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2021年11月7日日曜日

布野(谷尾)晶子 記憶と沈黙ー日本のアーティストは日本の近い過去にどう応答したのか?、ロンドン大学 ゴールドスミス・カレッジ  美術史修士論文 18/9/2003

   

記憶と沈黙

Memory and Silence in Japan

日本のアーティストは日本の近い過去にどう応答したのか?

How do Japanese artists respond to Japanese recent past?

 

谷尾(布野)晶子

Akiko Funo

目次

歴史

ポストメモリー

戦争画

沈黙

言語

ポストメモリアル・アート

ヒロシマ・ナガサキ

大東亜共栄圏

従軍慰安婦

戦争画RETURNS

(布野晶子 ロンドン大学 ゴールドスミス・カレッジ  美術史修士論文 18/9/2003

                  目次は訳者(布野修司)による★小見出しの目次

 21世紀に入ってわずか2年にすぎないけれど,世界は不安定であり続けている。合衆国の同時多発テロ,テロへの闘い,イラク戦争,パレスティナとイスラエルの衝突などの事件が続いている。こうした事件は,私に日本の20世紀の戦争について考えさせる。日本は近い過去について処理することなく今日に至っている。過去の忘却は大きな問題であるように思える。日本では,過去の記憶が抑圧され,歴史が隠蔽されているがために,記憶の場所としてのポストメモリーは限定されているように思える。記憶は曖昧であるが,歴史もまた,政府が記憶をコントロールする権力を持つが故に,別の意味で曖昧である。政府は沈黙を操作する。日本人の戦争の記憶は,罪の意識からわれわれの眼をそらす 様々なやり方で沈黙させられている。日本の残虐行為については,歴史教育において触れられないままである。日本はまた天皇の戦争責任についても沈黙したままである。

 美術の世界でも,戦争画の問題は,戦後,公には隠されてきた。戦争画が以前よりしばしば公開されるようになり,その再検討が開始されたのはつい最近のことである。藤田嗣治は,積極的に戦争画を描いたのだが,1949年に日本を去った,あるいは去ることを強いられた。政府の,道具としての沈黙は,日本の内からのみならず外からも,課せられる。米国の検閲によって,原爆文学の出版は遅らせられるのである。しかし,「沈黙化」は沈黙のひとつの側面にすぎない。沈黙がポストメモリーの妨げになりうるのは事実であるが,同時に,ポストメモリーは,沈黙を通じて,経験(プラクティス)されうるのだと私は考える。記憶が曖昧であるのと同様,二重性をもつが故に,沈黙は曖昧である。沈黙は,言語の一部であると同時に言語の対立物である。沈黙は,隠されているもの,埋葬されているものを想像させる。私は,さらに,沈黙が過去を現在に保持する能力をもちうることを示唆したい。こうして, 言われないもの,言い得ないものを含む,もうひとつの沈黙の概念について考察したい。ポストメモリーも,また 表現出来ないものを意味している。すなわち,自己と他人の距離を示しているー 自己と他人が融合なく共存する 母体としてのポストメモリー。

 日本の近い過去を扱う作品あるいは美術の実践(プラクティス)は,様々な仕方で沈黙にアプローチしているように思える。アーティストは通常戦争を扱わないけれど,専ら戦争に焦点を当てる美術家もいる。多くの美術家が,ヒロシマ,ナガサキを扱っている。殿敷侃(19421992)は,広島で実際に原爆を経験したアーティストである。彼は,20年の沈黙の後,原始爆弾の回想をもとに作品を制作し始めた。東松照明(19302012)は,過去の生存者,とりわけ長崎の生存者の写真を撮り続けている。東松の写真は,反―歴史への関心を惹きつけている。宮島達男(1957~)もまた,広島長崎に落とされた核爆弾に憑かれたアーティストである。宮島は,1995年以来,「時の蘇生・柿の木プロジェクトRevive TimeKaki Tree Project」を開始する。それは消えゆく記憶への応答である。岡部昌生(1942~)の作品は,過去の記憶の活性化に焦点を当てる。彼の作品は,遺構が失われるとともに戦争の記憶が失われないようにその痕跡を残そうとする。村上隆(1962~) は,おそらく日本のみならず西洋でも最も著名な日本の現代アーティストである。最近,彼は壁画「タイムボカンTime Bokan (1999)を発表した。この絵画は,核爆弾の再現を問おうとしているように思われる。

 公式の歴史の隠された部分に触れ,沈黙を破ろうとする美術の実践(プラクティス)もある。柳幸典(1959~)と嶋田美子(1959~)はともに,日本の不愉快な,隠されたあるいは抑圧された歴史に触れる。嶋田は,自らの作品の中の抑圧された歴史を明らかにし,柳は現代日本の沈黙の曖昧さに焦点を当てる。若い会田誠(1965~)は,1995年から翌年にかけて,過去と現在の関係に注目する一連の「戦争画再び」というシリーズを作製した。

 私は,記憶,歴史,ポストメモリー,そして,沈黙という概念について考察することによって,日本の近い過去がいかに抑圧され,沈黙させられてきたかについて議論したい。そして,日本の近い過去,すなわち第二次世界大戦を扱う作品あるいは美術の実践(プラクティス)について議論したいと思う。

 

 歴史

 近い過去について語ることは,とりわけ第二次世界大戦に敗北した日本においては難しいのであるが,戦争の記憶が消えつつあることは日本にとって決定的である。戦争で様々な残虐行為が行われた,そしてそれぞれの殺戮行為は比較できない。さらに,ドミニク・ラ・カプラ[i]が指摘するように,臣下の立場は過去の談話を抑制させる。ラ・カプラは,ホロコーストについて,歴史家あるいは分析者が,生存者か,生存者の親戚か,元ナチか,元ナチ共働者か, 元ナチあるいは元ナチ共働者の親戚か,生存,参加,共働とは直接関与しない若いユダヤ人あるいはドイツ人か,この問題に対して比較的「アウトサイダー」であるかによって,公式に明らかにされた談話の意味についてさえ異なることについて議論している(Friedlander, 1992: 110).  私は,これは日本の場合も,おそらくどんな場合でも,当て嵌まると思う。日本の場合,戦争に行った人か,軍隊にいたけれど現実の戦闘には参加しなかった人か,ヒロシマ・ナガサキの生存者か,生存者の親戚か,戦争を体験しない若い世代かによって異なる。私は,日本人として,戦争を全く経験しないひとりとして,第二次世界大戦後に産まれた両親をもつひとりとして,日本の近い過去を考えてみたい。

 

 私が初めて日本の歴史を学んだのは11歳の時である。それ以来,何度か,日本史そして世界史を学ぶ機会があったけれど,私は,日本の最近の過去,すなわち20世紀の歴史を学ぶことはなかった。私が日本史で最も覚えているのは原始時代である。先生たちはいつも原始時代にウエイトを置いて,20世紀の歴史については年度の終わりになって時間がなくなるのが常であった。次の年も同じである。全て再び原始時代から始める一年前の繰り返しである。誇張しているかもしれないけれど,原始時代については多くのことを覚えているけれど,近い過去の歴史についての知識が限られている私の記憶からはそうである。

 

 私は,日本の近い過去,日本の歴史,広島長崎に落とされた原子爆弾のことを忘れ去る恐怖を感じる。日本のひとたちがそれらを忘れる恐怖を感じている。それは,私が不在の記憶を持っているからだと思う。日本の歴史には曇らされた多くのことがあることを知っているのに,日本の歴史について多くを学ばなかった記憶があるという意味である。記憶は,われわれの生活にとって,極めて基本的である。記憶がなければ,われわれは,記憶することも忘れることもできないのである。記憶は「現在,過去を再現するために働いている」 (Antze and Lambek, 1996: xxiv)のである。しかし,記憶が曖昧であることは確かである。記憶は常に既に選択されたものである。「記憶は,経験から生み出される, そして次に,それを再成形する」(ibid: xii)のである。つまり,記憶は,起こったことと想像されたことの間の場所を占めているのである。このことは,歴史もまた同じように常に既に選択されたものであるように,記憶が全く信頼できないということを意味するわけではない。記憶は,政府がわれわれから奪い去ることの出来ない何ものかであるが故により強力であるように思える。

 

 私が日本の近年の歴史の多くを学ばなかったために,政府は歴史をコントロールしてきた。曖昧なのは記憶のみならず歴史もまた曖昧である。ジャック・デリダ[ii]が議論するように,政府は,アーカイブを解釈する権力を持っている(Jacques Derrida 1995: 2)。「 記録集は,必ずしも常に論説的な文章ではないが,特権的な「トポロジー」のおかげで,アーカイブというタイトルの下に分類され,保存されるのみである。それらは,この共有されない場所,すなわち,この法と特異性が特権的に交差する選択された場所にあるのである」(ibid.: 3) トリン・T.ミンハ[iii]もまた,「歴史的分析は,物事の装われた秩序の再構築と再配分以外の何ものでもない。たとえ記念物へと変換され,凍結された記録集の解釈においてもそうである。歴史の書き直しは,それ故,終わりのない課題なのである。」といった議論している(Trinh T. Min-Ha 1989: 84)。「記録し,収集し,分類し,解読し,分析総合し,解剖し分節することは,既に,「構造を挿入すること」であり,構造的活動であり,精神を構造化することであり,全体的考え方なのである」 (ibid.: 141)

 大文字の歴史は,家父長制の概念を示す家父長の物語である。それは記録集に基づいて構築される。しかし,唯一の歴史があるわけではない。多くの歴史がある。歴史的な事実は沈黙に取り囲まれており,沈黙は別の歴史を含んでいる。ミンハが議論するように「文学と歴史は‘かつて/今なお’物語で‘あった/ある;これは,それらが形成する空間が未分化ということを必ずしも意味するのではなく,この空間が異なる一連の原理によって表現されること,事実の階層的領域の外側に立っていると言われるかもしれないものを意味するのである」 (ibid.: 121)。物語が歴史となる時,「それは事実と蓄積に浸り始めるのである」 (ibid: 119).  われわれは常に過程である歴史,「終わりのない,中間もない,始まりもない,出発もない,止まることもない,後ろにも前にも進むこともない,別の流れに流れ込むひとつの流れでしかない歴史を必要としている」(ibid.: 123)

 

ポストメモリー

 戦争の記憶は,私の経験から生み出されるものではない。戦争を体験しない人びとは,他の人びとの記憶を通じて自分自身の記憶を構築することができるだけである。ポストメモリー[iv]とは,マリアンヌ・ヒルシュMarianne Hirsch[v]によれば,「生存者の子どもの,文化的集合的トラウマをもつ両親の体験と自分が育った物語やイメージとしてのみ「記憶する」,それ自体で記憶を構成するほど強力で途方もない経験との関係」を記述する用語である (in Bal et al. (eds.), 1999: 8) しかし,ヒルシュがさらに議論するように,ポストメモリーは,「アイデンティティの場所にあるのではなく,すなわち,単に個人的な記憶,アイデンティティ,予測の行為ではなく,文化的であり公的であることによってより広く利用可能である記憶の空間にある」(ibid.: 8-9)。それは「正確には,その対象すなわち源泉との結合が,回想ではなく,予測,投資,そして創造によって媒介されるが故に,記憶の強力な形式である (ibid.: 8)。しかし,日本の場合,ポストメモリーの行為は制限されているように思える。

 

 日本は自らの歴史を扱うことなく今日に至っている。日本の近い過去の記憶は,「何も言わないで沈黙を強いる無言の実例」[vi] (Foucault, 1984: 17)の下にあるように思える。政府は,過去の記憶を沈黙させ,抑圧する権力を行使してきたのである。日本人の戦争の記憶は,われわれの眼を罪悪感からそらす様々なやり方で沈黙化されている。上述のように,歴史教育は日本の残虐行為について沈黙したままである。教師は,政府が曖昧であるため,歴史を教えることができないのである。戦前の日本を賛美し,南京大虐殺や慰安婦などの残虐行為を否定する日本の歴史教科書をめぐる論争がある。

 日本はまた天皇の戦争責任についても沈黙したままである。 天皇制は日本社会に深く根ざしている。天皇は第二次世界大戦後に「人間宣言」を行うまでは「生き神様」と見なされてきた。そしてさらに,天皇=支配構造は依然として存在しているのである。天皇制は,今日,表だって支配する政治権力ではない。通常は表面に現れない政治権力である。それは規範とみなされている。権力は沈黙の内にあり,沈黙の故にあり続けるのである。戦争遂行に当たった天皇裕仁が,公式には無罪とされ,戦争責任をとらなかったことが,私が思うに,日本人の歴史無知の理由のひとつである。橘玲子Reiko Tachibana[vii]は次のように言う。

「天皇の戦争責任についての沈黙を維持することは,神である天皇の子である日本の兵士や市民は選択の余地なく従うしかなかったと信じることによって(あるいは信じるふりをして),日本人自身の責任も否定することを可能にするのである。占領期に,父=天皇がその存在根拠を失った時,この概念は転移し,一時的に,民主的な父と「マッカーサーの子」として受け入れられた。新たな父親が自分たちの父親の無実を主張したことによって,そして天皇を平和主義者として描いた日本政府の戦後の情宣によって,父親は戦争中に軍の指導者によって裏切られたのだということを容易く信じ込まされたのである。」(1998: 10-11).

