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2022年10月25日火曜日

建 築 の 再 生 渡辺豊和

 建 築 の 再 生

 

 

渡辺豊和

 

 

 < 目  次 >

 

  1、土建行政と国土の荒廃

 

  2、建築の自己破産

 

  3、近代主義の罪

 

  4、建築は再生しうるか

 

  5、文化発信の可能性

 

  6、国土の形象、古典ゾーン

 

  7、国土の形象、都市ゾーン

 

  8、国土、大地への帰還 〜土嚢建築考〜

 

  9、歴史の形象化

 

  10、応答方式の空間創出

 

 

 

 

 

 

 

 偶然か意図かは定かでないが阪神大震災以降ばらまき土建行政は目に余った。不要の道路、ダム、建築が景気浮揚策として列島の至る所で造られた。その結果は景気は浮揚するどころか年々下降したし国土の荒廃するにまかされた。当然建築は悪徳の仕事として世の指弾を受けることとなった。本来土木は政治の基本治山治水の技術であり建築は文明の表現体であって世の指弾を受けなければならないものではなかった。悪業の本拠はゼネコンであり大手建築事務所に違いはないが有名無名は問わずフリーアーキテクトのほとんどがここ5〜6年の土建行政のお先棒をかついできた。そのデザインも内容の空疎な軽快透明であったのは土建行政の空疎と軌を一にしている。阪神大震災以降実作から故意に遠ざかって今後建築のあるべき姿を思索してきた。以下はその成果である。

 

 

 

 

1、土建行政と国土の荒廃

 

 

 はっきりした数字は記憶していないが新潟県の就労人口の60パーセントが土建業であるという。新潟県に一歩足を踏み入れるとまず驚くのは道路が立派なことである。つい最近北海道選出の代議士がほとんど役立っていない高速道路を作ったと批難されて怒狂っていたが新潟県の道路にもそれがいえるのではないか。なにせ北海道の高速道路は車が走らずヒ熊が日夜散歩していると若手の大臣に揶揄され代議士が抗議していたのだが新潟県は土建行政最大の親玉だった田中角栄の地元なのだから北海道の手本となったのもやむをえない。しかしそれにしても就労人口の60パーセントが土建業というのはすさまじい。かつて日本の総人口の70パーセントが農業だったから新潟県では農業人口のほとんどが土建業に転じたことになる。当然農地はみるみるまに減少し土建用地に転化したということになるのだろう。それでは必要もない道路や必要以上に立派な道路が至る所に出来上るわけである。北海道ではヒ熊の散歩道が高速道路なのだという笑えない笑話さえ声高に語られることになる。道路はそれでもまだいい方なのかもしれない。目を覆いたくなるのは必要もないダムである。私の子供の頃、今から50年以上昔のことになる。秋田県の中央東部奥羽山脈の奥山の寒村当時の田沢村燈畑部落に巨大ダムが建設された。水力発電用であったがこのダムの完成でこの部落にも電灯がともりラジオも聞けるようになった。1950年代、第二次世界大戦の敗戦以降10年未満の日本は極端な電力不足に悩み停電は日常茶飯事だった。発電用ダムの建設は戦後復興の象徴であった。道路建設もあるときまでは僻地の救いにはなった。かつてダム建設には反対できない大義名分があったからとだえることなく列島の至る所で計画実行されてきた。現在私の住む奈良県でも奥吉野の川上村で何のために必要なのかよくわからない巨大ダム建設が続行中であり一集落まるごと水没することになり今は誰も住んでいない。長野県では田中康夫知事になり建設途上のダムも中止になっていると聞くが水没予定の集落はどうなるのであろう。余計な心配をしたくもなるのだがそれにしても思い切った英断ではある。今後不必要なダムや道路は破壊されることになるに違いない。そうなると膨大な量のコンクリートのガラ処理が問題である。これをセメントと骨材と砂に分離できなければ破壊もままならないことになる。ある建設会社がその方法を発明し実用化しはじめているらしいがこれはどう評価すべきなのか。自分達が必要もない大土木工事を請負い大儲けをしておいて今度はそれをこわして又大儲けをしようとの魂胆なのか。転んでもただで起きないのは商魂としては見上げた根性かもしれないが必要もないものをつくられた一般の人々にはたまったものでない。いわゆる土建行政はどうして列島を覆い尽くすようになったのか。政治的利権を生む甘い土壌であるとは聞くが政治にかかわらない普通の人間にはなかなかみえにくい。マスコミも実はこれに荷担していることを知らされたことがある。阪神大震災で神戸三宮界隈で30ものオフィスビルの設計と施工を同一ゼネコンで請負い建設したのだがそのうちの90パーセントが全壊又は半壊したのに同じ界隈の他のもので建築家が設計しゼネコンが施工したもので破壊したものは皆無であった。阪神大震災で破壊した建物は全て欠陥建築であった。設計施工のゼネコンでははじめから脆弱な建物を計画し予定通り破壊してしまったということなのだろう。とはいっても建築法規の違反をしていたというのではあるまい。法規ギリギリで設計するとあの位の地震なら破壊してしまうということなのだが良心的な建築家はそんなことはしないというだけのことである。設計施工のゼネコンの事実を資料をもって大手新聞社の若い記者に説明したら早速社に帰って記事にするようにしたいといったが数日後に上層部の反対でできないとの電話があった。別の社にも話してみたが反応は全く同じであった。多分そのゼネコンはいい広告主なのだろう。要するに阪神大震災は人災だったのである。高速道路が倒れたのも全く同じ理由なのである。あのときの写真をみるとわかるはずである。はっきりとあれは手抜き工事であった。建築家からみたら信じられない手抜きが破壊現場をみて知ったというわけである。私以外にも多数の建築専門家が同じ思いを抱いたはずである。又それを話あったりもしたのだが結局は声にならなかった。トルコでは悪徳建設業者や住宅メーカーは訴訟されていると聞くが日本ではそんな話を耳にしたことはない。

 不必要なダムや道路を建設することが一概に悪とも決めつけるわけにはいかない。新潟県では60パーセントが建設業だというからもし建設業がなくなってしまったら県民の60パーセントが路頭に迷うことになってしまう。その危険性があるから不必要を知りながらでも建設工事を起こそうと政治家も行政庁も努力することになる。このことは日本全国例外なくいえる。景気浮揚に公共事業をということが叫ばれ現在の小泉内閣は別としてもこれまでの歴代内閣は重要施策として公共事業を立案実行してきた。バラまき行政であり土建行政である。その効果は全くなかったのにこれが官民の癒着を生み利権を発生させるのは火をみるよりも明らかとなる。たとえば大都市圏でベットタウンを計画しそれが大都市の人口増加分を吸収しているうちはそのベットタウンには意味があった。関西でいえば千里、泉北のニュータウンはそのような巨大ベットタウンであった。しかしベットタウンではなくアメリカのシリコンバレーのような居住と就労の場所がセットになった完結型のニュータウンが計画され実現途上にあるとする。大不況の現在この計画が見直されるはずなのにみてみるとそうはなっていない。公共機関と民間の不動産業の協同開発である。やりようによっては充分このニュータウンは実現可能であり事業としても成功する見通しはあるのだが如何んせん、計画が悪い。計画といっても町割計画なのだが千里、泉北のベットタウン型にできていて就労型のニュータウンにはなっていない。これでは失敗は火をみるよりも明らかである。海外からの研究所や企業を誘致しようにも乗って来るところがないだろう。民間の開発会社は気付いていて計画変更の努力をしているのだが公共機関が動かない。外からみているとここの職員達は今まで依頼していた都市計画コンサルタントとの関係をくずしたくなくその理由だけで計画変更をしぶっているらしい、とみえる。ひょっとしたらもっと違った理由なのかもしれないが明らかに失敗することをわかっていて計画変更をしぶっているのは確かである。これこそ税金の無駄使いではあるまいか。確かなことではないが相当確度の高い情報では癒着しているとしか思えない都市コンサルタントに1億円の計画を出し契約したとのことである。このニュータウンのことなのかどうかは定かではないにしてもこれこそ利権が発生しているいい例ではないか。民間開発会社の担当者は今までも何の役に立たない金億以上をいろいろな都市計画コンサルタントに払ってきているとボヤいている。公共機関

の職員達は各自担当の発注先のコンサルタントに将来天降ろうとしているとしか思えない。まさに税金の私物化である。それでも計画、事業に成功の見通しがあるのならいいが明らかに失敗することがわかっていての癒着ではお話にならない。昔から日本では土建業はウサン臭い職業とされてきた。しかし大工はそうではなかった。ということは土建業は大工とは違って土木工事を専門にする業態のことであって人入れ稼業とみなされてきたからである。いってみればヤクザに近い。○○組といったからよくて火消し、悪いとヤクザとでもみられていた。しかし人入れ稼業だった頃の土木会社の方が明快でよかったといえる。彼らはウサン臭く見られていることを知っていたからそう思われないよう努力し公明正大な企業努力をしていたような気がする。ところがいつの頃からかゼネコンから代議士を出すようになって政治と癒着しはじめたのではないか。私が福井大学に入った頃であるから1957年頃のことである。福井市に本社のある大手ゼネコンの社長が市長であった。福井市は戦災、大地震、洪水とうちつづく災害でみるかげもなく荒廃していたのをこの市長は復興に奮闘努力し市民から感謝されていた。こんなことは現在ではみられないのではないか。治山治水は政治の根本であるのは古今東西を問わないであろう。土木技術をシヴィルエンジニアリング、市民技術というのもこのことを意味しているであろう。それなのに何故土建行政は悪の温床となってしまったのか。日本人全体に公共意識が欠如しているせいなのか。

 私は阪神大震災が人災であることを知って建築家としてやりきれなかった。私でなくても建築家の設計した建築、家屋で破壊や倒壊したものは皆無であったから胸をなでおろしながらでも建築の分野の一端を汚すものとして責任を強く感じたのは確かである。それ以後私は現実に建つ建物の設計を一切やっていない。設計コンペには何度も応募したのだから設計の機会を忌避したわけではない。しかし積極的に仕事をしようとはどうしてもなれなかったのも正直な心境ではある。設計コンペには入選することはあったが当選はなかった。何故そうなのか入選案をみて不思議に思うのだがどうもコンペ自体に問題がありそうである。公共性の希薄がここでも大手を振ってまかり通っている。どうもはじめから当選者が決まっていて公共機関が公正を装っている例が圧倒的に多いとしか思えない。コンペ自体は歓迎すべきことなのだが不公正にそれが行なわれているとしたらむしろ逆効果である。

 

 

 

2、建築の自己破産

 

 

 ばらまきの土建行政で目立ったのはダムや道路などの土木工事ではあったが建築がその対象にならなかったであろうか。そんなことはない。ある町に800席のホールのある文化会館ができたとすると競うように隣の村でも少し規模を落とした文化ホールができる。二つの町村あわせてせいぜい2万人にも充たない所に二つの文化ホールがあってほとんどは使用されることなく閑古鳥が鳴いている有様となる。大土木工事を起す必然性のない市町村ではこのような余剰の公共施設がつくられ利用者もまばらで大概は閑古鳥が鳴く始末。施設が必要なのではない。建築工事の有無が問題なのである。当然これには設計も伴うから建築家達はばらまき土建行政のお先棒をかついできた。不況で企業が四苦八苦しているのに建設業だけがうるおうという奇妙な現象がここしばらく続いていた。橋本、小淵、森の自民党三内閣はそのような現象の現出主体であったというわけである。これは阪神大震災以降の内閣である。大震災のときは村山であり社会党を連立にひきこんだ自民党内閣であったがすぐ橋本に交代した。橋本からむき出しのばらまき土建行政が露骨になってきた。この象徴は沖縄サミットではないか。但しこの場合は建築工事が問題なのではない。建築の内容である。ついこの前(2001年11月)に沖縄に用事があり10年振りに訪れたが案内してくれる人がいてサミット会場を見る機会があった。名護市の海岸沿の敷地は風光明媚な場所が選ばれていてさすが国家の重要行事が行なわれる場所ではあると感心した。しかし建物がひどい。ひどすぎるのである。サミットであるからフランスの大統領はじめ欧米の一流政治家が一堂に会する会議場がなんとこともあろうにつれこみホテルに見間違うケバケバした「様式まがい」である。というよりも20世紀前半の天才建築家フランク・ロイド・ライトの安易なコピーといった方がより正確かもしれない。誰が設計したかは知らないが名建築を見慣れている欧米の一流政治家にどうしてアメリカの建築家の下手なコピーを見せなければならないのか。全く理解に苦しむ。日本の政治家には建築の意味がわかっていない。このときつくづくそう思った。建築はその場所が属する文明最高の表現体として構想されているものであり、それは音楽や美術、文学などの芸術を上廻る神の空間ともいえるものなのである。場所は沖縄、戦火の犠牲となったからサミットの会場にふさわしい建築はなく新しく建設する必要はあったであろう。このことは致し方ないにしてもできる建物は日本文化を堂々と表現しえたものでなければならなかった。古典や伝統建築の再現やコピーをいうのではない。極めて現代的な空間でもそれは創出できる。ところがばらまき土建行政になれてしまった政治家には建築は単なるその手段としてしかみえない。その内容に重大な意味があるなどとは夢想だにしない。あれでは日本は恥をかいたはずであるが誰もそのことには気付かなかったのではないか。欧米の首脳達も呆れてものもいえなかったはずである。だから黙っていたであろう。サミット会場は最悪の例にしてもばらまき土建行政のお先棒かつぎの建築家達はこの現象にどう対応したのであろうか。一級建築士100名を越す設計事務所は大手組織事務所と私達の世界では呼慣わしているがまずこの大手組織事務所がお先棒かつぎの主力なのはいうまでもない。しかし彼らのものは地味で手堅いデザインのため目立たず人々の話題になることもなく当然マスコミで紹介されることもない。目立つのは実際は脇役のはずのフリーアーキテクトのものである。ばらまき土建行政の主題は工事であり内容ではない。このことを建築家達は敏感に感じとっているはずである。内容のないもの、存在性の希薄なもの、もしその逆の本格的「建築」でも作られたらその主題の重さ故に論議の対象とならないとも限らない。それでは困るのである。建築家達は政治家のそのような思惑に見事に対応したといえる。

 幸か不幸か90年代世界の建築デザインの主流は内容のないもの、存在性の希薄なもの、一口にいって軽快で透明なガラス張りか、単純明快な箱型コンクリートになっていた。表層性こそがはやりだったのである。これがばらまき土建行政建築の表現にうってつけだった。だから建築家達はいとも容易にお先棒をかつぐことができた。世界のはやりを彼らは一身にうけこの日本に実現する。なんと恰好のいいことか。勿論彼らは「世界のはやり」などとは思っていない。芸術表現の必然的帰結が表層性の重視ということなのであり彼らとしては極東の小国日本で「世界」を表現していると確信している。意気軒昴なのである。このおめでたさは何も今にはじまったことではない。戦後復興はダムや道路、建築、住宅を大量につくることであった。これを直接担ったのは土木技術者であり建築技術者であるがその象徴的存在は東京大学教授でもあった建築家丹下建三である。戦後復興は64年の東京オリンピックと70年の大阪万国博覧会で内外に喧伝されたがその代表的施設である競技場とパビリオンを設計したのが丹下だったというわけである。この丹下を頂点とした建築家達が国家のデザイナーを自負するようになるにはそう時間はかからなかった。しかし誰もそんなことを建築家に要請していなかったのにである。必要とされたのは大量の土木建築の構築物だった。しかし戦後復興にあってはそれが善であったことに救いがある。ところが今や同じことが悪となってしまった。意味の重厚な建築がつくられて論議の対象となっては余剰を強行する政治家や行政者達には迷惑となるが全く話題にもならないのも困る。票や業績にならないからである。そこにおめでたい建築家達の役割がある。街角におしゃれなビルができたよとマスコミが軽くとりあげる、この感じがほしいのである。それには大手組織事務所は向いていない。やはりフリーアーキテクトというわけである。

