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2021年5月21日金曜日

頑張れ!ケンチク・ボーイーキュレーター・アーキテクトを目指して  進撃の建築家 開拓者たち 第14回 開拓者15 香月真大

 進撃の建築家 開拓者たち 第14回 開拓者15 香月真大 頑張れ!ケンチク・ボーイズーキュレーター・アーキテクトを目指して「WAKABACHO WHARF『建築ジャーナル』 201710(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第14回 開拓者15 香月真大                   建J  201710

 

 頑張れ!ケンチク・ボーイーキュレーター・アーキテクトを目指して

WAKABACHO WHARF

 


香月真大くん(図⓪)を初めて知ったのは、日本建築学会のWEB版『建築討論』(20144月創刊)である。今年の5月まで24年編集長を務めたが、当初は、会員から作品の応募を求め、それを批評するというのが方針であった。紙媒体の「建築雑誌」が次々に廃刊し、建築作品を議論する場所が少なくなったことが背景にある。SNSを通じて自由に建築情報を得ることができ、情報の発信も容易になったけれど、「いい」「悪い」「好き」「嫌い」のレヴェルを超えない140字程度のコメントでは批評にはならないのではないか、少なくとも、議論を記録していくメディアが必要ではないかというのが創刊主旨である。

学会という場が敷居を高くしたかもしれない、当初はほとんどアプローチがなかった。そうした中で、002号(20149月)に「One Month House」と「柔らかい石~東北気仙沼葦の芽幼稚園遊具設営計画」という2つの作品を応募してくれたのが香月くんである。実を言うと、創刊号には8人の建築家が応募してくれたけれど、002号は2作品だけであった。『建築討論』の立ち上げに悪戦苦闘する中で、香月くんはその後も続けて、「オフィスのスキマShare Deskを利用した空きオフィスからコワーキングスペースへの転用術006号、201510月)、さらに、意欲的な若手建築家たちが参加する建築展(Across the Territory of Architecture~建築の領域を超えて」)のキュレーションを作品といって投稿してくれる(「地域から始まる建築」(009号、2016号秋))。とにかく顔が広そうである。ネットで調べると、ナント、僕自身が、東日本大震災の直前に始めたばかりのFacebookで、20114月から香月くんの友達となっていたのであった。


 

ハモニカ横丁

 香月くんは、高円寺で生まれ育った。三鷹の法政大学中学・高等学校を卒業し、法政大学建築学科に入学する[1]。中央線沿線を生活圏としてきた東京っ子である。その建築ネットワークの拠点が吉祥寺のハモニカ横丁であることはすぐにわかった。いつのまにか飲み会やイベントの案内が送られてくるようになったからである。初めて会ったのは、松永安光さんに『建築討論』の原稿依頼にお伺いする機会である(20151218日)。早速、隈研吾(「焼鳥屋てっちゃん」(2006年)図①)そして塚本由晴(「エプロン」(2012年)「最小限美術館」(2017年)図②)が手掛けた店があり、様々な若い建築家が出入りしているハモニカ横丁(図③)に出掛け、松永さんや香月くんのホームグラウンド「モスクワ」で楽しい時を過ごした。かつて、編集者の野崎正之さんに連れられて、若き日の伊東豊雄や石山修武らと夜な夜な飲み歩き、カラオケを歌っていた新宿三丁目の「偽夜蛮(ギャバン)」「池林房」などを想い起したのであるが、このハモニカ横丁には仕掛け人がいる、という。



 次に、『戦後東京と闇市』(2016年)を書いた石榑督和くんらとハモニカ横丁を訪れた時に偶然出会ったのだけれど(201649日)、手塚一郎さんがその人で、サイン入りで頂いた『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』(2016年)(図④)に、その経緯とその理念「総合芸術としてのハモニカ横丁」が語られていた。編者の倉田俊輔先生は吉祥寺で育ったのだという。美術を専攻し、「ビデオインフォーメーションセンターVIC」を設立し、唐十郎の舞台を撮影したりしていた手塚さんが、飲食店経営を始めるのは1998年、そしてネットワーク展開するきっかけになったのは「ハモニカキッチン新店」(2000年、設計:故・形見一郎)という。いまや、ハモニカ横丁に12店舗、さらに三鷹、下北沢にも店舗展開する。「ハモニカ横丁ミタカ」(2013)を設計したのは芝浦工大の原田真宏准教授である。スタッフの葛西慎平くん(滋賀県大布野研究室→東大生研太田浩史研究室)が三鷹にも「ハモニカ横丁」あります、うちで設計しましたといっていたけれど、世の中狭い。狭いと言えば、この本でも登場する三浦展さん。まだ、パルコ、『アクロス』時代だったと思う、多摩ニュータウンの行く末をめぐってシンポジウムで一緒だったことがある。その後、『下流社会』の大ブレーク、陣内秀信さんとの共同作業など、その仕事を心強く思ってきた。