 

 戦争画

 アートの世界では,戦後,戦争画もまた,公の場からは隠されてきた。戦時中,とりわけ太平洋戦争中に,数多くの戦争画[viii]が情宣のために描かれた。絵の具やカンバスなどの材料の配給量は,アーティストがどれだけ軍と協力しているかによって異なった。第二次世界大戦後,戦争画は公的な場から消え,日本の戦後美術史からも消されてしまっている。戦争画は,第二次世界大戦後30年以上もの間公開されなかったのである。アメリカは,第二次世界大戦直後に戦利品として153の戦争絵画を没収し,それらを東京の国立近代美術館に収蔵した。戦争画は6年間収蔵されたが,日本政府はその存在には不快であったと思われる。そして,その不快感は,ウインストン・チャーチルの『第二次世界大戦』に戦争画が挿入されることによってさらに増す。1951624日,突然,数台のアメリカの軍用トラックが博物館に横付けされ,戦争画は消え去ったのである。戦争画はアメリカに持ち去られ,ほぼ20年間保管される。戦争画はアメリカから日本に返還されたが,再び,封印される[ix] (筆者訳針生一郎[x], 1979: 32-34).

 

 積極的に戦争画を描いた藤田嗣治[xi]1949年に日本を去る。多くのアーティストが,敗色が濃厚になるにつれて戦争画を描くことを断念したにも関わらず,藤田は,サディスティックにそして必死に絵を描き続けた,そして実際,彼は絵を描くことを止めることができなかった(筆者訳菊畑[xii], 1978: 41).  「アーティストの倫理的問題」と軍事政権との共犯関係は,東京裁判で罰せられ,公職を追放された戦争犯罪とはまったく別のものであった(針生, 1985: 24-25)。藤田は責めを受けるべきひとりであった。同じく戦争画を描いた内田巌は,1947年に,藤田に対して,藤田は「戦争アーティストを扇動する役割を果たしたという理由で,日本美術協会に公式に非難されるべきだ」といっている (針生前掲書ibid: 24).  藤田は最初アメリカに行き,そしてフランスに行った。後にフランス国籍を取得し,クリスチャンになった。そして,二度と日本には帰国しなかった。美術評論家として,針生一郎は,「藤田をスケープゴートとして利用することによって,多くのアーティストは,自身の罪を明らかにし,彼ら自身の倫理的責任の問題を完全に忘れることができた」という(ibid: 25)

 

 近年,戦争画は過去よりしばしば公開されようになった。そして,戦争画の再考が開始され始めた。 美術評論家の椹木野衣[xiii]は,「われわれが戦争画について考えるべきは,戦争画を描いたアーティストを倫理的観点から非難することでも,戦争画を主観的な価値判断を棚上げして形態分析することでもない。そうではなく,そのような偽りの正義,美学,歴史そして恐怖を,何の疑問もなく描写することを可能にした実践が,近代性を隠蔽する中でどのようにして生まれたのかを考えるべきなのである。」 (筆者訳, 1998: 334).

.1, 藤田嗣治 アッツ島玉砕 1943

  戦争画は,人々の生活,人々の闘争,人々の貧困を削除し,イデオロギーから生み出された崇高で英雄的な歴史的シーンを描いた。そうした意味で,椹木は,戦争画の「明」と人びとの生活の「暗」という用語を用いる。しかし,藤田の「アッツ島玉砕」(1943) (1)には「暗」がある。兵士たちは,全く動けない薄暗い空間で,もみ合っており,敵味方は確認できない。 闘いは格闘となり,兵士たちはばらばらになる。椹木が議論するように,「アッツ島玉砕」は,藤田があまりにも狂信的に描いているが故に,「正義,歴史,美学の根拠のないことを明らかにしている」ように思える。こうして,この絵は「明」の内部に「暗」を含んでいる。今日,日本は経済的に発展し,戦争放棄の憲法9条のもとで平和国家と思われているかもしれない(小泉首相は,最近,国連決議無しにイラクに自衛隊派遣を決定したのであるが)。しかし,日本は,頭を砂の中に潜り込ませて,平和主義の名の下に戦争の記憶を隠蔽しており,イデオロギーに支持された戦時中と同じ明るさを維持しているように思える。すなわち,今日の日本もまた,明るさの内に暗さをもっている。日本は,戦時中とは異なったイデオロギーによって支持されている。そのイデオロギーは過去の隠蔽から成り立っている。

 

沈黙

 政府の道具としての沈黙は,日本国内だけではなく,国外からも課せられた。沈黙を操作するのは日本政府のみならずアメリカ合衆国である。原爆文学 の刊行は合衆国の検閲でが遅らされた。例えば,大田洋子[xiv]の『屍の街』(1948)は,1945年に書き終えられていたけれども,検閲を受け,出版には3年を要した。 しかも,出版社は,検閲を受けて,第2章のタイトルを「表情のない顔」とした(Tachibana, 1998: 44).  大田は,自伝的な短編小説の中で,アメリカの将校の尋問について述べている。彼は,彼女に一体誰がどんな外国人がこれを読むのかと尋ねた。そして,彼は,「原爆の記憶を忘れて欲しい。アメリカは原爆を再び使うことはないから,ヒロシマの出来事を忘れて欲しい」と言って尋問を終えた(ibid.: 272)。橘Tachibanaは,「政府が第2章を受け入れられなかったのは,大田の原子爆弾の効果についての記録のみならず,爆弾が終戦の原因というよりむしろ終戦を記したのだという彼女の評価であった」という (ibid.: 44)

 

 政府によって課せられた沈黙は,日本におけるポストメモリーの行為を制限する大きな効果を持った。フーコーが議論するように,「実際に[人びとを]支配するためには,言語のレベルでそれを従属させ,言論の中でその自由な流通を制御し,言われた事からそれを追放し,そしてあまりにも目に見えて存在する言葉を消すことが必要である」 (Foucault 1984: 17)。政府は,事実を消滅させることができるかのように,その事実を沈黙させるか,あるいは隠すことを選択するのである。ここで沈黙は,「官僚,デマゴーグ,そして独裁者の道具」として用いられるのである (Haidu in Friedlander (ed.), 1992: 278).  しかし,この沈黙の概念はその一面にしか過ぎない。私は,沈黙は、記憶同様、曖昧さと流動性を持っているが故に,沈黙には可能性があると思う。

 

 ピーター・ハイドゥPeter Haidu[xv]が議論するように,「沈黙は言論の反世界であり,少なくとも多価値的で構成的で脆いものとして…。 沈黙は言論の単なる不在である場合もある。 別の時には,それは言論の否定と意味の生産の両方でもある」 (ibid.)  沈黙は,イエスもノーも意味することがありうる。沈黙は承認でも無知でもありうる。沈黙は,「それ自身の文脈の中で,それ自身の告発の状況の中で判断されなければならない」(ibid.)。こうして,沈黙は,言語ではないけれど,言語の一部であるという二重性を持つのである。沈黙は「その反対物,言葉で囲まれている。 そして,沈黙は,言語の反対物,その矛盾であると同時に,言語を統合する部分である。 沈黙は,こうした意味で,言語自体が必要とする矛盾であり,言語の構成的な変更である」 (ibid.)。沈黙は「時間に縛られることも断片化されることもなく,曖昧で示唆的で,暗黙的かつ含意的である。」 (Kane, 1984: 19)。沈黙は,発言されたものと発言されないものの間の空間を占めているように思われる。

 

 日本では,沈黙は政府の道具として用いられてきているが,常に発言されないものを含んでいる,すなわち,物事は沈黙しているけれど,そこにあるのである。「確定できない起こったことへの複雑な感情」(リオタールLyotard, quoted in Friedlander, 1992: 5)を伴う隠された過去が日本の長い沈黙の中にある。沈黙自体は重荷である。あるものは沈黙が破られることを心配し,またあるものは沈黙を破る瞬間を待っている,あるいは破ろうと試みている。私は,沈黙は,過去を凍結して封じ込めるよりむしろ,現在の中の過去を保持する能力を持っていると思う。ジャン・フランソア・リオタール[xvi]が議論するように,「章句にすべき何かまだ存在しないものがある。この状態は沈黙を含み,それは否定的な章句であるが,また原則として可能な章句を求めるのである」(1988: 13)。沈黙がポストメモリーの妨げになるのは確かであるが,同時に,ポストメモリーは,沈黙によって経験(プラクティス)しうると私は思う。こうして日本の場合,ポストメモリーは,「人びとがそれとともに育ってきた「沈黙」としてだけでなく,より強力な,より記念碑的な,それ自体で記憶を構成するものとして「記憶する」体験」であり続けている。沈黙は,人びとに,隠されているもの,埋められているもの,そして水面下にあるものを想像させる。沈黙の記憶は,知らないでいることへの恐れを産み出しうる。私は,沈黙の質は,大きなリスクはあるけれど,開放性への可能性を持っていると考えたい。沈黙の故に,自身の記憶によって沈黙を破ろうとする人びとがいる。例えば,韓国の従軍慰安婦3人が,50年間の沈黙の後,1991年に日本政府に対する訴訟を起こした。「軍は,当初,慰安婦制度に対する責任を認めることを拒否した」。そして,「証拠書面によってこの高度に組織化された性的奴隷制の範囲,約139000人のアジア人女性を含んだ規模が示されると,政治家は,彼らを売春婦と見なして,女性に対する補償に消極的となった」 (Lloyd in Lloyd (ed.), 2002: 84)

 

 しかし,沈黙が政府に従順になると,沈黙の中には大きなリスクが存在する。 沈黙は,上述のように,歴史修正主義的な教科書のように現れる非合理な物語や談話を許してしまう。文化の分野でもそうした傾向がある。アジアにおける日本のポップカルチャーの人気は,日本の近い過去の歴史の記憶を終わらせる言い訳として使われる。沈黙が,日本人の歴史への無知を 引き起こしたのは事実である。私は,個人的に人びとが日本の近い過去を学ぶ場所があるべきだと思うけれど,政府の曖昧さには不安を感じる。しかし,嶋田美子が言うように,「活動家やフェミニストが過去に使用していた言葉は,もはや若い聴衆を動かすのに効果的ではない。二元論的修辞法は,すべてを白黒,正しいか間違っているかのように描き,個人あるいはグループを抑圧者か犠牲者に分ける傾向がある。それに代わって,われわれは,ジェンダー,民族,階級,セクシュアリティによる立場の違いによる複雑な差異のニュアンスを意識した社会的政治的問題について考える新しい方法を開発する必要がある。」 (ibid.: 189-190).  さらに,単一の歴史への希求は,それを歴史化することによって過去の重石から解放される希求となるであろう。沈黙を意識することが 非常に重要である。沈黙に無意識なるとき,沈黙は忘却に代わる可能性があるのである。

 

言語

 第二次世界大戦の非人間性について考えると,歴史的事実の中に,書かれた歴史の中にさえ,十分に語られていないものがある。「言い得ないものを言おうとする,言葉にすることを妨げているものを伝えようとする,人類の歴史の中のユニークな経験を伝えようとする・・・書き手は,言語がそのためには不十分であることを発見する」(Kane, 1984: 103).  「屍の街」において,大田は,「地獄」という言葉を使いたくないと書いている。「その言葉は,彼女の恐怖についての語彙を使い果たすことになるけれど,地獄の怒りとしてこの場面を記述する以外の方法がなかったからである」(引用Tachibana, 1998: 49).  大田は言語の限界を示唆している。「地獄」という言葉は,「恐怖」を表現するのに十分ではないのである。沈黙は,言われなかったもののみならず,言い得ないものも含んでいるのである。「アウシュヴィッツの犯罪が歴史家に課す沈黙は一般の人びとへのサイン(警告,合図,前表)である。 サインは,認知の領域で検証可能な参照物ではなく,章句にすべき何かが,一般的に受け入れられている慣用句では表現することはできないことを示しているのである。・・・「アウシュヴィッツは絶滅収容所だった」という章句を取り巻く沈黙は,心の状態ではない。・・・それは,何か言い表されないもの,決定されない何かが残っているというサインなのである」(リオタールLyotard in Friedlander (ed.), 1992: 5).  ここで,沈黙は,「単なる無言と同じではなく,言語が分解されていくやり方はそれ自体が重要であり,発話のプロセスでもある。」(LaCapra in Friedlander (ed.), 1992: 111).

