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2025年7月16日水曜日

もしかして俺たち、もう死んじゃってる? We might have been dead? 松山巖『ちちんぷいぷい』中央公論新社、2016年6月10日

 『建築討論』009号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 | 2016/08/20 | 書評, 009号:2016号(7-9月)

 

もしかして俺たち、もう死んじゃってる?

We might have been dead?http://touron.aij.or.jp/2016/08/2567

松山巖『ちちんぷいぷい』中央公論新社、2016610

Iwao Matsuyama, “ChiChinPuiPui” 50 Short Novels

 

 松山巖による掌篇小説集である。13000字ほどであろうか、帯に曰く「東京の片隅に棲息する50人の独り言」が、50篇綴られる。

松山巖は東京芸術大学の建築学科の出身である。1984年に『乱歩と東京』(日本推理作家協会賞受賞)で評論家デビューして以来、数多くの著作で知られる。1996年には『闇の中の石』で伊藤整文学賞を受賞、2000年には、『日光』で三島由紀夫賞候補となるなど、小説も手掛けてきた。童話『ラクちゃん』(2002)もある。『うわさの遠近法』(1993)でサントリー学芸賞、『群集』(1997)で読売文学賞、建築論、都市論の展開に対して、日本建築学会も建築文化賞(建築を社会へ拓く多彩な評論活動による建築界への貢献、2012)を贈っている。また、『住み家殺人事件 建築論ノート』(2004)は、『建築雑誌』の連載(20112012年)がもとになっている。

 

松山巖さんと僕は、松山さんの評論家デビュー以前からのつき合いで、ほとんど全ての著作に眼を通している。『建築雑誌』の連載も僕が編集委員長の時に依頼したものだ。とても文芸批評をものする能力はないが、いくつか紹介を試みよう。松山さんの著作の基底には、建築論、都市論がある。大きな手掛かりになりそうに思えるのが、ほぼ全篇に添えられた松山さん自身による挿画である。

 

本のタイトルになった「ちちんぷいぷい」は19篇目にある。

 全部書き写した方が早い気もしないではないが、突然、知らない男から電話があって、30年前に父母が亡くなり辛いことばかりが続く中でいなくなった妹のことを告げられ、会いに行く話である(「30年前に行方不明になった妹と奇妙な場所で再会した姉」)。家の前に三台の白い車が迎えに来て連れて行かれた神社のような宮中のような場所で、自分の膝の上で右手を広げてゆらゆら動かしている、神様のような女の人に対面する。そこで、よく転んで泣いた妹に、「ちちんぷいぷい」「痛いの痛いの、飛んで行けって…」といったことを思い出した。そして、向かいに来た人たちは、突然、皆さんが自殺なさった。何が真か幻か、今は、泣き虫の妹を思い出して、毎朝、仏壇の前で手を合わせている、という。 オレオレ詐欺、オカルト集団、独居老人の孤独、辛い過去が主題であろうか。

 

 帯に拠れば、登場するのは「50人の“お化け”」という。

 「カメラマンの息子が生前に採った写真の場所を巡る父親」、これは冒頭の「ネキスト・シネ」である。

 ネキスト、シネ、ネキスト、シネ…というのは、父親が乗った地下鉄の次の駅名のアナウンスである。次は「死の駅」ということか。

 

  「横断歩道」は、日曜日の朝9時に近くの店に買い物に出掛けたけれど、交通事故やマラソンやら次々に起こるハプニングについに横断歩道が渡れず、何も買えずに午後の3時に帰ってくる話。帰ってテレビをつけたら、交差点にトラックが突っ込んで、マラソンランナーが死亡、ガス爆発が起こったと報じている。

 その他、「呼び出されて酒を酌み交わした直後、その旧友に死なれた男」「昔の殺人を思い出話として語る老女優」「屋上で書類をちぎり燃やし続ける中年サラリーマン」「娘を捨てた男への恨みを語るタクシー運転手」「リストラした部下に崇められようとしている上司」「精神を病んだ恩師が残した本を古書店で見つけた編集者」「婚約者を不慮の事故でなくした女性」「妻の浮気を疑う夫」・・・・

 

 「鎖」と題されたのは、二ケ月に一回くらいの割で「女房を殺しました」ってやってくる男と「私が主人に殺されたんですか、まったく知りませんでした」という奥さんをめぐる交番勤務の警察官の話。

 

 「狭い箱」は、エレベーターの中で、社内のこんがらがった人間関係が話される話。

 

 「へのへのもへじ」は、タイムカプセルに埋めた言葉が「へのへのもへじ」だった話。

 

 50篇は、なんの脈絡もなさそうでいて、なんとなく繋がっているラインアップとなっている。例えば、「屋上狂い」の最後には、蝶々の群れが飛んでいくのであるが、続く「ナノハニアイタラ」は、それを受けている。連載がもとになっているからであろうか。あるいは、その連想のつながりが全てこの短編集全体の主題に関わるからであろうか。

 主題とは、「もしかして俺たち、もう死んじゃってる?」である。

 最後の50篇目の「決定的瞬間」は、最初の「ネキスト・シネ」を受けている。

 写真家の息子の撮った写真を追いかけた父親に、近所の何気ない世界の「ケッテイテキ、シュンカン」すなわち「生きているなってわかる瞬間」を撮るという息子の言葉を語らせ、「生きる気力が少し湧いてきました」と呟かせている。

 

 

松山巖:1945年東京生まれ。作家・評論家。1970年東京芸術大学美術学部建築学科卒。著書に、『乱歩と東京―1920都市の貌』(1984)、『まぼろしのインテリア』(1985)、『世紀末の一年 一九〇〇年=大日本帝国』(1987)、『都市という廃墟 二つの戦後と三島由紀夫』(1988)、『うわさの遠近法』(1993 )、『偽書百選』(垣芝折多名義)(1994『闇のなかの石』(1995)、『肌寒き島国 「近代日本の夢」を歩く』(1995)、『銀ヤンマ、匂いガラス』(1996)、『群衆機械のなかの難民』(1996)、『日光』(1999)『松山巖の仕事』(2001)、『ラクちゃん』(2002)、『くるーりくるくる』(2003)、『住み家殺人事件 建築論ノート』(2004)、『建築はほほえむ』(2004)、『猫風船』(2007)、『ちょっと怠けるヒント』(2010)、『須加敦子の方へ』(2014)など。

2025年7月15日火曜日

日本建築学会、『都市インフォーマリティから導く実践計画理論』[若手奨励]特別研究委員会報告書, 2022年3月

 日本建築学会、『都市インフォーマリティから導く実践計画理論』[若手奨励]特別研究委員会報告書, 20223

【インフォーマル居住地×臨地調査・研究・実践】

 

カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)

Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 

布野修司1)

Shuji FUNO

 

1)日本大学客員教授(funoshuji0810@gmail.com

 Visiting Professor, College of Industrial Technology, Nihon University, Dr. Eng.

