかもしれないけれど、当時は普通であった。僕が吉武研究室に入った頃も、石井和紘(1944~)[v]、難波和彦(1947~)[vi]はLANDIUMを開設、大学院にいながら設計を始めていた。研究室での設計活動が産学協同(癒着)として批判されたのは東大闘争の過程である。宮内康が東京理科大学を解雇された理由のひとつも大学において設計活動を行ったことであった。以降、大学外に事務所が設けられるようになるのであるが、それ以前は研究室で設計をするのは当たり前だったのである。
RASに参加したのは、香山寿夫(1937~)[vii]、宮内康らの他、三井所清典[viii]がいる。三井所は1963年にRAS建築研究同人に参加し、その解散(1970年)まで番頭役をつとめている。
原広司は、「ビルディング・エレメント(BE)論」で学位(工学博士)を取得後、東洋大学助教授に就任(1964年)、1969年に東京大学生産技術研究所助教授として呼び戻される。それとともにアトリエ・ファイ建築研究所を設立、現在に至るまで設計活動の拠点としている。
デビューは、東洋大学時代である。30才の誕生日に、羽田国際空港で夫人・若菜氏に『建築家に何が可能か』の原稿を託してヨーロッパに旅立ったというが、既にいくつかの作品が実現していた。「伊藤邸」(1966)は、彰国社が出していた学生向けの設計計画パンフレットに載っていて、こんな住宅もありうるんだ、とわくわくしたものである。僕が1978年に東洋大学に赴任して初めて知ったのであるが、東洋大学川越キャンパスの周辺で、角栄団地とか霞ヶ関小学校とか、角栄建設と関わりある仕事を結構RASはしている。Wikipediaの年表では、処女作として佐倉市立下志津小学校(第1校舎)(1967)が挙げられるが、その名を知らしめたのは、『建築年鑑』賞を受賞した「慶松幼稚園」(1968)である。
万博批判
呼び戻された東大は、東大闘争の渦中にあった。若手の助教授として警備などに駆り出されたという。原広司が、指導教官であった内田祥哉ではなく生産研究所の池辺陽に呼ばれたこと、まず研究室に入室したのが入之内瑛であり、山本理顕であったこと、そして、僕ら「雛芥子」主催のシンポジウムで原広司と「雛芥子」は直接知り合い、原広司の呼びかけで自主ゼミを始めたことなどについては既に書いた。
この時期、原広司は学生たちの集会にも熱心に顔を出している。「反万博(Expo’70)」をうたう「建築家‘70行動委員会」と原広司は、建築家の万博参加をめぐってやりあっている。万博参加を批判する学生たちに対して、「そういう公式論を立てている限り、絶対に伸びないと思うね」[ix]と言い放っている。この断言には、1960年の「安保闘争」に対する総括が裏付けとしてあったとみていい[x]。大衆化による「平均化状況」こそ原広司が乗り越えようとするものであった[xi]。問題は「建築家に何が可能か」なのである。
このやりとりを引いて、原広司を「建築至上主義者」といい、「問題は、建築が、あるいはデザインが果たして可能なのかということであり、万博参加者は、その問いを最も鋭く問いつめる機会を持ち得たにも拘わらず、決断の時点でそれを放棄したのである」と痛烈に批判したのが、同じく「60年安保体験」を思考の原点に起き続けた宮内康の『怨恨のユートピア』である。かつてRASで設計活動をともにした、しかも高校の先輩後輩である二人の間に亀裂が走り、二人は方向を異にしていくことになる。「住宅から万博参加者までこの「建築は可能か」の問いは今や問われつづけており、町の名もない建築家ですらこの問いから逃れることはできないのだ」という宮内康の『怨恨のユートピア』もまた多くの学生を捉えた。戦後建築をリードしてきた前川国男が「いま最もすぐれた建築家は何もつくらない建築家である」(1971)[xii]といい、原広司もまた別に一方で、平良敬一、宮内嘉久らと「AF(建築戦線アーキテクチャー・フロント)なるグループを組織し、日本建築家協会(JIA)にデモをした時代である。
