建築のポストモダンと「間」,KAWASHIMA 17,198506(布野修司建築論集Ⅰ収録)
建築のポストモダンと「間」[i]
現代建築の中の「間」
建築の「ポストモダン」と「間」。いささか唐突な取合せに思えるかもしれない。第一、「ポストモダン」という概念にしろ、「間」という概念にしろ、実に曖昧であり広い。概念規定を明確にしないでいきなりつき合わせても話にならない。それに、全く別の脈絡において使われている概念であり言葉である。一九七〇年代末、建築やデザインの領域において実に素朴な形で不用意に使われ始めたポストモダンなりポストモダニズムという言葉は、八〇年代を通じて、あらゆる領域に拡散し、知の最前線における最もファッショナブルな概念となった。ポストモダン現象とかポストモダンの気分とかいった形で、最先端の風俗や現代消費社会における新しい感性を言い表す言葉として用いられた。しかし一方、「間」は専ら日本の伝統文化とのかかわりにおいて、その特性として論じられるのが一般的である。二つの言葉の用いられる脈絡の間には一見なんのつながりもなさそうに思える。
しかし、少なくとも現代建築の動向にかかわって、「ポストモダン」と「間」の概念の、それこそ間(あいだ)を問うことは、それなりに大きな意味をもっていると言わねばならない。なぜなら、建築やデザインの領域においては、「ポストモダン」と「間」をめぐって明らかに共通の一つの問いが存在しているからである。それは近代建築の理念や規範に対する批判の根底にかかわる問いである。
建築における「ポストモダン」という概念が、単に新たなファッションとしての様式にかかわる概念であり、それも近代建築の絶対的様式としてのインターナショナル・スタイルに対する批判として提示されてきた諸様式を包括し、総称するものでしかないとすれば、何も「間」という概念を引合いに出す必要はないであろう。
しかし、建築における「ポストモダン」をより根底的に、近代建築を支える時空間のあり方や概念に即して問題にしようとすれば、当然「間」の概念は大きな問題となる。「間」の概念は、少なくとも、近代的な時空概念をとらえ直す一つのモメントを与えてくれるはずだからである。
「間」の概念が、今ひとり建築の領域に限らず、むしろ一般的に問われつつあるのは、現代社会の時間空間のあり方にかかわっているからである。そこには明らかに共通の問題意識があるはずである。しかし、それにもかかわらず建築のポストモダンをめぐる議論において、「間」の問題が必ずしも掘り下げられていないように思えるのはなぜか。何もここで「ポストモダン」という言葉自体にこだわる必要はないのかもしれない。問題は「間」のとらえ方である。しかも、「間」のとらえ方自体に、建築のボストモダンをめぐる議論のアポリアが示されていることは指摘できるはずである。
日本の建築家の中で、最も意識的に近代建築批判を展開してきたのは磯崎新である。その七〇年代における、手法論、引用論、記号論を軸とする建築論[ii]2を集大成するのが「つくばセンタービル」図①(一九八三年)である。「つくばセンタービル」は、そしてわが国において初めて大規模な公共建築において実現されたポストモダンの建築であるとされる。「つくばセンタービル」[iii]3をめぐって論ずることは多い[iv]4。
一つのテーマは、まさに古典主義建築、近代建築の原理がそうであるような、透明な一つの原理によって全体が支配されるのではない方法である。磯崎はそれを新たに分裂症的折衷主義(スキゾ・エクレクティック)[v]5などというのであるが、例えば、ケネス・フランプトン[vi]6の「ディスジャンクション」[vii]7という概念によりながら、「一個一個の構成要素は、別な系に所属しているような断片で、その断片が不連続に連続しているようなものとして」建築を組みたてるという言い方をする。この「物と物とが接続されているんだけれども、それは連続していない」という方法意識は、おそらく「間」の概念とかかわりをもつ。磯崎のこれまでの理論展開における切断の手法、引用という方法自体もおそらくそうである。
