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2022年3月11日金曜日

「建築家は自分なりの武器を持とう」,特集 ネクスト:建築家のこれから⑬『JIA MAGAZINE』⑧,2015年6月

 インタビュー:布野修司氏に聞く 聞き手:今村創平:「建築家は自分なりの武器を持とう」,特集 ネクスト:建築家のこれから⑬『JIA MAGAZINE』⑧,20156

建築家は自分なりの武器を持とう 

 

今回は長くアジアの建築・都市について調査・研究されている布野修司さんをお迎えしました。最近は、オープンな設計者選定のために、滋賀でいくつかのコンペに携わっておられます。今日は大きくその2点についてうかがいます。_ (『JIA_MAGAZINE』編集長 今村創平) 

 

アジア調査・研究のきっかけ 

今村  まずアジアについてのお話からうかがいます。最初に布野先生はどのようなきっかけでアジアを調査・研究されるようになったのでしょうか。

布野  僕の出自というか原点は建築計画学なんです。東大の建築計画研究室(吉武泰水・鈴木成文研究室)の出身ですが、1970年代初頭、研究室に入った頃、その歴史、方法をめぐって先輩たちが熾烈な議論をしていました。建築計画学批判ですね。その施設(インスティチューション=制度)を前提にした縦割り研究の限界についての認識が出発点です。住宅計画についていうと、太平洋戦争で東京が廃墟になって圧倒的に住宅が足りない状況で、日本の建築家は解答を求められたわけですが、建築計画学の解答は「51C」という公営住宅の型だったわけです。ダイニングキッチンDKという独特の空間はその後日本中に蔓延することになるわけです。大量供給のために住戸のプランを標準化したわけです。学校でも、図書館でも、病院でも、みんな似たような問題があって、戦後復興の際に基本の型を提案していった。「果たして同じ解答でいいの?」「標準設計でいいの?」というのが、1970年代初頭の研究室の議論です。

 東大で2年助手をしたあと、1978年に東洋大に呼ばれたんですが、当時の学長は、前都立大学長で都市社会学の大家の磯村英一先生で、その磯村先生からうちの大学は「東洋大学」という名前だから、アジアのことをやるように言われたんです。冗談じゃなく本当の話です。当時、中国、韓国はとても調査する環境にはなかった。ソウルの地下鉄で写真を撮っただけで「フイルムを抜け」と言われるような時代でした。研究費の額の問題もあったので、とりあえず東南アジア、ASEAN諸国をターゲットにしたんです。

 三宅理一とか杉本俊多とか、僕の東大の同級生は、東大闘争、全共闘運動の収束期にヨーロッパへ行くんです。僕は、同じことをやってもしょうがないから、アジアから問題を立てようと思った、個人的にはそういういくつかの動機がありました。

振り返って整理すると、同じ圧倒的に住宅が足りない状況で日本が出した答えとは別の答えがあるのではないか、それを探りたいということだったと思います。東南アジアにおいても日本と同じ組み立て方をするのか、2DKとか51C型が解答なのか、というテーマですね。

今村  それが70年代の終わりなのでしょうか。

布野  最初にインドネシアに行ったのは、 1979年でしたから、もう東洋大の講師になっていましたね。きっかけは磯村英一先生です。ただ、その前からずっと、ヨーロッパ、アメリカよりも、アジアをやるべきだとは思っていました。

今村  建築家がどんどんアジアに行くようになったのはその頃なのでしょうか。

布野  鈴木研究室には、アジアからは、韓国から 1人、台湾から 1人とかという程度で、日本からどんどんアジアに行くような状況ではありませんでした。アジアの都市建築研究が活性化するのは、アジアからの留学生が日本に来だした1980年代末くらいからですね。

今村  ということは、布野先生が行かれた頃は、ほとんどまだ誰もアジアに行っていなかったのでしょうか。

布野  原広司研究室の世界集落調査が建築界では早いんですが、東南アジア、東アジアはあんまり行っていない。戦後、賠償問題があって、ゼネコンなどをはじめ、日本の建築の分野がアジアに出かけたのは意外に早いんですけどね。建設産業としては、1950年代の末くらいから 60年代にかけて、例えば、インドネシアで大きな建築を建てています。アジアに行くには、従軍慰安婦問題もそうですが、触れてはならないタブーがありました。

今村  それは戦争の影響ということですね。

布野  そうです。フィリピンは反日感情が強かったですね。インドネシアはそうでもなかった。山の中へ調査に行くと、ラジオ体操をやってみせてくれたり、ベチャ(人力車)に乗ったら車夫が「海行かば」といった軍歌を歌う。スハルトが独立宣言文の草稿を練ったのが前田将軍のジャカルタの邸宅だったこともあって、インドネシアは割とウェルカムだったんです。それでも、 1972年の田中角栄のジャカルタ訪問の時には暴動があった。韓国とは今また険悪ですが、調査が本格的に可能になったのは韓流ブームくらいからです。

今村  確かに最近ですよね。文化交流で、 1990年代まであまり関係が良くなかったですね。

布野  そう、20世紀の末くらいからです。ただ、留学生はたくさんいました。中国は、ようやく留学生が来だしてから一緒に調べましょうという感じになりましたが、現在、また悪い。昨年、北京の町を調査していて、若い女性に「日本人は嫌い」と言われてショックでした。

 

現地の建築家や住民と協同 

今村  具体的には、現地でどのような調査・研究をされたのでしょうか。

布野  都市組織(urban fabric, urban tissues)研究といっています。僕らの世代の言葉でいえば、デザイン・サーヴェイです。集落や都市の街区を対象として一戸一戸採寸して図面を起こし、インタビューを重ねます。一戸の住宅ではなくて、それが集合して構成される街区や集落の構成原理を明らかにします。1982年くらいからですが、科研費やトヨタ財団や清水建設の住宅総合研究所など研究財団から研究費をもらえました。学会というか、仲間の研究者たちから文化侵略だ、アジアを経済戦略する先兵だと批判も受けました。ただ、日本でやることとアジアをやることの区別は僕の中にはなかったですね。当初から「地域の生態系に基づく居住システムに関する研究」を掲げていたんですが、先見の明はあったと思っています。日本では1960年代の10年で、茅葺きが消えてアルミサッシの普及が 100%になった、都市、建築、住宅のあり方はすっかり変わってしまった。日本では民家というと民家園みたいなところにしか残っていないけれど、東南アジアではまだ生きていた、という感じでしたね。最初の数年は、ASEANを順に回りながら、大都市では都市問題、居住問題を、農村では住居集落のエコシステムを、二本立てで研究してきたんです。

今村  その頃はまだ、いわゆる現地での先行研究はなかったのでしょうか。

布野  ほとんどなかったですね。

今村  それでは何もストックがないところに行って調べたのですね。

布野  そうですね。当初は、情報収集いってみれば観光していたわけですが、インテンシブな共同研究をやらないと信用されないわけで、調査は一種のスパイですが、情報を持って帰るだけではなくて、カウンターパートと共同して、問題意識を共有する構えでやったのがインドネシアのスラバヤの臨地調査です。J.シラスという師匠に出会ったことが大きいです。

今村  それはインドネシアの大学と協同で調査研究をしたいうことですか。

布野  タイやフィリピンでも、インドネシアでも、当初は、住宅や都市の問題について、地元で一所懸命に頑張っている建築家や日本でいうと国交省や自治体政府機関政策担当者と会って情報収集をしたんですそうしたなかで、J.シラスに会ったスラバヤ工科大学ITS先生だったんですが建築事務所も構えていました。歳は一回り上ですが僕の先生になりました。この夏もスラバヤに行って会います。カンポン(都市集落)調査が僕の原点です。学位論文もカンポンについて書きました写真①abc 全部使えという意味ではありません。以下同様。写真①a難しければ、一枚トリミングしてください。あるいは、写真①書影がいいかも?