 こうして阪神大震災以降でも列島全土にどれだけのおしゃれ公共施設ができあがったことであろう。神戸の復興の全公共施設がこれといっていい。勿論民間の建物はいうまでもない。神戸を訪ねてこのおしゃれビルの氾濫にはうんざりする。神戸も随分軽い復興を果たしたものである。

 さてばらまき土建行政は終わったし又終わらなければならない。このまま同じことを繰り返していったら無駄なダム、道路、建築、住宅の氾濫となってしまいこの狭い国土は荒廃するにまかせることになってしまう。この荒廃を救済する手立てとしてすでに2年前(99年)、「庭園曼荼羅都市」像を提起したからここでは触れない。いずれにしても土建行政の最大の担手大手ゼネコンはもうその存立基盤は失われたから遅かれ早かれ潰れるであろう。勿論これは経営規模にかかわらないからゼネコン自体が不要であるのはいうまでもない。ゼネコンは下請にまるごと工事を投げてしまい社員を現場に派遣することすら少なくなり、営業と資金の手当をするだけのまるで商社まがいの営業形態におちいっていた。勿論そうでない従来通りの真面目な会社もあった。このようなところは規模は小さくなっても残るであろう。次に大手設計事務所である。彼らは生き残りに恥も外聞もなく互いに結託するかと思えば裏切ったりしながら残り少ない公共施設をタライまわしで取り合っている。これらは存在意味は全くない。それでは土建行政のお先棒かつぎの建築家はどうであろう。そこでA、B、C3人の建築家に登場してもらう。まずはAである。今や70才を越え老大家の領域に入っている。東海道新幹線の駅に巨大倉庫がおめみえしたと思っていたらそうではなくこの老大家の文化ホールであった。人口のそう多くはなさそうな地方中都市に何故こんな巨大なホールがいるのか。何千人もが収容できるホールであるがどうしたわけか天井が50メートルもあろうかという高さである。ここの冷暖房はどうなっているのだろう。ランニングコストは天文学的になってしまうのではあるまいか。それと建物全体の形が悪い。金属で覆われた外装ではあるがまるで倉庫なのである。いくら自治体から要請されたとはいえこんな過大規模の施設を設計するのは間違っている。計画そのものを止めさせるか小規模にするよう説得すべきではないか。そうでなかったら建築界の指導者とはいえまい。次にB。瀬戸内海の島に建設した公共ホテルのこれもなんと巨大なこと。実際見たわけではないから雑誌に発表された写真や図面から受ける印象ではある。のっぺりとしたコンクリート壁面にV字平面のホテル棟、大小多数のコンクリート箱の棟をばらまいたなんともしまりのない巨大公共施設だった。こともあろうにBはこれを「廃墟」だとうそぶく。どういう意味で廃墟なのかは不明であるが多分閑古鳥が鳴くことを予期して廃墟というのであろうがかり

にも公共施設である税金でこれは建っている。税金を使って廃墟をつくったのか。納税者をナメるのもほどがある。よくもこのような厚顔無恥に仕事を依頼したものである。依頼した公共機関の首長の識見を問いたい。CはA、Bに比較したら罪は軽い。それだけ小者というわけであろう。但しこのCのデザインこそばらまき土建行政スタイルの典型なのである。透明、軽快を地で行くのである。存在性の希薄こそが彼の主題であり世界のはやりを日本に持ち込んだ首謀者である。今Cのエピゴーネンがうようよと土建行政の甘い汁を吸いたくてまわりをうろついている。というよりはうろつき甘い汁の余りの分け前にあずかっていた。Cは透明、軽快を主題にするがこれはどこまでも見掛けであるらしい。北の大都市の中心にできたガラスボックスの図書館は見掛けは存在性の希薄、即ち透明、軽快を表現しているのであるが海草をイメージとしたという柱は何本もの線が海藻のようにゆらめいて上昇する形である。しかし一つ一つのゆらめく線は結構太い鋼管であり柱全体としては鉄のかたまりをよろっているという風である。しかもこの異風の柱を構造技術的に成立させるために床は全面二重のぶ厚い鉄板となっている。まるで建築構造は軍艦である。軽快透明のためにこのような無理をしたのである。これはすさまじいお金を喰ったに違いない。虚偽の軽さ。これも土建行政の虚偽を象徴している。

 

 

 

3、近代主義の罪

 

 

 土建行政は官民癒着の悪の温床となったことは間違いない事実である。しかしそれでは土木構築物や建築の建設が悪なのかといえばそうではあるまい。土木も建築も文明発生以来人類が絶えることなく継続してきた営為であるからこれが悪であるはずがない。問題は過剰である。次に内容であろう。というよりも過剰は内容を空疎にする。その空疎をデザインの主題としたのが現代建築であるといわねばならない。しかしこれは日本だけの現象ではなかったのである。10年前まではパリ現在ではベルリンがこの現象の渦中にある。パリは巨大市街地再開発、ベルリンは首都の復興である。但しパリやベルリンにはそれなりの必然性もあるに違いない。パリでは市街地建築の老朽化、市街地構成の不効率などが目に余るようになって再開発が行なわれたし、ベルリンは東西ドイツの分裂で荒廃した都市の再生をめざしているから過剰とは必ずしもいえない。しかし内容の空疎はどうしたことなのであろう。ヨーロッパ文明の退潮を象徴しているのであろうか。パリもドイツも同じような透明軽快な建築で埋め尽くされ市街地風景に差異がない。要するにその都市特有の個性がまるで感じられない。

 しかし考えてみれば20世紀は個性喪失の時代ではあった。その点建築はその特徴を最も鮮明にあらわした。近代合理主義にのっとったとして如何なる場所に建てられようと建築は一定不変の形式をそなえていなければならないとされた。というのも学校や劇場といった建物の使用目的(建築家はそれを機能と呼んだ)に沿うと同じ使用目的の建物の形式は一定であるはずでありそれは建つ場所にかかわらないからである。こうして世界の都市は似た市街地風景を呈するに至った。むしろヨーロッパの都市だけがこの20世紀様式を拒絶していて遅れていたともいえる。その遅れをとりもどしているのがパリの再開発、ベルリンの首都再生なのかもしれない。20世紀様式の提唱者はドイツ人のワルター・グロピウスであったし完成者はフランス人のル・コルビュジェ、ドイツ人のミース・ファン・デル・ローエだったからヨーロッパの主要都市が旧態依然とした市街地風景を呈しているのはおかしいといえばおかしいことだったのかもしれない。しかし本当にそうなのだろうか。20世紀文明のチャンピオンはアメリカでありその象徴都市はニューヨークなのであってヨーロッパではない。パリもドイツもそれを求められてはいなかったのではあるまいか。グロピウスもミースもアメリカに亡命し戦後も帰らなかったのはそのことを象徴しているのではあるまいか。コルビュジェだってアメリカに受け容れられなかったことを無念とし本心はここで活躍したかったように見受けられた。パリやドイツは遅れてきた近代化でありその分洗練されてはいるが内容が空疎なのだ。近代化の必然性が希薄なのではあるまいか。グロピウスにもミースにも見捨てられたところなのだ。逆にヨーロッパはコルビュジェには冷たかった。アメリカにも受け容れられなかったコルビュジェは傷心を抱いてインドに渡りここでネールの知己を得て新都市チャンディガールを実現する。これは近代合理主義の画一的デザインと異風ではあるが20世紀文明の違った側面を記念する建築群が立ちあらわれた。

 ニューヨークの摩天楼は20世紀固有の建築形式でありこれが群をなすさまは20世紀文明の記念碑的風景といえよう。特に世界貿易センターのツインタワーはさっそうとした英姿をみせていた。これが今年2001年9月11日のテロで無惨にも壊滅してしまった。このことはよくよく考えてみる必要がある。まさに近代建築の破産なのだ。

 テロへの憎しみは当然ではある。とくに攻撃されたアメリカ市民の受けた衝撃は想像してあまりある。世界がこともなく平和であることは間違いなく全人類が望むことであろうしそうあってほしいと願わない人もいないであろう。それでもテロは起きてしまった。アメリカは何故こうも憎まれるのかとアメリカ、正確には合衆国の少数の知識人は自問しているという。この少数の疑問にこそ耳を傾けるべきではあるまいか。私にわかることはただ一つある。「近代主義」が破産しつつあるということである。貿易センタービルは400メートルはあったのであろうか。摩天楼の林立するマンハッタンの中でも際立って高くしかも実々に軽々とした印象のビルだった。エンパイヤーステイトビルなどの初期の摩天楼は外観の凹凸が激しくデコラティヴであり重苦しかったが国連ビルのピカピカに磨いた墓標を思わせるガラス箱型スタイルあたりから軽快になり貿易センタービルはそれの到達点であった。これがテロの標的となり破壊されてしまった。あのビルは外壁にあたるところが鳥篭状になっていて中心はエレベーターのコアというだけの極めて単純な構成であり確かに「近代合理主義」の結晶であった。しかし大型とはいえ旅客機たった1機(正確には2棟で各1機)の激突にもろくも全壊してしまったのは明らかに軽快さが当然合わせ持つ構造的脆弱さをつかれたからである。アメリカではもうあのような摩天楼は作らないという。これは20世紀の主題であった近代合理主義のチャンピオンが発した明らかな敗北宣言である。

 アメリカが何故憎まれるのか。勿論私にわかろうはずもないがただ常々抱いていた不信感がある。だから私は今年(2001年)の5月にどうしても果さなければならない用事があってロスアンゼルスに行くまで一度も足を踏み入れなかった。世界はほとんど隈なく訪れているというのにである。その不信とはこうである。アメリカ合衆国は世界の警察国家を自任し方々の紛争に介入するが他の国々がそれを依頼したであろうか。彼らの善は民主主義であり全世界がこうなれば幸福になると信じて疑っていないようにみえる。貧困の原因をその民族なり国家体制の非民主性におく。一見正しい。しかし本当にそうなのか。そこが何故非民主的で貧困なのかをその真の原因を追求しているようには見えない。貧困のほとんどは西欧列強の植民地政策にあるのであって列強に搾取されつくして貧困におちいりぽいと捨てられてしまったのだからそれは西欧列強が残した負の遺産なのである。アメリカは西欧列強が作った人工国家であって彼らは自分達の生み親の負の遺産を精算するために被害民族なり国家に民主々義を押しつけ紛争の介入の大義名分としているとしか思えない。これでは介入された方が反撥するはずである。しかも近代合理主義とは勝者である西欧列強が現出した大量生産大量消費社会を維持していくための思想装置なのである。しかも大量生産の余剰をかつての植民地に押しつけ消費を促すというありさまである。消費拡大のための旧植民地の政治の民主化であり生活の近代化なのだから押しつけの親玉アメリカの世界警察気取りは迷惑至極というべきである。これでは憎まれて当然ではないか。テロリストを生み出す国家なり民族はほとんど例外なく旧植民地ではないか。

 私の父は発明は悪でありソ連は崩壊するといった。ソ連と発明は別のことであり発明とは高度科学技術の発展は必ず人類を不幸にするということであり父流のアメリカ批判だった。飛行機の発明は不要のことだった。汽車で止めておくべきだったというのである。これをよくいうようになったのは60年代のはじめ頃だた。まだ貧困から完全には抜けきれていなかった日本では自由に飛行機旅行はできなく一般の人々にはむしろ憧れの対象だったのに父はこれで世界が狭くなり世界はのっぺりと一様になり国家や民族は個性を失いやがては全世界はどこか強国の支配に属するようになるだろう。それを不幸といったのである。ソ連の崩壊は50年代はじめ私が小学生の頃からいっていた。理由は簡単。1にロシアの歴史的欺瞞性。2にマルクス、エンゲルスの初原的論理矛盾をあげていた。そして父の予言どうりの理由によって現実になってしまった。アメリカ批判、近代主義批判もニューヨークテロが証明したような気がしてならない。ちなみに父は1903年生まれで96年に世を去った。大学は法律を学び高校の教師をしながら日本の近代政治史の研究に余念がなかったが私は今でもその予言能力には感心している。事実となるはるか以前に予言できたのは何故だったのか。高度科学技術とマルクスシズムは近代主義の二大潮流でありそれを根底的に信じていなかったのであろう。中庸を至高としたから徹底した東洋主義者のようにも思われるが教養としては学生時代に身につけた大正デモクラシーを捨てることはなくむしろ西洋的であった。但しアメリカ型民主々義は悪平等の温床として極度に嫌っていた。これは進駐軍の占領政策批判からはじまり終生変わらなかった。ほぼ20世紀一杯をこの日本で生きぬいた人間の限界がはっきりしてはいる。アメリカに対する批判、特に民主主義批判は表層的でありもう少しつっこんで見れないものかと思ったことはしばしばではある。しかし敗戦国の生き残りとしてはアメリカは反撥と親和の対象としかみえなかったのであろう。

 さてパリとベルリンの透明軽快建築の盛行である。遅れてきた近代主義といったがパリやベルリンではむしろ遅れを楽しんでいるように見受けられる。アメリカの現代建築家は巨大さで勝負しているせいか洗練されないがパリ、ベルリンのものは洗練の極致ともいえる。この洗練は余裕と余裕がもたらす遊びから生まれているはずである。それでは何による余裕であり遊びなのか。西ヨーロッパはアメリカに世界警察を任せ余程のことがない限りはっきりいえば自国に不利益がない限り他国の紛争には介入しない。それが余裕を生み遊びにつながっているに違いない。無責任といえばこれほどの無責任もありえないであろう。世界の紛争のほとんどの原因を自分達が作っておいてその精算をアメリカに任せているのである。パリやベルリンの空疎はここにおよその理由があるのではないのか。

 

 

 

4、建築は再生しうるか

 

 

