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2024年1月4日木曜日

布野修司 履歴 20240101

                   布野修司

20240101

履歴

 

住所 東京都小平市上水本町65 7103

本籍 島根県松江市東朝日町23614

 

1949 810   島根県出雲市知井宮生まれ

 

学歴

1968 3   島根県立松江南高等学校卒業

1968 4   東京大学教養学部理科類入学

1972 4   東京大学工学部建築学科卒業-

1974 3   東京大学工学系大学院修士課程終了

1976 4   東京大学工学系大学院博士課程退学

198712月   東京大学工学博士:学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年),日本建築学会賞受賞(1991)

 

職歴

1976 5   東京大学助手(工学部)

1978 5   東洋大学講師(工学部)

1984 4   東洋大学助教授(工学部)

1991 9   京都大学助教授(工学部)京都大学大学院工学研究科担当

1996 4   京都大学助教授(大学院工学研究科)京都大学工学部兼担

生活空間学専攻 地域生活空間計画講座

20034   京都大学助教授(大学院工学研究科)京都大学工学部兼担

建築学専攻 生活空間設計学講座

      京都大学東南アジア研究センター学内研究担当 20042005

20054   滋賀県立大学大学院環境科学部教授(~20123月)

滋賀県立大学評議員(2009年)環境科学部長(2001420123

副学長 理事(研究・評価担当)(20124月~20153月)

 20154月  日本大学特任教授 生産工学部建築工学科(~20203月)

 20204月  日本大学客員教授 生産工学部建築工学科(~2025年)

        北京工業大学客員教授(201510月~) 建築輿都市規劃学院

        西安工程大学特任教授(201810月~)

 

        滋賀県立大学名誉教授

        日本建築学会名誉会員(2022年~終身)    

 

非常勤講師等

1978年前期   和光大学「都市空間論」

 1986年前期   武蔵野美術大学「東南アジアの住まい」  

 1987年通年   東京経済大学大学院「東南アジア社会論」

 199396   神戸芸術工科大学「住宅の生産      

  199495   京都精華大学「都市計画」

  19947   広島大学「環境工学特別講義」「東南アジアの居住環境」

  19967   奈良女子大学大学院集中講義

  199604   京都造形大学大学院「環境デザイン特論」

  199799   京都精華大学「都市計画」

  199798   広島大学客員助教授

  1998       近畿大学文芸学部集中講義「世界建築史」

  199900   神戸大学非常勤講師「まちづくり論」

 200001   国立民族学博物館共同研究員

 2004年    名古屋大学大学院環境学研究科

 200607    京都大学大学院文学研究科非常勤講師「アジア都市論」

 2006年~   総合地球環境学研究所共同研究員

 2010年~   台湾大学『美術史研究集刊』編集委員会委員

 201617年  島根短期大学客員教授

201721年 23年~   放送大学 面接授業 前期「アジアの都市と建築」(2020前期休校COVID19) 後期「世界住居誌」

2021年 名古屋造形大学 住居論 山本理顕+布野修司 4回

 

資格・受賞

一級建築士(第94445):1975

 

日本建築学会賞論文賞:1991 『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)

日本都市計画学会論文賞:2006年 『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,2005年)

日本建築学会賞著作賞:2013年 布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民『韓国近代都市景観の形成ー日本人移住漁村と鉄道町ー』(京都大学学術出版会,2010年)日本建築学会賞著作賞:2015年 布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン『グリッド都市ースペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(京都大学学術出版会,2013年)

 

中国国家出版局優秀科技図書賞受賞:1998年 布野修司+京都大学亜州都市建築研究会『日本当代百名建築師作品選』(中国建築工業出版社,北京,1997年)

日本図書館協会選定図書

『戦後建築論ノート』,相模書房,1981

『廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集』(彰国社,1998年)

『都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集』(彰国社,1998年)

『国家・様式・テクノロジー・・・建築のアジア,布野修司建築論集』(彰国社,1998年)

・日本建築学会編『作法と建築空間』(彰国社, 1990年)(全国学校図書館協議会選定図書)

 