 

 テオドル・アドルノ[xvii]は,「アウシュヴィッツの野蛮の後で,叙情詩を書いてそれを和らげようとするようなことはしたくない」と言って,アウシュヴィッツ後の表現の不可能性を主張する。 (in Aroto and Gebhardt (eds.)[xviii], 1998: 312).  彼は,まさにアートもそうであるように,現実の苦悩を表現することの不可能性を意味しているのである。ミンハが言うように,「自分自身の真の表現は常にフィクションとイマジネーションの要素を含んでおり,そうでなければ,表現はないし,あるいはただ死んだ,それ故「偽」の表現」しかない」 (1992: 168).  リオタールもまた,表現不可能なものが存在するという。「歴史家は,章句の認知の領域に与えられた歴史の独占を打ち破るべきであり,歴史家は,その耳を知の支配のもとでは表現されないものに傾けることによって冒険すべきである」 (1988: 57).  しかし,アドルノは,さらに,「この苦悩は・・・それを禁じられた持続的なアートの存在を必要とする。苦悩が,すぐに裏切られることなく,それ自身の声,慰めを未だに見出すことができるのは,事実上芸術だけである。」(in Aroto and Gebhardt (eds.), op.cit.)という。どんな残虐行為もその表現を必要とするジレンマを持つが,しかし同時に,それらを否定する。残虐行為は,その非人道性,その恐ろしさ,そしてその巨大さ(こうした言葉は決して十分ではありえないが)の故に,想像できないものである。

 

 ポストメモリアル・アート

 ここで再び,ポストメモリーと言う概念についてみてみたい。上述のように,ポストメモリーは,回想から産み出されるのではなく,他人の記憶の投影である強力な記憶のかたちである。しかし,同時に,ヒルシュが言うように,ポストメモリーは,‘自分と他者の距離を意味する’のである(in Bal et al. (eds.), 1999: 9)20世紀に起こったどんな虐殺行為においても,距離は残るのである。 「その時と現在の間,それを生きた人とそれを行った人の間の距離は,例え,対症療法的想像力がそれを克服しようと格闘するとしても,不滅であり,乗り越えられないままである。」(ibid.)  ブラチャ・リヒテンベルク・エッティンゲルBracha Lichtenberg Ettinger [xix]は,自己と他者が融合せずに共存する象徴的な空間として,マトリックス(母体)という用語を用いる。彼女に拠れば,「マトリックスにおいて,共に出現する「私」と未知の「私」の間の出会いが起こるのである。それぞれが他人を同化も拒絶もせず,彼らのエネルギーは融合でも反発でもなく,連帯あるいは近接の範囲内での距離の継続的な再調整である。マトリックスは,最も親密な,そして最も遠い未知の人々の間の出会いの場である」(1993: 12)。ヒルシュはさらに「ポストメモリアル・アーティストの挑戦は,正確に言えば,観客がイメージを入力すること,惨事を想像することを可能にするバランスを見つけることであるが,それは,距離を消滅させ,特定の過去へのアクセスを可能にしすぎ,アクセスを容易にしすぎる,過度に適切な同定を許さない。」という。 (in Bal et al. (eds.), 1999: 10).

 

 ヒロシマ・ナガサキ

 20世紀についての日本の公式の歴史がないために,つまり,それは未だ沈黙の中にあり,表面に現れてこないために,近い過去に応答するアートの実践(プラクティス)は,多様である。アーティストの過去に対する態度は世代によって異なるとも言える。もちろん,戦争を体験したアーティストと戦後に生まれたアーティストとの間にはギャップがある。私が扱いたいアーティストも様々な問題に関心を持っている。通常アーティストは戦争を扱わないけれど,戦争を基にした 仕事(プラクティス)をするアーティストもいる。ここで,私はヒロシマ・ナガサキを扱う作品をみてみたい。それぞれの作品がこのふたつの出来事にいかに応答しているのかは多様である。ある作品は 表現の不可能性を示唆しているし,ある作品は,記憶という行為,反=記念碑としての作品に焦点を当てているように思える。

2, 殿敷ケロイドKeloid, 1981

 殿敷[xx]は,ヒロシマで実際に原爆を体験したアーティストである。彼はその時3歳であった。彼が爆発の記憶に基づいて直接爆撃を扱う作品を製作し始めたのは1975年になってからのことである。彼は,核放射線によって引き起こされた肝癌で1992年に53歳で亡くなる。  ケロイドKeloid (1981) (2) は彼の作品のひとつである。赤みがかった,紫がかったグロテスクな絵である。この作品は,もともとは,ギャラリー全体の壁を覆っていた大きなインスタレーションの一部であった。Tこの作品においては,ただタイトルだけが核爆弾に触れるだけである。この作品には言葉に言い表せないものがある。彼は20年の沈黙を破ったのだけれど,言表不可能性が残っているのである。おそらく,キノコ雲は彼にとっては無である。彼にとっては, ある実体は自身を表現し得ないのである。抽象性は,爆発への彼の近接そのものなのである。

 

 爆発直後の混沌(カオス)は,原爆文学や原爆体験者の日記にも描かれている。例えば,長崎で原爆を経験した秋月辰一郎[xxi]は,爆撃の日から敗戦の日までの1週間の体験を記録している。彼は,89日に「僕らは倒壊した家屋と燃え尽きた野原を裸足で走り抜けた。空は暗く,地面は赤い。まるで裸の男,血で染まった工場員,そして乱れ髪の女性がうろうろしている。誰もがどこかにただ逃れようとしたが,誰も何が起こったか理解していなかった。」と書いている。(引用Tachibana, 1998:35).

 

 ヒロシマ・ナガサキの写真撮り続けるアーティストがいる。東松照明[xxii]はそのひとりである。彼は1930年に軍事基地にごく近い都市に生まれた。アメリカの占領を経験して,彼は通常の中の異常さを体験した。戦時中,彼は,敵,アメリカ兵が如何に汚いか大人たちに聞かされてきた。しかし,彼が極端な空腹と貧困に苦しんでいたときに,彼にチョコレートやチューインガムをくれたのはアメリカ兵であった。世界は一方から他方へ転換し,彼は何も信じることができなかった。1950年に,彼は,当時のアメリカ兵やアメリカ日本の混血児の普通の人びとの写真を撮り始めた 1960年に,彼は,反核兵器運動のためにナガサキの写真を撮ることを依頼される。翌年,長崎の人びと,場所,物事・・・など,普通の生活の写真を撮り始めた。彼は,再び,通常の中の異常さに出会う。彼は,原爆の生存者への支援の欠如,差別,仕事を得られないための貧困に直面するのである。彼の写真は,通常の中の異常さを示している。第二次世界大戦後,日本は,発展を遂げ,全国土の再建を果たしたことを装うが,それは白紙からのスタートでは不可能であり,アメリカの影の下においてであった。傷は埋められても,完全に消去することはできない。フロイドの「神秘的な手書きパッド」ように痕跡は残る。橘が言うように,「ある時代が終わり,新たな時代が始まったという主張とは対照的に,日本が見てきた事実は,過度の唯物論,民族的,人種的偏見,権威主義的制度,その他第二次世界大戦の勃発に貢献した文化的傾向の持続であり,それらは戦時中もその後も存在しているのである。これらの点について,新しい時代が始まったのなら,それは古いものに類似したものを邪魔するものを生んだのであり - そしておそらく新しい時代はまったく始まっていなかったのである。」(1998: 249).  東松の写真は,反―歴史に注意を引きつける。「午前1102分長崎:浦上地区と遠くの岩屋山」 (1961) (3)にはひ弱な樹が立っている。この場所の近くには, 原爆の爆風で破壊された浦上大聖堂がある。東松のこの作品もまた,表現不可能性を示している。彼ができることは,喪失感の残る痕跡の写真を撮り,核爆弾が依然として存在する効果を示すことだけなのである。 

3, 東松照明午前1102分長崎:浦上地区と遠くの岩屋山, 1961

  広島と長崎に投下された核爆弾に捕らえられたもう一人のアーティストがいる。宮島達男[xxiii]は,1957年生まれで,17歳の時の修学旅行で最初に広島の原爆に出会った。 彼は核爆弾について何も知らないという事実に直面する。それ以来,ヒロシマで感じた不安を忘れることが出来なかった。アーティストとして,彼は,通常,3つのコンセプト,変化し続けること,全てと繋がること,永遠に続けること,に従って,LEDを使って作品を制作している。1995年以来,宮島は「柿の木プロジェクト」をスタートさせた。 それは,消えゆく記憶に応答するものである。宮島は,「人権を侵害する原爆とホロコーストがわずか半世紀前に起こったにも関わらず,その人間性に対する犯罪は薄れ始めつつある。われわれは,この犯罪を重要な教訓として記憶すべきである。われわれの記憶の失敗のひとつの理由は,今日の特に若者の日常生活が,その近い過去の悲劇的な出来事から排除されていることである。」という。実際,彼らは孤立化し,「閉じた歴史」となっている (復活タイム 柿の木プロジェクトWebsiteより)。宮島は,長崎に落とされた核爆弾から生き残った柿の木の苗木に第二の生命を与えた樹木医の海老沼博士出会った。宮島は,活き活きした緑の苗木に深く感動する。そして始まったのがこのプロジェクトである。柿の苗木は,賛同した世界中のホストに配布され,地元の人々によって育てられている。苗木は,長崎の記憶とともに世界中に伝えられ広まっていく。苗木を植えることは終わりではない。花を咲かせるまでには10年かかる。また,柿の木の成長とともに様々な活動を誘発する。柿の苗木は,現在への過去の現れであり,時空を超えて連続する。

 

 岡部昌生(1942年生)[xxiv]の作品は, 過去の記憶を活性化させることに焦点を当てる。1977年以来,彼は,物の上に紙を置いて鉛筆あるいは木炭で擦ると物のかたちが浮き上がる技巧であるフロッタージュを始める。彼は,広島の路上に置かれた,写真をもとにつくられた原爆の廃墟のシーンを表す記念銅板のフロッタージュを作った。そしてまた,彼はまた,パリのユダヤ人のゲットーの門の上に据えられたホロコーストの犠牲者を記念して,「n'oubliez pas(忘れないでください)」と書かれたプレートのフロッタージュを作った。彼は,住民や通行人がフロッタージュに参加することを歓迎し,彼らの協力を結合しようとした。光の暗い顔The Dark Face of The Light (1996-2002)において彼は,広島の古い宇品駅の残骸から作品を創ろうとした。宇品駅は,日清戦争が勃発した1894年に軍用のために建設された。駅は,日本の植民地化の歴史が始まった場所であり,原爆が落とされた場所でもある。当時は,駅の残骸が広大な空き地に残されていた。岡部は,プラットフォームの切り石の間の隙間のフロッタージュをつくった。彼はフロッタージュという手法で痕跡の痕跡をつくったのである。古い宇品駅の残骸は,高速道路が建設されるためにまもなくなくなろうとしていた。この作品は,残骸が失われるとともに戦争の記憶が失われることのないように痕跡を残したのである。フロッタージュという行為は,記憶の行為であり,記念の行為である。それはまた,私には、彼は表面を剥がすことによって表面下にあるものを発見しようとしているようにも思える。宮島の実践のように、岡部の実践は、過去を現在にもたらす。彼らは過去を活性化しようとする。こうして、彼らの作品は完成品というより、プロセスなのである。植えるという行為、あるいはフロッタージュという行為は、結果より重要であるように思える。

 

4, 村上隆タイムボカン1999

  村上隆[xxv]1962は、おそらく、西洋で、日本同様、最も著名な日本人現代アーティストである。  彼は、「オタクotaku」文化に焦点を当てる。オタクとは、漫画、コンピュータゲーム、そしてアニメーションに夢中になっている人々をいう用語であり、その用語自体は「家(お宅)」を意味するが、否定的な意味を持つ。彼はまた、「スーパーフラット」という用語を日本語の独自の概念としてつくった。彼は、スーパーフラット宣言において、「未来の世界は今日の日本のようにースーパーフラットに、なるだろう。社会、終刊。美術、文化、全てが極端な二次元的なものとなるだろう」という (2000: 5)。最近、彼はタイムボカン(1999) (4)という壁画を展示した.  明るい赤とオレンジの図に、白い骸骨とキノコ雲が中央に現れている。西洋人には、特にアメリカ人には、それは、ただちに原爆のキノコ雲を連想させる。しかし、それは日本人にはそのようには作用しない。キノコ雲は西洋人にとって核爆弾のシンボルである。こうした意味で、この壁画は、空間そして時間における距離を得ている。それは核爆弾の外側からの見方であり、この空間的距離は、時間的距離をも示しているのである。日本人アーティストが外側からの視点で核爆弾を表現することは重要であるように思われる。この作品は、ヒロシマ・ナガサキを過去に凍結するように思われる。さらに、この絵のタイトルは、日本人の関心を核爆弾から逸らしてしまう。「タイムボカン」というタイトルは、爆発を伴う雲のような骸骨が毎回現れる漫画の名前なのである。  しかし、村上のこの作品の展示のしかたは異なっている。水戸芸術館で1999-2000年に開催されたグラウンド・ゼロ日本展で、村上はあるインスタレーションを展示する。 壁画タイムボカンとともに、彼は初期の作品、海風Sea Breeze1992)を展示したである。海風は、スタジアムで用いられる16個のライトからなっている。シャッターが開くと、それは目映い光と熱を放つ。この作品とともに、タイムボカンは、突然、核爆弾とキノコ雲のシンボルとなるのである。このインスタレーションは、壁画に「タイムボカン」というタイトルと「海風」を加えることによって、核爆弾のシンボルとしてのキノコ雲が外国人のみのものであることを強調しているように思える。これは核爆弾の表現を問題にしているように思える。さらにまた、われわれが常に爆撃のイメージに囲われていることを人びとに気づかせるように思える。

 

大東亜共栄圏

 それぞれの国は、その国自身の過去に対して、異なった態度をとる。ドイツと日本の第二次世界大戦の扱いは極めて異なっている。エルサエッサーElsaesser[xxvi]が言うように、「日本は、他の国々の人びとの記憶が、日本の「歴史」を外部の精査に開放することを要求しているという事実を、最近になっても反省していないように見える国である。一方、ドイツは、しばしばそうした精査を招くか、コンセンサスを得ることが出来ないあるいは争議の対象から除外することができない出来事を忘れることを他の人に許されてはいないのである。」(in Sobchack (ed.), 1996: 146).  戦後の日本の状況は複雑である。日本軍が行った残虐行為を認める前に、戦争が侵略であったのか、自己防衛であったのかをめぐって政治家の間で未だに論争が行われているのである。また、他のアジア諸国に対する責任を果たさないで広島・長崎に落とされた核爆弾については何も言えないという人びともいる。私は両方ともに同意しない。南京大虐殺のような残虐行為も広島長崎に核爆弾が落とされたことも、両方とも起こったことである。私の意見では、原因と結果はさほど重要ではない。過去がゆがめられ、忘れ去られる前に、記憶する行為が、日本においては非常に重要であるように思われる。歪曲と忘却は既に起こりつつあるように思われるのである。公式の歴史が隠蔽した部分に触れ、沈黙を破ろうとするいくつかのアート実践がある。