 Aの巨大倉庫まがいの文化ホール、Bのホテルも含めた粗大ゴミが列島至る所に散在する現在、建築の再生を問うのは不見識とともとられよう。建築界総懺悔の上でなければこのような問いは発せられるべきではないであろう。しかし日本の敗戦のときのことを思い起こしてほしい。第二次世界大戦の初戦勝利に狂喜した人々が敗戦を他人の仕業に転化して涼しい顔をしていたし、それよりも戦争を理論的に支持した知識人の中で1人として自己批判をしたものはあらわれず、一夜にして軍国主義者が共産主義者に変貌していたこの日本である。建築界総懺悔などありえないであろう。ばらまき土建行政の小さな泡でしかないにしてもA、Bの建築に代表される粗大ゴミをどうするのかまずこのことが早急の課題なのかもしれない。それではCのものは粗大ゴミではないのかといわれそうであるがこれはゴミには違いないが大都市の中心市街地にあり規模も周囲のものに比べてとりたてて大きいというほどではない。市民の迷惑加減が違うのではなかろうか。ともかく今現在建築は過剰でありほとんど必要とはされないであろう。そのときにあえて再生しうるかと問うのにはそれなりの理由がある。それは集団に埋没し易い私達日本人に個の重要性を問うことになる。話は少々飛躍するが現在の不況の原因とその対処の拙劣さを考えてほしい。不況の直接の原因は80年代のバブルに踊った企業の放漫経営にあるだろう。そのツケが現在不良債権となって経済活性化を阻んでいると聞く。経済や経営の専門家でないのでよくわからないが不況になってからの企業なり経済人が意気地ないと私にはみえる。リストラという首切りをしているだけで手をこまねいているとしかみえない。何故経済活性化にむけてのプラスの工夫をしないのか。マイナスの処理に追われていて何ができるのかと思う。これは明らかに集団偏重の弱点が顕著に露呈している恰好の証例に違いない。リストラクションとは再構築ということであって首切りを指す言葉ではないはずである。もし集団主義が日本企業の特質というなら総賃金を社員全員で分配して企業再活性化に一丸となって努力するべきではないか。1人1人の賃金が低くなるのはやむをえまい。ワークシェアリングというのがつい最近いわれるようになったがこんなことはわかりきったことではないか。遅すぎる。企業の再構築を首切りとしか考えられないからこのような無様なことになってしまう。とはいえこれが問題なのではない。個の発信力の強化こそ優先する。このことが重要なのである。

 今日本では住宅も供給過剰であり新しく住宅を作る必要は数字上はない。しかし住宅は本来個々人の自由な裁量によって建設されるものであるから如何に余っていようともある1人がどうしても自分や自分の家族にふさわしい住居をほしいと思えば建ててしまうだろうし、それを他人が阻止することはできない。少なくとも自由主義経済体制のもとではごくあたりまえのこととして容認される。但しこの場合その個人に強烈な住居欲求がない限りあり余った住宅を買うなり借りるだけで済ましてもらいたいものである。その方が国全体の財貨の無駄にならない。しかしその個人が強烈な個性の持ち主であり既製の住宅ではとても満足できるはずもないと誰にもわかっていれば彼が住居をつくることに異はとなえまいし、となえるべきでもない。要はその個人の発信力の強さである。この強弱が全体としての財貨の無駄という合唱を突破するかそれに属するかの境目となる。そうしてできあがった住居は多分全く新しい住宅スタイルを世に示す結果となろう。住宅史をひもとくとこのような例は相当数に上るはずである。第二次大戦以前につくられた近代主義住宅たとえば土浦亀城邸などはその好例であろう。同様に個の発力に依拠した建築も充分に考えられうる。公共施設でもそれはある。何処と特定はできないが税の無駄遣いと贅沢を警戒するあまり公共施設の新築を長い間見合わせて来た自治体があったと仮定する。この自治体にしては必需の施設の建設がどうしても必要な場合はどうなのか。隣接する自治体の余剰施設を借りることで大概のことはまかなわれよう。しかし土建行政の嵐の中でもこのような自治体が存在したとしたらそこの住民全体の見識と自制力は賞賛に価しよう。このような住民が隣接する自治体の粗大ゴミに満足するとは到底思えない。しかし満足しなくても我慢するであろう。それでも彼らが新たな建築を欲求したらどうなのか。国や県からの補助金などはじめからあてにするはずもなく全て自力でその建設を実行しようとする場合それを阻止できるであろうか。このような仮定は実は建築不要論を切り崩すための詭弁の荷担になりかねない。そうはならないことを論証しておかなければなるまい。ここでは原点に立帰る必要がある。愚直なようでも建築とは何かを問うことである。まさか列島至る所に散在する公共施設などの粗大ゴミとしかいえない建物を建築とはいうまい。政治目的、経済目的のためだけで建設された必要性もとぼしく内容空疎な施設が建築でないのなら何が建築なのか。その逆のものといいたいがそうはなるまい。このような問いにこたえるには学生のみずみずしい発想が大いに参考になる。その

学生の修士修了制作の計画内容がユニークなのである。ある県の県庁所在地に県内の人口が移動してきて住宅不足をきたし現在のこの都市の郊外に大型の建売団地が競うように開発されているという。遅れてやってきた人口の都市集中である。aはこの都市出身でありここの住宅事情を把握し易かったようである。aは現在宅地造成を終えて第1期の売り出し中の40ヘクタール、4000人の建売団地を計画地に撰んだ。40ヘクタールのうちの4分の1、10ヘクタールをもとの地形にそっくりそのまま復元しそこに宅地開発業者が計画していたと同数の住宅を計画するというのである。その建売団地の建物はドールハウス(人形の家)のようなものでありこれではここに移り住む人々の今までの住居とは余りに違いすぎる。彼女はここに移り住んで来るに違いない人々は大半農家居住者でありそのプランをもとに復元地形の住宅プランを考案している。すでに造成が完了してしまった開発地の4分の1を原形に戻すのであるから道路も宅地分割も従来計画のままというわけにはいかない。復元地形は切土は一切せず必要最小限の盛土は許容するが土留は石垣とする。住宅は仮設というわけではないが家族構成の変化に対応できるように必要に応じて部屋を作っていけるシステムを提案している。aは新しい理想的ニュータウンを計画しようとは思わないという。無惨な風景を呈し自然地形を破壊した建売団地に地形復元した部分を挿入することでこの建売団地の無意味を告発したいというのである。aの計画のユニークさはここにある。東京や大阪などの巨大都市の建売団地で居住者が老齢化してスラム化しかけている例をみていてaは自分の出身地の現在開発中の建売団地の末路を知りこの団地が必要とされなくなったとき自然に帰り易くしておきたいというのが主題なのである。最小限の盛土のための石垣なら廃墟となっても美しいですよねというのだからaの主題は新規開発の住宅地も廃墟となったときぎりぎりまで自然に戻ることができるかを考慮すべきだということにある。自分の出身地の地形を熟知しているaにとっては原地形への復元こそ重大な関心事なのである。aは建築にとって何が主題かを真剣に熟慮すべきでありしかも時間の推移に対してその建築はどう対応しうるのか、それが考慮されてあるのかをあらかじめ検討すべきであることを示唆している。「建築」をつくる人々にとって何が重要で何が主題となるかを彼ら自身によって徹底的に堀下げられなければならない。

 今日(02年元旦)たまたまNHKで白川郷の大屋根ふきかえのドキュメント番組を放映していた。80年ぶりにふきかえるというのだがすでにかやふき職人も老齢化ししかも近年本格的ふきかえは行なわれていなかったらしい。村人総出でふきかえ作業をしてそれは見事に完成されるのではあったがこの村人総出でふきかえ作業する組織を「結(ゆい)」というのだがこの結が稼動するか心配だったと家屋の主人はいっていた。白川郷でもかやぶきでなくなった家屋が多くそこの人を結にかりだすのは気がひけるといっていたがそこの人々も快く参加していた。白川郷の人々にとってこの家の屋根のふきかえは単なる文化財の保存ではなくて結の復活によって村の団結が計られるに違いないと期待したようであった。このかやのふきかえは白川郷の人々にとっての真の建築欲求だったというべきなのかもしれない。この家屋の主人は先代が家は自分のものであって自分のものではないといっていた意味がようやくわかったと語っていたのが特に印象的であった。それでもこれは屋根のふきかえだからいいものの新しい建築を欲求したとしたらどうなるのか。村人たちだけではどうにもならないであろう。大工はじめ専門の職人を村以外に求めなければならなくなるのではあるまいか。それでも伝統的家屋の建設ならばモデルが目前にあるし伝承技術もあってそれほどの苦労はしないであろう。そうでないものを欲求する事態の場合はどうするのか。

 現代の結をつくろうということを建築専門家から聞くことがあったが私はその都度強い疑問を抱いたものである。地元の人々が本当に結を必要としているのであろうか。もし必要としているのならどのようにしてであろうか。更にそれが可能になったとき結の人々の建築欲求を誰が適確な表現に昇華するのであろうかといったことである。ともあれ建築を欲求する人々の発信力の強さが真の建築を実現させる原動力であることはわざわざ言挙げするまでもなかろう。

 

 

 

5、文化発信の可能性

 

 

 曖昧な章題ではなく厳密には「日本発信の文化戦略」とでもいうべきかもしれない。戦略・戦術といったことに縁のない私が使う言葉として相応しくないし第一戦略など思い浮ぶはずもない。ともあれ日本が世界に対して発信した文化的事項は戦前はフジヤマ、ゲイシャに代表される異国情緒、但しこの場合世界とは西欧列強であった。戦後はトランジスターラジオに象徴されるような微小精緻の工業技術である。この場合欧米に限らずほぼ全世界といえる。長い不況で経済大国の自負もぐらつき自身を喪失しているこの日本から何を文化発信するのかというであろうが私はささやかな体験でその可能性を教わった。2001年が始まって間もないことである。大分前からの知己天理大学教授の井上昭夫からインド西部のグジャラート州で大地震が起き5万か6万の人々が死んだ。その援助に行きたいが協力してくれないかとのことである。何を協力するのかと聞くと国連からの要請であるが災害復興住宅の建設を担当するつもりである但しそれには条件があって現地で調達できる材料、技術を使う必要がありそのためにアメリカの建築家が発明した土嚢積み建築でやりたいという。アメリカの建築家を仮にKとしておこう。彼はイラン系の移民であるということは井上に2〜3年前から聞かされていたが私には全く興味がなかった。井上の関心は土嚢を積んで建築を作るのであるから最終的に大地に還元されていく方式は鉄骨やコンクリートにくらべて遥かに環境保全的ではないかということにあった。井上は宗教家でもあるが環境運動家であるのだ。しかし土の建築は日干しレンガがあり何も土嚢にわざわざつめてそれを積まなくても古来からの技術によればよく乾燥地ではこれが一般的であって何も感心することではない。こう私は反論し一度アメリカに一緒に行ってKに会ってくれるというのを断っていた。井上は日本で土嚢建築をしたかったのである。ばらまき土建行政で出来る建築に対してアンチテーゼとしてそれを使用したらいいと私にすすめていたということである。

 井上の協力要請にもそれならKに依頼すべきであって私がやるべきことではないといったがどうもそれがうまくいかなかったのであろう。とにかくKに会ってほしいとのことで5月に息子の菊眞をつれ彼の住むロスアンゼルスの郊外ともいうべき砂漠に出かけていった。彼はカルフォルニア砂漠の小集落に50ヘクタールの土地を収得していてそこでドーム型の土嚢積み建築を数多く作っていた。どうもここを理想郷としたいらしくしかも本人はパオロ・ソレリのアーコサンティに対抗しているつもりらしかった。ソレリはアリゾナの砂漠にアントニオ・ガウディのサグラダファミリア教会を立体都市にしたような壮大な理想郷を構想し徹底した自力建設、自力施工し世界から注目をあびている。但しソレリの理想郷は鉄筋コンクリートで造られ世界中から若者達が集まって建設に参加している。彼の構想が完成するには500年はかかるのではないか。現在70才を超えたソレリはガウディを彷佛させる。Kも砂漠で自分の教える大学生を主体に自力建設、自力施工を推進してはいる。土木用の土嚢一杯に土をつめこれを積んで建物にするのであるが土嚢につめた土はすぐ積むことが出来る。というのも積んでから乾燥出来るからである。土が乾燥して所定の固さになったら嚢を切りさき取り去ってしまう。ということは嚢は通風性がいい布でなかればならない。これなら安価で完成が早い。日干しレンガなら乾燥に半年はかかろうし普通のレンガと同寸法で小さいからこれを積むには熟練がいる。しかし土嚢は大きく縦横各15センチ、30センチ、長さ60センチもあるから1つ20キロもあり重たいにしても積むのには熟練はいらない。学生のような素人でもすぐ出来るようになる。これならば建設のスピードは早い。しかも大地に還元出来るから環境保全的でもある。技術といえるのは土嚢と土嚢がずれることのないよう摩擦力を惹起するよう工夫していること以外はこれといったことは何もない。建築中の現場を見せてもらって完全に理解してしまった。そのことはいいのだが私はKにインドに行って震災復興に協力したらとすすめたがその気はないという。井上が確かめたところ金が出ない。要は儲からないことは嫌だということだった。彼の本性は商人なのである。イランでは兄弟が多く貧しく若い頃苦労しヒッチハイクでヨーロッパに渡り建築を勉学しアメリカに移って建設会社を起こしたが失敗しようやく落ち着いたのが今の場所だったと話してくれた。Kはアメリカで大学教授にもなり成功した。それなりに立身伝中の人

物なのであろう。これでは自分の利益にならない無駄なことに精力を費やしたくはあるまい。逆に彼の拒絶の理由を知って私はこの方法でインドの災害復興住宅建設をやってみようと即座に決心した。この工法を特許でもとっているのかわからないが土嚢積みは戦場の陣地構築に古来から使用されているからそんなものはあるまい。もしあるとしたら摩擦力を生み出す工夫だけであろう。Kはそれを1万ドルで買えというのだが井上は断っていた。私もわざわざ買うような技術ではないと思ったことは確かである。その金があるなら被害者支援にまわすべきであろう。ともあれこの建築家を匿名にしたのは彼の名誉を思えばこそである。かわいそうなことにKは建築家の才能はなさそうである。建物群もバラバラで秋田県横手市のカマクラを巨大にしたようなドーム、室風のもの大小を何のまとまりもなくあっちこっちに建てていた。中にはサザエの貝殻を思わせる造形もありそれなりに面白いものもあったが総じて単調であって土嚢であるための粗さだけが目立っていた。土嚢を積むのであるからカマクラ型の室風になるのはやむをえない。しかし1棟だけならいざ知らず多数の棟を造るだけの広大な敷地をもっていてどうして配置をあらかじめ計画しないのか不思議である。計画しようにも構想力がないのであろう。

 帰国してから私は復興住宅300戸の集落計画をしたが井上はユニークすぎるので在日中のインド人都市計画家を知っているからみてもらおうということになりその人に会った。私の計画は一戸建と十戸の環状連棟を取り巻き更に単位連棟を環状にし各連棟を一戸建が蛇行しながら巻いていく配置をした「曼荼羅」集落であった。そのインド人は円形配置はインドではみたこともないし普通は碁盤目型でありこれには異論が続出するのではないかとの見解であった。又カマクラ型の建築もイスラム風でインド人にはなじみが薄いとのことであったがそれはないだろうと私は思った。サンチーの仏教遺跡のストゥーパはドーム型であるしジャイナ教本山の大寺院は巨大ドームである。この人は古典に興味がないのであろう。ともあれこの計画案をインド、グジャラートにもっていった。ここで災害復興住宅を担当していたのはこの州第2の都市ジャムナガール市の元市長タンナという老人であり彼はNGOを主宰していて様々な活動を展開しているとのことであった。注目したのは雨季の水が地下にしみて井戸水となるための小さくても1ヘクタールはゆうに越す貯水池を方々に作っていたことである。建設費は家族で経営するコンツェルンで捻出しているというから完全な慈善である。貯水池は農業用々水の獲保が目的なのである。タンナ氏とそのグループで私の計画案を検討してもらったがこれで結構だとタンナ氏は満足気であった。井上は心配していたが私は多分こうなると予測していた。というのも曼荼羅は仏教の図形であり仏教はインドに発生した宗教であるからである。かつてのインド人はこの図形を宇宙像として創出したのである。現代のインド人の深層意識には私の計画に呼応する民族の根源的イメージが潜んでいるはずである。私はこの案で建設を行なうというタンナ氏の決定を聞いて帰国したが菊真は1ヶ月後に井上や天理大学の学生達とモデル住宅を作りに再度ジャムナガールに行った。ひととおりの作業を終えて帰国した菊真はタンナ氏から工業技術者養成の専門学校の設計を依頼されたという。聞くと曼荼羅様の建築にしてほしいとのたっての希望だとのことである。集落計画に感動してどうしてもあれに似た形の建築にしたいと大変な熱の入れようだったそうである。私はこのとき文化発信の可能性を確信した。他民族の深層意識に訴えかけることに成功すればそれは可能なのであり私は『離島寒村の構図』(住いの出版局、92年)で力説したことであるし又新聞雑誌にもたびたび書いてきた。但しこれは国内の仕事、公共建築の仕事で得た確信ではある。全く縁もゆかりもない場所でも伝説などそこの人々に伝承されて来た文学空間なり美術、工芸に接したら彼らの深層意識を感受でき、それに訴えかける建築空間を創出すればその人々に建物を嬉々として使用してもらえる。このことを何度か経験しているうちに確信となった。