学会活動

19841989  日本建築学会建築計画委員会委員

19841995  日本建築学会東洋建築史委員会委員

19861991  日本建築学会関東支部計画委員会委員

19862000  日本建築学会集合住宅小委員会委員

19871989  日本建築学会『建築雑誌』編集委員会幹事

19921994  日本建築学会建築計画委員会委員

19921994  日本建築学会建築経済委員会小委員会

19922008  日本建築学会アジア建築交流委員会委員

19931995  日本建築学会『建築雑誌』編集委員会委員

19951997  日本建築学会近畿支部常議員

19971998  日本建築学会設計競技事業委員会

19971998  日本建築学会設計競技事業委員会近畿支部委員

19971998  日本建築学会特別検討課題委員会委員「安全と安心のパラダイム」

19971999  日本建築学会評議員

19981999  日本建築学会論文奨励賞選考委員

19992000  日本建築学会優秀卒業論文等選考委員

19992001年 日本建築学会第三世界都市・住宅特別研究委員会委員

19992001年 日本建築学会都市防災WG委員

20002001年 日本建築学会賞作品賞審査委員

20012002年 日本建築学会作品選賞選考委員

20012003年 日本建築学会理事

20012003年 日本建築学会会誌建築雑誌編集委員長

20012006年 日本建築学会アジア建築交流委員会委員長

20012006年 日本建築学会国際交流委員会委員

2002          日本建築学会設計競技全国審査部会審査委員

2003年~      日本建築学会学術レビュー委員会委員

20052007年 日本建築学会賞(業績賞)委員会委員

20052007年 日本建築学会英文論文集(JAABE)委員会(Field Editor

20062010年 日本建築学会建築計画委員会委員長

 20082010    日本建築学会学術推進委員会拡大幹事

20082010年 日本建築学会社会ニーズ対応推進委員会委員

20092012    日本建築学会建築教育認定事業委員会委員

20112013    日本建築学会副会長/学術レビュー委員会委員長/支部長委員会委員長

201317    日本建築学会建築討論委員会委員長/学術レビュー委員会委員

20225月~      日本建築学会名誉会員

 

日本学術振興会

20012003年 特別研究員等審査会専門委員

2002年    科学研究費委員会専門委員

2004年    科学研究費委員会専門委員

2005年    科学研究費委員会専門委員

20102012年 特別研究員等審査会専門委員及び国際事業委員会書面審査員

2013    科学研究費委員会専門委員(第二次審査)工学部会

2014    科学研究費委員会専門委員(第二次審査)工学部会幹事

20158月~20177月 特別研究員等審査会専門委員及び国際事業委員会書面審査員・書面評価員

 

文部科学省 科学技術政策研究所

20052006年 科学技術動向研究センター専門調査員

 

公的活動: 団体名,審議会・委員会名,役職(委員長/幹事/委員など)

19912000年 島根県出雲市まちづくり景観賞委員会委員長

1992年    滋賀県自治体研修センター設計競技審査委員

19921995年 建築文化・景観問題研究会,建築技術教育普及センター,建設省

19941998年 滋賀県景観審議会委員

1993年             島根県加茂町文化センター(ラメール)設計競技審査委員長 

1993年             島根県立博物館設計競技審査委員 

1994年             京都市グランドヴィジョン設計競技審査委員

1994年             島根県川本町悠々ふるさと会館設計競技審査委員 

1994年             島根県美保関町七類メテオプラザ設計競技審査委員長

19942008年 しまね景観賞審査委員会委員

1995年             島根県鹿島町体育館設計競技審査委員長 

1995年             兵庫県宝塚市花の道再開発設計競技審査委員 

1996年             高知県佐川町研修施設設計競技審査委員長 

1996年             島根県出雲市地域交流センター設計競技審査委員長  

1996年             鳥取県砂丘博物館設計競技審査委員 

19962006年 島根県環境デザイン検討委員会委員 20022004

19962000年 島根県景観審議会委員

19982008年 宇治市都市計画審議会会長

19992000年 京都市公共建築デザイン指針検討委員会委員

2000年          島根県松江市警察署設計競技審査委員長 

20012002年 京都市発注方式適正化研究会委員

20012007年 文化庁:アジア太平洋文地域化財建造物保存修復協力委員会委員

20022005年 宇治市都市景観審議会委員

2003               財務省:PFI方式による公務員宿舎枚方住宅整備事業に係る審査委員会委員

20032004年 未来工学研究所社会基盤分科会委員

2004         大阪府警察寝屋川待機宿舎建替等整備事業に係る選定事業者審査委員会委員

2004年    京都市景観に関する規制誘導方策検討委員会委員

 2005年    大阪府警察金岡単身寮整備等事業に係る選定事業者審査委員会委員

20052010年 国際技能振興財団専務理事

20052007年 淀川河川事務所塔の島地区河川整備に関する検討委員会委員

 20052015年 淀川水系宇治川河川利用委員会委員

 20052010年 大橋川周辺まちづくり検討委員会(副委員長)

2006年    米原駅東口周辺まちづくりビジョン策定委員会委員

2007年~   滋賀県建築士会顧問

20072014年 滋賀県入札監視委員会委員

20072008年 国土交通省「建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会委員

20072008年 大津地方合同庁舎整備等事業有識者等委員会委員

2008年~   国際居住年記念事業運営委員会

 2008年~   文化庁:文化遺産国際協力コンソーシアム委員

2009年    米原市まちづくり交付金事後評価委員会委員

2009年    島根県「遣島使」

2009年    滋賀県コンベンション誘致推進有識者会議

2011年~   近江八幡市入札監視委員会委員

2012年    米原駅東口周辺まちづくり事業プロポーザル審査委員会委員長

2012年    滋賀県新生美術館基本計画検討委員会委員

2012年    第58回大阪建築コンクール審査委員

2012年~   小江戸ひこね町屋活用コンソーシアム副会長

20122013年 滋賀県産業支援プラザ評議員

2012年~   守山市守山中学校改築設計者選定委員会委員長・同建設委員会委員長

2013年    滋賀県新生美術館懇話会委員

2013年    守山市環境モデル都市研究会参与

 2013年    守山市環境未来都市計画策定協議会会長

2013年    守山市もりやままるごと活性化検討委員会委員長

2013年    守山市文化振興基本方針策定委員会委員長

2013年    守山市立図書館整備基本計画検討委員会委員長

2013年    守山市浮気保育園園舎改築設計者選定委員会委員長・守山市浮気保育 園園舎改築建設委員会委員

 2013年    高知県建築文化大賞審査委員会委員長

 2013年    千葉県鋸南町小学校改築工事設計者選定委員会委員長

2013年    滋賀県湖南市入札監視委員会委員(~2015年)