 

I wrote my dissertation titled "Study on Transformation of Living Environment and Its Improvement Method in Indonesia-Methodological Consideration on Housing Planning Theory" in 1987 and summarized the essence for the general public as “The World of Kampung”in 1991, and then 30 years later, and all the lessons learned in the last 40 years are summarized in this year's "Surabaya Southeast Asian City Origin, Formation, Transformation, Reincarnation. -Kampon as Cosmos- "(Kyoto University Academic Press). This book is a financial statement (answer) related to the author's criticism of architectural planning, which originated in architectural planning. This article is a few comments based on this book in terms of informal settlements.

 

 

カンポン,カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP,インヴォリューション ,都市村落

Kampung, Kampung Improvement Program(KIP), InvolutionUrban Village

 


1. はじめに 

建築計画学研究を出自とする筆者は,やがて自らの研究ごとを「都市組織研究」と呼ぶようになるのであるが,その基本としてきたのは臨地調査Field Surveyである。そして,その実施に当たっては以下のような心得を常に意識し,協働者と共有してきたつもりである。

 

歩く,見る,聞く―臨地調査心得七ヶ条

1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び,快感がなければならない。

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 3 臨地調査において必要なのは,現場の臨機応変の知恵であり,判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また,「直感」である。新たな「発見」によって,また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

5 臨地調査における経験を,可能な限り伝達可能なメディア(言葉,スケッチ,写真,ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

6 臨地調査において目指すのは,ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって,臨地調査は,その根拠を獲得することができる。

 

. 『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』

東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクト「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(19781982年)でジャカルタの「カンポン」を訪れた19791月以来,文化遺産国際協力コンソーシアムJCIC-Heritageの「スラウェシ島地震復興と文化遺産調査」(20201月)まで,筆者のインドネシア行は28回に及ぶ。中でも度々訪れることになったのは,東ジャワ州の州都スラバヤである(23回)。

『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)を書いて,そのエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界ージャワの庶民生活誌』を上梓したのが1991年,それからさらに30年,この40年に経験し学んだことの全てをまとめたのが『スラバヤ スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生コスモスとしてのカンポン』(京都大学学術出版会,2021)である。

新著は,建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。

19791月,はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い,戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら,ここで求められているのは日本と同じ解答ではない,と直感した。以降,別の解答を求めて、毎年のように通い,臨地調査を継続することになった。

何故,スラバヤかについては,最初のインドネシア調査行で,バンドンの建築研究所のD. スミンタルジャ[1]を尋ね,そこでたまたまバンドン工科大学 ITB に集中講義にきていたスラバヤ工科大学ITSのジョハン・シラスという巨人に出会ったことが決定的である。その時手渡された論文[2]に刺激されて,スラバヤの「カンポン」を臨地調査の対象地に定め,再びシラスに会いに行ったのが18822月である。J.シラスはスラバヤ中を案内してくれて、「カンポン」という都市のなかのムラ的な共同体のあり方,その相互扶助に基づいた居住環境整備KIPについて説明してくれた。

この間の共同作業,ルスン(積層住宅)モデルの開発,スラバヤ・エコハウスの建設,クリーン&グリーンKIPの新たな展開などは新著に譲るが,つくづく思うのは,研究=実践なるものの原点は現場(フィールド)であり,それを支える諸関係の束ということである。

臨地調査の遂行に当たっては,相互理解が不可欠である。冒頭に掲げた心得の「2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。」ということである。J.シラスのグループと長期にわたる関係を維持できたことは,実に幸運であった。

 

3. カンポンとコンパウンド

最初にジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタのグロドックGlodok地区の「カンポン」を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた。「カンポン」研究の出発点にあるのはこの「感動」である。

「カンポン」はもとより「スラム」ではないし,「インフォーマル・セツルメント」などではない。人間居住(ヒューマン・セツルメント)のひとつの魅力ある形態である。「カンポン」は,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモンという意味である。興味深いことは,都市の居住地がカンポンと(ムラ)呼ばれることである。インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンそしてデサ,クルラハンなどインドネシアにおける村落共同体に関わる概念をめぐる議論は新著に譲るが,デサが,デサ的要素を残しながら都市において再統合されたものが「カンポン」である。

『カンポンの世界』を書いた時には,スラバヤのカンポン以外の視点はなかった。しかし,椎野若菜氏に論文(椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」:居住に関する人類学用語の歴史的考察」『社会人類学年報』262000年)を送って頂いて,「カンポン」が「コンパウンドcompound」の語源であることを知った。

コンパウンドの語源がカンポンであるということは,カンポンについて考えることが,世界中の「ムラ」,少なくとも,大英帝国が植民地とした地域の「ムラ」について考えることに繋がるということである。発展途上地域の植民都市研究を開始するのは,コンパウンド=カンポン起源説に導かれてのことであった。

 

4. RTと隣組

 そしてまた,太平洋戦争時の日本軍政期から独立後の脱植民地期にかけてのカンポンの住民組織ルクン・タタンガrukun tetanggaRT(エル・テー):隣組)と日本の町内会システムが深く結びついていることは,とりわけ日本人にとって考究すべき大きなテーマである。

日本(内務省)は,大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために大衆動員の施策として,「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し(19409月),隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織する。そして,町村の末端としての住民組織を直接掌握するこの隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれるのである。

日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」が出されるのである。

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された(倉沢愛子『日本占領下のジャワの農村の変容』1992)。

 

5. 開発独裁とカンポン

日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として,存続する。すなわち,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たした。ただ,フォーマルな政府機関とはみなされない。

1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されるが,基本的には,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからである。RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものである。そして,大きな変化として導入されるのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。1983年に,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定として内務大臣決定(Peraturan Menteri Dalam Negari No.7/1983)(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれることになるのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになる。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

6 インヴォリューション

「インヴォリューション」(内向進化)とは,もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが,未開社会でよくみられるある特定の文化型=「ある確たる型を形成したにもかかわらず,安定もしなければ新しい型へ転換することもなく,むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するために用いた概念である[3]。A.ゴールデンワイザーが比喩として用いたのは,基本的様式は極限に達し,細部の加工,名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う「マオリ族の装飾的な芸術」や高さを競って石造建築技術の限界を実現した後は細部の装飾化,その豊かさの表現に向かった「後期ゴシック様式」である。

このカルチュラル・インヴォリューションの概念を,農業生産に適用したのがC.ギアツのアグリカルチュラル・インヴォリューションである。平たく言えば,「一定の耕地面積において,労働投入量を増加させることだけで,農業生産量を増加させていくシステム,技術革新なき変化のパターン」「労働集約化のみによって生産を増加させていく,農業の内向的発展」がインヴォリューションである。19世紀のジャワの農業生産はまさにこの「インヴォリューション」という概念によって捉えられると提起したのが『農業のインヴォリューション』(Geertz 1963)である。

