その平野の中にぽつんぽつんと集落がある。
新幹線の車窓から見ると、だらだらと市街地が続く中で、米原-京都間だけは、集落景観がぽつんぽつんと疎(まば)らになる。ぽっかり異次元に入り込んだようで、前から気になっていた。
京都盆地を離れてすぐさま、「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」を開始することになるなど、近江=湖国について否応なく考えさせられてきた。そしてこの間、「琵琶湖自然共生流域圏」構想なる課題を与えられ、「宇曽川流域圏」をモデルとして、その前提を明らかにする作業を求められた[i]。
そうした作業の中で、ぽつんぽつんと疎らに残る集落景観の成り立ちについて、いくつかヒントを得ることができた。キーワードは、条理と水利である。
1 地域の生態基盤:宇曽川流域圏の原像
滋賀県の中心には琵琶湖が位置し、東の鈴鹿山脈、西の比良・比叡山山脈など周囲を大きく山々が取り囲んでいる。そして、その山々から幾筋もの川が流れ出し、平野を形づくって湖に注いでいる。断面をみると東西南北ほぼ同心円的構造をしている。
この琵琶湖を中心とする同心円構造は、森(そして丘)、平野、湖という3つの世界が絡まりあう「小宇宙」である[ii]。森は「神々の世界」である。そして、奥深い山とは別に独立丘(孤立丘)があり、平野部の居住域に接する里山がある。平野は、生産の場である。近江盆地は、少なくとも近世までは日本有数の稲作地であった。琵琶湖は、魚類など水生生物の世界である[iii]。
琵琶湖は、しかし、単なる水産資源の場ではなく、情報交通ネットワークのチャンネルでもあった。この「小宇宙」は、それ故、完全に閉じた世界であったわけではない。淀川水系(瀬田川、宇治川、淀川)そして瀬戸内海を通じて、また日本海を通じて古くからアジア各地に繋がっていた。滋賀県には、渡来人に関わる遺構が数多く残されている。滋賀県は、古来、様々な交通の結節点に位置するが故に、日本史の主舞台となってきたのである。
本稿では、「宇曽川流域圏」について考える。
ただ、「宇曽川流域圏」といっても一つの断面設定であって、それが生態学的に、また歴史的にひとつの地域単位となってきたというわけでは必ずしもない。宇曽川の水源は押立山で、標高772mと浅い。流長約22kmの小河川である。愛知川と犬上川の形成した扇状地の間を流れ、下流部では排水河川となる。宇曽川は、南北の愛知川と犬上川と一体となって、地域の生業・生活の基盤となってきた。そして、宇曽川も、そして愛知川、犬上川も、古来洪水を繰り返し、流路を変えてきた。宇曽川は、現在、金沢町付近で東に迂回し、荒神山を回りこんで琵琶湖に注ぐが、これは後世の付け替えである。本来は、荒神山西側の裾を抜けて、石寺辺りで琵琶湖に注いでいたと考えられている。愛知川にしても下流部は、次第に南へと流路を変えてきている。ここでは、宇曽川そのものの流域圏とともに、かつての彦根藩の藩領、そして現在の彦根市域、さらに湖東地域(彦根市・多賀町・豊郷町・甲良町・愛荘町)を念頭において、宇曽川と並んで流れ、湖東三川とされる芹川、犬上川、そして愛知川の各流域も合わせて広く対象地域として宇曽川(芹川、犬上川、愛知川)流域圏に含めておきたい。
宇曽川、芹川、犬上川、愛知川は、ともに鈴鹿山脈に水源を発し、南東から北西にかけて流れて琵琶湖に流れ込む。鈴鹿山脈の北端に位置する霊仙山をはじめとする諸峰、鍋尻山、高室山、御池岳、藤原岳には石灰岩が分布し、カルスト地形(「近江カルスト」)が見られる。芹川上流、多賀町河内の「河内風穴」が関西最大規模の石灰洞として知られるが、石灰岩中から産出する化石から、この山系は2億年以上前に遡る造山活動によるものであると推定されている[iv]。
4つの河川(芹川、犬上川、宇曽川、愛知川))によって形づくられた流域は、山裾から広がる扇状地、それに続く氾濫原(後背湿地)、そして琵琶湖岸に形成された砂堆(さたい)(浜堤(ひんてい))とその背後(すなわち、砂堆と氾濫原の間)に形成された三角州からなる。河川によって流されてきた砂が琵琶湖の沿岸流によって堆積することによって形成された湖岸の微高地である砂堆(浜堤)には、松林が並ぶが、そこには、松原、大藪、八坂、須越、三津屋、薩摩、柳川、新海(しんがい)などの集落が立地している。この砂堆(浜堤)の背後に回り込む形で内湖が形成され、小さな水路をもつ低湿な水田とともに三角州が拡がっている。彦根城北部の松原内湖の他、野田沼、曽根沼、そして、宇曽川と愛知川の間に、神上(しんじょう)沼をはじめ多くの小さな内湖が存在した。今では、湖岸道路によって琵琶湖と後背地は分断され、内湖は、曽根沼、野田沼を除いて埋め立てられている。
湖岸沿いに形成された幅1~2キロの三角州の上流部は氾濫原で後背湿地である。この氾濫原・後背湿地には、洪水堆積によって自然堤防が形成され、そこに集落が立地してきた。日夏、甘呂など、現在でも宅地の集中する場所は、自然堤防の位置と一致している。氾濫原・後背湿地には、古代の条里地割に遡る一面の水田地帯が形成されてきた。一方、自然堤防の微高地とは別に、彦根山、佐和山、雨壺山、鳥籠山、荒神山といった独立丘が浮かんでいる。多景島もその独立丘のひとつである。これらの山は、里山として利用されてきた。
氾濫原・後背湿地の上流は、扇状地である。犬上川扇状地は、滋賀県最大規模の扇状地である。この扇状地の末端部には、いくつもの湧水地がある。出水、生水(しょうず)、湯、湯壺などと呼ばれてきた。また、ドッコイショと呼ばれる自噴式井戸が分布する。湧水は、下流部の重要な水源として利用されてきた。
扇状地は、地下水位が地表下10メートル程度になり、表層土に保水能力がないことから、水の確保が大きな問題となる。扇状地の耕作のために、扇頂から灌漑のために取水口が設けられる。犬上川は、水争いで知られるが、谷口付近で南へ取水する一の井、北へ取水する二の井に分けられ、一の井はさらに下流で上の郷川、下の郷川、尼子川に分けられてきた。古来、4つの河川は洪水を繰り返しながら、また、人為によって河道を変えながら、流域を形成してきた。芹川は、彦根城と城下の建設の際に付け替えられている。犬上川扇状地には幾筋もの旧河道が入り組んでいるが、2007年度までの圃場整備の完了によって、甲良町の一部を除いて暗渠(パイプライン)化されることになった。宇曽川は、荒神山を大きく迂回して琵琶湖に注ぐが、自然堤防は安定しており、かなり古くからそう大きくは変わらないとされる。それに対して、愛知川は、その河道を大きく変えてきた。現在の湖岸河口地域はパイプを張り巡らした逆水灌漑が行われている。
以上のような宇曽川流域圏に古来人々は住みついてきたが、宇曽川下流域のみならず滋賀県全体でも、旧石器時代(約2万年前~約4500年前)に遡る遺構は極めて少ない。縄文時代に入って、琵琶湖集水域、内湖や河口周辺に居住が開始されたことが知られる。具体的には省略したいが、琵琶湖岸の遺跡から、人々が堅果類に加えて貝類など水産資源を食料としていたことが出土品の分析から明らかにされている。そして、磯山城遺跡から隠岐(島根県)産の黒曜石が出土することからも、既に海を介した広い交流が行われていたことがわかっている。縄文晩期になるが、松原内湖遺跡で丸木舟12艘と製作途中の丸木舟一艘が出土(1988年)していることも、古くから水上交通が活発であったことを示している。
集落の遺構は、芹川沿い、犬上川沿いに点々と位置するほか、氾濫原・後背湿地の自然堤防上に位置している[v]。 採集狩猟生活から稲作が開始される弥生時代は、これまでは紀元前5世紀から4世紀頃に始まるとされてきたが、近年の炭素14年代法をもとにした較正(こうせい)年代によると、500年遡り、紀元前950年~900年以降とされるようになっている[vi]。日本で水田耕作が開始されるのは九州北部である。中国長江下流域で紀元前約5000年に始まった水田稲作は約800年かけて日本に伝わり、西部瀬戸内、近畿、東海、東北北部、南関東の順に伝わる。東北北部に伝わったのが紀元前4世紀、南関東に伝わったのが紀元前1世紀である。近畿・近江に伝わったのは紀元前7~6世紀と考えられるが、稲作が伝わって以降、滋賀県での集落遺構の数は増えている。弥生遺跡が最も多く稠密に出土するのは野洲川下流域であるが、犬上川流域の尼子遺跡、北落遺跡(甲良町)から水田耕作が本格的に始まった弥生初期の遺構が見つかっている[vii]。
近江における古墳をめぐっては、用田雅晴の『琵琶湖をめぐる古墳と古墳群』(学位請求論文)[viii]があるが、宇曽川流域で築造された唯一の前方後円墳が、宇曽川河口左岸に位置する荒神山古墳である。全長124メートル、瓢箪山古墳(全長134メートル)に次ぎ滋賀県第二の規模を誇る。荒神山の山頂に琵琶湖を睥睨する位置に古墳が設けられていることは、宇曽川流域と琵琶湖をつなぐ水運ネットワークを押さえる政治勢力が存在していたことを示している。膳所茶臼山古墳とともに、4世紀後半には琵琶湖水運システムを押さえる勢力が、「大和王権」と一定の関係が成立していたと考えられている。
