このブログを検索

2022年3月9日水曜日

エイジアン・デザイン,日本建築学会近畿支部50周年記念出版,199711

 エイジアン・デザイン,日本建築学会近畿支部50周年記念出版,199711


エイジアン・デザイン

布野修司

 

 アジアの建築デザインの最近の動向をめぐっては、村松伸の『アジアン・デザイン』(1997年)がある。『MIMAR』というシンガポールを拠点にする雑誌があって、イスラーム圏の建築デザインの動向を伝えていたけれど最近は出ていない。韓国には『空間』『理想建築』があり、中国に『建築学報』があるけれど、そうした建築雑誌を眼にしている日本の建築家は少ないのではないか。そうした意味では、村松の著書は貴重である。アジア各国の17人の建築家をランダムに紹介するという形をとっており、とてもアジアのデザイン界の全貌を捉えたものとは言えないけれど、各国における建築家の社会的位置づけについて包括的見方をしていて興味深い。

 誤解を恐れず要約すれば、それぞれの社会の経済的な発展段階によって求められる建築家の役割は異なり、デザインの動向も異なる、ということである。

 わかりやすいのは、各国のリーディング・アーキテクトの動向である。戦後日本が、国際社会に復帰し、高度経済成長を遂げるなか、東京オリンピック開催(1964年)とともに、その代表的な代々木屋内競技場を設計することによって丹下健三という国際的なスター・アーキテクトを生んだのと、韓国がやや遅れて高度成長を遂げるなか、ソウルオリンピック(1988年)において、金寿恨を必要としたのはパラレルなのではないか。また、いまマレーシアで、国立スタジアムを設計するケン・ヤングに求められているのは同じ役割ではないか。ある国家の国際社会におけるプレゼンスがオリンピックのような国際的なイヴェントのための施設の表現として問われてきた歴史は確かに明らかである。また、万国博覧会の歴史も丹念に見てみれば、産業社会における最先端の建築家の役割が浮かび上がるだろう。

 より一般的な建設活動に関していえば、建築家に仕事を依頼する層が生まれなければ建築家は生まれないということがある。例えば、住宅を自ら建設する中間層が成立しなければ住宅の設計を生業とする建築家はありえない。韓国では、現在既に日本と同じように「国家の建築家」とは違う一般的なレヴェルで、多くの建築家が活躍しつつあるけれど、アジアの多くの発展途上国では建築家は一握りの特権階層にすぎない。一方「社会主義」中国ではかなり様相が異なる。同じ中国でも、歴史を分かった台湾、チベットも興味深い。ポストモダン超高層マンションを手掛ける台湾の李宋源を支えるのはディベロッパーたちである。一方、チベットでは伝統的な棟梁の血を引くのが建築家である。村松の著書はそうした違いを考察している。

 こうした社会構造と建築家の存在をめぐる図式は、明らかに日本を(ひいては西欧を)モデルとする発展史観に基づいているといっていい。建築家の社会的ステイタスでもって遅れてる、進んでるというのは問題がある。それ以前に、そもそも建築家とは何かという建築家像をめぐって大きな議論があるだろう。しかし、建築家の存在が社会経済的構造に大きく規定されていることは明らかなことである。

 国際的な経済動向によって、国外からすぐれた建築家が招かれる。これも事実である。バブル期の日本は多くの建築家を欧米から招いた。21世紀はアジアの時代だと多くの建築家がアジアに眼を向けている。コールハウスにしても香港に拠点を構えている。また、アジア各国に欧米で学んだ建築家の層が数多く生まれている。そして、アジアの各国の間で情報交換が進み、交流も生まれてくる。建築デザインの国際化を支えるのは大ざっぱに以上のような国際社会(経済)の動向である。

 さて、そこで「エイジアン・デザイン」とは何か。

 本稿のタイトルを頂いてかなりの違和感をもった。「大東亜建築様式」「東洋趣味」という言葉をすぐさま思い起こすからである。事実、かっての「亜細亜(東洋)様式」を今日的に言い換えたのが「エイジアン・デザイン」なのではないか、というのが直感である。

 第一に、こうした概念が歴史的にどういう役割を担ったのか、が明らかにされなければならない。第二に、こうした概念がいまどのような政治的な意味をもつのか、が問われなければならない。こうした大きな問題を論ずるにはとても紙数が足りない。近代日本の建築家と「アジア」をめぐっては別項に譲りたい(拙稿「近代日本の建築とアジア」参照。『建築思潮』03「特集=アジア無限」所収、1995年)。

 最低確認すべきは、デザインの国際化ということで「エイジアン・デザイン」という概念を持ち出すのは極めて日本的(日本の近代建築史の特殊な脈絡を否応なく想起させる)だということである。また、西欧世界のオリエンタリズムをめぐっての議論を想起せざるを得ないということである。