2014年    滋賀県新生美術館設計者選定委員会委員長(公募プロポーザル部会長)

 2015年    高知県建築文化大賞審査委員会委員長

2015年    守山市立図書館改築基本・実施設計プロポーザルコンペ審査委員長

2015年    キルコス国際建築設計コンペティション2015 審査員

2016年    守山市立図書館改築建設委員会委員長(~2019年)

2021年    野洲市民病院整備運営評価委員会委員 建築部会部会長(1月~3月)

2021年    野洲市民病院整備運営評価委員会委員 建築部会部会長(4月~223月)

202122年  隠岐の島町西郷港周辺地区デザインコンペ審査委員 

2022 年    第69 日本大学全国高等学校建築設計提案

セルフヘルプ・ハウジングの限界!?,第三世界の実験と現実,建築文化,彰国社,198201




 

2024年1月1日月曜日

テクノクラシーと自主管理ーTQCとAT,KB Freeway,『建築文化』,198005

テクノクラシーと自主管理:TQCとAT

 

  大手の建設業を中心として建設業界では総合的品質管理運動=TQC(Total Quality Control)運動が、極めて精力的に展開されつつある。山留めの崩壊、生コンクリートの強度不足といった事故の発生を契機として、一九六七年からZD(Zero Defect 無欠陥)運動を展開し、いち早く、「企業の体質改善と作品の品質を向上させ業績を高めること」を目標としてTQCを導入(一九七六年)、一九七九年一〇月には、建設業界では初めて、すぐれた品質管理体制を実施する企業に与えられるデミング賞*[i]実施賞を受賞した竹中工務店をはじめとして、各企業において膨大なエネルギーと時間がTQC導入のために注ぎ込まれているという。

 一般の製造業においては、統計的品質管理(SQC)の限界を克服すべく六〇年代初めに提唱され、その成功が高度成長を支えたとされるTQC運動が、建設業においては、オイル・ショックを経て、本格的に取り組まれつつあることは、さまざまな意味で興味深いと言える。

  六〇年代を通じて、一貫して近代化、合理化を推し進めてきた建設業がTQCの導入に至らなかったのは、一つには、建設業の歴史的な体質、その産業としての特異性によると言える。大辻眞喜夫は、品質管理に対する認識を建設業が欠いてきた要因を、生産現場、生産条件、生産組織がプロジェクトごとに異なること、重層下請構造の生産形態をとり、それが流動的であること、建物の評価尺度が多様であることなど五点にわたって列挙している*[ii]が、それらはすべて一品受注の現場生産を基本とする建築生産の固有の特質、ひいては建築そのものの本質にかかわるものである。またその特異性は一般には、建設業における近代化を阻む要因としてとらえられてきたものだ。

 そうした意味で、TQCの導入は、建築における規格化、標準化、部品化、そして工業化の進行によって、建築の生産、流動の形態が一般の工業生産品のそれへより近づきつつあること、また、建設業における近代化、合理化がさらに着実に進められつつあり、新たな段階を迎えつつあることを示しているとみることができる。

 また一方では、六〇年代には圧倒的な量の建設に追われて、必ずしも建築の質を問題とする余裕が建設業にはなかったことを、TQC導入のタイム・ラグは示していよう。スクラップ・アンド・ビルドの狂宴が終息するにつれ、それが必然的にもたらした建物の質の低下が、欠陥工事、手抜き工事の問題として指摘され始め、直接的にはそれが引き金となって、建設業においてもようやく品質管理の問題が主題化され始めたのである。

  需要の伸びがかつてのように期待できない状況のなかで、量から質へという転換が意識され、企業戦略の主要なターゲットが品質保証の問題へ移行していくのはある意味で必然である。しかし、品質管理、品質保証は、あくまで一つのスローガンにすぎない。TQCは、品質管理と労務管理を結合し、むしろ、組織全体の合理化を目標とするところにその本質がある。それは中岡哲郎によれば「一つの製品が計画され、市場に出てゆくまでのコースの全体、マーケティング、開発、設計、資材購入、製造工程技術、工程の操業と管理、検査、出荷、販売とアフターサービスといった一連の基幹的な流れを軸に、その周辺に無数に存在する補助労働、事務所のお茶くみから雑役にいたるまで、「品質」をキィワードとしながら、三つの目標、製品の性能、コスト、信頼性、という三つの指標に向かって求心的に組織してゆく技法」*[iii]である。「組織化のすすみすぎた職場で必然的に失われてゆく、全体への関心、職務意識、働くことの意味づけを、品質への関心として、かきたててやること」、小集団の間に連帯意識を生み出し、それをシステムの全体を上向的に貫く求心力に転化させていくこと、自発性を喚起し、しかもそれを一定の枠内に収斂させることがその最大のねらいなのである。