 

 吉祥寺建築会

 NPO法人「ハモニカ横丁東京」の活動には大いに関心があるけれど、香月くんに戻ろう。『建築討論』に投稿が欲しい、本連載のこともある、若い建築家を紹介して欲しいというと、今のところ2度ほど(2016115日、2017422日)だけれど、セットしてくれた。集まった連中は実に多士済々である。出身研究室を聞くと、大抵はつながっていて話はつきない。そもそも、東洋大の布野研出身の長谷部勉くんが香月くんと既に繋がっていた。手塚さんに屋台の設計を依頼されたという、伊藤孝仁、冨永美保のYGSA出身のコンビ(tomito architecture)は、わざわざ模型を持参、ご意見を!とくる、なんで?というと、先生は屋台の専門家でしょ!といった調子である[2]。全貌は未だ不明であるが、どうやら、黒幕?は渕上正幸[3]さんらしい。隈研吾を手塚さんに紹介したのは渕上さんという。『立原道造の見た夢』(鹿島出版会、2016年)を書いた種田元晴くんによると、吉祥寺建築会は、渕上、種田、香月の3人で始めたのだという。種田、香月は法政大学の安藤直見研究室の先輩後輩である。前述の展覧会に参加者したメンバーは、Eureka[4]、高栄智史[5]、永山祐子[6]、小見山陽介[7]、荻原雅史[8]、小堀哲夫[9]、香月真大、渡邊詞男[10]、上原和[11]、長谷部勉[12]、長谷川欣則[13]、印牧洋介[14]、神本豊秋[15]、山本悠介[16]の諸氏である。永山祐子、Eureka,既にいくつかの賞の受賞で知られるし、小堀哲夫さんは、「ROKI Global Innovation Center-ROGIC-」で2017年日本建築学会賞(作品)、種田くんは、立原道造関連論文で、2017年日本建築学会奨励賞、久保英明くんは「まるほん旅館風呂小屋」で、AR Award2016)に続いて、2017年作品選集新人賞をそれぞれ受賞する。大変なタレント集団である。少なくとも、大きな可能性を秘めたグループである。

     


 香月くんは、移動式茶室で、トレーラーで運ぶことが可能でき、組み立てによって様々なタイプの茶室空間を作りだす「鎌倉山の茶室」(図⑤)を出展し、展覧会の趣旨について「僕は杉並区高円寺に在住して20年…家業が高円寺で不動産屋をやっているので、地元で建売住宅を手掛けることが多いのですが、ほとんどの不動産屋や地元の人達は建築家に発注することはない現状があります。…今回の建築展は地元の建築家と地元のおっちゃんやおばちゃん、商店街の人たちをつなげるという意味を持って開催したものです。」という。香月くんのこの地元意識と渕上さんのグローバルな建築情報ネットワークが重層するのが吉祥寺建築会である。

 

 全てのコンペに応募する!

 石山修武研究室出身である。卒業論文『フレデリック・キースラー 機械から生なる時代へ』(20073月)が石山さんに評価されたという。岡啓輔(本連載第4回)について触れたが、森川嘉一郎、馬場正尊、坂口恭平、四方裕、光嶋裕介、芦澤竜一・・・・など石山研究室出身のタレントは少なくない。世田谷美術館の展覧会「建築がみる夢 石山修武と12の物語」設営「下井草幼稚園改修計画 遊具・樋の設計」「中国葫蘆島 農業都市計画 プロポーザル作成」「音の神殿・サウンドミュージアム(南カルフォルニア)基本設計」「メディアセンター(メキシコ・グアダラハラ)基本設計」「パガンアーティストインレジデンス基本設計」に関わったというが、石山の早稲田大学退職(2014年)が近い頃の学生である。厳しかったです、というけれど、東大の鈴木博之の講義に潜り込んで叱られたといった程度で、震え上がるような経験はなかったらしい。