丸木舟、準構造船の出土は、水運による域外との交流を示す。琵琶湖・淀川水系を通じたコミュニケーションは、朝鮮半島のみならず、アジア各地に及んでいた。稲作の到来が第一にその交流を示している。高谷好一によれば、アジアには、インド型、東南アジア型、日本型という大きく3つの稲作圏が区別されるが、東南アジア型と日本型は近縁だという。かつては、ジャバニカ、ジャポニカと呼んで品種を区別していたが、熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカという程度の区別がなされるだけで、古代においては、そう大きな違いはなかったと考えられている。事実、守山市の下之郷遺跡から出ている稲籾の中にはかなりの比率で熱帯ジャポニカが混じっているという。東南アジアの稲作は、元々焼畑稲作である。水田耕作も行われるけれど、それは基本的に移植である。揚子江下流域から移植されたというのが現在の説である。移植されたものという意味では、東南アジアと日本は同一の稲作圏に属していたと考えていい。
水系を通じて、人的交流も行われる。近江には、渡来系氏族によって、様々な技術がもたらされた。鉄については、4世紀後葉の鍛冶工房跡が、愛知川下流域の芝原遺跡で見つかっている。近江のみならず全国でも最古級のものである。鉄素材は大陸に依存していたと考えられる。6世紀前半以降、鉄製品の大半は日本で生産されるようになったと考えられており、製鉄炉が九州北部や吉備で確認されている。また、7世紀前葉の甲良町尼子遺跡から鉄滓(精錬滓)が出土している。鉄は7世紀前葉から各地に伝えられるようになったと考えられる。尼子遺跡の古墳群は製鉄に関わる職能集団だった可能性が高い。
しかし、宇曽川流域圏の古墳群から出土する物は、農耕具よりも木工に関わる物が多い。水田耕作よりも、生糸生産のための桑の栽培と養蚕を行う畑作主体であり、植林、伐採、木工、あるいは製鉄、鍛冶なども行われていたと考えられる。扇状地を含めて平野部全体が水田開発されるのは、古墳時代後期以降のことであり、鉄器の使用と関係している。また、灌漑技術の導入とも関わる。甲良町下之郷遺跡で、7世紀後半から8世紀前半にかけて大規模な用水路の跡が確認されている。この灌漑技術については、高谷はオリエント的な技術といい、中国を経由して伝わったと高谷は捉える。日本人騎馬民族説があるが、日本で馬の存在が確認されるのは4世紀末から5世紀にかけてのころで、その頃の近江では栗東市新開一号墳から馬具が出ている。乗馬の文化は6世紀以降に急速に広まっている。宇曽川流域圏から馬具が出現するのは6世紀後半で、半数以上は轡(くつわ)だという。
2 条理・荘園・検地:宇曽川流域圏の歴史的形成
「日本は滋賀から始まった」という主張がある。志賀高穴穂宮(大津市穴太(あのう))が日本最初の「都」であり、景行、成務、仲哀の三代の天皇が在位したのが日本最初の王朝であるという林屋辰三郎の「近江王朝説」が根拠とされる。言うまでもなく、近江が大和政権において極めて重要な役割を果たしてきたことは、はっきりしている。王権の所在地として「信楽宮」があり、「大津宮」がある。中大兄皇子が近江に宮を移し、即位したのは668年である。大化の改新(乙巳の変、645年)によって実験を握ったが、白村江で破れ(663年)、国家存亡の危機のなかでの遷都である。天智天皇は、百済移民男女400余人を近江神崎郡に居住させている(665年)。百済の高級官吏であった鬼室集斯(きしつしゅうし)はじめ男女700余人を近江国蒲生郡に移している(669年)。大津宮については、その位置については、特定された(1974年)が、「大津京」と言える条坊が存在したかどうかは定かではない。「大津宮」は、壬申の乱によってわずか5年半で廃都となる。
[i] 滋賀県立大学特別研究プロジェクト「琵琶湖自然共生流域圏の構築―宇曽川流域圏モデル―」、2007-08
[ii] 高谷好一、『湖国小宇宙―日本は滋賀から始まった―』、サンライズ出版、2008年
[iii] 20歳代の終わりに、高谷先生をはじめとする京都大学東南アジア研究センターの先生方から東南アジア研究の手ほどきを受け、その後も引き続いて様々な機会を通じて教えを受けてきた。とりわけその「世界単位」論には大きな刺激を受けてきた。その「世界単位論」を基礎におく高谷先生の「湖国小宇宙」論は、ここでいう「琵琶湖自然共生流域圏」論に密接にかかわり、その大きな枠組みとなるものと考える。「湖国小宇宙」論が「小宇宙」を楽々と越えて、アジアの各地へ広がりを見せるのは実に勇気づけられる。宇曾川流域圏に視点は置くが、視線の自在な移動、その文明生態史的視点については従いたい。問題は、地域を「自然社会文化生態複合」として捉える視点である。高谷好一、地域研究の視座『新編・「世界単位」から世界を見る』地域研究叢書 2 (京都大学学術出版会、2001年)『新世界秩序を求めて 21世紀への生態史観』(中公新書、1993年)『多文明世界の構図 超近代の基本的論理を考える』(中公新書、1997年)など。
[iv] はるかに時代は下るが、それでも現在の琵琶湖が形づくられる以前、湖東から湖南にかけて沼や湿地(「蒲生沼沢地群」)が出来ていた頃(250万年前~180万年前)に生息していたとされるアケボノゾウ1頭分の化石が発見された(1993年)のは多賀町四手である。また、同じく多賀町の芹川の河川敷でナウマン象の象牙の化石が見つかっている(1998年)。
[v] 犬上川上流の多賀町佐目の「佐目洞穴遺跡」(俗称蝙蝠穴)は、滋賀県唯一の縄文洞穴遺跡である。
[vi] 国立歴史民俗博物館も既にこの修正を行っている。
[vii] 愛知川左岸になるが、大中の湖南遺跡から登呂遺跡(静岡県)に次ぐ発見となる水田跡が見つかっている(1965年)。縄文中期(前葉から後葉)とされ、4つの居住区が確認されている。水田遺構には二種あり、ひとつは低湿地で矢板や杭を備えた畦をもつ一区画が大きいもので、この代表が登呂遺跡であり、大中の湖南遺跡である。もうひとつ緩傾斜地につくられる小区画のものがあり、その代表が守山市の服部遺跡である。
[viii] サンライズ出版、2007年
大化の改新以前は、天皇や豪族はそれぞれ私的に土地・人民を所有・支配していた。すなわち、天皇・王族は、私的所有地である「屯倉」と私的支配民である「名代・子代」などを保有し、豪族らは、私的所有地である「田荘」と私的支配民である「部曲」などを保有していた。
「改新の詔」第1条は、こうした私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇が所有・支配することを宣言する(「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘」)。そして班田収受法が制定される。私地私民制から公地公民制への転換である[ii]。
「三世一身法」(723年)と「墾田永年私財法」(743年)によって私有地としての「墾田」が認められる。「墾田」として認められるためには、その土地が口分田[iii]・位田[iv]・職田[v]・功田・賜田[vi]などでなかったことを確認することが必要になる。この新しい土地管理法とともに導入されたのが、土地を機械的に表示する条里制(条里呼称法)である。742年に始まった班田図の整備とともに、条里制は各国毎に実施される。宇曽川流域圏にはこの時に遡る条里制区割りを今日でも確認できる。
条里制は、面積一町(一町(60歩=109m)×1町:約1.2ヘクタール)の正方形の区画を「坊」(9世紀以降は「坪」)とし、「坊(坪)」を6×6に東西南北に並べた正方形(6町四方)を「里」と称した。坪の中は10等分に地割りされており、この区画は「段」と呼ばれた。地割方法は長地型と半折型に大別される。長地型は、一町(面積)を6歩×60歩=1段として分けるもので、半折型は、12歩×30歩=1段として2列に分けるものである。
里における各々の坪は1から36まで番号表示され、例えば一ノ坪などと呼称された。坪の番号表示方法(坪並)は平行式坪並と千鳥式坪並に大別される[vii]。そして、「里」の横列を「条」、里の縦列を「里」とし、任意に設定された基点から、縦方向には一条、二条、三条と、横方向には一里、二里、三里という位置表示が行われた[viii]
滋賀県における条里地割は、諸論文によって明らかにされているが、図1はその分布を示している。
宇曽川(芹川、犬上川、愛知川)流域圏についてみると、北から芹川右岸の三角州、芹川と犬上川の間の三角州、犬上川と宇曽川の間の三角州、宇曽川中下流部南の三角州、愛知川下流部の右岸と左岸の三角州に整然とした条里地割が見られる。特徴的なのは、条里の軸が東へ31~34度傾いていることである。犬上川の扇状地に条里地割は断片的で、浜堤の背後や内湖周辺などに条里地割は見られない。この条里地割は、明治初期の地積図を検討することにおいて、かなり厳密に復元できる。明治の地積図には、条里地割を継承する呼称が残されているのである。
班田収授のシステムは、8世紀末になると、逃亡する百姓が増加し、次第に弛緩し始める、平安朝を開いた桓武天皇は6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図ったが、土地の不足、手続きの煩雑さ、偽籍の横行等によって班田収授が実施されなくなった[ix]。しかし、条里制(条里呼称法)および班田図は、班田収授が行われなくなっても引き続き使用された。班田収受が行われなくなるとともに成立していくのが荘園制である。墾田永世私財法により、中央貴族や寺社などが、未墾地を自力で開墾して私有地とすることによって成立した荘園(自墾地系荘園/墾田地系荘園)については、東大寺の水沼村、覇流村などについては上に触れた。一方、荘園は、開発領主が国司の収奪から逃れるため、その所有地を中央の権門勢家や寺社に寄進することによって成立するようになる(寄進地系荘園)。11世紀ごろから多くなり、寄進者はそのまま現地の支配権を認められ、寄進を受けた者は国から不輸・不入の特権を得た。宇曽川流域圏にも、後三条勅旨田(彦根市後三条)、近衛家領である犬上荘(彦根市高宮・安食中町、豊里町)、藤原定家領である吉富荘(松原内湖・入江内湖東部地域)広隆寺領である善理荘(彦根市芹町)、建仁寺領である清水荘(彦根市清崎町)などがあった。また、比叡山延暦寺の山門領荘園が愛知川河口付近の栗見荘である。
