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2025年9月24日水曜日

チェンマイ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,20191130

K03 四角い古都

チェンマイChiang Mai,ラーンナー地方Lanna,タイThailand タイ

 



チェンマイは、バンコクの北方700kmに位置する、ランナータイの古都である。雲南を拠点にしていたタイ系諸族は、モンゴルの侵攻に対して,各地にムン連合国家を建て対抗することになるが、タイ北部に下ってきたタイ・ユアン族は、チェンマイを拠点に、マンラーイ王の下にランナー(百万・田)王国を建てる(1296412日)。正式の国名は「ノパブリ・スリ・ナコン・ピン・チェンマイ」、チェンマイは「新しい都市」を意味する。


図① チェンマイ 航空写真

チェンマイは,東を流れるピン川と西のドイ・ステープ丘陵の間に位置し,土地は東に向かって傾斜している。都市は一辺約1.6 kmの正方形に計画され,2重に煉瓦の城壁によって囲われていた。内側の城壁には5つの門があり,南にのみ2門設けられていた。南の西に設けられた門は,死体を城外に持ち出す際にのみ用いられた。外側の壁は北東の角から南西の角へ向けてつくられ,城壁に添って濠が掘られた(図①)。

城壁で囲われた「四角い村」はウィアンViang(ウェインWeing)と呼ばれるが,チェンマイ近郊に重要なウィハンが2つある。ウィアン・スアン・ドークとウィアン・チェット・リンである(図②)。それぞれ1371年と1411年に建設されている。ウィハン・スアン・ドークは,王家の庭園として建設され,ワット・スアン・ドークを中心とする寺院都市とする計画であり, ウィアン・チェット・リンは戦争時の終結場所となることが想定されていた。

正方形の都市は,天文学的な配置を占うマハ・タクサ碑文に基づいて計画されたと信じられている。マハ・タクサによって,都市の中心は,ワット・サドゥエ・ムアンWat Sadue Muang(中心(臍)寺院)の都市柱(ラック・ムアン)の場所に定められ、都市の北部は,王と王家の家族の居住地および行政機関の場所とされ,南部は臣下,兵士,職人の場所とされた。このウィハンという「四角い村」の伝統が今日にまで維持されている例は珍しい。



図④ チェンマイ、タ・パエ通り


図③ チェンマイ、1893 年

この四角い王都を大きく変えていったのは商業活動であり,交通体系である。鉄道が敷設される以前,チェンマイの交易を支えたのはピン川による水運である。19世紀末の地図(図③)をみると,ピン川沿いに立地する問屋や商店街に依存したチェンマイの都市のあり方がよくわかる。

そのチェンマイとバンコクが鉄道によって結ばれるのは1910年であり,さらに自動車による陸上輸送が一般的になると,チェンマイは大きく変わる。その変容は商店街の移動に見ることが出来る。

そして,1980年代以降,市街地の拡張が本格的に始まる。

図⑤ チェンマイ、ショップハウス

チェンマイの商業地区は東門の外側,タ・パエ通り(図④)とピン川に沿ってある。最も賑やかなのは中央市場のカド・ルアンの周辺である。旧城内とピン川に挟まれて,郊外からの商人にとって交通の便がいいのがその理由である。かつても,市場が開かれ,ピン川利用の商人や旅行者で賑わう場所であった。

商店街はピン川の東西に形成され,西側はター・ワット・ケートの寺院集団やチャイニーズ移民や外国人が経営する店舗,東側は一般の近郊農民が占め,新たな移住者も東側に商業コミュニティを形成し,川の両側に商品を供給する役割を担った。また,バンコクとの交易が次第に盛んになる。ター・ワット・ケートはピー川の分極点にあり絶好の荷上場となった。ここには伝統的な長屋の店舗が建てられ,今日までその景観の一端が残されている(図⑤)。中国寺院,キリスト教会,シーク教会が当時の状況を伝えている。

チャイニーズ居住地区は,ピン川の西岸に沿って拡がり,さらにチャン・モイ道路に繋がって北のタ・パエ地区に達した。現在,ラオ・ジョウ通りはチェンマイのチャイナタウンとして知られる。中国寺院の存在はそのコミュニティが安定していることを示している。インド人商人はカード・ルアン地区で商売を始め,ヒンドゥー寺院を建設している。