 デザインの国際化ということで問われるべきは、「エイジアン・スタイル」という形で一括されるデザインではないのではないか。国民国家(ネーション・ステート)の成立とその表現は密接に関わり合う。建築における「日本的なるもの」がナショナリズムの昂揚の中で問われてきたように、各国においてナショナルな表現が問われることは当然である。国民国家の成立にとってナショナルなものの共有が不可欠である。

 しかし、「インド的なるもの」「中国的なるもの」「マレーシア的なるもの」「インドネシア的なるもの」を考えてみると、「日本的なるもの」をめぐる議論とは相当異なることがわかる。例えば、インドネシア。無慮1,3000の島からなり、300を超える民族がそれぞれ固有の建築的伝統をそれぞれの地域で育んできた。そういう国でナショナルな建築表現はどう成立するのか。

 「多様性の中の統一」(Unity in Diversity)。インドネシアに限らず、多くの多民族国家のスローガンである。言語の統一、標準語の採用、国民文学、国民音楽の成立、一定の教育制度の確立などは国民国家の成立と不可分である。例えばインドネシアでは、西欧音楽も含めた様々な伝統音楽が結合して出来たクロンチョン音楽(ブンガ・ワン・ソロのような、あるいはハワイアンのようなゆったりとしたメロディアスな音楽)が国民統合の役割を果たした。

 しかし、建築的表現となるとどうか。ミナンカバウ、バタック、トラジャ、バリ・・・あまりにも地域固有で民族固有である伝統的建築様式をひとつに統一することなどありえないように思える。日本でも本来そうであったし、事実、日本の民家の地域性はこれまで問題にされてきた。「日本的なるもの」の建築的表現を土着的なものに求めるとすると地域の固有性が浮かび上がってくる。北海道と沖縄の建築(住居)様式を一緒にするわけにはいかない。しかし、材料にしろ、平面にしろ、架構法にしろ、形態にしろ、インドネシアの場合、日本に比較してはるかに多様である。結論を先取りしていえば、「エイジアン・デザイン」というものは多様なそれぞれのデザインということである。従って「エイジアン・デザイン」などないということである。百歩譲って「多様性の中の統一」という建築デザインがあるとして(ポストモダン、分裂症的折衷主義!)、まず、例えばインドネシアにおいて「インドネシア建築様式」が設定できないのだから、「エイジアン・スタイル」など成立するわけがないではないか、ということである。数寄屋や茶室を「わび」「さび」の日本精神と結びつけて「日本的」建築表現を成立させる日本がよほど特殊である。

 そこで、デザインの国際化である。問題になるのはモダニズムのデザインである。また、ポストモダニズムのデザインである。再び、インドネシアを例にとれば、ジャカルタの都心に林立する超高層ビルの頂部は様々な形をそれぞれに誇示しつつある。わかりやすくいうと「ポストモダン帝冠様式」である。四角い箱形の超高層ビルが世界中の大都市の都心を覆ったのとは明らかに違う。しかし、国際化という意味では同じ位相にある。ジャカルタの超高層ビルを設計するのはアメリカ、イタリアなど西欧の建築家(ポール・ルドルフの名前もそこにある)であることもあるが、明らかにそうした国際化の動向を支えるの建築情報メディアである。

 デザインの国際化という意味では、「あらゆるデザインが等価である」、そんな時代をもうしばらくまえからわれわれは生きだしているといっていいのである。

 しかし、あるいはそれ故に、デザインの国際化ということが一体何を意味するのかが問われなければならないだろう。例えば、日本の建築家が海外(アジア)に出かけて行くとする。彼は何を根拠に一体何を手がかりにデザインするのか。インターナシュナルスタイルのデザインが素朴に信じられた時代、それは問う必要のない問いであった。ポストモダン時代のインターナショナリズム(ポストモダニズムがモダニズムのインターナショナリズムに対して用いられるとすれば矛盾に満ちた言い方である)はなんでもありである。というと建築家の個人的趣味を勝手に表現すればいい、ということか。かなり可笑しい。というか、極めて表層的な議論に終始する。

 こうして問題は、すなわちデザインの国際化という問題は、単に表層デザインの問題ではないことがわかる。そして必ずしも「国」の境界「際」をめぐる問題ではない、ということである。おそらく「地域」の「際」が問題になる。そして「地域」とは何かが問われるであろう。デザインの国際化という問題は、根底において、建築の生産と表現がどのような範囲「地域」で成立するか、という問題とおそらく全く同じなのである。

 


0 件のコメント:

コメントを投稿