今村  他の国の建築家は、アジアにいたのでしょうか。

布野  1976年に国際連合人間居住会議が行われ、 78年に国際連合人間居住計画(国連ハビタット)が設立されるのです。国連ハビタットの本部は今ナイロビにありますが、76年に設立に先行してマニラで面白いコンペをやりました吉阪研など、日本からも相当応募しました。今日いうエコ・シティ、エコ・ヴィレッジをコンセプトとするオーストラリアの建築家グループが最優秀賞を獲るんですが、残念ながら実施に至りませんでした。1970年代末からアジアを歩きだすと、既にエコ・ヴィレッジなどのプロジェクトが実際ありました。日本はオイルショック後、そんなに新たな動きがなかったから、「えーっ」というくらい新鮮でした。また、コアハウス・プロジェクト(写真②ab)とか、セルフ・ヘルプハウジングが実際展開されているのも興味深かったですね。スケルトン・インフィル・クラディングのシステムが既に実践されているわけです。要するに、スケルトンだけ供給して、あとは勝手にやりなさいというシステムですね。そうした試みをするグループもたくさんいました。

今村  アジア各地にいたのでしょうか。

布野  タイのビルディング・トゲザー(写真③ab)、フィリピンのフリーダム・トゥ・ビルド(写真④ab)、インドネシアのディアン・デサなどですね。理論家はイギリスのJ.F.ターナー。会ったこともあります。それこそ“Freedom to Build”とか”Housing by people”といった本を書いています。

今村  いわゆる欧米のインテリがアジアに理想的なものをつくろうというような感じだったのでしょうか。

布野  それはあったかもしれません。例えば、バンコクのアジア工科大学AITに大学院大学がありますが、そこにはクリストファー・アレグザンダーの協働者だったシュロモ・エンジェルがいて、コアハウス・プロジェクトを主導していました(写真⑤)。それ以前に、C.アレグザンダーはリマのコンペで同様のアイディアを示していました。S.エンジェルは、一緒にやったんだと思います。『パタン・ランゲージ』も一緒に描いています。これは、2DKを提案するのとは異なる組立で面白かったですね。

今村  通算するとアジアに関わられて40年くらいになるわけですね。

布野  最初はいいカウンターパートに会って、当面、スラバヤに絞ろうということでした。その後、インドにまでフィールドは広がっていきます。様々な縁や状況の中で選択してきたような気がします。例えばジャカルタとかマニラなどの首都は、中央政府に近くて調査がすごくやりにくく、結構難しい。やはり距離を置いたほうがいいということがありました。

今村  ちょっと田舎の方が調査しやすいのですね。

布野  田舎の方が厳しい場合もあります。カウンターパートのJ.シラスの力が大きかったですね。彼は、インドネシア国家のハウジング部門のアドバイザーをやるようになります。アガ・カーン賞をはじめ日本の国際居住年賞、国連Habitat賞インターナショナルにいっぱい賞をもらうんです。いい人にめぐり会えたと思います。僕も、その後京大へ行って、論文を書く学生が増えて行ったので、インドくらいまで、範囲を広げていきました。

 もうひとつは1980年代末にイスラーム研究が出てきました。これからイスラームが世界を握るだろうと日本の文部省も学者を集めたんです。僕もインドネシアを研究していたので呼ばれたわけですが、インドネシアはムスリムが9割なんですね。それでいっぱい仲間ができました。最後の締め括りの総括シンポジウムで「僕はスラムのことは多少わかりますがイスラームはわかりません」って言って、大受けしたことを覚えています。

今村  東洋大学だから東洋研究だとおっしゃいましたが、京都大学の中にもアジアの有名な研究所がありますよね。

布野  当時はセンターと言っていましたが東南アジア研究所があります。今はアジア・アフリカ地域研究研究科ASAFASがあります。 東洋大で研究を始める時に、東南アジア研究センターのサマースクールに参加して、一夏、東南アジア学の手ほどきを受けたんです。いろんな先生方と知り合いました。そういうこともあって、のちに京大に行くことになったような気がします。

今村  世界でアジア研究というのは3ヵ所あって、 1つはロンドン大学の SOAS、アメリカに 1ヵ所、それでもう1ヵ所が京大なんですよね。軍事戦略と同じでアジアに対しての研究の先端をつくるのだということで。

布野  SOASにも行きましたが、戦前の満鉄調査部、東洋文化研究所にしても国策ですよね。東南アジア研究センターも日本にとってこれから東南アジアが重要だということでつくられました。そうした背景は当然意識化している必要があります。現在は、国家戦略としては、アフリカ研究が遅れているのではないかと思います。本当はアフリカ・スタディやインド・スタディももっとやらないといけない。必要な研究には研究費が付きますが、そうなると当然、それで何をやるのか、どういうポジションでどういうことを言うのか、何かやってみせないといけないことになります。僕もインドネシアのスラバヤでエコハウスモデルをつくりましたが、それもやはり ODA(政府開発援助)が付いたという背景があります。

 スラバヤ・エコハウスは日本とは違う集合住宅モデルです。2DKを積み重ねるのとは違う。日本でもコレクティブハウスのモデルとなると思っています(写真⑥)。プルムナスPerumunasという日本の住宅公団に当たる機関に売込みにいったんですが、20世紀末に経済クライシスがあって、うまくいかなかった。少しオーヴァー・スペックで高かったんです。その後JICAも全部撤収したんですが、インドネシアは今景気がいいから、ちゃんとやったらいいと思います。

今村  そのスラバヤ・エコハウスはどういったものなのでしょうか。

布野  床に埋め込んだパイプに井戸水をソーラーバッテリーによるポンプで循環させる輻射冷房、ヤシの繊維を断熱材に使う、小玉祐一郎さんの指導ですが、一言で言えばパッシブ・エコハウス、考えられる要素をいろいろ盛り込んだものです(写真⑦abcd)。スラバヤは大阪と同じくらいの気温なのです。だから、そのモデルは日本でも使えると思っています。何度もいいますが、日本とアジアを区別しているつもりはなくて、最初からアジアなのです。

 