1910年に,木造のナラワート橋が建設され,タ・ワット・ケート,カード・ルアン,タ・パエの各地区を結びつける役割を果たし,新たに鉄橋が建設される1921年までに,チェンマイ最大の商業地区が形成された。以降,水運から鉄道輸送に切り替わっていくことになる。 そして,ピン川の東,ナラワート橋と鉄道駅の間に新しい商店街が形成される。しかし,チェンマイとバンコクを結ぶ幹線道路が建設されると,鉄道輸送より陸上輸送が一般的になっていく。

市街地の西の丘陵部への拡大は,チェンマイ大学が建設された1964年頃に始まる。本格化するのは1980年代で、大きなきっかけになったのは観光産業の急速な成長である。

20世紀から21世紀にかけて西部の大学教育機関,政府機関が立地した地区は,徐々に近代的なゾーンに変容していき,城壁で囲われた旧市街は,100万人が居住するチェンマイ大都市圏の象徴的都市核として歴史的保存地区に指定されることになる。

チェンマイは,タイ第二の都市と言われるが,人口規模でいえば,チェンマイが23.42万人 (2014)174,2352015)で,ノンタブリー27609の方が多い。第二の都市というのは歴史的重要度においてである。バンコクのプライマシー(首座度)は,タイの国土編成の奇形的一極集中を示しているが,そうした中で,かつての歴史的都市核を保存しながら,郊外への発展をはかるというのが,チェンマイの変容パターンである(図⑥)。


図⑥東のピンー川 Ping River から西のステープ山 Doi Suthepへの間にある正方形のチェンマイ旧市街が見える航空写真

 

参考文献

Nawit Ongsavangchai, 2009, Spatial Planning of Thai Northern Cities and their Urban Architecture, Proceeding of the 2009 NRL+BK21 International Symposium: Tradition and Modernity of Architecture and Urbanism in Historic Area, Cheongju, Korea, June.  

Nawit Ongsavangchai, Takashi Kuramata and Tadayoshi Oshima, 2008, An Impact of Housing Development Projects on Land Use Pattern in Chiang Mai City Planning Control Area, Proceeding the 4th International Symposium on Architecture and Culture in Suvarnabhumi (ISACS) 18 22 October.         

 

 

 

 

 

  

 

 

 

2025年9月23日火曜日

バンコク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,20191130


水上村から陸上都市へ

バンコクBangkok、中部平地 Central Plain、タイ Thailand

 

バンコクはチャオ・プラヤChaophraya・デルタ流域の湿地に立地し、1782年にラーマⅠ世はこの地を王都とし、現在のラッタナコシンRatanakosin地区に最初の市街地が建設された。現在のバンコクの発展はラッタナコシン地区からはじまった。地区全体の面積は4.1km²である。現在50の行政区から構成されておるバンコクの面積に比べると、380倍に大きくなった。ラッタナコシン地区は、西側をチャオ・プラヤー川、東側をロープ・クルンRob Krung運河に囲まれた島のような形状をしている。そのためラッタナコシン地区はラッタナコシン島とも呼ばれている。区内中央にはクー・ムアン・ダームKu Muang Derm運河が南北方向に走り、運河の西側がインナー・ラッタナコシン、東側がアウター・ラッタナコシンと呼ばれた。現在インナー・ラッタナコシンには王宮、宮殿、寺院、政府機関、学校が多くあるが、一般市民の住居、学校、市場、ショップハウスなどがアウター・ラッタナコシンに位置している。

ラーマ1世は即位後すぐに王都をトンブリーThonburiからチャオ・プラヤー川対岸の地に移し、ここをクルン・テープKrung Thepと命名した。ここにはすでにトンブリー王朝期に運河が建設されており、運河とチャオ・プラヤー川によって島状の土地が形成されていた。運河西側には城壁が設けられていた。ラーマ1世はバンコクを Krung Thep Pra-Maha-Nakorn, Amorn-Ratanakosindra, Mahindra-Yudha, Maha-Dilokpop, Noparatana-Radhani, Burirom, Ubom-Rajnivet-Mahastan, Amorn-Pimarn-Avatarn-Satit, Sakkatuttiya-Vishnukarm-prasit と命名した。タイ人はクルン・テープと短く呼び、しかし、西洋人はバンコクBangkokで、小川の意味のBangまたは村落の意味のBanとオリーブ木の意味のMakokkokの複合語と言う名で呼ぶ。17世紀にポルトガルが初めて用いた名という説がある。バンコクはアユタヤ時代 (1350-1767) には水辺の小集落で、ここに王都アユタヤを防衛するポルトガル傭兵隊の砦が立地していた。そのあとバンコクは税関都市として位置づけられており、2つの砦がチャオ・プラヤー川の両側に建設されていた。 バンコクがアユタヤ時代には既に重要な都市であったことがわかる。