アグリカルチュラル・インヴォリューションに対してアーバン・インヴォリューションという概念が提出される[4]。都市への大量流入人口が,雇用機会のないままに,第3次産業のみに従事し,仕事を細分化することによって貧困を分かち合う,そうした現象をアーバン・インヴォリューションと呼ぶのである。確かに都市の生産力そのものはさして上昇しないにも関わらず,一貫して増加し続ける人々が生活していくためには,都市サーヴィス部門における仕事の数を増やし,限られたペイを分け合うことが必要となる。結果として,大量の都市貧困者が生み出される。

発展途上国の大都市の人口が急激に増加するのは,第二次世界大戦後,1960年代から70年代にかけてのことである。アーバン・インヴォリューションと呼びうる過程が共通にみられたのは,その人口爆発の過程においてである。都市への流入人口の受け皿になったが,いわゆるインフォーマル・セクターである。都市貧困層の生活を支える生業の形態は実にさまざまである。しかし,そのほとんどは,サーヴィス業,小売業に集中し,また必ずしも一般的な産業分類には含まれないものが多い。いわゆる,インフォーマル・セクターに従事するものがほとんどである。都市インフォーマル・セクターの存在にはじめて注目したILOに依れば(ILO,"Employment, Incomes and Equity: A Strategy for Increasing Productive Employment in Kenya", Geneva,1972),その特徴は以下のようである。すなわち,

 a.新規参入が容易であること, b.現地の資源を利用していること,c.家族経営が中心であること,d.小規模であること, e.労働集約的で技術水準が低いこと,f.労働者の技能が正規学校教育の外側で得られていること, g.市場が公的な制約を受けることなく競争的であること,である。

 

7 W.R.スプラットマンKIP

KIPの歴史はオランダ植民地期に遡る。オランダ語で,文字通りカンポン改善(カンポンフェアベタリングkampongverbetering)という。

 バタヴィア(1905年)に続いてスラバヤに自治体が設けられるのは1906年である。自治体は,独自の法律と選挙による議会に基づいて設置され,オランダ人理事(レヘント)とジャワ人首長(ブパティ)からなる市政府によって運営されたが,基本的に,全てを決定するのは,オランダ植民地政府の内務部(Binnenlands Bestuur)であった。自治体は,法と秩序の維持,道路,運河,橋梁など基本的なインフラストラクチャーの建設を主な役割とした。

20世紀に入って,急速な都市化によってさまざまな問題が出現する。過密化し,上下水道のない,またごみ処理を欠いた不衛生な居住環境のために,しばしばペスト,コレラ,マラリアなどの伝染病が発生した。オランダ領インドで最も人口の多かったスラバヤは,最も不衛生な都市であり,20世紀に入って,1900年,1902年,1908年とたて続けに伝染病が発生している。そして,1918年のスペイン風邪の発生は極めて大規模なものであった。スラバヤ市がカンポン改善に乗り出す背景にあるのは居住環境の悪化による衛生問題である。

1920年代半ばまで,植民地政府もスラバヤ市も,基本的にカンポンには手をつけていない。基本的には間接統治であり,カンポンの自治は認めてきた。スラバヤ市政府は,1925年からカンポン改善実施していった。具体的には,下水道,水浴・トイレ施設,ごみ処理施設を改善し,メーター付きの水道設備を設置する。そして,道路の舗装を行う。基本的に,1960年代末以降に行われるKIPと同じである。ただ,オランダ人居住区に疫病や火災の発生などの影響が危惧される場合に限って,カンポンの改善を行わうのが前提であった。

独立後約20 年は ,カンポン対してほ とんど何の施策も行われない。ただ,50年代半ば以降 ,スラバヤにおいては,カンポンの居住者による自発的な改善活動が行われ,それを市当局が支援する試みがなされている。

カンポンの居住環境改善について逸早くカンポン改善に取り組んだのはスラバヤである。それまでのカンポン改善への補助施策の延長として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給し,カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するプロジェクトを開始するのである。1968年に,開始されたそのプロジェクトは,スラバヤ出身の作曲家に因んでW.R.スプラットマンKIPと呼ばれた。

こうして,自治体ベースで開始されたKIP ,やがて国家的政策となる。そして,世界銀行の融資が開始されるの は,1974年である。世界銀行による融資はまずジャ カルタに対して行わ れ (Urban I 7476 76 年からはスラバヤにおいても行われた ( Urban 7779 )。「ワールドバンクKIPは遅れてやってきた」のであった。

 

8 リスマとクリーン&グリーンKIP

スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono2002-10),トゥリ・リスマハリーニ(2010-20152016-)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担う。トゥリ・リスマハリーニ,愛称リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,シラスの弟子である。

 リスマ市長は,20109月に就任すると,「1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市」をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。

 とりわけ興味深いのはクリーン&グリーンKIPである。

それ以前のKIPの進化といっていいが,①緑化,②生ゴミのコンポスト化,③ゴミの分別収集と廃棄物のリサイクル,④廃棄物利用の工芸品の製造を柱にしている。特にアーバン・ファーミングという緑化施策がいい。また、カンポンの経済的自立を目指してスモール・ビジネス事業を展開する。

 スラバヤ市31 のすべてのクチャマタンでさまざまな施設や人を対象にセミナーが実施され,各カンポンに,環境問題に関心があり,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとし 住民の意欲向上や環境改善を手助けするためにフォローを行う役割を与え,配置している。また,廃棄物管理システムの規模拡大をはかるため,地元NGO団体や婦人団体PKKと連携し,RWが廃棄物管理システムを基に独自にはじめたコミュニティベースでのプログラムを支援する仕組みを新たにつくっている

 

リスマの施策は,日本でも展開できるのではと思う。それが経験交流であり,相互学習である。まずは、自らが依拠する地域コミュニティを問う、それが基本である。

筆者は、この間、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)、近江環人(コミュニティアーキテクト)地域再生学座などを展開してきたが、この間、スラバヤとJ.シラスに学んできたこと、それに応答し、それに匹敵する運動を展開し得たかどうかについては甚だ疑わしい。

 



[1] 建築史家:Djauhari Sumintardja1981),著作に“Kompendium Sejarah Arsitektur Jilid I”, Bandung: Yayasan Lembaga Penyelidikan Masalah Bangunan など。

[2] Silas, Johan1979, ‘Housing priorities of the marginal settlers in Surabaya’, unpublished manuscript, Faculty of Architecture, ITS,Surabaya