ルーブル装飾美術館で開かれた展覧会[viii]8(一九七九年)のチーフ・プランナーとして〈日本の時空間-間〉というテーマを磯崎新が選定したとき、必ずしも、そのそれまでの方法概念と「間」の概念が結びついていたとは思えない。ジャパネスク[ix]9といった言葉がもてはやされる中で、磯崎自身、〈日本的なるもの〉としての「間」を具体的なものとして意識していた節がある。そして、その後も、「間」の概念は彼の中で必ずしもウェイトを占めてはいない。知られるように、彼が引用するのは徹底して西欧建築のコンテクストにおける断片である。ルドゥー、ジュリオ・ロマーノ[x]10、ミケランジェロ[xi]11と「つくばセンタービル」においても、彼のいう「様式の廃墟」[xii]12からさまざまなディテールや手法が寄せ集められているのであるが、日本的な様式、表現はむしろ意識的にしりぞけられている。〈日本的なるもの〉の表現のステレオタイプ(例えば和風といえば屋根のスタイル)に直接的に結びつけられ、全体構成を支配されることを嫌うからである。彼が「間」という概念を無意識的に避けているのは、同じようにそれが直接的に〈日本的なるもの〉のコンテクストに結びつけられてしまうからであろう。
しかし、磯崎が個の感性において、歴史的社会的コンテクストを無化して、異質なものを並べるとき、そこにあるのは「間」の感覚である。磯崎新について、ありとあらゆるものからの距離を測ることによって自らの位置を定めるそういうタイプの作家であると評した[xiii]13ことがあるのであるが、彼の引用を支えるのもその距離感である。
「間」の概念を日本独自のものとしてとらえ、伝統芸術の流れの中に芸道の成立とともに「間」の概念の成立をみる西山松之助[xiv]14は、「間」を「時空を切断したところに生じる距離感」であると定義する。もしそうだとすれば、自分自身が意識すると否とにかかわらず、「間」の概念は磯崎新にとって重要な意味をもっていると言えるはずである。
伝統的な茶室や数寄屋における手法を現代建築に生かす形で「間」の概念を意識する建築家は決して少なくない。しかし、「間」の問題を〈日本的なるもの〉をめぐってこれまで歴史的に積み重ねられてきた脈絡から解き放って、より広大なコスモロジーにおいてとらえようとする試みもないわけではない。「相の間」「鏡の間」、「幣の間」というタイトルで作品を発表し続ける毛綱毅曠[xv]15がそうである。松岡正剛もまた、独自の宇宙論に基づきながら、「間」についての大胆な仮説を提示する[xvi]16。おそらく、「間」の概念は現代建築にとって大きな可能性をもった概念である。
「間」とは何か
・間は一つの全体性を持つ
日本語の間という言葉は実に多様に用いられる。しかし、必ずしも、それが多義的であるとか、多くのコノテーションをもつということではない。多様な用法を統一するものとして間の概念が存在する。すなわち、間の概念はさまざまな用法の総和によって規定されるのでも、分析的に規定されるものでもない。他の概念で置換え不可能な全体性を持った概念としてとらえられるべきである。
・間は時空間を一体化する
間はまず空間的隔たりあるいは広がりを示す概念として用いられる。物理的な隔たりの尺度(一間〈けん〉、二間〈けん〉…)あるいは特定の境界づけられた空間的広がり、場所、室、部屋(居間、茶の間、土間、床の間、間を借りる…)を示す言葉として用いられもするが、一般にはあるものとあるものとのあいだの隔たり(柱間…)あるいは広がり(すきま)を意味する。
間はまた同様に時間的な隔たりあるいは持続を示す概念としても用いられる。一定の時間的間隔や特定の持続的時間(寝ている間、留守の間…)にも用いられもするが、一般にある時(刻)とある時(刻)の合い間(少し間を置いて…)あるいは目的化されない時間、暇(~する間もない、間をみて)、さらに持続的時間の休止(間を置く、…)といった意味で使われる。
間の空間的な用法と時間的用法のあいだには以上のようにアナロジカルな関係がある。一般的には、空間的な間の概念が時間についてもアナロジーとして用いられると理解される。しかし、間の概念は必ずしもその空間的用法と時間的用法をあらかじめ分けて、そのあいだにアナロジカルな関係を明らかにすることによってとらえられるわけではない。そこでは、時間的な間もまた空間化されており、空間的な間のみが問題とされているにすぎない。間に合う、間が悪い、間がもつというとき、明らかにどちらかの用法と特定することはできない。双方を一つにした用いられ方である。
・間は、意味(イメージ)の構造にかかわる