  図5, 柳幸典ワールドフラッグ・アント・ファームWorld Flag Ant Farm, 1990

  柳幸典[xxvii]は、1956年生まれで、主として、国民(ネイション)、境界線(ボーダーライン)、制度(システム)という概念に関わる仕事をしている。ワールドフラッグ・アント・ファーム (1990) (5)において彼は、それぞれ世界の国を表す国旗のパターンを色のついた砂で埋めた一連の相互に連結する箱を創った。彼はそれぞれの旗を他の畑とプラスチックのチューブで繋いだのである。そして彼は、全てネットワーク化された旗の間を食物や砂を運びながら旅することが出来るこのシステムの中へ蟻たちを放ったのである。こうした国境横断によって、結局システム全体で色が混ざり合うことになった。 

  図6, 柳幸典ワンダリング・ポジションWandering Position, 1998

  ワンダリング・ポジション (1998) (6)において柳は、5m四方の囲いの中に一匹の蟻と自分を置いた。毎日数時間、アーティストは蟻のつくった跡を赤いクレヨンで辿りながら歩き回った。こうした作品で私の興味を引くのは、箱や5m四方の囲いによって表されたシステムあるいは限界についての意識である。蟻は、囲いの中のみで彷徨うことを許されていた。結局、蟻は演じることをプログラムされているのである。柳が言うように、「投獄された人々は自由を欠いており、彼らの活動はすべて管理され監視されているとわれわれは感じている。そして、われわれは、これはわれわれの日常生活のあり方と全く正反対だと思う。しかし、私は自問する・・・私が見ているものは何か?私が見ているものは私の意思で見ているのか?私が歩いている方向は私によって決定されているのか?私の考えていることは本当に私によって考えられているのか?何が人生の旅をつき動かしているのか?」(from a Website, Digital Art Resource for Education).

      7, 柳幸典パシフィックPacificK100B (an installation), 1997

  第二次世界大戦後50周年の頃、柳は、第二次世界大戦、とりわけ太平洋戦争に関心を向け始める。1997年に、彼はパシフィックPacific K100B (7) というインスタレーションを製作する。彼はこの作品において、第二次世界大戦中に沈没した軍艦を再現した。さらに彼は、日本人にさえ知られていない未知の歴史に関心を向ける。彼は、1998年から、フィリピン海の海底に沈む秋津島と伊良湖という2隻の軍艦についてのプロジェクトを開始した。彼は、ヴィデオとスチール・カメラをもってフィリピン海に赴き、軍艦を捜索する数回のダイビングを記録した。ダイビングの軌跡は、図化されて小さなコンピューターでプリントアウトされ、赤い手描きの線は、沈没した軍艦へのアーティストの進路が描かれている。軍艦は、フィリピン海の美しい光景の下に沈んでいるので、戦争の記憶は隠されてしまっている。柳の行為は、何が沈黙させられているかを追い求める旅である。 彼は、彼の思いを隠喩的に演じているように私には思える。そしてまた、彼のプロジェクトは、海底から引き揚げたものが実際はどういうものなのか判別できない錆びた断片であるにも関わらず、過去を忘れることへの抵抗であるように思える。

 

 柳の別の作品では、巨大な重い絨毯が部屋に敷かれている。それは、日本のパスポートのようであるが、中央に菊の紋章がない。ただ一片の花びらが残されている。他の花びらは散らばっている。まるで花びらを一枚ずつ摘み取って心が通じ合っているかどうかを調べる恋占いのように、それぞれの花びらには13の異なった国と地域;韓国、ミャンマー、ラオス、中国、カンボジア、ベトナム、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、ブルネイ、沖縄、日本の北のアイヌ、の言語で「愛している」と「愛していない」のタイルが貼られている。これら全ては、かつて第二次世界大戦中に日本が押しつけた大東亜共栄圏に含まれていた国・地域である。菊は皇室(日本帝国)のシンボルである。国のシンボルは普通パスポートに使われるが、日本はそうしたシンボルをもっていない。だから、皇室のシンボルが日本のパスポートに使われたのである。絨毯のもうひとつの面には、日本国憲法の第19条、第20条、第21条が刻まれている。各条は、思想、宗教、信仰、言論、表現の自由に関連している。 それらは見ることはできず、絨毯をひっくり返すのは重すぎる。壁には、河村清夫、東条兼太郎Kanetaro Tojo、深沢一郎、そして宮本三郎の戦争画がけられている。「パフィックPacific K100B」同様、それは記憶の引き金として働いている。日本は、解放の名の下に、絨毯の上の国々に侵入し、征服した。パスポートは特異な性格をもつ。 それは解放であり、制限でもある。あなたはパスポートとともに他の国々に行くことができるけれど、同時に、他の国々に行くためにはパスポート、国籍を持たねばならないとも言いうる。そのことはまた、日本人には、アイデンティティを表すパスポートが常に皇室(日本帝国)のシンボルをまとっていることを思い起こさせる。日本国憲法の第19条、第20条、第21[xxviii]もまたまた矛盾をもっている。 各条は、自由を約束する制限である。柳は、戦争が隠されている事実を問題とし、それを差し挟むことによって日本国憲法の矛盾を示すのである。

 

従軍慰安婦

 

     図8, 嶋田美子慰めの家A House of Comfort, 1993 

     図9, 嶋田美子ひと月の仕事A Month’s Work, 1995

10, 嶋田美子慰安婦、服従する女性Comfort Women, Women of Conformity (from the artist’s book), 1994-5 

 嶋田美子[xxix]1959年生)も戦後世代のアーティストのひとりである。彼女の主要なテーマは、ジェンダー、権力、国家の問題であり、彼女の作品は、現代日本における性と消費主義の問題に集中している。 彼女は、「ナショナリズムと帝国主義が勃興した戦時中と日本がアメリカ軍に占領された戦後まもなくの時代、そして最近の、アジアにおける日本の現在の文化的地位」(Lloyd in Loyd(ed.), 2002: 84)を関係づける。彼女は、作品を政治的、歴史的、社会的文脈に置いて、日本人が自身の過去を無視するやり方を問おうとする。彼女の作品は、抑圧された歴史を明らかにする。彼女は、1993年以来従軍慰安婦を扱う作品を制作している。彼女の作品はかなり明示的である。「慰めの家」(1993)(図8)では、軍の売春宿とアジアの売春婦が、中央に立っている韓国の慰安婦と並置されている。「ひと月の仕事」 (1995) (9)は、「行列に並べられた600のピンクのコンドーム」からなっている。「これは、多くが性病の痛みに苦しんでいるにもかかわらず、奴隷労働制度のもとに奉仕することを強制された男性の数についての韓国の慰安婦の説明に言及するものである。」 (ibid.: 87)。彼女はしばしばセックスの対象としての女性、聖なる母としての女性を並置する 。手製の本「慰安婦、服従する女性」 (1994-5) (10)では彼女は、左の頁に韓国の女性の顔を、左の頁に兵士の煙草に火をつける日本人女性を並置している。それぞれの図には説明が付されている。韓国人女性は、「かつて、私は50人の男性に奉仕しなければならず、とても疲れました。薬を与えられましたが、それでもぼーっと感じでした。そして、兵隊は火のついた煙草を私の鼻や子宮に差し込んだのです。」(筆者訳).  右の頁では、日本人兵士が、女性の親切に以下に感謝しているかを話している。彼が疲れると、彼女たちは兵士に煙草を与え、火をつける。兵士はまた、彼女たちがかけている白いエプロンがエネルギーを与えてくれるともいう。嶋田は、作品において、はっきりと、慰安婦の抑圧された歴史を明らかにすることによって、日本の近い過去を再考する必要性を主張している。同時に、彼女は、慰安婦問題は過去の出来事ではないという。「ひと月の仕事」はまた、現在、多くの非日本人がセックス産業に従事していることを示唆している。 彼女の作品は、「現代日本における女性のセクシュアリティと性の商品化に対する態度が、国、人種、性別の根深い問題にどのように関連しているか」を明らかにしている。 (Lloyd in Lloyd (ed.), 2002: 89).

 

戦争画RETURNS

 柳と嶋田はともに、日本の不愉快な、隠された、あるいは抑圧された歴史に触れている。嶋田は、彼女の作品において抑圧された歴史を暴き、柳は現代日本における沈黙の曖昧さに焦点を当てる。彼は何らかの手掛かりを求めて海に潜り、何かを手にするが、錆びた武器あるいは鉄屑を発見したにすぎない。そうした断片は過去について多くのことを語ってくれはしない。 こうして、彼は再び海に潜る。何か有具体的なものを発見しようとして決して手掛かりにならないという繰り返しである。事実が語ることはほとんどない。事実は決して十分ではない。


11, 会田誠大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)Ohkimi no henikoso shiname (天皇の足下で死のうLet’s Die at the Emperor’s Feet), 1996

 

 より若いアーティストの会田誠[xxx]1965年生)は、嶋田のように、現在と過去の関係に注意を向ける。会田は、1995年から翌年にかけて、「戦争画RETURNS」と呼ぶ一連の作品をつくった。そのシリーズには、学生服を着た日本人と韓国人の少女が国旗を掲げて向かい合っている「美しい旗」 (1995)、ニューヨーク市が燃え上がり、上空を戦闘機が無限という記号を描いて飛んでいる「紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)(1996)、パルテノン神殿の像が広島の原爆ドームの像の上に置かれている「題知らず(1996)、そして「大皇乃敝尓許曽死米(1996) (11)が含まれている。全ての絵は屏風に描かれている。

 「大皇乃敝尓許曽死米」に焦点を当ててみたい。この作品にあるのは、ごちゃごちゃしたものである。背景には、旅行代理店の広告が貼り付けられている。それらは、虐殺の現場をトロピカルリゾートへと変容させた日本の観光客を魅了する南の島々の広告である。会田に依れば、死んだイルカが広告には描かれている。イルカは、集団自殺を表している。数百のイルカの死体が長崎の海岸で発見され、それを食べた地元の漁師たちは国際的な生態学者から厳しく批判された。「ジャップJAP」という言葉が、一頭を除いて、それぞれのイルカに書かれている。一頭のイルカには、文学者折口信夫の養子で、大戦中に南島で死んだ藤井春洋の「春洋(はるみ)」という名が書かれている。戦争中にラジオでBGMとして使用された軍歌の歌詞もデフォルメしたアルファベットで書かれている。

 

 会田の「戦争画RETURNS」のシリーズは危険ともなりうる。シリーズはナショナリズムの叫びともみなしうるのである。 しかし、会田が表現したのはナショナリズムでは全くない。彼が表現したのは、現代日本の寄せ集めであり、カオスであり、脆弱性なのである。沈黙の中にあるのは、埋め込まれているのはカオスである。松井みどりがいうように、「「戦争画RETURNS」は、ナショナリズムを扇動する目的で作られたものではない。 会田の目的は、戦後民主主義の偽善を批判し、「不完全な近代」の無批判の継続が現在の日本人の意識に与えている結果を批判する機会として、日本の近代化の否定的な結果をもちいることであった。」(Lloyd (ed.), 2002: 154)。会田は、「戦争、差別、いじめの不可避性を認める。なぜなら、それらはエロティックな動機によって引き起こされるからである。このことを認識しなければ、それらを回避する効果的な方法を思いつくことはできない。「愛と平和」というスローガンを強要するヒステリックな理想主義は単に状況を混乱させるだけである。」という (quoted in ibid.: 164)。広告代理店の広告の寄せ集めは、会田の沈黙を破ろうとする試みであるように思われる。あるいはむしろ、過去を沈黙させることによってのみ存在することができる偽装された平和主義に対する彼の否定かもしれない。この作品において、広告の下に埋められているごちゃごちゃしたものは表面に現れている。

 