 日本文化の美点というべきであろう。私達は古来から絶対的価値観をもたない。八百万の神々の中でその都度の都合に合わせた神に祈り心の平安をうる。一神教でないために異教徒を排撃することがない。従ってイデオロギーの闘争は起こりにくい。このことが勿論欠点になることも多い。思想というよりもやはりイデオロギーといった方がいいがそれの闘争がないために独創的思想が生まれにくい。現在の不況を脱しきれないのは経済人に独創性が欠けているせいであろう。私はこの不況をかてにして日本人も独創性を育むべきだとは思うが「八百万の神々」意識を捨てるべきではないと考える。これは両立させなければならないしできるはずである。日本は経済で成功したが商人として優秀だったとは思えないからものずくりが得意なのであろう。芸術が得意といってもいい。これは直感力にひいでているということである。独創的思想を育むのと平行して私達はますます直感力を磨いて他民族の深層意識に潜む根源的イメージを感受することにつとめるといい。そうすれば私達が発信する文化的メッセージに他民族なり国家が鋭敏に反応し逆も有効になり濃密なコミニュケーションを可能にするであろう。

 

 

 

6、国土の形象、古典ゾーン

 

 

 「庭園曼荼羅都市」は国土を都市化ゾーンと田園ゾーンに大別し都市域の人口密度を現在の2倍とし面積を半減させその分を田園に返すというのが国土イメージの概略だった。こうしておいて都市ゾーンを論じたわけであるがここでは田園ゾーンについて考えてみたい。保守的なようではあるが田園ゾーンの風景はほぼ戦前に戻すことであろう。高度経済成長に伴う人口の都市集中によって田園ゾーンは過疎化し廃村も多く荒廃するに任せていた。これを健全な農山村風景にもどすのは農、林、漁業を正常にもどすだけで充分である。建築的風景としては重厚なカヤ屋根農家が点在するのが普通であったが今後このような農家を復元するのかどうかが問題となるに違いないが基本的にはそれでいいのではないか。農業形態が農耕機による集約型に変わって来ているからそれに見合った間取りとはなるにしても屋根の材質形状にそれが及ぶことはないはずである。カヤ場も復活させるのはいうまでもない。交通体系その他考察すべきことはありあまるほどあるがここは建築と集落風景だけに絞っておきたい。又国土の空間イメージの基本は「庭園曼荼羅都市」で提示してあるから参照してもらいたい。

 私は80年代半ばから90年代半ばまでのほぼ10年間離島寒村の公共建築の仕事を明確な意図をもってやった。といっても10年間で10件にみたないから多いとはいえないが私の場合それが仕事のすべてであったからこのことに賭けていたことは間違いない。その成果は自分ではわからないがこのときの経験から田園ゾーンでもし建築がこれからも可能ならそれはどのようなものであるべきかは考えることができる。田園ゾーンは古典復興のゾーンと考えていいであろう。ヨーロッパ流にいうならルネッサンス、文芸復興である。しかし注意しなければならないのは日本の古典建築のコピーをすることではない。集落風景も単なる復元ではない。まずは建築である。個々の用途を想定しても意味がないのでいかなる空間形式を創出するかが問題である。それは倉庫まがいの巨大ホールや廃墟と作者自身呼ぶしかないコンクリート箱のホテルのようなものでないことだけは確かである。今後建築需要は激減するからこのゾーンは原則として国内材による木造とするべきである。そうしても森林が減少してしまうということにはなるまい。私は龍神村民体育館(87年)ではかつて鎌倉時代初期に東大寺大仏殿で重源がしたような革新をしようと考え木とコンクリートの混構造形式を創出した。龍神の場合木とコンクリートの使用比率はほぼ半々だったがこれ以降木の使用比率を高める方向に向かったが空間として「龍神」を超えたものがあったわけではない。見掛けは全く違っていても全てその応用であったし今後もその応用でも構わない気もするがせっかく96年から実施設計を中断していたのだからここではもっと基本的なことを提示してみたい。それではそれは何か。東大寺大仏殿ではそれまでの技巧の勝った繊細な木組と訣別し豪快な構造と組立式架構が試みられた。これに対応する構法の革新が「龍神」の混構造だったわけであるが今考えるべきは日本の古典全てを対象としてそれを革新することであろう。私は3年前から大学院の学生達と宇治の平等院鳳凰堂の革新とりくんできた。このことに関しては「機能深化の誘い」で触れておいた。何故鳳凰堂かも説明した。但し学生達に課したことは鳳凰堂の解体であった。できあがった計画案は鳳凰堂とは似ても似つかぬものであり大学院全体の講評会では大変な不評をかったらしい。私が都合があわず欠席し学生が計画意図を説明できなかったせいもあるが日本の知識人一般の古典に対する理解力の貧弱さに1番の原因がある。古典復興を古典コピーと勘違いしている。古典復興の第一段階は古典解体なのである。私は学生にこのような指示を出していた。まず鳳凰堂を部分的に分解せよ。その分解した部分を20倍に拡大してそれを建築空間化せよ。但し木造架構を厳守せよ。以上の3点を忠実に守って計画したらどうなるか解答はあらかじめ見当はついている。阪神大震災のとき建築デザインの世界的流行はデコンスタイル(正しくはデコンストラクティヴスタイル)と日本ではいわれたロシア・アヴァンギャルド(又はフォルマニリズム)風の地震半壊風の構成であったがあのような姿形になるはずである。学生達は鋭敏である。その予測通りのものを作ってきた。この成果は今年(02)の京都CDL展で発表するが解体の次第は近く私がまとめる。ともあれ解体は終わったから今後は再構築である。これは学生達では無理で私自身が構想計画するしかない。再構築には日本建築そのものを微細に観察する必要があり江戸時代の木割書『匠明』をテキストに三重塔の読解と設計図の制作を大学生とともに布野修司の指導で1年間続けてきた。設計図と模型制作は02年4月以降にずれこんでしまったがここで気付いた重要なことがある。日本建築の木組は森の樹木のアナロジーでできあがっているということである。柱が幹であることはいうまでもないが枝が肘木、節が斗供、葉が垂木である。今まで私は柱が幹、枝は梁、葉は何に当たるかわからなかった。というのも現代木造では肘木や斗供は使用しないからおおまかな架構しか意識になかったからである。逆にいえばそれだから東大寺大仏殿に親近したともいえる。これは私だけのことではあるまい。ところが日本建築は大まかな架構に特徴があるのではない。微細なところまで神経のいきとどいた木組みに特徴があるのだ。それがわかると木組みが何に依拠してできあがったのかみえて来たというわけである。日本の古典建築を再構築するには森林をつぶさに観察しその空間的特質を解析し抽象図式に転化する必要がある。もっと端的にいうなら樹木に遡行するのである。但し人工林ではなく自然林がモデルであることはいうまでもない。これは今から早急にすべきことであるからこれ以上の言及はできない。それよりもこのことを如何なる精神でそれをなしとげるかである。単純な日本回帰でありえない。

 鳳凰堂の解体の前の年に当時の大学院生に課したことはイスラム名建築(石造)の空間特質を変えることなく木造に直すことであった。ニューヨークテロ以来イスラム文化は敵視されているがこれはアメリカの事情であっても日本でとるべき態度ではない。日本の建築家は他の表現分野同様イスラムに関心を示すことはないが他の分野はいざ知らずイスラム建築の質の高さはヨーロッパを凌駕していることに留意すべきである。その理由は簡単である。中世、近世初頭まではイスラム世界の方がヨーロッパを圧倒していたからである。建築は古代エジプト時代が最高で時代が降りるにつれて質が低下するが中世、近世初頭まではレベルの低下はそれほどではなくイスラムではこの時期に文化の絶頂期を迎えた。十字軍がイスラムの高度文化に接してヨーロッパはそれまでの晦冥に別れを告げるきっかけをつかんだのは知るところであろう。その晦冥の中にあっても建築としてはゴシック大伽藍を生みだしこれが現代に至るもヨーロッパではこれを越えることがなく建築史上の頂点を示している。世界建築史からしても中世から近世初頭までが高質な空間を現出できた終局点であったことがわかるであろう。イスラム建築、特にイランのものは都市空間も含めゴシックを凌駕するがそれがどのようなことを指すかは『建築のマギ(魔術)』(角川書店、2000年)で書いたから触れない。ところで学生に与えた課題はむずかしかったようである。満足すべき解答はあらわれなかった。木造の学習をせずいきなりはじめたのもまずかったかもしれない。鳳凰堂の解体、『匠明』の設計図化を経てからすべきであった。

 古典復興にとって重要なのは汎アジア的視点である。日本は想像以上の古来にすでに北ユーラシア経由で西アジア、中央アジアの文化が流入しその影響下に文化を育んできた。私の歴史(建築史ではない)研究の結果では5世紀初頭に遡る。飛鳥時代にはそれが頂点に達した。日本文化の原形はこの時代に全てできあがったといって過言でない。特に現在のイラン、かつての中世イランの王朝ササン朝ペルシアから受けた影響は後の中国の随唐に匹敵する。このことは執筆を終えたばかりの本がいずれ上梓されるであろうからそれを読んでもらうしかない。いずれにしても汎アジア的視点が重要ではあるがそれでは欧米はどうなるのか。明治維新後欧米から受けた影響は今更いうまでもないがこれは都市文化に対して著しく農村には少なかった。農村の中世性は戦前までは変わらなかった。中世性は晦冥の代名詞とされるが果たしてそうであったろうか。明治の文明開化はヨーロッパ文化の急激な移入であったしその視点で農村のアジア性が遅れてみえたということに過ぎないのではあるまいか。戦後の農地改革によって農村は晦冥から解放されたととられるがどうもそれは一方的な見方に思えてならない。農地改革は肯定しうる変革であり農村を富ませる原動力にはなった。しかしその結果農村は栄えたであろうか。結果は逆になった。しかしこれは農村の責任ではない。日本の高度経済成長政策による人口の都市集中化がもたらした荒廃であって農地改革とは直接関係はない。むしろ農地改革の収穫は今後の農村のありよう即ち農業の復興によって可能になろう。田園ゾーンとは農村、山村、漁村などの村落だけをいうのではない。町といわれる村落に囲繞された小都市もその中に組み込まれるはずである。ともあれ村落に残存する中世性の根源をなす汎アジア性(中近東から日本までのアジアの文化特性)に注目すべきである。日本の古典とはこのアジア性に立脚していることを銘記すべきである。東大寺大仏殿や鳳凰堂は村落の庶民が作ったものではないがこれを作ったときの精神を受継いでいるのは村落に居住する人々である。厳密にいうなら田園ゾーンに居住する人々である。

 

 

 

7、国土の形象、都市ゾーン

 

 

 「庭園曼荼羅都市」は阪神大震災で壊滅的打撃を受けた神戸を対象に100年後の都市像を提案したものであるから絵物語ではないかと思われてしまった節がある。勿論目前の震災復興を目的にはしていなかった。しかし100年後とはいえ1995年に生きていた1人の建築家として計画しているのであるから計画の立脚点は当然1995年にあることはいうまでもないであろう。私は日本の都市計画は失敗の連続ではなかったかと思う。第二次世界大戦で相当数の都市が焼け野原と化したときに100年後の都市像を構想し徹底的に検討して復興にかかるべきであった。そのことがまるで行なわれなかったということはなかったであろうが実際の復興は場当たりでありそれが現在の場当たり的都市計画にまで尾を引いている。阪神大震災のときも事情は変わらなかったし、又変わらないに違いないと思ったから私は100年後の未来像を構想した。しかしこれが実際に活用されるとははじめから期待もしなかったし又そのような努力も一切しなかった。唯私は私以外にも同じようなことをする建築家や都市計画が出て来るに違いないと期待していた。そうなったらその人々と都市の未来像について大いに議論したがいに計画を批判検討してことによっては共同で更なる都市像を提案したいと思っていた。しかし残念なことにそのような人は1人もあらわれなかった。勿論未来のあるべき都市像を構想するのは建築家や都市計画家でなければならないわけではない。誰でもいいのだが私は今いったような人々に期待したのは彼等の生業からいって日々都市、更に国土のあるべき未来像を抱きそれに沿って自分の仕事をしているはずと思ったからである。しかし期待は見事に裏切られた。私は目先の仕事獲得に狂奔する建築家や都市計画家達の現実主義に今更ながら寂しい思いをした。このことが震災以降実施設計の仕事から故意に遠ざかるきっかけになった。こんな世界にいるのはやりきれない。これが正直な気持ちであった。それにあのときと時を同じくしたばらまき土建行政の盛行でありこれに荷担してなるものかと思い続けたら現在までになってしまった。とにかくこれはもう終わったからいいとしても私達のような仕事のものは各自それなりの明確な都市像なり国土像を鮮明に打ち出しておくべきではないのか。その内容の是非はそれを必要としている人々即ち市民が判断するであろう。

 庭園曼荼羅都市は100年後の未来像ではあるが100年後にこうなる確信は当然のようにあるわけではない。世界の未来が読めないのだから致し方ない。これは現代都市批判なのである。巨大都市ほど変貌が激しい。急激な社会事情の変化に対応できなくなった市街地は常に再開発を必要としている。これが巨大都市の現実であるともいえる。劇的な社会変化は新たなインフラを必要とし旧来のインフラの変更が余儀なくされる。しかしいかに巨大都市といえどもそうたびたび劇的な社会変化に遭遇するわけではない。歴史時間のほとんどが微細な変化の積み重ねでありそれが10年なりの経過があって旧来の市街地利用に破綻をきたす。これに対する再開発はインフラの変更ではない。建築の空間構成の変更であることが多い。ただ今までの市街地再開発といわれるものはビル経営を主とし明らかに不動産業的経営戦略の一環として実践されてきた。公的資金を注入して官民協同で不動産経営をしてきたともいえる。これでは本当の意味の市街地再開発とはいえない。巨大都市といえどももはや経済原則だけで再開発が実行される時代ではない。必要なのはその社会的必然性である。日本の都市は平面的すぎ土地利用が極めて不効率である。東京、大阪などで夜間人口が1ヘクタールあたり100人というからパリをはじめ西ヨーロッパの巨大都市の2分の1である。日本の