[3] A.ゴールデンワイザー Alexander Goldenweiser:""Loose Ends of a Theory on the Individual Patterns and Involution in Primitive Society",in R.Lowie(ed.),Essays in Anthropology Presented to A.L.Kroeber,Berkley,University of California,1936

[4] W.R.Armstrong and T.G.McGee,Revolutionary Change and the Third World City:A Theory of Urban Involution,Civilizations,1968H.D.Evers,Urbanization and Urban Conflict in Southeast Asia,Asian Survey,1975





2025年7月14日月曜日

中高層ビルと「目隠し塀」 中国古都の光と影,『CE 建設業界』Volume59, 日本土木工業協会,201010

 中高層ビルと「目隠し塀」 中国古都の光と影,『CE 建設業界』Volume59 日本土木工業協会,201010


中高層ビルと「目隠し塀」―中国古都の光と影

布野(ふの)修司(しゅうじ)

 「中国都城の系譜とその空間構造の変容に関する研究」(科学研究費助成研究)といういささか大それたテーマで、中国を移動中である(201086日~94日)。北京から南京、杭州、開封、洛陽、西安と、歴代古都―七大古都という場合、安陽(殷墟)、八大古都という場合鄭州がさらに含まれる―をほぼ歴史の逆向きに回って北京に戻ってくる。

 中国国家文物局中国文化遺産研究院が研究拠点を置く天津大学との打ち合せのために北京経由でまず天津に入った。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件以来だから15年ぶりである。当時は、唐山地震(1976年)の被害の痕跡がまだ残っており、旧天津城内部には、スコッター(不法占拠者)然のバラックが多数残っていたが、再開発されてその面影もない。超高層ビルが建ち並び、さらにクレーンがここそこ聳えており、渤海湾には渤海新区が建設中である。天津生まれですら、全く別の町になったようだという。それでもかつての日本租界を歩いてほっとする。15年前の記憶が蘇ってきたからであるが、日本租界のまちの作り方、そのスケール感が合うのである。

 一方、イタリア租界のようにかつての建物を修復復元して再生する地区もある。古代建築の復元について、その最前線に立つのが、1930年代から実測を続けてきた天津大学である。天津大学は、この間、明・清朝の皇帝陵墓群など中国の世界文化遺産登録のための調査を一貫して行ってきた。3Dスキャンを用いたその実測とCADを駆使したその一連の仕事は、いまやカンボジアのアンコールにまで及んでいる。

 問題は、天津のケースでいうと「古文化街」(天后旧門前)あるいは「旧天津城」のような復元である。「造景」といってもいいけれど、いわゆる「もどき」の復元、「○○」風の復元である。日本でも彦根のキャッスルロードのように歴史的街並みを装う「造景計画」があるが、中国全土を覆うのがこの種の復元である。歴史的一画のみそれらしく装われて残され、全体は超高層ビルで包囲される、そんな景観がいたるところで見られる。北京しかり、西安しかり、洛陽ですら既にそうである。

 天津から上海に抜ける途中で、揚州、蘇州に寄ったがいずれも同じ印象である。揚州は、隋の煬帝が掘削した大運河によって栄えた町である。この大インフラが中国の千年を超える歴史を支えてきたことには感慨を覚えるが、いまや交通インフラは高速道路網あるいは新幹線に置き換えられている。揚州周辺はまるでアメリカの大都市郊外のようである。聞けば揚州は江沢民の出身地だという。旧市内にその生居がある。日本人にとって揚州は、なによりも鑑真の故郷である。彼が修行した大明寺には唐招提寺を模した記念館がつくられている。江沢民は、古代文明と現代文明の融合をうたうが、歴史的建造物や庭園を残して、あとは超高層建築で包囲しようがどうしようがいい、というのは解答ではないだろう。

 「上海世博2010」で沸く上海であるが、上海でも超高層ビルの谷間に解放前に遡る里弄街区が残され、低所得者層が住んで都市の様々なサービスを支えている。南京では、明代の城壁が残る中華門のすぐ近くの実輝巷社区を歩き回ったが、路地が入り組んで迷路のようで貧相なバラック然の住居が並んでいる。一歩表通りに出ると観光客が大勢訪れる歴史的地区であり、まるで異次元の異空間である。朝夕、廃品回収の荷台付の自転車が何台も回ってくる。おかげで社区内はゴミ捨て場が要らないほどなのであるが、廃品回収が人々の生業となっているのである。コミュニティはしっかりしており、路地では様々な会話が飛び交い、夕方になると、将棋、トランプの輪ができる。

 現在、実輝巷社区を含めた城南地区では、面白い試みがなされている。地区の周囲、車道に面した住宅のみについて改修が行われ、街並みの再生、修景が一斉に進行中なのである。改修と同時に看板を統一し、瓦を用いるなど一定のデザイン・コードが採用されている。大通りについては、塀が新たに建てられる。悪く言えば、「もどき」のデザインによる「目隠し壁」であるが、徐々に事業が進んでなんとなく雰囲気が出来つつある。同じように明代の城壁が残る数少ない古都である西安の場合も、城内については、鼓楼広場の下にスーパーマーケットを設け、周辺を歴史的様式の建物で囲むなど新たな取組みが見られる。一方、この鼓楼広場に隣接する歴史街区には回族(ムスリム)が数多く住む。研究室の川井操君が一年住んで学位請求論文「西安旧城回族居住地区の空間構成とその変容に関する研究」を仕上げたばかりだ。それによると社区の住民組織は南京同様極めて自立的である。

こうした都市の自立的コミュニティを維持できるのであれば、「目隠し塀」もひとつの手法かなと思う。考えてみれば、古代都城の各坊は塀で囲われていたのである。

しかし、都市には都市の歴史がある。815日、「南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館)」を訪れて、いまさらのようにそう思う。歩き回った実輝巷社区のまさにその場所で南京攻略の戦闘が行われた。古都を蹂躙してきたのは幾多の戦争であり、日本も無縁ではない。「目隠し塀」で隠しようのない中高層のアパートはどうするんだろう、ファサード保存の手法とどう違うのか、日本に誇れる事例はあるのか、様々なことを愚考しながら杭州へ向かう。

 

Prof. Dr. Shuji Funo            布野修司






 

 

2025年7月13日日曜日

鈴木成文先生の逝去を悼む,建築雑誌,日本建築学会,201007

 鈴木成文先生の逝去を悼む,建築雑誌,日本建築学会,201007

 

追悼 鈴木成文先生

布野修司

 

 37日未明、鈴木成文先生が逝去された。前日、東海支部設計計画委員会主催シンポ「ユーザー参加から見る学校建築」に教え子の柳川奈奈さんが基調講演をされるというので参加され、懇親会にも出席、最終の新幹線で東京駅着、地下鉄駅へ向かわれる途中で突然倒れられたという。