この荘園制は、鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰え、応仁の乱を経て消滅していくことになる。荘園制の衰退とともに条里呼称法は使用されなくなる。そして、「太閤検地」以降は一部の地名に残るのみとなる。豊臣秀吉は、各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎とした。「太閤検地」[x]は、全国的な規模で統一的に行われ、土地制度を一新する。そして、物差し、升を統一して行われたため、度量衡の統一がなされた[xi]。面積の単位も変更され、1反(段)=360歩が300歩に変更されるのである。「太閤検地」によって既往の複雑な土地所有関係が整理されることによって、荘園制は完全に崩壊することとなる。「太閤検地」は、天正の石直し・文禄の検地とも呼ばれ、天正一九(1591)年以降行われるが、これを企画発案したのは石田三成で、検地奉行として事実上の施行者であった[xii]。この時作成された検地帳が長命寺領の下平流村(しもへるむら)(稲里町)と大橋村(芹川町)について残っている。太閤検地によって、各地の石高が確定されたことは、その後江戸時代の幕藩体制の基礎となる石高制のもととなり、江戸時代においてもこれに倣って検地が行われた。
しかし、「太閤検地」にもかかわらず、条里地割は多くの土地で残存した。上述のように、明治初頭あるいは現在もその地割を確認できるのである。土地の区割の持続性を示している。機械的なグリッドシステムの潜在力を示している。既に存在する地割をあえて再整理する必要は必ずしもないのである。ただ、江戸時代における新田開発においては、条里呼称法に縛られることがなくなったため、条里に拠らない地割が一般的となった。しかし、明治の初頭までは、条里地割が残っていたのである。
[i]近江国内の12郡のなかで、宇曽川流域圏に置かれたのは、北から坂田郡、犬上郡、愛知郡、神崎郡の4郡である。4郡の郷は、『和名類聚抄』(10世紀)によって知られる。
坂田郡:大原・長岡・上坂・下坂・細江・朝妻・上丹・阿那・駅屋
犬上郡:神戸・田可・沼波・高宮・尼子・甲良・安食・清水・穴田・青根・駅家
愛知郡:蚊野・八木・大国・長野・平田・養父
神崎郡:高屋・神崎・駅家・神主・垣見・小社・木幡
郡家跡と推定されているのが、坂田郡の宮司遺跡(長浜市)、犬上郡の竹ヶ鼻遺跡(彦根市)あるいは尼子長畑遺跡(甲良町)、神埼郡の大郡遺跡(東近江市)である。律令体制に組み込まれた地域単位は、どう比定するかを含めて、宇曽川流域圏の基礎単位と考えることができるだろう。
4つの郡の里(郷)の中には封戸があったことが、平城京から出土した「長屋王家木簡」「二条大路木簡」などの木簡群から明らかになっている。封戸とは、食封とも言われるが、皇族や貴族に給与として与えられるものである。甲良里には長屋王の封戸、上坂郷には藤原麻呂の封戸があったことが知られる。また、東大寺の封戸も愛知郡に置かれていた。さらに、社寺や貴族が直接4郡内に土地を所有し、荘園を経営することもあった。川原寺、法隆寺、元興寺なども愛知郡、坂田郡などに墾田、荘を持っていたことが明らかにされている。また、東大寺が水沼村、覇流村に荘園を所有していた。水沼村は、敏満寺周辺、覇流村は荒神山の北麓、曽根沼周辺に比定されている。
[ii] ただ、この時点で班田収授法が施行されたことは疑問であり、班田収授法の発足は、初めて戸籍が作成された670年、あるいは「飛鳥浄御原令」が制定された689年以降であろうと考えられている。班田収授法の本格的な成立は、701年の「大宝律令」制定による。現存する「養老律令」(757年)によると、班田収授は6年に1度行われた。これを「六年一班」という。同様に戸籍も同様に6年に1度作成されており、戸籍作成に併せて班田収授も実施されていた。戸籍において、新たに受田資格を得た者に対して田が班給されるとともに、死亡者の田は収公された。
[iii] 口分田(1段=360歩) 良民男子 - 2段、良民女子 - 1段120歩(男子の2/3) /官戸・公奴婢
- 良民男女に同じ(男子:2段、女子:1段120歩)/家人・私奴婢 - 良民男女の1/3(男子:240歩、女子:160歩)
[iv] 正一位 - 80町、従一位 - 74町、正二位 - 60町、従二位
- 54町、正三位 - 40町、従三位 - 34町
正四位 - 24町、従四位 - 20町、正五位 - 12町、従五位 - 8町
[v] 太政大臣 - 40町、左右大臣 - 30町、大納言 - 20町 大宰帥
- 10町、大宰大弐 - 6町、大宰少弍 - 4町、以下大監から史生まで2町~1町を支給 大国守 - 2町6段、中国守・大国介 - 2町2段、中国守・上国介 - 2町下国守・大上国掾 - 1町6段、中国掾・大上国目 - 1町2段、中下国目・史生 - 1町
郡司大領 - 6町、少領 - 4町、主政・主帳 - 2町
[vi] 功田・賜田は支給面積の基準はなかった。
里における坪の番号表示 |
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[x] 豊臣秀吉は、1582年から検地を行っており、1591年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは太閤(たいこう)ではなかったが、1591年以降は秀吉自身が「太閤」の称号を好んで使用したこともあり、1591年以前の検地も含めて「太閤検地」と言う。
[xi] この時代は明の永楽銭が基準貨幣で、その価値は不安定であった。
3 水利体系と水利集団:宇曾川流域圏の空間構成
豊かな自然に恵まれた宇曽川流域圏に、水系に従って、住居・集落が立地していく。初期には河川は度々流路を変え、住居・集落はその位置を変えている。治水は、近年に至るまで流域圏の大きな規定要因である(治水)。稲作が伝来し、定住が本格的に始まる。定住革命が先か、農耕革命が先か、世界史の起源をめぐる議論があるが、日本の縄文時代は世界的にみて豊かであった。豊かな自然に依拠して一定の定住が行われていたと考えられる。稲作の展開にとって、決定的なのは鉄器の導入であり、灌漑技術の導入である。稲作とともに自然との共生の歴史が開始されるが、灌漑、利水が地域の規定要因になる(利水)。稲作に関わる全ての技術は外からもたらされたものである。人類の定着の段階も含めて、宇曽川流域圏は、琵琶湖・淀川水系を通じて、また日本海、伊勢湾を通じて、アジア各地、オーストロネシア世界と繋がっていた。水系を主とする交通のネットワーク、これが宇曽川流域圏の第三のインフラストラクチャーである(水運)。
大和政権の成立とともに、また律令体制の確立によって、宇曽川流域圏はそのシステムに編入される。というより、律令体制の確立に大きな役割を果たす。渡来系氏族が早くから定着してきたことは、地域を大きく特徴づける。また、宇曽川流域圏には、皇族・貴族、有力社寺(東大寺)の封戸が置かれるなど、中央政権と強固な関係を維持し続けることは地域を大きく特徴づける。近江が日本史の興亡の中心であり続けたのは、その日本列島の政権の位置、政治経済生態力学の重心が大きく関わっている。
藩を支えたのは、室町時代に形成された惣、惣村である。太閤検地によって、村毎に田畑屋敷が測量され、所有者の確認(「一地一作人」)が行われると同時に、田畑の価値が石高によって定められ、検地帳が作成された。そして、その検地帳の評価に従って、その田畑の支配を認められた領主のもとに年貢が収められた。検地帳は村単位に作られ、村単位で年貢を納める請負制が一般的となる(村請制)。
近江国では、関ヶ原の戦いの直後、再び徳川家康によって大規模な検地が行われている(慶長七(1602)年検地)。家康が征夷大将軍に任命される以前に近江一国の惣検地を行ったことは、近江国の重要性、生産力を示している。彦根藩領の村落の数は、時代によって、また史料によって異なるが、1711年の「郷村高辻帳」には566カ村が書き上げられており、およその数はわかる。宇曽川流域圏の4郡については、坂田郡134、犬上郡119、愛知郡104、神埼郡55である。「山畑開(やまばたびらき)」として新たな田畑が開墾されたが、彦根藩には極めて少なく、江戸時代を通じて村の数にはそう大きな変化はなかったと考えられている。江戸時代の近江国の総人口は約60万人(1721年)から約54万人(1798年)へ減っていくが、彦根藩は、約20万(1695年)から18万9千人(1798年)と約1/3を占める。