 大学院を終えて、MAO上海建築設計有限公司に一年ほど勤めて帰国、父親の会社などに席を置きながら、20139月に事務所を立ち上げる。一級建築士の資格を得たのは201512月である。すなわち、建築家として自立していく、その最初から香月くんの活動をなんとなく僕はみてきたことになる。香月くんは、この間、猛烈な勢いで情報を発信しながら動きつつあり、『建築討論』は情報発信のひとつのターゲットとなったのである。

 とにかく感心するのは、そのチャレンジ精神である。「前川國男の向こうを張って、全てのコンペに応募する」のだという。提案にいささか使いまわしも見られるが、その意気やよしである。

 これまで、EMOTIONAL ARCHITECTURE 荻窪中央図書館再開発計画」(DAASデジタル卒業設計大賞2009難波賞)(図⑥)「西葛西集合住宅再開発計画」(SD REVIEW2010入選 早稲田学生文化賞2010)(図⑦)「柔らかい石 東北芦の芽幼稚園 遊具計画」(パーコン 建築CGパースコンテスト 佳作、第7回建築士会名古屋支部建築コンクール佳作)(図⑧)、阿佐ヶ谷ルーテル教会 東北大震災被災展」(第7回ダイワハウスコンペティション優秀賞)など、結構入選もある。本人曰く、5010入選という。

 問題は若手が参加できる実施コンペがますます少なくなっていることである。

 




「アイザ鎌倉の簡易宿泊所」

 「Share Desk」を提案する頃になると、様々なビジネス・ネットワークが広がりだしたようにみえる。大手の不動産会社を辞して不動産開発業を立ち上げたという父親の影響が大きいのだと思う。不動産売買、建築のコスト、収支計画は、大前提であるけれど、しばしば理念の提出に終始するのが建築家である。香月くんには、ビジネスの世界でチャンスを掴みたい、という執念がある。次々に拡がっていく仕事の展開を見守りながら、何となく応援したくなる、僕はこの間そんな気分である。

 そろそろ、実作が欲しいと思っていたら、集合住宅を転用して簡易宿泊所に転用する仕事が舞い込んだ。インバウンドの観光客増を背景に、民泊そしてホテルの需要は全国各地で急増している。「シェアリング・エコノミー」(空いた場所、車、駐車場などをSNSを通じてウェブに登録することでフィーを払えば誰でもその場所が使えるようにする)というが、空家、空室を利用しようとするのは当然の流れである。そして、建築家がそこに必要とされるのも当然である。鎌倉駅から徒歩1分という好立地に位置するのに3年間入居者が無いという集合住宅(2LDK(99㎡))の一部を簡易宿泊所に転用して収益物件に変えたのがアイザ簡易宿泊所(図⑨)である。緋毛氈をくりぬいた円い間仕切りがなかなか効いている。

 

 WAKABACHO WHARF

 そして、地元での活動がさらに仕事の輪を広げることになった。座・高円寺(設計:伊東豊雄、2008年)の座長を務めてきた佐藤信さんから劇場建設の依頼を受けるのである。座員の竹下恵子さんが展覧会を見たのがきっかけらしい。佐藤信の劇場と聞いて、血が騒いだ。本連載第1回で書いたけれど、「黒テント」の『二月とキネマ』(佐藤信作、緑魔子、石橋蓮司他出演)安田講堂前講演(1972年の1120)をプロデュースしたことがあるのである。移動劇場としての黒テントは、建築の原イメージとも書いた。香月くんがどんな劇場をつくるのか、大いに期待したのである。話を聞くと、中古物件(空家・空ビル)を探すところから始めて、それを小劇場に再生させるというプロジェクトである。いかにも佐藤さんらしい、というか、黒テントらしい。小劇場の原点に帰ろう、ということである。






 物件探しについては、香月くんには、ネットワークがある。しかし、劇場なんか設計したことはない。荻原雅史、鈴木哲郎と3人協働で設計監理を行った。探し当てたのは横浜の若葉町の4階建ての元銀行であったビルである。1階は吹き抜けていて舞台になる。都内でも探したけれど、適当な物件がなかったという。舞台については、佐藤一座が詳しいのだから従えばいい。むしろ勉強である。3階に講演前の合宿や家賃収入のために宿所を設けたのであるが、宿泊施設への転用のための手続きに多くの時間をとられた。