一昨年、大きな心臓手術を受けられ、お身体は万全ではなかったものの、完全に通常の活動に復帰され、以前にもましてご活躍であった。昨年の大会懇親会でも、若い世代を叱咤鼓舞するスピーチをされ、その回復ぶりというか、意気軒昂ぶりに舌を巻いたばかりである。どころか、5日には建築計画委員会があり、先生が娘のように可愛がられていた田島喜美恵さんから上野に長谷川等伯展を一緒に見に行ったという話を聞いたばかりであった。余りにも突然の死に絶句である。

教えを受けたものたちが拠り所としてきた先生の公式ホームページ『文文日記日々是好日』は3月3日の「雛人形/えるの会記念帳」が最後になった。「えるの会」とは、東京大学建築学科1950卒業の同期会のことで、「鈴木家住宅」保存の近況報告を書いて送ったとある。最近は「住文化と文化遺産を守る会」の設立に尽力されていた。天寿を全うされたとはいえ、いささか無念であったかもしれないと思う。謹んでご冥福をお祈りしたい。

 西山夘三、吉武泰水の両先生が切り開かれた建築計画学研究の分野を中心的に担われてきた先生のご経歴、ご業績については、とてもこの限られたスペースで振り返る余裕はない。「日本建築学会大賞」を受賞(2001年)され、名誉会員(2002年)でもある先生については本会会員にはよく知られているところである。

 1959年に大阪市立大学から東京大学へ戻られた先生は、公共住宅の設計計画の分野で精力的に研究活動を展開された。研究史については、『建築計画学の軌跡―東京大学建築計画研究室一九四二-一九八八』(鈴木成文先生退官記念出版、1988年)がある。「51C」批判に対する晩年の応答が示すように、鈴木先生の建築計画学の初心は揺らぐことがなかったように思う。

70年代から80年代にかけて、量から質へ、高層から低層へ、画一性から地域性、多様性へ、建築に関わるパラダイムが大きく転換する中で、ハウジング・スタディ・グループを組織、視野を東アジアへ、韓国・台湾・中国のフィールドにも拡げられ、一貫して調査研究を展開された。

 何よりも伸び伸びと活動の幅を拡げられたのは、神戸芸術工科大学に拠点を移されて以降である。「芸術工学」を拠り所とされ、デザイン教育を媒介として若い学生たちを活き活きと育てられた。晩年は、留学生の支援(「文文奨学金」)に熱心に取り組まれた。

 葬儀には、鈴木先生の一番弟子といっていい、朴勇換教授(韓国漢陽大学建築大学校前学長)が駆けつけられた。朴教授は自らの研究を集大成する大部の『韓国近代住居論』を上梓されたばかりで、その前書きが鈴木先生の絶筆となった。

(滋賀県立大学、前建築計画委員会委員長)


略歴

 

1927(昭2)年         誕生

1950(昭25)年         東京大学建築学科卒業

1955年(昭和 30年)     東京大学大学院(旧制)修了

1955年(昭和 30年)     川村建設事務所 入社

1957(昭32)年        大阪市立大学理工学部建築学科講師

1959(昭34)年        東京大学建築学科助教授

1959(昭34)年-61(昭36)年 日本建築学会評議員

1968(昭43)年         日本建築学会賞(論文)受賞

「集合住宅の計画に関する一連の研究」

1971(昭46)年-73(昭48)年 日本建築学会評議員

1974(昭49)年        東京大学建築学科教授

1976(昭51)年-77(昭52)年 日本建築学会理事(図書)

1988(昭63)年        東京大学名誉教授

1989(平元)年        神戸芸術工科大学環境デザイン学科教授

1998(平10)年        神戸芸術工科大学学長、同名誉教授

2001(平13)年        日本建築学会大賞受賞「住まいを中心とした建築計画研究の確立と建築教育の発展に対する貢献」

2002(平14年        神戸芸術工科大学学長退任 日本建築学会名誉会員

2010(平22)年        逝去(37日)

 

主要著書

『集合住宅 住戸』建築計画学6、丸善、1971

『五一C白書 - 私の建築計画学戦後史』、住まいの図書館出版局2006

『住まいの計画・住まいの文化 - 鈴木成文住居論集』、彰国社、1988

『住まいを読む - 現代日本住居論』、建築資料研究社1999

『「いえ」と「まち」 集合の論理』鹿島出版会、共著、1984

『文文日記 日々是好日 I - VII』、文文会KOBE2004 - 2009





 

 


   ①                   ②

2025年7月12日土曜日

途上国建設技術開発促進事業(パッシブソーラーシステム), 建設省・国際建設技術協会, 1999年3月

 途上国建設技術開発促進事業(パッシブソーラーシステム), 建設省・国際建設技術協会, 19993

IDI報告書 



京大布野研担当分

目次のパッシブソーラーは、やはり寒冷地向けの言葉だと考えられるので、パッシブデザインに変えました。パッシブクーリングでもいいのですが、「自然の快適さの指向」という意味では、パッシブデザインのほうが、適当な言葉かと思います。

レイアウトは、全体で調整されると思い、図表は別ファイルにしました。

 

第2章 パッシブデザイン技術

  2−1 パッシブデザイン

   2−1−1 実験棟のデザイン

   2−1−2 コンピューターシミュレーション

   2−2−3 インドネシアでの優位性

  2−2 実験棟のモニタリング計画

   2−2−1 期待する評価項目

   2−2−2 モニタリングパターン

   2−2−3 モニタリングスケジュール

   2−2−4 測定機器設置

 

第2章 パッシブデザイン技術

2−1 パッシブデザイン

 2−1−1 実験棟のデザイン

 

 パッシブデザインは、太陽や自然の風、温度の変化を利用して、建物の熱の流れを制御し、室内環境を快適にすることを目的とする。その対極にあるのがアクティブデザインで、空調設備や照明設備など機械力によって、室内環境を完全にコントロールする方法である。両者には、環境負荷、エネルギー消費量などの違いがあるが、最も基本的な差異は、身体を通して感じる両者の快適さの質の違いである。パッシブデザインの場合、室内外をいかに連続するかまたは遮断するかが重要な設計のポイントになる。

 実験棟のパッシブデザインの設計指針を以下の通りである。 

a. ポーラスな空間構成と 空気の流れのデザイン

・クロスベンチレーションによる平面計画(図1

 平面計画では、吹きさらしの共用空間の四隅に居室が並ぶ。共用空間は、東西に向かって、大きく開かれている。東西方向は、年間を通じて吹く海風の向きである。また、北側、南側、それぞれの居室の間にも、外気に面した共用空間を設け、南北の通風について配慮している。年間を通じて、南北から北東・南西の向きに吹く季節風を考慮している。実際の風向きは、これらが複雑に組み合わされたものになるが、実験棟は、こうした東西、南北両方に通風軌道を確保し(クロスベンチレーション)、どの風向きにも対応できるように配慮した。