時間的空間的な隔たりや広がりにかかわる間の概念は、それを基礎として、心理的な隔たりや広がり、意識の流れ(持続)と切断についても同じように用いられる。ものとものが接している場合にも間が意識されるように、間は必ずしもフィジカルな意味での時間、空間の隔たりや広がりにかかわるのではない。あくまでも距離の感覚、隔たりの意識にかかわっている。
そうした意味では、間の概念はものそのものにかかわるよりも、ものの意味やイメージにかかわり意味空間あるいはイメージ空間における差異、距離の感覚により深くかかわっていると言っていい。現象学的精神病理学の立場から「間の哲学」を明らかにしようとする木村敏[xvii]17は、「もの」と「こと」を区別し、それぞれの存在する場所を問う中で、「もの」が具体的な空間、時間の座標においてとらえられるのに対して、「こと」という意味は、ものとものとの「あいだ」、ものと私の「あいだ」といった「あいだ」にこそ存在することを明らかにする。そして「あいだ」に存在する「こと」を伴わない「もの」などというものは存在し得ないことを主張する。そうした脈絡において、「こと」という意味の存在するのが間である。
・間は関係性にかかわる
間はそれ自体では間ではあり得ない。あるものとのあいだであり、ある出来事とある出来事とのあいだである。広がりや持続といっても、始めと終わり、端(境界)と端(境界)によって初めて規定される。そうした意味ではあらかじめ関係性を含んだ概念である。
世間(よのなか)、人間という日本語の用法が示すのは、間の概念が社会的関係においても大きな意味を持っているということである。そこには、人や世の中をあらかじめ関係性、間柄の論理においてとらえる日本人に特有な人間観、世界(社会)観が示されていると言ってもいいのであるが、しかしより一般的にそこにあるのは相互主観性をめぐる哲学的な課題である。
・間の感覚は世界内存在の本質にかかわる
間と存在は不可分であり、われわれは間そのものを生きていると言うべきである。間の感覚がなければ、離人症や分裂病の症例が示すように、存在は存在たることが不安定となり困難となる。時空の認識や自他の認識は失われてしまう。
こうした理解のレヴェルにおける間は、すなわち世界内存在の本質にかかわる間は、知覚や認識の基礎として一般的で共通なものである。言うならば、存在たらしめる「共通感覚」が間の感覚、「あいだ感覚」(木村敏)なのである。
・間は、世界観、宇宙観に密接にかかわる
間の感覚が人間存在にとって共通に本質的なものであるとしても、間のあり方、間のとり方は、文化的、歴史的背景を異にすることにおいて多様でありうる。間のあり方、間のとり方は、世界とのかかわり方そのものにかかわっており、そうした意味でわれわれの世界観、宇宙観、社会観、自然観、時空間観に密接に結びついていると考えることができる。
・間の感覚は身体性を基礎とする
間のあり方、間のとり方は、それは具体的な身体に根ざしたものであり、抽象的一般的にとらえられるものではない。間の感覚は身体感覚である。
手法としての八つの「間」
間そのものの存在を強く意識化すること自体が日本文化を特徴づけ、そして、そのこと自体が日本人の世界観、自然観と密接にかかわっている。そうしたことを、さまざまな「間」を通して次に考えてみたい。
・抒情の間--イメージ空間
間そのものが日本人にとって極めて大きな意味をもっていることを示すのは日本語そのもののもつ「間」の構造である。剣持武彦[xviii]18によれば、日本語においては、語と語、文と文、表記と音のそれぞれの間、また音節構造における間が決定的な意味をもっている。つまり間はことばとことば、イメージとイメージのあいだに存在する抒情空間であり感覚空間である。こうした空間(言語外的空間)を豊かにもっていることが日本語の特徴であり、そうした意味で、日本語はイメージ言語であり抒情的な言語であるというのが剣持の主張である。
日本語における間は一つにはことばとことば、文と文の関係を明示しないで〈省略する〉ことにおいて示される。そこでの間は、単なる音と音、形象と形象のあいだの空白ではなく、イメージとイメージが連想によって〈無尽化〉していく場所である。また、日本語の間は、それぞれのレヴェルの、そして様々な感覚(聴覚、視覚)が複雑に絡まり合う間である。意味、イメージの伝達される場所が間であるとすれば、日本語の間の構造はそれを裏づけているといえよう。
・空白の間--余白の美、沈黙の美、無音の美