都市の人口密度をパリなみにしたからといって高密度で息苦しいということにはなるまい。日本は中心市街地をドーナツ化し居住しないからこうなってしまうのであって再開発にあたっては夜間人口を増加させるよう計画する必要がある。このことは最近よくいわれるようになったから別に目新しいことではない。しかし計画する人々に都市の全体像がイメージされていない。意識されるのは当該敷地かせいぜいその周辺だけである。これが問題なのである。もし「庭園曼荼羅都市」を前提に市街地再開発を計画するとしたらどうなるのか。この都市像は庭園が曼荼羅状に配置された高密度都市(1ヘクタールあたり200人)を提示しているからたとえ微細な再開発、極端な場合中規模のビル計画の場合でもこの都市像を埋蔵させなければならない。如何なる条件といえども住宅を備え、人々が健康に暮せるような庭園を内包することが必須のこととされるのである。このことは「機能深化の誘い」で詳述したからこれ以上は繰り返さない。ここでは都市建築に関わるそれ以外の必要事項についてのべたい。

 私達日本人は立体的に住むということになれていない。というと異論もあろう。公団アパートの古い居住者なら結婚してすぐ住み今や70代を迎えている人々も多いであろうしその子供達でも50代を迎えている人もいよう。生まれ落ちてからこの方現在までずっと高層アパートで過ごして来た人々も少なくないはずである。しかし余程の例外を除き日本のアパートは鳥小屋スタイルで同じ型の住戸を上下左右単調にすしずめにしているに過ぎない。アパートならやはりヨーロッパの古典スタイルに到底かなわない。ヨーロッパだけではない。イランやインドの民族固有の古典的アパートでも、更に中国の円筒環状アパート客家も日本の高層アパートのような鳥小屋スタイルではない。1つのアパートに商店、オフィス、聖所といった都市機能が内包されしかも鳥小屋の1つがそれに使用されているといった構成ではない。店舗もオフィスも聖所もそれにふさわしい空間として成立している。要するに複雑で変化にとむ空間構成になっていて住宅は必ず庭園的要素を備えている。この日本でも作ろうと思えば簡単にできそうなものなのにそれがないのはやはり私達が立体的に住むことになれていないからというしかない。多種の都市的機能を内包した複雑変化に富んだ高層住宅を日本の都市の中心市街地にも作らない限り夜間人口の上昇は望めない。都市の中心市街地の立体居住更には都市周縁部の土地利用の高度化は今や必須の事項である。とはいっても既存の建築を取り壊して新しい建物を建てなければならないわけではない。既存のものを改造すればいい。随分前から私は新聞などでもそう主張してきたつもりだが東大助教授松村秀一が『団地再生』(彰国社01年)で力説していたから心強かったしこれを都市建築の主潮流にするのなら松村は完璧にやってのけるであろう。そこで私としては一見小さなことのようではあるが都市建築の改造に竹材を積極的に使用することをすすめたい。竹は集成材にすれば木造の2倍の強度となり充分構造材にもなるが如何んせん耐候性に難がある。木に比べて割れ易く外部の雨風にさらす材料としてはむいていない。しかし内部ならば問題ない。数寄屋にも内部には竹がよく使用された。竹の集成材の構造強度は桧の2倍もあるから木材よりも強度を必要とする間仕切りなどにも使用できる。更には木材で可能なことは全て可能であるから内部での活用範囲は極めて高い。何故竹にこだわるの

かというと竹は5年で成長がとまり容易に生変わりほぼ無限の建築材といえるからである。樹木は成長に長い時間を必要とするから過度の需要は森林の破壊を招く。実際に日本は東南アジアなどでこのあやまちを犯して来た。竹を木材の補助材として積極的に使用するなら過度の需要におちいることもない。地球環境的配慮からもそうすべきではあるまいか。現在は中国から輸入した竹を集成材にしてフローリングとして使用しているだけであるから価格も桧に比べて倍ほど高い。これは理に合わない。むしろ桧のみならず安価な木材の半値以下にしなければなるまい。需要さえ増えれば早晩そうなるはずである。ただしここで重要なのは竹の特質をいかすことである。竹は容易に湾曲できるのが特徴であるから曲線曲面として活用するといい。

 さて再び庭園曼荼羅都市である。神戸地方の緯度、経度1分分、即ち南北1・5キロ、東西1・8キロを1単位とした極めて普遍性の高い計画としたがこれは各単位が神戸だけではなく日本どこにでも適用できる。逆にいえばある特定の都市の未来像にそのままは適用しにくいということでもある。ここでは庭園が曼荼羅のように配置された都市空間が重要なのであってその具体的形にはそれほどの意味はない。各都市にはその都市固有の歴史があり1つ1つの街路もその集積の結果現出したものばかりである。これをないがしろにはできない。但し街路の使用形態は将来充分変化しうる。現在車主体になっているものでも歩行者専用に転化する方がいいこともあるし道路公園として使用した方がもっといい場合もあろう。緯度経度を重視したのは建物がなるべく真南を向く方が太陽エネルギーを活用するソーラーシステムに好都合だったからである。もしある都市でその都市の骨格をなす街路が緯度経度方向に対して斜めになっていてそれに面して建物を再開発するとしたらどうなるか。この場合ソーラーエネルギーを最大限生かすには建物の面の多くが南面できるよう配置すればいいのはわかりきったことであろう。ところが一口にこうはいえてもそうは簡単ではない。多種の都市機能を内包した複雑で変化に富んだ高層建築を計画するのは相当の力量を必要とする。しかもそのとき再開発を必要とされる地区だけではなく都市全体の未来像も構想しておくべきであるのはいうまでもない。そのような作業手順を踏んでいない計画は一時経済的に成功したように見えても10年もすれば必ずや陳腐化し失敗する。

 

 

 

8、国土、大地への帰還 〜土嚢建築考〜

 

 

 国土を田園ゾーンと都市ゾーンに二分して考えるのはわかり易いが現実に国土がそのようにはっきり二分されているわけではない。「庭園曼荼羅都市」でも歴史都市、特にそれが農村に囲まれた人口2〜3万の小都市の場合を想定しこれの扱いについては留保していた。私自身が生まれ育った秋田県角館町などがその典型である。桜と武家屋敷で現在では全国に知れわたった小京都であるが町ができたのは江戸時代初期であって現在までそのときの町割が比較的良好に保存されている。「小京都」も比喩ではなく地名までも京都を意識して命名されている。今この町の町はずれの一角に土嚢建築を計画している。私自身の作品収蔵庫でありほぼ70坪(約230平方メートル)の平屋である。計画はすでにできあがっているが造りはじめる時期をいつにしようかと考えているところである。「小京都」に円筒型ドーム屋根のいってみれば雪室「カマクラ」を数個並列した土の家屋を出現させるのは如何に自分の所有地でも無謀とそしられそうである。はじめ二つある武家町のうちの南の方(田町という)に隣接する敷地に木とコンクリートの混構造の収蔵庫をつくる計画であったがそれならどうしても周囲の町並みに同調したものにせざるをえない。それではこの町の歴史からとび出した超スケールのものを構想できなくなってしまう。この町で農村地区の小学校をやらせてもらったが「小京都」から離れていて町並みにあわせる必要もなく私はユーラシア全体をイメージして空間を構想した。さいわい町の人々の不評を買ってはいないようである。私の所有する土地は140坪(約460平方メートル)程度の小さいものであるが町はずれであり「小京都」が田園風景に変わりはじめる突端にあるためまずは町並を考慮することはなさそうである。ここならば超スケールの空間構想が可能である。この場合の超スケールとは建物の大きさではない。イメージのスケールのことである。せっかく7年間も実作から遠ざかっていたのである。再開するにあたって過去の如何なる建築とも違うものを作ってみたい。こう思っている矢先に遭遇したのが土嚢建築だったというわけである。これはインド、グジャラートの大震災の復興住宅用に提示されたものではあるがこの建築形式のもつ初原性には限りない可能性を感じたのもいつわらない心境である。大地からおき大地に還る。この初原性には人類の営み全てを包含するスケールの巨大さがある。日干しレンガによる土の建築は中央アジアから中近東にかけて乾燥地では極くありふれたものであるが

これが室(ムロ)になっているのは少ない。土室はそれほど大規模なものはできずどうしても一室空間となってしまうため生活が高度化すると不便で住みにくくなってしまう。それで人類ははじめにその形式を捨ててしまった。日本でも縄文の竪穴住居は土室だった。しかし日本は湿気が強いため日干しレンガはできない。そこで私達の先祖が考えたのは木を構造とし面を土とする土蔵風のものであった。このことに気付いて『神殿と神話』(原書房 83年)に書いたし歴史家や建築史家にことあるごとにこのことを力説したがそのごとに冷笑をあびるか無視された。ところが最近、青森の三内丸山発掘以後ようやく竪穴住居の屋根は土でできているといわれはじめた。3年前(99年)今や考古学界の重鎮佐原真にそのことをいうとそんなに早くわかっていたなどとても信じられないといった風であったが本を見せてはじめてわかってくれたということがあった。佐原の他の考古学者にはみられない柔軟さ真摯さには好感がもてたことを強く記憶している。

 縄文の竪穴住居は1メートルほど土を堀りその土を使って建築とするのであるが前方後円墳と全く同じ形をした家屋なのである。前方部が入口、後円部が住まいである。このことはまだ考古学者はわかっていない。秋田県横手市の雪室「カマクラ」こそ竪穴住居の記憶であろう。これと関連ずけてみるぐらいの柔軟さがほしいが登呂遺跡の復元竪穴住居のイメージからねけきれていない。ついでに同じ『神殿と神話』で正倉院校倉は北ユーラシア渡りの建築形式と明言したがこれもようやく三内丸山発掘で高床とおぼしき住居か倉庫が出てきたため気付きはじめたようである。縄文の高床は校倉なのである。校倉は丸太を横に積む形式で極寒に耐えうる唯一の木造高床形式なのである。ロシアなどの北ユーラシアの住居は現在でもこれは主流なのである。

 ともあれ土嚢建築である。これも日本に造るということは縄文の竪穴住居を別の形で再現復興するということになる。それにはどのような意味があるのか。それは極めて単純明快なことである。土に直接還元できる建築を造るということにつきる。但し縄文から江戸中、後期までの歴史を書いて来た経験からすれば現代から遡れば遡るほど反転して遠い未来を見ているような気になる。それは過去の復元の困難と未来の予測の不確かさが対応しているからであろう。縄文の竪穴に酷似した建築空間を構想するとどうしても建築史というべきか文明史というべきかはともあれ古代に立ち戻ってみる必要がある。世界四大文明でも発生からいえばメソポタミヤとエジプトが早いし独創性に満ちている。エジプトは石造建築であるため現在までもピラミッドその他建造物の原形が残り5000年前の文明の様子を今に伝えているがメソポタミヤは土造だったからエジプトと同時代のものは勿論後世のものでも残存しないかたとえ残っていても大きく崩れている。それでもメソポタミヤでドームが発生したことはわかっている。メソポタミヤの都市が中近東や中央アジアの乾燥地の現代都市同様迷路迷宮風だったこともわかっている。土の建築とは迷路、迷宮を生み出すがその理由についてはしばしば言及したからここでは触れない。しかしこのことには着目すべきであろう。縄文時代日

本には都市らしい都市は発生しなかったから迷路迷宮を生み出すことはなかったがことと次第によってはその可能性があった。土の竪穴住居がその可能性を教えてくれている。

 今私は土嚢建築を造ろうとしている。「近代」に背を向けた極端に退行した試行ととられるであろう。しかしなにも縄文の竪穴住居を復元しようとしているのではない。現代に土の建築の可能性を探ってみようと思うのである。一室空間だけでは現代の複雑怪奇な用を充たすことはできない。いくつかの室(ムロ)を散在させるのも1つの方法ではあるがこれでは芸がなさすぎる。収蔵庫とはいえ最小限の居住にも耐えうるようにしたい。大小いくつかの室を点在させそれを直線の土嚢壁で囲み室以外の残存スペースを木造屋根で覆う。こうすれば建物の規模は無限に拡張できる。但し平屋であることは我慢するしかない。土嚢壁の高さは一重なら3メートルが限度だからである。この建物は熟練を必要としないから誰でも施工できる。セルフビルドというが専門家のようになるまで訓練するのは論理矛盾と思いこれには手をそめなかった。こういうことは単純明快でなければ意味をなさない。私はずぶの素人とともに施工するつもりである。但し木造部分は専門家に任すがそれでも設備ぬきにして坪2万円もあればできる。内部仕上げは壁土を塗るが土嚢は土の付着がいいから土塗も簡単である。01年の夏のインドで実験済みである。設備といってもこの収蔵庫では浴槽、便器、簡単な流し、照明器具、配管、配線に60万ほどであろうから総額200万円程度で完成するはずである。ということはこの収蔵庫は坪3万円ほどでできあがるということである。これは極めて簡単容易なセルフビルドであり材料は現地の土であるから当然なことではあろう。現代生活は過度に複雑怪奇であり特に情報技術の発展は人々を神経過敏に追い立てているように見える。このときに素朴に帰れというのではない。自分の家ぐらい自分の手でしかも簡単に造るおおらかさがあっていいのではないか。しかもこの方式は決してバラックになる心配はない。厚さ30センチの壁は蓄熱性能が高いから東北や北海道の寒冷地にはむいている。又逆に南下して沖縄のような亜熱帯ではぶ厚い土壁の遮熱性能が高いから太陽熱を遮断しここでも良好な居住を保証する。いずれにしても土蔵と同様の蓄熱遮熱効果が期待できるということである。

 土嚢建築は土であるからこれに草を植えることができる。現在農園住居にこれを利用することにしているが私の収蔵庫と同じ空間構成ですすめている。壁面やドームには草を植えそれが防水の役目を果たすのであるがこれが点在する田園風景は小さな丘が点在した農村といったおもむきであろう。十棟から百棟未満の農園住居が群をなしている場合を想定して計画を進めているがこれは環状配置としてあり「曼荼羅」となっている。「庭園曼荼羅」そのままの空間構成となる。いずれにしても草を生やした住居はそのまま庭園の築山といっていい。日本でこれが密集して集落をなす風景が立ちあらわれることはあるまいがもしそうなったらどうであろう。

 国土全体を庭園曼荼羅と見立て都市ゾーンはすでに発表したモデルのままとすれば田園ゾーンにこの風景を挿入することによってそれは完結することにならないか。今現在荒廃してしまった田園ゾーンにカヤぶき農家の復元もいいがこれには膨大なエネルギーを投入しなければならない。又集約農業では旧来のように家屋が点在しなければならない必然性も小さいであろう。あれは家のまわりに自分の農耕地を展開する方式だったときに有効であっても機械化された現代では集合して家屋がある方が便利なのではあるまいか。堂々たるカヤぶき農家が集合しているさまを想像するとむしろ1つ1つの建物にエネルギーがありすぎてうっとしくなりはしまいか。土嚢建築もそのような場合の農家の可能性として充分考えられうるのではないか。全く新しい風景の現出となるためその結果は予想しにくいがいずれにしても土嚢建築の試行が近代や現代に背を向けているのではなく痛烈な現状批判に根差していることを強調しておきたい。

 

 

 

9、歴史の形象化

 

 