急激に変化を遂げたアジア 

今村  ここ1020年、アジアの国々がものすごい勢いで成長している状態があって、そこに建築家もある程度目が向いていると思うのですが、既にグローバルシティみたいなものをイメージして、ここにビジネスがあるように見ている場合もあると思います。それぞれの国や地域にずっとあったモダナイゼーションの歴史を見ようともせずに、グローバルなビルを現地でつくればいいとなってしまうことに対して、どのように考えていらっしゃいますか。

布野  発展途上国の第二次世界大戦後、あるいは20世紀に入ってからの歴史を見るとどこも似てきていますね。プライメイト・シティと言われる圧倒的に巨大化した大都市には同じような超高層が林立していますね。世界資本主義の表現といっていいかもしれません。一方、超高層ビル群の足下に、全く別の世界がある。資本主義は差異化のシステムですから、日本でも、東京と地方は全く違う世界に差異化されつつあるわけですが、アジアではどうか、グローバリゼーションが差異化していく世界を見てきている。

 僕らは都市組織研究と言っていますが、住戸計画だけでは駄目じゃないか、住戸が集合する形、あるいは街区をみようとしてきています。最初に言いましたが、僕なりの建築計画学批判の視点です。住戸の平面だけ考えて、それを階段室の両側に積めばいい、という解答だけではない。場所、地域、国によって様々な都市組織の形、住居集合の形式があることをいろいろ見て、それを面白がっているのです。モダニズムの建築といっても、例えば、フラットルーフのガラス張りはやはり熱帯に合わないので、いろんなことをやり出す。それを「こういうのもあるんじゃないの」と一緒に考えているんです。

 僕が一番親しいのはインドネシアですが、見ていると、 西欧化、植民地化の400年の歴史を積み重ねてきたものと全然違うものが現在出来てきている。それがグローバリゼーションの共通の問題ですね。それと建築学会で八束はじめさんとも議論しているんですが、コミュニケーション手段ICTが発達することで、拡張大都市圏(エクステンディッド・メトロポリタン・リージョンEMR)といいますが、大都市圏が農村部までだらだら繋がってしまうような新しい現象が起こってきている。スマホとバイクで都市の形ががらっと変わるわけです。これは次元を分けていったほうがいい。僕が現地を歩き出したのは、バイク以前で、インドネシアではベチャといいますが、リキシャー(人力車)が大都市を走っている時代でした。

I.イリイチだった思いますが「社会主義は自転車でやってくる」といって、人が余っているんだから自転車でドア・トゥ・ドアで行き来する、そのほうが地球にやさしい、オイルショックが強烈だったこともあって、ガソリンを使うよりも自転車で、というようなことを結構本気で議論していました。今でもやりたいけど、「何言っているの」という話になってしまうでしょうね。

今村  アジアの都市は、もちろん戦後から発展していくためにずっといろいろと変化してきたのでしょうが、やはり何か刹那的なものを感じます。

布野  赤道間近のシンガポールには、スラバヤもですが、ショッピングセンターにアイスリンクがあります。これから30億人もの人口が増えるのは熱帯地域です。そこで全てがエアコンを使い出すとするとエネルギー問題一体どうなるのか深刻な問題ですね。しかし、それを止められない。こちらは「エコハウスがいいでしょう」といって提案したら、「お前は、日本でエアコンを使っていないのか、なんで押し付けるんだ」と言われるわけです。

 アジアには、地域の生態系で昔ながらの素朴でエコロジカルな仕組みが残っていたし、それに日本ももういっぺん学ぶべきだというのが問題意識だったのですが、今はそれが通用しない。正直言って、どう持っていけばいいかという事態が出現していると思います。

今村  日本では経済がずっとあまり良くないこともありますし、もう成長ではないと多くの人が感じて農業などに人々が目を向けるようになり、まさに地方の時代だという回帰があります。ただ日本の場合は、昔地域に根ざした農業などが、ある程度疲弊したところに今もう一回入ってつくろうとしているわけです。それで参考にアジアに見に行こうとすると、じつは、アジアも全然違った状況になっているということですね。

布野  日本と同じだと思ったほうがいいです。それがグローバリゼーションです。同時代的になっているから、ともに連携するとか協働するというように違う仕掛けじゃないといけないと思います。

 

歴史的、政治的な背景 

今村  台湾では割と日本がつくった近代遺産を大事にしているという話がありますが、一方韓国では、日本がつくったものをかなり嫌って、存在を消そうとしているところがあります。アジア全般では、ヨーロッパ人が残した産業遺産や近代遺産みたいなものを受け入れているのでしょうか。

布野  それはケース・バイ・ケースですね。ジャカルタにオランダがつくったバタヴィア城がありました。東京と同じぐらい歴史のあるジャカルタは面白いし、素晴らしい景観もあります。そのバタヴィア城をオランダの研究者が「復元したい」と言ったら、インドネシアの建築家やジャカルタ市長たちは嫌だと言う。決めるのはインドネシアの人たちですね。僕らは、まず「運河をきれいにしましょう、昔を再生して環境を戻しましょう」、オランダ風の跳ね橋が残っているので、それは残したらいいのではないかといった議論には加わりました。長崎とバタヴィアは関係が深いし、「じゃがたらお春」の存在もあります。バタヴィア城の復元は面白いと思うんですが、オランダの植民地支配の象徴にはすごく抵抗感がある。

 日本もそうですよね。各地にある城も封建制度の象徴だといって、明治維新以後つぶしてきました。姫路城でも二束三文だった。

今村  去年学生と韓国に行って、帰ってきてから気がついたのですが、ソウルの街に 20世紀の建築があまり見られないのです。やはり 20世紀前半は彼らにとっては日本の時代だから、その遺産を残したくない。そのあと戦後30年くらいは独裁期間だから、その頃のものも残したくない。彼らにとっては 20世紀の大半は振り返りたくない過去なのでしょう。ただ、今後を考える中では、その頃の研究がないことは大変ですし、韓国の人にとって20世紀の 8割が歴史から欠落していることは、なかなか厳しいことなのではないかと思いました。

布野  韓国には、日帝時代以前から、秀吉が朝鮮の建築を全部焼いてしまったというような歴史があります。ただ、それなりに建築家は育ってきています。キム・ジュコン(金壽根)は東京藝大にいて、その後韓国で空間社を設立します。そのお弟子さんたちがいて、僕と同い年だったチャン・セヤン(張世洋)という建築家、張世洋の後輩のショウ(承孝相)さんという建築家は空間社を継がなかったけれども、今結構いろいろな建築をつくっています。確かに日帝時代は日本がつくっていて、日本も近代化しながら韓国に持っていっていますから、だから日本化が近代化のようなところがあります。ただ、戦後ル・コルビュジエの事務所に行っていた人や、日本に来ていた人、そのあたりが僕と同じ世代で、そこから若いお弟子さんたちが出てきています。

今村  布野先生は韓国の本を出されていて(『韓国近代都市景観の形成日本人移住漁村と鉄道町』布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民共著、京都大学学術出版会、 2010年)、日本化について触れられていますが、あのような研究は現地で抵抗がなかったのでしょうか。

