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2022年3月7日月曜日

雛芥子の頃,著書の解題『神殿か獄舎か』,INAX REPORT No.168,20061020

雛芥子の頃,著書の解題『神殿か獄舎か』,INAX REPORT No.16820061020

                            布野修司

 

 長谷川堯さんと僕は同郷である。堯さんは、玉造温泉の出身で、松江高校卒業、僕は出雲市で生まれて、松江で育って松江南高校を出たから、先輩後輩の関係である。とは言え、一回り違って、同じ「丑」歳でもある。などと書くと、いかにも親しげであるが、多少なりとも親しくさせて頂いたのはずっと後のことであり、『神殿か獄舎か』(1972)を手にした頃、長谷川堯さんは、若い建築学生たち憧れのスターであった。正確に言うと、スターになる予感があった。

当時、僕らは東大建築学科の製図室に屯(たむろ)していて、「雛芥子(ひなげし)」を名乗って、テント芝居(黒テント(佐藤誠、津野海太郎、佐伯隆幸、・・・)、大駱駝館(麿赤児))のプロデュースをしたり(緑マコ主演『二月とキネマ』、安田講堂前)、ドイツ表現主義の映画会を催したり、演奏会、講演会などに忙しかった。「雛芥子」を名乗ったのは、少し先輩格の、武蔵野美術大学を中心とする真壁知治、大竹誠らの「遺留品研究所」や東京芸術大学の元倉真琴、松山巌、井出建らの「コンペイトウ」の向うを張ったのである。「雛」をつけたのは、愛嬌である。創刊されたばかりの『TAU』(商店建築社)という雑誌に、講演会の記録を書かせてもらったのがなつかしい。「僕ら」とは、杉本俊多(広島大学)、三宅理一(慶応大学)、千葉政継(宮城大学)、戸部栄一(椙山女子学園)らである。多くが教師になっているのが何かを意味するだろう。

誰かが「長谷川堯は面白い!」といい、講演を頼みに連絡をとり、新宿歌舞伎町の喫茶店で会ったのが堯さんとの初めての出会いである。同郷であることをその時知った。結局、『神殿か獄舎か』に全精力を使って疲れ切っているという理由で講演は断られたのであるが、議論は弾んだ。初対面の記憶は今でも鮮烈である。

 

 『神殿か獄舎か』にまとめられることになる論考が『近代建築』誌に連載されている時から僕らはそれを読んでいた。磯崎新の『建築の解体』(1975)についても同様で、そのもとになった『美術手帖』の連載は必読論考であった。これは、いわゆる「全共闘世代」に共通だったと思う。60年代末から70年代初頭にかけて孕み落とされた『神殿か獄舎か』と『建築の解体』は、若い世代に圧倒的に影響力を持ち、その後の日本の「建築のポストモダン」を方向付ける二冊となったのである。

 『神殿か獄舎か』のわかりやすさは、そのタイトルの二分法に示されている。近代建築を主導してきた流れを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ、と説く。「神殿志向」の代表が、前川國男、丹下健三とその弟子たちであり、磯崎新もそこではばっさりと斬られている。それに対して、大正期の建築家たち、中でも「豊多摩監獄」の設計者である後藤慶二が称揚されている。続いて出版された『都市廻廊』『雌の視角』も同様で、中世か近代か、「雄」か「雌」か、という明快な二分法が論法の基軸になっている。「雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)のことである。

 僕自身、「昭和建築」を近代合理主義の建築と規定し、「大正建築」を救う、という長谷川堯の歴史再評価の試みには大きな刺激を受けた。一九七六年の暮れ、堀川勉、宮内康らとともに「昭和建築研究会」という研究会を設立したのだが、長谷川堯の一連の著作のインパクトが大きいことは、その名に示されているだろう。要するに、「昭和建築」を全面否定するのではなく、その中に可能性を見いだそうという対抗意識があったのである。「昭和建築研究会」は、まもなく「同時代建築研究会」と改称、宮内康の死(1990年)まで活動を存続する。宮内康の遺稿集『怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)は、『神殿か獄舎か』の時代をよく伝えている。「同時代建築研究会」は、長谷川堯と磯崎新をゲストとするシンポジウムも行っている(『悲喜劇・1930年代の建築と文化』、同時代研究会編、現代企画室、 1981年)。

 僕は、1981年に、初めての論考『戦後建築論ノート』(相模書房、改訂版『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995))を出すが、その中で長谷川堯の歴史評価についてかなりのスペースを割いている。長谷川堯の近代建築批判の内容には大いに共感しながらも、歴史を遡るだけのように思えたその方向性には、いささか不満だったのである。若い世代が「戦後建築」をどう乗り越えるか、が問題ではないか、という思いが強かった。この点では、磯崎新の『建築の解体』の、「近代建築」の流れを前提にした「近代建築」批判の試みの方に、むしろ共感していたと言っていい。全く方向を異にしているように思える二つの著作が同時に読まれた背景は、近代建築の乗り越え方にかかっていたのである。

 ひとつの大きなテーマは、戦前戦後の連続・非連続の問題、なかでも「帝冠(併合)様式」の評価の問題であった。長谷川堯は、「帝冠様式」を日本の近代建築が成立するに当たって必要な「排泄物」のようなものだと片づけてしまうのであるが、日本ファシズムと表層的なデザイン規制をめぐる問題はもう少し根が深いと思えていた。この問題は、「ポストモダニズムの建築」が跋扈するに従って「同時代的」な問題となったし、現在も「景観問題」が大きく浮上するなかで未だに継続している小さくない問題である。結局、近代建築批判が安易に見いだしたのは、様式や装飾の復活を素朴に標榜するポストモダン歴史主義の流れである。長谷川堯の仕事は、そうした表層デザインの流れとは無縁であったと思う。しかし、その主張はその流れと明らかに重なって受容れられていった。結局は、『神殿か獄舎か』は深いところでは読まれなかったのかもしれない。「獄舎づくり」の伝統は遙かに長く深い流れをもっている。その後の長谷川堯の仕事は歴史をさらに大きく見つめ直す方向へ向かい、ポストモダニズム建築をめぐる喧騒から遠のいていくことになるのである。




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