 そうした意味では、建設業は、より高度な管理体制を整備することをこそ大きな目的としていると言える。高度成長の末期に、大手建設業は、付加価値の低い工事請負一本やりから、不動産・住宅部分に手を広げ、オイル・ショックによって一つの挫折を経験した。建築生産を支える構造の変化、低成長期への移行に直面し、それを乗り切るために、現在建設業は新たな対応を迫られつつある。そのために、企業としての組織の強化、整備は不可欠であり、その一貫として、TQC運動が展開されつつあるのである。

  日本の建設請負業は、日本の資本主義の形成、発展の過程と即応する形で、その組織形態を整備し、発展を遂げてきた。三浦忠夫が明らかにするように*[iv]、建設産業の発展と国内資本の形成との間には正確な対応関係がある。また日本の資本主義の構造が生み出す建設需要の内容に対応して、建設業は、それを消化するのに必要な建設技術や施工システムを開発発展させてきていることがわかる。そして、ことに大手の建設業社は、建設の総需要に占めるウェイト、建設技術の開発能力、それを支える組織力によって、近代日本における建築のあり方を大きく規定してきた。

  建設業がテクノクラシーとしての体制を整備しながら、外部環境の変化に着実に対応しつつあるなかで、建築家の存在基盤はますます希薄になりつつある。建設業は、その金融力、技術力、調整能力、責任能力をますます誇り、その総合力において、建築のあり方に対する支配力を強めつつあるのである。

  振り返れば、日本における建築家と建設請負業との関係を支える構造は、すでに昭和の戦前期において成立していた。それを象徴的に示すのが、一九三〇年に第五〇帝国議会に提出された「建築士法」案の不成立である。それは、昭和の初頭、一九三七年までに九回にわたって提出され続けるのであるが、ついに成立をみることはない。

 明治末から大正期にかけて西欧の建築家の理念を掲げながら、次第に定着しつつあった民間の設計事務所は、日本建築士会の結成(一九一七年)に示されるように、その社会的な基盤を拡大しつつあった。そして、大正末には、その存在基盤の法的根拠を求めるまでに至る。しかし、同じように、それまでの個人経営から合名会社、合資会社、株式会社等へ組織形態を変え、近代的企業へと脱皮しつつあった建築請負業との力関係において、それに拮抗しえなかったのである。

  関東大震災から昭和の初めにかけて、ちょうど、大正から昭和への年号の転換を挟んで前後数年の時期は、建築の技術や生産体制が大きく飛躍を遂げる革新期である。鉄筋コンクリート造が本格的に導入され初め、一九二九年には鉄筋コンクリート工事標準仕様書が決定されている。耐震構造理論が全面的に展開され始める。また、建造物の高層化に伴い、施工方法が一変し、戦後における形態とはほぼ近いものとなるのがこの頃である。

 こうした、建築の技術や生産体制のドラマティックな転換に対して、建築家、民間の設計事務所は、すでに対応しきれなかった。新興建築運動が華々しく展開される背景において、日本の建築家の行方は決定的に方向づけられつつあったのである。

  鹿島組が株式会社となるのが一九三〇年のことである。同じく、佐藤工業一九三一年、銭高組一九三一年、島藤組一九三二年、戸田組一九三六年、清水組一九三七年、西松組一九三七年、浅沼組一九三七年、広島藤田組一九三七年と、建設量が戦前においてピークを迎える頃までには、日本の建設業はそれぞれ、その基盤を確立するに至った。

 建設業界は、昭和恐慌時の大淘汰を経て、満州の建設市場を干天の慈雨とし、また、内地の軍需産業への投資ブームを梃子としながら、施工能力を一挙に拡大し、その力を蓄えたのである。強力な戦時統制下において、総合建設業のもつ、その組織形態、職種別企業系列や技能工制度による施工システムは一度は、完全に解体される。しかし、すでに蓄積されていた、施工設計計画、工程計画、技術管理などにおける経験、総合的建設システムを支える管理運営能力は、戦後まもなく、脅威的な復元力を示すのである。

  こうした歴史的パースペクティブにおいて、しかも、テクノクラシーとしての建設業の支配力がますます強まるなかで、建築家のあり方を展望することはますます厳しい。近代建築批判が顕在化してくるにつれて、確かに、一方で、テクノクラシーによる建築に対する疑念もまた拡大しつつある。しかし、テクノクラシーとしての建設業を前提としない建築のあり方を構想することは容易ではないのである。

  建築家に必要なのは、それにもかかわらず、現実の諸条件のなかにその可能性を見いだすことである。例えばTQCの矛盾、問題点はすでにさまざまな形で指摘されている。自主管理のあり方がテクノクラシー化に対して鋭く対置されつつあるのはその一つである。建築技術のあり方、建築の生産を支える構造のレベルにおいて、根源的なパラダイムの転換が行われなければならない。そのためには、テクノクラシーのヘゲモニー下に置かれている建築の技術、建築の生産、流通の仕組みを、個々の建築家、設計者の手の届く、ある意味ではプリミティブなレベルから組み立て直すことが必要である。