 結論。日本は第二次世界大戦で敗北し、多くの都市が廃墟と化した。全てが消え去った。更地の上に、日本は建物を、日本を再建した。結果として、日本は平和で経済的に豊かな国になった。しかし、平和で経済的に豊かな日本は、過去を沈黙させることによってのみ実現しえた。政府は、沈黙を利用し、歴史を抑圧してきた。それ故、ポストメモリーの行為は、日本では限定されてきた。政府による沈黙の利用とポストメモリーの欠如が日本人の歴史に対する無知につながったことは否定できない。20世紀の歴史は、歴史教育において沈黙のままであり、天皇裕仁の責任と戦争画は沈黙化されてきた。しかし、「沈黙化」は沈黙の一面に過ぎない。 沈黙は、言表されないものを含んでおり、また、発言不可能なもの、そして表現不可能なものを含んでいる。私は、沈黙をしたままでいることがいいと言っているわけではない。 むしろ、沈黙は、人々に、埋められているもの、ヴェイルに覆われているもの、隠されているものを想像させる力を持っていると思う。 沈黙がある限り、沈黙を破ろうとする行為がありうる。私が議論してきた、日本のアーティストの作品と実践は、様々なやり方で沈黙にアプローチしているように思える。殿敷の作品は、 彼自身の沈黙を破ることによって表現不可能性について示唆している。東松照明の作品は、原爆の生存者に関心を引きつけ、歴史もまた沈黙によって囲われていることを示している。記憶は曖昧であるが、公式の歴史、大文字の歴史もまた曖昧である。柳幸典は沈黙の背後に隠されている何かを探そうとフィリピン海に旅をした。嶋田美子は、過去を暴くことで沈黙を破る。宮島達夫は過去を現在にもたらし、日本社会の過去の曖昧さを問題にする。岡部昌生は、戦争の記憶を失わないために廃墟の痕跡を創り出す。村上隆はキノコ雲を故意に描くことによって、原爆のシンボルとしてのキノコ雲に疑問を投げかける。会田誠は、過去と現在の類似性に関心を引きつける。彼の作品において、沈黙の中にある寄せ集めは現在の表面に現れている 。こうして彼は、過去に向き合うことなく平和を叫ぶ日本を批判する。沈黙は、過去を過去として凍結するのではなく、現在の中の過去を保持する可能性をもっている。こうして、われわれは、常に沈黙に意識的であるべきである。われわれが沈黙に無意識になる時、 沈黙は、第二次世界大戦を忘れ去る真の脅威となる。


 

文献

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 Foucault Michel,          The History of Sexuality: An Introduction, London, 1984

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Kikuhata Mokuma菊畑茂久馬,『フジタよ眠れ絵描きと戦争』、葦書房、1978年 Fujita yo Nemure: Ekaki to Senso (Fujita, Sleep in the grave: artists and war), Fukuoka, 1978

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 Tachibana Reiko,          Narrative As Counter-Memory: A Half-Century of Postwar Writing in Germany and Japan, New York, 1998

 Websites

Digital Art Resource for Education,  http://www.dareonline.org

Revive Time Kaki Tree Project,     http://www6.plala.or.jp/kaki-project/

 

(布野修司訳:★小見出しは訳者による)

 

関連資料

 戦争画:国家の主導のもと、第二次世界大戦を鼓舞するために、戦争を題材として写実的に描かれた絵画の総称。「作戦記録画」、「戦争記録画」ともいうが、いずれにせよプロパガンダ芸術の一種として考えられる。代表的な作品は、藤田嗣治《アッツ島玉砕の図》(1943)をはじめ、中村研一《コタ・バル(上陸作戦)》(1942)、宮本三郎《山下・パーシバル両司令官会見図》(1942)、鶴田吾郎《神兵パレンバンに降下す》(1942)など。1938年に制定された国家総動員法にもとづいて総力戦体制が敷かれると、上述した画家のほかに、石井伯亭、藤島武二、伊原宇三郎、小磯良平らが戦地に派遣され、おびただしい戦争画が描かれた。39年には陸軍美術協会が結成され、「聖戦美術展」(1940-42)や「大東亜戦争従軍画展」(1942)などが催された。敗戦後、戦争画はアメリカ軍に戦利品として押収され、しばらく東京都美術館に保管されていたが、51年にアメリカ本土へ移管。70年に「無期限貸与」というかたちで東京国立近代美術館に返還、収蔵されたが、美術における戦争責任の議論が成熟することはなく、日本の戦後美術において「戦争画」は長らくタブーとされてきた。戦争に協力したという背景から公開に難色を示す著作権者が多いため、また日本が侵略したアジア諸国への配慮を理由に、いまだに全面公開には至っていない。だが、藤田の《アッツ島玉砕の図》がリアリズム絵画の到達点として考えられるように、「戦争画」は日本の戦後美術史を語るうえでけっして欠かすことはできない。(福住蓮) 

『絵描きと戦争』,菊畑茂久馬,海鳥社,1993

『戦争と美術 1937-1945,針生一郎、椹木野衣ほか,国書刊行会,2007

『戦争と芸術 美の恐怖と幻影』,京都造形芸術大学国際藝術センター,2007

『戦後美術盛衰史』,針生一郎,東京書籍,1979

『日本・現代・美術』,椹木野衣,新潮社,1999


資料1 東京国立近代美術館所蔵(無期限貸与)戦争画美術展一覧

 

向井潤吉の《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》、

 

 1 回聖戦美術展(1939)

呉淞敵前上陸

長坂春雄

(1939)

無錫追撃戦

南政善

(1938)

 2 回聖戦美術展(1941)

陣地進入

伊藤国男

(1940)

娘子関を征く

小磯良平

(1941)

陸軍南星橋碼頭に於ける鹵獲品陸揚

清水良雄

(1941)

上海崇徳女子小学校の戦闘

田辺至

(1940)

臨安攻略

硲伊之助(三彩亭)

(c.1941)

哈爾哈河畔之戦闘

藤田嗣治

(1941)

南苑攻撃

宮本三郎

(1941)

 5 回海洋美術展(1941)

軍艦出雲

石井柏亭

(1940)

鎮江攻略

石川寅治

(1940)

渡洋爆撃

石川寅治

(1941)

珠江口掃海

熊岡美彦

(1940)

虎門要塞攻撃

熊岡美彦

(1940)

南京空襲

田辺至

(1940)

南支某基地

中村研一

(1941)

柳州爆撃

中村研一

(1941)

南昌新飛行場焼打

藤田嗣治

(1938-39)

武漢進撃

藤田嗣治

(1938-40)

 6 回海洋美術展(1942)

スラバヤ沖海戦図                       奥瀬英三                                      (1942)

 1 回大東亜戦争美術展(1942)

グアム島占領

江崎孝坪

(1941)

英領ボルネオを衝く

福田豊四郎

(c.1942)

キャビテ軍港攻撃

三輪晁勢

(1942)

攻略直後のシンガポール軍港

矢沢弦月

(c.1942)

香港島最後の総攻撃図

山口蓬春

(1942)

カリジャティ西方の爆撃

吉岡堅二

(1942)

ジャワ沖海戦

有岡一郎

(1942)

ボルネオ作戦

川端実

(c.1942)

カリジャティ会見図

小磯良平

(1942)

クラークフィールド攻撃

佐藤敬

(1942)

神兵パレンバンに降下す

鶴田吾郎

(1942)

マレー沖海戦

中村研一

(1942)

コタ・バル

中村研一

(1942)

神兵奮戦之図(落下傘部隊パレンバン精油所攻撃)

中山巍

(1942)

十二月八日の真珠湾

藤田嗣治

(1942)

シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)

藤田嗣治

(1942)

潜水艦の米空母雷撃

藤本東一良

(1942)

ウエーキ島攻略戦(その 1)

松坂康

(1942)

ウエーキ島攻略戦(その 2)

松坂康

(1942)

バリ島沖海戦

三国久

(c.1942)

山下、パーシバル両司令官会見図

宮本三郎

(1942)

香港ニコルソン附近の激戦

宮本三郎

(1942)

四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)

向井潤吉

(1942)

バタビア沖海戦

石川滋彦

(1942)

我が駆逐艦敵重巡ヒューストンを襲撃

小早川篤四郎

(1942)

ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲

御厨純一

(1942)

 2 回大東亜戦争美術展(1943)

航空母艦上に於ける整備作業(三部作ノ内一航空母艦上に於ける整備作業(三部作ノ内二)

航空母艦上に於ける整備作業(三部作ノ内三)

新井勝利新井勝利

新井勝利

(c.1943)

(c.1943)

(c.1943)

潜水艦の出撃

茨木

(1942)

設営隊の活躍

加藤栄三

(1943)

イサベル島沖海戦

小堀安雄

(1941)


陸軍美術展(1944)

小休止

岩田専太郎

(1944)

九竜城門貯水池二五五高地の奮戦

伊勢正義

(1944)

ニューギニア密林地帯を征く陸軍輸送部隊

伊藤悌三

(1944)

揚子江三角地帯春期進攻作戦

井上幸

(1944)

○○方面鉄道建設

猪熊弦一郎

(1944)

香港に於ける酒井司令官、ヤング総督会見図

伊原宇三郎

(1943-44)

アッツ島爆撃

小川原脩

(1942)

新生比島誕生

川島理一郎

(1944)

出動する船舶兵

川端実

(c.1944)

幸部隊小休止

鬼頭鍋三郎

(1943)

怒江作戦

栗原信

(1944)

ビルマ独立式典図

小磯良平

(1944)

日緬条約調印

小磯良平図

(1944)

汪主席と中国参戦

清水登之

(1944)

ラングーンの防空とビルマ人の協力

鈴木亜夫

(1944)

患者後送と救護班の苦心

鈴木良三

(1943)

衛生隊の活躍とビルマ人の好意

鈴木良三

(1944)

ビルマ進攻作戦開始

高田正二郎

(1944)

東部印度チンスキヤ飛行場爆撃

高畠達四郎

(1944)

佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す

田村孝之介

(1944)

 2 回陸軍美術展(1944)

驍騎進軍                              辻村八五郎                                      (1944)

 

 

陸軍美術展(1944)

 

スタンレー山脈の高砂輸送隊

鶴田吾郎

(1944)

タサファロング

中村研一

(1944)

出発前

藤岡俊一郎

(1944)

血戦ガダルカナル

藤田嗣治

(1944)

神兵の救出到る

藤田嗣治

(1944)

本間、ウエンライト会見図

宮本三郎

(1944)

マユ山壁を衝く

向井潤吉

(1944)

西部蘇満国境警備

石井柏亭

(1944)

 

戦時特別文展陸軍省特別出品(1944)

 

輸送船団海南島出発

川端龍子

(c.1944)

スンゲパタニに於ける軍通信隊の活躍

福田豊四郎

(1944)

島田戦車部隊スリムの敵陣突破

伊原宇三郎

(1944)

ジョホール渡過を指揮する山下軍指令官(ジョホール王宮)

栗原信

(1944)

海軍部隊セレター軍港へ進入

小早川篤四郎

(c.1944)

工兵隊架橋作業

清水登之

(c.1944)

バツアナムの弾薬集積

田中佐一郎

(c.1944)

ペラク河口の水上機動

田村孝之介

(1944)

コタ・バル B

中村研一

(1944)

ジョホール水道渡過

中山巍

(1944)

ブキテマの夜戦

藤田嗣治

(1944)

大柿部隊の奮戦

藤田嗣治

(1944)

シンガポール陥落

宮本三郎

(1944)

プリンス・オブ・ウェルズの轟沈

中村研一

(1944)

アロルスター橋突破

田村孝之介

(1944)


戦争記録画展(1945)

特攻隊内地基地を進発す()                         岩田専太郎                                      (1945)

洛陽攻略                              川端龍子                                      (1944)

高千穂降下部隊レイテ敵飛行場を攻撃す    吉岡堅二                                      (1945)

玉城挺身斬込五勇士奮戦                 伊藤悌三                                      (1944)

特攻隊内地基地を進発す()                         伊原宇三郎                                      (1944)

成都爆撃                              小川原脩                                      (1945)

前線における畑、岡村両最高指揮官       鬼頭鍋三郎                                      (1945)

湘江補給戦に於ける青紅幇の協力         栗原信                                      (1942)

衡陽占領                              高野三三男                                        (1945) 

皇土防衛の軍民防空陣

鈴木誠

(1945)

桂林攻略

高沢圭一

(1945)

拉孟守備隊の死守

田中佐一郎

(c.1944)

ラバウル鉄壁の守備

鶴田吾郎

(c.1944)

北九州上空野辺軍曹機の体当り B29 二機を撃墜す

中村研一

(1945)

ペリリュー島守備隊の死闘

中山巍

(1945)

サイパン島大津部隊の奮戦

橋本八百二

(c.1944)

船舶兵基地出発

福沢一郎

(1945)

薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す

藤田嗣治

(1945)

萬朶隊比島沖に奮戦す

宮本三郎

(1945)

水上部隊ミートキイナの奮戦

向井潤吉

(1945)

陸軍幕僚長に対する戦況報告の図

和田三造

(c.1943)

十二月八日の黄浦江上

橋本関雪

(1943)

ツラギ夜襲戦

三輪晁勢

(1943)

基地に於ける整備作業

山口華楊

(1943)

船団護送

大久保作次郎

(1943)

提督の最期

北蓮蔵

(c.1943)

印度洋海戦

小早川篤四郎

(1943)

ニューギニア戦線-密林の死闘

佐藤敬

(1943)

レンネル島沖海戦

三田康

(1943)

ルンガ沖夜戦

清水良雄

(1943)

珊瑚海海戦

中村研一

(1943)

ソロモン海戦に於ける米兵の末路

藤田嗣治

(1943)

○○部隊の死闘-ニューギニア戦線

藤田嗣治

(1943)

十二月八日の租界進駐

松見吉彦

(c.1942)

海軍落下傘部隊メナド奇襲

宮本三郎

(1943)

駆潜艇の活躍

藤本東一良

(1943)