村の形態は、1ヵ所に屋敷地に集中するかたちが一般的で、それが複数集まる場合もある。規模の大きなものを本郷、小さいものは枝郷と呼ばれた。被差別部落は枝郷として、他の村(本郷)と一緒に編成された。村々には、庄屋・横目・組頭の三役が置かれた。組が複数ある場合は、組頭の数は複数となるが、各役は一人が一般的であった。庄屋は村を代表して村を治めたが、「村寄合」による総意によって規定されていた。自立共同の惣村の伝統はある程度生き続けたと考えられる。
明治政府は、地租改正を行う過程で「耕地絵図」「地引絵図」など各種地図の作製を命じているが、彦根市域については、地租改正法の公布(明治六(1873)年)前後、明治四(1871)年から明治七年にかけて作製された地図が残されている[i]。この時点での「地券取調総絵図」を見ると、条里制地割が存続されていることがはっきり見て取れる。この地図と、新たに測量された地図を比較することによって、条里制地割を復元することが可能である。
社会の編成は大きく転じてきたけれども、自然と共生する人々のあり方は連綿と続けられてきたことが明らかである。宇曽川自然共生流域圏の原像として、この明治初頭の段階を設定したい。この原像は、少なくとも、昭和戦前期、第二次世界大戦直後ぐらいまでは維持されてきたと考えられる。滋賀県における農業水利をめぐっては、大正末期に『滋賀県の農業ノ水利及土地調査書』(1923-24年、滋賀県内務部)があり、それをもとにした野間晴雄の論考[ii]がある。この調査書および野間の論考に拠れば、大正末期においても、伝統的水利体系が生き続けてきたことがわかる。しかし、この調査の目的は、「水利ノ改善耕地ノ改良新耕地ノ造成」である。食糧自給率が問われる現代の食糧問題、農業問題の位相からすれば隔世の感があるが、当時は、「米騒動」(1918年)を背景とした食糧増産が国家の根幹に関わる課題であった。『滋賀県の農業ノ水利及土地調査書』の内容については、野間論文に委ねたい。排水不良、用水不足に悩む当時の水利状況がまず明らかにされている。全水田の70%が用水不足であった。
『滋賀県の農業ノ水利及土地調査書』は、伝統的な水利方法の類型を明らかにしている。河川・水路、湧水、ため池、揚水機、天水・渓流という区分が調査項目とされているが、全体としては河川灌漑が一般的である。また、湖東に顕著であるが、湖岸と河川灌漑地域の間に湧水灌漑地域がある。野洲川・愛知川・犬上川に典型的である。宇曽川流域圏については、上に見てきたとおりである。湧水を水源とする灌漑は、扇状地の扇端部での扇状地型湧水と三角州まで至る流速が遅く水圧も低い三角州型湧水があるが、河川灌漑地域と湧水灌漑地域の境界は、中山道である。河口付近では、クリーク(溝渠)灌漑が行われる。さらに、宇曽川流域圏では少ないが、古琵琶湖層群の堆積する重粘土地帯である甲賀郡や日野川上流にはため池灌漑が見られる。
単一水源による水利は、しかし、当時約40%で、1/3は河川灌漑を主として、他の水源を加える形がとられている。水源を3以上利用する村も1/4ある。揚水灌漑も伝統的に行われてきた。野井戸による「はねつるべ灌漑」なのである。動力利用による機械揚水が行われるようになったことは画期的な変化であるが、単独のものはなく、河川灌漑が基本である。渦巻ポンプによる揚水機が普及しだしたのは大正期であるが、滋賀県には調査時点で179台の揚水機の記載がある。野洲川、犬上川の湧水地帯に集中的に見られる。新潟県に次ぐ普及率であった。また、琵琶湖の水を利用する逆水灌漑は第二次世界大戦後のことである。
江戸時代においても、日照りが続くと、水不足が深刻になり、用水確保をめぐって、度々水論が起こっている。そのため、用水確保のために様々な工夫が行われた。扇端部では、川に堰を設けて水を引く他、湧水を利用することができたため、用水の確保は比較的容易であったが、扇状地の上流部は、井戸を掘ったり、水路を開いたりして用水を確保する必要があった。犬上川の一ノ井はその代表的例で、犬上川の水を金屋村(甲良町)の井堰から取り入れ、上ノ郷川、下ノ郷川、尼子川に分けて、南岸の17カ村に供給した。一ノ井郷と呼ばれる用水管理の組合が組織され、金屋・尼子・下之郷の三村が親郷として用水管理に当たった。一ノ井郷は、旱魃時の少ない水を公平に配分するために、「番水」と呼ばれる、場所毎に取水時間を決めて農業湧水を分配する配水方法が採られた。
扇の要に位置する一ノ井堰は、湖東地域一帯を制する上でも要であり、政治的軍事的な争奪の対象となってきた。六角佐々木氏が楢崎山に陣所を置き、続いて近江守護京極佐々木道譽が佐々木城を置いたのも湖東地域を制するためである。浅井長政も直ちに一ノ井を制している。彦根藩は、川除奉行を置いて一ノ井堰の管理監督に当たらせてきた。明治に入って、犬上郡庁の管理するところとなるが、しばらくは江戸時代の慣例に従ってきた。その慣例については、『甲良町史』(1984年、「第七編 近代 第二章 犬上川一ノ井堰」pp.734-796)にある程度明らかにされている。この一ノ井堰(左岸:甲良町側)と二ノ井堰(右岸:多賀町側)との水論、水争いは激しいものがあり、江戸時代に、1824年、1827年、1856年、1864年と記録がある。また、「井落し」といった井堰を切り落としたり、爆破したり、川を埋め立てたりする事件は、1872年、1894年、1903年、1907年、1918年、1921年、1932年と、昭和初期まで繰り返されてきた。
宇曽川流域圏の4つの河川について、その水利用の特性と水利集団についてまとめると、以下のようになる。
①宇曽川:宇曽川の水源は押立山(標高772m)で浅い。流長約22kmの小河川である。愛知川と犬上川の形成した扇状地の間を流れ、下流部では排水河川となって、河口における土砂の堆積は顕著ではない。南川合流点より上流は天井川となっているが、下流部には天井川となる部分はない。中流部では伏流するため、埋堰で取水したり、自然湧水を水源とする小規模な灌漑が行われてきた。
②愛知川:鈴鹿山脈の奥深く御池岳(標高1,242m)に源を発する茶屋川、御池川と御在所山付近に源を発する神崎川が永源寺で合流し、愛知川となる。全長52.9km、滋賀県下第3の河川である。永源寺町を扇頂とする扇状地を形成する。下流では彦根市と東近江市の境界となりつつ琵琶湖へ注ぐ。扇状地は細長く、両岸は段丘化した隆起扇状地となっている。左岸は蒲生野と呼ばれ、近年まで平地林を残す乏水地域であった。蒲生野を水田化するために、高井、駒井(駒井筏川)が設けられ、灌漑が行われてきた。高井は、比叡山の僧侶得珍が山門領のために開発したのが起源という。駒井は、佐々木頼綱が所領のために開発したという。しかし、渡来系の氏族の開発に遡る可能性があると考えられている。右岸の低位段丘上を灌漑するのは愛知井である。この愛知井による灌漑地域には条里地割が存在しており、開発は古代に遡る可能性がある。
③犬上川:鈴鹿山脈を源流とする北谷川と南谷川が、多賀町川相で合流するのが犬上川である。全長25km、流域面積110km²。 滋賀県下最大の典型的な扇状地を形成する。扇央部にできた乱流に従った用水路体系が見られる。標高95m付近で扇端部に達し、平野部に達して琵琶湖に注ぐ。中流部では、伏流水となり、標高100-125mには表流水がないのが通常である。扇頂部の金屋(甲良町)を井元とする一ノ井は、上之郷川・下之郷川・尼子川の3本に分流しながら扇端部まで県下随一の灌漑面積をもつ。自然流下方式で開渠であったが、2007年に完成した圃場整備によって暗渠化された。
④芹川:芹川は、鈴鹿山系の霊仙山および高室山に源を発する、全長18.6kmの小河川であるが、相対的に河床が高い。彦根城下町建設の際に下流部は付け替えられている。芹川の井堰は細長い河谷に沿って上流から順に設けられていた。高橋誠一らによる調査[iii]によれば、芹川の右岸の灌漑については3つの系統があったとされる。山麓からの傾斜地で条里地割をもたない芹川右岸は本線、平坦な段丘面で条里地割地区は赤田川、旧氾濫原で地割の乱れた地域は下今井水路の3つである。地頭職赤田氏によって開発されたとされるのが赤田川で、室町期ということになるが、さらに遡る可能性が高いとされる。水利集団としては、井元(井親)である久徳、赤田井、高宮を井元とする一ノ井などがあった。芹川をめぐっても水論があり、1718年、1725年、1739年、1743年、1747年、1751年、1761-71年、1765年、1794年、1797年、1798年、1806年、1808年、1809年、1837年、1853-56年と記録があり、明治に入っても続いている(『多賀町史』上巻(1991年、「四 近世」、pp.844-882)。
以上のように、前近代の宇曽川流域圏を大きく支配した水利体系を確認した上で、地域生活空間の原像をいくつか見てみたい。
湖辺には、砂堆(浜堤)に沿って、宇曽川流域圏の河口部には、松原、大藪、八坂、須越、三津屋、石寺、薩摩、柳川、新海(しんがい)などの村が立地してきた。こうした村は、多くの舟を持ち、漁業を営んできた。また、内湖に拡がる葭地は田畑・屋敷と同様検地が行われ、その評価が検地帳に記載されてきた。石寺村の葭地は、村内の各家に分割されて所持されていたことが知られる。宇曽川下流の葭地は徐々に耕地化され、葭地から水田に変化していく。葭地をめぐっても、その無断伐採が横行し、争論が起こっている。内湖の藻や泥は耕地の肥料として用いられ、「沼稼ぎ」と呼ばれて湖辺の村に欠くことの出来ない農作業となっていた。