  そうした試みは、すでにさまざまな形で追及されつつあると言ってよい。工業化のイデオロギーに対する批判、テクノロジーに対する批判は、新たな技術のあり方を模索するさまざまな運動を生み出しつつあるのである。そうした運動を大きく方向づけているとされるのが、E.F.シュマッハーやI.イリイチらの一連の活動である。日本においても、昨年末には、イギリスのAT(Alternative Technology)運動の理論的支柱の一人となったD.ディクソンの『オルターナティブ・テクノロジー、技術革新の政治学』*[v]が翻訳されており、そうした海外における新たな技術運動については、高木仁三郎、宮川中民、里深文彦、中山茂などによって、精力的に紹介されつつある。

  『二一世紀の建設業・・・その課題と展望を探る』*[vi]は、「文明の発祥と同時に発生した・建設活動の担い手・建設業が、・文化の世紀・二一世紀にクライマックスを迎える日本社会のなかで、次第にその地位を高め、その主役、誇り高き文化のクリエーターとして堂々と登場する舞台装置は十分整っている」と、システム・オーガナイザーの旗主として建設業を位置づけながら、適正技術や中間技術についても触れている。

 しかし、建築におけるATの展開にとって、テクノクラシーとしての建設業は必ずしも必要ない。むしろ、根本的に相容れないと言ってもよい。システム・オーガナイザーとしての役割を果たすために克服すべき課題として、建設労働者の不足の問題、品質保証の問題、建設組織とコミュニケーションの問題、情報収集力や金融調達力の問題とともに建設技術の頭打ちの問題がそこでは挙げられている。確かに、TQCの導入に示されるように、建設業の技術への関心が計画や管理の技術、またシステムの技術へ、ハードテクノロジーからソフトテクノロジーへ向けられつつある裏には、そうした背景があると言えるだろう。しかし、建設技術の頭打ちの問題がATを要求するわけではない。また、高度に発達したテクノロジーのもつネガティブな側面を補完するために、ATが必要とされるわけでもない。ATが目指すのは、全く異なった体系をもった技術のあり方なのである。

  バンコクのAIT(Asian Institute of Technology)では、竹筋コンクリートの実験が行われている。建築にとって、そもそも高度な技術は必要ない、地域の生態系に基づいた身近な素材を用い、それをその地域の固有の表現に結びつけていこうというのが彼らの問題意識である。竹は乏しい鉄の代替物として位置づけられているというより、むしろ、はるかに積極的に位置づけられている。

  確かに、AT運動の大きな二つの流れの一つは、第三世界において、より現実性をもって展開されつつある。しかし、はるかに興味深いのは、先進諸国におけるその展開である。ことに、日本の場合、鉄筋コンクリートや鉄骨に関する技術をはじめ施工機械にしろ、仮設の技術にしろ、何から何まで輸入に頼ってきた。そうした過程で、日本に固有な建築の技術のあり方についての視点は、常にネガティブなものとして位置づけられてきたと言える。少なくとも、新たな視角において建築を支える技術のあり方、その生産の仕組みについて、とらえ直すことが必要であろう。建築におけるATの展開のために見直されているのは、日本で言えば、昭和戦前期の水準の技術である。特に住宅のスケールの技術について、戦後どれだけの展開がなされてきたか見直される必要がある。

  実は、日本においても、戦時中、竹筋コンクリートの研究がさなれている。それは、日本の近代建築の流れのなかでは、位置づけようのないものとして、必ずしも知られていない。「白い家」と呼ばれた住宅作品をはじめとする国際様式を標榜する作品の出現を指標として、日本の近代建築は一九三〇年代に確立したとされている。定着しつつあった近代建築の理念に照らすとき、竹筋コンクリートはアナクロ以外の何ものでもない。ちょうど、帝冠様式が、デザインの側面において、ファシズム体制戦時体制の歪みを示したとされるように、建築の技術の面においてそれを集約的に示したというのが竹筋コンクリートに対する一般的な評価である。

  しかし、そもそも、日本における近代建築の出自には一つの大きな転倒があった。一九三〇年代において、近代建築を標榜した作品の多くは「木造モルタルによって白い壁面の効果をだし、木造建具をペンキで色揚げし、そして無理してでも陸屋根とすることによって少なくとも写真に撮ってスタイルとして見る限りは一応近代建築らしいとみられる作品」(浜口隆一)にすぎない。近代建築の理念が外からもたらされたこと、しかも、スタイルの問題としてまず受け入れられたことをそれは象徴的に物語っている。もちろん、近代建築の理念を支える現実的な基盤が希薄であるという建築家の意識が、スタイルの問題のみを性急に主題化させたと言ってよいであろう。しかし、その転倒に大きな問題が潜んでいたことは言うまでもない。建築における一九三〇年代が近代建築の理念が現実の諸条件との間で葛藤を繰り広げる過程であったことは、例えば、日本的なるものにかかわる議論が示している。しかし、単にスタイルの問題として、そうした問題が争われる限りにおいて、その限界は明らかであったのである。建築の技術、その生産体制のはらむ問題は、建築家によって鋭く指摘され続ける。しかし、それを具体的に担い続けたのは一貫して建設業のほうである。建築家がそれをリードするという形が、理念の上で信じられたのは一九五〇年代までであった。