布野  僕が東大の研究室にいた頃、先輩に朴勇喚先生が、漢陽大学で偉くなるんですが、同じような研究をしています。日式住宅についてですが、本国で発表できずに日本で出版しました。そのあとは都市計画制度を日本が持ち込んで制度史が先行したのです。ところが制度史だとソウルや釜山など大都市の話になりますから、我々は鉄道町や日本人の移住漁村を研究し、その頃は、もちろん韓国からの留学生がいましたし、韓流ブームもありましたから、調査もそれほどきつくなかったですね。

今村  それこそ、この数年だったら難しかったかもしれませんね。

布野  そうかもしれません。でも大学などアカデミックなところでは全然問題がなくて、そういうレベルでもいろんな話ができますね。

 

日本の建築家がアジアでできること 

今村  アジアのお話の最後に、建築家はアジアで何をすべきか、また JIAの建築家はアジアでもっとこういうことをやればいいのではないか、ということはありますか。

布野  日本は今空き家がいっぱいあってストックの時代だし、メンテの時代ですね。身近な仕事だとリノベーションとかリニューアルしかありません。今の若手建築家は、デビューのチャンスがない。おそらく JIAの会員の若い建築家もまずはリノベーションから出発することになる。学生には、これから日本で仕事をしていこうと思ったら、まずメンテナンスでしょうと言ってきました。だから環境工学、設備工学を一所懸命に勉強しなさいと、絶対にそのほうが仕事がある。それと一方で「新築の建築をつくりたければアジアでしょ」とずっと言ってきました。建物が建つところでないと仕事ができないですからね。だから「まず中国、次はインドですよ」と言ってきた。アフリカや中東はいまのところいろいろ危険もある。中国には、僕が言わなくても、結構多くの若い建築家が出ていきましたね。ポリティカルな問題がいろいろあって、今は撤収気味ですが、一時期はみんな行った。ただ、海外でやる場合、どういう方法論、どういう理論をもとに何やるかが問われると思います。

 インドネシアに行ったときには、現地で何ができるかを考えました。日本の戦後まもなく、建築計画学は、51Cという平面型を解答としたわけですが、材料も構法も考えないといけないと思いました。どこから材料を持ってくるか、現地で何が取れるか、次に、人々がどういう生活や暮らしをしていて、どういう空間を欲しがっているかを当然調べます。それは日本にいても一緒ですね。沖縄で設計する場合と北海道で設計する場合を考えても違うでしょう。気候を考えて、どんな建材屋さんがあるのか、どんな工務店の職人がいるのか調べるわけでしょう。それはアジアでも一緒です。

 あとひとつはまちづくりです。少子高齢化で地域社会が衰退しているから、そのお世話をする。建築家はクライアントに対して仕事をしてきたわけですが、コミュニティを代弁して自治体とつなぐ役割がある。コミュニティ・アーキテクトですね。すでに JIAもそういうことを主張していると思うし、国際委員会もあるわけですから、アジアでやることは山ほどあると思います。日本の建築家は、アジアで様々な建築モデルをつくったりすることを、もっとやるべきだと思います。やる仕事はたくさんあるんではないでしょうか。

今村  日本でも建築家という定義が曖昧ではありますが、建築家といってアジアに乗り込んでも、それこそ、向こうの人は理解してくれないのではないかという危惧があります。例えば、ゼネコンが入ってアジアで仕事をするのと、いわゆるヨーロッパ的な概念の建築家がアジアに行った場合とどのような違いがあるのでしょうか。

布野  アジアといってもいろいろありますが、コモンウエルスのスリランカのモラトゥワ大、シンガポール大などはRIBAに準じてディプロマを取得すれば建築家の資格を与えます。マレーシアなども、留学する場合はみんなイギリスに行って、帰ると結構ヨーロッパ並みの待遇になる。東南アジアについては宗主国がヨーロッパだから、ヨーロッパへ留学するのが少し前までは主流でしたね。

今村  以前、いわゆるアトリエ系のような建築家がハノイにどれくらいいるのかと聞いたとき、 5人くらいだと言われたことがありました。

布野  ベトナムは、今は建築技術者が足りない。だから大学で建築学科の設立ブームです。そういうところに日本の建築家が教えに行ったらいいと思います。マクロに見たらそういうことで、建築系の技術者はどのくらいの層がいて、どのくらい必要で、どこで育てるかという問題ですね。

今村  一緒につくろうとか、技術を教えようというと分かりますが、クライアントから普通に住宅の設計を依頼されるつもりでアジアに行ったとしても、仕事にならないのではないでしょうか。

布野  何を持っていくかによるでしょう。つまり、腕と技術を持っているかどうかです。現地の職人のレベルとか、そういうものを全部受け入れたうえで、表現を組み立てられる能力を持った人が行くべきですね。

今村  スター建築家が招聘されるのとは全然違うわけですから、単にビジネスチャンスがあるからといってブラッと行って仕事になるわけではないということですね。

布野  大建築家が呼ばれて現地の建築家と JVでやったとしても結局みんな苦労しますよね。それは建築家と建築の関係はやはり「地」のものだということがあると思います。「地」をどう読んで、「地」からどう組み立てていくかについてはトレーニングが必要だし、 JIAからもそういう経験を積んだ建築家がたくさん出ていいと思います。

 

オープンなコンペを実施するために 

今村  それではここからは、布野先生がいくつか続けて関わられているコンペについてうかがいます。

布野  1970年代に、家協会で公取問題がありましたね。会員の建築家が倫理規定違反を問われたわけですが、逆に業務独占について訴えられた。独占禁止法に引っかかるということで公正取引委員会が問題にすることになったわけです。僕は、家協会に所属する建築家が特権的に設計料率を決めているのは、実態としてダンピングがあるし、問題だと思っていました。また、倫理というのは団体の名において守るものではない、と思っていました。公取問題以降、国に業務報酬規定をつくってほしいということになっていきました。建築家は、いくらでも時間を使うし、知恵も使うし、もちろん建築家にも能力の差もありますが、それはそれとして、家協会は、一方で、公共建築の設計者選定のルールのようなものを主張していた筈です。けれども、首長さんとか自治体などが公共建築を発注するときには、どうもそうなっていかない。大学にいて、これまでいろんな設計者選定委員会に関係してきたんですが、なかなかすっきりしない。

 デザインビルドと設計施工分離の問題、組織事務所対アトリエ派建築家、建築界に様々な対立構造があって、住民のための公共建築を選ぶ仕組みになっていない、と思うことがしばしばありました。世間では、コンペは談合システムと思われている場合もある。そうした中で、相談を受けると必ず提案してきたのが「公開ヒヤリング」方式です。これは一石三鳥くらいの仕組みだと今でも思っています。

 可能な限り建築家に負担をかけずにアイディアを出してもらう、可能な限り若い世代に機会を与える、そして、もうひとつ、地域の建築家を基本に考える。その仕事の機会をむやみに奪わない。規模によって、技術レベルによって応募者の範囲を考慮する。大規模な新しい文化センターやオペラハウスなどと地域の小規模な施設の設計のランクを分ける。国際的な知恵を借りるもの、日本全国の知恵を借りるもの、地域の知恵でいいといったように分けた上で、可能な限りオープンにして進めていく、といったことが原則です。たまたま縁があって、滋賀県守山市の宮本和宏市長が建築学科出身だというので、「こうやってやればいいじゃない」と提案すると、「それは面白い、やってみましょう」ということになったのです。