漁業としては、フナ、コイ、ウグイ、ハス、ナマズ、ウナギ、マス、ヒウオ、アユ、シジミなど、漁獲物は彦根を中心とした周辺地域に供給されていた。定置網漁としての梁、えり(立網、街網)が有名だが、様々な漁法、漁具が用いられた。えりは個人持ちのことが多かったとされる。彦根藩は、江戸時代初期から漁業に介入し、税を徴収してきた。
八坂は、犬上川が貫流するが、南岸の八坂東遺跡(滋賀県立大学構内)からは、12世紀-13世紀の遺構が出土している。古くから港として重要な役割を担っていた。中世には、日吉社領、北野社領である八坂荘があった。八坂商人は五箇商人の中心として活躍したことが知られる。『滋賀県物産誌』(1880年)によれば、船を140艘所有し、120艘は田舟、20艘は運送を兼ねた漁船と記載されている。多景島は、八坂村の村内とされてきた。
宇曽川右岸の須越は、『滋賀県物産誌』(1880年)によれば、111戸のうち漁業を行うこともある農家が107戸、他に商家2戸、工家1戸という構成であった。また、船80艘を所有していたという。
三津屋村は、琵琶湖・宇曽川・曽根沼によって三方を囲われている。曽根沼が内湖になったのは15世紀とされ、陸地であった奈良時代には、東大寺領の墾田があったとされる。正倉院蔵の「近江国覇流村墾田地図」に示される上述の覇流村は、石寺村から曽根沼一帯に比定されている。三津屋村は、半農半漁の村であったが、宇曽川と湖岸に漁場を保有しており、漁業権を持っていたのは「宇曽川猟師拾六人」(一六株)である。村が個人にえり漁を請け負わせることもあったという。漁業についても、漁場の境界をめぐって、開出今村と八坂村の争論などの記録が残されている。松原村では、漁業と水上交通との関係をめぐって争論が起こっている。
石寺は、曽根沼の西に位置し、荒神山の麓に位置する。『滋賀県物産誌』(1880年)によれば戸数149戸で、全て農家であるが、漁業も行い128艘の船を所有していたと記載される。集落は、水路で囲われた下石寺と荒神山の麓の上石寺と2ヵ所にあり、前者が本村とされている。浄土真宗本願寺派の寺院がそれぞれにあり、墓地もそれぞれにある。文禄川舟運の終点にあり、年貢米回漕に役割を果たしていた。
江戸時代には、鴨など水鳥を捕る鳥漁も漁業の範疇だと見なされていた。松原、大藪、八坂、須越、石寺、薩摩の6村に鳥漁に関する史料が残されている。
琵琶湖・淀川水系の水運が、古来、近江の基盤となってきたこと、織豊期に信長、秀吉が水運を最大限利用する施策を採ってきたことは、上述の通りであるが、江戸時代に入ってもその重要性は変わらない。井伊直正が佐和山入城と同時に船奉行を置いたことも前に触れた。大坂築城以降は、大津と彦根領内を結ぶ水運としては、松原、米原、長浜の三浦(三湊)が中心的役割を担う。松原浦周辺には年貢米を保管する松原蔵が置かれ、領内の米は一旦松原浦に集められた。
琵琶湖の水運が発達するに従って、河川を利用した水運も発達する。宇曽川は、水量が豊かで古くから船運が利用されてきたが、河口の三津屋村は、内陸部からの年貢米を彦根城下に回漕したり、商人の扱う品を運んだりしていた。安永期(1772-81)には、12軒の問屋(船宿)が成立していた。宇曽川の河口北側の須越村にも問屋が二軒有り、日夏郷からの年貢米と商人荷物を扱っていた。この取引は松原湊との間のみに認められていた。時代が下ると安食川や来迎川も川幅の拡張によって通船が可能となり、利用されるようになった。その他、須越村、八坂村、開出今村、甘呂村などにも水路が巡らされ、小舟による物資の輸送が行われていたと考えられる。
柳川は、敦賀から米・味噌など日曜必需品を松前に輸送し、材木屋の祖となる、蝦夷地松前との交易に先駆的な役割を果たした建部七郎右衛門元重で知られ、柳川商人の本拠地として賑わった。隣村である薩摩商人とともに両浜商人と呼ばれていた。両浜商人が招来した松前物は、来迎川舟運によって愛知川上流部の村々へ運ばれていった。
新海は、「大浦屋敷」「北浦屋敷」「今屋敷」の3つの集落からなるが、卵形をしている「大浦屋敷」は、「お城濠」と呼ばれる環濠で囲われている。もともとは、守護佐々木氏の一族で村を収めた新開源兵衛尉家郷の居館跡であった。
新田開発がそれ以前の段階で、湖岸地帯にまで及んだことが「新開」という名前に示されているが、環濠が築かれたのは戦国時代で、新開をはじめ、愛知、山崎、田附など土豪勢力が割拠し、荘園領主と争った時代である。比叡山延暦寺領愛知荘と新開氏は激しく争い、環濠による城塞化が必要とされたのである。田附村の代官千甚坊と佐々木氏との興亡は「新開崩れ」として語り継がれてきたという。『滋賀県物産誌』(1880年)によれば、全戸農家であるが、藻や泥を肥料用に採取するもの、大工桶職、漁業を行うものも記載されている。新海村と上流の田附村、川南村などの梁主と新海村の漁師は、漁場を巡ってしばしば争論を起こしている。
この新開の「お城濠」は埋め立てられて、現在はない。その埋め立てられた経緯(「愚行」)については、國松孝男の論考がある[iv]。
琶湖岸に形成された砂堆(浜堤)とその背後(すなわち、砂堆と氾濫原の間)に形成された三角州と扇状地の扇端部との間は、クリーク灌漑、そして湧水による灌漑が行われてきた。
日夏:宇曽川の右岸、河口間近、荒神山の東に日夏村は位置する。日夏村は、1950年に彦根市に合併するが、遡れば、筒井・五僧田・安田・泉・寺・妙楽寺・中沢・島の村が1884年に合村してできた村であった。「古屋敷」付近に最初に村が成立し、その後、現在の場所に移転してきたという伝承をもつ。日夏の水田・畑は、古来の犬上条里地割が施された地域であり、氾濫源、三角州の自然堤防上に立地した集落である。宇曽川左岸の湿地と排水不良の水田を除いて、用水の大部分を湧水に依存してきた。古来、大半は水不足の不安のない地区であった。湖岸に近い水田は圃場整備が行われ、東側の水田は潰されて、南彦根ニュータウンとして計画住宅地として開発されている。『滋賀県の農業ノ水利及土地調査書』(1923-24年、滋賀県内務部)によると、総水田面積205町1反のうち、二毛作田が87%を占めていた。日夏の湧水地点は5ケ所有り(図3-7)、金剛寺から流れ出て、蓮台寺川・安田川・雲川に繋がり、辻堂・蓮台寺・筒井を抜けるもの(A)、極楽寺川から日夏へ流れるもの(B)、天神堂川から中沢・妙楽寺に抜けるもの(C)、河瀬馬場から不動川・島川へとつながるもの(D)、日夏には自噴井戸(ドッコイショ:E)があって、泉川と合流して、寺川となる。妙楽寺遺跡からは、弥生時代の遺構に続いて、古墳―平安、平安―室町の遺構が出ている。遺構群は、犬上郡条理に従って整然と区割りされている。村というより、都市的な屋敷地割がみられる。16世紀前半で遺構が途絶えるが、信長による安土城下建設にともなって移転させられたのではないかという推測がある。妙楽寺の対岸にあるのが古屋敷である。古屋敷遺跡は、14世紀―16世紀の遺構と考えられる。妙楽寺とほぼ一体であったと推測される。上述のように、日夏村の成立は、妙楽寺、古屋敷の終焉と関連があると考えられている。
甘呂:甘呂は、野田沼を介して湖岸の須越・八坂に接している。また、東南隅を鈎形に横切る広い道は朝鮮人街道である。野田沼の周辺は広大な葦地になっており、水田が接する。葦地を水田化してきたと考えられるが、全体的に整然とした条里地割が残っており、犬上郡条里の呼称と一致する「六ノ坪」「十ノ坪」といった地名も残っている。屋敷地は、甘呂神社を中心に、中央部にまとまっており、計画的な宅地割がなされている。
東南部に「古甘呂」の小字名が残っており、かつての集落は東南部にあったと考えられているが、南部に「城南」「城ノ西」「城田」「城畑」といった城館関連の小字名も残されており、戦国期には、佐々木氏の一族である川瀬氏の城館があったとされている。
野田沼から二本の水路が延びており、北側の水路は屋敷地にまで引き込まれて船着き場があった。現在もその跡が残っている。
下流部の生業、生活にとって、決定的であったのは、洪水対策である。宇曽川、芹川、犬上川、愛知川は、大雨が降るとしばしば堤防が決壊して、大きな被害を流域の村々に及ぼした。1756年に、愛知川と宇曽川の堤防が切れている。また、1809年にも愛知川の洪水があったことが史料にある。国領村は、大きな被害を受け、その後復興した村である。犬上川については、1835-1853年の19年間に15回の被害があったとされる(『多賀町史』上巻p.661)。
宇曽川流域圏では、流域の村々は、しばしば藩の許可を得て、共同で堤防を修繕を行った。愛知川では、江戸時代初期から水をめぐる争いがあったが、1777年、1812年に大きな争論が起こっている。堤防の強化によって、対岸の村々に危険が増すからである。1777年の争論は、郡山藩領、和田村、神郷村、種村の防水林を焼き、「蛇篭」(じゃかご)を破壊したために、藩をまたがる争論となったケースである。結果として、和田村側の堤防が強化されたために、彦根藩側の堤防を強化する必要となり、彦留村など九ヶ村が堤防強化の願書を提出した記録が残されている。
氾濫原など平野部を流れる河川もそれぞれ用水組合によって管理された。愛知川の支流である来迎川(不飲川)は、朝鮮人街道との交差点あたりで分岐するが来迎井郷(らいごうゆごう)という組合が組織され、13カ村に水を供給していた。来迎川は舟運にも使われ、その浚渫も共同で行われた。
4 圃場整備とダム建設:宇曾川流域圏の変容