  問題は、繰り返せば、建築を支える技術のあり方、その生産を支える構造を根底的にとらえ直し、身近で具体的な回路を構想し、その構想のなかで表現の問題を提出することである。テクノクラシーの建築と芸術としての建築の二分法がとてつもなく不毛であることは明らかだ。われわれは、一九三〇年代においてすでにそうした構造を確認することができるのである。


*[i]

*[ii]  「建設業における品質管理の考え方」、『建築文化』・建築経済・〇〇一、一九八〇年一月号

*[iii]  『工場の哲学』、平凡社、一九七一年

*[iv]  『日本の建設産業』、『日本の建築生産』、彰国社、一九七七年

*[v]  田窪雅文訳、時事通信社、一九七九

*[vi]  清水建設、一九八〇




 

2023年12月31日日曜日

建築における一九三〇年代,KB Freeway,『建築文化』,198001

 建築における一九三〇年代

 

 七〇年代の幕が閉じ、八〇年代が幕を開ける。一〇年を一区切りとして、時の流れをとらえていくことは、もとより便宜的でしかないとは思いつつも、過ぎ去った一〇年を振り返り、来るべき一〇年を展望する問いに,多くはとらわれる。いくつかの雑誌が七〇年代の総括を試みる特集を組み、また、八〇年代を展望する特集を組んでいる。目に触れる多くの文章が一つの区切りを意識している。一〇年は一昔である。

 しかし、明確な形に集約される問いが、そこにあるわけではない。便宜的な区切り以上の何ものかがそこにあるわけではない。問えば問うほどむしろ、八〇年という時間的な閾が単に経過点にすぎないという意識のみが浮かび上がってくるようにみえるはずである。「七〇年代から八〇年代へという時間的な推移が七〇年代の対自化ということを要請しているとしても、七〇年代がいかなる時代であったと問うことは、基本的には空しい営みに終わるほかない」、「七〇年代においては実際に何ごとか起こってはいる、と言いうるだろう。それが何であるかということは明確に指摘できはしないし、あるいはこれからやって来るであろう八〇年代という時代においてそれが明瞭な像を結ぶということでもないかもしれない」「だからここではもはや七〇年代から八〇年代へといった方向性を問うことはやめて、そのような問いを曖昧さの中に差し向けてやることしかできないのである」といった言い方こそが、そこでは支配的なのである。

 問題は、そうした問い方自体にすでに存在していると言ってもよい。しかし、そうした問い方によって明らかにされる地平は、すぐれて状況的であると言える。おそらく、七〇年代的パラダイムと呼びうるものによって、その時代を振り返へることは可能であろう。解体の時代、空白の時代、不在の時代、引用の時代、周縁の時代。知の戯れの風景において、頻繁に発せられた言葉たちによって、七〇年代という時代を特徴づけることができる。しかし、われわれはその時代の終焉を確認することができない。やがて八〇年代のパラダイムと呼ばれるものが明確な差異をもって現れてくるかどうか、その予感はないのである。六〇年、七〇年という時点と比べてみれば、それは一層明らかなように思える。一九六〇年代という時代区分が単なる便宜的な区切り以上の意味をもっているのは、六〇年安保、七〇年安保といった政治的課題のメルクマールがわれわれの時代意識に大きな影を落としているからであり、しかも、それが戦後復興・・戦後の終焉・離陸・・高度成長・・破錠という戦後過程に対応しているように思えるからである。そして、それぞれの時点ですでに、ある一つの先行する時代の終焉が意識され、少なくとも具体的な課題がそれなりに共有されていたように思われるからである。しかし、われわれは必ずしも、七〇年代を一つの区切られた時代として意識化しえない。八〇年代へ向けて具体的な課題が共有されているわけでもないのである。七〇年代は、その時代を特徴づける求心的な何ものかを生み出しえなかった。拡散的な経験のみがそこには存在している。七〇年代の総括の試みが、個別の作家や作品、出来事についての記述の羅列という形をとるのはそれ故にでもある。ある意味では、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて確認された一つの時代の終焉を、確認し続けたのが七〇年代であったと言ってもよいのである。

 「私たちは七〇年代の思想状況を二重の解体のコンテクストとして読むことができる。ひとつは幻想的な普遍性のエクリチュールの解体過程であり、もうひとつは、知的な普遍性のエクリチュールの解体過程である。そしてこの解体が多様な現実を私たちに見せると同時に、思想的な求心性の解体であることによって、人々は根拠と希望を求めてさまよったのである」と小阪修平は言う*[ii]。そのさまよいは今なお続いているし、ここしばらく続くであろう。七〇年代の経験に、確実な何かを見いだしえないが故に、そう言わざるをえないのである。