 オープニング公演は「影と影との影」。ワクワクしながら観た(2017611日)。テキストと音楽と舞踊が脳内空間で交錯する、いかにも佐藤信流の芝居であった。芝居の後、佐藤さんと話した。あの時はおもしろかったねえ、というのが第一声。もういなくなったでしょうー初期の黒テントを率いた佐伯隆幸さん、山元清多さんはもういないー、こういう時代の流れだから、(僕が)やろうと思う、という。宿舎の経営が問題だというので、「横浜ホステルヴィレッジ(YHV)」と連携したらどうかといい、早速、岡部友彦くん(開拓者06)に連絡とった。うまくいくといいと思う。すぐ近くに、映画館Jack & Betty Cinemaがあり、横浜国大のYGSAが関わってきた黄金町芸術センターもある。なんとなく新たな演劇文化の発信基地となる、そんな予感も湧いてくる。

 

 香月くんがこれからどんな建築家になっていくのかわからない。40歳になる前に有名になりたいと、時々呟いているけれど、そんな予感もある。「建築とは何か?結局は場作りなのかなと思っています。建築を作る行為も、保存する行為も、展覧会を行うことも結局は人と人との場を作ることに直結するだろうと感じています。建築設計事務所は無数にあって、若手もたくさんいるのだけど、建築雑誌の廃刊などが進んで若手が作品を発表できる場所そのものが無い。将来的にはキュレーショナル・アーキテクトというのはおこがましいですが、展覧会やメディアを企画して立ち上げて、若手の活動や社会に対して提起するような場所を作れるような存在になりたいです。」というが、そんな存在になるのかもしれない。



[1] 1984年 東京生まれ 2007年 法政大学工学部建築学科卒業 (安藤直見研究室、近代建築史専攻)/20072011早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程 石山修武研究室20114月、ハウスラボ、ミサワホームに勤務。/2011年 9月 MAO上海建築設計有限公司~2012年9月2013年9月香月真大建築設計事務所SIA (second international architecture) /株式会社ハウスラボ~現在

[2] 稲垣純也(Eureka)、久保秀朗、倉田加奈子、小笹泉、竹村優里佳、山岸大助、麦島篤、バンバタカユキ, 高栄智史, 渡邊詞男, 小見山陽介他の諸氏と出会った。

[3] (株)シネクティックス主宰、東京外国語大学フランス語学科卒業、海外建築家や海外建築機関などとの密接な情報交換により、海外建築関係の雑誌や書籍の企画・編集・出版をはじめ、イベント、建築家のコーディネーション、海外取材、 海外建築ツアーの講師など多数を手掛ける。主要著書:『世界の建築家51人―思想と作品』、『もっと知りたい建築家』、 『ヨーロッパ建築案内』、『アメリカ建築案内』、『世界の建築家51人―コンセプトと作品』、『建築家をめざして』、『アーキテクト・スケッチ・ワークス』など。

[4] 建築デザイナー・構造エンジニア・環境エンジニアが協働する建築専門家集団。互いの専門性を統合した建築を通じ、持続可能で活力ある地域社会づくりを目指す。意匠設計者である稲垣淳哉(1980年愛知県生まれ、写真左から2人目)と佐野哲史(80年埼玉県生まれ、同1人目)が2009年に設立。構造設計者の永井拓生(80年山口県生まれ、同3人目)と設備設計者の堀英祐(80年佐賀県生まれ、同4人目)がパートナーとして関わる。

[5] 1986年佐賀県生まれ。2006年有明工業高等専門学校卒業。2008年京都造形芸術大学 芸術学部卒業。20082010年同大学副手。2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修了。
2013
年~フリーランス。

[6] 1975年東京生まれ。1998年昭和女子大学生活美学科卒業。19982002年 青木淳建築計画事務所勤務。2002年永山祐子建築設計設立。主な仕事、「LOUIS VUITTON 京都大丸店」「丘のある家」「ANTEPRIMA」「カヤバ珈琲」「SISII」「木屋旅館」「豊島横尾館」「渋谷西武AB館5F」など。ロレアル賞奨励賞、JCDデザイン賞奨励賞、AR AwardsUK)優秀賞「丘のあるいえ」(2006)、ARCHITECTURAL RECORD Award, Design Vanguard2012JIA新人賞「豊島横尾館」(2014)など。

[7] 2005年東京大学建築学科卒業。ミュンヘン工科大学留学、ロンドンの設計事務所Horden Cherry Lee Architects勤務を経て、現在は群馬で設計活動をしている。前橋工科大学非常勤講師。