宇曽川流域圏に関する近代的測量に基づく地図の最も古いものとして、明治二六(1893)年の陸地測量部による測図地形図がある。その地図と現在の地図を比較すると、この1世紀余りの変容が視覚的に理解できる。図3-1,2は、宇曽川下流域について、その変容を示している。流路の大きな変更は一見なく、野田沼、曽根沼も形を変えながらも残っている。いかにも人工的な計画住宅地の開発が行われているが、条里地割の軸線に従っているし、明治半ばの集落、すなわち、宇曽川の自然堤防上に古来存続してきた集落はそのまま存在している。宇曽川下流域に関する限り、まだ、その原像をうかがう手掛かりは残されているといっていい。しかし、宇曽川流域圏全体の変貌、大転換もはっきりしている。
第一に、明治以降の産業化、都市化の流れ、産業社会への転換が地域の生産・流通・消費の構造を大きく変えた。その大転換は、地域の生活空間を支える土地利用全体に現れている。鉄道、新幹線、モータリゼーションの普及による交通体系の変化が決定的である。そして、琵琶湖淀川水系の生命線であった湖上交通、水運がほぼ消えた。
農業そのものの転換がさらに大きい。農薬の使用など、あるいは農業技術の様々な革新があり、食糧増産のために内湖を埋め立てるなど、農業そのものの産業化が行われてきた。また、日本の産業構造の転換(農業国家→土建国家→IT国家)が農業そのものの存立を危うくしてきた。構造改善事業としての圃場整備が行われて、農村の景観は大きく変わることになった。減反政策が一貫して採られ、農業の基盤そのものが衰退することになった。
淀川水系における都市化、都市人口の爆発的拡大そして工業化は、琵琶湖の水需要を急激に拡大する。そして、水需要、また治水対策としてのダム建設は、宇曽川流域圏の環境を大きく変えることになった。琵琶湖総合開発による琵琶湖のダム化、湖岸道路による湖と水田との切断は生物環境に決定的な変化を与えることになった。
河水統制事業
宇曽川流域圏を支えてきた琵琶湖・淀川水系について、その体系そのものを改編しようという試みは、古くは平清盛の敦賀湾への切落し計画、秀吉の運河計画などがある。しかし、それを引き継ぐ江戸時代のいくつかの運河計画も含めて、琵琶湖を日本海へ直結し、また、稲作に利用しようとする試みは、実現することはなかった。この日本海と琵琶湖を結びつける運河構想は、明治に入っても提案され、琵琶湖疎水で知られる田辺朔郎も大琵琶湖運河構想を提案している(1935年)。また、1961年には、大野伴睦による伊勢湾―琵琶湖湾―敦賀湾を結ぶ大運河構想がある。こうした運河構想が実現していたら、琵琶湖の生態基盤は大転換することになったであろう。
[i] 彦根市史編纂委員会、『彦根 明治の古地図』一~三、彦根市、2001年
[ii] 野間晴雄、「大正期近江盆地における農業水利の地域性―『滋賀県の農業ノ水利及土地調査書』の分析(1)―」「近江盆地における伝統的農業水利体系と村落結合―『農業ノ水利及土地調査書』の分析(2)―」(『歴史地理学紀要』通号31,1989年 p.83-130)。
[iii] 高橋誠一他、「滋賀県犬上郡における条理と灌漑システムー芹川中流域右岸を中心として」、『滋賀大学教育学部紀要』、1985年
[iv] 國松孝男、「環濠集落・新海の記録」(『琵琶湖流域を読む』上巻、琵琶湖流域研究会、2003年、pp.244-249)。
明治に入って、御雇い外国人デ・レーケらによって、淀川改修事業が行われる(1888年)。1885年の大洪水が大阪に未曾有の大被害をもたらしたのである。瀬田川の浚渫工事をめぐる上下流の対立は今日に至る問題である。京都・大阪・滋賀の三知事が、大戸川ダム建設中止の判断を下したのが2008年である。
琵琶湖・淀川水系に決定的な影響を及ぼすことになる「琵琶湖総合開発」が正式決定されるのは、琵琶湖総合開発特別措置法が成立・施行された1972年であるが、その前史となるのが1937年に始まる「河水統制事業」である。そして、さらにその前史となるのが、「琵琶湖疎水事業(1883-1890年)」である。①疎水通船(交通・運輸)②灌漑③水力発電④飲料水確保を目的とする、「京都策」として高く評価される事業であるが、基本的に琵琶湖を関西の水溜として、湖水を水資源として見なす思想は「琵琶湖疎水事業」に始まる。続いて、琵琶湖から流出する水量を調節管理する南郷洗堰が建設(1900-1904年)される。さらに発電事業として、蹴上発電所に続いて宇治発電所(1913年)、志津川発電所(1924年)、大峰発電所(1927年)が建設される。
こうした経緯の中で、主流となるのが「河水を統制する」という内務省の思想である。水力発電、食糧増産のための開田・開畑、治山・治水といった多目的のための事業として受けられていくのがダム建設である。日本最初のダムは上水道用の布引ダム(1900年、神戸市)で、本格的重力式コンクリートダムは木曽川大井ダム(発電用、1924年) である。
河水統制事業として、調査が行われ、それに基づいて「淀川河水統制計画」が発表されたのは1940年である。しかし、太平洋戦争に突入する状況の中で、そのままの実現は不可能であり、「琵琶湖臨時河水統制」として規模を縮小して実施されたのが「淀川第1期河水統制事業」である。その計画が引き継がれるのは、1951年に「河川統制事業」が「河川総合開発事業」に改められ、制度的に整備されて以降である。
1953年9月の台風13号による大洪水は明治以来最大の洪水で、宇治川が破堤する事態を引き起こした。この事態を契機として立案された「淀川水系改修基本計画」(1954年)は、多目的ダムの建設を中心とするものとなる。1959年の伊勢湾台風による洪水を経験して一部に修正が行われるが、1965年の新河川法の施行に合わせるかたちで、ほぼそのままで「淀川水系工事実施基本計画」に衣替えし、1971年に改訂される。
内湖干拓
琵琶湖周辺には、かつて、大小40余りの内湖が存在してきた。宇曽川流域圏にも松原内湖、野田沼、曽根沼、神上沼などが存在し、葦地、湊、漁業などに利用されてきたことは、見てきたとおりである。歴史的にも水田化は試みられてきたけれど、昭和戦前期に食糧難から内湖干拓が国策として推進されることになる。琵琶湖の環境の大きな変化である。
1942年に小中の湖の干拓工事が開始され、翌年には入江内湖、松原内湖など10カ所の内湖の干拓が決定される。太平洋戦争によって中断されるけれど、戦後、干拓事業は再開され、多くの内湖が埋め立てられた。最大の内湖であった大中の湖については、1953年の愛知川決壊によって、遊水池としての位置づけが見直されるが、国家事業として1957年に着工され、埋め立てられた(1968年)。総面積約29平方キロあった内湖は、1985年までに23カ所(4.32平方キロ)に減少している。
内湖を埋め立てた代償は大きい。食糧増産という国家的課題ではあったが、農政、農業そのものが戦後大きく転換することになり、必ずしも、当初の計画通りに利用されないのである。1950年に滋賀県の全戸数の内半数は農家であったが、1960-65の5年間で農家の数は1/3に減っている。
ダム建設
宇曽川流域圏では、水利をめぐって、熾烈な水争いが繰り返されてきた。明治に入って、その解決のために考えられたのがダムである。ダムそれ自体は古来築かれてきた。日本では616年、飛鳥時代に河内国(大阪府)で狭山池が建設されたのが初見とされる。また、731年、摂津国(兵庫県伊丹市)に治水と灌漑を目的とした昆陽池が行基によって建設されている。近代的な技術として、ダムの自重と重力を利用して堤体を安定化させる重力式コンクリートダムが建設されるようになるのは、上述のように1920年代である。
滋賀県に明治以降建設されたダムを見ると、戦前期に竣工するのは3つである。大熊池(1920,甲賀市、A)が最初で、続いて淡海池(たんかいいけ)(1934,高島市、A)、日渓溜(1926-44,日野町、A)がある(A=農業灌漑用)。いずれも灌漑用ダムで、アースダムである。
戦前に計画され、戦後1960年頃までに建設されるのが、犬上川ダム(1933-46、多賀町、AP)、野洲川ダム(1951,甲賀市、A)、鎌掛(かいがけ)池(1954,日野町、A、アースダム)、日野川脇ダム(1955,日野町、A、アースダム)、芹川ダム(1937-1956、多賀町、A、アースダム)で、基本的に灌漑ダムである(P=発電)。
犬上川に最後の井落し事件が起こった1932年、事件が大きなきっかけとなって、ダム建設が決定される。工事は1933年に着工されるが、一ノ井と二ノ井の合同井堰は1934年に完成するが、15年戦争の影響もあって、工事は延び、完全に竣工するのは1946年、第二次世界大戦後のことであった。犬上川ダムは日本最初の本格的農業用重量コンクリートダム(コンクリートダムの先例はいくつかある)である。水力発電所(関西電力)が併設され、運用が開始されるのは1954年である。犬上川ダムに続いて、灌漑専用の芹川ダムが計画される(1937年)が、その工事も戦後に持ち越され、完成するのは1956年のことである。
続いて、琵琶湖総合開発が立案される1972年頃までに竣工するのが、大原貯水池(1962,甲賀市、A)、今郷池ダム(1964、甲賀市、A)、日野川ダム(1961-65、日野町、FN)、頓宮池(1965,甲賀市、A)、石田川ダム(1962-69、高島市、FN)、奥山ダム(1963-71,高島市、A)、永源寺ダム(1952-72、東近江市、AP)である(F:洪水調節、農地防災、N:不特定用水、河川維持用水)。灌漑に加えて、治水目的のダムが建設されるようになる。