 世界の建築史はそのまま文明史であるが時間と空間を故意に極端に短縮して狭い場所に時代順に並べて見ることができたらどうか。というよりもこのようなことが瞬時にできるように建築家は日々鍛錬しておかなければならない。しかしそんなことをしている人にまずお目にかかったことがない。建築史といったらヨーロッパか日本を対象にするだけでこと足りるとするのがほとんどである。知人でもある指導的立場の建築家が古代ペルシア、アケメネス朝の聖都ペルセポリスの写真をみてギリシアの何処のものだと聞いて来たときには驚いた。世界隈なく旅をしているであろう彼は多分この地にも足を踏み入れているはずなのに一見してわからない。ギリシアはペルシアの影響を強く受けたから確かにペルセポリスの建築群に似てはいるが明らかに違う。それなのに見違ってしまうのはペルシアなどに本来興味がないからなのだ。彼にとって世界は欧米と日本だけであり残りは背景でしかない。しかし彼だけではなく彼以上に欧米日本以外に無関心無知な建築家達が中国で仕事していると聞く。但し彼等の仕事は欧米の建築家達の模倣であり現代中国がそれを求めているのは上海の摩天楼風景にもあらわれているのだから当然のようにも思える。しかしそれでいいのだろうか。中国は近代化に遮二無二突進しているからそれによってできてくる都市風景はアメリカよりも現代性に充ちている。それもそのはずである。アメリカの建築家の仕事がそのほとんどを占めているからである。日本の建築家は欧米の建築家を総動員してもなお余るところを受けもっているであろう。ついこの前まで日本人建築家は忌避されていたから事情はそうなったに違いあるまい。事情はどうあれ他国では仕事するときそこの歴史、最小限建築史の知識を身につけて臨むのが礼儀ではないのか。中国の近代化も何時まで続くかわからない。今せっかくのチャンスなら欧米の建築家達の模倣に終始してそれに埋没してしまったら後に近代化が終焉した後に日本の建築家達の痕跡がなにも残らなくなってしまうであろう。勿論彼らはそんなことを求められてはいまい。しかしものごとが一段落したあかつきには必ずや厳しい評価の時代が到来するものである。そのときに日本人の没個性は中国が調子よいときにそれを喰いものにした悪徳とののしられることになりかねない。というのも文化的貢献が全くないからである。欧米なら近代化の恩人であり協力者であろう。しかし模倣に明け暮れた日本人はそうはならない。もし今中国史に精通し中国の伝統文化の高い教養を身につけてそれの近代化を表現してみせたらさきの罵倒などおこりえまい。逆に高い評価と感謝をうるに違いない。日本と中国とは二千年の交流であり古典文書は中国では王朝の興亡ごとに失われ日本の方が圧倒的に保持していると聞く。日中のこの歴史的関係からも欧米の模倣では中国に対して失礼ではあるまいか。今求められているかどうかの問題ではない。

 さて古今東西の建築を時代順に並べてみることである。ここから見えて来るものは何なのか。実は極東の日本にこのほとんどがかつて存在したということなのだ。日本は和風建築、そんなことはあるはずもないと思うであろう。しかしそうではないのだ。たとえば飛鳥に注目してみよう。

 今年(02)年の元旦、NHKで飛鳥京苑池の発掘のドキュメントと発掘成果を踏まえた復元CGを放映していた。なかなか秀れた番組であったし又橿原考古学研究所の多年に亘る地道な努力と研究成果は特筆に価することを知った。それでも多くのことに疑問を抱いたのも事実である。発掘結果を知ったからこその疑問であるのはいうまでもない。発掘の考古学者達は飛鳥京は水の都であるという。しかも長年の発掘から判明したことは飛鳥京は南北2キロ、東西700メートルに町割がなされ建物と庭園で埋めつくされた都市らしい都市、都らしい都であり水路が都市の隅々まで網の目をなしてはりめぐらされていた。王宮即ち内裏の西北には南北200メートル東西50メートル(だったと思う)の苑池があった。この苑池には南北に細長い中之島があり池畔には薬草としての桃が植えられていた。内裏は皇極天皇の飛鳥板蓋宮であったのは研究者がこの時代、皇極、斉明天皇時代が飛鳥京の最盛期とみなしているからであろう。飛鳥京全体の復元CGもあったが町割はいいとしても個々の建築は苑池の精密無比の技術、造形力とはかけはなれた粗末さであり奇妙に思えるほどのアンバランスであった。苑池には感心した。飛鳥の豊富な地下水脈を利用した巧妙な排水技術が駆使されているというのである。中之島の北側と池の北岸距離はせいぜい20メートルほどであろうか。そこが何と4メートルもの深さだった。それ以外は2メートルだというのにこの深さは何事なのかと考古学者はその理由を土木工学の治水学者に問うたところ学者は地下水と結ぶ排水設備ではないかと助言していた。飛鳥はほぼ南北に幾筋もの地下水脈があり地下水は豊富とのことである。その地下水脈で最も流の盛んなものの上に池をつくり渇水期には深さ4メートルの所から地下水が沸いてくるようになっている。逆に大量の降雨があったときは都市全体に張りめぐらされた水路の水を集めこれを深さ4メートルの所から地下水をめがけて排水をする。治水学者はそれを実験して確かめていたから現代ではこのような技術は失われているのであろう。信じられないほどの高度な給排水技術であるという。このような池の作り方は中国にはなく日本独自のものに違いないと考古学者は力説していた。もしそうなら飛鳥京以外で何故この技術が使われなくなったのであろう。しかし実はこのことが重大なのである。飛鳥京にあって平城京、平安京にない技術。これは明らかに失われた技術なのである。飛鳥京の最盛期が斉明天皇時代とするのは『日本書紀』の記述によるのであろうが斉明天皇以後に滅びた権力は天智天皇の近江勢力であるがこれは天智、天武の兄弟喧嘩であって亡びたうちにははいらない。斉明天皇が皇極天皇であったとき蘇我本宗家が亡んだが飛鳥はその蘇我本宗家の本拠地であり推古天皇以降は蘇我氏が自分の本拠地を都としたのであった。それが飛鳥京である。亡んだ技術は蘇我氏の技術であろう。その蘇我氏はペルシア系トルコ民族高車であり北ユーラシアから北海道、東北地方経由で河内大和にやって来た征服民族であると年末(01)に書き下ろした『消えた聖徳太子』(仮題、未刊)に書いたばかりである。発掘に関わったわけでもないし単に発掘成果をもとに推理するのは誠以って申し分けないのだがあの高度な水の技術はペルシア渡りに違いないと思う。ペルシアはオアシス都市を方々に作ってきたがその原動力であるカナート(地下水溝)の技術は有名である。蘇我氏が飛鳥にペルシアの技術者を招いていたのであろう。崇峻、推古天皇時代に蘇我氏は日本最初の巨大寺院で氏寺でもある法興寺(飛鳥寺)を建立するために多数のペルシア人技術者を呼び寄せている。このときに土木技術者も呼び寄せたであろう。ともあれ高度な水の技術を駆使した苑池であるが復元CGの建築がまるで木造バラックでありイメージに格差があり過ぎる。多分「板蓋宮」の名に影響され瓦を使用しない粗末な建物と想定してああなっているのであろう。板蓋とはいっても瓦の法興寺が建立される同時代の宮殿である、そんなみすぼらしいものではなかったはずである。板で瓦のようなものをつくりふいていた可能性が高い。弥生前期の鍵唐子遺跡の土器に描かれた家屋には瓦ぶきとおばしき屋根がある。しかし瓦はいまだ1枚も発掘されていない。瓦の技術を知らなかった弥生人は中国建築を見聞したものから聞いて板瓦を考案したのではあるまいか。堅木で作れば充分防水の役割を果たすし第一見た目に重厚豪華である。飛鳥板蓋宮とは弥生以来の板瓦を使用していたのではあるまいか。屋根もCGのように直線ではなくゆるい曲線をなして優雅なたたずまいを見せていたであろう。それよりも蘇我氏の都(推古天皇から大化改新まで蘇我本宗家が大王家というのが『消えた聖徳太子』の骨子)である、ペルシア風の絢爛豪華な形と極彩色の建築が建ち並んでいたはずである。それは平等院鳳凰堂のような建築である。(「機能深化への誘い」参照)又発掘された苑池の噴水(両面石や須弥山石から噴き出る)装置の配置が復元CGに近いのならあれは中国風ではなくペルシア風である。飛鳥の水に関わる施設なり巨石をみていてペルシアに近いというのが従来からの印象であったが今度の苑池の発掘成果には更にその意を強くした。飛鳥の復元はCGであるから異論が続出したり研究者自身の見解が変わったら変更すれば済む。この利点を最大限にいかして古墳時代の宮都をCGか映画での映像復元し観光資源としたらどうかと現在の奈良県知事に一昨年(2000)申し出たが会った時間が短かったのかそれとも興味がなかったのか理解したようではなかった。ヨーロッパの有名遺跡地では映画にして上映し訪れた人々を楽しませている。飛鳥もそれをするといい。

 映像復元はいいとしても実物復元には問題が多い。青森県の縄文遺跡の山内丸山の復元には首を傾げてしまう。特に粗野な高楼である。BC5000年からBC3500年の1500年間一切戦闘の痕跡がないのに何故高楼が必要あったのか理解に苦しむ。高楼は外敵の侵入を監視するために作られるはずである。高い建築なら高楼型神殿であろう。BC5000年にはホゾやヌキを使用した高度な架構技術があったから復元されているような材料の接合部を縄でぐるぐる巻きで結うのでもなく又堂々たる屋根を被った神殿であろう。BC5000年からBC3500年といえば古代エジプトの繁栄期にあたる。建築史上最高の傑作ピラミッドもBC5000年より少し遅れて建造された。日本の縄文は充分に文明の名に価する文化であったから堂々たる建築群を三内丸山は有していたはずである。人類は高度な建築を構築する段階に達していたからである。柱が掘立てだから素朴、原始的だったというのは皮相的観察に過る。今は書かないがあれも単なる掘立てではない。高度な木造技術に裏打ちされていたのである。それでは神殿はどのような形をしていたのか。そのモデルは必ずユーラシアにある。日本は島国であり気候も国土も狭く温暖であるため情報伝達は縄文時代でも想像以上に早かった。従って変化も早い。ところが大陸は広大で情報伝達も遅く変化が乏しいから古代の建築形式をそのまま残存させている文化が現在でもある可能性がある。縄文ならシベリアにモデルがあろう。

 世界の建築史に精通する必要があるというのは遺跡を復元するときそのモデルをどこに求めるかを適確に判断するためでもある。日本には古来から海を伝って全世界から文物がもたらされている。この地理、歴史の特徴をよくわきまえておくべきである。しかしそれだけではない。建築の文明史的意義即ち本質といい変えていいがそれを熟考し今後の建築の行くべき道を各建築家個々が示す必要に迫られているからである。

 

 

 

10、応答方式の空間創出

 

 

 評論プラス作品集である『建築のマギ(魔術)』(角川書店、2000年)に書いたことであるが空間創出に三応答方式が今後有効なのではないかといった。『マギ』では学生の作品にみるべきものがあったのでそれの解説としてこの方式に言及したため舌足らずであり自分自身の空間創出と関連ずけることはほとんどしなかった。というのもこの本は設計技法も求められていたからである。この方式には前提がある。建築の空間構成としては空間が入れ子状になっている重層空間を今後の展開には欠かせないということである。はっきりいえばこれ以上の方法はない。その最高モデルは去年(01)死去した毛網毅曠の「反住器」である。この建築(住宅)は72年の作であるから世界でもこれ以後これを越えるものはなかったということになる。残念ながら勿論私自身にもない。入れ子状の重層空間が何故優れて未来的であるのか。答は至って簡単明瞭である。古代エジプトのピラミッドや神殿は建築史上の最高傑作には違いないが現代の複雑多岐に亘る生活をいれる容器としては不適当であるのは誰の眼にも明らかであろう。今後ますます私達の生活は複雑になりときには多岐に亘りすぎて奇怪にすらなる場合があろう。高度情報と極めて素朴な面対面の対話が共存する社会、もっとわかり易くいえばハイテク戦とローテクの自爆テロが争克して勝負がつかない世界、それに適合しそれを象徴する空間構成は重層空間しかない。如何に流行しようとミニマルアートまがいの「軽快透明」でもなければコンクリート箱でもありえない。この流行は世界現実に対する一種の逃亡であり忌避にすぎない。

 更に強調したいのは元型の発現であり言葉(パロール)への鋭敏な反応である。わかり易くいうなら空間の根源的イメージと認識の道具コトバが重要である。詳細については『マギ』にゆずるがこの重層空間、元型(『マギ』では瞑想といっている)コトバの相互の三重応答によって生み出す空間が最も未来的であろうと考えた。だから応答といっても必ずしも他人との応答をいうわけではなく世界を認識又は多様さを識別して発するコトバにあらわれる自己の中の他者との応答といった方がいいかもしれない。「他者」が他人であることは勿論ある。建築にあっては依頼者だったり空間体験(主として建物を使用すること)予定者がそれにあたる。これと同じ位に重要なのが自問自答なのである。

 建築は地形に合っているから風景になじむというものではない。各場所場所にはそれ固有の歴史がありその場所の周辺に住む人々の共通したイメージがある。それを伝説が最も端的に示すが伝説のようなものがないときにどうするのか。そのときこそ瞑想しかない。こういってしまうといかにも抹香くさいと思われそうである。座禅でもするのかといえばそんなことはない。その場所を訪れ瞑想すれば鮮明なイメージが浮かびあがってくるものである。勿論周辺の風景がイメージを引き出す重要な要因ではある。三応答方式とはコトバと元型(又は瞑想)、元型と重層空間、重層空間とコトバの応答をいう。コトバと元型の応答では最初に場所を読むことからはじまるのだが具体的にはこの場所の歴史や現在の社会経済、政治的状況を読むことである。そのことをここに住む人々がどう受けとめしかもどういう理由で建築を欲求しているのか彼らの深い意識を汲みとることである。元型と重層空間の応答とはその場所に住む人々の根源イメージを察知しその元型を識別することである。そうすれば重層空間構成となる建築の具体的形象を生み出すことができる。勿論使用の仕方を規定するはずの間取(平面計画)天井高さなどもこの応答によって決定される一部分である。しかしこれだけでは足りない。重層空間とコトバの応答はその足りないところを補う。簡単にいえば抱いた空間イメージなり形象をコトバで再解釈してそれには如何なる意味があるのか自問自答することが必要になってくる。それと同時にそれを具現化するためにどのような材料や構法を使用するかなどの技術を決定することも必要である。技術は最も客観性が高くコトバでもパロールではなく言語即ちラングに属する領域である。