言及アーティスト作品 

殿敷

1942年広島生まれ~1992島根県益田市の日赤益田病院で死去3才の時に広島への原爆投下で父をなくし、間もなく母も失う。被爆当日は疎開先にいたが、2日後に広島市に帰ったため後に健康を害する。広島大学を中退し、同53年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作する。同56年第1回西武美術館版画大賞展でシルクスクリーン「作品2」が日版商買上賞を受賞。同50年代後半からインスタレーションを試み、古タイヤを野性の木々の枝にかけたり、捨てられたテレビ数十台で田を囲む等、廃材を利用した環境芸術を制作。近年の地球環境問題の高まりと並行して注目されるようになった。平成2年春、それまでの7年間の活動をまとめた『逆流する現実』を刊行。同年ヨーロッパを巡遊した。晩年は山口県長門市北浦に住んで制作していた。(出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(309-310

 東松照明

1930年名古屋生まれ~2012年。写真家1954年愛知大学法経学部経済学科卒業後、『岩波写真文庫』のスタッフになる。1956年 フリー。1958年「地方政治家」を題材にした作品群で日本写真批評家協会新人賞受賞。1959年奈良原一高、細江英公らと写真家集団「VIVO」設立(61年解散)。1961年土門拳らと広島、長崎の被爆者被爆遺構取材、『hiroshima-nagasaki document 1961』(第5回日本写真批評家協会作家賞)を刊行。1963年アフガニスタン取材。1969年 写真集「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」出版。1972年沖縄移住。1974年荒木経雄らと「ワークショップ写真学校」を開講。1975年 写真集『太陽の鉛筆』で日本写真家協会年度賞、1976年芸術選奨文部大臣賞。1998年 長崎に移住。1999年日本芸術大賞受賞(新潮文芸振興会主催)。2003年中日文化賞受賞。著書に、『やきものの町 瀬戸』岩波書店、1954年、『水害と日本人』岩波書店、1954年、『戦争と平和』岩波書店、1955年、『hiroshima-nagasaki document 1961』(共著)原水爆禁止日本協議会 1961年、『〈1102分〉NAGASAKI』写真同人社、1966年、『サラーム・アレイコム』写研、1968年 ※雑誌『太陽』でアフガニスタン取材した際に撮影、『おお!新宿』写研、1969年、『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』写研、1969年、『戦後派(フォトシリーズ映像の現代5)』中央公論社、1971年、『I am a king』写真評論社、1972年、『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ』毎日新聞社、1975年、『東松照明の戦後の証明』朝日新聞社、1984年、『廃園』PARCO出版局、1987年、『さくら・桜・サクラ』ブレーンセンター、1990年、『Visions of Japan』光琳社出版、1998年、『時の島々』岩波書店、1998年、『日本の写真家30 東松照明』岩波書店、1999年、『東松照明 1951-60』作品社、2000年、『東松照明展 沖縄マンダラ』前島アートセンター、2002年、『東松照明:Tokyo曼陀羅』東京都写真美術館、2007

宮島達男

1957年東京江戸川区生まれ~。現代美術家。1984年東京芸術大学美術学部油絵学科卒業、1986年大学院美術研究科絵画専攻修了。長崎で原爆に被爆した柿の木の種を苗木に育て、展覧会場などで配り、世界中の子供たちと植えていく「『時の蘇生』柿の木プロジェクト」を展開している。2006年東北芸術工科大学副学長。2014年京都造形芸術大学副学長兼任。2016年退職。現在は両校の客員教授。1998ロンドン・インスティテュート名誉博士、1998年日本現代芸術振興賞

岡部昌生

1942年根室生まれ。北海道学芸大学卒業、札幌大谷大学短期大学部名誉教授。1973年北海道芸術新賞、1976年北海道秀作美術展優秀賞、1980年北海道現代美術展優秀賞、2006年北海道文化賞奨励賞、2007年第28回広島文化賞。1977年より、フロッタージュ作品の制作をはじめる。1979年パリに滞在、都市の皮膚」を制作。1980年代後半から、広島の原爆跡地を作品化する。パリのユダヤ人街で拉致の史実を刻む銘板を擦りとった作品を制作したのは1996年である。

村上隆 

1962年板橋生まれ。ポップアーティスト。1986年東京芸術大学美術学部日本学科卒業1988年同大学大学院修士課程修了、1993年同博士課程修了、博士(美術)。著書に、『ふしぎの森のDOB君 村上隆1st作品集』美術出版、1999年、『Summon Monsters? Open The Door? Heal? Or Die? - 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』カイカイキキ、2001年、『ツーアート』ぴあ、2003年。ビートたけしと共著、『The Geisai―アートを発見する場所』カイカイキキ、2005年、『SUPER FLAT』マドラ出版、2005年、『リトルボーイ爆発する日本のサブカルチャー・アート』ジャパン・ソサエティー/イエール大学出版、2005年、『芸術起業論』幻冬舎、2006年、『芸術闘争論』幻冬舎、2010年、『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012』美術出版社、2012年、『創造力なき日本――アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』角川書店、2012年、『熱闘日本美術史』新潮社、辻惟雄と共著、2014年など。

柳幸典

1959年福岡生まれ。1985 武蔵野美術大学大学院造形研究科修了、1990年イエール大学大学院美術学部彫刻科修了。2005-2015年広島市立大学芸術学部准教授。1986年栃木県立大学アート・ドキュメント優秀賞。1990年、45回ベニスビエンナール・ペルト部門受賞、1995年第6回五島記念文化財団美術新人賞。

嶋田美子

1959年東京生まれ。1982年カリフォルニア州Scripps College人文/美術学士号修了2011年ロンドン、キングストン大学 美術/美術史 博士課程在籍。主な個展に、2012年「Being a Japanese Comfort Womanstreet performance、ロンドン・東京、2009年「Bones in Tansu  Family SecretsStanley Picker Gallery、ロンドン、「Bones in Tansu  Family SecretsPrint Studio、ハミルトン、カナダ、2008年「Bones in Tansu  Family SecretsChristina Wilson Gallery、コペンハーゲン、2007年「Bones in Tansu  Family SecretsChiang Mai University Art Museum、チェンマイ、「Bones in Tansu  Family SecretsCemeti Art House、ジョクジャカルタ、2006年「Bones in Tansu  Family Secrets University of Philippines、マニラ、2002年「嶋田美子」オオタファインアーツ、東京、2001年「Yoshiko ShimadaCentre ACentre for Asian Contemporary Art、バンクーバー、2000年、「嶋田美子」京都精華大学ギャラリーフロール、京都、1999年「Yoshiko ShimadaAsia/Pacific Studies InstituteNew York University、ニューヨーク、1998年、「嶋田美子」オオタファインアーツ、東京、1997年「Yoshiko ShimadaHiraya Gallery、マニラ、「Yoshiko ShimadaJohan Batten Gallery、香港、「Yoshiko ShimadaA Space Gallery、トロント、1996年「嶋田美子」慶応義塾大学アートセンター、東京、1995年「嶋田美子」オオタファインアーツ、東京「Yoshiko ShimadaKunstlerhaus Bethanien、ベルリンなど。

会田誠

1965年新潟生まれ。1986年、新潟南高等学校卒業。1989年、東京芸術大学油絵画専攻卒業1991年、同大学院(油絵画技法第一研究室)修了。在学中に小沢剛、加藤豪らと同人誌『白黒』(1 - 3号)を発行。作品に、河口湖曼荼羅(1987年)、犬(1989年)、無題(通称:電信柱)(1990年)、火炎縁蜚蠊図(かえんぜつごきぶりず)(1991年)、あぜ道(1991年)、デザイン(1992年)、巨大フジ隊員VSキングギドラ(1993年)、ポスター(1994年)、無題(通称:駄作の中にだけ俺がいる)(1995年)、美しい旗(戦争画RETURNS)(1995年)、戦争画RETURNS1996年)(高橋コレクション 、紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)(戦争画RETURNS)(1996年)(高橋コレクション 蔵)、題知らず(戦争画RETURNS)(1996年)、大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)(戦争画RETURNS)(1996年)、ミュータント花子(1997年)

著者 谷尾(布野)晶子 Akiko Tanio

19781117日 東京都世田谷生まれ。19944月、京都府立菟道高等学校入学。19957月~19966月 アメリカが合衆国アイダホ州アバディーン高校Aberdeen High School留学。19973月、京都府立菟道高等学校卒業

19974月 津田塾大学学芸学部英文学科入学。20013月、津田塾大学学芸学部英文学科卒業。20019月 ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ美術史Postgraduate Diploma入学 Goldsmiths, University of London Fine Art & History of Art 20027月卒業。20029 ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ美術史(20世紀)修士課程入学。200312 ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ美術史(20世紀)修士課程修了。2018125日特発性間質肺炎+気胸で死去

 

Born on the 17th, Nov. 1978. 1994 Graduated from Todo Highschool

 

註 Endnotes



[i] Dominick La Capra 1939年米国生れ。歴史家。ヨーロッパにおける知の歴史およびトラウマ研究。コーネル大学名誉教授。著書に,Emile Durkheim: Sociologist and Philosopher (Cornell University Press, 1972; reissued in 1985 by University of Chicago Press; revised edition in 2001 by The Davies Group)/Madame Bovary on Trial (Cornell University Press, 1982)/Rethinking Intellectual History: Texts, Contexts, Language (Cornell University Press, 1983)/History & Criticism (Cornell University Press, 1985)/History, Politics, and the Novel (Cornell University Press, 1987)/Soundings in Critical Theory (Cornell University Press, 1989)/Representing the Holocaust: History, Theory, Trauma (Cornell University Press, 1994)/History and Memory after Auschwitz (Cornell University Press, 1998)/History and Reading: Tocqueville, Foucault, French Studies University of Toronto Press, 2000)/Writing History, Writing Trauma (John Hopkins University Press, 2001)/History in Transit: Experience, Identity, Critical Theory (Cornell University Press, 2004)/History and Its Limits: Human, Animal, Violence (Cornell University Press, 2009)/History, Literature, Critical Theory (Cornell University Press, 2013)など。 

[ii] ジャック・デリダJacques Derrida1930アルジェ生まれ~2004年。アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。ポスト構造主義の代表的哲学者。エクリチュール書かれたもの,書法,書く行為)の特質,差異に着目,脱構築(ディコンストラクション),散種,差延différance等の概念などで知られる。1951,エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)入学。1956年のアグレガシオン(教授資格論文)合格。ハーヴァード大学留学。19601964年ソルボンヌ大学哲学講師。1964年からエコール・ノルマル・シュペリウール哲学史講師。同校哲学教授(~1984年)。19842004,社会科学高等研究院Ecole des Hautes Etudes en Sciences SocialesEHESS研究ディレクター。アメリカ学士院American Academy of Arts and Sciences会員。2001年フランクフルト大学からアドルノ賞受賞。ケンブリッジ大学,コロンビア大学,新社会科学研究院,エセックス大学,ルーヴェン大学,ウィリアムズ学院,シレジア大学から名誉博士号授与。代表的な著作に『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』などがある。引用の邦訳は,『アーカイヴの病』福本修訳法政大学出版局,2010年。 

[iii] トリン・T・ミンハTrnh Th Minh Hà / 鄭氏明河,Trinh T. Minh-ha1953年ハノイ生まれ。映画監督,詩人,作曲家。ヴェトナム戦争中17歳でアメリカ合衆国へ移住。イリノイ大学で作曲と比較文学を専攻。ソルボンヌ大学で民族音楽を学び,詩作を開始する。帰国,イリノイ大学で博士課程修了。19771980,ダカール国立芸術院(セネガル)王学を教える。ドキュメンタリー映画(16㎜映画)作品『ルアッサンブラージュ』(1982)と『ありのままの場所』(1985)。UCバークレー映画学・女性学教授。著書にWoman, Native, Other. Writing postcoloniality and feminism”,Indiana University Press, 1989『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』竹村和子訳 ,岩波書店,1995年),“When the Moon Waxes Red. Representation, gender and cultural politics ”,Routledge, 1991『月が赤く満ちる時 ジェンダー・表象・文化の政治学』小林富久子訳,みすず書房,1996年),“Elsewhere, Within Here: Immigration, Refugeeism and the Boundary Event”, Routledge, 2011『ここのなかの何処かへ 移住・難民・境界的出来事』小林富久子訳,平凡社,2014年),“Framer Framed”, London, 1992(『フレイマー・フレイムド』小林富久子,矢口裕子,村尾静二訳 水声社,2016年)など。

[iv] 「ポストメモリー」とは,実際には「●●」を体験していない人が,さまざまな媒体を通して「●●」を「追体験」することで,その記憶を自らのものとして獲得し,内面化してゆくことによって生成する記憶をいう。つまり,記憶の後に来るもの,もしくは「後付けの記憶」である。記憶の歴史化,記憶の継承に関わるのが「ポストメモリー」である。英文学者マリアンネ・ヒルシュMarianne Hirsch,ホロコーストの生存者の子どもたちとその両親の記憶の関係について,1992年に用いた。その後,家族や世代の間の記憶のみならず,他人の個人的,集団的,そして文化的なトラウマについて,彼らが「覚えている」か,物語,イメージ,そして行動によってのみ知っている経験,に拡大されて用いられる。本論文の鍵概念のひとつである。