青土(おおづち)ダム(1966-87、甲賀市、FNWI)は、琵琶湖総合開発計画前に着工するが、宇曽川ダム(1971-80、東近江市、FN)、蔵王ダム(1972-90,日野町、A)、姉川ダム(1977-2002、米原市、FN)は、開発計画に随伴する事業である(W:上水道用水、I:工業用水)。治水に加えて、飲料水、工業用水が大きな目的になる。
宇曽川流域は、1959年の伊勢湾台風、1965年の24号台風で多大な被害を受けた。琵琶湖総合計画立案と並行して1969年に調査に着手(~1972年)、工事用道路の建設(1973年)に続いて着工(1974年)、完成した(1980年)のが宇曽川ダムである。愛知川の永源寺ダムが利水専用のダムであるに対して、宇曽川は治水専用ダム(穴あきダムとして、不特定用水、河川維持用水としても機能する)である。
決定的なのは、琵琶湖総合開発計画によって、琵琶湖全体が巨大なダムとして位置づけられたことである。琵琶湖開発ダム、流域面積3848K㎡、湛水面積68000ha、総貯水1900000千m3、日本最大のダムである。ダム番号は1363である。
そして現在、大戸川ダム(1978-、大津市、FNWP)、丹生ダム(1980-、余呉町、FNW)、芹谷ダム(栗栖ダムから名称変更、1985-、多賀町、F)、北川第一、第二(1986-、高島市、FN)については、嘉田知事によって建設断念、中止が表明され、決定されようとしている。治水上、不可欠であるとする河川管理者(近畿地方整備局、河川事務所)と治水について別のオールタナティブを選択する流域自治体の意思決定が大きく異なり対立しつつあるのが現在である。
1991年の台風19号による水害で犬上橋が流され、上流右岸の堤防が決壊した。筆者自身も属する開出今自治会の住民たちにその記憶は未だ生々しいという。この水害をきっかけに河川改修が行われるが、当初、全く生物環境に配慮のない工事が進められるが、依田恭二教授グループの努力で、タブ林を残す流路設計に変更されたという[1]。いまも犬上川を守る会の活動は続けられている。
芹川は、1954年9月の13号台風で、西沼波橋が流失、池洲橋付近で越水、彦根市内が冠水している。1959年の伊勢湾台風でも恵比寿橋、後三条橋が流出した。治水対策として、芹谷ダムの建設をはじめ、放水路案、トンネル案、地下貯留施設案、遊水池案が検討されてきた。ダムに頼らず、治水と自然共生を両立させる河川改修をどう実現するのか、琵琶湖自然共生流域圏の構築の試金石となる。
圃場整備事業
耕地区画の整備、用排水路の整備、土層改良、農道の整備、耕地の集団化を実施することによって労働生産性の向上を図り、農村の環境条件を整備することを目的として、1963年に制度化された圃場整備事業は急速に進み、日本列島の農村景観を大きく変えるものとなった。
ひとつの大きな背景は、農作業の機械化である。1960年以前から耕耘機に代わって活発になったトラクター利用に,田植機・自脱型コンバインが結びついて、1970年ごろには一貫した機械化体系が完成し普及することになる。また、米の生産過剰を抑えるために,水田を畑化する技術改良によって水田の汎用化を図ることも背景としてきた。
圃場の区画は、水田の場合、耕作上の最小単位となる耕区と圃区とよばれる水管理を適性に行いうる形状を備えた最大の区画(一般に10~15耕区)、農道によって囲まれ,2圃区を1農区とする農区とで構成され、畑の場合は農家の1所有団地の区画である所有区、一連の機械作業の1単位となる区画である耕区、固定施設(道路など)に囲まれた区画である圃区で構成された。平地に近く広い地域を対象とする場合は、農業機械の操作性が高い長方形の圃場となる。既存の区画整理は10a程度のものが標準であったが,近年機械化作業にともない30a(30×100m)程度の区画が一般的になった[2]。現在,わが国の水田の約3分の1が30a程度の区画となっている。北海道.東北・北陸など、平坦な大河川流域の沖積平野を中心に整備が進み,傾斜地が多く水田の団地としてのまとまりが小さい西日本,特に中国・四国地方では圃場整備は遅れている。
宇曽川については、宇曽川ダムの建設とほぼ並行して圃場整備事業が開始され、「湖東北部」地区が(1973~)1984年に、「秦荘」地区が(1974~)1987年に、「湖東地区」が(1975~)1989年に完工する。宇曽川ダムは治水専用ダムであり、宇曽川集水域の水田用水は、豊里町の一部と甲良町を除いて、全て永源寺(愛知川)ダムによって供給される。上述のように、灌漑専用ダムとしての愛知川(永源寺)ダムの建設は、1952年に開始されるが、水没世帯が213世帯あり、反対運動が根強く補償交渉に時間が掛かったために、完成までに20年を要し、1973年から用水供給が開始されている[3]。すなわち、用水路と排水路を分離するシステムがダム建設と一体となって導入されていったのが宇曽川集水域であった。
宇曽川は、現在、濁水流失に悩んでいる。水田で一斉に田植えが始まる5月初旬、代かきの際に発生する濁水が宇曽川の河口から広がっていく様子は荒神山の上からくっきりと見える。この濁水流出が見られるようになったのは、下流部から始まった圃場整備事業が中流部に達した1980年前後からだという。それ以前の田越し灌漑による反復水利用から用水・排水分離による「使い捨て」システムがその原因になっている可能性が高い[4]。
愛知川については、『滋賀県の農業ノ水利及土地調査書』(1923-24年、滋賀県内務部)が明らかにする段階では、大小河川の井堰、溜池、井戸、集水渠などを水源とする複雑な灌漑システムが併存する状況にあった。総じて、地形に即した灌漑システムが形成されていたとされる[5]。
戦後(1954~83年)、大規模な農業水利事業(国営灌漑排水事業)が行われ、その中核事業として永源寺ダムが建設される。ダム建設によって、愛知川の扇端部に位置する永源寺ダムから取水した用水を左右両岸に分水し、4本の幹線用水路によって水田区域に供給するシステム(自然流下方式による河川灌漑システム)が導入されることになった。また、本川下流に豊椋・豊国の2つの集水渠を設けて伏流水を取水し、揚水機によって利用するシステムなどが補助的に併用される。一方、下流湖岸部は愛知川左右岸とも、琵琶湖を水源とする逆水パイプラインによる灌漑システムが比較的早くに整備された(愛西地区)。そして、自然堤防帯については、左岸側は、愛知川の伏流水を湧水井によって取得する地下水灌漑システム、右岸側は、宇曽川および小河川から取水する河川灌漑システムとされている。すなわち、愛知川流域の農業用水利用は、現在、大きくは2つのシステムからなっている。ただ、以上のシステム整備によっても、用水供給は必ずしも安定せず、補助システムが用いられている。また、豊富な地下水利用が考えられている[6]。
犬上川については、圃場整備事業の一環として、甲良町について、既存の開水路をパイプライン化する灌漑排水事業が公表された(1983年)。そして、その事業は2007年に完成するが、圃場整備事業としては極めてユニークなものとなった。甲良町の親水まちづくり、景観まちづくりの一環として、①集落内の水路については開渠のまま残す、②分水地点に親水公園を設置する、ことが実現するのである[7]。自然共生流域圏の再構築へ向けての大きな示唆がある。
農業経営のための安定的な用水システムの構築を目的として行われてきた圃場整備事業であるが、「自然共生流域圏」、地域空間の歴史的持続という視点からは失ったものは大きい。圃場整備の基本に自然の生態系が置かれていないこと、地域社会の歴史的形成を顧慮していないこと、すなわち、地域の生態環境に異なったシステムを持ち込むことになるのである。
琵琶湖総合開発
「琵琶湖総合開発協議会」が、建設省近畿地方建設局長を会長として発足するのは、1956年のことである。
琵琶湖総合開発協議会は、需要水量調査を行い、『琵琶湖・淀川の水の利用について』(1958年)がまとめられるが、-1.3mの湖面低下案に異論があったため、2度目の需要調査が行われ(『淀川水系利水実態並びに需要計画に関する報告』(1960年))たが、琵琶湖の利用水深はさらに深く設定され、-3mとなる。協議会の議論を踏まえて、 「琵琶湖沿岸の治水は夏季の琵琶湖の水位を低く保つということ以外に解決の方法がないという認識に立って琵琶湖の水管理によって治水を計る」を立案の第1の前提とし、「湖流入河川は上流地点の多目的ダム建設を含めた改修計画を立案し、農業水利等の関連のもとに開発計画としての調和を保たしめる」を第4の前提とする、「開発計画の基本方針並びに大綱」が発表されたのは1960年9月であった。
具体的な構想としては、「南(湖)北(湖)締切案」「パイプ送水案」「湖中案(湖岸にクリークをつくる締切案の修正案)」「ド-ナツ案(湖中に湖岸と並行に堤防建設)」が出されるが、結局「全湖利用案」に落ち着く。建設省が実施計画に着手するのは1969年である。各提案の経緯については、『淡海よ 永遠に』琵琶湖開発事業誌(近畿地方建設局他、1993年、pp.189-213)に委ねたい。専ら治水を目的とした1896年に制定された河川法が、利水を大きな目的とするかたちに改正されたのは1964-5年のことである。また、それに先だって「特定多目的ダム法」が制定されるのは1957年である。水力発電は明治時代から行われてきたが小規模発電にすぎなかった。また、「水資源開発促進法」が制定されるのは1961年であり、水資源開発公団が同時に設立されている。