 「観念的ラジカリズムの終焉」という、小阪が七〇年代に対して与える総括は、ある意味で七〇年代という時代をくっきり浮かび上がらせると言ってもよい。しかし、「私はこの小論で、観念的ラジカリズムをひとつの自然過程としてあつかってきた。したがって、私が七〇年代に読んだ、観念的ラジカリズムの終焉というコンテクストに、正の価値を与えるか、負の価値を与えるかは読者の自由である。」と、あえて注記するように、その終焉の確認において、八〇年代がくっきりと見えてくるわけではない。むしろ逆である。確かに、観念的ラジカリズムは、七〇年代において、市民社会の外部=周縁ーー第三世界、土着、辺境、日本的なるもの、差別、身体……ーーへ向かい、それを一つの希望としてとらえようとしてきた。ある意味では、その希望が拡散的な状況を生み出してきた。しかし、それぞれの希望が裏切られ続けてきたのが七〇年代なのではないか。自然過程としてとらえる限りにおいて、そうした意味で観念的ラジカリズムは終焉したのだ、と小阪修平は言うのである。こうした認識の地平から何を展望しうるのか。少なくとも、その終焉を負の価値ととらえるものにとってそれは厳しい。安易に希望を語りえない状況の困難性が、根底的なレベルで意識されるはずである。確かに、周縁的なるものへの希望は知の表層で語られ続けたのであるが、周縁的なるものへの具体的な回路を見いだしえなかったと言いうるからである。

 建築における七〇年代は、近代建築の解体と建築そのものの解体(商品化)という二重の解体のコンテクストにおいて、多様な表現を生み出してきた過程であった。ポスト・モダニズムとかポスト・メタボリズムとか呼ばれる状況がそれである。しかし、それはまた、その時代を特徴づける求心的な何ものをも生み出しはしなかった。拡散的な七〇年代の経験のみがそこに同じように浮遊したのである。

 そうした状況を最も的確にとらえ、体現してきたのが磯崎新である。彼は、中心性の解体を逸早く予感し、主題の不在、空洞の時代がかなりの深さと長さで進行していくことを予想しえていた。それ故、彼は、そうした状況に対して有効な戦略を展開しえたのであり、広範な影響を及ぼしえたと言ってよいの。「建築の解体」、「主題の不在」、「引用」、「手法」、「修辞」、「記号論」………。彼の発した言葉、論の展開などすべてそのまま建築の七〇年代におけるパラダイムを形成したのである。

 しかし、彼は七〇年代を通して、「建築の解体」状況を、そしてそれによる拡散状況を突破する確実な方向を提示しえなかった。「空洞の中心への吸引を常に感じながら」「中心の空洞にむかい合うことを避けられなくなりつつある」ことを予感しながら、「建築の地層」をさぐり当てねばという意識に駆り立てられながら、次なるステップは必ずしも彼のうちで収斂していかないのである。ある意味では、きわどいバランスの上に位置してきた彼にとって、そうだとすれば状況は次第に困難となりつつあると言える。例えば、次第に大きくなりつつある概念建築に対する否定的な声は、状況が次第に困難となりつつあることを彼に意識させているはずなのである。

 日本における建築のそうした状況は、とりわけ、若い世代の建築家たちの評価をめぐる議論において確認することができる。石山修武の「新傾向の一部について」*[iii]と林昌二*[iv]の「歪められた建築の時代ーー一九七〇年代を顧みて」*[v]をひき比べることによって、あるいは槙文彦の「平和な時代の野武士達」*[vi]と鈴木博之*[vii]の「貧乏くじは君が引く」*[viii]を読み比べることにおいて、建築の小状況における対立の構図の一端を手に入れることができる。

 ある規模意識、使命感、秩序意識に照らせば、建築の七〇年代は「平和な時代」であり、「実りの少ない時代」であり「歪められた建築の時代」でしかない。そうした規範意識を強烈に提示するのが林昌二である。それは、観念的ラジカリズムの終焉を建築において、まさに正の価値として確認しようとするものと言ってよいであろう。

 市民社会の外へ向かった暴力(反日武装戦線による三菱重工ビル爆破事件、間組、鹿島建設など海外進出企業に対する一連の爆破事件)が建築とその環境を閉鎖的なものに変えたこと(暴力による歪み)、建築ジャーナリズムの演出によって、高度成長、学園紛争の落とし子たちによる、「虚しくも華麗な、実物大小住宅のあだ花が咲いたこと」(情報による歪み)、日照権をめぐる紛争が法律化までゆきついた事件に象徴されるように、ほしいままの権利主張が建築の自由を奪ったこと(権利主張による歪み)、さらに、エネルギー・ショックが、建設から維持、撤去まで含めた全過程をとらえて資源の節減・再利用を図るためには、どのような取組み方が必要かという形では論じられず、省エネルギーのための代替装置の開発にすり換えられていることを指摘しながら、林昌二は過去への復帰(保存、伝統的様式)は何ものも生み出さない。今ようやく、高度に発展した工業を背景として現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟したのだ、と言うのである。

 そこには、テクノロジー、テクノクラシーを基盤にする建築家の極めて正統的な価値意識が示されていると言えるであろう。そこで示されている規範意識は、依然として支配的である。それは、ある意味では近代建築を支えた規範意識である。また、「建築が健康さを取り戻すよい機会」とか「変転を越えて生き続ける建築の生命」という言い方に示されるような、「建築」に対する限りない信頼において書かれる価値意識である。