今村  1つ目はどれですか。

布野  守山中学校で石原健也さんが最優秀賞を取りました(写真⑧)。次が守山市立浮気(ふけ)保育園で藤本壮介さんが取りました。最初守山中学校の案を募集したら、いかにコンペがなかったのか、応募が 100近かった。次の浮気保育園ではもっと増えました。

 3つ目は、今度は市ではなく滋賀県で滋賀県近代美術館を増築する(滋賀県新生美術館)というので、知事に説明したら実施することになりました。プログラムが問題で、参加資格のハードルについてちょっとレベルが高くて頑張りきれなかったかもしれません。SANAAがとりました(写真⑨)。新国立競技場の場合も、技術的なプログラムの詰めが甘いから、今これだけ問題になっているのだと思います。

 小学校や保育園というのは地元だけでもできます。市民、住民にもプログラムを分かってもらえて、こういう中学校をつくること、省エネはこういうことを考えていると知らせる機会にもなるんです。三日月知事もこれ以後、「公開ヒヤリング」方式でやれと言っていると聞きました。

 その間に千葉の鋸南町(きょなんまち)で同じ方式でコンペをしました。鋸南町立中央公民館です。日大の広田直行先生、斎藤公男先生の仕掛けなんじゃないかと思いますが、「布野が面白いことをやっているから委員長にしろ」ということになって。 N.A.S.A設計共同体(NASCA+設計組織ADHarchitecture WORKSHOP+空間研究所)が取りました。

今村  最近は、単に建設量も減っているからだとは思いますが、それを差し引いても 20年くらい前に比べてコンペが極端に減りましたので、このコンペのことは結構建築界で話題になりました。

布野  僕がやったのは島根方式といって、島根で 6つくらいやっているもので結構評価を受けていると思っています(写真⑩abcd)。新居千秋さんが取った「悠邑ふるさと会館」(1996)。それから、渡辺豊和さんが取った「加茂町文化ホール」(1994)などもあります。あとは高松伸さんが取った七類の「メテオプラザ」(1994)もそうです。あんまりやると、どうしても力量的に県外の建築家が取ってしまいますので地元としてはおもしろくありません。ですから、いろいろ仕組みをつくって、地元のこともちゃんと考えて JVを組むなどきちんとケアしないといけない。本当はそれぞれ県単位とかで、タウンアーキテクトのような存在をつくっていくことをJIAがやるべきだと思いますし、 JIAもそのようなことは、ずっと言っているはずです。

今村  各自治体の長の方がコンペをやりたい、でも、どこに頼んだらいいか分からないし、特定の人に頼むと問題がある。そんな時に JIAに頼めば、適切な運営の仕方をサポートし、そのときに審査員の推薦をしたりすることがもっと浸透すればいいのですね。

 布野方式では、審査はオープンなのでしょうか。

布野  審査は公開で行い、1段階目はハードルを下げたオープンコンペです。お金は一切出さなくて、自発的に応募してもらいます。

今村  1段階目は完全に誰でも応募できるのでしょうか。それとも、一級建築士というだけではなくて、ある程度キャリアを持つ人なのでしょうか。

布野  それは場合によりますね。規模にもよりますし、例えば、 JIAとか建築士会などが主催する場合は、やはり資格を持っているという条件になるのはしょうがないことです。守山中学校のとき、竹山聖さんは「誰でもいいじゃない。中学生でもいいじゃない」と言ったけれど、さすがに地元のことを考えるとそれは難しいですよね。一定の資格をもっている人で、その資格用件はプログラムの内容や難しさで決めます。できるだけ広い知恵を借りるのが第1段階です。

今村  第2段階の審査も公開で行うのでしょうか。

布野  はい。その際には応募者にお金を出します。ですから何人選ぶかは予算によります。設計者はそのくらいの労力を使うわけだし知恵を借りるのだから、無償はおかしいと言います。

 それと同時に、審査員も全員壇上で顔を見せます。ライバルが言うことも聞いている。下手なシンポジウムよりもよっぽど面白いですよ。緊張感があります。

通常は、一社ずつ密室に呼び込んでヒヤリングするわけですよね。時間もかかる。僕は菊竹清訓先生が最優秀を取った島根県立美術館のコンペの委員をしましたが、委員長だった大髙正人先生から「嫌なことは全部お前が聞け」と言われて、岡田新一先生とか、応募者の大先生に「ここが問題なのですけれど」と尋ねる嫌な役を全部引き受けたことがあります。

今村  それはクローズドなのでしょうか。

布野  クローズでワン・トゥ・ワンでした。

今村  周りは何を聞かれているか分からないのですね。

布野  周りにライバルがいたらウソや調子がいいことを言えないですから。

今村  布野方式だと、応募者同士お互いに意見を言い合ってもいいのでしょうか。

布野  僕が主催すると、振りします。コーディネートに力量が要るとは思います。

 滋賀県新生美術館のときは、応募者の建築家が別の建築家に「これは費用がかかりますよ」と主張したんです。すぐ反論してもらいました。建築に詳しくない委員は、そういう意見を聞くと左右されてしまうこともあります。特に行政側の審査員は、「ああ、そうか。安いほうがいい」と思って票を入れるから、必ず反論してもらうようにします。滋賀県新生美術館の時は、それどころか、プログラムがおかしい、われわれの案しかない、という主張がありました。他の応募者の全員に意見を求めました。応募案が大きく分類できて、審査員にとっては、プログラムの当否も見直したうえで判断する材料になったと思います。

 

専門家が責任を持って設計者を選ぶ 

今村  結果発表まで壇上で出すのですか。

布野  それはやりません。あくまでも審査委員会で専門家がやることを原則にしています。住民投票でもいいと言う人もいますが、様々な問題があります。すごくもめている敷地などでは当然反対派がいたりしますから、議論の場が成立しないのです。また、全ての住民に投票してもらえるわけでもありません。あくまでも、情報は全てオープンにしますけれど、決めるのは専門家の委員会です。説明責任は当然あります。その経緯は、委員長名で、全部文書で出します。クレームが出て、それが妥当であれば、審査委員会の責任となります。審査員が悪いということになるかもしれません。次はその人たちに審査員をさせないということになるでしょう。

今村  確かに全部オープンというのはフェアなようですが、逆にいうと、建築家もお互いに知っていますから、審査員は候補者を決めづらいですよね。どうしても気を使うというのが絶対にありますから。

布野  審査員の問題ですね。建築家が審査委員になると、次に逆の立場になるから、いろいろ勘ぐられてしまう。磯崎さんが熊本アートポリスでやったように、その地域では仕事をしない、という原則が成り立てばいいのですが。各県にいっぱい大学があるから、設計実務には直接関わらない研究者が審査委員をつとめるのが、一番現実的かもしれません。それこそ、JIAとか、AIJが支援すべきなんです。でも、仕組みとしてはそれほどお金がかからないし、すごくいいと思いますよ。設計者選定の仕組みを説明すると意欲のある首長さんはだいたい「おっ、やってみよう」となります。オープンにしたほうが議会を通りやすい。「こうやって決めましたよ」といえば、説明責任を果たしやすいはずです。