 こう書いてくると建築家なら誰でもやっていることではないかといわれそうである。でもどうもそれは違うようである。

 重層空間としては不徹底のきらいがあるので重層空間を単に建築空間といいかえて実作二例の三応答方式の実際を説明してみたい。

 まずは北海道、網走の北、上湧別町の郷土資料館「ふるさと館」。コトバと元型の応答はどうであったか。北海道も原住民アイヌのための建築ならばユーカラなどの伝説を元型としうるのであるがそれ以外は明治以降の入植者であり歴史も短く伝説といえるものは育まれていない。但しこの建物は現存する数少ない屯田兵舎の保存展示を主目的とする。この地に入植した人々の労苦は筆舌に尽くせるものではなかったようである。町史に克明に記されている。これを熟読していると当時の労苦が映像となって浮かんで来るのだがなんといっても極寒との闘いが凄絶だった。極寒の地の建築空間とはどのようなものであろうと想像をめぐらせる。ここで浮かんで来たものが元型といえる。村史に記された入植者の労苦譚がこの場合のコトバである。極寒イメージこそ元型であろう。次に元型と建築空間の応答である。縦に細長い井戸底のような空間、井戸底では光は垂直に上部からしか入って来ない。しかも井戸底とはいえ四周壁で囲まれた袋状空間ではなく天に起立する四本の柱で囲まれる針葉樹の森の中を思わせるものでなければならない。これが元型が生み出す建築空間。即ち元型「極寒のイメージ」が刺激して建築空間を生み出している。もともと井戸底空間は私の建築にはじめからあらわれていた。自宅の「餓鬼舎」「龍神村体育館」が典型例ではあるが習作段階でもうそれはあらわれ「学生下宿」に使われている。しかし三作とも四周壁に囲まれている。井戸底は雪国で育った家屋の記憶に根差している。家全体がすっぽりと雪をかぶり光といっては煙抜きから入るだけの闇。これが井戸底へと導いたと云える。しかし雪国の闇ではあっても極寒とはいいがたい。上湧別の晩秋の風景に接するうちに針葉樹林の空間イメージと井戸底が合体するようになった。この段階までが間違いなく元型の発出であろう。

 建築とコトバの応答。コトバは上湧別町長はじめ町当局の人々や町の人々の語るいわゆる設計条件である。これに即して間取り、天井高などが決められていく。次に木と鉄筋コンクリートの混構造が私が抱いた空間イメージに具現化するには最も適していたし、町当局の希望にもそっていた。これがもう一つの応答である。幸いなことにこの建物への1平方メートルあたりの来館者はこの種のものとして北海道で断然1位で2位の2倍とのことである。竣工後5年経っても変わらないと聞いた。町当局の努力の賜には違いない。

 次に秋田市体育館。これは今まで手掛けた仕事で断然大規模であるがコトバと元型はどうであったか。この仕事は7社(といっても私の工房は会社ではないが)の指名コンペであったのでいわゆるテーマを言語化してプレゼンテーションする必要があった。設計主旨として求められていることである。体育館なので「現代のオリンピア神殿」を主テーマとして掲げた。これがコトバである。元型は秋田であるから縄文である。自分の出身県の県都の記念建造物であるから元型探しには苦労しなかった。そこで私はこの応答の結果を「縄文首都のオリンピア神殿」と銘打った。元型と建築空間の応答が最も勝負所であるのはいうまでもない。

 縄文表現の典型は火焔土器のとぐろ巻く蛇、めらめら燃上がる火焔更には噴火を形象化したような過剰なゆらめきの噴出、これを建築空間化することに専念した。それが親子亀と蛇を合体させたような形象として浮かんできた。中国の方位四神玄武に近いイメージであった。

 建築空間とコトバであるがこの場合のコトバはコンペの計画条件である。幸いにして当選したので実施設計に当たっての市当局の人々の言説、この場合は設計条件が追加されたコトバであった。建築空間は設計条件にそってコンペ当選案に手を加えた結果そのものである。この建築空間を具現化させている構造や施工の技術は設計者が発するコトバ、この場合はラングである。この三応答方式で他の建築家と違っているのは元型の重視であろう。これはユング心理学の基本概念であり単なる読書によって得られるものではない。深い瞑想を必要とする。この建築も東北中の公共体育館で断然1位の使用率であり1年中フル稼動、市民はクジ引きで使用日が決められると聞いた。

 実は三応答方式は中国古来の「礼」を参考に編み出したのである。「礼」など古い儒教々義ではないのかカビ臭いといわれそうである。それは『礼記』を読んだことのないたわごとに過ぎない。このことは『マギ』を読んでもらうしかないが簡単にいえば以下のようなことである。礼は最高の徳というが道徳ではない。天とはほぼ神に近い概念であるが一神教の唯一絶対の至高の存在というのではなく宇宙の意志とでもいっておこう。天が人間同志が平和に生きるように考え出した知恵、これを徳という。礼は儀礼を含み儀礼は礼儀を含み礼儀は行儀を含む。これが入れ子、重層空間のヒントとなった。どちらにしても礼は身振りに関わる身体言説には違いない。人と人は2メートル以上離れて接するのが礼儀なのである。これは闘争が生じないための配慮であるが礼から行儀までの身振りはまさに入れ子構成である。又最高礼即ち最高の徳は聖王の言葉とされ聖王は天の意志の実行者をいう。プラトンの哲人と思えばいい。しかし礼に忠実過ぎると堅苦しくなり対人関係がぎすぎすすることになる。これを和げるのが音楽であり礼の実践には音楽が伴う。それで礼を礼楽ともいうのである。音楽は芸術であり元型であり瞑想をいざなう。がんじがらめの形式に振りまわされないために音楽を楽しむ。これが中国三千年の知恵であり実践的思想なのである。恒久平和の実現の永遠の知恵ではあるまいか。礼は重層空間、音楽が元型、『礼記』なる書物や礼儀心得がコトバである。この三重応答が三千年間中国の人々を結びつけてきた。礼とは中国統一の永遠の平和の概念装置である。未来の建築はこれが空間化されてこそ本来のそして根源的役割を果たせるのではあるまいか。文明の形象化がこのようにして実現することを望みたい。

秋田能代木匠塾の設立を,秋田木材通信社,19920101

秋田能代木匠塾の設立を

                                 布野修司

 

 昨年は、長年、お世話になった東洋大学を辞し、京都大学へ転勤することになった、私にとって、実に大きな転機の年でした。六月に決まって、九月には着任ということで、前後、あたふたと慌ただしかった上に、飛騨高山木匠塾の開校(七月)をはじめ、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)、建築フォーラム(AF)、出雲建築展(一一月)なんどで目まぐるしく、秋田には、すっかり御無沙汰してしまいました。京都に移って、秋田からは少し遠くなるような気もしますが、情報化時代に物理的距離は関係無いでしょう、今後とも宜しくお願い致します。

 一昨年は、三度も秋田へお邪魔したのですが、その後、秋田の木材業界は如何でしょうか。明るい展望は見えてきたのでしょうか。

 建設業界もそうなのですが、どうもこのところの業界の話題は、専ら技能者養成問題のようです。木造の需要が減ることもさることながら、木造の技術者がいなくなれば、木造建築の未来はないというわけです。確かに、京都にきてみて、そう感じることがあります。京都の景観を保存せよといっても、社寺仏閣や町家を建て、維持管理する職人さんが居なくなれば、保存もなにもないのです。京都でも木造建築技能者の問題は、いささか遅すぎるのですが、今ホットなテーマになりつつあります。京都のような木造建築のメッカのようなところで木造文化を維持していく仕組みを再生できないとすれば、わが国の木造文化も末期的と言っていいのでしょう。

 もうひとつ、テーマとなるのは、熱帯林、南洋材の問題でしょう。地球環境時代などといわなくても、一定の期間でリサイクルできる資源としての木材生産の仕組みをもう一度再構築することが本格的に日本全体で問われています。南洋材の問題でクリティカルなのは、合板で、むしろ鉄筋コンクリート造の建築なのですが、造作材にしても、合板の使用には、様々な代替策が求められるでしょう。

 飛騨高山木匠塾でインターユニヴァーシティーのサマースクールを開校してみて痛感されるのは、山と木そのものに触れることが大事だということです。この飛騨高山木匠塾の原型は、その前年における秋田・能代での大学合同合宿にあるのですが、各地に木と木の技術に触れる場所ができないものでしょうか。サイト・スペシャルズ・フォーラムでは、「職人大学」(仮称)を構想中なのですが、その前提は、各地に、木の文化を支える拠点ができることです。

 秋田能代木匠塾と仮に呼ぶ、そんな空間はできないでしょうか。楽しみにしてます。



 


2022年10月23日日曜日

京町屋再生研究会,雑木林の世界38,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199210

 京町屋再生研究会,雑木林の世界38,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199210

 雑木林の世界38  京町屋再生研究会

                       布野修司

 SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の会合になかなか出れなくなった。一度日程が狂うとことごとく調整ができなくなるのである。京都を本拠地としているから仕方がないとはいえ、いまさらのように、もどかしさを感じるところである。ただ、時代は情報化社会である。日々、情報は入ってくるし、動きが手に取るように把握できるのは救いである。

 SSFでは、サイト・スペシャルズ・アカデミー(職人大学)の構想がようやくパンフレットにまとまり、いま、本格的な賛同者募集が開始されようとしているところだ。楽観的かも知れないのだが、かなり感触はいい。大きな山が動きだそうとしているそんな予感がある(職人大学設立をめざすSSFについての情報、パンフレットは事務局043-296-2701へ)。

 

 京都の夏は暑い。といっても東南アジア馴れしていると、こんなものかとも思う。涼しい飛騨高山へ行っていたせいかもしれない。今年は台風が多いせいかもしれない。しかし、やっぱり暑いことは暑い。暑いと言えば、京都は景観問題をめぐって、依然としてホットである。「京都ホテル」をめぐる仏教会による工事差し止め仮処分申請が裁判所に却下され、仏教会は再び拝観拒否の戦術を取ることを決定したようなのである。

 日本建築学会の『建築雑誌』6月号は「京都の景観問題」の特集であった。おかげで、問題の構図は、少なくとも建築界ではかなり知られるようになったといっていい。しかし、京都ホテルや京都駅とは別により深刻で一般的な問題があることはなかなか伝わらない。

 例えば、次々に町屋が消えていく問題がある。京都の市民にとって身近なこの問題をめぐってはなかなか議論になりにくい。実際、様々な立場があって共通認識は得られていないようにも見える。あるいは、京町屋が消えていくことが京都にとって大きな問題であることは意識されているのかも知れない。しかし、具体的な動きというと見えてこない。実際にどういう動きを創っていくかというと容易なことではないのである。議論はわかった。じゃあどうするのかが今問われ始めつつあるのである。

 そうした中で、去る七月一六日、祇園祭のクライマックスである宵山の夜、ひとつの小さな会が旗揚げされた。「京町屋再生研究会」という。発足趣意書には次のようにいう。

 「千二百年の輝かしい歴史を持つ京都は、今も、わが国をはじめ世界の多くの人々を魅了する、甚だ個性的な都市であります。しかしながら、近年の環境悪化、地価高騰等を背景にして、京都の町は急激に崩れ去ろうとする重大な危機に直面するに至りました。

 昨年一月、京都市は緊急の課題として、「伝統と創造の調和した町づくり推進のための土地利用についての試案」を発表し、続いて六月、「京都市土地利用及び景観対策についてのまちづくり審議会」が開かれ、本年四月、その答申が出されました。このなかで、都心の伝統的な京町屋の保全、再生の必要性が強く提案されています。これに対応して、民間各種団体からも多くの「まちづくり提言」が出されました。

 今、私達は京町屋を再生する、各レベルの研究を統合してゆくと共に、それを実践に移すべき時機が到来したと認識し、共鳴する友を集めてその担い手になることを決意しました。」

 研究会というものの具体的な実践を目指した研究体である。多くの提案は出されている。今はそれを実行すべき時だ、というのがひしひしと伝わってくるではないか。

 横尾義貫、堀江悟郎の両先生を顧問に、望月秀祐(京都建築士会会長、モチケン・コーポレーション)会長以下、研究スタッフ、ワーキング・スタッフ、協力スタッフ合わせて二〇名が発足時のメンバーである。ワーキング・スタッフは、木下龍一幹事長(アトリエRYO)以下、建築家のグループで、協力スタッフの中には、安井洋太郎(安井杢工務店社長)、熊倉亨(熊倉工務店社長)が加わる。実践体として極めて強力な陣容である。

 僕もまた、高橋康夫、東樋口護、吉田治典、古山正雄の各先生と共に、研究スタッフとして発足メンバーに加えて頂いたのだが、正直に言って、勉強させて頂きますの心境だ。京都についての勉強は否応なく始めたのであるが、何せ、一二〇〇年の都市である。出雲で生まれて、東京の周辺で過ごしてきたものにとっては京都の人とは素養の厚みが全く違うというのが実感である。しかし、とにかく具体的に何かをやるというのは賛成である。景観問題で揺れるといっても、より深刻なのは京町屋である。京町屋の再生をストレートにうたうのは、その重要性を理解し、訴える上で極めて有効でもあろう。

 ところで、京町屋再生研究会は具体的に何をするのか。上の「設立主旨」は、続けて次のようにいう。

 「まず一軒一軒の町屋を楽しく住みよくすることから、隣や向かいに連続する家並を修景すること、路地裏長屋の修復、再生をすること、町内に商いや工芸の制作展示あるいは喫茶、飲食等の場所そして仕事や観光で訪れる人々が、行き交い集える場所を顕在化すること、日本各地や世界の情報、新しい都市エネルギーを町内のすみずみまでゆきわたらせること、地域共同体空間としての会所、公園、学校、広場、地下共同駐車場の復元開発等。」

 要するに、身近な環境で出来る事からというのが基本方針である。そして、具体的なモデル住区を設定し、そこでまず実践することが検討されている。

 とりあえず、研究会を重ねながら具体策をつめていくことになるであろうが、問題は事業化手段である。かなりの基金が集まるのであれば、思い切った手が打てるのであるが、そう簡単ではないだろう。粘り強い取り組みが必要となるのは覚悟の上である。

 京都の都心の荒廃には想像以上のものがある。その危機感が京町屋再生研究会結成の大きなモメントとなったのであるが、例えば、祇園祭の山鉾町でもかなりのブライト化が進行していることが、歩いてみるとすぐわかる。駐車場や空き家で歯抜け状態なのである。山鉾を曳航する住民がほとんど居なくなった町も少なくない。都心部の小学校の統廃合も次々に決定しつつある。正直言って、もう遅い、という感慨が湧いてきたりする。

 もちろん、都心問題は京都に限らない問題ではある。ただ、それこそ歴史と伝統の厚みを誇る京都で他に先駆けて何らかの方向性が出されるべきだというのも一理ある。ストックの薄い他の都市ではより困難なことが多いといえるからである。京町屋再生研究会の行方は、そうした意味でも興味深い。いささか他人事のようではあるが、今後の動きに注目である。






2022年10月22日土曜日

「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199107

 「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199107

雑木林の世界23

 飛騨高山木匠塾(仮)構想

                        布野修司

 

 今年の一月末、ある秘かで微かな夢を抱いて、飛騨の高山へ向かった。藤澤好一、安藤正雄の両先生と僕の三人だ。新幹線で名古屋へ、高山線に乗り換えて、高山のひとつ手前の久々野で降りた。道中、例によって賑やかである。ささやかな夢をめぐって期待と懐疑が相半ばする議論が続いた。

 久々野駅で出迎えてくれたのは、上河(久々野営林署)、桜野(高山市)の両氏。飛騨は厳しい寒さの真只中にあった。暖冬の東京からでいささか虚をつかれたのであるが、高山は今年は例年にない大雪だった。久々野の営林署でその概要を聞く。久々野営林署は八〇周年を迎えたばかりであった。上河さんに頂いた、久々野営林署八〇周年記念誌『くぐの 地域と共にあゆんで』(編集 久々野営林署 高山市西之一色町三ー七四七ー三)を読むとその八〇年の歴史をうかがうことができる。また、未来へむけての課題をうかがうことができる。「飛騨の匠はよみがえるか」、「森林の正しい取り扱い方の確立を」、「木を上手に使って緑の再生を」、「久々野営林署の未来を語る」といった記事がそうだ。