間そのものに特別な価値を置く日本人の意識は間についての独自の美意識を育てあげた。空白そのものを美とし、余情、余韻を楽しむ美意識である。「せぬところが面白き」(『花鏡』[xix]19)、「打たぬ所に聞くなり」(『禅鳳雑談』[xx]20)、「白紙も模様の内なれば」(『本朝画法大伝』[xxi]21)と言われるように、日本の伝統芸術における美意識として、共通に指摘されるのが空白そのものを美とする意識である。空白の間は基本的には抒情の間と密接にかかわりをもつ。しかし、そこに精神的な意味合いが込められ、日本的な宗教意識と結びつけられることにおいて独特である[xxii]22。
・緩衝の間、調整の間、余裕の間
間の概念は抒情空間や余白の美と結びつけられる一方、日常生活における具体的な機能をもっている。関係を明言したりせず、曖昧なまま空白とすることによって、対立的、競合的関係を調整する間の感覚がそうである。ここでもまた、曖昧さの美徳あるいは義理、人情、甘えや控えめの感覚といった日本人の心性とのかかわりで間の感覚がとらえられるのが一般的である。異質なものと異質なものとのぶつかり合いを回避する緩衝の間は、俗に余裕(ゆとり)の間としても意識される。
・閾(敷居)の間--結界の間
床の間において床が場を規定する例が示すように、閾は決してフィジカルなものではない。注連縄一本で聖と俗を分けるそうした感覚が閾の間である。具体的な行動を物理的に制御する閾ではなく、象徴空間における閾である。
日本にはそうした意味で、境界にかかわる多くのデザイン要素がある。商家の帳場における結界、密教寺院の内陣を分ける格子、門や鳥居、盛り塩、茶席における蹲踞、手水、青竹、簾、几帳、衝立、襖、障子、そこには、共通に閾についての美意識、結界の美をさまざまにみることができよう。日本の結界は、決して二つのものを完全に分離するのではない。二つのものを分けながら、例えば視覚的には結び合わせるものである。切断の概念が切り離すと同時に関係づけるものであるとすれば、閾の間はそうしたものである。
・ずれの間 不即不離の間
間は、一般に、「微妙なタイミング(間隔)」、「何ともいいようのない距離感覚」を言い表す言葉として用いられる。そこでの間は、通常、基準となる感覚(常間、定間)とのずれの意識にかかわっている。日本舞踊においては、三味線による曲の間を基準として、舞踊がそれにぴったりと合いすぎることは定間としてしりぞけられる。しかし、だからといって、全く合わない度外れな間では芸にならない。定間との不即不離の微妙な感覚が間とされる。
・基調の間、定(常)間
ずれの間の前提となるのは基準となる間である。しかし、基準となる間は決して部分の間ではない。
歌舞伎が、複雑に異なった種類の間を内に抱え込んでいるというとき、その間は様式、リズム、型の概念に近い。対話を基調とする狂言の間は、日常的な行動の間を規範とし、能の間は一方で音曲的な間でありながら、能面の微妙な変化をみせるゆったりとした動きを基調とする能面の間でもあるという間は、全体的な動きのリズム、調子、型を意味する。
・構成の間
基調の間は諸要素の全体的構成について漠然と言われるのであるが、諸要素の時間的空間的配列の全体を細かく規定するものとしての間の概念がある。そこでの間は、時間的あるいは空間的に特定でき。明確な構成概念としてとらえることができる。
能楽あるいは近世邦楽は、そうした間の概念を精緻に発達させてきた例である。二拍子の拍節における第一拍と第二拍を意味する表間、裏間、一拍の単位の設定にかかわる大間・小間、記譜上の概念としての半間、三ツ間、常間、テンポにかかわる遅間・早間そして元の間、転け間、さらに本間、ヤノ間ヤヲハノ間など実に豊富な間の区別をもっている。蒲生郷昭[xxiii]23によれば、「音楽のリズムを拍の頭と頭のあいだの時間的距離という観点から演奏の次元で把えた概念」が間である。
空間的な構成概念としての間の例として、西山松之助の挙げるのが茶道の秘伝書『南方録』[xxiv]24におけるカネワリの法である。お茶の道具の並べ方を細かく規定したのがカネワリの法である。カネとは曲尺であり、空間的寸法体系としての間であれば、さらにいくらでも挙げることができる。木割り、畳によるモデュール、殊に、茶室、数寄屋において、日本建築は精緻な寸法体系を発達させてきたと言っていい。
・身体の間 パフォーマンスとしての間