今村  役所も手間をかけずにやりたいわけですね。

布野  大きい組織のほうが安心なのです。事務局として、担当部署としてはやりやすい。また、安く簡単に審査したいから「実績」重視になっていくわけです。

今村  コンペのプロセスでも、いくつもの応募作を見てやりとりするより、あらかじめ決めて 5名くらいでやっていくほうが早い。おそらく、デザインビルドの問題もそうですが、自治体の力がなくなっているのかもしれません。あと、役所に建築の分かる人が減っていることは明らかなようです。

布野  JIAが頑張ってくれないと楽しくならない。昔は、特権性が気になっていたけど、今は応援しますよ。

今村  応援ではなくて、はっきり「 JIAは何をやっているんだ、 JIAがやらないから自分がやっているんだ」と布野先生に言っていただく方がいいのかもしれません。

布野  とにかく、特に若い人が建築家デビューできるようにしないといけない。

今村  若い世代に継続するシステムが、ちょっと今は壊れていると思います。ヨーロッパのある国では、コンペで候補者を 5名とすると、 1名は必ず経験がない設計者を入れなくてはならないという仕組みがあるそうです。コンペに落ちても若手に必ず経験させる。それを何回かやっていると取れるようになるというように、若い人を入れる決まりがあるようです。規模が小さいとか、経験がないから応募できるというようなコンペがあると良いですよね。

布野  それはいいですね。しかし日本の社会では難しいかもしれない。ないものねだりしてもしょうがないから、まず、トイレから始める。行政は手間がかかってもトイレをコンペに出す。小規模な公共建築をまず経験して、 1,000万円のコンペを取ったら、次は 5倍までの規模のものまでいい、その次は・・・という仕組みにすればいいと思います。結構有名な建築家だって入札不調とかいっぱい起こすわけで、批判も多いですからね。

今村  役所も継続して発注していないとノウハウがなくなってきて、そもそも 20年も建築家に頼んでいないから、面倒くさいからゼネコンに頼もうというように、デザインビルドは楽だという方向に行ってしまいます。

布野  規模によりますが、それこそヨーロッパでもかなりデザインビルドが増えているのではないでしょうか。

今村  アメリカが選択したことが大きいみたいですね。 AIAはデザインビルドを先行して認めたのです。

布野  建築学会にも発注者制度について研究している先生がいます。建築家も設計だけで勝負しようとしたって負けてしまう。小さな住宅スケールの仕事だけだと、設計料だけで食えないのははっきりしています。だから、C.アレグザンダーのいうアーキテクトビルダーがひとつの方向だと思ってきました。大谷幸夫先生も大工・工務店と連帯せよ、とおっしゃっていました。施工もやるし、材料調達や、それから物品の仕入れも、CM PMだってあるわけだから、いろんなやり方をしていかなければならないと思います。建築家もそこが嫌いだと言っていたり、ふんぞり返って「アーキテクトでございます」と言っていたりでは、なかなか仕事は獲得できません。だから、僕は 2000年に『裸の建築家』(建築資料研究社)という本を書いたのです。建築家も自分なりの武器をちゃんと持っていてください、そういう意味です。

今村  今日は2つのテーマで、貴重なお話をいただきました。ありがとうございました。

201562日 JIAにて収録)

 

布野修司(ふの しゅうじ)略歴

日本大学特任教授。1949年,松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学,地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年),『近代世界システムと植民都市』(編著,2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年),『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。

 

 












2022年3月9日水曜日

エイジアン・デザイン,日本建築学会近畿支部50周年記念出版,199711

 エイジアン・デザイン,日本建築学会近畿支部50周年記念出版,199711


エイジアン・デザイン

布野修司

 

 アジアの建築デザインの最近の動向をめぐっては、村松伸の『アジアン・デザイン』(1997年)がある。『MIMAR』というシンガポールを拠点にする雑誌があって、イスラーム圏の建築デザインの動向を伝えていたけれど最近は出ていない。韓国には『空間』『理想建築』があり、中国に『建築学報』があるけれど、そうした建築雑誌を眼にしている日本の建築家は少ないのではないか。そうした意味では、村松の著書は貴重である。アジア各国の17人の建築家をランダムに紹介するという形をとっており、とてもアジアのデザイン界の全貌を捉えたものとは言えないけれど、各国における建築家の社会的位置づけについて包括的見方をしていて興味深い。

 誤解を恐れず要約すれば、それぞれの社会の経済的な発展段階によって求められる建築家の役割は異なり、デザインの動向も異なる、ということである。

 わかりやすいのは、各国のリーディング・アーキテクトの動向である。戦後日本が、国際社会に復帰し、高度経済成長を遂げるなか、東京オリンピック開催(1964年)とともに、その代表的な代々木屋内競技場を設計することによって丹下健三という国際的なスター・アーキテクトを生んだのと、韓国がやや遅れて高度成長を遂げるなか、ソウルオリンピック(1988年)において、金寿恨を必要としたのはパラレルなのではないか。また、いまマレーシアで、国立スタジアムを設計するケン・ヤングに求められているのは同じ役割ではないか。ある国家の国際社会におけるプレゼンスがオリンピックのような国際的なイヴェントのための施設の表現として問われてきた歴史は確かに明らかである。また、万国博覧会の歴史も丹念に見てみれば、産業社会における最先端の建築家の役割が浮かび上がるだろう。

 より一般的な建設活動に関していえば、建築家に仕事を依頼する層が生まれなければ建築家は生まれないということがある。例えば、住宅を自ら建設する中間層が成立しなければ住宅の設計を生業とする建築家はありえない。韓国では、現在既に日本と同じように「国家の建築家」とは違う一般的なレヴェルで、多くの建築家が活躍しつつあるけれど、アジアの多くの発展途上国では建築家は一握りの特権階層にすぎない。一方「社会主義」中国ではかなり様相が異なる。同じ中国でも、歴史を分かった台湾、チベットも興味深い。ポストモダン超高層マンションを手掛ける台湾の李宋源を支えるのはディベロッパーたちである。一方、チベットでは伝統的な棟梁の血を引くのが建築家である。村松の著書はそうした違いを考察している。

 こうした社会構造と建築家の存在をめぐる図式は、明らかに日本を(ひいては西欧を)モデルとする発展史観に基づいているといっていい。建築家の社会的ステイタスでもって遅れてる、進んでるというのは問題がある。それ以前に、そもそも建築家とは何かという建築家像をめぐって大きな議論があるだろう。しかし、建築家の存在が社会経済的構造に大きく規定されていることは明らかなことである。