計画案をめぐる議論には、全く「自然共生流域圏」という考え方はない。琵琶湖の水は、飲料水・農業用水・工業用水のための水資源にすぎず、しかも、その量のみが問題とされている。また、治水のためにはダム建設が当然の前提になっていた。高度成長の1960年代末と現在の落差、位相の違いを確認することが「琵琶湖自然共生流域圏の構築」の出発点となるであろう。
琵琶湖総合開発計画特別措置法が公布(1972年6月)され、「琵琶湖総合開発計画」が発表されたのは1972年12月である。1972年は全国的に大きな水害が起こった年であり、オイルショック直前であった。
滋賀県の原案には、「この計画の基本目標は、琵琶湖の恵まれた自然環境の保全と汚濁しつつある水質の回復を図ることを基調とし、その資源を正しく有効に活用するため、琵琶湖およびその周辺地域の保全、開発および管理についての総合的な施策を推進することにより、関係住民の福祉と近畿圏の健全な発展に資することである」と「開発計画の基本方針並びに大綱」(1960年)の段階とは異なる目標が掲げられている。
オイルショックもあり、社会的経済的情勢の変化、環境保全の緊要性、財政事情の悪化を理由に計画の見直しが行われる。また、武村知事の登場(1974年)で、「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」(N.P条例、1979年)など環境施策が意欲的に展開されることになった。琵琶湖総合開発特別措置法が改正され、改訂計画が決定されるのは1982年である。事業内容の変更と経緯についても『淡海よ 永遠に』琵琶湖開発事業誌(近畿地方建設局他、1993年、pp.303-333)に委ねたい。10年で完了予定だった当初計画は、10年延長され、さらに5年延長されて、25年目の1997年に一応完了している。
行われた事業は、①水資源開発事業(瀬田川洗堰の改修、浚渫など)②河川事業③ダム事業④砂防⑤下水道事業⑥し尿処理事業⑦水道事業⑧工業用水道事業⑨土地改良事業⑩造林及び林道事業⑪治山事業⑫都市公園事業⑬自然公園施設事業⑭自然保護地域公有化事業⑮道路事業⑯港湾事業⑰水産⑱漁港⑲畜産配水処理施設⑳農業集落配水処理施設21ゴミ処理施設22水質観測施設である。
⑭自然保護地域公有化事業21ゴミ処理施設22水質観測施設など自然環境の保全に関わる事業も含まれているけれど、圧倒的に事業費が注ぎ込まれたのは土木関連事業である。
蛇足
産業構造の転換とそれに伴う土地利用の変化は、地域の景観を大きく変えてきた。高速道路や新幹線といった交通体系の変化、以上に見てきた河川統水事業から琵琶湖総合開発に至る水資源開発、農地改革から圃場整備にいたる農業基盤と農業技術の展開などによって、地としての地域の景観を大きく変えてきた。そして、建造物の変化も大きい。鉄とガラスとコンクリートによる近代建築の技術が導入されて市街地の景観も一変することになった。
都市の歴史を大きく振り返る時、それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり、急激な都市化、都市膨張によって、「都市問題」が広範に引き起こされることになった[8]。しかしながら、今日の都市をとりまく状況は、さらに桁外れに危機的となりつつある。その決定的な転換の閾は1960年代にある。
日本列島の景観の変化が象徴的にそのことを示している。1960年代初頭、日本にアルミサッシュの住宅はゼロである。全て木製建具であった。1970年その普及率は100パーセントとなる。クーラー(空気調整機)が普及し、日本の住宅の機密性があがったということである。日本の都市の人工環境化は以来とどまることを知らない。日本にプレファブ(工業化住宅)住宅の第1号ミゼットハウスが販売されたのが1959年である。1970年には年間新築戸数の14パーセントをプレファブ住宅が占めた。現在は20パーセントを超える。住宅は建てるものではなく、工場で作られたものを買う時代になった。この10年で、日本中から藁葺き茅葺きの民家がほぼ姿を消した。1960年代は、間違いなく、日本の住宅史上最大の転換期である。東京オリンピックを期に、高速道路網が東京につくられ、百尺規定が撤廃されて、最初の超高層建築霞ヶ関ビルが建ったのは1968年である[9]。
第二次世界大戦が終わった頃、すなわち20世紀半ば頃までは、都市景観に大きな変化はなかったといっていい。東京で言えば、江戸の雰囲気がそこここに残されていた。宇曽川流域圏は、かろうじて、その雰囲気を残しているといっていい。
建築あるいは土地は、基本的に動かないし、動かせない。基本的には「地(ぢ)のもの」である。プレファブ(工業化)建築は、ある意味で画期的な発明であった。土地土地で採取できる材料(地域産材)によってつくられてきた建築が工場で作られようになるのである。工業材料(鉄、ガラス、コンクリート)でつくられることによって、また、四角い箱形のジャングルジムのような超高層建築を理想とする近代建築の理念によって、世界中の都市が似てくるのは当然の流れであった。ただ一点、建築は他の工業製品と異なる。99%工場でつくられても、具体的な敷地に置かれて始めて建築となる。建築が「地のもの」、というのはそういう意味である。
環境をめぐる全てが複雑に絡まり合う現代社会において、唯一、共通の指針となるのは、
「可能な限り身近に循環系を成立させる」
ということであろう。「地産地消」というスローガンが共有されつつあるが、食糧にしても、エネルギーにしても、廃棄物にしても、地域を越えたとてつもないシステムが地域の生態系に基づいてきた居住の仕組みをずたずたに切り裂いてしまっていることが最大の問題である。都市についても、同じように言いうる。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」と言われれば、地域地域で採れる、あるいはつくられる素材を基礎にして、都市をデザインすること、その原点に立ち返ることが出発点になる。例えば、木材は真剣に見直されていい。しかし、国内自給率が50%を下回って(1985年)既に久しい。日本に木材が育っていないわけではない。食糧同様、その生産流通消費の構造が狂ってしまっているのである。エコハウスなどと言わなくても、日本の住まいは、そもそも、日本の気候風土にあったかたちで成立し、その伝統を維持してきた。世界中を見渡しても、住居が地域の生態系に基づいて成り立ってきたことは明らかである[10]。
何故、日本でエコハウス=地域の生態系に基づく居住システムが実現しないのか、と言えば、堂々巡りとなる。そうした方向を否定してきたのが産業化の流れというしかない。それ故、またしかし、エコハウス=地域の生態系に基づく居住システムの実現は、過去に戻ることを意味しない。おそらく、全く新たな世界史的な実験と考えなければ展望は見いだせないであろう。それよりも何よりも、百の議論より、身近な一歩である。
[1] 野間直彦、「犬上川の河口改修とタブ林の保護」(『琵琶湖流域を読む』上巻、琵琶湖流域研究会、2003年、pp.173-176)。
[2] 圃場整備事業における標準的な耕地は図のように考えられた。
[3] 完成以後も用水供給は充分ではなく、水不足による取水制限も次第に問題となった。このため用水供給の更なる安定化を図るべく1989年より農林水産省近畿農政局によって灌漑専用の永源寺第2ダムが計画されているが、反対運動のため未着工のままである。
[4] 富岡昌雄、「濁水に悩む宇曽川」(『琵琶湖流域を読む』上巻、琵琶湖流域研究会、2003年、pp.212-219)。
[5] 渡辺紹裕、「愛知川流域の農業用水利用」(『琵琶湖流域を読む』上巻、琵琶湖流域研究会、2003年、pp.232-237)。
[6] 堀野治彦、「扇状地の地下水利用」(『琵琶湖流域を読む』上巻、琵琶湖流域研究会、2003年、pp.238-241)。
[7] 池上甲一、「甲良町の水利用とグランドワーク」(『琵琶湖流域を読む』上巻、琵琶湖流域研究会、2003年、pp.200-205)。
[8] 拙稿、「都市のかたちーその起源、変容、転成、保全ー」、『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻、岩波書店、2005年3月
[9] グローバルにも、大きな閾となるのは1960年代といっていい。既に兆候は現れていた。「都市化」は、「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」、「過大都市化」と呼ばれる現象が、工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られた。結果として、1960年代初頭には、世界中に数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)が出現しつつあった。
[10] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005年