集落へ
東京大学に赴任してプロフェッサー・アーキテクトになって以降の10年、すなわち1970年代の原広司の仕事は、基本的に住居の設計である。後に内藤廣によって建替えられることになる「海の博物館」(1971)があるが、粟津潔邸(1972)、自邸 (1974)、松欅堂(1979)など、年に一作もない。
原広司が向かったのは世界集落調査である。「地中海」を皮切りに「中南米」「東欧・中東」「インド・ネパール」「西アフリカ」をめぐるその「集落への旅」は、山本理顕に即して触れたが、全部で5回に及び、『住居集合論1〜5』(鹿島出版会、1973~1979)としてまとめられる。
何故、集落へ向かったのか。「未来のための一枚の建築や都市のスケッチを描くため」にである。
『建築に何が可能か』を読み返してみて、専ら近代建築が論じられるが、必ずしも集落へ向かう気配はない。20年後、東京大学定年退官の時に『集落の教え100』(彰国社1998)がまとめられ、世界集落調査が原広司の設計にとって、大きな源泉となってきたことがわかるが、5回の紀行文をまとめた『集落への旅』(岩波新書1987)のあとがきには、簡潔に以下のようにある。
「1970年代は、近代建築が大きな変貌をとげた時代である。・・・この変動期のさなかにあって、建築家はふたつのレファレンスをとった。ひとつが古典建築であり、もうひとつが集落であった。私たちは、結果としてみると、後者を参照することになったのである。」
古典建築へ向かったのは磯崎新であり、「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる潮流がそれを包み込んでいくことになった。「集落への旅」もまたB.ルドフスキーの「建築家なしの建築家」以降多くの建築家を捕らえてきた。その「集落論」「住居集合論」の位相については後に見よう。
「住居に都市を埋蔵する」「最後の砦としての住宅設計」
仕事がなかったのは、原広司だけではない。1973年、そして1978年と二度のオイルショックに見舞われた1970年代は、ほんとに建築が建たなかった。『建築文化』の編集長であった田尻裕彦(1931~)[xiii]さんが扱う作品がなくて困るとこぼしていたことを思い出す。銀座からネオンが消え、深夜のTV放映は自粛された、そんな時代である。
そんな1970年代に若い建築家たちを勇気付けたのが、「建築に何が可能か」という問いかけであり、「住居に都市を埋蔵する」そして「最後の砦としての住宅設計」というスローガンである。他に「はじめに閉じた空間があった」あるいは「離れて立つ」など、メタフォリカルな言い回しは原広司の真骨頂でもある。
1960年代初頭に、一斉に「都市づいて」いった建築家たちは、未来都市の虚構を万博会場に一瞬見た後、都市からの撤退を迫られていった。「きみの母を犯し、父を殺せ」とマイホーム批判によって若い建築家を挑発したのは磯崎新であったが、親あるいは親戚の小さな住宅の設計を仕事として得て、「新奇な住宅」によってデビューするのがひとつの道であった。事実、これまでに見てきたように、日本のポストモダンの旗手たちは住宅作品をひっさげてデビューすることになるのである。ただ、評価されたのは、単純な「新奇さ」ではなく、ひとつのモデルたり得る住宅かどうか、という点においてである。
その鍵が住居と都市の関係、「住居に都市を埋蔵」しているかどうかなのである。だから、ささやかな住宅設計の仕事をしながらでも都市を考えることができる!というレヴェルのメッセージではない。冒頭に「住居の歴史は、(十全な生活を可能にする)機能的要素が都市に剥奪される歴史である」と言い切り、だから「なにもかも収奪されてしまった人間にとって、防衛の拠点としての住居をつくりたい」[xiv]というのである。