煙突効果を利用した断面計画(図2

 2階、3階の共用空間のスラブの中心に、1800mm四方の吹き抜けを設けた。また、高い小屋裏の中心に、越屋根を設置した。煙突効果によって暖められた空気が抜けるよう意図されている。また越屋根は、規模によっては共用空間が暗くなるため、トップライトの効果も兼ねている。

・居室の開口部の通風デザイン(図3

 開口部は、クロスベンチレーション、夜間冷気の利用、廃熱の問題を考慮して設計している。外壁の開口部はクロスベンチレーション確保のため、異なる2面の外壁の両方に取り付けられている。またこの外壁の開口部は、下部がジャロジー、上部が通常のガラス窓となっている。一方、共用空間に面したドアおよびドアと一体化した開口部の上部は、下ヒンジの押し出し式窓になっている。夜間に外壁の開口部は下側のジャロジーを開け、共用空間側の開口部は上側を開けることによって、その高さの違いを利用した重力換気を行うことを意図している。室内へ夜間冷気の取り入れ、同時に居室から共用空間への廃熱をスムーズに行うのが目的である。

 また、外壁の開口部のガラス窓は、季節風を効率よく受け止められるように、開く向きを決めている。

b. 日射を遮断する屋根デザイン(ダブルルーフ:図4

 日射の遮断のため、実験棟には、躯体に大きな屋根を架けている。小屋裏を大きくとることによって、居室への熱伝達を防ぐ。屋根の内部には、空気層が設けられ、屋根が2枚重ねられたような構造を取っている。ダブルルーフと呼んでいる。より詳細には、このダブルルーフは、5層からなる。上から、瓦、アルミニウムフォイルを利用した遮熱・防水層、空気層、ココナッツ繊維を利用した断熱層、トラスの順である。ココナッツ繊維は、インドネシアでは足拭きマット等として、リサイクル利用されており、身近な低コスト材料である。2階庇は、室内への直接の熱伝達がないため、通常の屋根になっている。

c. 循環水による輻射床冷房システム(図5

 居室部分のスラブ上には、200mmピッチで、直径13mmのポリエチレンパイプが敷かれ、その上をモルタル仕上げしている。パイプ内に循環水を通すことによって、床を冷却する仕組みである。循環水用の貯水タンクは、地中に埋め込むかたちで、1階スラブ下に配置されている。大地の畜冷熱を利用し、夜間に循環水を冷却しておくためである。貯水タンクは、循環前と循環後の水を分離するため2槽に分かれている。循環後の水は、いわゆる中水利用を行っており、洗面、便器、シャワー、台所、太陽熱温水として再利用している。

 循環水の供給には、当初、身近な資源利用とより冷たい温度という理由から、井戸水を使用する計画だった。しかし、最終的に水質が問題になり、今回は市水を利用した。また、循環水の動力源は、ソーラーセル(太陽電池)によって電力供給されたポンプ稼働である。ポンプは、バッテリー等を介さず、ソーラーセルに直結されており、雨天で日射の少ない場合や夜間などは、運転されない。

d. 躯体の熱容量の利用

 日射や外気の影響に対して、できるだけ躯体に熱容量の大きい材料を使用するほうが有利である。昼間を考えた場合、躯体が受ける熱量が同じとすれば、体積当たりの熱容量が大きな材料のほうが、温度上昇が少ないし、また夜間を考えた場合、同様に、より多くの冷気を蓄積できるからである。実験棟の柱梁等のRC躯体部分は、インドネシアの一般的な場合より、大きめの寸法になっている。外壁は、レンガであるが、モルタル仕上げを厚くすることによって、熱容量が増やされている。床も循環水用パイプの埋め込みを兼ねて、スラブ上に100mmのモルタルを敷くことにより熱容量が増やされている。

 実験棟の3階は、木造だが、スケルトンとインフィルを分離するというコンセプトに基づいている。これはまた必要があれば、3階木造壁を異なる材質に交換し試験するためでもある。

 


 2−1−2 コンピューター・シミュレーション

 今回使用した熱環境シミュレーションソフト*1は、建物の全体あるいは部分を近似的に閉じられた一室の空間と考えて、熱環境をシミュレートする。実験棟の場合は、各居室の熱環境が、シミュレートの対象である。以下の手順(添付マニュアルより簡略抜粋)を繰り返し行うことによって検討される(図6a-1c-2の画面)。

a 建築条件の設定

 1開口形状&開口部の仕様 ⋯外形寸法、方位、開口位置と寸法

 2開口部の仕様 ⋯熱貫流率、日射透過率

 3日除けの仕様 ⋯外形寸法、日除け位置

 4床の仕様 ⋯断熱・蓄熱部位厚、仕上げ、日射吸収率、熱伝導率

 5東西南北の壁の仕様 ⋯断熱・蓄熱部位厚、仕上げ、日射吸収率

 6天井の仕様 ⋯断熱・蓄熱部位厚、仕上げ、日射吸収率

 7冷暖房、夜間断熱戸、換気モードの仕様、室内発生熱

b 気候条件の設定

 8気候パターンの登録 ⋯緯度、経度、気温等各種気候データ

 9気候パターンの入力/変更

c 計算・パッシブ性能予測

 11計算の実行〜グラフの作成

 12定常計算表示・建物の各部位温度の表示

 尚、今回の実験棟で採用したダブルルーフや循環水による輻射冷房システムの効果は、このプログラムで直接、予測することはできない。その性能は、以下に述べるモニタリングを通じて検証されることになる。*2

 2−2−3 インドネシアでの優位性

  インドネシアにおける居住環境整備の代表的な取り組みとして、1960年代末に始められたKIPKampung Improvement Program:カンポン改善事業)がある。*3 主に衛生条件の改善を目的とし、インフラストラクチャーの整備を中心とした居住環境整備が行われた。スラバヤ市の場合、1980年代後半になって、こうした取り組みに一定の成果が見られるようになると、KIPも新たな局面を迎え、高密度居住を解決するために新たな住宅モデルの導入が模索された。この一つの解答が、スラバヤ工科大学J. Silas教授グループとスラバヤ市建築局によるルーマー・ススン・ソンボ(Rumah Susun Sombo)をはじめとする集合住宅建設であった(図7)。*4