[8] 2002年京都大学工学部建築学科卒業。2004年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修了。2004年~2008 高松伸建築設計事務所勤務。2008年荻原雅史建築設計事務所設立。

[9] 1971年岐阜県生まれ。1997年法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修士課程終了。1997年株式会社久米設計。2008年株式会社小堀哲夫建築設計事務所設立。2014年法政大学デザイン工学部建築学科兼任講師。

[10] 1968年福岡県生まれ。1994年早稲田大学大学院修士課程修了後、山下設計、南カリフォルニア建築学校(SCI-Arc)大学院修了、コープ・ヒンメルブラウ、早稲田大学大学院建築学博士後期課程を経て、2011年博士(工学)、2013年メタボルテックスアーキテクツ設立。ヤマカビル、アライデザインセンター1、E邸。

[11] 19775月東京都生まれ。20003月東京都立大学工学部建築学科卒業。20011月藤木隆男建築研究所。20061月上原和建築研究所設立。

[12] 1968年、山梨県出身。東洋大学建築学科卒。堀池秀人都市建築研究所、服部建築計画を経て、2002年にH.A.S.Marketを設立。代表取締役。東洋大学非常勤講師。

[13] 1980年埼玉県小川町生まれ。2004年明治大学理工学部建築学科卒業。2006年明治大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。2006年西沢立衛建築設計事務所。2008年岡田公彦建築設計事務所。2011年長谷川欣則建築事務所設立。2013年一級建築士事務所上野アトリエ設立。

[14] 2009年早稲田大学大学院修了(古谷誠章研究室)fondazione RENZO PIANO 奨学生として渡仏。RENZO PIANO BUILDING WORKSHOP PARIS2010年安藤忠雄建築研究所。2012年坂茂建築設計。2015年印牧洋介設計設立。

[15] 1981年大分県生まれ。2004年近畿大学 九州工学部建築学科卒業。2004年~2012年株式会社青木茂建築工房勤務。2012年~神本豊秋建築設計事務所設立。2012年~東京大学生産技術研究所川添研究室特任研究員。2015年~株式会社再生建築研究所設立。

[16] 1986年東京都生まれ。2011年東京都市大学大学院修士課程修了。2011年~山下設計勤務。

2021年5月20日木曜日

六〇年代への喪歌 布野修司編:建築調書1960ー75,建築文化,彰国社,1978年:雑誌特集

 布野修司編:建築調書196075,建築文化,彰国社,1977年:雑誌特集

  巻頭論文:六〇年代への喪歌,建築文化,彰国社,197710 (『戦後建築論ノート』所収)









2021年5月19日水曜日

雛芥子 虚構・劇・都市,TAU03,商店建築,197303

虚構・劇・都市,TAU03,商店建築,197303

https://drive.google.com/drive/folders/1aqkn8oVr-H42TNnVIw_7bW8I8jzh4_vS?usp=drive_link

虚構・劇・都市

















2021年5月18日火曜日

 洞窟と格子「Shelfーpod / 君府亭」  進撃の建築家 開拓者たち 第13回 開拓者14 森田一弥(後編)

 進撃の建築家 開拓者たち 第13回 開拓者14 森田一弥(後編) 洞窟と格子「Shelfpod / 君府亭」『建築ジャーナル』 20179(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第
13回 開拓者14 森田一弥後編                   建J  201709

 

 ポッドと格子―ブリコラージュからシステムへ

Shelf-pod / 君府亭」

 

「我々が空間を構成するのに用いる物質としての素材は、海や陸など地球の表面における生物の活動によって生み出される「有機材料」と、地球内部の活動で生み出される岩石などの「無機材料」に大別される。有機材料の大きさが、樹木や生物の体の大きさという限界を有する「小さな物質」であるのに比べると、地球内部は溶けた巨大な岩石の塊であることからも、無機材料の大きさはほぼ無限であり「大きな物質」ということができる。・・・有機物による空間は原理的には素材と素材の「隙間」のデザインであり、その意味で「格子」であることを逃れられない。また無機物による空間は、継ぎ目のない「面」を形成可能であることが最大の特徴であり、その典型が「洞窟」であるともいえる。この店舗(「篁」)では、地球上に存在する2種類の素材の代表として、それぞれ木と竹による「格子」、土と金属による「洞窟」を用いつつ空間を構成することで、竹という素材の本来の美しさを浮かび上がらせると同時に、地球上の素材による空間の創造行為そのものを象徴的に表現している。」森田一弥「洞窟/格子論」