 国際的な経済動向によって、国外からすぐれた建築家が招かれる。これも事実である。バブル期の日本は多くの建築家を欧米から招いた。21世紀はアジアの時代だと多くの建築家がアジアに眼を向けている。コールハウスにしても香港に拠点を構えている。また、アジア各国に欧米で学んだ建築家の層が数多く生まれている。そして、アジアの各国の間で情報交換が進み、交流も生まれてくる。建築デザインの国際化を支えるのは大ざっぱに以上のような国際社会(経済)の動向である。

 さて、そこで「エイジアン・デザイン」とは何か。

 本稿のタイトルを頂いてかなりの違和感をもった。「大東亜建築様式」「東洋趣味」という言葉をすぐさま思い起こすからである。事実、かっての「亜細亜(東洋)様式」を今日的に言い換えたのが「エイジアン・デザイン」なのではないか、というのが直感である。

 第一に、こうした概念が歴史的にどういう役割を担ったのか、が明らかにされなければならない。第二に、こうした概念がいまどのような政治的な意味をもつのか、が問われなければならない。こうした大きな問題を論ずるにはとても紙数が足りない。近代日本の建築家と「アジア」をめぐっては別項に譲りたい(拙稿「近代日本の建築とアジア」参照。『建築思潮』03「特集=アジア無限」所収、1995年)。

 最低確認すべきは、デザインの国際化ということで「エイジアン・デザイン」という概念を持ち出すのは極めて日本的(日本の近代建築史の特殊な脈絡を否応なく想起させる)だということである。また、西欧世界のオリエンタリズムをめぐっての議論を想起せざるを得ないということである。

 デザインの国際化ということで問われるべきは、「エイジアン・スタイル」という形で一括されるデザインではないのではないか。国民国家(ネーション・ステート)の成立とその表現は密接に関わり合う。建築における「日本的なるもの」がナショナリズムの昂揚の中で問われてきたように、各国においてナショナルな表現が問われることは当然である。国民国家の成立にとってナショナルなものの共有が不可欠である。

 しかし、「インド的なるもの」「中国的なるもの」「マレーシア的なるもの」「インドネシア的なるもの」を考えてみると、「日本的なるもの」をめぐる議論とは相当異なることがわかる。例えば、インドネシア。無慮1,3000の島からなり、300を超える民族がそれぞれ固有の建築的伝統をそれぞれの地域で育んできた。そういう国でナショナルな建築表現はどう成立するのか。

 「多様性の中の統一」(Unity in Diversity)。インドネシアに限らず、多くの多民族国家のスローガンである。言語の統一、標準語の採用、国民文学、国民音楽の成立、一定の教育制度の確立などは国民国家の成立と不可分である。例えばインドネシアでは、西欧音楽も含めた様々な伝統音楽が結合して出来たクロンチョン音楽(ブンガ・ワン・ソロのような、あるいはハワイアンのようなゆったりとしたメロディアスな音楽)が国民統合の役割を果たした。

 しかし、建築的表現となるとどうか。ミナンカバウ、バタック、トラジャ、バリ・・・あまりにも地域固有で民族固有である伝統的建築様式をひとつに統一することなどありえないように思える。日本でも本来そうであったし、事実、日本の民家の地域性はこれまで問題にされてきた。「日本的なるもの」の建築的表現を土着的なものに求めるとすると地域の固有性が浮かび上がってくる。北海道と沖縄の建築(住居)様式を一緒にするわけにはいかない。しかし、材料にしろ、平面にしろ、架構法にしろ、形態にしろ、インドネシアの場合、日本に比較してはるかに多様である。結論を先取りしていえば、「エイジアン・デザイン」というものは多様なそれぞれのデザインということである。従って「エイジアン・デザイン」などないということである。百歩譲って「多様性の中の統一」という建築デザインがあるとして(ポストモダン、分裂症的折衷主義!)、まず、例えばインドネシアにおいて「インドネシア建築様式」が設定できないのだから、「エイジアン・スタイル」など成立するわけがないではないか、ということである。数寄屋や茶室を「わび」「さび」の日本精神と結びつけて「日本的」建築表現を成立させる日本がよほど特殊である。

 そこで、デザインの国際化である。問題になるのはモダニズムのデザインである。また、ポストモダニズムのデザインである。再び、インドネシアを例にとれば、ジャカルタの都心に林立する超高層ビルの頂部は様々な形をそれぞれに誇示しつつある。わかりやすくいうと「ポストモダン帝冠様式」である。四角い箱形の超高層ビルが世界中の大都市の都心を覆ったのとは明らかに違う。しかし、国際化という意味では同じ位相にある。ジャカルタの超高層ビルを設計するのはアメリカ、イタリアなど西欧の建築家(ポール・ルドルフの名前もそこにある)であることもあるが、明らかにそうした国際化の動向を支えるの建築情報メディアである。

 デザインの国際化という意味では、「あらゆるデザインが等価である」、そんな時代をもうしばらくまえからわれわれは生きだしているといっていいのである。

 しかし、あるいはそれ故に、デザインの国際化ということが一体何を意味するのかが問われなければならないだろう。例えば、日本の建築家が海外(アジア)に出かけて行くとする。彼は何を根拠に一体何を手がかりにデザインするのか。インターナシュナルスタイルのデザインが素朴に信じられた時代、それは問う必要のない問いであった。ポストモダン時代のインターナショナリズム(ポストモダニズムがモダニズムのインターナショナリズムに対して用いられるとすれば矛盾に満ちた言い方である)はなんでもありである。というと建築家の個人的趣味を勝手に表現すればいい、ということか。かなり可笑しい。というか、極めて表層的な議論に終始する。

 こうして問題は、すなわちデザインの国際化という問題は、単に表層デザインの問題ではないことがわかる。そして必ずしも「国」の境界「際」をめぐる問題ではない、ということである。おそらく「地域」の「際」が問題になる。そして「地域」とは何かが問われるであろう。デザインの国際化という問題は、根底において、建築の生産と表現がどのような範囲「地域」で成立するか、という問題とおそらく全く同じなのである。

 


2022年3月8日火曜日

2022年3月7日月曜日

雛芥子の頃,著書の解題『神殿か獄舎か』,INAX REPORT No.168,20061020

雛芥子の頃,著書の解題『神殿か獄舎か』,INAX REPORT No.16820061020

                            布野修司

 

 長谷川堯さんと僕は同郷である。堯さんは、玉造温泉の出身で、松江高校卒業、僕は出雲市で生まれて、松江で育って松江南高校を出たから、先輩後輩の関係である。とは言え、一回り違って、同じ「丑」歳でもある。などと書くと、いかにも親しげであるが、多少なりとも親しくさせて頂いたのはずっと後のことであり、『神殿か獄舎か』(1972)を手にした頃、長谷川堯さんは、若い建築学生たち憧れのスターであった。正確に言うと、スターになる予感があった。