間が決して時間的空間的配列そのものとして、すなわち客観化しうる形で理論的にとらえられないとされるのは、それが理論と実践という言い方をすれば、より実践にかかわる概念だからである。間は楽曲と演奏という例で言えば、楽曲のリズム構造や型にかかわるのではなく、明らかに演奏上の概念である。ラングとパロールという比喩を用いれば、パロールであり、間は、具体的なプラクシス、言うなればパフォーマンス(演技、演じられ方)にかかわる概念と言ってもいい。
そうした意味で、間は具体的な身体にその基礎を置く。そしてまた、それ故、本来個別的なものである。「間は持って生まれたものだ」とよく言われるのはそのことを示していよう。日本の礼法、あるいは動作特性にかかわって間が問題とされるのはそれ故にである。雅楽、能楽、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、日本舞踊といった舞台芸術、邦楽や大衆芸能、武道や茶道など日本の文化のあらゆる領域において、共通に用いられる間の概念が究極的には身体の間を基礎としていることは容易に理解されるはずである。
デザイン・ヴォキャブラリーとしての「間」
以上の脈絡において、いきなり間の表現、間のデザインを問題とするにはかなりの落差がある。既に間の手法にかかわるいくつかの概念は提示されていると言ってもいいのであるが、そもそも間を手法として扱うこと自体、また間を実体化し、その表現問題とすること自体、間の概念のもつ全体性からみれば大きな歪曲である。しかし、あくまで、空間的な配列の問題をその思惟の出発点にする建築家にとってそれは宿命であり、本質でもある。その歪曲、限界を以上において確認した上で建築家にとっての間の概念、間のデザインについて以上から導かれる範囲で思うところを列挙してみよう。現代建築の具体的な作品についての分析は後の作業とせざるを得ないのであるが、以下は、そのためのとりあえずのメモである。
a 間のデザイン(間の概念に基づくデザインの意、以下同様)は、(まさに磯崎新が「つくばセンタービル」において意図したように)、全体が単一で透明な構成原理によって支配されるデザインではない。
b 間のデザインは、しかし、分裂症的でも単なる折衷主義でもない。一つの全体性をもつ。その全体性は、単一の様式や形態によって部分が支配されるようなものではなく、構成概念としての間を基礎として、それを重層化させた上に成り立つものである。
c 間のデザインは、意味やイメージが重層化される空間をもつ(建設のポストモダン論はおおむねこのレヴェルでのみ展開される。C・ジェンクスのポストモダニズム建築の定義(条件)としての二重のコード化も、意味の重層化にかかわっている)。しかし、それは単に様々なイコンや装飾がちりばめられた空間なのではない。要素し要素がレヴェルに応じた間をもちそれに五感の間がクロスする空間である。
d 間のデザインは、時間の概念を内包することにおいて、歴史感覚をその基礎とする。また、世界観、宇宙観が当然その基礎となる。そして、それが間のデザインの全体性を支える。
e 間のデザインは、その重要な要素としてずれの間をもつ。また、ずれを含むための前提として基準の間をもっていなければならない。
f間のデザインにとって境界のデザインは決定的な意味をもっている。あるいは、手法としての切断の概念は、間のデザインにとって重要な意味をもっている。
g 間そのものの表現手法としては、様々なものを考えることができよう。〈省略〉、〈緩衝〉、〈調整〉、〈媒介〉といった概念も具体的な空間構成にかかわる手法としてとらえ直すことができるはずである。基準としての二つのもの(A、B)によって間を示す手法も、A、Bが空間的に離れている場合、ABが接する場合、ABの間に特定の関係(順序やルート)がある場合によって様々である。ABが同質であるか異質であるかによって異なる。そこには多様な手法、多様なデザイン・ヴォキャブラリーがあり、また発見される必要がある。ただ、そこでも問題は、単に部分としてのデザインではなく全体の間である。
h間のデザインはもちろん個の身体性に基礎を置く。数寄屋における微妙な寸法感覚が○○流という形で建築家名を冠して評されるのは身体の間にかかわっている。間のデザインにおいては、具体的な制作(設計施工)のプロセスにおけるつくり手の身体の介在の有り様は大きな意味をもっている。また、リアライズされた空間についても、受け手の身体感覚を第一の基礎として評価される。そうした意味では、相互身体性を基礎におくのが間のデザインである。