 ソンボでは、従前居住者の転出を防ぐことを第一義的な目的としており、そのため平面計画も居住者の生活様式に配慮したものとなっている。廊下を兼ねた吹きさらしの広い共用空間の両側に住戸が並ぶのであるが、これは半戸外空間の利用が生活に欠かせないカンポン(インドネシアの下町:村落的要素を保持しつつ、都市化に取り込まれていった)全体の空間構成がモデルとなっている。*5インドネシアの生活様式の十分な理解の上に設計が、なされているのである。その設計理念を受けた集合住宅が、ジャカルタのクマヨラン空港跡地などのハウジングプロジェクトなど、他地域にも建設されており、インドネシア型集合住宅のモデルとして大きく期待されている。このように、ソンボを実験棟設計の下敷きとしたのは、生活様式に合った集合住宅の空間モデルに、パッシブデザインを組み合わせることが、広く居住者に受け入れられるには重要であるとの判断からである。

 逆に、パッシブデザインから、ルーマー・ススン・ソンボを含む既存のインドネシアの住まいについて考えてみたい。パッシブデザインを自然エネルギーを有効に利用して快適な熱環境を実現する技術と考える場合、太陽熱発電など代替エネルギー的な発想もあるが、一方で「自然エネルギーの利用」=「自然の快適さの獲得」という、直接的で、無理のない図式がある。完全に空調設備でコントロールされた熱環境を通して、身体が感じる「快適さ」がある一方で、無理のない「自然に近い熱環境」によっても身体は「快適さ」を感じる。この意味で、パッシブデザインの導入は、こうした質の異なる二つの「快適さ」のうち、「自然に近い熱環境」のもたらす「快適さ」への指向性を根本的な前提としているのである。半戸外空間を利用するカンポンやルーマー・ススン・ソンボの空間構成や生活スタイルは、場合によっては居室面積の不足が一因であるにしろ、「快適さ」の指向性の上で、パッシブデザインの前提となる「快適さ」の指向と近い距離にある。つまり、インドネシアの生活様式には、パッシブデザインを受け入れる素地があると考えられる。もっとも、本来、ハウジングの対象となる中低所得者層は、冷房付の居室に生活しているわけではないので、「快適さ」の指向の選択肢を持つわけではない。しかし、特に発展途上国におけるハウジングモデルを考える場合、その重要な条件のひとつに、既存の生活スタイルの変化を最小限に留めることがある。対象となる所得者層の生活スタイルを上手く新しい器の中に連続させることによって、初めて居住者が住み続けられる。居住地が破棄されたり、より高所得層の居住者の流入が起きては、本来の目的が果たされないのである。この点でパッシブデザインの導入は、既存の生活スタイルを大きく変えることなく持続させながら、居住環境を改善するのに非常に適した手段と考えられる。

 





 

2−2 実験棟のモニタリング計画

 2−2−1 期待する評価項目

 モニタリングによって、期待する評価項目は、大きく以下の6点にまとめられる。

a 屋根の効果・・・・ダブルルーフ全体の断熱性能の有効性を検証。さらに、ココナッツ繊維層、空気層、反射層などの各層の個別の断熱性能の検証。

b 床スラブの効果・・輻射冷房システムを稼動することによる床スラブの冷却効果を検証。循環水の温度と冷却効果の関係。

c 通風の効果・・・・クロス・ベンチレーションの有効性検証。

d 夜間換気の効果・・夜間冷気を利用した躯体の蓄冷効果、ジャロジーを通して夜間に重力換気を行う有効性の検証。

f 建物全体の効果・・以上の各部分の熱性能を総合した建物全体の有効性の検証

g その他、共用空間の吹き抜けの効果、各居室と共用空間の使い分けの効果など、データを取った上で有効性が導き出せる期待のある効果

 

 2−2−2 モニタリングパターン

 以上の評価項目を念頭において、モニタリングに当たって、5つの測定条件のパターンを設定した。各測定パターンと期待される評価項目の関係を表1に示した。各パターンの測定条件の概要は、開口部の解放・閉鎖と輻射冷房システムの起動・停止によって、以下のようである。

・パターンI  :開口部終日解放状態、輻射冷房システム起動

・パターンII  :開口部終日閉鎖状態、輻射冷房システム起動

・パターンIIIA   :開口部、朝8:00-夕方5:00まで解放(その他の時間閉鎖)、輻射冷房・システム起動

・パターンIIIB :開口部、朝8:00-夕方5:00まで解放(その他の時間閉鎖)、輻射冷房システム停止

・パターンIV  :開口部、朝8:00-夕方5:00まで閉鎖(その他の時間解放)、輻射冷房システム起動

 

 2−2−3 モニタリングスケジュール

 前述の各パターンは、それぞれ7日間の測定期間を取る。最初の2日間は、試験データ測定となっているが、これは、前のパターンの影響を取り除くための準備期間である。分析には3日目以降のデータを用いた(表2)。

 上記の5パターン(5週間)全ての測定を連続して行い、1サイクルとした。全体では、3サイクル繰り返して、合計15週間モニタリングを行った(表3)。

 1サイクル中の測定パターンの順番は、次のように計画した。

1.パターンIIIA − 2.パターンIIIB − 3.パターンIV − 4.パターンI −5.パターンII

 この順番で行うのは、モニタリング予定期間中に、インドネシアの気候が、乾季から雨季へ近づいていたため、少なくとも最初の1サイクルの測定データ収集への、降雨や曇天などの影響を最小限にするためである。より厳しい気候条件で、パッシブデザインが、より効果的に働くと予想されるパターンから、測定を行ったのである。

 尚、上記のスケジュールでモニタリングを実施する以前に、2週間程度の試験モニタリングを実施し、回収されたデータを日本側で検討し、センサーの不良の有無、データ転送方法、本モニタリングに向けての準備事項の確認を行った。全体に過不足なくデータ収集が行われていることが確認されたが、床循環水の温度を測定することが、本モニタリングの測定項目として追加された。

 

 2−2−4 測定機器設置

 モニタリングに用いる計測機器は、表4のようである。各機器について簡単に説明を加えたい。「温湿度データコレクター」(商品名「おんどとり」、以下、「おんどとり」と呼ぶ)は、特にある空中の一点の温度と相対湿度の両方を測定できる専用のセンサーを持つ(写真1)。これに対して、「温度データコレクター」は、いわゆるT型熱電対を持ち(以下、「データコレクター」と呼ぶ)を持ち、湿度の計測はできないが、空気温、表面温、水温など、様々な温度の測定が可能で、汎用性の高い温度測定装置である(写真2)。日射計は、電圧積算によって、日射量を記録する装置である(写真3,)。以上の各機器が、モニタリング実施中に、常に記録を行っていたものである。記録間隔は、すべて10分に設定した。

 アスマン温湿度計は、乾球温度と湿球温度の両方が計測でき、また両方の測定値の差から相対湿度を導き出すものである。 これは、「おんどとり」と「データコレクター」のセンサーの誤差を確認するために使用された。モニタリング期間中、3回にわたり、各4時間程度、10分間隔で、3階北東室の温度を測定した。このデータを用いて、センサーや収集データに問題がないことを確認した。