[v] マリエンヌ・ヒルシュMarianne Hirsch 1949,ティミショアル(ルーマニア)生まれ。1962,両親とともに米国移住。1975年ブラウン大学卒業。修士号,博士号取得。コロンビア大学,ウィリアム・ピーターフィールド・トレント教授(英語,比較文学),女性,ジェンダー,セクシュアリティ研究所教授。著書に,Beyond the Single Vision : Henry James, Michel Butor, Uwe Johnson. French Literature Publications Co., 1981./The Mother / Daughter Plot: Narrative, Psychoanalysis, Feminism. Indiana University Press, 1989./Family Frames: Photography, Narrative, and Postmemory家族の枠組み:写真,物語,そしてポストメモリー . Harvard University Press, 1997./Ghosts of Home: The Afterlife of Czernowitz in Jewish Memory, co-written with Leo Spitzer(家庭の幽霊:ユダヤ人の記憶にあるツェルノヴィッツ の死後生活. University of California Press, 2010. /The Generation of Postmemory: Writing and Visual Culture After the Holocaustポストジェネレーションの生成:ホロコースト後のライティングとビジュアルカルチャー.Columbia University Press, 2012.などがある。

[vi] Foucault Michel, The History of Sexuality: An Introduction, London, 1984。邦訳Foucault Michel 1976 La volonté de savoir (Histoire de la sexualité, Volume 1)『知への意志 性の歴史1 渡辺守章訳、新潮社、1986年、Foucault Michel 1984, L'usage des plaisirs (Histoire de la sexualité, Volume 2)『快楽の活用 性の歴史2 田村俶訳、新潮社、1986年、Foucault Michel 1984 Le souci de soi (Histoire de la sexualité, Volume 3)『自己への配慮 性の歴史3 田村俶訳、新潮社、1987年。 

[vii] 橘(根上)玲子。ペンシルヴァニア州立大学教授。比較文学。論文著書に、Narrative As Counter-Memory: A Half-Century of Postwar Writing in Germany and Japan, New York, 1998 , Memories of World War II: victimization and guilt in the fiction of Mishima, Oe, Grass, and Böll, 1991 など 

[viii] 戦争を題材した絵画を戦争画という。「平家物語」、ピカソの「ゲルニカ」、丸木位里・丸木俊の「原爆の図」「沖縄戦の図」など戦争記録絵画も含まれるが、一般には、軍の宣伝や戦意高揚に利用された作品を指すことが多い。戦闘場面や戦士の出征や凱旋、戦時下の市民生活など戦争の諸場面が描かれた。本書が問題にするのは、戦意高揚のための情宣として描かれた戦争画である。日中戦争の勃発(1937年)後、19384月に「支那事変海軍従軍画家スケッチ展」が開催され、同年6月には陸軍省が大日本陸軍従軍画家協会を結成して、戦地へ従軍画家を派遣する。現地部隊とともに行動する従軍画家には、藤田嗣治の他、小磯良平、宮本三郎、鶴田吾郎、中村研一など多くの画家が動員され、「支那事変勃発一周年記念陸軍従軍画家スケッチ展」が開催された(19387月)。19394月に陸軍美術協会が創立され、同年7月には「第一回聖戦美術展」が開催される(主催朝日新聞)。以降、戦時中に、「起源二千六百年記念日本文化展」「紀元二千六百年記念海戦美術展」(19405月)、「紀元二千六百年奉祝美術展」(194010月)、「第二回聖戦美術展」(19417月)、「第一回航空美術展」(19419月)、「大東亜戦争美術展覧会」(19421月)、「大東亜共栄圏美術展」(19429月)、「大東亜戦争美術展」(194212月)、「第二回大東亜戦争美術展」(194312月)、「戦時特別美術展」(19435月)、「戦争記録画展」(194410月)が開催された。19435月には大日本美術報国会が横山大観を会長として創立されている。 

[ix] 1970年に日本に無期限貸与という形で返還され,現在東京国立近代美術館に保管されている。東京国立近代美術館所蔵(無期限貸与)戦争画美術展一覧(別掲)。接収されなかった作品は,各地の美術館や個人が所蔵している。これまで部分的には公開されたことがあり,近代美術館の所蔵作品展に毎回数点展示される。

[x] 針生一郎:1925仙台生まれ~2010年。美術評論家、文芸評論家。和光大学名誉教授。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業、東京大学大学院文学研究科美学専攻。多摩美術大学教授、和光大学教授、岡山県立大学大学院教授などを歴任。美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長。大学院院生時代に岡本太郎、花田清輝、阿部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党入党、1961年除名。国際美術展などのキュレーターとしても活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)コミッショナー。2002年、自由な作品発表・批評の場として来場者参加型のアートスポット「芸術キャバレー」を設立、戦争と芸術のテーマで連続講座を開催するなど積極的な活動を行う。著書に、『現代絵画への招待』 南北社 1960、『芸術の前衛』 弘文堂 1961、『われらのなかのコンミューン 現代芸術と大衆』 晶文社 1964、『現代美術のカルテ』 現代書房 1965、『現代美術と伝統』 合同出版 1966、『われわれにとって万博とはなにか』 田畑書店 1969、『文化革命の方へ 芸術論集』 朝日新聞社現1973,『戦後美術盛衰史』 東京書籍 1979.3 (東書選書)、『言葉と言葉ならざるもの』 三一書房 1982.1、『わが愛憎の画家たち』 平凡社選書 1983.2など。

[xi] 藤田嗣治(18861968)。東京市牛込区(新宿区)生まれ。1955年フランスに帰化。洗礼名レオナール・フジタLéonard Foujita)。高等師範附属小学校(1900卒),高等師範附属中学校(1905年卒)を経て,東京美術学校西洋画科入学,1910年卒業。1913年渡仏。1917年個展。,ベルギー・レオポルド勲章を受章。1931年南北アメリカで個展。1933年日本帰国。193839年従軍画家として中華民国に従軍。陸軍美術協会理事長就任。1949年渡仏。1955年帰化。1957年フランス・レジオン・ドヌール勲章。1968,チューリッヒにて死去。戦争画一覧 東京国立近代美術館所蔵 (無期限貸与)

1.哈爾哈河畔之戦闘(昭和 16 年、油彩・キャンバス・額 140.0×448.0cm)第 2 回聖戦美術展 (1941) 2.武漢進撃(昭和 13-15 年、油彩・キャンバス・額 193.0×259.5cm)第 5 回海洋美術展(1941) 3.南昌新飛行場焼打昭和 13-14 年、油彩・キャンバス・額 192.0×518.0cm第 回海洋美術展 (1941) 4十二月八日の真珠湾昭和 17 年、油彩・キャンバス・額 161.0×260.0cm第 回大東亜戦争美術展 (1942) . シンガポール最後の日ブキ・テマ高地昭和 17 年、油彩・キャンバス・額 148.0×300.0cm第 回大東亜戦争美術展 (1942) 6 ○○部隊の死闘-ニューギニア戦線昭和 18 年、油彩・キャンバス・額 181.0×362.0cm第 2 回大東亜戦争美術展 (1943) 7 アッツ島玉砕 (昭和 18  彩・キャンバス・額・1          193.5×259.5決戦美展(1943) 8ソロモン海戦に於ける米兵の末路昭和 20 年、油彩・キャンバス・額193.0×258.5cm第 2 回大東亜戦争美術展 (1943) 9 神兵の救出到る昭和 19 年、油彩・キャンバス・額 192.8×257.0cm陸軍美術展 (1944) 10血戦ガダルカナル(昭和 19 年、油彩・キャンバス・額 262.0×265.0cm)陸軍美術展(1944) 11 ブキテマの夜戦 (昭和 19 年 油彩・キャンバス・額・1 面 130.5×161.5戦時特別文展陸軍省特別出品(194412 大柿部隊の奮戦(昭和 19 年、油彩・キャンバス・額 130.5×162.0cm)戦時特別文展陸軍省特別出品 (1944) 13 サイパン島同胞臣節を完うす (昭和 20           キャンバ1       181.0×362.0) 戦争美術展(1945) 14 薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(昭和 20 年、油彩・キャンバス・額 194.0×259.5cm) 戦争記録画展 (1945)  

[xii] 菊畑茂久馬:1935年長崎生まれ。福岡中央高等学校卒業。画家。1957年、前衛美術グループ「九州派」に参加。著書に、『フジタよ眠れ』出版(葦書房/福岡市、1978年)、『天皇の美術』(フィルムアート社/東京、1978年)、『戦後美術の原質』(葦書房/福岡市、1982年)、『反芸術綺談』(海鳥社/福岡市、1986年)、『絶筆いのちの炎』(葦書房、1989年)、『菊畑茂久馬著作集』全4巻刊行開始(海鳥社、1993年)、『絵かきが語る近代美術』(弦書房/福岡市、2003年)。

[xiii] 椹木野衣:1962年秩父市生まれ。美術評論家。多摩美術大学美術学部教授。芸術人類学研究所所員。同志社大学文学部文化学科卒業。英文文献リストには挙げられていないが、引用されているのは、『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)である。著者は、ゴールドスミス在学中に、椹木の講演をロンドンで聴いている。論文は2003年であり、『戦争と万博』(美術出版社、2005年)は参照していない。椹木野衣は、その後、『戦争と美術1937-1945』(国書刊行会、2007年)を針生一郎らと共同編集し刊行、展覧会での一括公開がない戦争記録画の公開を進めた。著書に『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』洋泉社、1991年、『ヘルタースケルター ヘヴィ・メタルと世紀末のアメリカ』トレヴィル/リブロポート、1992年)、『資本主義の滝壺』大田出版、1993年、『テクノデリック 鏡でいっぱいの世界』集英社、1996年、『原子心母 芸術における「心霊」の研究』河出書房新社、1996年、『「爆心地」の芸術』晶文社、2002年、『美術になにが起こったか 1992-2006』国書刊行会、2006年。『なんにもないところから芸術がはじまる』新潮社、2007年、『反アート入門』幻冬舎、2010年、『後美術論』美術出版社(第25回吉田秀和賞、2015年)、『震美術論』美術出版社(芸術選奨文部科学大臣賞、2018年)。

[xiv] 大田洋子:1906年広島生まれ~1963年。小説家。本名、大田初子。1923年、進徳実科高等女学校研究科卒業。『女人芸術』に作品を発表。1939年、『海女』で『中央公論』の懸賞小説に一等入選。1940年、『桜の国』で『朝日新聞』一万円懸賞小説に一等入選。疎開で広島市に帰郷中、被爆。1945年、占領軍による報道規制の中『屍の街』『人間襤褸』を書き、原爆作家としての評価を確立した。作品に、流離の岸 小山書店 1939 のち角川文庫、海女 中央公論社 1940桜の国 朝日新聞社 1940、淡粧 小山書店 1941、友情 報国社 1941、野の子花の子 有光社 1942、星はみどりに 有光社 1942、暁は美しく 赤塚書房 1943、たたかひの娘 報国社 1943、眞晝の情熱 丹頂書房 1947、情炎 新人社 1948、屍の街 中央公論社 1948 のち潮文庫、人間襤褸 河出書房 1951 のち新潮文庫、半人間 大日本雄弁会講談社 1954 のち新潮文庫、夕凪の街と人と 一九五三年の実態 大日本雄弁会講談社 1955 (ミリオン・ブックス)、八十歳 講談社 1961大田洋子集 4巻 三一書房 1982日本の原爆文学 2大田洋子 ほるぷ出版 1983、屍の街・半人間 講談社文芸文庫 1995 

[xv] Haidu, Peter, ‘The Dialectics of Unspeakability: Language, Silencem and Narratives of Desubjectification’, 1992 in Friedlander Saul (ed.),    Probing the Limits of Representation. Nazism and the “Final Solution”, Cambridge, Massachusetts and London, 1992 

[xvi] ジャン・フランソア・リオタールJean-François Lyotard: 192498年。フランスの哲学者。「ポストモダンの条件」「大きな物語の終焉」、「知識人の終焉」で知られる。引用は、Friedlander (ed.)1992)所収論文。著作に、La condition postmoderne (1979)(『ポストモダンの条件』水声社、小林康夫訳、1986)他、La phenomenologie (1954)(『現象学』白水社文庫クセジュ、高橋允昭訳訳、1965)、Discours, figure (1971)(『言説、形象(ディスクール、フィギュール)』法政大学出版局、三浦直希訳、合田正人監修、2011)、Derive a partir de Marx et Freud (1973)(『漂流の思想マルクスとフロイトからの漂流』国文社 今村仁司他訳、1987)、Economie libidinale (1974)(『リビドー経済』法政大学出版会、杉山吉弘,吉谷啓次訳、1997)、Rudiments paiens (1977)(『異教入門中心なき周辺を求めて』法政大学出版局、山懸煕他訳、2000)、Recits tremblants (1977)(『震える物語』法政大学出版局 山縣直子訳、2001)、L'assassinat de l'experience par la peinture - Monory (1984)(『経験の殺戮絵画によるジャック・モノリ論』朝日出版社 横針誠訳、1987)、Le differend (1984)(『文の抗争』法政大学出版局 陸井四郎他訳、1989)、Le postmoderne explique aux enfants (1986)(ポストモダン通信 こどもたちへの10の手紙 管敬次郎訳 朝日出版社 1988 「こどもたちに語るポストモダン」ちくま学芸文庫)、L'enthousiasme. La critique kantienne de l'histoire (1986)(『熱狂カントの歴史批判』法政大学出版局 中島盛夫訳、1990)、『知識人の終焉』法政大学出版局 原田佳彦、清水正訳 1988)、Heidegger et les Juifs (1988)(『ハイデガーと「ユダヤ人」』藤原書店 本間邦雄訳、1992)、L'inhumain : Causeries sur le temps (1988)(『非人間的なもの時間についての講話』法政大学出版局 篠原資明,上村博,平芳幸浩訳 2002)、Peregrinations : Law, Form, Event (1988)(『遍歴法、形式、出来事』法政大学出版局 小野康男訳、1990)、Lecture d'enfance (1991)(『インファンス読解』未来社 小林康夫訳、1995)、Moralites postmodernes (1993)(『リオタール寓話集』藤原書店 本間邦雄訳、1996)、『聞こえない部屋 マルローの反美学』水声社 北山研二訳、2003)、『なぜ哲学するのか』法政大学出版局 松葉祥一訳、2014)など。 