当時、僕らは東大建築学科の製図室に屯(たむろ)していて、「雛芥子(ひなげし)」を名乗って、テント芝居(黒テント(佐藤誠、津野海太郎、佐伯隆幸、・・・)、大駱駝館(麿赤児))のプロデュースをしたり(緑マコ主演『二月とキネマ』、安田講堂前)、ドイツ表現主義の映画会を催したり、演奏会、講演会などに忙しかった。「雛芥子」を名乗ったのは、少し先輩格の、武蔵野美術大学を中心とする真壁知治、大竹誠らの「遺留品研究所」や東京芸術大学の元倉真琴、松山巌、井出建らの「コンペイトウ」の向うを張ったのである。「雛」をつけたのは、愛嬌である。創刊されたばかりの『TAU』(商店建築社)という雑誌に、講演会の記録を書かせてもらったのがなつかしい。「僕ら」とは、杉本俊多(広島大学)、三宅理一(慶応大学)、千葉政継(宮城大学)、戸部栄一(椙山女子学園)らである。多くが教師になっているのが何かを意味するだろう。

誰かが「長谷川堯は面白い!」といい、講演を頼みに連絡をとり、新宿歌舞伎町の喫茶店で会ったのが堯さんとの初めての出会いである。同郷であることをその時知った。結局、『神殿か獄舎か』に全精力を使って疲れ切っているという理由で講演は断られたのであるが、議論は弾んだ。初対面の記憶は今でも鮮烈である。

 

 『神殿か獄舎か』にまとめられることになる論考が『近代建築』誌に連載されている時から僕らはそれを読んでいた。磯崎新の『建築の解体』(1975)についても同様で、そのもとになった『美術手帖』の連載は必読論考であった。これは、いわゆる「全共闘世代」に共通だったと思う。60年代末から70年代初頭にかけて孕み落とされた『神殿か獄舎か』と『建築の解体』は、若い世代に圧倒的に影響力を持ち、その後の日本の「建築のポストモダン」を方向付ける二冊となったのである。

 『神殿か獄舎か』のわかりやすさは、そのタイトルの二分法に示されている。近代建築を主導してきた流れを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ、と説く。「神殿志向」の代表が、前川國男、丹下健三とその弟子たちであり、磯崎新もそこではばっさりと斬られている。それに対して、大正期の建築家たち、中でも「豊多摩監獄」の設計者である後藤慶二が称揚されている。続いて出版された『都市廻廊』『雌の視角』も同様で、中世か近代か、「雄」か「雌」か、という明快な二分法が論法の基軸になっている。「雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)のことである。

 僕自身、「昭和建築」を近代合理主義の建築と規定し、「大正建築」を救う、という長谷川堯の歴史再評価の試みには大きな刺激を受けた。一九七六年の暮れ、堀川勉、宮内康らとともに「昭和建築研究会」という研究会を設立したのだが、長谷川堯の一連の著作のインパクトが大きいことは、その名に示されているだろう。要するに、「昭和建築」を全面否定するのではなく、その中に可能性を見いだそうという対抗意識があったのである。「昭和建築研究会」は、まもなく「同時代建築研究会」と改称、宮内康の死(1990年)まで活動を存続する。宮内康の遺稿集『怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)は、『神殿か獄舎か』の時代をよく伝えている。「同時代建築研究会」は、長谷川堯と磯崎新をゲストとするシンポジウムも行っている(『悲喜劇・1930年代の建築と文化』、同時代研究会編、現代企画室、 1981年)。

 僕は、1981年に、初めての論考『戦後建築論ノート』(相模書房、改訂版『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995))を出すが、その中で長谷川堯の歴史評価についてかなりのスペースを割いている。長谷川堯の近代建築批判の内容には大いに共感しながらも、歴史を遡るだけのように思えたその方向性には、いささか不満だったのである。若い世代が「戦後建築」をどう乗り越えるか、が問題ではないか、という思いが強かった。この点では、磯崎新の『建築の解体』の、「近代建築」の流れを前提にした「近代建築」批判の試みの方に、むしろ共感していたと言っていい。全く方向を異にしているように思える二つの著作が同時に読まれた背景は、近代建築の乗り越え方にかかっていたのである。

 ひとつの大きなテーマは、戦前戦後の連続・非連続の問題、なかでも「帝冠(併合)様式」の評価の問題であった。長谷川堯は、「帝冠様式」を日本の近代建築が成立するに当たって必要な「排泄物」のようなものだと片づけてしまうのであるが、日本ファシズムと表層的なデザイン規制をめぐる問題はもう少し根が深いと思えていた。この問題は、「ポストモダニズムの建築」が跋扈するに従って「同時代的」な問題となったし、現在も「景観問題」が大きく浮上するなかで未だに継続している小さくない問題である。結局、近代建築批判が安易に見いだしたのは、様式や装飾の復活を素朴に標榜するポストモダン歴史主義の流れである。長谷川堯の仕事は、そうした表層デザインの流れとは無縁であったと思う。しかし、その主張はその流れと明らかに重なって受容れられていった。結局は、『神殿か獄舎か』は深いところでは読まれなかったのかもしれない。「獄舎づくり」の伝統は遙かに長く深い流れをもっている。その後の長谷川堯の仕事は歴史をさらに大きく見つめ直す方向へ向かい、ポストモダニズム建築をめぐる喧騒から遠のいていくことになるのである。




2022年3月6日日曜日

アジアンスタイル,統一日報,19970614

 アジアンスタイル,統一日報,19970614

 

アジアンスタイル 村松伸著 書評

 

 一七人のアジアの建築家たちについての評論集である。また、それぞれの建築家の作品がカラー写真で紹介されている。

 中国(北京)の馬国馨、マレーシア(クアラルンプール)のケン・ヤングのように国家を代表する建築家もいれば、チベット(ラサ)の策郎(スオラン)のように著者たちが苦労して探し当てた建築家もいる。その意表をついた組み合わせがまず面白い。

 全て現地を訪れ、著者に会い、話し合い、実際に作品を見た体験をもとに本書は書かれている。臨場感あふれる文章が魅力的である。かといって、ひたすら建築家とその仕事を誉め上げ、丁寧に紹介しようというのではない。常に、その建築家をクールに位置づける眼がある。しばしば、痛烈な批判も記されている。一七人の建築家たちは見事に料理されているのである。紹介のスタイルをとったアジアの現代「建築家」についての論といえるだろう。

 そうした意味で興味深いのは、「アジア現代建築と一七人のアジア建築家たち」と題された終章(あとがき)である。それぞれの国の経済の発展段階において、どのような建築家が社会的に必要とされるか、また、どのような建築デザインのテーマが要請されるかが見事に解析されているのである。「普遍性」と「地域性」、「オリジナリティ」あるいは「アイデンティティ」といった概念がそれぞれに問われているのである。

 気になることがあるとすれば、「アジアン・スタイル」というタイトルである。著者も認めるように、一七人の建築家たちはアジア各国から選ばれているわけではない。それぞれの国の建築家はひとりかふたりで代表されるわけではない。「アジア」あるいは「アジアンスタイル」という概念で、無数の多様な運動を一括する態度には大いに違和感がある。さらに、個々の建築家を一方的に位置づける視線も気になる。それぞれの建築や町をどうつくるかをめぐって、本書がここで取り上げられた建築家を含めたかたちで多様な議論を巻き起こすことを期待したい。