素材の探求は、土と左官を出発点とした森田の建築の原点である。リノヴェーションの仕事あるいはインテリアの仕事をこなす中で、土、木、金属、そして竹へと素材の特性を見極めつつあるように思える。

森田一弥は、一方で、左官材料の構造材としての可能性を追求してきた。一連の「ポッド」作品がある。しかし、「ポッド」は今のところ「アート作品」として扱われる「工作物」にとどまらざるをえない。カタラン・ヴォールトも、日本の現状では一般化は難しい。いくつかオールタナティブを用意する必要がある。

  

始原のポッド-「コンクリート・ポッドConcrete Pod

左官素材としての土への拘りは、森田一弥の仕事を大きく方向をづけている。soilといっても様々であるが、左官素材で用いられるのは、いわゆる粘土clay、径2ミクロン以下の粒子として定義される土である。水を加えると柔らかくなり、乾くと固まる性質をもつ。また、他に石灰、石膏、そしてセメントを扱う。石灰すなわち漆喰である。石灰岩(すなわち炭酸カルシウムCaCO3炭酸カルシウムCaCO3)を焼くと生石灰(酸化カルシウムCaO)となり、水を加えると粉末状の消石灰(水酸化カルシウムCa(OH)2となる。この消石灰に水を加えて練ると二酸化炭素Co2と結合して炭酸カルシウムとなって固まる。この一連の軟化―固化の化学反応は古来世界中で用いられてきた。石膏は、彫塑やギプスの材料として親しいが、硫酸カルシウムCaSO4で水と化学反応して固まる。セメントは、水や液体によって固化する粒子、粉体一般をいうから、石灰、石膏の他、樹脂や膠、アスファルトも含むが、代表的なのはポルトランドセメント[1]である。セメントはピラミッドの昔から使われてきた。

左官材料は一般的には構造材料としては使えない。土そのものは古来建築の構造材として使われてきた。土を固めて壁をつくる版築の手法、煉瓦のようなピースにしてそれを積む方法はそれこそ世界中に見ることができる。そうした土の建築の伝統を現代に再生することはできないか。渡辺菊真は、N.ハリーリN19362008)のアースバック構法(スーパー・アドベ構法)による土嚢建築の利用を考えたけれど、森田が考えたのが「ポッド」である。そして、注目するのがカタラン・ヴォールトである。

「コンクリート・ポッド」(2005)(図①abc)は、「コンクリートアートミュージアム」に出展するために制作された作品という。厚さ15ミリの超薄型コンクリートによる小さなドーム2005)は、白セメントに軽量骨材とワラの繊維を入れ、鏝で型枠に塗りつけることで製作できる。

いわく、「直径、高さは1700ミリ、「家具」以上「建築」未満の、茶室のようなスケール感を持つ空間、琉球畳を敷いた内部は、ランダムに空けられた穴によって外部とつながりながらもドームによって適度に囲われているため、「室内」の安心感と「室外」の開放感を同時に体験することができる空間である」。

森の中に置かれて、様々な表情を見せる「コンクリート・ポッド」の映像は、実にインパクトがある。Architectural Review AR AWARD (イギリス) 優秀賞(2006年)を受賞したのもよくわかる。

今からでも遅くはない、何とか「建築」にする手はないか。「茶室」でもいいけれど、最小限のシェルターがいいのではないか。「始原のポッド」である。大げさに言えば、空間の原型として「方丈庵」あるいは「ゲル」に匹敵する、プロトタイプになりうるかもしれない。それには「幻庵」のような名前が欲しい。

 





仮設住宅ユニット

「コンクリート・ポッド」(2005)以前、前述した森田一弥・山田協太・柳沢究の三人(神楽岡工作公司)で「SHELL-TER」(2002)という「コンクリートシェル構造のドームによる仮設住宅ユニット」の提案(図②abc)を行っている(13thタキロン国際建築コンペ「仮の恒久住宅」応募作品(2等入賞))。



「コンクリート・ポッド」は、その試作版である。そして、具体的な展開を追求したのが「サカン・シェル構造SAKAN Shell Structure(200607)である。そして、「アート」作品として「 ブリック・ポッドBrick-Pod(2012)を試みている。また、カタラン・ヴォールトもチャンスがあれば使おうという構えである(図③)。