[xvii]  テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルントTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrund1903年フランクフルト・アム・マイン生まれ~1969年。ドイツの哲学者、社会学者。フランクフルト大学卒業。1934年に英国、1938年にアメリカに移住、第二次世界大戦後帰国、フランクフルト大学社会研究所所属。M.ホルクハイマー、ハーバーマースとともにフランクフルト学派を代表する思想家。ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権利主義的パーソナリティを解明、作曲家、音楽評論家としても知られる。邦訳著書に、『プリズム――文化批判と社会』(法政大学出版局、1970年/改題『プリズメン』[ちくま学芸文庫]、1996年)、『ゾチオロギカ――社会学の弁証法』(イザラ書房、1970年)、『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』(法政大学出版局、1979年)、『権威主義的パーソナリティ』(青木書店、1980年)『三つのヘーゲル研究』(河出書房新社、1986年/筑摩書房[ちくま学芸文庫]、2006年)、『認識論のメタクリティーク――フッサールと現象学的アンチノミーにかんする諸研究』(法政大学出版局、1995年)、『否定弁証法』(作品社、1996年)、『フッサール現象学における物的ノエマ的なものの超越』(こぶし書房、2006年)、『哲学のアクチュアリティ―― 初期論集』(みすず書房、2011年)、『自律への教育』(中央公論新社、2011年)、『模範像なしに――美学小論集』(みすず書房、2017年)など。[xviii]

[xix] バチャ・リヒテンベルク・エティンガーBracha Lichtenberg Ettinger 1948年テル・アヴィブ(イスラエル)生まれ。画家、哲学者。Matrix and Metramorphosis (1992), fragments from her notebooks (Moma, Oxford, 1993) and The Matrixial Gaze (1995).Bracha L. Ettinger, Eurydice, The Graces, Medusa. Oil painting, 2006–2012 

[xx] 殿敷1942年広島生まれ~1992島根県益田市の日赤益田病院で死去3才の時に広島への原爆投下で父をなくし、間もなく母も失う。被爆当日は疎開先にいたが、2日後に広島市に帰ったため後に健康を害する。広島大学を中退し、同53年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作する。同56年第1回西武美術館版画大賞展でシルクスクリーン「作品2」が日版商買上賞を受賞。同50年代後半からインスタレーションを試み、古タイヤを野性の木々の枝にかけたり、捨てられたテレビ数十台で田を囲む等、廃材を利用した環境芸術を制作。近年の地球環境問題の高まりと並行して注目されるようになった。平成2年春、それまでの7年間の活動をまとめた『逆流する現実』を刊行。同年ヨーロッパを巡遊した。晩年は山口県長門市北浦に住んで制作していた。(出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(309-310

 

[xxi] 秋月辰一郎:1916長崎生まれ~2005年。医師。長崎聖フランシスコ病院院長。長崎で自身も被爆。医師として負傷した被爆者の治療にあたった。また、原爆の証言の収集を長年に渡って行った。長崎の証言の会代表委員、原爆被爆者対策協議会、原爆資料保存会、原爆被災復元調査協議会役員。1935年、長崎県立長崎中学校卒業、19403月京都帝国大学医学部卒業、長崎大学医学部助手、1944年長崎浦上第一病院(現 聖フランシスコ病院)医長に就任。(281945年 病院(爆心地から北東に1.4km)で勤務中に被爆。負傷した被爆者の救護にあたる。1949年諫早市で開業。1952年聖フランシスコ病院院長就任。日本医師会最高優功賞受賞(1968年)、吉川英治文化賞受賞。(1972年)1982年国連軍縮特別総会に日本代表として出席。1985年ローマ法王ヨハネ・パウロ2世より聖シルベストロ騎士団勲章授与著作に、『夏雲の丘 - 病窓の被爆医師』『長崎原爆記 - 被爆医師の証言』『死の同心円 - 長崎被爆医師の記録』。

[xxii] 東松照明:1930年名古屋生まれ~2012年。写真家1954年愛知大学法経学部経済学科卒業後、『岩波写真文庫』のスタッフになる。1956年 フリー。1958年「地方政治家」を題材にした作品群で日本写真批評家協会新人賞受賞。1959年奈良原一高、細江英公らと写真家集団「VIVO」設立(61年解散)。1961年土門拳らと広島、長崎の被爆者被爆遺構取材、『hiroshima-nagasaki document 1961』(第5回日本写真批評家協会作家賞)を刊行。1963年アフガニスタン取材。1969年 写真集「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」出版。1972年沖縄移住。1974年荒木経雄らと「ワークショップ写真学校」を開講。1975年 写真集『太陽の鉛筆』で日本写真家協会年度賞、1976年芸術選奨文部大臣賞。1998年 長崎に移住。1999年日本芸術大賞受賞(新潮文芸振興会主催)。2003年中日文化賞受賞。著書に、『やきものの町 瀬戸』岩波書店、1954年、『水害と日本人』岩波書店、1954年、『戦争と平和』岩波書店、1955年、『hiroshima-nagasaki document 1961』(共著)原水爆禁止日本協議会 1961年、『〈1102分〉NAGASAKI』写真同人社、1966年、『サラーム・アレイコム』写研、1968年 ※雑誌『太陽』でアフガニスタン取材した際に撮影、『おお!新宿』写研、1969年、『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』写研、1969年、『戦後派(フォトシリーズ映像の現代5)』中央公論社、1971年、『I am a king』写真評論社、1972年、『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ』毎日新聞社、1975年、『東松照明の戦後の証明』朝日新聞社、1984年、『廃園』PARCO出版局、1987年、『さくら・桜・サクラ』ブレーンセンター、1990年、『Visions of Japan』光琳社出版、1998年、『時の島々』岩波書店、1998年、『日本の写真家30 東松照明』岩波書店、1999年、『東松照明 1951-60』作品社、2000年、『東松照明展 沖縄マンダラ』前島アートセンター、2002年、『東松照明:Tokyo曼陀羅』東京都写真美術館、2007

 [xxiii] 宮島達男:1957年東京江戸川区生まれ~。現代美術家。1984年東京芸術大学美術学部油絵学科卒業、1986年大学院美術研究科絵画専攻修了。長崎で原爆に被爆した柿の木の種を苗木に育て、展覧会場などで配り、世界中の子供たちと植えていく「『時の蘇生』柿の木プロジェクト」を展開している。2006年東北芸術工科大学副学長。2014年京都造形芸術大学副学長兼任。2016年退職。現在は両校の客員教授。1998ロンドン・インスティテュート名誉博士、1998年日本現代芸術振興賞 

[xxiv] 岡部昌生:1942年根室生まれ。北海道学芸大学卒業、札幌大谷大学短期大学部名誉教授。1973年北海道芸術新賞、1976年北海道秀作美術展優秀賞、1980年北海道現代美術展優秀賞、2006年北海道文化賞奨励賞、2007年第28回広島文化賞。1977年より、フロッタージュ作品の制作をはじめる。1979年パリに滞在、都市の皮膚」を制作。1980年代後半から、広島の原爆跡地を作品化する。パリのユダヤ人街で拉致の史実を刻む銘板を擦りとった作品を制作したのは1996年である。

[xxv] 村上隆 1962年板橋生まれ。ポップアーティスト。1986年東京芸術大学美術学部日本学科卒業1988年同大学大学院修士課程修了、1993年同博士課程修了、博士(美術)。著書に、『ふしぎの森のDOB君 村上隆1st作品集』美術出版、1999年、『Summon Monsters? Open The Door? Heal? Or Die? - 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』カイカイキキ、2001年、『ツーアート』ぴあ、2003年。ビートたけしと共著、『The Geisai―アートを発見する場所』カイカイキキ、2005年、『SUPER FLAT』マドラ出版、2005年、『リトルボーイ爆発する日本のサブカルチャー・アート』ジャパン・ソサエティー/イエール大学出版、2005年、『芸術起業論』幻冬舎、2006年、『芸術闘争論』幻冬舎、2010年、『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012』美術出版社、2012年、『創造力なき日本――アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』角川書店、2012年、『熱闘日本美術史』新潮社、辻惟雄と共著、2014年など。

 [xxvi] Thomas Elsaesser1943年ベルリン生まれ。映画史。映画テレビ研究。アムステルダム大学教授。

 [xxvii] 柳幸典 1959年福岡生まれ。1985 武蔵野美術大学大学院造形研究科修了、1990年イエール大学大学院美術学部彫刻科修了。2005-2015年広島市立大学芸術学部准教授。1986年栃木県立大学アート・ドキュメント優秀賞。1990年、45回ベニスビエンナール・ペルト部門受賞、1995年第6回五島記念文化財団美術新人賞。

 [xxviii] 19条 思想及び両親の自由は、これを侵してはならない。

   20信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

   21条。集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 

[xxix]  嶋田美子: 1959年東京生まれ。1982年カリフォルニア州Scripps College人文/美術学士号修了2011年ロンドン、キングストン大学 美術/美術史 博士課程在籍。主な個展に、2012年「Being a Japanese Comfort Womanstreet performance、ロンドン・東京、2009年「Bones in Tansu  Family SecretsStanley Picker Gallery、ロンドン、「Bones in Tansu  Family SecretsPrint Studio、ハミルトン、カナダ、2008年「Bones in Tansu  Family SecretsChristina Wilson Gallery、コペンハーゲン、2007年「Bones in Tansu  Family SecretsChiang Mai University Art Museum、チェンマイ、「Bones in Tansu  Family SecretsCemeti Art House、ジョクジャカルタ、2006年「Bones in Tansu  Family Secrets University of Philippines、マニラ、2002年「嶋田美子」オオタファインアーツ、東京、2001年「Yoshiko ShimadaCentre ACentre for Asian Contemporary Art、バンクーバー、2000年、「嶋田美子」京都精華大学ギャラリーフロール、京都、1999年「Yoshiko ShimadaAsia/Pacific Studies InstituteNew York University、ニューヨーク、1998年、「嶋田美子」オオタファインアーツ、東京、1997年「Yoshiko ShimadaHiraya Gallery、マニラ、「Yoshiko ShimadaJohan Batten Gallery、香港、「Yoshiko ShimadaA Space Gallery、トロント、1996年「嶋田美子」慶応義塾大学アートセンター、東京、1995年「嶋田美子」オオタファインアーツ、東京「Yoshiko ShimadaKunstlerhaus Bethanien、ベルリンなど。

 [xxx] 会田誠 1965年新潟生まれ。1986年、新潟南高等学校卒業。1989年、東京芸術大学油絵画専攻卒業1991年、同大学院(油絵画技法第一研究室)修了。在学中に小沢剛、加藤豪らと同人誌『白黒』(1 - 3号)を発行。作品に、河口湖曼荼羅(1987年)、犬(1989年)、無題(通称:電信柱)(1990年)、火炎縁蜚蠊図(かえんぜつごきぶりず)(1991年)火炎縁雑草図(1991年)、あぜ道(1991年)、デザイン(1992年)、巨大フジ隊員VSキングギドラ(1993年)、ポスター(1994年)、無題(通称:駄作の中にだけ俺がいる)(1995年)、美しい旗(戦争画RETURNS)(1995年)、戦争画RETURNS1996年)(高橋コレクション 、紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)(戦争画RETURNS)(1996年)(高橋コレクション )、題知らず(戦争画RETURNS)(1996年)、大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)(戦争画RETURNS)(1996年)、ミュータント花子(1997年)スペース・ウンコ(1998年)、スペース・ナイフ(1998年)、犬(雪月花のうち)(1998年)、たまゆら(戦争画RETURNS)(1999年)、無題(2001年)、ジューサーミキサー(2001年)、食用人造少女・美味ちゃん(2001年)、新宿御苑大改造計画(2001年)、自殺未遂マシーン(2001年)、新宿城(2002年)、切腹女子高生(2002年)、人プロジェクト(2002年)、大山椒魚(2003年)、じょうもんしきかいじゅうのうんこ(2003年)、?鬼(2003年)、無題(通称:考えてませ~ん)(2004年)、愛ちゃん盆栽(フィギュア 2005年)ヴィトン(2007年)、7272007年)、滝の絵(2007-10年)、万札地肥瘠相見図(原画)(2007年)、灰色の山(2009-11年)、1+1=22010年)、ニトログリセリンのシチュー(2012年)Jumble of 100 Flowers2012年)、考えない人(2012年)、電信柱、カラス、その他(2012年)、MONUMENT FOR NOTHING 2012年)著書に、青春と変態(小説、ABC出版、1996年)、ミュータント花子(漫画、ABC出版、1997年)、Lonely Planet(画集、DANぼ出版、1998年)、三十路(画集、ABC出版、2001年)、MONUMENT FOR NOTHING(画集、グラフィック社、2007年)、カリコリせんとや生まれけむ(エッセイ集、幻冬舎、2010年)、少女ポーズ大全(会田誠監修・モデル ほしのあすか、コスミック出版、2011年)、美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか(幻冬舎、2012年)