創立したから19世紀半ばまでの間はバンコクは水上都市の時代で、宮殿と寺院から離れた所には一般市民の水上住居群が数多く存在していた。川は多数の運河で結ばれ、川の両側には竹でつくられた筏住居と高床式住居が密集しており、陸上には道が非常に少なく、建物はまばらであった。この時代にも、ラッタナコシン地区と周辺地域とを結ぶ多くの運河が掘られた。アユタヤと同じく島のような形をしたバンコクは、アユタヤの王宮と寺院をモデルとして王宮とエメラルドブッダ寺院が建設され、王宮の外にある他の寺院にもアユタヤにある寺院の名前が付けられた。

初期のバンコクでは水路が交通網に重要な役割を果たしていた。狭い歩道は水路で行けない場所への補助的な交通手段として建設された。市民は水上で生活していた。運河や河川には水上住居群があり、水路の両側岸には高床住居と筏住居が並んでいた。市民の住宅は木造であった。ラッタナコシン地区の中心に王宮があり、それを囲う寺院と王室の宮殿とによって都市は構成されていた。当時バンコクは東洋のヴェニスThe Venice of the Far Eastと呼ばれていた。

ラーマ4世時代 (1851-1868 AD)にはラッタナコシン地区の市街地の範囲は城壁を越えて拡張し、1851年から1854年にかけて城壁の外側につくられたパヅン・クンカセムPadung Krung Kasem運河に到達した。建設時には4.1km²だったラッタナコシンの面積は約2倍の8.8km²となった。1855年にはイギリスとの間にボーリングBowring条約が締結される。この条約によって、ラッタナコシン地区では外国との貿易が盛んになり、市街地が拡張、発達していった。当時はビルマ、カンボジア、マレーシアをはじめとする周辺諸国に西洋の帝国主義が広がっていたので、国王は国を植民地化から救うために西洋との貿易をおこなうとともに、国を近代化しなければならないと考えた。そのためラーマ4世時代以降西洋との交流が進められ、西洋の技術と学問が積極的に取り入れられ、国の近代化がおこなわれた。そのためこの時代には、以前に建設された道路が舗装されるとともに、新たな舗装道路が多数建設された。新しい政府機関と貴族の住宅がヨーロッパの様式で建設されたが、その頃多くの市民はまだ水上で生活していた。しかし、道路建設により時代が下るにつれて陸上交通がだんだん便利になり、ショップハウスの導入によって陸上居住地が徐々に形成されていった。この時代はまた、市民が水上生活を離れた。また道路が水路に代わって重要な交通手段としての性格を強めていったことにより、新しい水路の建設は全くおこなわれなくなった。これらの要因によって水上都市ラッタナコシンは徐々に陸上都市へと変化していった。結局この変容過程が進行した結果、ラッタンコシン地区は完全な陸上都市に変容し、多くの施設が密集した状態となった。そのため19世紀の終わりから多くの施設は城壁の外側に建設された。新しい道路建設のほとんどは城壁外部の東側地域でおこなわれた。都市の発達も道路新設につれて東の方で進んでいき、ほとんどチャオ・プラヤー川の東岸だけでおこった。この時代には新しい道路の建設のため、運河は次第に埋め立てられていった。

1932年に政治改革がおこなわれ、タイは専制君主政治から民主政治へと変化した。それによって多数の宮殿と貴族邸宅の所有権が私有から国有に変化した。国家の所有物となった宮殿や邸宅は多くが公共施設に転用された。現在ラッタナコシン地区にある政府機関はほとんどがかつての宮殿と邸宅である。第2次世界大戦終了後、都市化された地域が非常に広くなり、1960年以後バンコクは大都市へと成長した。バンコクの副都心が周辺の新しい市街地に広がっても、ラッタナコシン地区は現在でも昔からのオールド・センターとしての役割を維持している。ラッタナコシン地区は芸術局によって現在バンコクの歴史的地区として登録されている。