1970年代に、もうひとつ、「ものからの反撃」[xv]という力強いメッセージを原は投げかけた。当時、岩波書店に「文化の現在」というシリーズ企画があって、山口昌男、中村雄二郎、鈴木忠志といったメンバーによる編集サロンが組織されて、建築家として磯崎新とともに参加していた原広司は、文化における言語・記号系の優位にたいして、建築という「もの」の力を強調するのである。建築をインタージャンルに開く役割を原広司は磯崎とともに担うことになるのである。
商店街から超高層へ
原広司が日本建築学会賞を「田崎美術館」で受賞するのは1986年である。50歳での受賞は遅い。1980年代に入って、「鶴川保育園」「末田美術館」(1981)年と小規模な佳品が続くが「田崎美術館」も公共的な建築といえども小品である。学会賞を記念する『建築文化』の特集に槇文彦先生と一緒に軽井沢に行った時のことを思い出す。槇・原が親しいことはよく知っていたが、車中二人が話すのは専ら共通の趣味である将棋[xvi]のことであっけにとられた記憶がある。
建築家としてのステップアップとしては、むしろ、「ヤマトインターナショナル(東京本社)」(1987)の方がデビュー作という印象が強い。以降、「那覇市立城西小学校」「飯田市美術博物館」など作品が相次ぎ「梅田スカイビル」(1993)まで一気である。
70年代から80年代にかけて、原広司が手がけたのが「群馬・渋川駅前商店街83街区」(1983)という興味深いプロジェクトである。住宅設計から一歩踏み出したのは、今日でいう街づくりであった。随分通って、合意形成に翻弄される。隣通しの垣根を取り払うこと、後ろ庭をつないで通路を採るといったことだけで随分時間をとった。当時、しばしば会う機会があったのであるが、ほとほと疲れた、二度とやりたくないとこぼすのを聞いたことがある。
しかし、それにしても「最後の砦としての住宅設計」から商店街へ、そして超高層ビルへ、あざやかな絵に描いたような軌跡を辿ったのが原広司である。
地球外建築へ
「空中庭園・連結超高層建築」として「梅田スカイビル」を実現させ(1993)、並行して「未来都市500m×500m×500m」構想(1992)をまとめると、一方で「京都駅ビル」(JR京都駅改築国際設計競技最優秀作品、1991)の設計を開始しながら、一方で「地球外建築Extra-Terrestrial
Architecture」の構想をまとめる。未来工学研究所から月面の建築についての可能性を依頼されるのである。
日本建築の1990年代は、2つの巨大建築を実現させた原広司の時代であったといえるかもしれない。「地球外建築」を巻頭にまとめた作品集『原広司』[xvii]は「建築の可能態」という副題が付されている。「地球外建築」のプロジェクトは単なる月面建築のデザインではない。「地球外建築」の提案は、「新しい宇宙風景の構築」であり、「世界風景の拡張計画」であり、「宇宙社会の在り方の提案」である。地上300kmの高度で地球を周回する宇宙ステーションである直径10kmの「LEO(地球低軌道)リング」「月面地球広場」「地球居住区」「宇宙庭園」「中継基地」「宇宙牧場」などが描かれる。原広司の構想力は、ついに宇宙にまで拡大膨張するのである。
そして、21世紀に入って、札幌ドーム(2001)、しもきた克雪ドーム(2006)などドーム建築を手掛けるなど、押しも押されもせぬ堂々たる建築家となった。
ところが一方、東京大学を定年退官(1997)になって、南米ウルグアイに通い始めることになる。国際セミナーに招かれたのが直接のきっかけであるが、毎年セミナーやワークショップを行う中で、不法占拠者たちのための実験住宅を建設するプロジェクトが持ち上がる。その全過程をまとめたのが『DISCRETE
CITY』(2004)[xviii]である。