 しかし、建築あるいは建築家のアイデンティティそのものが問われていると考え、近代建築の解体を見据えようとするものにとって、そうした支配的な意識こそが問題であった。工業的なるものがもたらしたものが、商品と交換の世界の一般化にほかならないのであり、工業社会そのものに対する根底的な懐疑から出発するものにとって、決して「高度に発展した工業を背景として、現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟した」と見ることによって、新たな展望を語ることはできないのである。若い建築家たちや、保存や日本の伝統的様式への関心に対する林昌二の評価は,極めて厳しくポレミカルである。しかし、問題の構図は停止したままであることに変わりはない。テクノロジーあるとは工業的なものに対する評価の決定的差異がそこにあり、それを前提とするものが支配的な現実に対峙し得、それを否定的媒介とするものが、「社会性を欠いた小世界」に閉じ込もり、あるいは芸術や文化や知の領域へ平面をずらしていくという構図がそれである。七〇年代において、若い建築家たちに大きな影響を及ぼした磯崎新にとって、少なくとも、それは出発点において見えていた構図である。「テクノクラートに味方するか、あるいはデザインを放棄するか、この二者択一しか残されないとしたら、建築の思考は,当然のこととして不毛に陥らざるを得ない」のであり、それに陥らない新たな地平の模索こそが、彼の七〇年代の作業であったと言いうるのである。それが「アートとしての建築」、「小世界への自由」として現れざるを得なかったとすれば、またその限界すらも見えてきたとすれば、その新たな地平の模索がますます困難な状況を迎えつつあることが意識されるだけなのである。

 もとより、そうしたアポリアは、若い建築家たちにおいてより意識されている。「まさに千載一遇の大世紀末へと雪崩れ込んでゆく時の巡り合わせに遭遇した」ことをあえて「僥倖」と言いながら、「現在を大世紀末の洞穴への入口であるとするならば、その漆黒の大迷路をくぐり抜けるためには、よほどの身構え、気構えが必要なことは明白で、そのための準備、修練をおさおさおこたってはなるまい」「千載一遇の大世紀末洞穴へくぐってゆくのには余りに軽装備、灯りも小さく、ほとんど丸腰,無防備なものの多さばかりが目につく」と石山修武が言うとき、それは明らかであろう。石山修武自身がいかなる根拠と希望に基づいて「漆黒の大迷路」をくぐり抜けようとし、いかなる準備、修練をつんでいるのかそれ自体は興味深いことである。しかし、そこには、極めて鋭く状況の困難性が予感されており、したたかな覚悟が示されているのを見ることができるはずである。単に、建築ジャーナリズムにおいて、「高度成長の、あるいは学園紛争の落とし子たち」が「虚しくも華麗なあだ花を繰り広げて見せた」「幕間の寸劇にしては長すぎる舞台」の幕が下り、「本舞台」の幕が開くといったレヴェルでのみとらえられてはならないものが、そこにはあるはずである。状況は、若い層においてはるかに厳しいと言えるのである。七〇年代の疾走を雑誌の特集という形で振り返る機会を得た原広司もまた、繰り返し状況の厳しさを語っているはずである。固化しつつある状況を逆手にとり、いかに活性化、流動化しうるか、それこそが問われているのである。

 建築界がますます分断化されていく状況の中で、共有化された場はますます待ちえなくなりつつある。そうした状況において八〇年代を展望することは気が重い。われわれの日常のさまざまな局面につきまとうどうしようもなさは、漠然と暗鬱なる世紀末を予感させる。そうした漠然とした危機感がやがてとてつもない方向へ組織されるのではないかという不安が先に立つ。そうした中で、中心の空洞へ向き合うことがいかに可能か。共通の地層,地下水脈を果たして探り当てることができるのか。われわれは、ここしばらくは、さらに、希望と根拠を求めてさまよわねばならないのである。

 七〇年代における建築の拡散的状況は、いくつかの関心を浮上させてきた。それらは、「市民社会」、工業、テクノロジー、近代といった中心が排除してきた、周縁的なるものへ眼を向けてきたものであると言ってもよい。第三世界、亜細亜、東洋、ヴァナキュラーなもの、様式・装飾・折衷主義、沖縄、被差別部落、和風・数寄屋・日本的なるもの、地域、共同体………。しかし、それらは、いくつかの例外を除いて、単に眼差しとして対置されたにすぎない。単に眼差しとして対置する限りにおいて、それが現実をつき動かす支配的趨勢に対して力を持ちえないことは明らかであった。

 いま、われわれはおそらく磯崎新の『建築の一九三〇年代』がいち早く提起したように、少なくとも建築における一九三〇年代を想記すべきであろう。そうした関心をめぐるプロブレマティークのほとんどを見いだすことができるからである。そうしたさまざまな関心が、やがて、産業合理化、生産力増強、節約、建築の統制、建築新体制といった過程でなしくずしにされていったことを見ることができるからである。それを支えたのが、テクノロジーを基盤とする実務の思想であったからである。

 



*[i] KBFreeway、『建築文化』、一九八〇年一月。

*[ii]  「観念的ラジカリズムの終焉」、『流動』七九年一二月号 特集「検証ーー七〇年代の思想と文学」)

*[iii]  『都市住宅』、七九年一二月。

*[iv] 林昌二

*[v]  『新建築』、七九年一二月。

*[vi]  『新建築』、七九年一〇月

*[vii] 鈴木博之

*[viii]  『新建築』、七九年九月。