 測定個所は、各機器の設置場所は、図8のようである。測定箇所は、大きく、ダブルルーフ、共用空間、居室、貯水タンクに4つ分けられる。居室は、仕上げを行った各階の北東室と南西室のみ測定しているが、この二つの居室のうち、北東室の方が、熱環境的に条件が厳しいため(スラバヤは南緯7度に位置するため)、より詳細にデータを測定した。以下、各部分ごとに測定箇所を示す。

a ダブルルーフ

・瓦表面温度  (測定器機:データコレクター、図版番号DC-11

・空気層温度  (測定器機:データコレクター、図版番号DC-12

・断熱材上面温度(測定器機:データコレクター、図版番号DC-13

・断熱材仮面温度(測定器機:データコレクター、図版番号DC-14

・天井表面温度 (測定器機:データコレクター、図版番号DC-15

 以上は、全て北東室側のダブルルーフ各層で測定した。

b 共用空間

・1階ピロティ温湿度  1FL+0.1m(測定器機:おんどとり、図版番号OT-1

・1階ピロティ温湿度  1FL+1.2m(測定器機:おんどとり、図版番号OT-2

・2階共用空間温湿度  2FL+0.1m(測定器機:おんどとり、図版番号OT-3

・2階共用空間 温湿度 2FL+1.2m(測定器機:おんどとり、図版番号OT-4

・3階共用空間 温湿度 3FL+1.2m(測定器機:おんどとり、図版番号OT-5

・屋根トラス部分温湿度 3FL+4.5m(測定器機:おんどとり、図版番号OT-6

 尚、1階ピロティ1.2mの高さに設置された「おんどとり」は、直射日光を受けず、風通しの良い場所であることから、外気の温湿度を兼ねて測定を行った。

c 居室

・3階北東室床表面温度      (測定機器:データコレクター、図版番号DC-25

・3階北東室受照壁面外気側表面温度(測定機器:データコレクター、図版番号DC-21

・3階北東室受照壁面室内側表面温度(測定機器:データコレクター、図版番号DC-22

・3階北東室グローブ球温度    (測定機器:データコレクター、図版番号DC-26

・3階北東室温湿度        (測定機器:おんどとり、図版番号OT-8

・3階南西室温湿度        (測定機器:おんどとり、図版番号OT-10

・2階北東室床表面温度      (測定機器:データコレクター、図版番号DC-35

・2階北東室受照壁面外気側表面温度(測定機器:データコレクター、図版番号DC-31

・2階北東室受照壁面室内側表面温度(測定機器:データコレクター、図版番号DC-32

・2階北東室グローブ球温度    (測定機器:データコレクター、図版番号DC-36

・2階北東室天井表面温度     (測定機器:データコレクター、図版番号DC-34

・2階北東室間仕切壁居室側表面温度(測定機器:データコレクター、図版番号DC-33

・2階北東室温湿度        (測定機器:おんどとり、図版番号OT-7

・2階南西室温湿度        (測定機器:おんどとり、図版番号OT-9

 重点的に測定を行ったのは、各階の北東室である。南西室は、比較のため室内の温湿度のみ測定した。また各階の北東室の室温は、「おんどとり」とグローブ球温度(内部にデータコレクターセンサーを挿入)の両方で測定されている(写真22)。グローブ球室温度と通常室温度の差から、輻射冷房の効果を検証するためである。

d 貯水タンク

・輻射冷房給水パイプ内水温    (測定機器:データコレクター、図版番号DC-23

・輻射冷房排水パイプ内水温(2階より)(測定機器:データコレクター、図版番号DC-16

・輻射冷房排水パイプ内水温(3階より)(測定機器:データコレクター、図版番号DC-16

 給水側の温度は、床を循環する前なので、2・3階を区別する必要がなく、タンク内の水温に等しい。よってセンサーは一ヶ所とした。排水側は、各階の床を循環した後なので、水温が違うため、それぞれのパイプ内にセンサーを設置した。また輻射冷房パイプは、各階で南北に分岐している。この分岐点に設置されたヘッダーに温度計が取り付けられているが、記録装置はない(写真14)。

e 日射量

・日射計センサーは、南側の2階庇から設置台を設けて、その先端に取り付けた。南側庇においたのは、今回のモニタリング時期に太陽が南側を通っていたためである(影にならないため)。スラバヤは、南緯に位置するので、年間約8ヶ月北側から太陽が照り、残りの約4ヶ月が南側からになる。日射計センサーは、太陽が北側に昇る季節には、北側に移動される。

f アスマン温湿度計

・3階北東室の温度を測定



 

 

 

 

*1今回使用したシミュレーションソフトは、 "Solar Designer Ver. 4.1"といい、建設省建築研究所で開発された"PASSWORK"というプログラムをベースとして、市販化されたものである。

*2シミュレートにあたっては、今回のように対象室の周囲に隣室(上下階を含む)が、ある場合は、壁厚、屋根、庇などとして、その効果を近似する必要がある。しかし、この近似の基準がマニュアルには明確に指示されいない。

*3 道路の舗装、側溝整備、上水道の設置等が行われた。詳細は、布野修司, 「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究」, 東京大学学位請求論文, 1987年を参照されたい。

*4"Rumah Susun" は、インドネシア語で「集合住宅」の意味。"Sombo" は、場所の名前。ソンボの建設は、既存のカンポンの従前住居調査から始まり、住民間の権利関係の調整を経て、カンポン全体を集合住宅に建て替えるという非常にユニークなアプローチが取られた。詳細については、山本直彦他,「ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察」,日本建築学会計画系論文集第502,p.87-93,199712月を参照されたい。

*5 さらに言えば、ソンボのモデルは、居住者の大半を占めるマドゥーラ島出身者の村落部の住居の構成である。マドゥーラ人は、スラバヤ市のすぐ対岸にあるマドゥーラ島に住む民族だが、移住や季節労働によって、ソンボのあるスラバヤ市北部にも多数が住む。

* 周知のように「パッシブデザイン」とは、元来、ドイツなどヨーロッパの寒冷地で、太陽熱を有効に利用して熱環境を改善する「パッシブソーラー」がもとである。「パッシブヒーティング」と言ってもよいだろう。「パッシブ」という用語は、その発生自体が、近代的な概念である。

 これをインドネシアなどの湿潤熱帯に適用しようとすれば、逆になんらかの冷却の仕掛けを検討することになり、つまり「パッシブクーリング」となる。「パッシブデザイン」とは、狭義には「パッシブヒーティング」と「パッシブクーリング」の両者を含む概念で、自然エネルギーを有効に活用して、快適な熱環境を実現する建築設計技術の全体を指すと言えるだろう(これは、シミュレーションやモニタリングといった熱環境の解析技術に支えられる一連のプロセスによって成り立つ)。このように、

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...