その中で原広司は、大江健三郎に「集落の教え」に対して、恩返しとして新しい集落をつくったらどうかと言われ、非常に痛いところを衝かれたと思ったことが、実験住宅建設に結びついたのだと振り返っている。
最後の砦としての住居から集落へ、そして超高層から地球外建築へ突き抜けた末に、不法占拠者たちの実験住宅へ、原広司の軌跡はその円環を閉じたようにみえる。
[i] 『アデン アラビア』ポール・ニザン著作集1,篠田浩一郎、晶文社、1966年
[ii] 1960年代に書かれた「建築の創造に関する考察」(カオティシズムの意義と創造性の問題 客観性・価値判断 建築諸活動とそれらの連関性)(『建築』1962年10~12月号)、「平均化の状況における建築家の立場」(『建築年鑑』1963年版)、「露出した美学とその建築」(『国際建築』1965年1月号)、「建築の方法」(部分と総体の論理 形態形成の論理)(『建築』1965年1~3月号)、「有孔体の理論とデザイン」(『国際建築』1966年6月号)などが基礎になっている。
[iii] 『空間<機能から様相へ>』P1。
[iv] 「チカチカ数学者になりたい」『デザイン批評』1969年
[v] 石井和紘建築研究所。東京大学吉武泰水研究室出身。博士課程在学中に、直島小学校(1970年)でデビュー。代表作に「ジャイロルーフ」(甍賞、1987年)「数奇屋邑」(日本建築学会賞受賞、1989年)など、著作に『イェール建築通勤留学』(1977)『私の建築手法』(1994)『建築の地球学』(1997)など。
[vi] 界工作社、東京大学教授(2003~)。東京大学池辺陽研究室出身。
[vii] 東京都生まれ。 1960年 東京大学工学部建築学科卒、1966年ペンシルヴァニア大学美術学部大学院修了(M.Arch)、ルイス・カーンに師事する 。東京大学名誉教授(工学博士)。有限会社香山壽夫建築研究所所長。1996年日本建築学会賞(彩の国さいたま芸術劇場)、2000年公共建築賞、2002年日本建築学会作品選奨、2005年度日本芸術院賞受賞。
[viii] 1963年東京大学建築学科卒業。アルセッド建築研究所。東京建築士会会長。芝浦工業大学名誉教授。
[ix] 「座談会 われわれは不可能に挑戦する」『デザイン批評』N0.8、1968
[x] 原広司は『建築に何が可能か』を60年安保の書という(『空間<機能から様相へ>』「序」)。
[xi] 「この(安保闘争の)大衆化した運動は、統一的な像をむすぶどころか、ずれを露出した。と同時に、統計と平均の馬鹿さ加減をさらけ出した。・・・デモに参加した数十万人というスケールが私にショックを与えた。ずれの露出は、私を連帯の希求ではなく個の充実に走らせた。・・・ずれが止揚されるという教条は幻想にすぎない。ずれたままで連帯ははかられねばならない。ずれを永続的に解消しようとすれば、平均が待っているだけだ。その平均たるや、まさに幻想の自慰行為である。」(「歴史も喚問する」『建築に何が可能か』)
[xii] 『建築家』1971年春号
[xiii] 早稲田大学文学部卒業。60年彰国社入社。『建築文化』編集部員、『施工』創刊編集長を経て、70年『建築文化』編集長。その後、企画室長の任期を挟んで82年まで『建築文化』編集長。
[xiv] 『別冊 都市住宅』住宅特集11、鹿島出版会、1975年秋
[xv] 「ものからの反撃-ありうべき建築をもとめて」『世界』1977年7月
[xvi] 『空間<機能から様相へ>』で「空間図式」を説明する際に「私は将棋のプロの棋士たちにたちに強い関心をもっている。・・・この二〇年間に、将棋の三世代を見てきた。・・・米長邦雄がライバルの中原誠との対局で指した「6七金寄」は、・・・現代日本の精神史のなかで光っている」などと書いている(「序」)。
[xvii] 鹿島出版会、1995年