水上村から陸上都市に発展していったバンコクは、現在タイの首都として800万人以上の人口が住んでいる。タイの首位都市となった。


1932年ラッタナコシン地区:最初のバンコクの市街地



 
1950年代初期のバンコクの中華街の風景

参考文献

ナウィット オンサワンチャイ ・ 布野修司 「ラッタナコシン地区(バンコク)のショップハウスの形成と類型に関する考察」『 日本建築学会計画系論文集』第577, pp.9-15, 20043月。

Naengnoi Saksri(1991), Physical Components of Ratanakosin, Chulalongkorn University Press, Bangkok

Kamthon Kulchon and Songsan Nilkamhaeng(1982), Physical Evolution of Eastern Ratanakosin: from the early establishment to political reformation, Silpakorn UniversitJournal, Special Issue Vol.4-5, Dec.1980-Dec1982, Bangkok


 

2025年9月22日月曜日

アユタヤ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

K04 東南アジア18世紀の首都

アユタヤ Ayutthaya, 中部タイ、タイThailand


アユタヤは,スコータイに続く、タイ族第二の王朝として1351年から1767年まで416年間首都を経験した。タイ王国の中心、現在の首都バンコクを通る南北軸上に展開された国史においてアユタヤはチャオプラヤ川、パサックPasak川、ロッブリLopburi川に囲われた島状の土地に無数の建造物を構え形成されたが、1767年ビルマの侵攻により歴史に終止符が打たれる。この時の破壊は徹底したものであり、まさしく廃墟と化したことが知られている。また、続く王らの保護政策や、水上居住を主としたタイ人の文化的特性などから王朝が築かれた「島」は、その後100年以上ほぼ未開のまま残される。

アユタヤ王朝はスコータイ王朝の反クメール的性格(=温情主義的)から、反発してクメール文化に大きな影響を受けていたことが一般に言える。すなわち、ヴィシュヌ神を王に重ねる「神なる国王」(テーワ・ラーチャThewaracha)の思想が確認できる。また、そうした宗教理念に基づいて王宮の意義が重要視された。王朝の歴史は、ビルマの占領期(1569-1584年)を境に、「前期アユタヤ」と「後期アユタヤ」に分かれ、それぞれの期間に通用した首都名も異なっていたとされる(アヨータヤー (Ayudhya/Ayothaya)からアユタヤ(Ayudya/Ayudhya/Ayutthaya))前期アユタヤにおいてはサクディナーSakdina 制など中央集権化への足がかりが築かれ、後期において「港市国家」としての性格が開花した。港市国家では多様な民族構成がみられたこと、さらに外国人を支配層に組み入れつつも、ある一国が突出しないよう力の均衡を制御していたことなどが注目される。また交易を重視し、国家の多民族性を許容してきたことはアユタヤ社会の世俗化をもたらし、都市形態もこれに対応していた。王朝時代の都市空間構成に関しては、街路、水路は計画的に配されていた。島の北に王宮等の重要施設が配される一方、南部に外国人居留地が多く存在する。ただし、都市構造の決定は、政治、軍事、貿易、宗教など様々な要因によってなされる。

アユタヤが王朝の首都と見定められると、ウートン王 King U-Thong は神の住まいとして、聖域を定めることを考えた。聖域と世俗の地は、環濠によって区画されることになるが、すでにパサック川、ロッブリ川、チャオプラヤ川によって周囲の10分の9とり囲われた地に、北東の一角約0.5kmを掘削することによりこれを容易になした。また同時に土塁も構築された。この土塁は1549年にビルマのタベンシュウェティー王 King Tabinshwehtiによる侵攻の後、ポルトガルの技術支援を受けレンガ造に改築され、さらに40年後には現在のパーマプラオ通り Thanon Pa Maprow にあった北東のラインを川沿いにまで押し上げ前宮を城壁内に取り込んだ。島の内部には王宮、王宮寺院がヒンドゥーのコスモロジーに従い建設されていたといわれている。王宮は当初現在のワット・プラシーサンペットWat Phra Sri Sanphet の位置に建築されたが、ボロマトライロカナート王 KinBoromma Trailokanat により、北に移動されロッブリ川に接する敷地がとられた。これはさらに、ボロマコート王 King Borommakot により拡張されるが、王朝陥落の際に破壊され、のこった建造物もラーマⅠ世によりバンコクに運ばれた。この際、ポムフェットのみをのこして城壁の大部分も失われた。