SAKAN Shell Structure」(2007[2](図④abc)は、立命館大学とともに、滋賀県立大学でも試作していたからよく知っている。海外の土の文化圏で、災害時の緊急シェルターとして使うといったセッティングである。仮設であれ、空間全体にしても開口部にしても、住居としての一定の規模が必要である。「コンクリート・ポッド」の型枠手間を考えて、風船(空気膜)を膨らませ、その上に繊維補強セメントを塗って成形することを考えた。セルフビルドによる無筋モルタルシェル構法である。空気膜を使い回すことで、効率的に建設できる。単位ドームを連結する空間システムの提案である。

「コンクリート・ポッド」の行きつくひとつの先は見えたといえるであろうか。ドームを連結させていく方法とその連結の形態は、渡辺菊真の土嚢建築(本連載02)の場合とよく似ている。もちろん、驚くにはあたらない。ドームを連結させる建築は人類が各所で培ってきたものである。「SHELL-TER」の形態にしても、ドーム、ヴォールト、ペンデンティブなど、既にわれわれが知っている建築言語である。



洞窟と格子―架構の原理

 「御所西の町家」のファサードは、木の格子で覆われている。路地の奥に位置するもとの町家には無かった。しかし、路地から室内への視線を制限しつつ通風を確保し、空調や給湯器の室外機を隠すためにファサード全体を覆ったという。それに先立つ「西洞院の町家」(2006)は、通りに面しているが、一階も二階も真新しい格子が付加され、内部の壁、天井にも格子が用いられる。そして「篁」(図⑤ab)は、小さな店舗であるが、床を除いて、全面格子で仕上げられている。竹と木の繊細な格子は、竹製品を扱う店にいかにもふさわしく、美しい。この格子への嗜好は何かに由来するのであろうかと思っていたら、「篁」によせて、冒頭に引いた「洞窟/格子論」なる文章があるのをみつけた。


無機材料と有機材料、「大きな物質」と「小さな物質」、面と隙間という対比に、なるほどと思った。「ポッド」は面で構成され、洞窟をつくる。それと対比的に、隙間のデザインということで格子なのである。しかし、木と竹による「格子」、土と金属による「洞窟」は、果たして「地球上の素材による空間の創造行為そのものを象徴的に表現している」といえるであろうか。

仕上(表面)材としての左官材料はそれだけで建築を構成できるわけではない。格子も、一般的には、風、光、熱、視線・・・の制御に関わる平面要素である。空間の創造のためには、いかに建築を組み立てるかが必要ではないか。インテリアの仕事は建築の組み立てを要しない。リノヴェーションの場合、特に「京町家」の改修の場合、「京町家」という範型がある。そのパラダイムを前提としての再生、再創造である。

 

本棚の家―木造格子壁

 追求すべきは、まずは木である。木造による空間構成システム、柱梁構造、井籠組(ログ)、これも古来いくつかの解答をわれわれは手にしている。そして、森田は、いち早く、これまでにないひとつの解答を提案しているのである。Shelf-pod / 君府亭」(2007)である(大阪建築コンクール新人賞「渡辺節賞」2006)(図⑥abc)。




 クライアントは若きイスラーム研究者澤井一彰(関西大学教授。オスマントルコ史)という。話を聞いて驚いた。僕がよく知る坂本勉、鈴木菫、林佳代子といったイスラーム研究者のお弟子さんという。また、イスラーム建築史の深見奈緒子先生と親しい。世界は狭い。「君府亭」の君府はコンスタンチノープル(イスタンブール)のことだ。本棚の中央に掲げられたカラフルな陶器版にはアラビア語で「コンスタンチノープルの家(君府亭)」と書かれている。わざわざ、イスタンブールの職人に焼いてもらったのだという。

膨大な蔵書を収納したいという要望がその解答を導いたということもあるけれど、ひとつには、「ポッド」シリーズが頭にあったと思う。「シェルフ・ポッドShelf-podという命名がそのことを示している。木材によるポッド・モデルである。

主構造は、厚さ25mm・幅300mmの板を相欠きにして組み合わせた木造格子(H360mmW300mmD300mm)壁である。なるほど、森田にとって「格子」はキーワードである。木造格子には構造用合板の背板が適宜張られ、水平応力に対抗する強度を得る。発想はよくわかる[3]。基本的には、二階吹き抜けの大きなワンルームである。「ポッド」すなわち洞窟空間であるが、屋根まで一体化することは考えなかった。すんなり、方形の屋根をかけた。いささかそっけない。ただ、イスラーム建築のスタラクタイト(鍾乳紋)、ムカルナスを想起させるさりげない意匠がある。