 木の文化、森の文化を如何に維持再生するのか。一月の高山行は、大きくはそうした課題に結びつく筈の、ひとつのプログラムを検討するためであった。もったいぶる必要はない。ストレートにはこうだ。上河さんから、使わなくなった製品事業所を払い下げるから、セミナーハウスとして買わないか、どうせなら「木」のことを学ぶ場所になるといいんだけど、という話が藤澤先生にあった。昨年来、しばらく、その情報は、生産組織研究会(今年から10大学に膨れあがった)の酒の肴となった。金額は、七〇〇万円、一五〇坪。いくつかの大学か集まれば、無理な数字ではない。とにかく行ってみてこよう、というのが一月末の高山行だったのである。

 雪の道は遠かった。寒かった。長靴にはきかえて、登山のような雪中行軍であった。中途で道路が工事中だったのである。野麦峠に近い、抜群のロケーションにその山小屋はあった。印象はそう悪くない。当りを真っ白な雪が覆い隠している中でひときわ輝いているように見えた。

 それから、三ケ月、どう具体化するか、折りにふれて議論してきた。しかし、素人の悲しさ、議論してもなかなか具体的な方策が浮かばない。そのうちに、とにかく、わが「日本住宅木材技術センター」の下川理事長に話しをしてみろ、ということになった。頼みの藤澤、安藤の両先生は、ユーゴでの国際会議で出張中。塾長をお願いすることになっている東洋大学の太田邦夫先生と以下の趣旨文を携えて下川理事長にお会いすることになった。

 「主旨はわかります。しかし、どうして大学で「木」のことを教えることができないんですか」

 いきなりのメガトン級の質問に、太田先生と二人でしどろもどろに答える。

 「五億円集めて下さい。維持費が問題なんです。」

 絶句である。七〇〇万円のつもりが五億円である。言われてみれば当然のことである。どうも、いいかげんなのが玉に傷である。あとのことは、払い下げてもらってから考えればいい、なんて気楽に考えていたのだ。プログラムは、立派なつもりなのだけど、どうにもお金のことには弱いし縁もない。

 その後、建設省と農水省にも太田先生と行くことになった。生まれて初めての陳情である。しかし、陳情だろうと思いながら何を頼んでいいのかわからないのだから随分頼りない。

 しかし、乗りかかった船というか、言い出してしまったプログラムである。とにかく、賛同者を募ろう、というので、五月の連休あけに山小屋をまた見に行こうということになった。新緑の状況もみてみたかったのである。

 メンバーは、当初、太田邦夫、古川修(工学院大学)、大野勝彦(大野建築アトリエ)の各先生と藤澤、布野の五人の予定であったのだが、望外に、下川理事長が忙しいスケジュールを開けて下さった。全建連の吉沢建さんがエスコート役である。総勢七人+上河、桜野の九人。大いに構想は盛り上がることとなった。冬には行けなかったのであるが、新緑の野麦峠はさわやかであった。 さて、(仮称)飛騨高山木匠塾のプログラムはどう進んで行くのか。その都度報告することになろう。以下に、その構想の藤澤メモを記す。ご意見をお寄せ頂ければと思う。

 

飛騨高山木匠塾構想

設立の趣旨:わが国の山林と樹木の維持保全と利用のあり方を学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランス良くつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築を目指す。

設立の場所:岐阜県久々野営林署内・旧野麦製品事業所ならびに同従業員寄宿舎(この建物は、昭和四六年に新築された木造二棟で床面積約四八三㎡。林野合理化事業のため平成元年末に閉鎖され、再利用計画が検討されている。利用目的が適切であれば、借地権つき建物価格七〇〇万円程度で払い下げられる可能性がある)

設立よびかけ人: メンバーが建物購入基金を集めるとともに運営に参加する。また、塾は、しかるべき公的団体(日本住宅・木材技術センターなど)へ移管し、管理を委譲する。

学習の方法: 設立に参加した研究者・ゼミ学生と飛騨地域の工業高校生が棟梁をはじめ実務家から木に関するざまざまな知識と技能を学ぶ。基本的には参加希望者に対してオープンであり、海外との交流も深める。

 ここでの学習成果は、象徴的な建造物の設計・政策活動に反映させ、長期間にわたり継続させる。例えば、営林署管内の樹木の提供を受け、それの極限の用美として「高山祭り」の屋台を参考に、新しい時代の屋台の設計・製作活動を行うことも考えられる。製作に参加した塾生たちが集い、製作中の屋台曳行を行うなど毎年の定例的な行事とすることも考えられる。また、地元・高根村との協力関係による「施設管理業務委託」やさまざまな「地域おこし」も可能である。

開校予定:

 平成3年7月23日から芝浦工業大学藤澤研究室/東洋大学布野・浦江・太田研究室/千葉大学安藤研究室のゼミ合宿をもって開始する。

 





2022年10月21日金曜日

住居根源論,雑木林の世界22,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199106

 住居根源論,雑木林の世界22,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199106

雑木林の世界22

 住居根源論

                        布野修司

 

 昨年の三月から今年の三月にかけて、計五回、「住居根源論」と題した連続シンポジウムに出席する機会を得た。といっても、企画を立てて、毎回、司会をしていただけだから、たいしたことはない。しかし、僕自身は随分勉強になった。毎回、小松和彦氏と同席できたことは大きい。文化人類学者、民族学者としての小松氏の仕事は言うまでもないであろう*1。大変な売れっ子である。また、物知りである。フィールド派でもある。僕はかねがね文化人類学者には敬意を抱いているのであるが、小松氏もそのひとりだ。彼は、ミクロネシアや高知でフィールド調査を続けている。住居の問題をそうしたフィールド派の碩学と論じるのは実に刺激的であったのである。

 こう書くと主役に怒られる。各回には主役がいて、主役を挟んで二人がそれをサポート、コメントするのがプログラムであった。そのラインアップは、以下のようである。

 

 建築フォーラム'90'91 ”深化する建築ーー住居根源論”

 FORUM PART-1 建築を遡行せよ

         総論         渡辺豊和   199003

  FORUM PART-2 命の泉は何処にありや 

         住居に現れる水        平倉直子   199006

 FORUM PART-3 空間の響き 場のざわめき

         住居に現れる音        高橋晶子   199009

  FORUM PART-4 

         住居に現れる風        妹島和世   199012

  FORUM PART-5 都市の火・住宅の火

                住居に現れる火        後藤真理子 199103

 

 水、音、風、火というテーマ設定からピンとくるものがあろうか。下敷になっているのは、ギリシャ哲学の万物の四元素である。ミレトスのタレスは、「水は万物の根源なり」といった。紀元前五世紀頃、エンペドクレスは、水、空気、土、火、を万物の元素とした。あるいは、仏教の五大である。地水火風空智というのが六大であるが「地底建築論」(明現社)をものしたことのある渡辺豊和氏の総論を「地」に割り振り、「空」を空気の振動は音ということで「音」に位置づければ五大を住居に即して考えてみようという格好になる筈だ。いささかこじつけかもしれない。G.バシュラールの一連の著作、『火の精神分析』、『空間の詩学』、『大地と休息の夢』などが一方で頭にあった。

 

 各回の議論の内容のエッセンスは、主催者である松下電気産業の「季報」に掲載された。また、近い内に本にもなる筈だ。各回で考えようとしたのは例えば次のような問いである。ますます、人口環境化しつつある世界で、自然をどう考えるかが共通のテーマとして浮かびあがってくる。しかし、各回は同じテーマを繰り返していたわけではない。それぞれのテーマ毎に固有の問題があった。住居を根源的に考えてみるいい企画ではなかったか。自画自賛である。

 

 「乾いた世界のオアシス、天水利用の山岳地帯、潅がい耕作の高原、河川利用の平原、逆に、デルタの溢れる水、そして、世界に開かれた海の世界。水利、治水は、居住の基本である。水利の形態によって多様な住居集落がつくられてきた。水を制するものが世界を制するという言葉もある。水の世界は世界への交通路でもある。

 淀んだ水、暗い沈みこんだ水の魅力もあろうが、流れる水、循環する水、動きのある水に豊かさがある。世界を写す水、どこまでも澄んだみず、水浴び、木浴、清めの水、水に流す、水の豊かな世界が忘れられてしまっている。」

 

  「西イリアン(インドネシア)での話である。農村開発の一環として、生活環境改善が各地で行なわれるのであるが、ある村にトイレが設置された。しかし、半年経っても、一年経っても、いっこうに使われない。どうしてか、と問えば、用を足す時には、やっぱり、青空が見え、川のせせらぎが聞こえないと出るものも出ない、という。住まいと音というと、まず、思い出すのがこの嘘のようなほんとの話である。

 トイレと音といえば、集合住宅に住んでいてまず問題になるのがトイレの縦管を伝わる音だ。ものすごい。うるさいと思えば耐えられないのだけれど、縦につながって暮らしているんだなあ、という奇妙な連帯感も湧いてくるのが不思議である。」

 

  「風というのは建築学的には60√hと表現される。60√hというのは、高さhメートル(15メートル以下)のところの風圧である。すなわち、建造物の構造計算をするために、風は、風圧という数字に還元されて処理されるのである。しかし、風はもちろんそれだけの存在なのではない。実に多くの表情をもっている。強風、涼風、微風、すきま風、北風、・・・風にも色々あるのだ。

 風と住まいというと、すぐ思い出すのは、パキスタンのシンド地方の住居だ。暑さをしのぐために、風を巧みに取り入れる、風の塔が実に印象的である。風の塔と言えば、アテネに八角形の「風の塔」がある。パルテノンの岡からもよく見える。各方角から吹いてくる風の特性が図像で示してある。強風は時に住まいを吹き飛ばす。だから、南西諸島の民家は、台風に対する構えをもっている。建物を強化する方法もとられるがそれだけではない。石垣や防風林で屋敷地を囲い、環境全体をしつらえる必要があったのだ。今日、自然の風を感じるのはそれこそ台風の時ぐらいだろうか。そういえば、超高層ビルの林立する都市には、ビル風が吹き荒れている。」

  三月は「火」をテーマとしたのであるが、ざっとテーマを拾い出せば以下のようであった。

 A.火の民俗 火の経験

 B.火祭りと共同体、家族と炉

 C.火の験能、浄めの火、悪霊払い

 D.火の視角化、火の表現

 E.防火と再開発、消防法

 F.火とエネルギー

 G.火と照明

 

 このシリーズは、今年度も六月から続けられることになった。題して、「住居未来論」。乞う、御期待。司会は安藤正雄氏が務める。

*1 1947年生まれ。大阪大学文学部助教授。国際日本文化研究センター客員教授。人類学、民族学、国文学等、幅広く探求。特に妖怪研究で知られる。『神々の精神史』、『鬼がつくった国・日本』、『異人論』など著書多数。






2022年10月17日月曜日

阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年

 阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年 


 復旧・復興計画手法の評価


Ⅰ章 2-2 復旧・復興計画手法の評価(布野修司)

 

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。震災2ヶ月後に起こった「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)とそれに続く「オーム真理教」をめぐる衝撃的事件のせいもあって、阪神・淡路大震災に関する一般の関心は急速に薄れていったように見える。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後3年を経て、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。重点復興地域のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、重点復興地域から外され基本的に自力復興が強いられた8割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の具体的な展開と問題点は、自治体毎に、また、地区毎に、さらに計画(事業)手法毎に以下の章でまとめられている。本稿ではいくつかの評価軸を提出することによって、共通の問題点を指摘し、復旧・復興計画手法の評価を試みたい。

 

 2-2-1 復旧・復興計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことである。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。

 

 2-2-2 復旧・復興計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが4月11日、水道復旧が完了したのが4月17日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものといえるであろう。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧。復興計画に活かすかが問われていたといっていい。

 最初に大きな閾になったのが3月17日(震災後2ヶ月)である。建築基準法第84条の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が3月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは1月27日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災10日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも1月29日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは8月20日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが8月10日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられる。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(2月24日公布 施行日から5年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(4月28日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(7月28日)などが決定される。また、「阪神・淡路復興委員会」(下河辺委員会)が設けられ、2月16日の第1回委員会から10月30日まで14回の委員会が開催され、11の提言および意見がまとめられている。タイムスパンとしては「復興10ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられている。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 5月11日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の4部会の審議をもとにした3回の全体会議を経て6月29日に提言がなされている(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急3ヶ年計画」である。「産業復興3ヶ年計画」「緊急インフラ整備3ヶ年計画」「ひょうご住宅復興3ヶ年計画」が3本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど3年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が2年というのも3年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。個々の復興計画理念、計画指針の評価は上に論じられるところである。

 ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。

 

 2-2-3 復旧・復興計画の事業手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業である。あるいは市街地再開発事業である。震災4日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定されたとされる。モデルとされたのは酒田火災(1976年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 2月1日、神戸市、西宮市で建築基準法第84条による建築制限区域が告示され、2月9日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第84条の第2項は1ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち2ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第53条による建築制限に移行するために、3月17日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②2月26日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば2年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会は「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「2段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画は一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長に描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」と「密集住宅市街地整備促進事業」を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように3分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業10地区

  市街地再開発事業6地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業11地区

  密集住宅市街地整備促進事業6地区

  住宅地区改良事業5地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法84条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、ABの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A(B)地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴも設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。

 

 2-2-4 コミュニティ計画の可能性

 以上のように、阪神淡路大震災によって、日本の都市計画を支えてきた制度的枠組みが大きく変わったわけではない。大震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはない。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。

 各地区の復旧復興計画は必ずしもうまくいっているわけではない。合意形成がならず袋小路に入り込んでいるケースも少なくない。震災が来ようと来まいと、基本的な都市計画の問題点が露呈しただけであるという評価もある。確かに、どこにも遍在する日本の都市計画の問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたという指摘はできるだろう。

 一方、阪神淡路大震災のインパクトが現れてくるまでには時間がかかるであろうことも確かである。その経験に最大限学ぶことが極めて重要である。特に地区計画レヴェルにおいてはプラスマイナスを含めた大きな経験の蓄積がなされたとみるべきであろう。

 建築家、都市計画プランナーたちは、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるはずである。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。もちろん、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、建築家、都市計画プランナーが、ヴォランティアとして果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組のなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 復旧復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生んだが、とにかくその過程で新しい街づくりの仕組みの必要性が認識されたことは大きい。また、実際に、コンサルタント派遣や街づくり協議会の仕組みがつくられ試されてきた。この住民参加型のまちづくりの仕組みは大きく育てていく必要があるだろう。個別のプロジェクト・レヴェルでも、マンション再建のユニークな事例やコレクティブ・ハウスの試行など注目すべき取り組がある。

 復旧復興の多様な経験から、あらたなまちづくりの仕組みをつくりだすことができるかどうかがコミュニティ計画レヴェルの評価に関わる。無数の種が芽生えつつあると考えたい。

 

 2-2-5 阪神淡路大震災の教訓

 

 a 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 

 

 b フロンティア拡大の論理・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。

 

 c 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であったことが反省される。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 

 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 e 地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 

 f 技術の社会的基盤の認識・・・ストック再生の技術の必要

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。

 

 j 都市の記憶と再生 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているとも言える。

 

*1 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、1995年