アユタヤ島内に現存する主要な遺跡はほとんどが王朝建国来、最初の150年に建設された。すなわち、都市景観の形成は、前期アユタヤのうちに完成されたといってよい。都市の所感は、感嘆と蔑みが混在している。おそらく双方ともに忠実であり、二重の社会性の存在が指摘できる。すなわち、神格化される王権や貿易の利潤で富む高官とトレードオフする形で、集権制度で搾取される社会的身分の低い者達が同時に都市の構成要素であったとういうことである。特に交易都市として世俗化が指摘されるアユタヤにあっては、少なくとも17世紀には、随所で構築される世俗的な秩序の複合性が都市形成の大きな影響力を持っていたと考える。王朝時代の都市構造に関しては、5本の幹線水路が島を南北に縦断し、さらに細かな水路がこれに接続する形で無数に走っている。水上での生活の主体であった当時の状況を考えれば、この5本の水路に面して市街地その他の都市施設が築かれたことはほぼ間違いない。

現代への都市形成は1900年頃に遡ることが限界であり、かつ適当である。立脚点となる王朝時代から継承される都市構造は、川岸に限られた居住区と、島内の空白地帯、そこに北に偏って残された重要遺産であった。これを近代化以前の都市構造として現在のそれと比較すれば、島内の水路が消滅し、代わって陸路が敷設されている。陸路の敷設はバンコクにおいてはラーマⅤ世時代に「道路は弟で運河が兄」という関係が逆転してとらえられたと言われ、アユタヤにおいてもこの頃から陸上インフラが整備されていったと考えられる。ラーマⅤ世によってタイで初めての鉄道が敷設されバンコクと結ばれるころになると、アユタヤは近代化を迎える。島内で最初の道路としてウートン通りが建設され、1902年には遺跡の発掘に着手し博物館が建設される。1904年にラーマⅤ世はこの博物館を訪れ、「アユタヤ博物館」とこれを命名する。また、1908年にはアユタヤを重要文化地区に指定する。これによって島内すべての私有が禁じられた。当時は依然として水上居住が主流であり、住居は河川沿いに建てられることが多く、さらに島内の保護指定により、陸地の開発は島周囲に限られていた。

1932年立憲革命を迎えたタイは、アユタヤを中部で最初の州と制定し、島内のインフラ拡充を開始する。ロッチャナ通り Thanon Rojana、プリディタムロンPridi Thamrong橋がパサック川に建設されると、島内の開発が徐々に進行してくるようになる。1938年に財務省のプリディファノミヨン(Pridi Phanomyong)が島内の土地私有制限を一部解放するが、ピブン(Phibun Songkhram)政権の工業化政策、観光化政策によって、より大きな変化がアユタヤにもたらされる。陸軍元帥ピブン・ソンクラムはアユタヤの観光開発を推進し、州本部の新築、新プリディタムロン橋(1940)の建設などを次々に実行する。1966年に議会が歴史公園の保存を目的として、島内の一部と島の周囲の開発を許可したことは重大な転機であった。1976年には芸術局によって島の20%、1810ライ(1ライ=1.6ha)が歴史保全公園として保存が決定された。そして1991年に世界遺産としてユネスコに登録される。







 

参考文献

ナウィット オンサワンチャイ・桑原正慶・布野修司 「アユタヤ旧市街の居住環境特性とショップハウスの類型に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』第601号、pp. 25-3120063.