[i]1 拙稿、『 』 七、一八八五年五月
[ii]2 『手法が』(一九七九年)、『建築の修辞』(一九七九年)、いずれも美術出版社。
[iii]3 筑波研究学園都市における最初の都心施設。一九八三年竣工。日本初のプロポーザル・コンペ方式によって選出された建築家磯崎新が設計を担当。ローマのカンピドリオ広場のパターンや古典建築の様式など、西欧の歴史的モチーフの不完全な形での引用による様式の相対化が試みられている。また斜めの壁など様々な仕掛けで、ヒエラルキーの欠如、喪失感を感じさせることに成功している。日本のポストモダニズムの初期の代表的建築として位置づけられる。
[iv]4 磯崎新、『建築のパーフォーマンス』、パルコ出版、一九八五年
[v]5 磯崎新、『ポストモダン原論』、朝日出版社
[vi]6 ケネス・フランプトン
[vii]7 ディスジャンクション
[viii]8 ルーブル装飾美術館で開かれた展覧会
[ix]9 ジャパネスク
[x]10 ジュリオ・ロマーノ 。一四九九頃ローマ~一五四六。本名 。イタリアの建築家、画家。ラファエロの弟子、助手としてヴァティカン宮殿の壁画装飾やヴィラ マダマの建造に参加。フェデリゴ ゴンザーガに招かれてマントヴァ公の宮廷美術家となり(一五二四)、壮大な離宮パラッツォ・デル・テ(二五~三五)を建てた。
[xi]11 ブオナローティ ミケランジェロ 。一四七五~一五六四年。イタリアルネサンスの彫刻家、画家、建築家。フィレンツェでメディチの保護を受けた。一五〇五年ローマに赴き、教皇ユリウス二世の墓廟(未完成)やシスティナ礼拝堂天井画(〇八~一二)の制作に当たる。その後フィレンツェに戻り、サンロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂(新聖具室)を建設(二一~二四)。三四年以後再びローマに住み、システィーナ礼拝堂に最後の審判の大壁画(三五~四一)を完成、サンピエトロ大聖堂の建築主任(四七~六四)として大ドームを計画した。フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館の階段室(二三~三四)、ローマのカピトリーノ広場の設計(四六)、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂の改造(六三~六六)、ポルタ・ピア(六一~六五)など。
[xii]12 様式の廃墟
[xiii]13 拙稿、「磯崎新論・・・ラディカル・エクレクティシズムの位相」、『現代思想』、七八年一二月。
[xiv]14 一九一二兵庫県生~。日本史学者。一九四〇年東京文理大(のちの束京教育大)国史学科卒。四四年東京高等師範助教授、四九年教授、五〇年束京教育大助教授、六四、七六年教授、七六年成城大教授。日本文化の展開に深いかかわりをもつ家元制度を、はじめて実証的に解明した。江戸町人研究会を主宰。このほか芸能。絵画、花などをテーマに幅広く近世文化史を究明。学位論文『家元の研究』(五九)『江戸ッ子』(八〇)『市川団十郎』(八六)『西山松之助著作集』八巻(八二~八五年)。
[xv]15 一九四一年~。建築家。北海道釧路市生まれ。一九六五年神戸大建築学科卒。毛綱モン太の名前で設計活動を開始。七二年に母親のための住まい「反住器」を発表して、反モダニズムの設計者としてデビュー。七六年毛綱毅曠建築事務所を設立。以後、建築学会賞を受けた釧路市立博物館(八四年)、釧路市湿原展望資料館(同)をはじめ、釧路市立東中学佼(八六年)、釧路フィッシャーマンズ・ワーフ(八九年)など釧路の作品でその地位を確立した。
[xvi]16 レオ・レオーニ、松岡正剛、『間の本』、工作社、一九八〇年
[xvii]17 木村敏、「「間」と個人」、『日本人と「間」』、講談社ゼミナール選書、一九八一年所収、他に『自覚の精神病理』『人と人の間』『分裂病の現象学』など
[xviii]18 剣持武彦、『「間」の日本文化』、講談社新書、一九七八年
[xix]19 世阿弥、『花鏡』
[xx]20 金春禅鳳、『禅鳳雑談』
[xxi]21 『本朝画法大伝』
[xxii]22 南博編、『間の研究 日本人の美的表現』、講談社、一九八三年
[xxiii]23 蒲生郷昭、「日本音楽の間」、南博編前掲書
[xxiv]24 南坊宗啓、『南方録』