その大空間には、格子の横板の高さを基準にして自在に床レヴェルが設定可能であり、開口も必要に応じて採ることができる。そして、格子の隙間は、本をはじめとして、自在の物が置ける飾り棚でもある。玄関を入ると、「構造」や「内装」、「家具」や「装飾」を一体化する見事なシステムである。

玄関すなわちムカルナスのような覆いの入口の接続空間(下駄箱、物入れなどの棚)を入るとキッチンダイニングで、高さ900mmの作業台、流しが壁周りに走る。右手の居間の床は900mm高い。すなわち、階高180mm5段上がる。床下は大きな収納空間として使う。降りると洗面、トイレ浴室である。居間からさらに右肩周りで900mm上がると居間に開かれた書斎であり、さらに900mm上がると寝室である。玄関の上である。実によくできている。キット販売可能なシステムである。いくつかのヴァリエーションと集合住宅の展開が考えられるのではないか、などと思った。

 

新「京町家モデル」ー門形ラーメン

 しかし、システムはシステムであり街区を構成する型となるとは限らない。格子の棚を持て余すクライアントもいるかもしれない。森田には、五角形の平面をした「津島の家Pentagonal-house(2010)のような作品がある。敷地の形から発想したというけれど、一連の作品なのかでは異質に思える。新築の住宅については、模索中ということだろうか。

「様式」が外にある建築家と内にある建築家がいる、という区分けがある。「様式」というのは、一貫する姿勢、作法、規範などと置換えてもいいけれど、森田一弥は、土への拘りが示すように、何か一貫するもの、原理を追求するタイプだと思う。そうした意味で、もうひとつの解答のように思えるのが「紫竹の町家」(2016)である(図⑦abc)。京都の北辺に建つ地下一階地上二階建ての住宅であるが、魚谷繁礼たちが提案した「京町家モデル」とは別のもうひとつの「現代の町家」のプロトタイプになる可能性がある。



架構は門型ラーメン。中央に吹き抜けをとったスキップ・フロアで、無理のない平面構成である。中庭を設ける余裕がないとすれば、通風、昼光をどう取り入れるかは大きなテーマである。夏には南北に設けた窓から季節風を取り入れ、冬には南の大きなガラスの開口と屋根面から太陽の熱を室内に取り入れる、適格な断面構成である。そして、熱循環のためのチューブが中央の吹き抜けに煙突のように建てられる。屋根面で受ける太陽熱を室内に取り入れ、最上階に集まる暖かい空気を地下室に循環させる新たな装置である。先立って、インドで環境低負荷型の住宅モデルを目指した「マドゥライの住宅Zero Emission House in Madurai」(図⑧)がある。太陽光発電、クールチューブ、雨水利用などエコハウスの技術が組み込まれている。残念ながら実現できなかったが、エコ・サイクル・ハウスは地球環境時代の建築家共通のテーマである。このチューブは「法然院の家」にも用いられている。


 

既に準備完了である。事務所を訪ねた時に、模型を見せてもらった左京区の「資料館」(図⑧)の建設が始まった。合わせ柱、合わせ梁というかダブル格子の興味深い架構方法だ。さらなる公共建築への展開をみたい。

 



[1] ポルトランドセメントを構成する主な物質は、珪酸三カルシウム(エーライト、3CaOSiO2)、珪酸二カルシウム(ビーライト、2CaOSiO2)、カルシウムアルミネート(アルミネート、3CaOAl2O3)、カルシウムアルミノフェライト(フェライト、4CaOAl2O3Fe2O3)、硫酸カルシウム(石膏CaSO42H2O)という。

[2] 構造:小澤雄樹、構法原案・左官工法:森田一弥(森田一弥建築設計事務所)、設計・平面計画:柳沢究、企画・全体統括:山本直彦。施工協力:(株)小川テック、久住鴻輔(久住左官)。

[3] 同じ頃、彦根の宿舎の本棚を、中正巳くんの設計で、中川雄輔くんたちに我が家の本棚をつくってもらったのだけれど考え方は同じである。しかし、それを壁体として空間とする発想は全くなかった。商品化を目指せと、標準の天井高に合わせて、また、本のサイズに合わせたモヂュラー・コーディネーションを考えたのであるが、中途半端だった。一部はまだ使っていて、壁面全体の本棚は川井操君に譲ってきた。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...