Derick GarneirAYUTTHAYA: Venice of the EastRiver Books, Thailand2004

Tri AmatayakulThe Official Guide to Ayutthava & Bang Pa-InFine Arts DepartmentBangkok1972

 

1776  年のアユタヤ by  John Andrews


チャオプロム地区施設分布

1967年 アユタヤの航空写真 (口=チャオプロムChao Phrom 地区 )


2025年9月21日日曜日

チャクラヌガラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


K22 円輪都市-最果てのヒンドゥー都市

チャクラヌガラCakranegara、ロンボクLombok、インドネシアIndonesia

チャクラヌガラは、18世紀初頭にバリのカランガスム王国の植民都市として建設された。すなわち、ヒンドゥー理念に基づく都市である。極めて体系的な街路体系と街区構成は、イスラームが支配的であるインドネシアにおいて極めてユニークである。

バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。西は,稲と水牛の世界であり,東は芋と豚の世界である。ロンボク島の地形はバリ島によく似ている(図1)。中央にインドネシア第二の活火山,リンジャニ山Gunung Rinjani 3726,1901年に噴火した記録がある)が聳え,大きく3つの地域に分けられる。すなわち,荒れたサバンナのような風景の見られる,リンジャニ山を中心とする北部山間部,豊かな水田地帯の広がる中央部,それに乾いた丘陵地帯の南部である。チャクラヌガラ位置するのは中央平野部西部である。

西ロンボクにはバリ人が住み,東ロンボクにはササック族が住んできた。ロンボク島の主要な民族であるササック族,北西インドあるいはビルマから移動してきたとされる。マジャパイヒト王国がイスラームの侵攻によってバリに拠点を移した15世紀以降、その影響を受けてきた。

チャクラヌガラの中心にはプラ・メル1720年建立)が位置する(図2)。メル(メール山,須弥山)の名が示すように,世界の中心であり,ロンボクプラ(ヒンドゥー寺院)のうち最大のものである。チャクラヌガラの西端にはプラ・ダレムpura dalem(死の寺)が,東端にはプラ・スウェタが位置する。プラ・プセpura puseh(起源の寺),プラデサ,プラ・ダレム 3つの寺のセットはカヤンガン・ティガKayangan tigaと呼ばれ,バリの集落には原則として設けられている。ただ、バリでは南北軸上に配置されるのに対して、チャクラヌガラでは東西軸上に配置されるのが異なっている。


街路は,マルガ・サンガ(中心四辻 東西約36m 南北約45m,マルガ・ダサ(大路 約18m,マルガ(小路 約8m)の3つのレヴェルからなり,マルガ・ダサで囲まれたブロックを街区単位としている。ブロックは南北に走る3本のマルガ4つのサブ・ブロックに分けられ,それぞれのサブ・ブロックは,背割りの形で南北10づつ計20の屋敷地プカランガン (屋敷地)に区画される。マルガを挟んで計20プカランガンのまとまりを同じくマルガといい,2マルガ1クリアン  ,さらに2クリアン カランという(図3)。マルガ,サンスクリット語で「通り」を意味する。街区の構成は,むしろ,中国都城の理念が持ち込まれた日本の都城に近い。実にユニークなヒンドゥー都市がチャクラヌガラである。

 チャクラヌガラの各カランは基本的にそれぞれ対応するプラを持っている。プラを持たないカランも見られ,カランプラの対応関係は崩れているが,基本的にはカランプラを中心としたまとまりであることは現在も変わらない。バリの地名、集落名をカラン名とするものが少なくない。

興味深いのは,南のアンガン・トゥル Pura Anggan Telu である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北には,プラ・ジェロがあり,東にはプラ・スラヤがあり,プラ・スウェタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており,必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが,プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。

ヒンドゥー教徒は,基本的にカースト毎に棲み分けを行ってきた。僧侶階層としてのブラーフマン,北および東に居住する。この分布から見て,南北の突出部は当初から計画されていたと考えられる。いくつかの称号のうちサトリア(クシャトリア)は西部に,グスティ東部に厚く分布する。アグン,ラトゥといった王家に関わる称号は,王宮の周辺に分布する。

また、ムスリム、チャイニーズとの間にも棲み分けが見られる。ヒンドゥー教徒は,中心街区を占め,イスラーム教徒は周辺部に居住する。また,屋敷地,街路の形態には明確な違いがある。カラン毎にプラ,モスクが設けられるが,市の中心部にもモスクが設置されている。チャイニーズ,全域に居住するが,基本的には商業活動に従事し,幹線道路沿いに居住する。

 ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。ヒンドゥー地区の屋敷地の構成は、基本的にバリの集落と同じである。分棟式で、ヒンドゥーのコスモロジーに基づくオリエンテーションに基づいて配置される。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して,イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり,細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。居住密度は高く,コミュニティーの質も明らかに異なっている。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...